前作→https://privatter.net/p/11432655
を踏まえたこぼれ話
・新人役人くんと呼び名の話
・オム・ファタール
・音の絶えた世界できみが
・物が壊れて当然なら
・政府の鶴丸国永と長義
@fu_re_re_ra
《食堂にて〜呼び名の話〜》
「そういえば長義、きみは僕を名前で呼ばないね」
時の政府の職員食堂にて。
長義と並んでうどんを啜る新人役人の彼は、ふと思い出したようにそう口にした。
「誰に対してもそうだから、認めた相手以外は呼ばない主義なのかなと思っていたんだ」
「まあそういう側面も無いことはないな」
「けど、すっかり友達になってからも呼ばれないなあとふと思って」
「わかってないな、俺はきみを既に個と認識している」
長義はそう言いながら、くるくるとパスタを巻いたフォークで友をびしっと指した。
「迂闊に名前の言霊を連呼すると精神を感応させてしまうかもしれない。下手なリスクは避けた方がいいに決まってる」
「わわ、そうなのかい?」
「俺の見立てだと、きみはどうも影響が強そうだ。体質だな。俺ぐらいきっちり力を制御していれば、危ない事は早々起きないはずだが、まあ念のためね」
長義の忠告に、慌てた様子を見せた彼は、次いで、少し考えてから、怖がるどころか、何故かふわっと笑った。
「? なに笑ってるんだい?」
「いや、」
照れくさそうに頬を掻いた長義の友は、お人よしそうな柔らかな双眸をとろりと細めた。
「きみたちは、本当に優しい神様なのだなあと」
「きみと友達になれた僕は幸せ者だなあって、しみじみ思ったら、つい」
その言葉に少なからず滲む穏やかさに。
切れ長の瞳を少し和らげた後、長義は少し頭が痛そうに米神を押さえ「そこは怖がる場面だよ」と嘆息してあきれ声を滲ませてみせた。
「きみが呼びにくい分、僕がたくさん呼んでいいかい、長義」
「好きにするといいさ」
「長義」
「ああ」
「長義」
「あーはいはい」
◇ ◇ ◇
「え、危ない? どうしてだい?」
「どうしてって、そりゃあ……」
山姥切長義を友と呼んで憚らない彼に向かって、同僚は曖昧に言葉を濁した。
時の政府において、一般に刀剣男士とは、審神者という特殊な軍人の指揮下にある兵隊である。
たった一体で街一つ壊滅させることすら可能な軍事力は、取り扱いの難しい大砲や戦車、あるいは迂闊に使用を誤ると暴発する鉄砲や爆弾に等しい。
時の政府の役割の一つはその徹底管理とメンテナンス、および法的拘束と制御、時に処分である。
中でも政府刀と呼ばれる彼ら山姥切長義は、政府の中核による制約に徹底的に雁字搦めにされているとはいえ、それは決して危険でない証左にはならない。
出来の良い蝋人形のように完璧すぎるツラをしたその美しい男は、部署を変えると同時に何十人も存在している。
双子や三つ子や八つ子のようなものと無理やり自分を納得させようとしてみても、生理的な薄気味悪さは拭いがたかった。
セーフティロックが掛かっていても拳銃は拳銃。無差別殺戮が可能な兵器。任務の中で人を殺すことも少なくないと聞く。
正直なところ、自分から積極的に近付いていく者の気が知れない、と思う。自分の感性は一般的なはずだ。
だが、山姥切長義に気に入られたと省内で話題のこいつは、そんな普通の危機感をこれっぽっちも持たないらしい。
どうにも鈍くてお人好しすぎて心配になるやつだった。
だが、こいつはいいヤツだ。本当にそうなのだ。オレが怖い上司に怒鳴られていれば我が身を顧みずに庇ってくれたし、取引先に無理難題を言われた時も助けてくれた。彼女に浮気を疑われて絶望してた時には誤解を解くのに二週間も付き合ってくれたし、マジでいいヤツなのだ。
だから、正直、絶対に関わりたくなかったし迂闊に話題にもしたくなかったが、本当に大丈夫なのかと聞いたのだ。
