・はじまりはじまり
・化粧研ぎと山姥切国広
・加州清光と自称監査官
・摘発と長義(アイロニーを歌え、祈りを忘れた者たちへ)
・手紙と裏切り
・怒りの黒龍
・金打の赤椿vs黒鶴、勃発。
・菊咲かせの死神
番外編→ https://privatter.net/p/11733866
足利市立美術館の館長さんに教えて頂いた話を参考にしてます
https://furerera.hatenablog.com/entry/2025/03/25/231808
@fu_re_re_ra
「はァ? 極の姿から初の姿に戻る呪いィ?」
いかにも胡散臭そうに片眉を跳ね上げて、加州清光はそう相槌を打った。
その日、監査役である山姥切長義からもたらされた奇妙な話題に、訝しげに加州は眉根を寄せた。
「んなことあり得んの? 初から極になるならともかく、逆が起きるなんて聞いたことねーぞ」
「そういった不可解な噂が、少なくとも二ヶ月ほど前からまことしやかに囁かれているのは事実だ」
にわかには信じがたい話だった。
極の姿は、修行を終えて主と強く絆を結び直し、自身を形成する物語そのものを強く強く補強して初めて得ることができるもの。
初に戻るというのは、いわば主人に合わせて一度短く磨り上げた刀身が、勝手に元の長さに伸びるみたいなもの。
磨り上げたはずの短刀が突然大太刀に戻るような非合理的な話だ。常識では考えられない。
馬鹿げている。これが他の連中の発言であれば、鼻で笑い飛ばしてもいい所だ。
だが、その話題を口にしたのが、他ならぬ山姥切長義である、という点が、清光の背筋を妙にざらりと逆撫でした。
「あくまで事実のみを言葉にするが」
と前置きして、長義は淡々とこう口にした。
「ある本丸で、折られた加州清光が発見された」
たちまち清光は眉を顰めた。
「どういうこと?」
「政府の職員が到着した時には既に、審神者が自殺していて詳細は分からない。だが、初期刀を折ったのが審神者自身であること、砕けた初期刀のその破片を、自らの喉に突き刺して自害していたことまでは分かっている」
その本丸に加州清光は初期刀の一振りだけ。
しかし、他の刀剣男士の目撃情報によると、直前に審神者の執務室の近くで目撃された加州清光は、なぜか初の姿をしていたと。
「それで極から初に戻る呪いだって?」
いかにも眉唾だろうとばかりに加州は顔を歪めた。
「それならまだ、加州清光の姿を騙った偽者が本丸に入り込んだ、って方がまだ信憑性あると思うけど?」
「残された破片には、何らかの術を受けた形跡だけが残っていたらしい」
長義は意図的に声のトーンを抑え、極めて事務的にそう告げた。
「もちろん現時点では何とも言えないが、正体不明の術式を初期刀が食らって、最終的に審神者死亡に繋がっている、という点だけは確かだ」
「…………嫌な話だな」
「悪趣味な噂話と一概に斬って捨てられる話でもない。泥沼化する戦いの中では、どんなことでも起こりうる」
故に備え、用心しろ、と戒めをもたらした青い眼が、戦場と違わぬ鋭さで警句を投げ掛ける。
「ここも初期刀に選ばれた加州清光が既に極めている。本丸の規模も含めて共通項が多い。警戒に越したことはないだろう」
「それだけ? 初期刀に俺が選ばれてて極めてるこんぐらいの規模の本丸なんて、それこそ星の数ほどあんだろーが」
言葉尻の軽さに比して明らかに低い声は、長義への牽制と圧だ。
加州の鋭い視線が、じろりと長義の言動の裏を探る。
「たったそれだけで、あんたがこんなよくわかんねー忠告するとは思えないんだけど?」
「……詳細は言えないが、その本丸もここと同じように特例措置を受けていた」
それを聞いた途端、加州はぐっと眉根を寄せた。
ここは特殊な制約をいくつも政府から課された本丸だった。長義が監査官として定期的に派遣されているのもそれが理由だ。
だとすれば話が変わってくる。単に極めた加州清光が初期刀の本丸の数とでは、端から母数がまるで異なるからだ。
「確かに今の時点では何とも言えない。だが、妙にきな臭い。噂の回り方が妙に早いのも気になる。嫌な予感がする」
長義がそう言い残し、監査を終えて去って、ふた月ほど経った頃だった。
この本丸の鶴丸国永が
極の姿から初の姿に変質したのは。
《極の姿が初に戻る呪いの話》
「本科が来れなくなったと聞いたが」
「うん、ほんとは今日、長義せんせーに教えてもらう日だったんだけど」
そう言って、主はことんと小首を傾げて、残念そうに笑った。
主は、特殊な事情から、本来在学すべき審神者学校も政府の研修も通っていない。
そうして何の知識もなく突然赴任することとなった彼女には、監視役として山姥切長義が定期監査の名目で政府から派遣されている。
霊力の暴走事故を起こさないため、教育係を兼ねた長義から指導を受けている主は、学びは苦にならない性質らしく、いつも楽しそうに本科の来訪を待っていた。
「ほんとはね、やっと霊力のコントロールが赤点脱出したから、今日から術とか教えてもらうことになってたんだ。楽しみにしてたんだけど、残念だなあ」
「そうか。まあ、政府所属の刀は何かと忙しいんだろう。主と生きるオレたち以上に、人の子の忙しない時間に合わせて生きている」
「長義せんせー、たいへんだね」
ほんわりと笑った主の微笑みには、多忙な中で指導役を務める山姥切長義への、心優しい思いやりがある。
政府の監視役という裏事情に比して、国広の主と本科はひときわ穏やかな関係性を築いているように見える。国広の目にはそれが、ひどくまぶしく映った。
本来ならばもっと、冷たく事務的な交流に留まる方が普通だ。
にも関わらず、周りが強要する立場や所属を超えて、自分が所持する以外の刀剣男士とも柔らかな関係を築ける。そんな主のしなやかさは、国広にとってはまぶしく誇らしい。
「にしても、そうか。本科が来ないとなると、オレも予定が浮いてしまったな」
国広は、顎に指を当てて考え込んだ。
本科には、表向きの監査を終えた後の浮いた時間で、個人的に手合せの指南を受けている。
この本丸は他本丸との演練を禁じられているため、表向きはそれを補う処置としてだ。実態は、ほぼ全面的に本科の厚意に甘えている形になる。
時の政府の黎明期から顕現しているという本科が戦い抜いてきた歳月は、自分とは比べ物にならない。
今はまだ一太刀入れるのもやっとだ。
手入れ部屋から動けなくなるほど滅多打ちにされて終わることがほとんどだが、その度に得るものは大きかった。強く、強く、もっと強く。そのためには僅かな時間も惜しい。
本科が来訪できなくなったのは、国広にとっても残念なことだった。
「そうだな、代わりに何かしたいことは無いか? オレで良ければ付き合う」
気分転換になればと、甘味処や万屋への外出などを想定した申し出だったが、彼女はぱぁっと表情を明るくして、迷わずこう口にした。
「わ、いいの? じゃあね、お勉強したいな」
「勉強?」
「うん。霊力のことととかは、長義せんせーが教えてくれるから」
だから、いつも助けられているその分、彼の物語を知る努力をしたいと、国広の主は笑った。
柔らかに瞳を細めた彼女は、愛おしそうに国広を見遣った。
「まんばちゃんを知ることは長義せんせーを知ることで、長義せんせーを知ることはまんばちゃんを知ることでしょう? まんばちゃんの物語が聞きたいよ」
国広は翡翠輝石の双眸を緩めて、了解の証に主の隣に腰を下ろした。
極める前の自分であれば、今の言葉をまっすぐ受け止めるのは難しかっただろう。
だが、今なら分かる。彼女は、ただ、ただ、笑って手を伸ばしてくれているのだと。
自分と本科の両方に向かって、掛け値なく。
国広の刀身には、本科を見つめた刀工の感動が流れていると、彼女は信じているから。
彼女は目の前の国広と、国広の物語の中に流れる本科の姿を愛している。
「さて、そうだな。何を物語ろうか」
足利に来訪した際、そのゆかりについては広く語った。
あの時に話していないこと、となると。
記憶をさらって、主と交わした会話を辿って、ふと気付いた。
「ああ、そうか、この話をしていなかったか」
国広はすらりと自らの刀を抜いた。
右隣にぴたりと並んだ彼女の前に、抜いた白銀を掲げて太陽にかざした。
「足利を離れた後、オレは長らく個人蔵だった、という話を前にしたな」
「うん。どのお家で過ごした時間も、まんばちゃんの大切な記憶なんだよね」
「ああ。何ひとつ忘れたことはない。だが、個人蔵だった時代のことは、オレの口からはあまり物語ることができない、という話も以前したな」
鋼の銀がきらり、と光を弾く。
国広の隣にぴたりと身体を寄せ、共に天を見上げるように、国広の輝く見事な刃文に目を凝らして主が笑った。
「うん、ちゃんと覚えてるよ。博物館とかにきちんと歴史で残っている逸話と違って、迂闊に広めちゃうとそのお家に迷惑が掛かるし、歴史修正主義者にそこが狙われる可能性も高まるからって。詮索しないって約束、ちゃんと忘れてないよ」
「ああ。だが、ひとつ、個人蔵だった時代のことで、オレの口から物語ることができる話題があったのを思い出した」
「!」
途端に主は、ぱぁっと表情を明るくして、そわそわと体を揺すると、ワクワクと国広の話の続きを待った。
そんな無邪気な主へと微笑み、国広はゆったりと物語り始めた。
「オレの刃を見てくれ。刃と地鉄の境界が、はっきりと白く色分けされているのが分かるだろう?」
「うん、白くてキラキラして綺麗だね」
「これは俗に化粧研ぎと言って、研磨の時に砥石で最後に仕上げる際に行われるものだ」
まるで刃に白粉を叩くように、砥石によって刃を白く研ぎ染める。
これは、前もって『金肌拭い』と呼ばれる工程で地鉄を鮮やかな黒に染めて磨き抜き、次いで黒くなった部分から刃だけを『刃取り』と呼ばれる工程を経て砥汁で白く磨き上げる、という二段階の研ぎ技法に基づいて行われる。
「刃文をより美しくくっきりと浮かび上がらせる目的で施されるものだが、この技法が確立されたのは江戸期以降、流行したのは幕末後の話だ。つまり、オレが打たれた天正十八年には、この技法は存在していない」
「え、そうなんだ…!?」
「ああ。だからこの化粧研ぎは、ずっと後でオレに施されたものだ」
明治期までに技法として完全に確立したこの『化粧研ぎ』は、幕末の流行期を経て、現代では主流の研ぎ方となっている。
故に、山姥切国広のように、まだ化粧研ぎが存在しない時代に打たれた刀にも、化粧が施されている場合が少なくないのだ。
「足利を離れ、歴史の表舞台からしばし姿を消したオレは、複数の刀剣愛好家の家を転々としていた。再び表舞台に顔を出したのは昭和に入ってから。その頃にはもう、化粧研ぎが施された状態だったことが間違いないと判断できるような記録が、歴史の表にも存在している。つまり、山姥切国広という刀は、個人蔵時代に化粧研ぎが施されたことが歴史上明らかなんだ」
