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追放の呪詛師と仮初の花嫁

全体公開 18 29963文字
2025-07-10 09:32:44

【必読】五夏/if
主要人物とそれに関する人達がタヒんでいない世界なので、諸々の設定が違います(例:恵母がタヒんでない、星漿体任務の時期が違うなど)
お好きな方はどうぞ

【目次】
追放の呪詛師と仮初の呪詛師
追放の呪詛師と星の子

7月13日の星に願いを 俺達最強で頒布予定です
全文ここで読めるので、紙で欲しい人向けです
ご興味がある方はイベントでお会いしましょう

Posted by @itou_888

追放の呪詛師と仮初の花嫁

 空は抜けるように青く、また雲は嘘のように白かった。夏の入口に立ったばかりであるはずの土地は、日の高さも相まって恐ろしく暑い。地図を片手に歩く虎杖は、なるべく隣に立つ釘崎に影が落ちるよう立ち位置を調整していた。
「あっついわね」
「地図によると、結構近いはずなんだけどな」
「ちょっと貸しなさいよ。本当ね。建物の形くらい見えてもよさそうなのに」
「おかしいなあ」
「ていうか、コレ描いた張本人が居ないってのが問題なのよ!」
 虎杖たちが頼りにしている地図は、ここに不在の同級生が描いたものだった。その本人は他の任務のために駆り出されていた。初夏というのは、呪術師にとっての繁忙期であるのだ。
 呪術師。それは人の負の感情が元になって生まれる呪いを祓う特殊な人々のことだ。虎杖たちは、この呪術師であり、またその道を極めんとする学生でもあった。
「しゃーないだろ。アイツは二級だから一人で任務に行けちゃうんだし。終わり次第、合流できるんだからさ」
「はあ、そうね。私たちでやれるところまでやっておきましょ」
 呪術師には強さに応じた等級が定められている。下は四級から上は一級まで存在し、虎杖たちは三級だった。二級以上の呪術師は単独任務が許可されているが、それ以下の等級を与えられた呪術師は複数人で呪いと対峙するのが決まりだ。故にこうして、二人で一つの任務にあたっている。繁忙期でなければ、初めから同級生三人で行動していたはずだが、虎杖が言うように仕方がない。呪いの被害を食い止められないことは、すなわち非術師や仲間の死に繋がる。緊急性が高い仕事なのだ。
「それにしても。あの人、どこまで行ったのかしら」
「あー、駐車場探してくるって言ってたけど、見つかんねえのかな」
 二人をこの土地まで連れてきた補助監督は、狭くなっていく道幅を考慮して車をどこかに停めてくると告げて離れた。けれど、しばらく待っても戻ってこない。仕方がないので端末に連絡を入れておき、返信がありしだい目印になりそうな大木の下で落ち合うことにしたのだ。

 さて、地図を頼りに三十分くらい歩いただろうか。呪力で身体強化が可能な呪術師の足でざっと十五キロ。かなりの距離を進んだことが分かる。しかし、どれほど移動しても目的地には着かなかった。まるで同じ場所をぐるぐると歩かされているような錯覚に陥る。
「これ、迷ったんじゃないの」
「かもな」
「っかー、ちょっともう駄目。どこか日陰に行きましょ。このままじゃ熱中症になるわ」
「賛成」
 暑さにやられた二人はとぼとぼと来た道を戻り始める。すると、思ったよりも早く大木の下まで辿り着いた。拍子抜けしつつも歩みを止める虎杖たちは視線の先に、先客の姿を認めた。補助監督ではない。彼らは一様に黒いスーツを身にまとっているが、その先客は真っ白なワンピースを着ていたからだ。
 大木に茂る葉から零れた日の光を浴び、そよそよと柔らかな風に黒髪をなびかせている姿は、まるで周囲の暑さから切り離されたような、浮世離れした雰囲気を感じさせる。なんとか例えようとするならば、水族館の水槽を前にしているような感覚だ。それも、日が差し込むような明るいものではなくて、もっと深い青で満たされているように、静かで圧倒的。そんな印象を受けた。
 釘崎も同じ気持ちだったのだろうか。二人して言葉を出せないまま、じっとその女を見つめてしまっていた。
「──なんじゃ、呪術高専の学生か」
 鈴が鳴るようなと表現すれば伝わるだろうか。幼い頃にはもっと溌剌とした響きがあったのかもしれない。かつてを想像させる声色は、しっかりと虎杖たちの耳に届いた。同時に、周囲の音も息を吹き返したかのように響き始める。蝉が鳴き、鳥が羽ばたき、風が木々の葉を揺らす。
「えっと、高専を知ってるんすか」
「まあの」
 歳の頃は二十代くらいだろうか。凛と立つ様子は、それよりも歳を重ねているようにも見えたし、逆に幼いと言われても不思議ではなかった。つまりは年齢不詳なのだ。そんな彼女は、ちらりと二人を見やると、日陰に入るように促した。すっかり視線を奪われて忘れていたが、虎杖たちは未だ日向にいたのだ。慌てて木の下に移動する。
「こんな辺鄙なところになんの用じゃ。高専の連中が理由もなくここに来るとは思えんが」
「貴方は、この辺りに住んでるんですか」
 釘崎の問いに女は首を横に振る。地元の人間ならば、目的地について何か知っているのではないかと期待した二人は肩を落とした。意気消沈といった虎杖たちを見て、女は再び口を開く。
「住んではおらんが、その場所は知っておるぞ」
「本当ですか⁉」
 思わず重なった声を聞いた女は朗らかに笑うと、やや離れた場所を指さした。真白な指先につられるようにして視線を動かす。
「ソヤツがな」
 果たして、そこに居たのは一羽の兎であった。
「そこの鼠も知っておるじゃろ」
 次に指さされたのは、体の小さな鼠だ。鼠はこちらを一瞥するとヂュ、とひと鳴きして草の根の向こうに隠れてしまった。
「あのー。どういうこと、で、あれ?」
 もしかして、からかわれたのかもしれない。そう考えた虎杖が視線を大木に向ける。けれど、そこにはもう誰もいなかった。
……ええ?」
 木の後ろに隠れたのかと思ったが、そこにもいない。ならば上かと見上げてみても、緑豊かな葉が揺れるばかりだ。いない。どこにもいない。人よりも少しばかり頑丈な身体を持つ虎杖ならばまだしも、あの女性が短時間の間に移動するなど、考えられなかった。
「も、もしかして、幽霊⁉」
「ばっかじゃないの。そんなわけないでしょ」
 呆れた声を出す釘崎の足もとに、いつの間にか兎が佇んでいる。なんとはなしに目が合った瞬間、兎の口が開き、やあ、と話しかけてきた。
「は、え? 俺たち、暑すぎて頭おかしくなった?」
「私まで巻き込まないでよ」
「でも、釘崎にも聞こえてんだろ」
『君たちが呪術高専の学生かい』
「やっぱり喋ってる!」
 ぴょん、と飛び跳ねた釘崎が虎杖の隣に移動する。二人して怖々見つめた兎は、後ろ足でけしけしと頭をかくと、首を傾げながら笑ったように見えた。
『なんの用かは知らないが、暑い中わざわざ来てくれたんだ。事情くらいは聞こうか』
「あ、いや、えっと。俺たち、この地図に描かれてる場所に行きたいんだけど」
「ちょっと。なに普通に話してんのよ」
「だって」
 小声で言い合う二人の前で、兎は暇そうに後ろ頭をかいた。
『一先ず、地図とやらを嗅がせてくれないかい』
 ひくひくと鼻を動かす兎の前に同級生から受け取った地図を差し出す。兎は念入りにそれを嗅いだかと思えば、耳をたてて一度跳ねた。
『ああ! 恵君の』
「アイツを知ってんの」
『少しだけね。そうか、彼の知り合いか。急ぎの用事かもしれないね。着いておいで』
 ふり、と丸い尻をこちらに向けた兎が振り返る。それから黒々とした瞳でじっと二人を見つめると、正面に向きなおり、ぴょこぴょこと進み始めた。顔を見合せた虎杖たちは小さな兎の後を追う。兎が辿るのは、地図にある道だ。つまりは、先ほど通った道である。三十分歩いて何の成果も得られなかった道を、ほんの数分進んだところで門扉が現れた。