横から口を出して、下手に機嫌を損ねて祟られたりしたらどうしよう、と怖くて堪らなかったが、もしこいつが一方的に付き纏われてるようなら何とか庇ってやらねばと思ったのだ。
「そっか、心配してくれたんだね」
だいじょうぶ、と柔らかく言葉にして、彼は微笑んだ。
「長義は優しいよ」
彼は穏やかに、優しく目を細めて迷わずそう言った。
「少しわかりにくいけれど、優しいんだ。本当だよ」
お前にそう見えてるだけなんじゃないか? それ。
と思ったが、オレはそれなりに賢明なので、口を閉ざして黙った。
あれこれ頭で考えたが、結局、多分お人好しすぎてリスクの高い貧乏くじを引いたと思しきそいつに、無言で定食の海老天を譲ってやるに留めた。
いいやつほど早く死ぬ。
その現象を、この国では良く『神に気に入られた』と呼ぶが。
こいつがそうならないことを願うばかりだった。
「まったく、きみにはオム・ファタールの才能があるよ」
長義が呆れたようにそうごちた。
時の政府の新人役人である彼は、書類を整えていた手を半端に止めて、ぽかんといかにも間抜けに口を開けた。
この“間”がまたいけない。
どこか隙だらけで、人懐っこい無防備さ。
それがいかにも不用意に、誰かの庇護欲や嫉妬を掻き立ててしまうのだ。
「え、えぇ? 僕がかい?」
何かの間違いじゃないか、という声がありありと聞こえてくるような調子で、長義の友は目を丸くして驚いてみせた。
そんな、いかにも心当たりが無いといった様子を見せる彼に、長義は「ふん」と鼻を鳴らした。
「無駄だよ。きみがとぼけるのが上手いことぐらい知ってる」
そう長義が鼻でせせら笑うと、彼はきょとんとした面差しを、やがてじわじわと苦笑に変えて、小首を傾げて困ったように曖昧に微笑んだ。
「第一、たったひと月で支部中の人間関係を掌握したやり手が、どの口でとぼけてみせるんだか」
あれが長義の目に留まった最初の出来事だった。
長義が簡単にはぐらかされてくれないと知ると、彼は人の良さそうに微笑み、優しげな声音でこう聞き返した。
「察するに、知らないところできみに迷惑をかけてしまったかな」
「迷惑というほどではないけどね。きみとお近づきになりたい老若男女に呼び出されて連絡先の探りを入れられるのが今月十件目というぐらいだよ」
「おわぁ…」
彼は天を仰いで素早く両手で目を覆うと、やがて長義に向き直り、パンッと両手を合わせて平謝りした。
「ごめんよ長義、忙しいきみに余計な手間を掛けさせて、本当にすまないと思っている」
「別に、もう慣れたよ。それに、俺もあまり人のことを言えた義理じゃない。俺の場合は女性に限るが」
「そういえば、僕を通してラブレターを渡そうと、女性が三人ほど出待ちしていたけど、丁重にお断りして手紙はお返ししておいたよ」
「そうしておいてくれ」
書類の角を整えた長義が、深々と嘆息した。
合わせるように少し嘆息してみせた彼が、人の良さそうな顔で自重気味に笑った。
「ごめんね、できるだけ迷惑を掛けないように、気を付けてはいるんだけど」
「まあ、俺と違って殺傷沙汰にならないだけだいぶマシさ」
「長義は本当に大変だね…」
「この容姿だ、ある程度は仕方ないと割り切ってるよ。俺たち山姥切長義の中でも特筆して他者と接点が多い部署に配属されてる以上、どうしても避け難い。完全内勤組がいささか羨ましくなる」
辟易した口調でそうごちた長義が、くるりとペンを回して彼を指してこう続けた。
「だが、きみは、俺とはいささか事情が異なるだろう」
「うん、小学生の頃かな、クラスメイトの女の子が三人、男の子が一人、僕をめぐって引っ掻き傷で血まみれになる大喧嘩をしてしまって」
「ああ、きみのそれ、そんな頃からなのか。天性だな」