それを聞いた彼女は目をキラキラさせて、ぱちんと手を叩いた。
「わっ、つまり、お家の人が、まんばちゃんのためにこうしてくれたってこと?」
「ああ。オレは多くの家を渡ったが、これは、その中のひとつに滞在していた頃に施されたものだ」
国広が明かした事実に、主は「わあ!」と、まるでひどく嬉しいものを見つけたようにはしゃいだ。
「実の所、化粧研ぎは迂闊に行うと刃文の良さを完全に潰してしまう。だが、オレに施された研磨は、刃文の良さを最大限活かした、力強く、良質な化粧研ぎとして後年でも高く評価されている」
「そうなんだ…!」
きらきらした小石でも前にした子供のように「すごいや!」と無邪気にはしゃぐ彼女に、国広はふわっと微笑んだ。
「ついでだ、研ぎの見分け方も教えておこうか」と言い添えると、大袈裟なぐらい首をぶんぶんと大きく縦に振るので、国広は微笑ましく目を細め、掲げた刃できらりと太陽を弾いた。
掲げる角度を変え、光にかざした刃は、白い化粧が光に淡く溶け、雨に濡れた水鏡のような美しい鋼だけを見事に映し出した。
「きれいだねえ」
「こうして、角度を変えた際に、白化粧が完全に光で飛んで見えなくなり、刃文だけが浮かび上がる。それが良い研ぎの条件の一つだ。少なくない額を注ぎ込んで、腕の良い研ぎ師にオレを出してくれた。その恩もまた、オレは忘れた日はない」
一方、化粧がきちんと飛ばない、刃文の良さを潰してしまう下手な研ぎは『化粧が濃い』と表現する。
だから国広は「オレの場合は薄化粧だな」と言い添えた。
「ある時、山姥切国広に化粧研ぎを施そうと考えた持ち主がいて、山姥切国広という刀、刀工国広の第一の傑作たる証の刃文に、この力強い化粧研ぎこそが似合うと考えた者が確かに居たのだと。────それが、個人蔵時代の制約の中でオレが語れる、最大限の物語だ」
「素敵だね。すごくすごく素敵だね! とっても!」
頬を薔薇色に高揚させて、彼女は座ったまま興奮したように跳ねた。
「嬉しい。とっても嬉しい! ありがとうまんばちゃん、素敵な物語を聞かせてくれて」
彼女は噛み締めるように「嬉しい」「とても嬉しい」「素敵」「ありがとう」を何度も何度も無限ループで繰り返した。
手放しで何度でも贈られる喜びと感謝に、くすぐられたように国広は笑みを浮かべ、ゆったりと思案するように緩慢に、金色のまつ毛をゆっくりと伏せた。
「少し、続きを語ろうか。思い出してみてくれ。足利で見た本科の刀身には、打たれた当時のまま、化粧研ぎは施されていなかっただろう」
「! そうだね、そういえば……えっと、刃と地鉄の境界は曖昧で、綺麗に溶け合って澄んだ印象だったなあ」
「化粧研ぎを行わない仕上げ、あれを『差し込み拭い』と言う。化粧研ぎが主流となる江戸時代より以前の刀は、皆ああして差し込み拭いを施されていた。オレも本科も例外では無かった」
たとえ初茎のまま現在まで保存されている自分であっても、実は、打たれた当時と姿は大きく異なるのだと、国広は静かに物語った。
「本科は長年、尾張徳川家の宝物の一つとして、極力当時の状態のまま保存されてきたから、後世で流行した化粧研ぎを施されるような機会は一度も無かったんだろう。現在に至るまで一貫して、差し込み拭いで仕上げられている」
興味深そうに目を丸くして聞いている主に、国広はゆっくり物語った。
「天正十八年、打たれた当時、まだ差し込み仕上げだった山姥切国広という刀は、かなり近くで見ても全体像が本科に瓜二つだった。長尾顕長────当時の持ち主の体格に合わせて、わずかに反りが深く重ねが薄いという違いはあったが、素人目にはすぐには分からないほどわずかな違いだ」
反りとは一般に、研ぎによって浅く変化することはあっても、逆に後から深くすることは不可能だ。
深くしたければ、新たに打つしかない。
「そのわずかな違いが、顕長にとって生死を分ける重心の違いになる。オレを打った刀工国広は、主人にとって最良の重心を計算し、本科よりもさらに顕長にとって振るいやすい形をオレに与えた。だから写しであっても、オレと本科の反りは合わない」
長尾家に伝わった宝刀、本作長義は、顕長に合わせた長さに磨り上げこそされていたが、生死を分ける大戦に向かう顕長にとっては、それでもなお足りないと名工国広は考えたのではないか、とも言われている。
長らく長尾顕長は戦で死亡しているものと言われてきたが、その後、顕長は戦を乗り越え、佩刀を手に生存していたことが後年の調査によって分かっている。
山姥切国広という刀は、本科たる本作長義に代わって、無事に主人を守り切った歴史を持つ、誉れ高き名刀だった。
「それでも、人の子で喩えれば、当時は双子のように姿まで瓜二つだった。誰が見ても見間違いようのないほどに。そして、さらに近付いて光にかざし、掲げて刃文をよく見れば、オレには本科とは大きく異なる、刀工国広らしい大胆な刃文が焼き付けられている。その迫力、力強さもまた、オレが国広第一の傑作と呼ばれた大きな要因の一つだ。────ところが、化粧研ぎを施すと、オレの全体像は大きく変貌した」
最後に声のトーンを落とした国広は、声音にひどく複雑な色合いを乗せた。
「この頃を境にオレは、人の子に『似ていない』という言葉を多く投げかけられるようになった」
国広の告白に、彼女は大きく息を呑むように、目を見開いた。
「人の子の第一声は、国広が焼き付けた美しい刃文ではなく、これは本当に本科の写しなのか、といった内容へと変化した。刀に深く通じた者が見ればオレが本科の写しであるのは見間違いようがないが、あまり刀に詳しくない者には、それが見分けにくくなってしまったんだ。無理もないことだが……」
一転して心配げに、一言たりとも聞き落とさないようにと、全霊で真剣な表情で耳を澄ませている主へ、国広は複雑な内心をゆっくり吐露するようにほろ苦い笑みを浮かべた。
「その時、オレが抱いた思いは複雑だった。困惑でもあり、憤りでもあり、混乱でもあった」
物思いに沈み込むように、金のまつ毛を伏せたまま、国広は古い記憶を辿った。
「刃文も見ずに一目で『似ていない』と判断されるのは、まるで刀工国広の写し技量を疑われているように感じたし、実践刀としての出来ではなく、表面的な姿ばかりを本科と比べられ続けるのは苦痛でもあった」
似ていない、と言われるたびに、そんなことはない、と言いたかった。
国広はそう、強い口惜しさを滲ませた、かすかに震えた重い声で、かつてを振り返った。
「だが同時にオレは、自分に施された化粧が、ひどく誇らしいものだとわかっていた。化粧研ぎは刃文に合わせて行うものだ。つまり、オレの研ぎは、本科の写しとしてのオレではなく、刀工国広の持ち味を最大限活かすために施されたものなんだ」
「本来、それはひどく喜ばしい贈り物のはずなのに、ただ本科と比べられてばかりで、化粧研ぎが生かした刃文に目がいかない。複雑だったさ。あれはオレのためだけに与えられた物語の一部なんだ」
「だから、似ていないと言われるたびに、そんなことはないと訴えたい気持ちと、似てなくて当然だろうと訴えたい気持ちがせめぎ合って────やがてオレは、本来は誇りだったはずの、本科と見比べられることそのものが苦痛になっていった」
心配げに大きく瞳を揺らしながら、身を寄せて国広の膝にそっと手を置いた主に、国広は安心させるようにふわりと微笑みかけた。
「だが、今は違う。似ている部分も、似ていない部分も、等しく誇らしいと思っている。お前がそう思わせてくれた」
白く細い主の柔らかな手に、国広は強く応えるように上から固い手のひらを重ねた。
「なあ主。あんたは、オレを呼ぶ時にこう願ったな。山姥切長義の写しよ来てくれ、と」
「うん」
「ここにいるオレは、改めて考えてみると、刀工国広渾身の写しを『似ていない』と言われたことへの反発の方が大きかったように思う。だからお前の祈りに惹かれたんだ。あの時、あんたとこの本丸は、切実に本科の手を必要としていたから」
政府に潜んだ裏切り者によって窮地に立たされていた主とこの本丸は、あの時、何としても監査官である山姥切長義の助力を乞う必要があった。
間諜に邪魔されない形で本科に渡りをつける。その役目を任されたのが、呼ばれたばかりの国広だった。
「山姥切国広は、初期刀に選ばれるか、あるいは本丸の黎明期に参じることの方がずっと多い。今の政府の制度では、審神者は本科より先にオレを知ることの方が圧倒的に多いんだ。だから、あんたのように、あんなにも堂々と、オレも本科もまだ目にしたことがないにも関わらず『山姥切長義の写しよ来てくれ』と願い求められるなんてことは滅多にない」
山姥切国広という刀のことをほとんど何も知らなかった主は、だからこそ、ひと足先に参じた堀川国広が語る兄弟の姿を、何の先入観も無くただまっすぐに信じてくれた。
「その上であんたは、オレを兄弟の自慢の刀だと、国広第一の傑作だと最初から掛け値なしに認めてくれたな」
眩しそうに眼を細めた国広が、柔らかな声で言葉を継ぐ。
「共に足利に行ったあの時、あんたは言ったな、オレという刀は、きっと本科を見た人の子の感動から生まれたと。感動を与えた存在が美しくないわけがない、感動から生まれた存在が美しくないはずがないと。だから本科とオレはそれぞれ違って美しいと分かったと」
「うん、そう信じてるよ」
「主、言葉にならないほど美しい物語をありがとう。今はもう、本科と比べられても思うところはない」
テノールの声に力強さを乗せて、主へ微笑んだ国広はまっすぐに前を見据えた。
まるで、高い頂きを睨むように。
「むしろ、オレは超えたいと思っている。刀工国広は、本科という比類なき名刀があったからこそ、顕長のために本科を超えるべくオレを打った」
国広はまだ遠い頂きを見据えながら、大切な主へ誓いを立てた。
「だからオレはそれに応えたい。お前のために、オレは本科を超えたいんだ」
「今はまだ、本科には遠く及ばない。オレより遥かに長い歳月を戦い抜いてきた刀だ。あいつにすれば、オレなどまだまだ赤子に等しいだろう。実際、まだあいつに一太刀入れることもままならない。……それでも、必ず超えてみせる。お前のために」
「数ある国広の刀の中で、オレが国広第一の傑作と呼ばれる出来なのは、偶然ではないとオレは思う。下手な出来では主人の顕長が死ぬ。国広はきっと、他のあらゆる刀を超えるほど強い想いを、オレに打ち付けた。オレを傑作たらしめたのは、国広の技量以上に想いなのだと、それがオレを目覚めさせたのだと思う」