 断言するが、こんな何もない土地にこれほど大きな門扉やそれに連なる塀があれば絶対に分かる。気づいてしまえば、異様なまでに存在感のある建造物だった。塀の向こうは見えない。門扉を叩いて中に入る必要があるだろう。ふと見れば、兎が扉の下の方にある小さな入口から中へと入っていくところだった。
「俺らにもあそこから入れなんて言わんよな」
「なんとかの国のアリスじゃあるまいし、無理よ」
 つかつかと門の前へ歩みを進めた釘崎が門扉を叩こうとした。その時だった。ぎい、と独りでに扉が開く。入ってもよいということなのだろうか。恐る恐る、中へと足を踏み入れた二人の目の前にはあまり手を加えられていないように見える庭が広がっていた。よく見れば、先ほどここまで案内してくれたであろう兎が草を食んでいる。直感で、あの兎はもう自分たちに話しかけてはこないのだろうな、と思った。
「いらっしゃい」
 ふいに、声がかけられた。
 辺りを見回した先には大きな平屋の日本家屋が建っていた。その縁側にあたる場所に、一人の男が寝転んでいる。男は、長い黒髪を下ろし、薄手の着物を身につけていた。着物の下にも白い着物を重ねているように見える。このように薄手の着物は見たことがない。浴衣の一種なのだろうか。虎杖は和装に詳しくないので、実際のところは分からなかった。
 ともかく、そんな男が縁側に寝転がり、肩肘をついてこちらを見ていたのだ。
「高専の学生が、ここへなんの用かな」
「その。俺たち、困っていることがあって。協力してほしいんです」
「ふうん? まあ、若い術師に力を貸すのは構わないが、一体どんな内容なんだい」
「とある人の護衛任務なんですけど」
「護衛任務!」
 上体を起こし、ぱちりと目を瞬かせた男が豪快に笑った。何がそんなにおかしいのか、目尻に涙を浮かべるほど笑った男は、皮肉だねえと続けた。
「どういうことですか」
「かつて護衛任務を失敗した私に、護衛任務の協力依頼が寄越されることが、さ」
 よっこらしょ。男が立ち上がる。かなり身長が高い。自分たちの担任に匹敵するのではないかと思うほどの背丈だ。男は部屋の奥に声をかけると二人を手招いた。
「上がりなよ。私の力が役に立つかは知らないが、話は聞いてあげる」
……じゃあ、まあ」
「おなしゃーす……
 ちらちらと互いに目配せし合ったものの、ここで帰るという選択肢はない。急に爆笑し始める長髪和装の怪しい男の家に、虎杖たちは招かれたのだった。