「最初はどうしていいか分からなかったんだ。幸い、中学に上がる頃には、どう振る舞えば適切か分かってきて、みんな仲良く拗れずに平穏に過ごせるようになったんだけど」
「まあ、きみの場合、周囲に等しく平等だから許されている部分はあるね」
「うん、そう、そうなんだよね。だから、……」
何気なく相槌を打つと、テンポよく返ってきていた返事がふと途絶えた。
言葉が返ってこない。不意に言葉を切った彼に、長義は書類を裁く手を止めて、視線を上げた。
長義をじっと見つめる優しげな笑み。
長義の友は、ひどく嬉しそうな内心を隠さない瞳でこちらを見ていた。
「特別な相手は作らないで来たんだけど」
ふにゃっと笑み崩れて、照れたように頬を掻いた。
「だからかな、はしゃいでしまうね。こんなに特別親しい友人ができると思わなかったんだ」
ずっと欲しかったおもちゃを買ってもらえた子供のような
そんな無邪気で無防備な、嬉しげに弾んだ声音。
長義は、喉まで出かかっていた文句と皮肉を、ぐっ、と詰まらせた。
「嬉しくて、つい油断してしまったかもしれないや。ごめんよ長義、これからはもう少し気を払って、きみへの迷惑が減るようにするから」
「……別に、きみに迷惑を掛けられるのなんて、今に始まったことじゃないさ」
いささか芝居かかった調子で肩をすくめてみせた長義に、彼はふわっと嬉しそうに笑って
両手を擦り合わせながら、子犬が甘えるみたいに小首を傾げてみせた。
「迷惑を掛けたお詫びに、今日は僕に奢らせてくれないかい?」
「まあ、奢られてあげようかな」
これで手打ちだ、気にするな、という意味合いを暗に含ませて、ことさら尊大に言い放った長義に、彼は子犬のようにふにゃっと笑み崩れて「やっぱり長義は優しいなあ」と笑った。
今のセリフにその返しをするような変わり者はなかなかいないよと、長義は胸の内だけで返した。
彼と共にいると、空気が音楽のように調和する。
息のしやすさ、居心地の良さ
そよ風のように軽やかな肌感
ふっと肩の力が抜ける感覚
天賦のものだろうか。
人懐っこくあたたかで誰にでも優しいが
自分だけが特別だと錯覚させる何かを秘めている。
それは中毒性にも似て、だからこそタチが悪い。
その双眸は、この国の人間にしては少し色素が薄い。
光に透けると煌めいて、琥珀のようだ。
甘やかなアンバーの瞳
それがとろりと溶け出してふわりと笑むと
まるで愛を語られているような気分になるらしい。
人を狂わす瞳だ。
「なんて話したこともあったね」
手慰みのようにぽんと包丁を宙に放っては、くるくると遊ばせて、二指で挟むように刃を捕まえる。
「勝手に惚れられて、勝手に嫉妬したその女の自称彼氏とやらに背後から刺されそうになる経験なら、掃いて捨てるほどあるが」
と長義は、あまりにも不穏すぎる前置きした上で、しごくあきれたようにこう続けた。
「最近は、きみに脳を焼かれた女性に刺されそうになるパターンばかりで頭を抱えているよ」
「えっ、……えっ!? 長義サン初耳ですが!?」
「初めて言ったからね。まあ刀剣男士は人間が持った包丁くらいで死ぬことはあり得ないんだが。強いて言えば蚊取り線香の効かない蚊だよ。手で払うのもキリがなくてだいぶうっとおしいね」
「えっ、えっ、えっと、ご、ごめん……?」
「もう慣れたよ。はぁ、きみはもっと咽び泣いてもいいんじゃないかな。他ならぬ俺が友であるという望外の幸福に」
「え、もちろんそう思ってるよ。上手く伝えられていないかい?」
「……こういうところが蚊が絶えない原因なんだけどね」
人を破滅させる美しい火種
人の心を惑わす毒だ。
俺と彼が並べば、最初の内こそ十人が十人、華やかで美しい俺に目を奪われる。
白銀の濡れ羽の如し髪、群青の宝珠の双眸、陶磁器の微笑み。
備前の名刀、本作長義に宿りし付喪神。刀剣男士、山姥切長義は、その価値に見合うだけの美しさを兼ね備えているのだから当然だ。