「だからオレは、お前のためにそれ以上の想いで自分を叩き上げ続けるつもりだ。オレにとって本科は、いつか必ず超えるべき壁であり頂きで、────お前のために全てをぶつけるに足る、強く美しい目標だ」
ふ、と笑みを漏らして、国広は大きく肩をすくめた。
「なんて、本人にはとても言えやしないが」
肩をすくめた国広に、彼女はまるで、ひどく嬉しくて嬉しくてたまらないことに思いもよらず遭遇したみたいに、満面の笑顔で大輪の華のように笑った。
それがひどく面映い。
「あんたが知りたかったのはオレと、────オレの中の本科の姿だろう。どうだ、オレの物語りは、お前の求めていたもの足り得たか」
わっと頬を高揚させ、こくこくと大きく何度も頷いて、目をキラキラと輝かせる主に、国広は穏やかに微笑みを返した。
「ありがとうまんばちゃん! 嬉しい、本当に嬉しい! 聞かせてくれてありがとう!!」
「さて、そろそろ仕舞いにしよう。オレは鍛錬に戻る」
ぱちん、と鞘に刀身を仕舞い込み、国広は片膝を立てた。
「まだまだ本科を超えるどころか、あんたに仕える打刀の中でようやく加州清光に次いだ、という段階だからな。このままでは大言壮語も良いところだ」
「鶴るんが驚いてたよ。古参の亀甲や村正っちゃんをこんなに早く追い抜くなんてって」
「もっと驚かせてやるさ、いつか鶴丸を倒してな」
国広はぴく、と急に動きを止め、顔を上げた。
刀剣男士は耳が良い。横で主が「まんばちゃん?」と不思議そうに小首を傾げながら、国広が見遣った視線の先に共に視線をやった。
そこに遅れて、人の耳にも分かる大きさの足音が急いで近付いて来る。
駆け込んできた短刀は、前田藤四郎だった。
聞けば、総務番長の長谷部から伝令役を任されて駆けてきたらしい。
「前田ちゃん、どうしたの?」
「主君、実は……」
息を弾ませた前田が言うにはこうだった。
「なに? 本科の代理?」
前田藤四郎からもたらされた報せに、山姥切は怪訝な顔をした。
予期せぬ来訪者に、前田は弱り切ったような顔をした。
「山姥切さん、何か聞いてますか」
「いや、オレも何も聞いていない。……妙だな。あいつは自信家で完璧主義な面があるから、そう簡単に己の役目を譲ったりしない性格だと思うが」
腑に落ちないままそう答えた国広の内心に、ざらりと不信感が広がる。
「あいつに電報は?」
「それが、鶴丸さんがもう打ってくれているんですが、一向に繋がらなくて」
前田は悩むようにこう口にした。
「何か火急の任務の途中なのかもしれません。予定が狂って、それで急遽代理を寄越したのかも」
「あり得る話ではあるが……」
国広は考え込んだ。言葉にできない違和感と不快感が粘りつく。
「確証が取れるまで開門しない方がいいんじゃないか」
「それが、監査を拒むのは何か後ろ暗いことがある証だと門前でごねているんです」
「……やはり妙だ。引き継ぎの仕方が本科らしくない」
顔を顰めた国広は、素早く主を腕で下がらせた。
「主、表に出るな。オレが見てくる」
「いえ、鶴丸さんが、山姥切さんは他の刀と共に主君の側を離れないようにと────」
どくん、と胸の奥で、不吉に心臓が跳ねた。
「…………ぁ……?」
「主?」
「主君、どうされました? 主君?」
彼女は急に着物の前を両手で押さえた。まるで海の中で空気を求めるみたいに、カヒュ、と鋭く息を吸って、喉を鳴らし、急に胸を押さえて倒れた。
ぐらん、と世界が回るみたいに、体が横に傾ぐ。
縁側の端から地面へ転げ落ちる寸前で、国広は血相を変えて腕を伸ばし、慌てて主人の身体を抱き留めた。
「主!? どうした!?」
「主君!?」
国広は、力無く主が掻きむしった胸元に目を凝らした。
そこには、黒い蟲が無数にさざめくような────……
ざわ、と国広は顔色を変えた。
「これは……呪か!?」
「だーかーら、確認が取れるまで待ってろって言ってんだろ! 何回目だよこの会話」
加州清光は門前でごねている人物に対して、延々と進まない会話に焦れ、あからさまに嘆息した。
「俺たちは逃げも隠れもしねーっつってんだろ! 百歩譲って、あんたが本当に山姥切長義の代理だとして、事前に引き継ぎの情報が来てねえのはそっちのミスだろうが!」
政府の通行証らしきものを持って突然やって来た『監査官代理』とやらは、面布をしたままで顔も見えない。
術式を扱う中央政府の者にはこういった者が多いのは知っていたが、不信感は余計に募った。
顔を覆って垂らされたままの、白く無機質な面布。
顔を覚えられないように、目を合わせた刀剣男士から術を食らわないように、という処置だ。
実際、刀の中には、一時的に他者の認識を弄る術や、相手の姿を真似する能力を持っている者まで様々なものがいるため、正しい処置と言える。
本来、審神者は顔布を使い、さらに御簾越しに刀剣男士と対面する者も少なくない。
どちらかといえば、最低限の身を守る術も張れないのに一貫して無防備なうちの主人の方が圧倒的に少数派なのだ。それを、この本丸では、主から与えられた信頼の証として咎めない。
だからこそ、自分たちがあらゆる災禍の防波堤に成らなければ。
「身元の確認も済んでねー奴にほいほい門を開けるほど平和ボケしてねーんだっつっとけ!」
「監査を拒む以上、こうして時間を稼いでいる間に、裏で不都合な状況を隠蔽していたと記録させて頂きます」
「はあ? ふざけんなよ。政府の監査官ってのは捏造が好きなんだな。公文書偽造って罪にならないわけ?」
堂々巡りの苛立つ会話にも良い加減に焦れてきた。清光は盛大に舌打ちした。
「そいつは、正しい連絡すらまともにできない自称管理官様に、権力を笠に来た脅迫行為を受けた、って理解していいんだよな?」
「虚偽申請歴もある『可』評価がせいぜいの不良本丸と欠陥審神者、形ばかりの無能な近侍の主張、どこまで通るでしょうね」
言うに事欠いて主まで執拗に侮辱する挑発に、清光はかっとした。
「いい加減に…!」
「なんだぁ? 妙に急くじゃないか。童じゃあるまいに、そんなに構って欲しいのかい?」
その時、頭上から、人を食ったような声が降ってきた。
加州も自称監査官も同時に顔を上げた。屋根の上から、飄々とした態度で口角を上げた鶴丸国永が、縁に腰を下ろし、余裕の笑みで悠然と見下ろしていた。
「鶴丸…!」
「監査官殿なあ。まあ気に食わんやつだが、仕事ぶりはそれなりに信用してるんだ」
ふわっと宙に身を投げる。
スタッと上から軽やかに降りてきた鶴丸は、片足で軽やかに立ちつつ、白塗りの鞘を両肩に渡したまま、笑顔で凄んだ。
まるで遊んでいるかのような立ち振る舞いだが、それが一瞬で抜刀できる体勢だと向こうは気付いたらしい。
気圧されたようにじり、と一歩後ろに下がった招かれざる客に、鶴丸は悠然と
「なんだ、オレとは遊んでくれないのかい? つれないじゃないか」
とあくまで友好的に美しい微笑みをたたえながら、じっとりと重い視線で上から下まで舐るように冷たく眺め回した。
「お引き取り願おうか」
周囲の空気が五度は下がった。
声が含んだ極寒の圧に、男は後ろに下がった。
引き下がってみせたそいつに、加州はようやく堂々巡りから解放されて、無意識にほっと息を吐き出した。
次の瞬間、加州清光は崩れ落ちる。
両膝から地に崩れた清光は、腕で這いつくばりながら、何が起きたのか分からず「あ…?」とわずかな声を上げることしかできなかった。
見上げた男は、崩れ落ちた加州をじいっと見下ろしながら、面布の下で──嗤って、いた。
「…!!」
ぞわ、と加州の戦闘本能が警告した。
痺れた体で抜刀するより早く、顔色を変えた鶴丸が斬撃を放つ方が早かった。
真っ二つに斬り裂かれた面布の下から、嘲り笑いと共にべろ、と異様に長い舌が出てくる。
そこには、禍々しい呪印が刻まれていた。
「禍つ祠、呪詛か!?」
時間差で効いてくるタイプの術式を、会話の間ずっと仕込まれていたらしい。
どこからか、カサカサカサ、カリカリカリ、という不快な音が聞こえる。今まで聞こえなかったのがおかしいぐらい、耳の近くで。
動けない加州が視線だけを自らにやると、肌を墨文字が蟲のようにぞわぞわ張っていた。
鶴丸国永は二の太刀ですかさず敵を一刀両断したが、残ったのは人の形に切り取られた紙切れ一つだった。
「ちっ、式…!」
地面に落ちた人型を模した手のひら大の紙が、ひとりでに燃えて消える。
「本体は別か、やられた…!」
「あがっ…!」
「加州ッ!!」
「だめ、だ、触るな、鶴丸ッ…!」
喉を掻きむしりながら、地面を転げ回るように苦痛に暴れた加州清光に、鶴丸は駆け寄って鋭く目を凝らした。
顔布の向こう、舌に術式を仕込んでいたあの男。
睨むように呪詛の根の広がりを辿った鶴丸は青ざめた。
呪いを受けた初期刀。
黒い霧のように周辺に広がるその禍々しい騒めきは、加州から流れ出て、結界の内部まで細く入り込んでいる。
行く先は。
「狙いは主か…!?」
初期刀の縁は特別だ。
そこに深く繋がっている主も、縁の糸を辿って影響を受ける。
それにいち早く気付いた鶴丸はさあっと蒼白になった。
このままだとあの子が
目まぐるしく思考を巡らせた鶴丸は、音が出るほど奥歯を噛み締めて、素早く前に出た。
鶴丸は、白塗りの鞘から刃をわずかに縦に抜き
呪詛の紐を断つように
自身の鍔と鯉口で、ガッと挟み込んだ。
「ぐあっ!!」
呪詛が刃に逆流する。
地を這った加州が、喉を掻きむしりながら苦悶の表情で辛うじて顔を上げ、叫んだ。
「ダメ…だ、鶴丸!!」
無理やり閉じ、呪いごと全て鞘の中に閉じ込める。
黒霧のように周囲に広がった呪詛は、たちまち全て、鶴丸の刃に吸い込まれて収束した。
主人との縁に無理やり手を入れる、その呪詛を。
「あ、ぐ…!」
納刀した自らの本体たる刀身を、荒い息を弾ませながら金の兵庫鎖で固く封じてしまうと
たちまち鶴丸が膝を折って喉を掻きむしった。
爪が、自らの肌に赤い線を何本も描いていく。
鶴丸の肌に、衣の下から、墨で書き付けたような術式の文字が、蟲の如く這い上った。
「ぐ、アア!!!」
「鶴丸ッ!!」
鶴丸の陶磁の頬を這った墨色の文字列が、ざわざわと金色の瞳の中へと侵食した瞬間
鶴丸は瞳孔を大きく見開いて、ぐるん、とその場で昏倒した。
「鶴さん、なんて無茶を…!」
「呪詛ごと納刀するなんて」
「ばかやろう…!」
広がるざわめき。
鶴丸を寝かせた結界周囲に、男士たちが集まっている。
石切丸の斎場で可能な限り清めさせたが、最低限、呪詛が他の刀に広がらないように封じることしかできなかった。
顔布の向こう、舌に仕込んでいた術式で、初期刀の加州清光は呪詛を受けた。
そこに深く繋がっている主も影響を受け、倒れた。
加州と主の間に走る呪詛を、鶴丸が捨て身で絶った。主は無事だ。