 男の家は簡素な造りをしていた。殺風景ともいう。必要な物だけが必要な分だけ置かれているような印象だ。雑然としつつも生命がのびのび放たれている庭に比べると、どうにも、もの寂しい感想を抱かせた。
 庭に気をとられている間に、かたんと大きな座卓へ盆が置かれた。上には人数分の湯呑みと、可愛らしい兎を模した和菓子が置かれていた。マシュマロで作られた兎は赤い目をくりくりとさせて行儀よく座っている。それはいい。問題は、盆を持ってきたのが呪霊だということだ。
 その呪力を感知したとき、虎杖たちは咄嗟に構えた。ここに居る誰のものでもない呪力だ。すわ、呪霊か呪詛師か、と周囲を警戒した二人の前で襖が開き、盆を持った呪霊が現れたというわけだ。しずしずともてなしの品を運んできた呪霊は、ぺこりと頭と思しき部分を下げて去っていく。襖を通過して消えていった呪霊を見送ってから虎杖はたまらず口を開いた。
「今のなに⁉」
「呪霊だね」
「見たら分かるのよ」
「君たちって、本当に何も知らずここに来たんだな」
 袖を反対の手で抑えながら男が盆から湯呑みを取る。それぞれを虎杖たちの前に置くと、これ美味しいよ、と言いながら兎の菓子も勧めてきた。
「どういうことですか」
 緑茶と菓子に手をつける虎杖の隣で、僅かに表情を強ばらせた釘崎が問う。男は座卓に頬杖をつくと、口を開こうとした。けれど、それより先に門扉が開く音が聞こえてきたからだろう。いったん口を閉じて立ち上がった。
「待ち人来たれりかな」
「え、あ!」
 庭の奥。開いた門扉の向こうに呪術高専の制服に身を包んだ少年が立っていた。
「伏黒! もう任務終わったん?」
 彼の肩には小さな鼠が乗っており、三様の視線を受けていると気づいたのか、誇らしげにひと鳴きしてから草むらに隠れていった。遅れて合流する予定だった同級生であるところの伏黒は、虎杖に短く返事をすると夏油に向き直って頭を下げた。
「お久しぶりです、夏油さん」
「やあ、何年ぶりだろう。大きくなったね」
 まるで親戚のような口振りで挨拶をする夏油に、虎杖たちは二人の顔を交互に見つめた。
「伏黒って夏油さんと知り合いなん?」
「知り合いって言えるほど交流はないけどな」
「そうだね」
 にこやかな夏油に促されるまま、伏黒も室内に入ってくる。虎杖たちは少しずつ横にずれて、伏黒が座るスペースをあけた。
「俺が養子縁組をした話を前に聞かせたことがあったよな」
 伏黒の声に頷く。彼は、家庭の事情で伏黒家と養子縁組をしている。その際に、現在の担任や周囲の大人たちが色々と手を貸したのだという。
「世話になった人の中に夏油さんもいた」
「そう言ってもらえるほどのことはしていないよ。当時はもう高専を離れていたし、できることは限られていた。だから、将来、何か困ったことがあれば力を貸すと約束していたんだ」
……夏油さん、それが今です」
「事情がありそうだね?」
 夏油は盆の上に一つ残されていた兎の菓子を伏黒の前に差し出しながら、片眉を上げた。話の続きを聞かせろ、ということだろう。正しく受け取った伏黒は事のあらましを説明し始めた。
「この護衛任務には、俺の父親の生まれが関係しています」
 伏黒の父親は、呪術界でも優秀な呪術師を多く排出する名門の生まれだ。名を禪院家といい、五条家、加茂家と合わせて御三家と呼ばれている。
 この禪院家、呪術師にあらずんば人にあらずと主張するような、かなり偏った思想の家系なのだが、なんの因果か伏黒の父親は呪力を一切持たない状態で生まれた。家の中での扱いがどんなものになるのかは明白だろう。けれど、彼はただ呪力がないわけではなかった。呪力が全くない代わりに、五感を含めた身体機能が極端に強化される天与呪縛のギフテッドだったのだ。
 生き物として強い伏黒の父親に、並の呪術師は勝てなかった。けれど、歪な思想は変わらず、閉塞的な環境に嫌気がさした彼はふらりと家を離れた。そこで伏黒の母親と出会った。
 この世の春を知り、子宝にも恵まれた伏黒の父親は、その思いのままにだろうか、我が子に「恵」という名前をつけた。虎杖たちと同級生である伏黒恵その人である。
 ここまでは問題なかったのだが、事情が変わったのは伏黒が四歳を迎えようとする頃だった。伏黒に、禪院家相伝の術式の中でも格式高い、十種影法術が刻まれていることが判明したのだ。
 さて、禪院家には暗黙の了解として、最も強いものが家督を継ぐという決まりがある。加えて、引き継いでいる術式も重視される。つまるところ、このままでは伏黒が、当時は禪院という苗字だった少年が当主になってしまう可能性が浮上したのだ。
 これをよく思わなかったのが伏黒の父親だった。最愛から生まれた生命だ。どうせなら、世間でいうところのいい人生というやつを歩んでほしい。自分が禪院家で受けたような仕打ちを態々知る必要はないと考えた。けれど、こうも考えた。格式高い術式を持っているのだから、多少はマシな扱いをしてもらえるかもしれない。
 悩みに悩んで、悩んだ結果、彼はある人物に相談をすることにした。特級呪術師、九十九由基。呪術高専から離れ、理想の世界を実現するために、伏黒の父親をすみずみまで研究したいと宣う、ぶっ飛んだ呪術師である。
 研究に協力することを対価として、九十九は相談に応じた。彼女が言うには、禪院という苗字のままではあからさま過ぎるだろう、とのことだった。そんな存在が術式を持っているとなれば禪院家当主の座を狙う輩から、いの一番に狙われる。一時的な効果しかないかもしれないが、ますは戸籍上の苗字を変えて生活するのはどうか。やらないよりはマシだと思うよ。彼女はそう提案した。
 それからというもの、伏黒の父親も、九十九も、伝手を探して探して、伏黒家と養子縁組を果たすことができた。
「でも結局、禪院家は俺のことを嗅ぎつけてきた。そして、接触してきたんだ。小学生だった俺がまだ家に着いていなくて、津美紀が一人で留守番をしている時にな」
 津美紀とは、伏黒の義理の姉だ。突然できた弟にも関わらず、なにくれと面倒をみてくれた姉のことを伏黒は強く慕っている。そんな彼女が自分の出生を理由に、わけも分からず危険にさらされたのだ。このことは伏黒の心に大きな衝撃として刻まれた。幸い、その日は早く帰ってきていた津美紀の親が知らぬ存ぜぬで押し通したらしく、何事もなかったのだが、今後のことを考えると早急な対策が必要なのは明白だった。
 再び頭を捻った伏黒の父親と九十九が出した答えが、五条に協力を要請することだった。禪院家と同等、否、現代においてはどの御三家よりも力を持つ五条家。その当主である五条悟に頭を下げたのだ。果たして、牽制は正常に働き、伏黒は当主争いに参加しないことを条件に、今後一切、禪院家からの干渉を免れることになった。
「そう、俺はな」
「まさか」
 はっとした様子で伏黒の顔を見た夏油に、少年は重く頷く。
「任務の護衛対象は、禪院家分家の三男とその花嫁候補です。そして、花嫁候補は」
 はく、と唇がわななく。その時点になって、虎杖にも、釘崎にも続く言葉に予想ができた。
「花嫁候補は、俺の姉である伏黒津美紀です」
 耳が痛くなるほどの静寂が室内を包む。誰もが言うべき言葉を探していて、そして、言うべき言葉は決まっていた。
「ッ、先に言えよ! 水くせえだろ!」
「すまん」
「一番大事なことじゃない! なーにが、この件は第三者の力を借りる必要があるかもしれない、よ! 他に言うことがあるでしょ」
……悪い」
 立ち上がった虎杖からは旋毛を、横に座る釘崎からは横腹を突かれながら伏黒が肩を窄める。散々伏黒を突き倒して、勘弁してやろうと落ち着いたのか、虎杖たちは伏黒の両脇に腰かけた。
「次からは大事なことはちゃんと言えよ」
「ギリギリになる前に余裕もって言いなさいよ。前から思ってたけど、自分の話をしなさすぎるのよ」
 どんどん背中が丸くなる伏黒へ、別に、と虎杖が続けた。
「なんでも話せとは言わねえけどさ。頼れよ。友達だろ」
……
 小さく頷いた伏黒の背中を二人して強く叩く。それによって決心がついたのか、再び伏黒が話し始めた。
「津美紀が花嫁候補になったのは、禪院家が手をまわしたせいだ。義理の姉が分家とはいえ、禪院家に嫁ぐことで俺と向こうとの関係性は強くなる。いわゆる、家族になるからな。迷惑な話だが、まだ俺を禪院家の当主にしようと画策する奴がいるらしいんだ」
「断れないの」
「非人道的な方法を使ったわけでもない。まだ正式に決定したわけでもないんだ。津美紀は学生だし、知らない奴と結婚するなんて考えられねえだろ。向こうも同じようなことを言ってきて、まずは顔合わせだけでもって話だった」
 そして、何故か義姉も前向きな態度だったのだという。
「わけ分かんねえよな。そんな時だ。分家の三男と、花嫁候補に殺害予告が届いた」
 ごくり、と虎杖が唾を飲み込む音が響く。
「呪術師には呪術師のネットワークがあるように、呪詛師には呪詛師のネットワークがある。そこに、三男と津美紀の情報が載ったらしい。現在の当主候補を推したい派閥と、俺を、というか十種影法術を持った呪術師を当主に推したい派閥がやりあってるんだよ。つまり、二人を亡き者にしたい奴らと、婚姻を推し進めたい奴らだ」
「なるほどね。それで、恵君は私に何を手伝って欲しいのかな。呪詛師のネットワークにアクセスして情報を操作する?」
「え、夏油さんってそんなこともできるの」
「まあね」
 得意げな表情をみせた夏油は肩をすくめた。
「私、呪詛師だから」
「は、はあー⁉」
「どういうこと⁉ ちょ、伏黒!」
 二人分の大声に反応した兎や鳥が一斉に庭の隅へ逃げ出す。伏黒は額に手をあてて深いため息をついた。
「ああもう、こうなるから順序だてて言うつもりだったんですよ。なんで言っちゃうんですか」
「すまない。善は急げっていうし、早めに動いた方がいいのかと」
「そういうところが誤解される原因なんじゃないですか。灰原先生も言ってましたよ」
「灰原に言われると、胸にくるね」
「えっ、え? そんな感じ? 呪詛師って、え?」
 呪術界に長く身を置いていない虎杖にも呪詛師くらいは分かる。というよりも、座学の始めに習うのだ。呪詛師とは呪術師の敵対者であり、呪いを嗾け、私服を肥やす者たちのことである、と。目の前にいる男がその呪詛師で、けれど伏黒はその人に助けを求めようとしている。わけが分からなくなった虎杖は深く考えるのをやめた。それに気づいた釘崎が、座卓を拳でガツンと叩き、説明を求める。
「どういうことなのか、説明はあるんでしょうね」
「私が呪詛師だってことに関してかい? 高専の四年頃かな。私、ちょっとした理由があって呪術界に反旗を翻したんだよね。そしたら、呪詛師認定されて追放されちゃった」
「さ、されちゃったって……
 話がずれたね、と夏油は伏黒に視線を向ける。こうなったのはアンタのせいだろ、と言いたげな表情で伏黒は口を開いた。
「夏油さんにお願いしたいのは、護衛任務そのものです」
「私の過去を知っていても?」
「だから、です。護衛が成功されちゃ困る。いや、正確には二人の身の安全は担保されながらも、婚姻が成立しないようにして欲しいんです」
「ははん」
 片膝をたてて頬杖をつき、綺麗に口角をあげた夏油が目を細める。
「いいよ。そういうのは得意だ」
「ありがとございます。三日後に顔合わせがあります。件の三男と、津美紀。それぞれの親が、東京にあるホテルで食事をします。俺もそこに参加する予定です。この情報は呪詛師専用のネットワークにも流れているらしく、依頼を受けた呪詛師が二人の命を狙いにきます。呪詛師を退けて二人を護衛しつつ、結婚の予定をぶち壊してください」
……よっしゃ!」
 ぱちんと音をたてて両頬を叩いた虎杖が、にかっと笑った。釘崎も勝気な表情を浮かべている。
「俺は何をしたらいい?」
「そのホテルって、食事は美味しいの? 食べに行くついでに上手いことやってあげるから、計画はアンタが立てなさいよ」
 やいのやいのと盛り上がる子どもたちを眺めていた夏油は、軽く手を叩いて視線を集めた。
「どういう計画であれ、君たちが担うのは護衛の部分だ。婚姻の予定をぶち壊すのが私の役目だよ」
 言いながら、夏油が手を伸ばす。いつの間に現れたのか呪霊が電子端末を持って控えており、それを夏油の手の上に置いた。
「顔合わせが行われるホテルはどこかな」
「ここです」
「うわっ。高そ」
「個室で行われる予定なので、中に入れるのは俺だけかと」
「俺たちはどこで待機してればいい? 護衛が任務なんだよな」
「個室の入り口じゃないかしら。外から襲撃してくる呪詛師を警戒しているはずでしょ。あっちだって呪術師の家系なんだし。少しくらい戦闘の心得もあるわよね」
「そっか。中には伏黒もいるもんな」
……まあな。とにかく、中にいる俺と外にいるオマエらとが連絡をとりながら計画を進める必要があるってことだ」
 端末の画面に表示されているのは、落ち着いた雰囲気の洋室だ。長い机の両側に均等に並んだ椅子が配置されている。ここで行われる顔合わせの主役二人を呪詛師から守りつつ、結婚が成立しないよう取り計らう必要がある。難しい任務だ。そもそも、どうなれば結婚の話は消えるのだろう。それを聞いておこう端末から顔を上げた虎杖よりも先に、夏油が伏黒に問いかけた。
「もし、津美紀さんが本当に結婚を望んでいた場合はどうする」
 思いがけないことを言われた人間は、こんな表情をするのだろうな、という手本のようだった。苦々しい顔つきで、伏黒が奥歯をぎちりと噛みしめる。
「その時は」
 目を伏せ、再び開いた時には覚悟を決めたと言わんばかりの眼光だった。
「その時は、ぶち壊すのは、なしです」
「いいのかい。君が禪院家の当主争いに巻き込まれるかもしれないよ」
「俺が、呪術師になると決めたのは、津美紀に幸せになってほしいからです。色んな人の意見を聞いて、本人が呪術界に近づくのは津美紀の幸せに繋がらないと考えました。だから、できるだけ遠ざけようとしてきた。でも、津美紀自身がそうしたいと望むのなら、俺にはそれを邪魔するつもりはありません」
……分かるって言っていいのか分かんねーけど、俺も似たような感じだから想像はできるよ」
 伏黒の言葉を聞いて、虎杖は深く頷きながら答えた。虎杖は、つい最近、呪術高専に編入してきた新米呪術師だ。
「俺も、守りたい人たちがいて、呪術師になろうって思ったから」
 元々、呪霊が見えるわけではなかった虎杖は、ひょんなことから呪いに触れた。当時、所属していた心霊現象研究会で検証していたオカルトが本物だったのだ。見えない呪いに襲われ、あわや命の危機という場面で、ここにいる伏黒から助けられた。胸を撫で下ろしたのもつかの間、自らも呪霊が見えるようになっていることに気づいたのだった。
 開花した才能を、他人のために使いたいと思った虎杖が呪術高専への編入を切り出したことで、自分の母親が呪術師であったという衝撃の事実を知ることになるのだが、それはまた別の話だ。
 つまるところ、虎杖は、母親を含めた大切な人達の幸せを守りたいからこそ、呪術師を続けている。だから、伏黒の気持ちも少しくらいは想像ができる。
「私は、別に高尚な理由なんてないけど」
 くるんと髪の先を指で丸めた釘崎は首を傾ける。
「想像できないわけじゃないわ。だから、アンタが最終的にお姉さんの希望を優先させてギリギリに計画を変更するってなっても、ばっちり合わせてあげるから。そういうギリギリなら許す」
 釘崎は地方では名のある呪術師の孫だ。そんな彼女が呪術師になったのは、誰かのためではない。自分が自分であるためである。けれど、同級生二人の気持ちを汲むことくらい、釘崎には、わけないのである。
 友人二人の言葉は、伏黒少年の緊張を解いたようだ。肩から力が抜ける様を、虎杖はどこか嬉しいような、くすぐったいような気持ちで見つめた。
「俺の考える計画は、こうです」
 三人の若い呪術師と、一人の追放された呪詛師。四人は頭を突き合わせて作戦会議を始める。少し離れた市街地では、元の場所に戻れず、また目印の大木を見つけられない補助監督が途方に暮れていた。