だが、やがて気付くだろう。
長義の隣にあって見劣りせず、なおも霞むことなく『平凡』でいかにも『人の良さそうな』人物に見える、彼のことに。
派手な容姿の俺に目を奪われ、一見してそうと気付けなかっただけで。
隣であたかも平凡そうに微笑む彼もまた、よく覗き込めばひどく美しいものを孕んでいると。
そうして、じっと覗き込んで目が合ってしまえば、手遅れだ。
彼に気付いて微笑みかけられると、多くの者が狂い出した。
いつの間にか長義ではなく、隣に立つ彼の言葉に目を奪われて、彼の虜になっていく。
その頃には長義のことなどすっかり見えなくなっていて、長義ではなく彼と縁を結びたいが故に長義に取り入ろうとする視線へと変わる。そんな日々は、あっという間に日常と化した。
どちらかというと長義の役目は、籠絡された信奉者に、彼が背後から刺されないようにすることだ。
あるいは、彼を独占したい者が長義を刺そうとしてくるのを、片手間に素手で止めるのが仕事だった。
誰もが彼を独占したがる
彼の関心を、視線を、興味を引きたがる
もっと、もっと、と砂漠で水を乞うかのように、あの美しき双眸に映り込みたがる。
今思えば彼には、傾国たる資質が、始めから備わっていたが
地獄を征く覚悟を決めてからは、その才覚はまるで花開き零れ咲く薔薇の大輪のようだった。
まるで甘い香りに虫が惹き寄せられるかのように
彼の周りには、あの才覚に惹かれた者が群がり始めた。
彼は今まで、その善性を以って
自身の影響で誰かの人生を大きく狂わせることを、非常に巧みに回避して生きてきたと見えるが
だが、彼は覚悟を決めてから、その配慮の一切を意識的に断った。
一歩
また一歩
彼の足跡が残るたびに
そこにたかる蟻の群れ
信奉者どころではなく、狂信者と言っていいほど
彼の周りには人が集まって
次々と彼に人生を捧げ始めた
信仰を糧とする刀剣男士ならばともかく
人の子にはあまりに手に余る
そんな、美しくも破滅的な現象を直視しながら
彼はまるで、爽快な晴れ空を眺めるような微笑みをたたえ続けた。
その一際美しい笑みに、ますます蟻は増え続けた
信徒の暴走
自分の人生を全て捧げた後、「この人は自分のものにならない」と気付いて刺しにくる。
長義の仕事は、そんな連中を一人残らず取り押さえることであり
時には信奉者が欲しがる『彼の唯一』を演じて見せつけて、憎悪の対象を自分にすげかえることでもあった。
傾国たる才覚を持つ彼を
仄暗い道征きにこそ七色に輝く至高の宝石を
誰もが欲しがった
だが、微笑む彼が人生の一部を預けたのは、友だけだった。
地獄を共に征くと誓った俺だけだった。
その独占は、たまらなく俺を高揚させた。
結局のところ、俺も他の連中と変わらない。彼に堕ちた最たる者が自分であることを、俺は正しく認識している。
ほんの少しだけどこか歪んだ、途方もなく美しい関係性が
どれほど周囲から渇望と羨望の目で見られていたか
俺はもちろん、彼もまた間違いなく知っていたが
されど彼は止まらず、ただ着々と階段を登り続けた。
地獄への引き返せない道行きを。
俺たち二人の道は、地獄への凱旋だった。
それはたまらなく俺を高揚させ、どんな美酒よりも甘く、深く酔わせた。
理性が一瞬で焼き払われる
そんな瞬間なら既に味わった。あの日、きみの地獄へ誘われたその時から。
俺の理性はずっと、焼き切れたままだ。
さあ、奈落の亡者どもを蹴散らしながら
地の底まで共に征こうか
地獄を往くのなら
きみの傍らには、化け物斬りの刀が必要だろう
《音の絶えた世界できみが》
長義のその判断は咄嗟だった。
高く放物線を描いて投げ込まれた、一見すると『スプレー缶のような何か』に。
長義は顔色を変えた。
(────閃光手榴弾ッ!!)