山姥切が倒れた主を抱え、咄嗟に着の身着のまま湯殿に走り、応急処置に水で身を清めさせ、途中で急いで合流した火車切がふわふわに残滓を喰わせた。
びしょ濡れの服のまま、唇が紫に青ざめた主を前田が着替えさせた頃には、主はなんとか意識を取り戻していたが、両脇から支えられなければ、まだ立つこともままならない。
あのままでは、主も加州清光も、手遅れとなるのも時間の問題だった。だが、代わりに鶴丸が。
加州は前髪をぐしゃりと握り潰した。
「俺のせいだ……俺があんなやつに遅れを取ったから……!」
「いや、この術式は明らかに初期刀が標的だった。政府の通行書を持って入り込まれた時点で、どちらにしても呪詛の発動を防ぐのは無理だっただろう」
苦渋の表情を歪める加州清光に
石切丸が努めて冷静にそう告げた。
初期刀と審神者の縁の結び方は特殊だ。それをまっすぐ辿って呪詛が逆流し、主人へ害を与える。
あの術の標的は、加州清光に見せかけて、最初から主を狙っていた、ということになる。
石切丸による結界の中に五重に閉じ込められた鶴丸は、脂汗を滲ませたまま昏倒している。
その肌には蟲のように呪が蠢き、白いかんばせをどす黒く染めていた。
蒼白の彼女は、石切丸に必死に縋り付いた。
「手入れは…!?」
「ダメだ、鶴丸さんは自分の刀身に吸ってまで呪詛を抑え込んだんだ。迂闊に刀身にきみが触れたら、鶴丸さんの行動が全て無駄になる。外部から解呪の術式を入れないと」
「どうしたらいいの!?」
「主、術は」
「だめ…まだ習ってない…! 基礎やらないで下手に術式を知ると暴走を起こすかもだから、霊力操作がもっとマシになるまで何も知らない方がいいって、………長義せんせーに言われて……」
「難しいか…」
悲愴な面持ちで顔を覆うと、彼女は両膝から崩れ落ちた。
「ごめんなさい、わたしがもっと頑張ってれば…!」
「あるじのせいじゃない、俺が…!」
「しっかりするんだ。悔いるのは後でもできるだろう!」
歌仙の叱責に、加州も主もはたと顔を上げた。
「きみたちが動揺してどうする! 敵もまだ行方知れず、目的も不明。だからこそ、今動かねばならない、そうだろう!」
歌仙の厳しさに目が覚めたように、はっと彼女は、奥歯を噛み締めて立ち上がった。
「長谷部、遠征部隊を全員呼び戻して。全部隊、全部門、臨戦体制に入ります」
「はっ」
敵の捜索に人員を割く指示を出して、その後、祈るように主は唇を噛んだ。
「どうしよう、どうしたら鶴るんを助けられる…!?」
騒めく呪詛は蟲のように鶴丸の中に収束していき
苦悶の表情をしていたはずの鶴丸の面差しが、すっと冷たくなった。
ぱち、と目を覚ました鶴丸に
大きく目を見開いた彼女がわっと泣き崩れる。
「鶴るん…!」と駆け寄ろうとした時
光忠と大倶利伽羅が、刀を抜いて主人を下がらせた。
「みっちゃん、伽羅ちゃん…?」
びり、と警戒が
沈黙する斎場に痛いほど張り詰める。
緩慢に目を覚ました鶴丸は、能面と言えるような、酷く冷たい横顔をしていた。
「…………鶴さん」
「お前、〝違う〟な」
光忠の声にも、大倶利伽羅の声にも、反応が無い。主の呼び掛けにも眉一つ動かさない。
ゆるり、と黄金の視線を揺らがせた鶴丸は
酷く冷たい目で、主人に視線をやった。
まるで知らない人間を見るように。
「鶴丸国永だ。オレみたいなのが来て驚いたか?」
ヒュ、と主が短く息を呑む音が、痛いほどの沈黙の中で大きく響いた。
空虚で冷え冷えとしたその名乗りを聞いて、その場にいる全員が事態を把握した。
鶴丸は、この本丸で過ごした日々を、丸ごと記憶から欠損していた。
《アイロニーを歌え、祈りを忘れた者たちへ》
警察機関と連携した大規模摘発の真っ只中、山姥切長義は不快そうに片目をすがめた。
「偽の記憶の流し込み、だと?」
研究デスクに残された資料をぱらり、と捲った長義は、抜刀したまま忌々しそうに舌打ちした。
「逸話の改竄、物語の書き換え、人格の塗り替え──…あの研究は、もう二十年も前に廃止に追い込んだはずだが。よくも続けてこれたものだ。しぶといな」
駆除しそびれたゴキブリでも見つけたような眼で、長義は穢らわしそうに眉を顰めた。
刀剣男士に偽りの逸話を付与し、強化を図る顕現実験。
たとえば『本来の持ち主の細川忠興から、妻のガラシャへ譲られた』という逸話を付与された歌仙兼定、といったように。
たとえば、『自ら山姥を斬ったため、本科の方まで山姥切と呼ばれるに至った』という市中の俗説を、自らの物語として強固に思い込んだ山姥切国広、といったふうに。
親和性のある物語の一部の枝葉を広げ、歪め、刀剣男士に無理やり流し込んで認識を弄り、逸話を強化する。
その実験は、数十年前から既に、政府の中で確立した技術として存在した。
だが、歪められた逸話の矛盾に耐えきれず、『失敗作』として破棄される刀剣男士が後を絶たず、最終的に研究は禁じられ、とうの昔に廃止されたはずだった。
「本体の逸話との整合性が著しく崩れると発狂または暴走────これを意図的に敵陣で起こし、敵に損害を与えつつ処分、ね。犬に爆弾を付けて特攻させるような野蛮な話だな」
チッ、と強く舌打ちした。
刀剣男士の尊厳を破壊するその行為。長義が仕えている新設サーバーの長はこれを、明確に戒め、研究の続行も禁じた。
表向きは完全に潰された研究だが、水面下でずいぶん長いこと続行されていたらしい。
「今度こそ、僕の代で必ず潰します。刀と人の未来のために、これだけは何としても中止させなければ」
そのためにこそ、この地位の椅子に座った意味があるのだと。
新設サーバーの新たな長という肩書きを負った彼は、厳しい表情で、己の友を見つめ返した。
「行ってくれるかい、長義」
「当然だろう。ここで俺が行かなくてどうするんだい?」
迷わず二つ返事で請け負った長義の力強い応えに、彼は笑み崩れるように「お願いします、長義」と琥珀色の双眸を緩めた。
「頼りにしています。……ひどく嫌な予感がします、気を付けて」
「ふん、誰に物を言ってるんだい?」
サーバー長は摘発に、懐刀たる長義を派遣した。
審神者に教えに行くはずだったその日、長義はその摘発に出ていた。
そのため、急遽本丸に行けなくなってしまった長義に代わって、そこに監査官の代理を偽証して本丸に入り込んだ者がいたのだ。
加州たちは長義に連絡するも摘発中で繋がらず、入り込んだ代理人に、鶴丸は術を掛けられることになったのだった。
今この時、水面下で起きていたそれらをまだ知る由も無い長義は、刃を血みどろにして今まさに摘発の渦中にいた。
「汚れ仕事は慣れているけれどね、さすがに後味が悪いな」
警察の手には負えないと政府に要請があったのも無理は無い。
証拠を固めて起訴するまで、人間の方は斬るわけにいかず、だからこそ、長義たちが斬ったのはどれも『被検体』ばかりだ。
存在の輪郭を歪められ、道筋を外れ、本霊に還ることもできず、暴走寸前でただ苦しむだけの刀たち。
長義が与えた死に、皆どこか安堵したような顔で折れていったのがまたやり切れない。
被験体となった刀達の砕けた残骸を踏み越えながら、長義たち政府の刀は事後処理に追われていた。
「刀剣兵器の安全策、無効化策及び『再使用』を目的として────偽りの物語を与えて主人との記憶を上書きし、極の姿の除去を行う、ね」
おびただしい血と犠牲の上に成り立つ紙の資料に平然と目を通しながら、長義は血振りすると、鼻を鳴らし、ばさっと紙束を放った。
「全く、ろくでもないね。やる者の気が知れないよ」
「やめろ! その研究にどれだけの価値があると思っている!?」
声を張り上げた耳障りな羽虫に、長義は顔を歪めて冷たい視線を向けた。
縄で固く縛り上げられた主犯の研究者が、身の程知らずにも声高に主張した。
資源の再利用は有用だろう、と。
修行を終えたはずの刀を初に戻す方法を開発した、政府内部の研究部門の主任の者だった。が、これらは表に出ることなく、禁じ手として研究中止の指示がとうの昔に上から出ている。
それを不服とした研究者に、どうやら協力者を名乗って政治的な思惑でテロをさせた者が居たらしい。
新設サーバーのトップ、長義が仕える若き彼には敵が多い。
政治に良いように利用されたであろう研究者の主張はこうだ。
「初に戻せば、一度極めた後で主人を殉職させた刀剣男士という『不良品』を『再利用』できる。それがどれほど有用なことか!」と。
瞬間、顔面を蹴り飛ばした。
「あ、がああ!」
「すまない、脚が長くてね」
欠けた歯が飛び、顎が折れ、顔面の形が激しく歪んだ男が上げた汚い悲鳴に、長義は、ふん、と皮肉げに鼻を鳴らした。
「俺たちは道具だからね、どう使おうが人間達の勝手だが」
ガッと顎を掴む。
「だが、オレたちだって人を選ぶ。楽しみにしているんだね。あらゆる神から見捨てられた悲惨な末路を」
ドスを効かせた長義が、絶対零度の視線で男を射抜く。
「全ての神々がきみたちを見捨てた日、それがこの国が滅ぶ日だ。それが今日でないことを祈るんだな」
はっ、聞き届ける者がいればいいがな。
サイレンが赤く回っている。
全ての研究者を、護送車──犯罪者を輸送するための牢屋付きのトラック──にぶち込んで、長義は気怠そうに肩をこきっと鳴らす。
「なんてね。木を見て森を見ないような浅慮な真似はしないさ。こうして救いようのない者もいれば、救うべき善良な者もまた必ず生まれてくる。まあ、だからこそキリがないとも言えるが」
血振りした本体を優雅に納刀した長義は、ぱん、ぱん、と塵屑を払うように両手を二度鳴らし、深く嘆息した。
鍵の掛かった護送車のドアへ向かって、青く美しい眼をついと細める。
「まったく、ああいうのはどこで歪むんだか。赤子だって祈ることを知って生まれてくるのに、いったいどこで忘れてしまうんだろうね」
長義の視線の中にある静かな憐憫と失望、哀れみに、同じく血振りした一文字則宗が、扇子をパッと開いて軽く笑う。
「仕様が無いさ。祈りを忘れぬ人の子の方が少ない時代だ。だからこそ、応える価値がある、そういうものだろう?」
軽やかに肩を叩いた則宗が、飄々と笑う。
長義は肩をすくめつつも、それに同意した。
検挙はひと段落だが、現場の後片付けはまだまだ始まったばかりだ。
警察に合流して淡々と作業しながら、壁に貼られたままの血まみれの暦に目を向けて、長義は舌を打つ。
今日はあの子の指導の日だった。次は術を教えてやる約束もしていた。
充分に予習し楽しみに待つように、と申し渡した長義に、彼女はこくこくと嬉しげに頷いた。
素直な彼女は、言葉通り楽しみにしていたはずだ。
本質的に神はすべからく約束を重んじる。ごく他愛無いささやかな約束であっても、一度結んだ契りを他者に無効にさせられるのは酷く不本意、実に不愉快だ。