 本日は、お日柄もよく。ドラマなどでよく聞く台詞だ。ペラペラと話を続けるのは、禪院家分家の家長である。彼は、十種影法術を持つ呪術師が禪院家当主になるべきだ、と主張するグループに属していた。隣に座る配偶者も異論はないらしい。
 長々と続く挨拶を聞いているフリをしながら、伏黒は斜め前に座る青年を見つめた。どこか強ばった表情で、正面にいる自分の花嫁候補から視線を逸らしている彼こそが、伏黒の義姉と結婚するかもしれなかった人物だ。
「──それでは、積もる話もあるだろう。早速、会を始めさせていただこうかな」
 いつまで続くのか分からない自慢話を延々と語り終えた後、グラスを片手に家長が笑みを作る。周囲も彼に従って、各々のグラスを手にとった。遂に始まるのだ。掛け声にあわせてグラスをあおった。
「っ、ぐ⁉」
 舌が痺れ、喉が焼けるようだ。伏黒は叫んだ。
「飲むなッ」
 伏黒は隣に座る花嫁候補のグラスを弾き飛ばす。その剣幕に驚いてか、他の面々も口をつける寸前だったグラスから手を離している。三男は何が起きたか察したのか、顔色を真っ青にして立ち上がった。
「父さん、これはどういうことですか」
「呪術界から離れていたからといって、やり方まで忘れたわけじゃないだろう。そういうことだよ。お前が伏黒家から嫁をとることで、そこにいる十種影法術使いと禪院家との関係が深まる。現時点では五条家、ひいては五条悟との縛りのせいで手が出せんが、縛りを緩くすることは可能だ。我々が家族になってしまえばいいんだからな」
……この顔合わせは、初めから、そのつもりで開かれたんですか」
「はは、当然だろう。個室を選んでも違和感のない状況を作り出したんだ。我ながら事が上手く運びすぎて恐ろしいくらいだ。それと、この婚姻は君のお姉さんも了承済みなんだよ。健気じゃないか。君のためになるなら、彼女は喜んで禪院家へ嫁ぐと言うんだから」
「言わせた、の間違い、でしょう」
「口から出たのなら同じことだ。さあ、そろそろ薬も回ってくるころじゃないか。やせ我慢は止したまえよ」
 席を立った家長は、ゆったりとした足取りで部屋を歩き回る。
「結界術に長けていなくともよい。こうして部屋の形を使えば、何もない空間で術を展開するよりも、はるかに容易に結界をはることができる。いくら格式高い術式を持っていようと、知識では我々に敵わんな」
 まるで家長である男の独壇場であった。三男は信じられないといった表情で家長を見ているし、こちらの面々もわけが分からないといった顔つきだ。ふーっと長く息を吐いた伏黒は、大きな声で分かりやすいように問いかけた。
「つまり、この顔合わせは、ここにいる花嫁候補との婚姻を成立させるためである、と、そういうわけですね」
「初めからそう言って──」
「困るなあ」
 当然のことを聞くなと言わんばかりの家長を遮り、花嫁候補がのんびりと口を開く。
「私自身も困るし、そちらも困るのでは? 呪詛師と関係を結ぼうとしているなんて、外聞がよくないだろう」
「は、なに、貴様、なぜ⁉」
 よっこいしょ、と掛け声と同時に椅子から立ち上がった花嫁候補は、異様にデカかった。本来ならば、伏黒津美紀が座っていたはずの場所に、大柄な男がいる。僧侶が着るような法衣。その上から身につけられているのは、五本の布を縦に縫い合わせて作られた袈裟。長い髪をハーフアップにまとめ、特徴的な福耳には大ぶりの石がついたピアスがはめられている。
「何故って、私はずっとここに座っていましたよ。花嫁候補なので。あははっ」
 楽しげに話す男、夏油を見て、わなわなと震えの止まらない家長だったが、流石の年の功ということだろうか。すっと表情を落ち着けると、懐から空の小瓶を取り出した。このホテルの従業員に金を握らせて、瓶の中身を飲み物に混ぜるよう指示した。飲んだ後の反応からして、そのたくらみは成功したと考えていいだろう。
「まあいい。そろそろ薬もまわってきたはずだ。我々の本命は、そこの呪術師なのだから。解毒剤はここにはない。命が惜しくば、婚姻を認め」
「あいにくですが」
 まるで授業でも受けているかのような動きで挙手をした伏黒には、先ほどまでの苦しそうな表情は見受けられない。何度か咳払いした伏黒は、グラスの中身を揺らしてみせた。
「俺や虎杖たちのグラスに入っているのは、ただ恐ろしく甘いだけのシロップだ」
 ちなみに、舌が痺れるくらいには甘い、とつけたした伏黒の言葉を聞いて、家長は目を見開いた。いつの間に、小瓶をすり替えていたのか。いや、それよりも聞き捨てならないことを聞いた気がする。花嫁候補だけではなく、よもや。
「なにを、いや。貴様、今、誰だと」
「あれ。もうバラしていいん?」
「ちょっと。全然料理食べられなかったんですけど。乾杯の飲み物しか来てないじゃない」
 伏黒家の面々が並んでいるはずだった長机には、呪術高専の学生である虎杖と釘崎が並んでいた。突如現れたように見える学生たちに、置かれた状況が判断できないのか、家長は目を白黒とさせている。今の今まで、全くの別人に見えていた。呪術師の目をもってしても暴けない認識阻害の術を誰がかけたというのか。
「あ、ちーっす。花嫁さんと花婿さんを守りに来ました! もしかして、おっさんが危ない奴?」
「そこに居るのが花婿? シャキッとしなさいよ。覚悟は決めたわけ? 来るの、来ないの」
「ぼ、僕は……
 数秒間、伸ばされた虎杖の手と伏黒の顔とを見比べていた三男は、ついにその手をとった。次の瞬間、虎杖たちの体が、床に沈み始める。正確には、床に広がる影に、だ。さながら底なし沼に沈んでいくかのようだったが、誰一人として慌てていない。この影が誰のものかを知っているからだ。
「十種影法術……ッ」
 伏黒の術式だ。自らの影を媒介に、十種類の式神を召喚して使役する術式。その性質上、影の中に呪具を忍ばせることも可能だった。今回は、それを応用して部屋から脱出しようとしている。
 家長はすぐに思い至ったのだろう。何か武器のようなものを手にしながら伏黒に近づこうとした。術式の発動を邪魔する心づもりなのは明らかだった。禪院家にはその歴史から様々な呪具や呪物が保管されている。分家とはいえ家長ともなれば、持ち出すことは容易い。しかし、その足が前に進むことはなかった。見るからに質の良い生地で仕立てられた袴ごと、足首を掴む存在がいる。影の中から出てきた赤く毛むくじゃらな異形の手が、足首を掴んで離さないのだ。
「影を媒介にするのは、なにも一つの術式に限ったことではありませんよ」
「貴様ァ、夏油!」
「おや、私のことをご存じですか」
「この界隈にいて、知らん者の方が少ないわ! こんの呪詛師崩れが何の用だ! こんなことをして許されるとでも思っているのか」
「はて」
 手を頬にやり、困ったとでも言いたげな表情で夏油が首を傾げる。その間にも四人は影に沈んでいき、すっかり姿が見えなくなった。
 家長の配偶者は、部屋の隅で頭を抱えて縮こまっている。彼女の周りには、達磨のような呪霊が複数体跳ねており、どんどんと部屋の隅に追い込んでいるのだった。室内には家長と配偶者、夏油しかいない。
「私は何に許してもらう必要があるのでしょうね。その必要があるとして、対象はオマエではない」
 ふと、電子音が鳴った。音の出どころは夏油の袖の中だ。はいはい、と端末を取り出した夏油は、にこやかに数回のやり取りを行うと、通信を切った。
「さて。私がここにいるのは、この場をぶち壊してほしいと依頼を受けたからです」
「あのガキどもか」
「いいえ? どうしてそう思ったのかは知りませんが、彼らは禪院家分家三男と花嫁候補の護衛という任務を全うしただけですよ。私は別の人間から依頼を受けてここにいる」
 影から伸びていた腕は、今や人でいう肘の辺りまで外に出ていた。ずるずると長さを増すごとに、家長の体は床に押しつけられていく。
「心当たりがありませんか。まあ、あってもなくても、どうでもいいか」
 それよりも、と夏油は家長を見下ろしながら続ける。
「禪院家と五条家との間には縛りが結ばれているそうじゃないですか。こんなことをして許されないのは貴方の方なのでは」
「はんっ。貴様に言われるまでもない。あのガキに危害を加えれば縛りは発動するだろうが、結果的に我々は何もしていないからな」
「そうですか」
 夏油が頷いた、その時だった。激しい揺れが部屋全体を襲う。常人では立っていられないような揺れの中でも夏油は涼しい顔をしている。
「縛りには触れなかったのかもしれませんね。まあ、相手がそんな屁理屈を聞いて納得してくれるのかは分かりませんが」
「貴様、何をべらべらと」
「ああ、失礼。年をとると余計なことばかり言うようになってしまって。貴方にも覚えがあるのでは?」
 今や肩辺りまで出現した赤い腕と、達磨を残して夏油が部屋の戸へと近づく。
「余計なことついでに伝えておくとしよう。この建物の破壊許可が出たそうだ。今からここに来るのは、その腕よりもずっと厄介な鬼だ。貴方もよくご存じのはず。もしかしたら、本人に会うのは初めてかもしれないが」