スローモーションのように、ゆっくりと空から落ちる手榴弾。
長義は逆方向に地を蹴った。友の胴体を抱えて飛び込むと、わずか数瞬の内に遮蔽物の影に友の体を押し込める。
「目を閉じろッ!」
叫ぶと同時に友の手を取って強制的に両耳を塞がせ、自分の身体を覆い被せるようにして、伏せさせた。
その瞬間、セカイが爆ぜる。
激しい炸裂音と閃光が爆発した。
「────ッちぃ!」
長義の両耳から、ブシュッ、と血がわずかに吹き出す。
やられた。思わず舌を打った。
(非殺傷型炸裂弾ッ…!)
セカイから音が絶える。
形勢不利と判断した長義は、一瞬にして攻勢に転じる決断をした。
目を閉じ視界を絶ったまま、気配だけを頼りに遮蔽物の頂点を蹴って空を舞う。
さすがに手榴弾投擲からゼロタイムで突っ込んでくるとは思わなかったらしく、虚を突かれた敵は反応が遅れた。
長義は武器を叩き落とし、武装した敵を即座に取り押さえた。
拘束した敵を長義が他の部隊に引き渡すや否や、黄色のKeep outの向こうから青い顔で駆け寄ってきた長義の友が、慌てて唇をぱくぱくさせた。
だが、よく聞こえない。
「×××ッ!! ××××!?」
かなり鼓膜を損傷したようだ。咄嗟に自身の防御を捨てて友の耳を塞ぎ庇ったので、俺としたことが直撃を喰らってしまったらしい。
血の出た片耳を自分の手で塞ぎながら、長義は顔をしかめた。
「すまないが、正面に立ってゆっくり話してくれ。耳をやられた。読唇は多少心得があるが、早いと読み切れない」
長義の言葉に、友はさあっと青い顔をして、口を動かすのをやめてしばし茫然としていたが、やがて悲愴な顔をしてグッと唇を噛んだ。
泣きそうな瞳をゆらゆらと心配げに揺らしながら、友はゆっくりと「ご・め・ん」と大きく唇を使い、次いで、己の眉間を軽く摘むような仕草をして、右手ですっと手刀を作った。
その手刀を左手の甲に寄せてくいっと引き上げ、手で左肩と右肩に順にゆっくり触れる仕草をしながら首を傾げる。
最後に自分の耳を指差した。
手話だ。
順に「ごめん」「ありがとう」「大丈夫?」のサイン。
最後に耳を指したので、聞こえの状況を聞かれている。
長義は片眉を跳ね上げた。
いたく呑気な振る舞いに反して、非常に博識で聡明なのは知っていたが、手話表現にまで通じているとは知らなかった。
「手入れは必要だが、それだけだ。きみこそ、耳の状況は?」
彼は、『大丈夫』を示しながら、再び左肩と右肩に順に触れて頷き、指で『少し』のジェスチャーをした後、手の甲を見せながらぷらぷらと振った。
なるほど、痺れているらしい。
次いで手のひらを下に向け『今』を表現した後、両耳を指差した。耳を指すのは『聞こえる』を意味する。
(大丈夫、少し痺れたけど、今は聞こえる)
それを読み取った長義は、冷静な無表情の下でわずかに胸を撫で下ろした。
敵が近くにいて声を出せない状況で他の刀と意思疎通するため、長義は当然、必要性あって非音声言語を一通り習得している。
だが彼は、本来そんな戦闘とは無縁の立場だ。にも関わらず、簡単な日常会話なら問題なく行えるらしい。
たった数十年しか生きていない若い人の子だというのに、ずいぶん多芸だ。毎度ながら感心する。
恐らく、お人好しすぎるきらいのあるこいつのことだから、政府の窓口を時折訪れる聴覚障害者たちを、少しでも安心させたいと考えでもしたのだろう。