「まったく、おかげで予定が狂った。よりによって今日でなくてもいいだろうに」
「うははは、ご執心だなあ」
「うるさいな。誰の肩を持とうが俺の勝手だ」
「それを執心というんだ」
則宗は軽やかに笑い飛ばした。
「まあ、血生臭い場面こそ僕たちの領分だ。それでこそ、だろう?」
「もちろん分かっているさ。率先して血路を拓いてこそ、後に続く無辜の者たちが血を浴びずに済む」
さて、鑑識に場を受け渡す前に、最低限の仕事は終えねばならない。
まだまだやることは山積みだ。最低でも日付が変わるまでは帰れないだろう。
「被害本丸の名簿出たか?」
「ああ、それならこっちに、」
長義は途中で、ぴたりと手を止めた。
血まみれの資料の一部を回収する後片付けの途中、長義は見知った本丸番号を見つけることになる。
資料はこうだ。
別項82-4の疑いあり、実験用に回収できれば有用。
82-4 鍛刀及び顕現に介入する現実改変能力。
刀剣兵器130、二級指定危険物。盟約破棄後は迅速に検体回収が可能。
長義の優れた頭脳は、そこにある14桁の固有識別番号を、難なく識別した。
そしてほぼ無意識の内に、頭の名簿とそれを照らし合わせ、素早く結論を弾き出した。
ざわ、と長義は目を見開き、血みどろの資料を漁り始めた。
「……!!」
「どうした」
実験体として候補にされていた本丸番号の中にあった、目を掛けていたよく知る本丸。
長義はそこで、かなり前から彼女の能力が外部の敵から狙われていたことを知った。
「おかしい、政府の密約の情報が漏れている」
「なんだと?」
無線機を持った警官がKEEP OUTの内側に入ってきて、長義に控え目に耳打ちした。
「なに? その回線は俺に回せと指示してあったはずだが?」
ぶん取るように素早く無線を取った長義は、政府の関連部署をいくつもたらい回されてからようやく報告されたらしき内容に耳を傾け、みるみるうちに表情を強張らせた。
ようやく彼らの陳情が上がってくる。
途中で介入した内部犯の影に気付いた長義は、内側に潜んでいた敵の存在に気付いた。
そこでようやく長義は電報の中身を確認し、自分が目を掛けていた本丸に起こった事態を知る。
長義は顔色を変え、がばりと外套の銀を翻した。
◇ ◇ ◇
「政府の担当課にはまだ連絡が付かないのか!? 取り次ぎ役はいったい何をやってる!?」
「政府の通行証、あれはそもそも本物だったのか?」
「分からない、でも……」
「正規の経路で侵入されたなら余計に大問題じゃねえか!」
「くそっ、術者はいったいどこに」
「独りで動くな! 加州の二の舞になる可能性が」
「加州さん、まだ無理をしては…!」
「石切丸のおかげでだいぶ楽になった。じっと寝てられるかよ…!」
混乱する本丸内。
皆がそれぞれの役目を果たすべく慌ただしく動く中
祓い場に残った石切丸は、懸命に祈祷を続けていた。
鶴丸が侵されている呪詛を祓うために。
石切丸が懸命に祈祷で祓おうとすると、鶴丸は多重結界の中で苦しそうに喉を掻きむしって暴れた。結界が軋む。見張りをしていた太鼓鐘が慌てて駆け寄った。
「鶴さん、だめだって!」
と暴れた鶴を上から取り押さえた太鼓鐘の腕に、ずずず、と上がって来る呪詛。墨字がみみずのように貞宗の腕に這う。
「なんだ…!?」
「ダメだ、下がって!」
引き剥がした石切丸は、青黒く変色し、だらりと垂れ下がった貞宗の両腕に顔を顰めた。
「感染する呪詛だ」
「……ッ…!」
御神刀以外触らない方がいい、と
両手が石のように動かなくなった太鼓鐘を急いで下がらせた石切丸が、印を組んで祝詞を唱える。侵食が止まったその墨字に、石切丸は清めた水を勢いよくかけた。
流れ落ちた墨字は、地面に落ちてマムシのように這う。それを石切丸は、地面に突き立てた刃で断った。
「悪りぃ、石切丸…!」
「残りも急いで清めた方がいい。裏井戸へ」
指示された太鼓鐘が外に出て持ち場を離れる。すぐに代わりの短刀か脇差を呼んでくると言い残して。
その隙だった。
鶴丸は結界の中で、ぎらりと周囲を睨み、次の瞬間、自分で舌を噛んで出血させた。
げほっ、ごほっと派手に咽せ、吐血したように見せかけて石切丸を誘う。
「鶴丸さん…!?」
「み、ずを」
と苦しげにかすかな声で告げ、ごぽ、とさらに血を吐いて苦しむ鶴丸に、石切丸が慌てて助けの手を差し伸べる。
結界の中に石切丸が腕を入れた次の瞬間
石切丸の身体が宙に浮く
え、と思う間もなかった。
一瞬にして背負い投げされた石切丸が、ガッと床に叩き付けられる。
背骨が折れんばかりの力で叩き付けられた石切丸は、かはっ、と一瞬息を詰めた。
立ち上がった鶴丸はペッと床に血反吐を吐き出した。
覗いた舌に噛んだ跡。
術者が集中を切らしたことで脆くなった結界を握り潰すように破り、鶴丸は逃走した。
大太刀の機動ではとても追いつけない。
げほ、ごほ、と石切丸が身を起こした頃には
もうそこには誰も居なかった。
「油断した…!」
ひと呼吸の間に、太鼓鐘と入れ違いに、後藤が斎場に戻ってきたが、既に結界内はもぬけの殻だった。
「石切丸…!?」
「すまない、逃げられた…!」
「鶴丸が逃げたぁ!?」
知らせを受け、加州清光は素っ頓狂な声を上げた。
この本丸では、刀剣男士を縛る術式を主が使えない。
最低限の封じ札一枚すらないここでは、刀剣男士を物理的に拘束しておくことが難しい。それがはっきりと裏目に出た形だった。
まだ思うように動かない体に鞭打って陣頭指揮を取っていた加州が、ぎり、と奥歯を噛み締めた。
鶴丸のような機動の高い太刀はこの本丸の泣き所だった。
追い付ける短刀や脇差では力で押し切られる。力尽くで抑え込める大太刀では追い付けない。初期刀の加州清光のような、鶴丸より強い打刀しか対処できないのだ。
「くそ、俺が動けないこんな時に限って…!」
高レベルの極打刀は今、鶴丸に術を掛けた敵の捜索に皆出払っていてすぐには動かせない。
だが、内部に残っている山姥切国広を動かしてしまうと主の警護が手薄になってしまう。
「外に逃げられたら事です、今すぐ表門と裏門、ゲートも含めて内側からも本丸全体を閉鎖して…!」
ぴく、と前田は言葉を途中で止め、勢いよく振り返った。
焦げた匂いが漂ってくる。
木材や塗装が燃える臭い、建物が焼ける異臭だ。ざわ、と前田は総毛立った。
「どこから……」
「火事ですッ! 二の蔵が…!!」
駆け込んできた平野が叫んだ。
ごうごうと空高く燃え盛る備蓄蔵。
まるで油でも撒いたかのように異様に火の手の回りが早い。
「くそっ、よりによってこんな時に…!」
「消火班ッ!!」
「火気なんていったいどこから」
予想だにしないことばかり起きる。
まるで、敵に手の内を知られているようだった。
最も起こって欲しくないタイミングで、的確に最悪の事ばかり起きる。
「ダメだ、納屋に燃え移るぞ!」
「水をッ!」
「こっちだ!」
撹乱された最前線で指揮系統が混乱する中、加州清光は妙な既視感を覚えた。
まるで盤上で駒を操られているような感覚。
さながら、見えざる手によって道を引かれ、敗戦の方に誘導されているような。
あまりに知略に長けた超常的な存在が、自分たちの状況を糸で操っているような。
そんな、戦の只中で、陽動に踊らされて敵の術中に完全に嵌まった時に感じる、背中をざらりと撫でられるような嫌な違和感。
清光は、さぁっと血の気が引く錯覚を覚えた。
直感した。
いる。内部の弱点をことごとく知り尽くし、自分たちを撹乱して良い様に嵌めることができる、そんな。
敵に回ったら厄介な、優れすぎた頭脳を持つ存在────刀剣男士、が。
ぞわ、と嫌な予感が這い上がって、加州はガバッと大きく振り返った。
主が指揮を取っているはずの、方角を。
「まさか、この火事…!」
もしも炎すら陽動なら、真の狙いは。
「火事は二の倉ですが、あるじさま、念のため居室へ避難を…!」
護衛役の側仕えの毛利が主を奥へ避難させたが、それも計算の内だったのだろう。
むしろ、まんまと主をその方向に誘導した火災だったと言えよう。
執務室に戻ると、置かれたままの空のコップの中に、小さく折り畳んで結ばれた文が入っていた。
「…!」
紙で折られた複雑な結び目は、鶴丸のものだ。
悪戯をこっそりと仕込む時、あるいは真面目なフリで会議の裏で長谷部に隠れてこっそりメッセージをやり取りする時、そんな時に鶴丸が結ぶやり方だった。
彼女は今までの経験から、反射的にそれを袖の中に隠してしまった。
テーブルの下で急ぎ開いてみると、綴られた筆跡は、やはり間違いなくよく知る鶴丸のものだった。
「……」
「あるじさま? いかがされました?」
きみのことが思い出せないが
修行の手紙を見れば何か思い出すかもしれない、という旨のことが書いてある。
ただし、それをきみの周囲にいる刀は赦さないだろうとも。
彼女は迷わず美しい寄木細工の箱を取り出した。
この箱は山姥切長義を通して政府から支給されたもので、特定の手順で細工を弄ると、主の霊力に反応して蓋が開くシステムになっている。
つまり、自分にしか開けられない箱だった。皆から貰った修行先からの手紙はここに保管している。手紙を送った面々が、他の連中に見られてはたまらないと皆一様に言うからだった。
贈ってくれた大切な手紙を、本人に無断で他の刀に見せるつもりはなかったが、悪戯好きの刀が酔った勢いで触っても開けられない場所に保管すれば、修行先の皆も気兼ねなく思いの丈を綴れるだろう、という配慮だった。
だから、この本丸の刀たちは皆、この箱の中に自分の手紙が保存されていること、それが刀剣男士自身には開けられないことを知っている。
彼女は、瞳を大きく揺らし、数巡、躊躇った。
だが、一度固く閉じた瞼を押し開けた時にはもう、既に決意を固めた眼をしていた。
「……毛利ちゃん、やまぶっちゃんを呼んでくれる?」
「山伏さんを?」
毛利は、表情にはっきりと困惑を浮かべた。
山伏国広が配置された場所は、この本丸の真反対側だった。
「うん、今すぐ」
「あと少しで交代の手筈になっています。今僕がここを離れては…」
人払いされたことに勘付いたらしく、毛利は持ち場を離れるのを躊躇った。彼女は毛利の手を両手でぐっと握った。
「お願い、毛利ちゃん」
「…………表にいる山姥切さんに声を掛けてきます」
「うん、ありがとう」
すぐ外で待機している国広を、毛利は、大声で呼びつけることをしなかった。
下手に声を張り上げて、主人を避難させた場所が周囲に割れるより、急いで交代した方がまだ外敵を呼び寄せず安全だと考えたのだろう。
ただしそれは、内部に敵が紛れ込んでいない場合の話だ。