 じゃあ、私の依頼人によろしく。そう言って、戸を開けたままにした夏油が去って行く。激しい揺れで視界が安定しない中、どうにか呪霊の拘束を解こうとしていた家長の耳に、鎖のようなものが擦れる音が聞こえてきた。その音は徐々に部屋へと近づいてくる。開け放たれた戸の向こう。逆光になってシルエットしか見えない状況でも、家長にはその人物が誰なのか察しがついた。
「ぜ、禪院甚爾」
「あ?」
 三節棍を片手に、部屋へ入ってきたのは、かつて禪院家の本家から出て行ったはずの男だった。天与呪縛のフィジカルギフテッド。呪力を持たない者への扱いが劣悪な環境において、その全てを振り切り、呪術界から去った男がこの場にいた。
「俺のこと知ってんのか。どっかで会ったことあるか? まあいい。あいにく、俺は男の名を覚えるのが苦手でね」
 ぶん、と三節棍が空気をきる。家長は、ある考えに行きついた。もしかすると、この男は自分たちを部屋から脱出させるために現れたのではないだろうか。希望が見えてきたと表情を明るくした家長の前に男はしゃがみ込む。
「なに考えてんのか知らねえが、俺ァ別にお前らを助けにきたわけじゃねえよ。あのクソみてえな家がどうなろうと関係ないが、一つだけ関係あることがあってな」
 ただしゃがんで話をしているだけだというのに、経験したこともない威圧感を覚える。視界の端に映る配偶者はどうやら気絶しているらしい。
「ちょっと、お灸ってやつを据えに来たんだよ。コイツでな」
 男の手に握られている呪具の用途に思い当たり、家長の顔から血の気が引く。待て、こんなことをして許されると思っているのか、と喚き散らす家長に、男は小指を耳に突っ込んだまま答えた。
「あのさ。お前はとっくに尻尾切りされてんの。分かるか? そんで、もう一つ教えといてやるけど。お前は今から見せしめになんの」
 立ち上がった男の表情は見えない。振り回される三節棍が風をきる音だけが聞こえる。
「俺の息子に手を出した奴はこうなる、ってな」
 家長の意識はそこで暗転した。


 お世話になりました、と頭を下げるのは禪院家分家の三男である。生得術式を持って生まれなかった彼は、早々に呪術界から離れて暮らしていた。家の方も彼に興味はなかったのか、呪力に乏しい人間が生まれたことを恥じたのか、これまで放置されていた。しかし、急に家に呼び出されたかと思うと、拒否権もないまま婚姻を結ばされそうになったのだ。
「皆さまには大変ご迷惑をおかけしました。伏黒君。君のお姉さんにも悪いことをした。申し訳ない」
「いえ。津美紀も思うところがあっての行動だったので」
 今日に至るまでに、義姉と話し合った内容を思い出して、伏黒が遠くを見つめる。義姉である津美紀には、呪術界のことを詳しく話してはいなかった。それは彼女の親に対しても同様だ。養子縁組をするにあたって、伏黒の生まれが特殊であることは伝えられているのだが、詳細までは話されなかった。厄介ごとに巻き込まれるからだ。
 けれど、割り切って生活していた彼女の親と違い、津美紀は生活の端々から伏黒が行っていることを感じ取っていた。不良と喧嘩をしてできた傷だと言い張る義弟が、何かを隠していることなんて容易に想像がついたのだ。その全てを暴こうとはしなかったものの、心配はさせてほしい。そんな思いで生活していたところに、禪院家分家から使いの者が来たそうだ。
 彼らがどのような説明をしたのか、詳細は聞かなかった。しかし、話を聞いた津美紀が婚姻に前向きな姿勢を見せるくらいなのだから、耳障りのよい嘘を織り交ぜた内容だったのだろう。
 伏黒は、彼女を危険な目にあわせることを覚悟の上で話し合うことにした。これまで隠していたこと、これからも話せないであろうこと。久しぶりにこんなに長く話したかもしれない、と椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げた伏黒の在り方を義姉は受け入れた。
「心配くらい、させてね」
……おう」
 後日、やり取りの大まかな内容を聞いた釘崎は、カッコつけてんじゃないわよ、と突かれたのだった。

 三男は、これから海外に行くのだそうだ。親とは分かり合えないだろうと、今後の関係を見直すつもりでもあるらしい。再び頭を下げて去って行く背中は真っすぐと伸びていた。
 禪院家分家の三男と、その花嫁候補の護衛任務。一時はどうなることかと思ったが、無事に完了した。呪術高専が派遣した応援要員の対応により、短時間で関係者以外無人となったホテルは一部が爆発し、もうもうと煙をあげている。こちらは無事とはいかなかったようだ。
「皆、お疲れ!」
「あっ、灰原先生」
 迎えの車から出てきたのは、虎杖たちの担任である灰原雄だ。呪術高専の卒業生であり、現役の呪術師である灰原は傷のある頬を緩めながら学生を迎えた。
「先生、ありがとうございました。我儘を聞いてくださって」
「いいよ、そんな。自分のお姉さんが関わってくるんだ。人に任せたくないよね。僕にも妹がいるから、余計にそう思うよ」
 それにしても、とビルを見上げた灰原が呟く。
「初めの計画では、部屋の前で待機する役と、室内で婚姻を止めるよう説得する役に分かれるはずだったのに、随分と派手な結果になったね」
「すみません」
「君達に大きな怪我がなくてよかったよ。でも、今後はしっかり相談してね。心配したんだ」
「先生、ごめんなさい!」
 謝る学生たちの頭を、灰原の大きな手が撫でる。彼が計画の詳細を聞かされたのは、実行当日だった。子どもたちから話を聞いた灰原は、補助監督と協力し、すぐさま準備にとりかかった。ホテルから宿泊客ならびに従業員を速やかに退出させる準備。万が一、怪我人が出た際に備えた救助班の設置。友人であり、一級術師でもある七海の力も借りて子どもたちの計画を支えたのだ。
「なにはともあれ、一件落着なのかな」
「はい。俺たちが担うのは対象の護衛。婚姻をぶち壊すのは夏油さんの役割って話でしたから」
「夏油さん! 元気にしてた? 最後に会ったのはいつだったかな」
「元気そうだったわよ。花嫁候補も乗り気で参加してたし」
「いっそのこと紋付き袴で座ってみようか、なんて笑ってたな。夏油さんって結構ノリがいいんすね」
「へえ。紋付き袴ね」
 気配もなく、虎杖たちの背後に人影が立っていた。高身長な灰原や、夏油。そんな彼らよりも背が高い。振り返ってみると、目の周りを包帯でぐるぐる巻きにした不審者が立っていた。
「あれ、五条さんじゃないですか。お久しぶりです」
 灰原の挨拶に、伏黒も頭を下げる。虎杖たちもそれに倣って挨拶をした。
「はいはい、お疲れサマンサ。それよりも、紋付き袴ってなに? アイツ、結婚詐欺師にでも転職したの」
「違いますよ」
 灰原と伏黒がそれぞれ説明をする。対する五条は、縛りを破って事を起こそうとした禪院家と穏便に話し合いを済ませて帰ってきたところだった。
「本当、身の程知らずに付き合うのは疲れるよ」
 大袈裟な素振りで肩をすくめる五条へ、虎杖が問いかけた。
「五条さんも夏油さんと知り合いなん?」
 一瞬の間の後、あらわになっている口元がにゅっと吊り上がる。
「まあね」
 おおよそ、まあね、だけでは済まなさそうな雰囲気を醸し出しながら、ひらひらと手を振りながら五条は去って行った。
「俺、余計なこと聞いた?」
「そんなことないよ」
 灰原はそっと微笑むが、詳しくは話そうとしなかった。他人の関係に首を突っ込むのは野暮だろう。そう判断した虎杖たちは、それ以上深く聞くのはやめようと頷きあったのだった。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか」
 補助監督が運転する車の後部座席に三人で乗り込む。灰原は助手席に座った。発進と共に、運転席から謝罪の声が聞こえた。今日の運転手は、前回、駐車場を探して戻ってこなかった補助監督だった。
 あの日、夏油の屋敷を出てすぐに、補助監督の姿を見つけたため、てっきり近くで待機してくれたのだと思っていたのだが、違ったようだ。大木を探して彷徨っていたところ、突然三人が目の前に現れたのだという。
 不思議なこともあるもんだな、と呪術界に足を踏み入れて数か月の虎杖は感心する。毎回ここまでぶっ飛んでるわけじゃないと答えてやったのは伏黒だ。
「さっきの五条さんもそうだが、夏油さんは三人しかいない特級呪術師のうちの一人だ。特級は、一級術師の斜め上くらいにある等級だと思ってくれればいい。そんな人が行動を起こせば、嫌でも大ごとになるんだよ」
「でも、俺、今まで五条さんの名前は知ってたけど、夏油さんのことは知らなかったな」
「まあ、そうだろうね。夏油さん、半分隠居生活みたいになってるし」
「そうなんだ」
 夏油がいた屋敷を思い出した虎杖が呟く。殺風景な室内に一人でいる夏油を想像する。幼い頃から、働きに出ている両親に代わり、祖父と過ごしていた虎杖は、近くに人がいる環境に慣れている。だから、寂しくはないかと、ふとそんなことを思ったのだ。
「大丈夫だよ」
 まるで、考えていることが分かるかのように、灰原がほほ笑む。
「五条さんと、夏油さんは仲良しだからね」
「え、そうなん? そんな感じ?」
「さっきの雰囲気じゃ、そうは見えなかったけど」
「お二人の後輩だった僕が言うんだから、間違いないよ!」
 溌剌とした灰原の主張を聞くと、そんな気がしてくるから不思議だ。まあ、どんな人であれ、関係が悪いよりは、そうでない方がいいだろう。いつか、二人が並んで歩いているのを見る日が来るのかな。そんなことを考える。そうなればいい。左右に座る友人たちと肩を並べて座りながら虎杖は窓の外の青空を見上げた。