容易に想像が付く。
彼はもう一度哀しげな顔で『ごめん』の手話を繰り返したが、長義は軽く頭を指差してから手を振って『気にするな』を表現した。
長義と違い、向こうはどうやら軽傷で済んだようだ。
まあ、この俺が庇ったのだから当然だ。これで怪我などされてはこちらの面目が立たない。
とはいえ、か弱い人の子だ、油断は禁物。
後で医務室で診させなければ。
「他に不調は?」
彼はひどく案じるような眼をしたまま、長義の確認に、首を横に振った。
状況確認を手早く他の職員に引き継ぎ、長義は友を連れて足早に医務室へ向かった。
自分の手入れは、友を医務室へ預けて大事無いことを確認してからでいい。
あくまで、そうでなければ気が散って仕方ない自分のためだ。
エレベーターに乗り込むと、友がひどく心配げな表情をした。
ゆっくり『手のひらを広げ、宙を押す』ような仕草で、首を傾げる。
触れる許可を求める手話だった。そして、長義の耳を指差す。
(耳に触れても、いいかい?)
ちょうぎ、と友の唇が呼ぶ。
聞こえはしないが、耳に馴染んだテノールが容易く再生される。
許可してやると、彼はそおっと手を伸ばして、こちらの両耳を優しく塞いだ。
────手当て、だ。
気休め、子供騙し、非合理的で無意味なそれは。
長義に、安らぎをもたらした。
声無き世界にあるのは、静寂ではなく酷い耳鳴りだ。
だが、友が耳を塞いだ途端、鼓膜に広がったのは、澄んだ静寂と柔らかな祈り。
じっとこちらを見つめ返して
優しく細まる琥珀色の瞳が、願う。
長義、長義
どうか、傷付くことに慣れないで。
(……そんなに心配しなくともいいんだがな)
長義は片眉を下げて苦笑した。
人の似姿を取ったとて、俺たちは、物だ。
物は壊れて当然だ。
破損するほどに仕え支えて使われることは、俺たち武器にとって一つの名誉でもある。
繰り返し手入れを受けられる自分たちは、壊れたら終わりの他の物たちよりずっと恵まれている。
こんなもの、軽く手入れを受ければ、たちまち『無かったこと』になる程度の傷だ。
刀身に被害なく、問題なく刀を握れる程度のダメージを、自分たちは怪我とは認識しない。
たとえば人間が、血も出ず痛みも感じない、治って当然のささくれを怪我とは思わないように。
それでも嫌なのだと
あたたかな手のひらから伝わる
まったく、そんなに強く祈らなくても聴こえている。
たとえ耳を削ぎ落とされたって、付喪神が祈りを聞き落とすはずがないだろうに。
エレベーターが減速し、やがて停止する。
「わかったわかった」と身振りで伝え、ぬくもりを伝える手をそっと離させる。
長義は颯爽と靴音を響かせ、戦いの日常へと戻っていった。
エレベーターの開いたドアを通り抜けるその瞬間
ほんの少しの、名残惜しさを感じながら。
口が滑った、と思ったが既に遅かった。
自分にとって当然の帰結を、言葉にすればこの柔らかな人の子がどんな顔をするか、想像は容易かったにも関わらず、だ。
俺としたことが、本当に迂闊だった。
長義の友は、はっきりと傷付いた顔をした。
自分の方が酷い怪我でもしたような顔で、こんなにも哀しいことはないと眼が言っている。そんな表情をされてはこちらまで居た堪れなくなるような面差しだ。