毛利がそう考えることを理解していて、この指示を出したのだから。
山姥切と毛利の持ち場が入れ替わるまで
その間、わずか百秒にも満たないだろう。
だが、それで十分だった。
梁の上から鶴丸がすたっと降りて来る。
彼女はゆっくりと振り返り、静かに佇んだまま微笑んだ。
音もなく降り立った白い幽鬼へと。
「懐かしい目をしてるね、鶴るん」
「さあ、自分じゃよく分からんな。俺はいったいどんな目をしてるんだい?」
彼女はただ、努めて柔和な微笑みだけを返した。
極寒に冷え切ったその美しい金色へ。
「言われるままに人払いしたのか」
「じゃなきゃ、出てきてくれないでしょう?」
「大した度胸だな」
賭けだった。
毛利が呼びに走った国広が、渡り廊下を越えてここに素早く駆け込んで来るまで、恐らくあと数十秒。
そのわずかな間だけ此処は、誰の邪魔も入らない密室だった。
ざり、と黒下駄が畳を踏む音。
一歩、また一歩と、距離が縮まっていく。
追っても捕まえられない素早い魚を釣り上げたければ
食い付かざるを得ない餌を用意すればいい。
そう彼女に教えたのも、他ならぬ鶴丸だった。
今まさに自分は餌を与えられた魚。
同時に、食い付かざるを得ない餌でもあると、正しく理解していた。
その手が掛けた鍔が。
切っ先が向けられる先がこの喉ならば、賭けは負け。
山姥切が戸を開けるより早く、瞬きする間もなくこの首は畳に落ちるだろう。きっと、痛みどころか死んだことにも気付かない。
驚いただろう、の一言で、それができる刀だと知っていた。
だが、そうでなければ。
手紙を見た彼が、国広が飛び込む瞬間まで躊躇ってくれたなら、こちらの勝ち。
状況を把握した山姥切が、鶴丸と斬り結べば、騒ぎを聞き付けた皆がたちまち包囲する方が早い。
逃げに徹されたらこの本丸の誰も追い付けない。
賭けに出るなら今しかない。
かち、と仕掛けを開けて、ゆっくりと手紙を差し出す。
その幽鬼のような白い手が、こちらに伸ばされる。
ちゃき、と
静寂の中に、鯉口を切る音が響いても、彼女は迷わなかった。
微動だにせず、手紙を差し出す姿勢を変えない彼女に、鶴丸は。
ゆったりと口角を吊り上げ
「ざぁんねん」とゆるり、嗤った。
「そっちじゃないんだよなあ」
刃が翻って空気を切り、白刃が舞う。
その瞬間、ドス、と刃が貫いたのは
彼女が差し出した手紙の方だった。
「……え」
一瞬、何が起きたか分からず愕然とした彼女が、自分をはっと取り戻して、ひゅ、と喉が鳴る。
たちまち、差し出された手紙を見もせずに、刀でズタズタにしてしまう鶴丸に。
喉が、声にならない悲鳴を、あげる。
必死に手紙に伸ばした手が、紙に掠って血が出る。
本体でズタズタに破かれた手紙が、ただの紙屑に成り果てて、原型を留めなくなった途端。
とうに極めたはずの鶴丸の姿が、ザザ、とノイズを纏ったように歪んで、初の頃の姿へと瞬く間に変質する。
自分の体を眺め回して確かめた鶴丸は
「はは、驚いた驚いた。こうも上手くいくとはな」
と笑った。
酷薄な冷笑、嗤い声が
愕然とした主へと与えられる全てだった。
絆を、結ばれた縁を、無理やり絶たれた。
修行の旅が、記憶が、経験が、刻が、決意が
鶴丸国永という刀の器から、切り離されてしまった。その結果が、極の姿を失わせて輪郭を曖昧にさせた。そういう術式だった。
付喪神とは、人の心に寄せられた想いが形作る姿を持つもの。ならば、それを絶たれれば。
鶴がひらりとそこから舞い立つ。
慌てて走り込んで来る足音。入れ違いに素早く戸が開かれる。数十秒の密室は消え去った。
「おい、毛利から聞いたぞ、いったい何を──……」
その場に独り残され、修行手紙をズタズタにされて呆然と泣く主を最初に発見したのは、駆け込んできた山姥切国広だった。
「……は?」
破かれた修行の手紙
血の匂い、主の手に滴る血
畳には、明らかに繰り返し刃を突き刺した
「刀傷…?」
ざわ、と山姥切国広が纏う空気が変わった。
ダンッ!と片足を踏み、そのまま片膝を折って迫る。
碧眼の瞳孔が縦に開き、地の底から這い出るような低い声が恫喝する。
「誰が、お前を裏切った?」
理性が焼ける。怒りで頭が煮える。視界が真っ赤に染まってチカチカする。血が沸騰しそうだ。
ズッ…と重く音を立てて空気が圧を増す。
山姥切国広は、激昂に全身を焼き貫かれた。
「お前の愛する物語に、傷を付けたのは誰だ」
お前の物語を穢した存在を、オレは決して赦さない。
「オレは誰を斬ればいい」
茫然と、無言でぼろぼろと泣いたまま何も言わない彼女に、国広は低く
「……鶴丸か」
無言でビクッと肩を跳ねさせた主に、国広の目が血走る。
すぐさま踵を返そうとする山姥切に、彼女ははっとして瞬時に全身で縋り付いた。国広は既に腰帯から鞘を外し、鯉口を切っていた。
「待って、待って! まんばちゃん、お願い!」
「斬る。いや、折るか」
「待って、お願い、待って、まんばちゃ、────山姥切国広ッ!!!」
呼ばれ、叫ばれた正しい名に、反射的に体が反応した山姥切国広は、一瞬の隙を見せた。その隙に、彼女は全身で必死に追い縋った。
「違う、悪いのは鶴るんじゃない、鶴るんをああした術者、そうでしょう!?」
「だとしても許されない」
苛烈な断罪の焔と化した碧眼が、凄絶な激怒に満ちる。
空気が激しくビリビリ帯電する。そのような道具は今すぐ壊すとばかりに。
「こんな暴挙、同じく主に仕える刀だとオレは認めない。決して。お前の物語を踏み躙るような道具は全てオレが壊す」
「違う、ちがうの、わたしが悪いの! わたしが鶴るんの言いつけを守らなかったから!」
かすれた喉を枯らして必死に言い縋る。
しゃくり上げた喉が、悲痛に叫ぶ。
「ダメだって言われてたのに、たとえオレの形をしていても、きみに敵意を持っていればそれはオレじゃないって、……言われてたのに…っ」
「言いつけ守らなかったから、鶴るんがわたしを守るために残してくれた言葉に従わなかったから」
ぼろ、と泣き崩れた彼女の涙が、縋り付いた山姥切の鞘に落ちる。それに、国広は怯んだ。
「わたしが、鶴るんになら騙されてもいいって思ったから、悪いの…」
「…………主」
「あ、あ、ぁぁああ!」
服に縋り付いて、決壊したように泣き叫んだ彼女を片腕に抱いたまま、山姥切は。
ギリッと音が出るほど奥歯を固く噛み締め、翡翠色の瞳を怒りに燃え上がらせた。
「よくも」
彼女のもとからひらりと飛び去った鶴丸国永
そこに道を塞ぐ、刀が一振り
ざり、と砂利を踏む足音
じろりと視線をやりながら、肩越しに振り返る。
そこに立つ、赤を纏った美しい椿に
鶴丸国永は、冷笑した。
「待ち伏せだな」
なんだ、火災現場を放棄してきたのか、と
鶴丸はゆったりと嘲笑った。
「さしずめ俺は、網に掛かった鳥ってところか」
見知った顔で酷薄に笑う鶴丸に
駆け付けた加州は、無言で抜刀した。
清光の予測は当たった。鶴丸がこの場所に誘い込まれたということは、彼女が身を挺して囮になったことを示している。
「……俺たちの主ならこうすると思った。彼女はお前を前にすると躊躇わないから」
だから、と加州清光はゆっくりと鋒で弧を描き
ジャキ、と刃を立てた。
「お前のことは、俺が止める」
白刃に宿った金打の決意の鮮やかさが
一閃、鶴丸の喉笛に斬りかかった。
ガッと激しく組み合い、斬り結ぶ
逃げもせずに受けて立った鶴丸と、ギリギリギリギリ、と白刃が拮抗する
白い幽鬼は嗤う。頬に呪詛の墨文字を、うぞうぞと蟲のように這い寄らせながら。
未だ残る痺れ、思い通りにならない手足に鞭打ちながら
ばかやろう、と胸の中で清光は叫んだ。
まぶたに映るのは、こんな冷たい笑みじゃない
「俺がッ! てめえを!」
幸せそうな彼女と笑い合う
あのだらしなくて締まりのない笑顔を
「あるじが望む未来へ引きずり戻すッ!!」
放った式からリアルタイムで送られてくる映像を眺めながら
面布の下で術者は、にんまりと嘲笑し、ほくそ笑んだ。
実証実験はすこぶる順調。馬鹿な連中だ。
自分達が都合の良い子飼いのモルモットとも知らずに。
本丸は巨大な箱庭、手狭な実験場
刀帳番号130、アレはこの実験が終われば処分して良いことになっている。
非検体を欲しがっている『顧客』にとって、鶴丸と政府の契約は邪魔なのだそうだ。
金払いの良い客の要望は、多少手間でもある程度は聞いてやる必要がある。次の意義ある実験のためにも。
データも取れたことだ、そろそろ仕上げに掛かるとしよう。
犬に持たせた爆弾は、効果的に破裂させてこそ意義がある。頃合いだ。
男が印を結ぼうとした刹那、突如として映像が斬り裂かれた。
素早く身を引いた術者の目の前に、一閃、白銀が煌めく。
術者の背後の大木が、袈裟斬りに切り裂かれて、ゆっくりと二つに割れて倒木した。
斬り裂かれた式がぼとりと地面に落ちて、ただの紙切れと化す。
送られていた映像がぴたりと途絶えた。
愉快な娯楽の最も良い場面で邪魔された術者は、忌々しそうに舌打ちした。
そこに立つ、白刃を向ける怒れる黒龍に。殺気でバチバチと大気が帯電する。
「はっ、よくここを嗅ぎ付けられたな。さすが審神者の犬だ。よほど鼻が効くらしい」
遠くへ逃走したと偽装して近隣の山の中に潜伏していた敵を炙り出した大倶利伽羅が、切っ先を向け、激しい怒りをぶつける。
「趣味の悪い術だ。こちらが慌てふためく様を、きっと近くで覗き見ているだろうと思った」
発煙筒を空高く打ち上げた大倶利伽羅が、敵との交戦開始を味方に伝える。
面布の下で、男がふっと紙束に息を吹き込んだ。
人の形に切り取られた紙は、瞬く間に男の姿を模した式へと変じた。
その内の何体かが男と同じ姿で同時に印を結び始め、空高くに光の線が走る。結界だった。
キン、と高い音がして、まるでガラスの箱のように空が閉じた。
森に吹く風が、死に絶える。
「援軍は来ないぞ」
「援軍? 必要無いな」
大倶利伽羅の刃が一閃、瞬く間に式を斬り裂く。
「俺一人で充分だ」
斬り裂かれた式をさらに補充しながら、男はちっ、と苛立たしげに舌を打った。
「あいにく実験もそろそろ終いにしようと思っていたところだ。ゴミはゴミらしくしていればいいものを」
男の術式から、どろりと瘴気に近い気配があふれだす。
印に反応して次々と呼び出されたのは、刀。いや、刀だったモノというべきか。
顕現の桜は舞わず、清浄な気配は見る影も無く濁り切って、そこには意志のない者たちが立っていた。
飛び出した肋骨、剥き出しの内臓、体のあちこちに目があって、ひしゃげた手足の数も生えている場所もまちまち。グロテスクだ。人の形を保っていない。
だが、時間遡行軍、にしては、見知った者たちの特徴を残しすぎている。