追放の呪詛師と星の子

 枯れ草を踏む。かさりと乾いた音がするのに合わせて地面を見れば、物言いたげなハツカネズミが、ぢゅ、と鳴いて逃げていった。五条が一歩一歩と足を進める度に多様な生き物たちが視線を寄越す。それら全てを無視して進み続けた。
 これみよがしに育った大木から歩いて数分。結界によって守られた屋敷が姿を現す。門扉は静かに閉じられたままだったので、呪力をぶつけてこじ開けた。
 踏み入れた先の庭は、しんと静まり返っている。時おり、羽ばたく時を違えた羽虫が怖々止まる草木を変えるくらいだ。
「酷いことをするじゃないか」
 庭にせり出した縁側の上。胡座をかいてこちらを見る男がいる。薄手の襦袢に絣を重ねた格好で、先程のハツカネズミのようにこちらをじいっと見つめてくる。
「オマエが素直に開けないからじゃん」
「開ける理由がない」
「理由。はいはい、理由ね」
 眉間に皺を寄せてこちらを見る男、夏油から視線を逸らさない。真正面に立ち、暫く無言で見下ろした後に、しゃがんで顔を見上げた。
「高専の生徒をこの屋敷に入れただろ。他人が入れて僕が入れない理由はないな」
「そんな理屈は成立しないよ。彼らを通したのは、それを理子ちゃんが許したからだし、恵君との約束を果たしたまでさ。君の来訪とは全く関係ない」
 分かったら早く帰りな、と部屋の奥へと戻ろうとする夏油の腕を掴む。自分が立ち上がるのとは逆に夏油を座らせたままにして、縁側に乗りあげて勝手に膝を拝借した。所謂、膝枕というヤツである。着物に焚き込められたであろう香が鼻腔をくすぐった。
「理由なんかなくてもいいだろ」
「さっきと言っていることが違うんじゃないか」
「同じだよ。オマエが要るって言うから理由を作ったけど、理由なんかなくても僕をここに置いておけって言ってんの」
「とんでもないことを言っている自覚はあるかい」
 頭を撫でられている手を甘受しながら腹側を向く。それを嫌がった故の動きだと勘違いした夏油が手を離したことに気づいて、顔を腹に埋めながらずりずりと鼻や額を擦りつけた。それでも再開されない動きに焦れて、手を伸ばして夏油を捕まえると頭の上まで誘導する。
「正当な主張だろ。僕をここに来させたくないなら、僕以外の誰も受け入れるべきじゃないし、誰かを入らせるなら、僕も入らせるべきだ」
……ここはそもそも理子ちゃんの為にある場所だ。君の意向は関係ない」
「気に入らねえな」
 頭の上に置かれたままの手を掴む。袖ごと掴んだので、生地が軋む音がした。決して手を離さないように気をつけながら仰向けになる。眉根を寄せて見下ろしてくる夏油の髪が、肩から滑り落ちて五条の視界を黒く囲んでいく。掴んだ手とは反対の手を伸ばして、髪をひと房掴んでくるくると指に巻き付けながら、もう一度、気に入らねえなと呟いた。
「関係ないわけねーじゃん。星漿体の護衛任務はオマエだけじゃなくて俺も関わってた。俺達に寄越された任務だ。なのに、全部自分がシクったみたいな顔しやがって。自虐的になんのもいい加減にしろよ」
「自虐的になんてなっていないさ。事実だ。私は理子ちゃんに彼女の未来を保証する約束をした。理子ちゃんの望むままの未来を過ごしてもらうつもりだったんだ。けれど結局はこのザマさ。彼女は数年に一度ここへ来て存在を曖昧にする術を行使されなければならないんだ」
 きつく目を閉じた夏油が上体を起こす。それにつられて指に絡まっていた髪がするりと抜けていった。
「もはや、理子ちゃんの本当の名前を知っているのは黒井さんと私と、君くらいかな。理子ちゃんには彼女のままで過ごして欲しかった。けれど、星漿体が生きたまま逃亡したなんて外にバレたら、今度こそ彼女の自由はなくなる」
 今から十年ほど前の話だ。
 五条達は当時中学を卒業したばかりの星漿体の少女と出会った。名を天内理子。呪術高専の地下で、国を守るほどの途方もない結界の礎となるために育てられた少女だった。
 二○○八年の四月。呪術高専の四年になり、個々で特級術師として活動するようになっていた二人が久しぶりに合同で請け負った任務は、星漿体の護衛と抹消であった。
 指定されたホテルで待つ天内を迎えに行き、呪術高専まで連れて行く。そして、東京都立呪術高等専門学校の最下層にある薨星宮の本殿まで案内して、結界の礎となる場面を見届ければよい。それだけ聞けば簡単な任務であるように受け取られるものの、失敗すれば国自体を傾ける可能性のある重大な任務だった。故に、特級術師二名を派遣したとも言える。
 元々、結界の礎となっているのは天元という結界術の名手だ。天元の助力により、国内の結界術や、補助監督の帳など、様々な場面で必要不可欠な結界術である。そんな離れ業を可能にしている天元の術式には秘密があった。不死の術式。死なない天元は永遠に呪術高専最下層で結界を維持し続けるものの、老化は避けられない。そこで、数百年に一度、自分の肉体と適合する星漿体と同化して、次の数百年までを生きるのだ。
 ミッション系の女子中学校を卒業したばかりの少女は、ホテルの一室で大人しくソファに腰掛けていた。その姿を見て、五条は天内に会う前に、夏油と交わした会話を思い出した。彼女が同化を拒めば、どこまでもその未来を保証するという内容だ。
 実現可能だと思っていた。だから、薨星宮にたどり着くギリギリで提案した。数日間、現世とのお別れと称して、共に様々な土地を巡った少女の本音を聞きたかったのだ。
 かくして、天内は星漿体の候補から外れ、そして、名前を失った。
「認識阻害の術は上手く機能している」
「そうだね。理子ちゃんは、理子ちゃんでないまま生き続けている」
 言いながら夏油が視線を向けた先。日が暮れかけた庭に、一人の女が立っていた。仕立てのいい白のワンピースを身にまとった女は、二十代半ばであるはずだが、それよりも幼く見える。昔の記憶がそう見せているのかもしれない。
「邪魔したなら、出直すが」
「問題ないよ。いらっしゃい、理子ちゃん」
「うん」
 天内理子。かつて星漿体として生き、今はその名を捨てて過ごしている人物だ。
「さてと。ほら、君は帰りな」
「嫌だ」
 夏油が容赦なく立ち上がるものだから、膝から頭が落ちてしまう。その様子を半目で見られていたが、気にせず縁側に居座った。
「理子ちゃん、体調は?」
「問題ない。今日も黒井の作ったフレンチトーストを三枚食べたしの」
「健啖家だね」
「黒井の料理が美味しいのが悪い」
 テンポよく交わされる会話は、これまで二人の交流が続いてきたことをもの語っている。縁側に寝転がり、口を尖らせながら肘をついてやり取りを眺めた。
 庭には、すでにいくらかの準備がしてあった。夏油が描いたであろう方陣は、術師の真面目さを現わしているかのように正確だ。方陣の中心には御座が敷いてあり、天内はそこに座った。相対するように、夏油が方陣の外で天内の正面に胡坐をかく。庭を取り囲むように刺されている松明全てに、一斉に火が灯された。
 浪々と読み上げられていく呪文は、風に乗り、天内の周囲をまわる。背中を伸ばし、瞳を閉じる天内の体が少しずつ揺れてきた。術にかかっているのだ。一言も省略することなく紡がれる呪文の効果は高くなる。術式も同じだ。五条が普段使う無下限呪術も、詠唱を破棄しないことで本来の力よりも更に強力な一撃を放つことができる。
 ましてや、術師は特級を冠する人間だ。非術師はもちろん、並みの呪術師でも、この認識阻害の術を見破ることはできないだろう。
 呪文は続く。それを後押しするように、太鼓や笛の音が聞こえてきた。いつ芸を仕込んだのか知らないが、薄い衣をまとった女の異形たちが、静かに演奏を続けている。
 呪力の流れを可視化できる特殊な瞳である六眼で女たちを見るに、夏油の呪力が流れていたから、あれは正真正銘、彼が使役する式神なのだろう。元は庭に生えていた草木や虫らしい。呪霊操術で呪いを操るだけでなく、式神まで使ってみせるとは、随分と働き者のようだ。
 儀式も終盤に差し掛かり、音楽もそれに合わせて激しくなっていく。途切れることなく呪文を唱え続ける夏油の額には大粒の汗が滲んでいる。松明の炎に照らされる横顔をじっと見つめた。
 呪文と音楽とが同時に終わった瞬間、天内が御座の上に倒れ込む。方陣を跨いで近寄る夏油の手にはストローが刺さったペットボトルが握られていた。また、二人の交流を見せつけられたような気分だ。
「大丈夫かい」
「問題ない。いい加減、もう慣れたしの」
……そうかい」
 天内の手を引いて夏油が縁側に戻ってくる。六眼ならば、彼女に認識阻害の術が施されていることに気づくが、他の術師は気づかないだろう。それほど、洗練された術だった。
「黒井さんに連絡してくるから、少し待っててね。そうだ、茶菓子でも食べるかい。兎の形をした茶菓子があるんだ」
 天内の返事を聞かず、夏油は部屋の奥に引っ込んでしまった。
 儀式の間にすっかり暗くなった庭には蛍が飛んでいる。どこからともなく鈴虫が鳴く声も聞こえてきた。
「いつもあんなんなの」
「あんなん、とはなんじゃ。なにくれと世話を焼いて、茶菓子まで持ってくることか?」
 言葉にされると、余計につまらなかった。自分には茶菓子など出してくれなかったくせに、というガキのような感情が身のうちで暴れるのだ。
「なんじゃ。自分には茶菓子を出してもらえんかったのに、妾にはそうするから拗ねておるのか。変わらんな」
「はあ? そんなんじゃねーよ。そっちこそ、ちんちくりんのまま変わんねーじゃねえか」
「ガキじゃの」
 安い挑発に乗るつもりはないらしい。女というものは、かくも早く大人になってしまうものなのか。いや、最後に会った日から相当の年数が経っているのだ。当たり前といえば、そうだった。
「ここに通うようになって、お主の姿を見かけたことは一度もなかったが、何をしておったんじゃ。よもや、夏油に会わなかったとは思えんが」
「その、よもやだよ。今日初めてきた。って、なんだよその顔」
……いや、何も言うまい」
「おまたせ。悟、まだ居たんだ」
「ずっと居るわ。舐めんな」
「舐めてないよ。はい、理子ちゃん」
「うむ。ありがとう」
「はい、悟も」
「なんだよ、俺の分もあるんじゃん」
 睨むように見つめていた庭から、夏油の方へと振り返る。差し出されたのは、兎を模した茶菓子ではなく、芋を薄く切ってあげた、庶民的菓子だった。
「なんか、天内のと違うんだけど」
「そうだね。でも君、それ嫌いじゃないだろう」
「うん」
「じゃあいいね」
 天内には湯呑、五条にはペットボトル。渡されたそれを大人しく受け取り、夏油が座る座卓に近づいた。いわゆる、パーティー開けという方法で菓子の袋を広げる。夏油の手が届きやすいところに置いてやると、ちらりと横目で見た後に一枚ずつ食べ始めたので満足した。
「最近は、涼しい地域にいるんだってね」
「黒井が言っておったのか」
「ああ。具体的な場所は聞いていないけれど。そうか。理子ちゃんにとって過ごしやすい場所ならなによりだ」
「涼しいし、住む人も優しいぞ。暫くの間は留まるつもりじゃ。あっ、黒井!」
「お待たせしました、理子様。帰りましょう」
「うん! じゃあな、二人とも!」
 少女の頃のような明るい表情で手を振る天内を見送る。この屋敷を出れば、彼女の名前は天内理子ではなくなる。その名で呼んだとしても、相手にはそのように聞き取れない仕様になっているのだ。仮初の名前をつけて、五条たちが知らない土地で生きていく。その行く末に安寧があればいいと、柄にもなく思った。
「さて、本当にもう帰りなよ。ここに居たって仕方がないだろう」
 湯呑と茶菓子が乗った盆を携え、夏油が立ちあがる。何も言わずに横に並び、諦めた夏油が炊事場まで歩いていくのに着いて行った。
「まだ何かあるのかい」
「あるね」
「なんだい」
「紋付き袴ってなに」
……? ああ」