こうなることは分かり切っていた。だから言わないでいたというのに、失言だ。
「ねえ長義。物が壊れて当然なら、人は死んで当然かい?」
ぐっ、と言葉に詰まった。
そうだ、と長義は言うべきだった。
歴史を護るため、この国が滅びぬため、任務の中で時に人の子を見殺しに、時にはこの手で斬り捨てることすらままある『山姥切長義』としては、この問いに平然とイエスを返さなければならない。
だが、友としての長義の心がそれを拒んだ。
長義は、自分が逃げを打ったことをはっきりと自覚しながら
「…………そこまで言ってないだろ」
と論点を逸らす他なかった。
「俺だって、折れて当然、なんて思ってないさ。物は壊れるし、人は怪我をする。ただ、簡単に直る刀剣男士と、代わりの効かない人の子は違うというだけだ」
「うんん、ねえ長義、長義。それは、半分しか正解じゃないよ」
柔らかな声が、優しく否定を返す。
「ねえ長義、代わりが効かないのはきみも同じだ。少なくとも僕にとって、きみはかけがえの無い友達だよ。世界がきみたち刀剣男士をどう定義しても、僕にとってはそれだけが事実だ」
柔らかな手が、長義の固い手を握る。
「ねえ長義。誰がどう定義するかより、僕がどう定義するかを、優しいきみは一緒に信じてくれるだろう?」
反論できる言葉を失って、長義は、ぐっ、と言葉に詰まった。
その言い方は狡い、となじることもできた。
だが、その途方もない狡さまで含めて
長義は友の────人の子の、その魂を愛している。
※政府の鶴丸国永と長義
「青臭い小僧にしか見えんがなあ。契約せずに都合良く付喪神を使いっ走りにして、理想とやらもどこまで本音やら」
そうぼやいた政府所属の鶴丸国永に、長義の目付きが変わった。
「……もういっぺん言ってみろ」
ドスをきかせ、バンッと壁を手のひらで叩いた。みしり、と壁が軋む。
「アレは、この山姥切長義が足ると認めた男だ。共に歩くと、この俺が決めた。愚弄は俺へ向けたものと判断するぞ」
ビリッと空気が帯電するほど威嚇したにも関わらず、鶴丸は鼻で笑い、悪びれもせずに重ねて嘲笑を返した。
長義は、瞬間的に抜剣した。
斬りかかった長義をするりとワルツでも踊るように軽くいなして、鶴丸は至近距離で耳打ちした。
近日、アレは始末されるぞと
「!!」
「きみのお気に入り、狸に嫌われたらしいな。審神者でも無いのに神の寵を得ちゃあなあ、何も持たん非才の蟻からすりゃあ脅威だろうさ」
軽やかにステップを踏んで距離を取った鶴丸国永は、平然と窓に脚を掛けて退散した。
「オレとしちゃ、もっと驚かせて欲しいんでね」
消えた鶴丸、残された長義の胸元に捩じ込まれたメモには、襲撃の日時と実行者が記してあった。
情報は確かな物だった。
これを元に長義は、辛くも友の命を奪う襲撃を防ぎ切ることに成功する。
あの挑発も、至近距離で密かにメモを渡すための芝居だったはずで、腹の底は読めない。
どこまでが本音で、どこまで味方か
あまりにも食えない男だった。
「宮ってもんはいつの時代も、陰謀渦巻く狸の遊び場さ。見慣れたもんさ、さすがに食傷気味でな、そろそろ食べ飽きもするぜ」
きみのお気に入り、ああいうのはめっぽう死にやすいが、生き残った後はなかなか見応えがあるからな。
オレは途中の幾らかで死ぬ方に賭けてるんだが
驚かせてくれることを願ってるぜ?