恐らくは、歌仙兼定、加州清光、大和守安定、前田藤四郎、乱藤四郎……らしき、モノ。あとのものはぐちゃぐちゃで分からない。
瞳には光が無く、気配は既に死んでいて、まるでのたうつように揃って自らの体を掻きむしっている。
人為的に歪ませられたと思しき異様な気配は、見ているだけで怖気を催すものだった。
実験がどうのとほざいていた。つまりこれらは、そのご自慢の『実験』とやらの成果か。
吐き気がする。
「弱い主人に弱い犬。どいつもこいつも。役立たずな不良債権ごときが偉そうに。貧弱で脆く下らない、塵をこっちで有効活用してやろうと言っているのに」
刀剣男士としての尊厳を跡形もなく踏み躙っただけでは飽き足らず
主人までも愚弄されたことを知り
ざわ、と黒龍が纏う空気が変わった。
「あいつは確かにひ弱だ。剣一本持ち上げることすらままならない、か弱い娘だ」
怒りに満ちた低い低い声が恫喝する。
大倶利伽羅は鋭く剣を構え直した。
激しい憤りを宿して煮えた眼で、苛烈に睨み付ける。触れた瞬間に切れそうなほどに。
誇り高き倶利伽羅龍を刻まれし白刃が、ぎらりと光を弾いて敵を睨む。
目にも止まらぬ剣撃と共に、裂帛の殺気が弾けた。
「だが、決して弱くなどない。侮られた主人に代わって、俺が貴様を斬り殺す」
踏み込んだ瞬間、その脚を刃が貫かんと翻った。
跳んでその凶刃を踏み砕き、敵の眉間を縦に割った。
キン、キンと斬撃が飛び交う。
次々に襲い来る敵を、一閃、残らず斬り伏せていく。
白刃が舞い散り、敵の斬撃をかわして貫き、すかさず斬り捨てる。
高い金属音のぶつかり合い。ぐちゃりと肉を断つ感触。血飛沫を浴びながら、背後に迫る凶刃を捌く。
大上段から振ってきた一撃を、刀の峰で受け流す。
ぶつかり合った鋼同士が火花を散らした。
たちまち襲い掛かってくる敵の一体と鍔迫り合いになる。歪んだ目が五つあり、内臓が飛び出して肋骨が出ているが、顔立ちはどこか、そう、歌仙兼定の面影を残していた。
歪な肉の塊が、どくんどくんと心の臓の位置で蠢いている。
大倶利伽羅は躊躇うことなく、容赦なく貫いた。
パキパキパキ、と相手の顔にヒビが入っていき
敵の刀に、大きな亀裂が
「悪く思うな」
答えは無い。恐らく声も奪われている。だが。
声もなく細めたその双眸が
まるで、すまないね、と聞こえてくるようで
さながら、手間をかけさせたね、と謝るような
そんな表情で、恐らく歌仙兼定だったモノは
ばきん、と粉々に砕け散った。
ようやく解放された安堵の中で折れていくような
そんな揺らぎだけを、遺して
ぶん、と血を振り落とした大倶利伽羅は
ざわ、と怒りを爆発させた。
息を吐く暇も無く、次の敵と斬り合う。
ギリギリギリ、と鍔迫り合いに持ち込まれ、大倶利伽羅は鋭い視線を流し、はたと目を見張った。
姿形や気配は跡形も無いが、組み合った白刃に見覚えがある。
まるで焼け落ちたように黒く染まったその太刀。
溶けた金無垢がべっとりと張り付いて、まるで金色の竜のように見える、それ。
ぎり、と大倶利伽羅は奥歯を割れんばかりに噛み締めた。
燭台切光忠の逸話の面影を残したその刀身に、わずかに気を取られた、その刹那だった。
視界の端で
にんまりと嗤った男が印を組んでいる。
大量の式神に護られたその奥で、男が
立てた二指で、 唵と唱えた、その瞬間。
肉薄した敵兵が、内側から破裂した。
「──…!!」
肋骨が大倶利伽羅の腹を貫通する。
「かはっ!」
間近で炸裂弾が破裂したかのような閃光と衝撃だった。
ぼと、ぼとぼと、と光忠だったと思しき肉塊が、飛散して地に落ちる。
大倶利伽羅は、腹の負傷から脚へ流れ落ちる熱い血を、地面でざり、と踏み付けた。
頭から片目へ流れ込む出血を、顎の下でぐいっと拭って
ペッと血反吐を吐き出した大倶利伽羅は
じろっ、と敵を睨んだ。
「はぁっ、はぁっ……!」
血の匂いが濃く立ち込める戦場で、大倶利伽羅の荒い息が大気を震わせた。
肩で息をしながらも、その眼光だけは一片も陰らず、燃え立つような苛烈さを放っている。
ぼた、ぼたた、と大倶利伽羅の腹から、血が滴る。
たった一人で全ての敵を斬り伏せてみせた大倶利伽羅は
決して浅くはない負傷を抱えながらも
顔に伝う血に眉一つ動かさず、冷たい眼で一刀両断した。
百は居た傀儡の兵隊は、いまや全て斬り伏せられて、骸がただ大地に積み上がっていた。おびただしい量の血の鉄臭さと、物言わぬ肉塊の硫黄のような腐臭だけがそこにある全てだ。
敵将を護っていた最後の残兵を大倶利伽羅の刃が大きく斬り捨てると、護りを失った男は青ざめて後退した。
「ば、ばかな、あれだけの式神を、全員…!?」
キッと睨んだ男が、悪態を吐きながら、足元の屍を蹴り飛ばした。
「くそっ、役立たずどもめ! あれだけ強化してやったのに、小娘の人形ごときに……!」
大倶利伽羅は一歩踏み込んだ。刃先が、怒りと共に震える。
「クズがぁ!」と叫ぶ男が死体を蹴る。
大倶利伽羅の視線が炎を纏い、苛烈に燃えた。ふざけるな、と刃先が叫ぶ。
「後悔しろ」
「くそっ」
死体を踏み付けて唾を吐き掛けた男は、殺気に怯んだように後ろにずり下がりながら、やがてにやりと歪んだ笑みを浮かべた。
「まだだ、まだ、もう一度式神を召喚して…!」
男が、印を刻んだ舌をべろりと出した、その瞬間────何かが、鋭く投擲された。
ヒュッと空気を切り裂く素早い音。
鋭い痛みに、男は茫然と視線を下にやった。
「あ…?」
舌に何かが突き刺さっている。
男の舌を貫通したそれは、獅子の刻まれた笄だった。
「あ、あ、あ」
ごぼっと男が血を吐いた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
術が使えないよう舌を串刺しにされた男が、血泡を吐きながら絶叫する。
大倶利伽羅が、眉ひとつ動かさずに、最後の遡行軍を斬り伏せた。
「臭い口を閉じろ」
印を貫いたのは、三所物、獅子の笄。単独で遊撃に動く事の多い大倶利伽羅に、有事に備えて主が持たせた宝物だった。
一気に距離を詰めた大倶利伽羅の銀の剣閃が、手首を素早く斬り落とす。
ごと、と音を立てて地面に落ちた男の両手が、印を結ぶ途中の形のまま、持ち主から離れた。
「があ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
血飛沫が噴き出し、断末魔が響く。
「これで印も結べない。観念しろ」
喉笛に突きつけた剣で、ぐいっと敵の顎を上げさせ、大倶利伽羅はドスを効かせた。
「鶴丸に掛けた術を解け」
刃の先端が、男の喉の皮膚をわずかに裂く。
どろりと伝う血。男の顎を、たらりと脂汗が伝う。
詰みのその状況で、にも関わらず、ニィ、と男が笑った。
「!」
男の服の下から、閃光が迸る。ちょうど、他の敵兵と同じように。
それを視覚した瞬間、大倶利伽羅は、反射的に飛び退いた。
内側から破裂した男の服の下に、体中に巻きつけた札が覗いている。
自爆だった。
腕で爆風から目を庇った大倶利伽羅は、衝撃に地を踏み締めたままずり下がり、舌打ちしてすかさず顔を上げた。
「しまった…!」
敵将は、腰から下が木っ端微塵となり、腹が吹き飛んでいた。
ごぼ、と口から大量の吐血があふれ出す。
破裂した肉体は腰から下を失い、臓物を撒き散らしながら、なおも男は血混じりの嘲笑を浮かべて絶命した。
まるで、犬の命令を聞くぐらいなら死んだ方がマシだとばかりに。
「……くそっ」
大倶利伽羅は、崩れ落ちた骸の胸倉を掴み上げ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「────刀剣男士の面影を一部残した敵兵と交戦、全て撃破。主犯格と思われる男を捕縛」
通信機の無線から、ザザ、とノイズと共に大倶利伽羅の声が響く。
「敵を無効化したが、術を解除させる前に自爆された」
「……あいつを止めるしかないってことか」
ゆらり、加州清光は剣先を揺らした。
その向こうに立つ鶴丸国永は口角を吊り上げて不敵に笑っているが、その金色の瞳は濁って紅く揺らめいている。
紅く妖しく光る眼が、残光を伴いながら揺らぎ
次の刹那、突きが清光の喉笛を潰しに掛かる。
振り上げた棟で高く弾き上げ、すかさず受け流したのも束の間、瞬きする暇すら与えず二の太刀が迫る。
変幻自在に変化する切先が、まるで大蛇のように顎を開いて襲いくる。
軌道が読めない。
左右に揺らぎ、下段から跳ね上がり、牙のように一瞬で頸動脈を狙う。
首に食い込む瞬間に弾き、受け流し、
カッと眼を見開いて
正眼に振り下ろされた斬撃を、踵に仕込んだ鉄板で、下から上に弾き上げる。
反動のままにそのままぐるんと縦にバク転し、片手で地面を突き跳ねるようにして距離を取る。
だが、着地の瞬間を狙う横薙ぎが、低く走った。
脚を刺し貫く軌道。
清光の跳躍がわずかに早い。
地を蹴ったその場所を、斬撃が叩き割る。
着地の瞬間を狙って加州の脚を刺し貫こうとしたが、清光が跳ね飛ぶ方が早かった。
清光は高く高く跳んだ。
バネのように跳ね飛んだまま、ぎらりと睨んだ視線が急所を狙う。
宙でぐるんと振りかぶった斬撃で、鶴丸の眉間をかち割ろうとしたその刹那、清光の脚に何かが絡み付いた。
ガッと加州の脚が地面に強引に引きずられる。見ればヒールにきらりと金の兵庫鎖が巻き付いて、清光を地へ引きずり落とした。
姿勢を崩した清光の顎を、鶴丸の鞘が容赦なく殴り飛ばす。
「がっ」
頭蓋が揺れた。清光の眉間に切先が突き刺さる瞬間、己が刃で辛くも受け流す。
金属のぶつかり合う高い音。上がる火花。転げるようにして刃を逃れた清光が、跳ね起きるようにして鞘で凶刃を弾き飛ばす。
両手で振り下ろした鋒で鎖を絶った清光が同時に素早く距離を取り、ペッと血反吐を吐き出した。
耳元でごうごうと命の音がする。限界まで見開いた視界に、スローモーションのように全てがゆっくりと動く中、鶴丸の斬撃が揺らぐように頭上を掠める。
かわした低い体勢からバネのように跳ねて斬りかかった加州清光と、鶴丸国永が、火花を散らしてぶつかり合う。
にぃ、と鶴丸が邪悪な笑みを浮かべて、たちまち清光の力を受け流して刃を滑らせた。次の瞬間、切先が加州の眼を潰しにかかる。
痺れで上手く動かない体に鞭打って、身体を捻った清光は、間一髪瞼を切り裂かれた。どろりと血が目に雪崩れ込み、視界を赤く染める。
鍔迫り合いに持ち込んだ清光が、ギリッと奥歯を噛み締め、腹の底から叫んだ。
「てめえ、目ぇ覚ましやがれ!!」
澄んだ黄金は血で濁って、ぎらついた紅い眼が嘲笑する。
唇を噛み切る勢いで、清光は睨み付け、決死の呼びかけを叫んだ。
「思い出せよ……てめえはそうじゃねえだろうが!」
てめえは主の物だろうが。お前がそれを選んだんだ、そうじゃねえのか!