 非常勤講師も務める呪術高専に通う生徒が言っていたことだ。彼らが担った任務やその計画、顛末の一部始終を後輩から聞いている。だから、夏油が花嫁候補と偽って顔合わせの場にいたことも知っているのだ。
「つーか、これまでは灰原や七海の名前使って活動してたのに、急に表に出てくるなんて、どんな心境の変化? これからもそうすんの」
「さあ。どうだろうね。灰原達の名前を借りて活動するのは続けるよ。私は呪術界を追放された身だからね。高専の任務を受けるには、彼らの名前を借りる必要がある」
「じゃあ、五条を名乗れば」
 洗い物をしている夏油の背後に立ち、想像する。五条の名のもとに、任務をこなす夏油の姿を。それは案外、悪くない案のように思われた。
「嫌だよ。これ以上、迷惑をかけたくない」
「誰が迷惑を被るんだよ」
「悟」
 蛇口の水を止めた夏油が名前を呼んだのは、会話への応答ではない。何か、咎めたいことがあって呼んだのだと、五条には分かる。
「本当に、私と関わるのはこれきりにしな。あの日、話しただろう。星漿体を逃がし、あまつさえ隠ぺいに関わっているのが五条だとしたら、パワーバランスを崩すことになりかねないと。その点、私は一般家庭の生まれだし、政治争いには縁遠い。適材適所だ」
「それに納得した覚えもないけどな」
「悟」
「やめろやめろ。そうやって呼べば、俺が話を聞くと思ってんだろ。合ってるけど、やめろ。つーかさ、一回会えば、あと何回会おうが同じだろ。ここに来るのを拒まなかった時点で、オマエも一緒ってこと」
……そこまで言うなら、私だって言わせてもらうけれど、今まで一度も近づかなかったくせに、よく言うじゃないか。この屋敷にだけじゃない、私自身にもだ。だから、私は双方理解した上でこの関係に落ち着いたと思っている。間違っていないだろう」
 向かい合った夏油は静かにこちらを見ている。ぽた、と蛇口から落ちた水滴がシンクにあたって音をたてた。それが響くくらいには、沈黙が場を支配していた。
「納得なんか、できるかよ」
「なに?」
「納得なんかできるかよ、つったんだ」
 夏油が、呪術高専を離れていった日を思い出す。あの日、夏油は軽い調子で話を切り出してきた。悟、後でちょっとした話があるんだけれど、いいかい。そう言った。何度も思い出しすぎて一言一句覚えている。珍しいじゃん、とかなんとか返したはずだ。ちょうど、任務に出る直前だったから、帰ってきてから話を聞くと、そう言ったのだ。さくっと任務を終えて帰った五条を、なんでもない様子で夏油は出迎えた。そして、開口一番、こう言ったのだ。
「高専を離れてフリーの呪術師になろうと思ってね。明日出ていくから、悟には言っておきたかったんだ」
 果たして、夏油はこの時、五条に与えた衝撃を正確に把握できていたのだろうか。きっと無理だろう。五条にだって無理だ。無下限呪術の展開なしで頭をぶん殴られたような気分だった。それでも、あまりにも軽く語るから、まあ、そういう生き方もあるのだろうと、その場では無理やり飲み下した。
 フリーの呪術師になったからといって、何なのだ。これまでと大きく変わることなどないと、本気でそう思っていたのだ。
 しかし、夏油はいつの間にか、九十九から認識阻害の術を学び、一人でどうにかする算段をつけてしまった。これに驚いて、会いに行った五条に、夏油は適材適所を説いたのだ。
「オマエが言いたいことも、分かるよ。そうしないと面倒なことになるってのも理解できる。実際、呪術界でやってくのは結構面倒だ。しがらみが多いんでね」
 言いながら距離を詰めれば、夏油の腰がシンクの縁にあたったようだった。これ以上は何処にも行くことはできない。
「でもさ、オマエの友人は、産声あげたときから生き馬の目を抜くような奴が多い世界で生きてんの。培ってきた地盤は、星漿体の隠蔽くらいで揺らぐようなモンじゃないわけ」
 体の横に下ろされた両腕をそれぞれ掴む。そのまま手首まで手を下ろし、そうして肩口に額をつけた。
「って、十年前に言えたらよかったんだけどな」
 夏油の息をのむ声が聞こえる。先に何か言われると、もう何も言えなくなってしまいそうな予感がしたから、矢継ぎ早に口を開いた。
「オマエが考えてたことは、正しいよ。俺が今の立場を安定させる前に星漿体のことが露見したら、確実に御三家の力関係は変わってた。五条家は俺のワンマンみたいなもんだから、俺に何かあった時はそれがそのまま、家に直結する。傑が高専出て行って、フリーでやるって言った時、じゃあ俺は俺でやることやろうって思ったんだ。何をしたらいいかは具体的に思い浮かばなかったけどな」
 懐かしい温度と匂いが、五条の口を滑らかにする。言いたいことが山ほどあった。
「それから、暫くは大人しく呪術師を続けてたよ。家のこともあったし、当主のお勤めってやつも必要だったから。そうこうしてたら、オマエに適材適所を説かれて、反論できなかった。そんなもん関係ないって、言えたらよかった。たぶん、オマエが高専に居た頃の俺なら、迷わずそう言ってた。でも、オマエが出て行って、一人で考える時間が増えて、何をするべきなのかなんて考えるようになったんだ」
 そしたら、言えなくなった。
「地盤固めが済んだら、傑に会いに行くつもりだった。随分長くやってきて、そろそろいいかなって思った頃に今回の一件だろ。禪院家に舐められてるのが分かって、ちょっと強めに牽制かけちゃった。そんなことしてたら、オマエは高専の生徒を屋敷に招いたとか言うし。花嫁候補がどうとか、紋付き袴とか、我慢できなくなって来ちゃった」
 自嘲して話しているうちに、手の力が緩んだのだろう。夏油が軽い動作で五条の手を払うのを感じた。慌ててもう一度掴もうとしたが、遅く、代わりに背中に両腕がまわされた。
「え」
「こうしても嫌じゃない?」
「いやじゃない」
「顔を見て話すのは少し恥ずかしいから、このままでいい?」
 この姿勢は恥ずかしくないのかよ、と思ったが、せっかく夏油から近づいてきたのに、拒む理由もなかった。同じように夏油の背中に手をまわして頷く。
「ありがとう。私の話も聞いてくれるかい」
 夏油は五条を抱きしめながら話し始めた。
 天内への後悔。自分の力不足への恥。呪術界との考え方のギャップ。九十九と話して形作られた、呪いの生まれない世界への憧れ。
「なにそれ、初めて聞いた」
「初めて言ったからね」
「なんで言わなかったんだよ」
「全てを話す必要はない、って当時の私なら答えたかもしれないけれど。フフッ。最近ね、とても眩しい子どもたちに会ったんだ。彼らがなかなか良いことを言う。それを聞いて、私も素直に話してみようと思えたんだ」
「あの子たちに感謝しなきゃな」
「そうだね。私は、呪いの生まれない世界を作りたいと考えるようになった。つまり、どういうことか分かるかい。非術師も呪術師も呪いに苛まれない世界だ。そして、私たち呪術師が必要なくなる世界さ」
 その思想のせいで呪術高専、ひいては呪術界から追放されることになってんだけれどね、と夏油は笑う。
「私は九十九さんほど器用じゃなかったみたいだ。まあ、その理想を君に語らなかったのは、うーん。ほら、悟って術式を使って強くなることが好きだろう。強くなる、というかそれを極めて高みを目指すことに喜びを感じる。違う?」
「あんまり違わない」
「よかった。そんな君にさ、これから呪いがなくなる世界を作ろうと思うんだって言い出せなかったんだよね。君の好きなことがある世界をなくそうとしているわけだし。だから、何にも説明しなかった。たぶん、君に嫌われたくなかったんだ」
 きっと、本音なのだろう。僅かに震える語尾からも感じ取ることができる。しかし、五条には言ってやらなければならないことがあった。
「俺が、術式つかってあれこれするのが好きなのは、まあそうだよ」
「うん」
「でもさ、大事なところが抜けてるんだよね」
 ぐっと上体を離して、夏油の顔を見つめる。
「僕が望む世界は、色々あるけど、大前提としてオマエが隣にいなくちゃ始まらないんだよ」
……ねえ、悟。包帯を外してもいい? 久しぶりに、君の目が見たいな」
「いいよ」
 そっと包帯の下に指が差し込まれる。ゆっくりと瞼を開くと、目の前に夏油の顔が現れた。呪術高専に通っていた頃とは違って、完全に大人の顔つきをしている。色んなことがこの男の身に起こり、また、自分の身にも起きた。それを一緒に体験できなかったことを、心底惜しいと思う。
 久しぶりに見た瞳が電球を反射している。こんなに安っぽい灯りなのに、ちらちらと金にも紫にも輝く黒い瞳の美しさには陰りがないらしい。
「君の瞳は、どこに居ても綺麗だね」
「同じこと考えてた」
「ええ?」
 くすくす笑う夏油を今度こそ強く抱きしめた。同じくらいの強さで抱きしめ返されることがこんなにも幸せだとは知らなかった。
「なあ、もういいよな」
「なにが?」
「俺がこの家に来るの」
「え? 駄目だよ」
「え⁉」
 驚きのあまり、せっかく抱きしめていた体から顔を離してしまった。今、この友人は何と言ったのだろう。
「駄目に決まっているだろう。ここを隠しているのは理子ちゃんのためだし、君みたいに呪力が強い奴が頻繁に出入りすると結界が緩むんだ。だから駄目」
「はあー? じゃあ、僕が結界を上書きするから。毎回」
「それこそ本末転倒だろ。五条悟ここにあり、みたいな結界をかけてどうするんだ。理子ちゃんとの関係が丸わかりだ」
「天内がどうとかより、傑との関係をどうにかしたいんですけど⁉」
 渾身の思いで叫んだ言葉は、思いの外、大きく響いた。
 言ってしまった、と、言ってやったの思いが混ぜこぜになる。ぱちりと瞬く夏油から、何を言われるかと想像して全身が緊張した。
 五条にとって、夏油は特別な存在だった。
 生まれた時から、他とは違うと散々言い聞かせられてきた。実際、五条の持つ力は他人のそれよりもはるかに強力だったし、明け透けに懸賞金がかけられるほどには脅威だったのだろう。自分と他人とを線引きし続け、嫌気がさして入学した呪術高専で、夏油に出会った。
 初めて同じ目線で語り合うことができる相手を得た。初めて力の加減なしに競い合える相手を得た。上手く言葉にできないことも、根気よく付き合って理解してくれる相手を得たのだ。
 世間一般でいうところの友人とは、こういうものなのだろうと、知識はあっても実体験したことがなかった五条は、青い春におぼれた。できることが増える度、夏油と共有して、高めあう。そうしてずっと隣にいると思っていた存在が、ふいに別の道を歩き始めた時。ようやく五条は、自分にとっての夏油の大きさを認識したのだった。
 地盤固めができないうちに会えないと思っていたのも本当だ。けれど、顔を合わせづらい理由の一つに、会ってしまえばどうなるか分からなかったことが含まれていないといえば、嘘だ。
「なんだ。そんなことか」
「そんなことって……
 呆然とする五条に、手を離せと言った夏油はすたすたと和室へ移動していった。途中で振り返って手招きするので大人しく着いて行く。行きついた先は、空っぽの和室だった。妙に大きな年季物の箪笥が目立つ。
「えっと、あったあった。はい、悟」
「なに、って鍵?」
「そう。私の家の鍵」
 驚いて鍵と夏油の顔とを見比べる。何故か夏油は、呆れたような表情をしていた。
「私がここに住んでいるわけがないじゃないか。ここへは理子ちゃんが来る時期しか居ないよ。何にもないし。寝泊りする家は別にあるんだ」
「えっ、そんな、簡単に」
「簡単じゃないさ。君だから渡すんだよ。私も色々とやっているから、いつも家に居るわけじゃないけど。居る時はもてなすよ」
 連絡先も交換しておこうか、と端末を取り出す夏油の前に、ふらふらと自分の端末も差し出す。呆気なく手に入れた鍵と連絡先。その二つを胸に抱いた五条の歴史が十年分ほど一気に進んだ気がする。
 ぼんやりとした五条の肩を軽く叩いて部屋から出ていく夏油に、慌てて追いついた。