鶴丸国永は、ひどく冷めた面差しで
嘆くほどに飽いた眼で、そう平然と長義に告げた。
長義の友は、その後も何度も暗殺の憂き目に遭ったが、鶴丸のタレコミで九死に一生を得たことも一度や二度では無かった。
だが、完全に味方である、などとは到底思えなかった。
彼の密告はいつもギリギリの瀬戸際ばかりだった。あと一日でも早く情報があれば確実に回避できたものも多かった。
にも関わらず、彼はまるで手のひらの上で玩具を弄ぶように、長義に限界ギリギリで密告を寄越しては、現場に先回りして平然と待ち構え、長義の決死の奮闘をじっくりと鑑賞する、そんな男であった。
敵のようで味方、味方のようで敵
とにかく食えない、冷酷なほど引っ掻き回す、色んなものに飽いた鶴丸国永だった。
昔はこうではなかったのに。
政府が歴史修正主義者との戦いを始めてから、政府を軸とした時の流れでは、既に世代が数回は入れ替わるほどの時間が流れている。
自分を含む山姥切長義は、実の所、時の政府の立憲初期から関わっている刀剣男士の内の一振りである。
政府が立ち上げた一番最初のサーバーが備前国であったこと、初期刀に山姥切国広が選ばれた要因の一つには、他ならぬ長義たちが中央政府に所属していることも大きな契機となった。
それほどまでに山姥切長義という刀は、政府の中核に近いのだ。
ここにいる自分は、そんな山姥切長義の内の一振りであり、顕現してから既に数世紀が流れている。政府所属の同位体の中ではやや遅めに顕現したとはいえ、中央権力に十二分に近い。
思い起こせば、あの鶴丸国永との付き合いは、まだ長義が顕現してから数十年しか経っていなかった頃からのものだ。
自分たちの時間感覚では、ほとんど顕現したてと言っていいほど青い頃だ。
『わっ! はは、驚いたか!? すまんすまん。鶴丸国永だ。よろしくな』
あの頃はもっと、明るく快活で軽やかな、彼らしく鬱陶しい余計なお節介を兼ね備えた、実に健全な刀である、という印象を持ったのを覚えている。
彼が政府の暗部に回されたのがいつなのか、表の仕事がメインだった長義には分からない。
あの瞳が、わずかな高揚と途方も無い退屈ですっかり満たされてしまったのは、確か一世紀が巡ろうという頃だった覚えがある。
長義の知らないところで鶴丸国永は、いつの間にかすっかり飽いた目で冷笑する振る舞いが目立つようになってしまっていた。
千年の刻を経て、なお健全であったはずのあの優美な刀を、わずか百年の内に研ぎ減らしてしまった政府を見て、長義は憂うと同時に諦観も覚えた。
あまり人間に個人的に入れ込みすぎるのは良くない。それはいずれ、ああいった結末を招くから、と。
そんな長義が、彼を見つけたのは、もう数世紀も政府に籍を置いて以降の話。
新卒の中に、ずいぶんとろくさいのがいるな、というのが、長義の第一印象だった。
噂では、政府の公務資格試験を首席でパスして入局したらしい。
そんな新人は、いつ見ても無意味な雑務で溺れていた。
(期待外れだったか)
そう見切りをつけ、すぐに忘れてしまったのだが、そこからひと月もしない内に、あちらこちらから、不思議とその新卒の名前を聞くようになった。
長義が彼に再び興味を持ったのは、その頃だった覚えがある。
あの時はまだ。
決して深入りしないと決めたはずの人の子と。
無二の友として。
こんなにも深い縁を結ぶことになるなんて
そんな自分を、想像することすらできなかった。
「……ぎ……長義」
「ん」
パチ、と長義はうたた寝から目覚めた。
見上げると、いささか心配そうな顔をした友が、椅子に座り込んだまま目を閉じていた自分を、上からそっと覗き込んでいる。
長義は眉間を揉むと
「すまない、少しうたた寝していたようだ」
と答え、固まった肩をこきりと鳴らした。
「貴方がうたた寝なんて、珍しいですね。疲れましたか? 今日は終わりにしてしまいましょうか」
「そうだな、もう遅い。今日は手仕舞うとしようか」
書類の角を手早く揃えてしまうと、手短に片付けて銀の外套を羽織った。
「ずいぶん深く眠り込んでいましたね」
「きみと出会う少し前の夢を見ていた」
「僕とですか?」
「ああ」
大きく伸びをした長義は、自らの肘を持って「んん」とストレッチすると、少し遠い目をした。
宝石に違わぬ美しさを誇る青の瞳に、過ぎ去りし過去が映る。
「きみと出会わなかったら、どれほど退屈な日々だったかな。ゾッとするね」