誓うと言った。主に仕え続けると。彼女を支え続けると。
────誓う。彼女の一振りとして、この身折れる日まで彼女を助け続けると。
その決意を、鉄の誓いを。
「敵に良いようにされてんじゃねえ!」
激しい怒りが、決意が大地を固く踏み付ける。
瞬時に懐に踏み込んだ決死の一歩が、ぎゅるん、と回転した煌めく切っ先が、鶴丸のガードを穿ち、真正面から突き破った。
鶴丸の頬を掠った深い一撃に、飛び散った血に、一瞬呪詛の文字が妖しく浮き上がる。
チッ、と鶴丸が舌打ちし、素早く身を引こうとした刹那、カッと眼を見開いた清光の、追撃が迫った。
逃がさない。
息も吐かせぬ三連撃が、鉄壁を誇った鶴丸を貫き飛ばす。
たまらず防御に掛かった白銀漆の鞘が、空高く弾き飛ばされた。
弾かれた白銀鞘が、高速で回転し、青空を舞った。
ガードが緩んだその刹那、トドメの一撃が迫る。
意識を刈り取るべく、スローモーションのように一撃が迫る中
大きく眼を見開いた鶴丸が、ごぽ、と重く湿った音を立てた。
まるで、時限爆弾が破裂するみたいに。
鶴丸の全身に、墨文字がどっと浮き上がって
回った呪詛で両眼からどろりと血が溢れ出し、「……あ?」と鶴丸があぜんとした声を上げた。
ごぼ、と大量に吐き出した血液で
その白銀の衣が真っ赤に染まった瞬間
むせ返るような血の匂いにつられ
二人の間合いの外から、か細い悲鳴が上がった。
見れば、建物から飛び出した主が、両手で口を押さえて悲鳴をあげている。
吐血で真っ赤に染まった鶴丸が、悪あがきのように彼女へ向けて刃を立てた。
「しまっ…!」
清光の斬撃が、僅かに鈍る。
一瞬の逡巡。
それが清光の刃から、鶴丸を行動不能にする好機をみすみす逃した。
一足飛びで高く振りかぶられた斬撃が、彼女へと迫る。
「下がれッ!」
飛び出した山姥切国広が、彼女へと薙ぎ払われた凶刃を素早く庇って弾き返した。
だが。
空高く宙を舞った白銀の鞘が、天に伸ばした鶴丸の手に戻って
固く掴み直した鞘が、国広の脳天をかち割ろうと振り下ろされる。
「ぐっ…!」
重い一撃。それに対処するために、ほんの一拍、動作が遅れた。
それが致命的だった。
高く飛んだ鶴丸の刃が、多量の吐血を纏ったまま、ぼたぼた、と血を滴らせて、彼女へ降り注いだ。
振り下ろされる刃は防いだが、むせ返るような血がどろりと
────感染する呪詛
「ダメだ、その血を浴びたらッ!!」
強靭な刀剣男士ですら狂わす呪詛の血を
脆弱な人の身で浴びてしまえば。
清光が警告するも間に合わない。
国広のガードをすり抜けるように白銀の剣からどろりと落ちた、赤黒い血が
彼女の眼を目がけてぼとぼとと落ちた。
「──ッ! しまっ」
「あるじッ!!」
ひゅ、と息を呑み
固く眼を瞑った瞬間
ガキン、
と音が高く鳴った。
瞼を閉じた暗闇から
恐る恐る目を開ける。
そこに、一筋の銀の光が煌めく。
純銀のストールが、血を浴びながらも綺羅星のようにはためいた。
「遅くなってすまない、レディ」
ばさり、と呪いの血を払い退けた山姥切長義が
血に濡れながらも美しく
彗星のように、颯爽とそこに現れた。
「待たせたね。さあ、お前たちの死が来たぞ!」
さあ、役者は揃った。
どす黒い血反吐を吐いた鶴丸国永
奪還の決意に煌めきながらも痺れを抱えたままの加州清光
震えるような怒りに燃える山姥切国広と、そして。
駆け付けた長義の、鯉口はまだ封じられたまま。
四者四様の刃が煌めく中
蠢く呪詛が、ぼたり。ぼたり。
鞘を振りかぶった山姥切長義が
腕で大きくストールを広げるように
彼女を背に庇ったまま
切れ長の青い瞳が、睨むように見据えた。
「────あれは」
ごぼ、と吐き出した大量の血液が
まるで墨のように、ドス黒い。
純白だったはず絹衣は、もう見る影も無かった。
血の跡すらも黒く黒く染め上がって
真っ黒に、真っ黒に
堕ちていく
「あ、が」
ぶしゅ、と眼から、耳から、黒い血が迸って
細く美しく優美な刀身はもはや跡形もなく
どす黒く染め上げられた漆黒の刃が、天を呪うように掲げられた。
「……ぉ……れ……は…っ……」
────俺は、誰だ?
ぶわっ、と広がった瘴気が、周囲を汚染していく。
雑草が足元から急激に気枯れ始め、満開だった桜の霊樹が色を失っていく。
「ッ! 下がれ!」
黒血がぶしゅ、ぶしゅっ、と飛び散りながら
銀のストールを穢す。
「……鶴、るん……っ」
あまりの光景に絶句した彼女を下がらせながら、長義は状況の悪さを察して舌を打った。
「本科!」
「ぼさっとするな!」
叱責した長義の脳裏に、血みどろの実験室にあった、忌むべき資料が過ぎる。
『逸話との整合性が著しく崩れると発狂または暴走────これを意図的に敵陣で起こし、敵に損害を与えつつ処分、ね』
犬に爆弾を付けて特攻させるような野蛮な話だな
「よく聞くんだ、レディ」
低い声で平静を装った長義の顎を、一筋の汗が伝う。
「政府の規約に則り、俺はここできみに手を貸すことができない。事前申請の無い抜刀が封じられている」
長義の帯びた刀に、バツの印の封じが、縄の巻き付くように宙に浮かぶ。
「政府の部隊がここに到着すれば」
あれを
折らねばならない
「猶予は一刻しかあげられない。その前に彼を取り戻したいなら」
長義が美しい唇を、薄く開いた。
願え。
力を纏った言霊が、彼女の耳でこだまする。
それは、神託だった。山姥切長義という、神座に連なる付喪神の。
「やり方は教えたはずだ。────きみが、俺を信じられるのなら」
片時も彼女は迷わなかった。
柏手を三回。深く低頭すること二回。
彼女の周囲に、黄金に煌めく霊力が、ぶわりとあふれだす。
「御座す神、尊き御名を呼ぶことを許し賜え。銘、本作長義、号は山姥切に宿りし美しき付喪の神霊よ、我が祈りを対価に願いを聞き届けよ」
「応じよう、人の子よ、願え」
「私の鶴丸国永を、無事に私の手に返して!」
────しかと聞き届けた
りんと契約の鈴の音が鳴る。
「契約は成った」
山姥切長義は、封じを粉々に砕き、抜刀した。
銀に煌めく凄まじい力の奔流が周囲に溢れ出す。
「俺こそが長義の打った本歌、山姥切」
その切れ味を見せてやる
《菊咲かせの死神》
高級酒の注がれたグラスが、バキッと踏み潰された。
「なんだ、騒がしいな。ここには誰も通すなと──……」
「おおい、邪魔するぞぉ」
そこに悠々と差し込まれたのは、まるで天女のような美しさでさえずる、白銀と黄金を纏う死神の最終宣告だった。
薄金色の柔らかな猫っけに、美しく光を弾く白銀の礼服。真紅のストールを凪かせながら、颯爽と現れた一文字則宗が、単騎でそこへ乗り込んだ。
自爆して死んだ面布の術者。あれは所詮、使い捨ての駒だ。
あれを背後で操って派遣していた連中を、逃さず一網打尽に捕らえなければ終わりは無い。長義が本丸に向かって暴れている間、別働隊として押さえにきたのだ。則宗たった独りでだった。
「まったく、隠居のじじいをこき使ってくれるもんだ」
こきん、と肩を鳴らしながら、則宗はのっそりとした口調でそうぼやいた。
本来、今ここへ乗り込むはずだったのは、サーバー長から全てを任された、現場監督責任者の山姥切長義の役割だった。
だが、その長義が押さえるべき現場を全て放り出して勝手に離れてしまったために、急遽こうして則宗が腰を上げること相成ったわけだった。
則宗が一人でこいつらを捕まえにきたのは、そう。
完全な独断で今から現場を離れる長義が、下げたくない頭を下げて則宗へ依頼したからだった。
パチン、と軽やかに扇子を閉じて、則宗はどこか面白げに笑った。
「まあおかげで、どっかの誰かさんの珍しい顔が見れた。それで良しとしようじゃないか」
何重にも秘匿されていたはずの違法地下ラウンジへと単騎で乗り込まれ、腹の黒い政治家連中はざわりといきり立つ。
「どこから入った…!」
「誰に許可されなくとも、僕は好きなところへ行き好きなことをするさ」
警備員らしき屈強な男が則宗にたちまち殴りかかったが、赤子の手でも捻るようにボキッと片手間に腕を折られた。雑巾のように二重三重にぐるりと捻じられた腕が、奇妙な彫刻のようにあらぬ方向を向いている。
「あがあ! 腕が、腕がぁ!」
「あーやかましい。じじいだからって耳元でそう叫ばずとも良いだろうに。本当に耳が遠くなったらどうしてくれるんだ」
閉じた扇子でひょい、と顎を跳ねた瞬間、顎が砕けた轟音と共に真上へ吹っ飛んだ男の首が天井に刺さる。
ぷらん、とまるで首を吊った死体のようにだらりと宙吊りになった男に、ゾッとその場の人間は皆青くなった。
「僕が来た時点で詰みなんだ。命が惜しけりゃ、ぜんぶ終わるまで大人しく黙っていてくれないか」
荒れ野の枯れ枝を折っていくみたいに。
一歩、また一歩と則宗が歩くごとに、できあがっていく、倒れた男どもの汚い悲鳴と、おかしな方向に折られ、時には捩じ切られた手足。
阿鼻叫喚の中で、恐怖の視線が次第に、敵意から化け物を見る目へと変化していく。
「うむ、残念なお知らせだ。お前たちは今日ここで『不慮の事故』に遭う。僕が来た時点でそう決まっているんだ」
黒い鉄扇で容易く眉間をかち割られた男が、血みどろで素早く黙らされて床に崩れ落ちた。
その後頭部をぐりっと踵で踏んだまま、悲鳴と共に振りかざされたナイフが素手の指先でひょいと摘み取られる。
追加の警備をさらに呼ぼうとしたらしき政治家の手の中で、端末が木っ端微塵に弾けた。
飄々と笑う則宗が、無駄な抵抗をスパン、と斬り伏せたからだった。斬られたはずなのに抜き手も見えない。
ひょい、と素手で拾ったダガーナイフが、目にも止まらぬ速さでダーツのように飛んでいく。
黒と赤で色分けされた丸い遊技場の的に、一番奥でこっそりと逃げようとしていた男の手のひらが磔となった。
「ぎ、ゃあああああ痛い痛い痛い」
「た、助けてくれぇ!」
「死にたくない、死にたくない!」
「どの坊主も元気であるように。それが僕の願いだが」
飄々と笑っていた則宗の双眸が、一瞬の後に、じろりと鋭く見下ろした。
表情が抜け落ちた則宗の面差しは、美しくも冷え冷えとしている。
「生憎、お前は坊主どもの敵らしいからな。ここで全員物言わぬ錆になって貰おうか」
則宗はあの凄惨な現場で、何振りもの。
歪な異形と化した加州清光を斬り伏せている。
「歪なものをこそ美しいが、そいつは歪を通り越して醜悪だ。仕える者の命により、ここで断ち切らせてもらおう」
「ひ、ひぃっ! ば、化けも、」
首を刎ねる。
血が天井まで噴き出す。まるで、赤い菊が咲いたが如く、見事に。
春雨のように生温かい雨が室内に降り注ぐ。
「いろんなものを見てきた。美しいものも、そうでないものも。こんな御役目をしてるとなあ、後者の方がずっと多いもんだ」
美しい白の礼服へ降り注ぐ血の雨を噛み締めるように全身に浴び、則宗はゆったりと独白した。
斬り伏せた男どもの血を裾の拭い取り、凄惨な赤い雨の中で則宗はひたりと刃先を定めた。
「だからこそ、得難い。若いのが暴れてる間、露払いくらいは務めてやるさ」
to be continued