 あれ。東京都立呪術高等専門学校の古びた校舎。座学を受ける虎杖は、窓の外に浮かれた人影を見た。
 五条悟。呪術界御三家である五条家の現当主で、現代最強の無下限呪術使い。この学校の卒業生で、時々、非常勤の講師も務める多忙な人物。そんな五条が、明らかに機嫌が良さそうな雰囲気で歩いていた。
 虎杖が知る五条は、余裕綽々な感じで、あまり感情を表に出さない印象だ。笑っている場面を見たこともあるが、目の周りが包帯で覆われているので実際のところは分からない。ただ、ものすごく強いということは知っていて、それは担任である灰原も言っていたから本当なのだと思う。
 つまりは、そんな人物の珍しい姿を見てしまったのだ。
 知人が嬉しそうにしていると、虎杖もなんだか気分が良くなってくる。笑顔を浮かべながら窓の外を見ていた虎杖の頭が、こつんと軽く叩かれた。
「虎杖君」
「あっ、やべ。ごめん、ナナミン」
「その呼び方は……はあ、まあいいでしょう。なにかそんなに気になるものがありましたか」
 言外に、授業がそんなにつまらなかったのか、と聞かれている気分だ。あながち間違っていないと思う。今日は、本来ならば灰原が担当する座学の時間だったのだが、急な任務が入ってしまった。仕方がない。まだ繁忙期は続いているのだ。
 そこで、ピンチヒッターとして来てくれたのが、一級術師の七海だった。このようなことはそこそこの頻度であるため、虎杖もこの先輩術師と打ち解けたような気持ちでいる。
 それはそれとして、失礼な態度だったことに違いはないため、謝るために顔を上げた虎杖の視線の先に、あまり見たことがない表情をする七海を見た。
 普段は大人っぽく、紳士的な七海が、どこか子どものような表情で窓の外を見ている。全く、あの人たちは、という呟きは無意識のものだったのだろうか。
 暫く窓の外を見つめていた七海だったが、一つ咳払いをして教卓に戻るまでには、いつもの表情に戻っていた。
「では、虎杖君」
「はいッ」
「教本の三十七ページから音読をお願いします」
「はいッ。であるからして、呪術というものは」
 教本を読み始めた虎杖の耳に、微かな声が聞こえてくる。それは、他人よりもちょっとばかし身体機能に優れた虎杖にしか聞こえなかった声なのかもしれない。声の主は五条だ。なんでもないような会話を端末の向こうの相手としているらしい。今夜家に行くからね、食事は何か適当に買っていくから。そんな内容が聞こえてくる。内容云々よりも、それを話す五条の声色があまりにも優しくて、聞いてはいけないものを聞いた気分になった虎杖は、声を張り上げて音読を続けた。
「ちょっと! 元気があり余ってんのはいいけど、もうちょっと声のボリューム落としなさいよ」
「え。そ、そんなデカかった?」
「いつもの三倍はデカかったぞ。どうした」
「いやっ、どうもしてないっていうか、どうもしないために声出してたっていうか」
「はあ? なにそれ」
 ちらりと横目で窓の外を見ると、既に五条の姿は見えなくなっていた。ほっとして、声量を落として続きを読む。
 蝉の鳴き声が響く青空の下。呪術高専の学生が学びを深める夏。いつか見れたらいいなと思った景色が、すぐそばに迫っていることを、この時の虎杖はまだ知らなかった

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