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海の子守唄

全体公開 展示用 8 3498文字
2025-07-24 20:19:23

展示:リヌ 君の横顔に恋をする


――シグウィン、」

日が沈み、欠けない月が昇って幾ばくか。
夜の深海の静寂を裂くように足早にやって来たヌヴィレットがノックも程々に真鍮製のドアノブを回して中に足を踏み入れると、出迎えたちいさな影がにこりと穏やかに微笑んだ。

「ヌヴィレットさん、来てくれたのね」
ああ、遅くなってしまいすまなかった」
「大丈夫よ、少し安定してきているから」

シグウィンに案内されるまま見慣れた部屋にあるベッドに近付くと、そこには目を閉じて決して穏やかとは言い難い表情で眠っているリオセスリがいて。

「ヌヴィレットさんを呼んだ時より熱も落ち着いてきてはいるのよ」
そうかありがとう、シグウィン」

それは数刻前、パレ・メルモニアに珍しくメロピデ要塞から使いがやって来てシグウィンからの手紙を渡してきたのが発端。普段とは違う方法で持ち込まれた手紙に何か火急の用件があったのだろうと察したヌヴィレットがすぐに手紙を開封すれば、そこにはリオセスリが倒れたという旨の内容が書き連ねられていた。その後に恐らく過労や寝不足だろうという安心材料も書かれてはいたものの、それで心配が緩和されるわけでもなくヌヴィレットは気が気でない気持ちを何とか抑えて手元の執務を片付けると、その足でこうして彼の部屋までやって来ていた。

「もうあれだけ無理して仕事ばっかりしたらダメって言ってたのに」
「そんなにメロピデ要塞は大変な状態だったのだろうか」
「ううん、お仕事自体はいつも通りだったはずよ。ただね、ヌヴィレットさんも知ってると思うけど、公爵って頑張り屋さんだからすぐ無理しちゃって」
そうだな、それは知っている」

身体が頑丈なのが取り柄だという彼が倒れるなんて何事があったのかとシグウィンに尋ねるも、本当にただの過労だという。きっと元々何かしら体調を崩していたまま動き回って目を回したのだろうと想像に易く、そっとシグウィンが運んできてくれた椅子に座り息苦しそうな顔を見下ろした。

「ヌヴィレットさん、今夜は泊まっていくの?」
迷惑にならなければ、そのつもりでいたが

成人男性の見舞いに泊まり込みはどうだろうと思わないでもないが、何でもお見通しの看護師長相手に下手な言い訳は寧ろ逆効果。そもそもふたりの関係性を知っているのだから今更隠す必要もなく、ヌヴィレットは素直に泊まり込む予定だったことを伝える。

「それならよかった、熱が出たり身体が弱ると心も弱ってしまうのよ。だから公爵が苦しそうにしてたらこうやって手を握ってあげてほしいの。こういうのはウチよりヌヴィレットさんの方がいいはずだから、代わってくれると助かるのよ」

ヌヴィレットが居座ってくれることに嬉しそうな表情を浮かべたシグウィンは、その手を両手で優しく包む。これが直接病に効くものではないことはヌヴィレットも理解していたが、それ以上に肌の触れ合いがもたらす安寧も身を以て知っているが故にシグウィンからの頼みを聞いて静かに頷いた。

「承知した、他に必要なことは?」
「薬は飲ませたから朝まで大丈夫、この熱が下がってしまえば治るはずだから安心してね。あとヌヴィレットさんもちゃんと休んで?患者を優先して他の人が倒れたら元も子もないもの」
そうだな、シグウィンに心配は掛けないよう心掛けよう」

特に何かをする必要はないが、無理はしてくれるなと釘を刺されて苦笑する。リオセスリも大概だが、ヌヴィレットとてワーカホリックとしては申し分ない働き方をしていることが多く、どちらもシグウィンからすれば悩みの種なのかもしれない。

「じゃあ、ウチはそろそろ行くね。何かあったら医務室にいるから、いつでも呼んでね」
「ああ、本当にありがとうシグウィン。この子はこうしてすぐに無理をしてしまうゆえ、これからも君が見守ってやってほしい」

そっと彼の手を握りながら微笑むヌヴィレットの言葉に、シグウィンの表情がふわりと綻ぶ。

「ふふ、もちろんよ。公爵はいつだって目を離すと危なかっしいことばかりするんだもの、これからもずっと見守っておくから安心してね」

シグウィンの返事を聞いてちいさく頷いたヌヴィレットにそれ以上何を言うこともなく、シグウィンは片付けをして扉へと向かっていく。

ヌヴィレットさん、公爵のことよろしくね」

そして最後にそれだけを囁いて、ひらひらと手を振るとちいさな白衣の天使は静かに扉の外へと姿を消した。


――君は、こうでもならないと弱さを見せてはくれないな」

静かさに包まれた部屋に、ヌヴィレットの独り言だけが響く。いつもなら心地好いはずの深海の闇を溶かしたような静けさは、微かに聞こえる苦しげな吐息と混ざっているせいでひどく鬱蒼とした気持ちを引き出す。握っている手はまだ熱を持っていて、自分よりも幾分逞しいはずのその掌が今宵は何となく儚く感じてしまう。彼が常に気丈に振る舞うのは弱さを見せることが出来ない生き方を強いられてきたが故の性質であることは理解していて、決して自分を信じていないわけではないことはリオセスリ本人から何度も念を押されているので今更悲しみなどはしない。ただ、こうしていつでも気付けば手遅れになっていることが多いことに少なからず歯痒さを覚えていることも事実だった。

「君が私を守りたいと願うことを罪とは思わないのだから、私が君を守りたいと思うことも罪ではないだろう」

汗ばむ額を手巾でそっと拭ってやりながら、眠るその頬を撫でる。こうしてじっと見ていると、その表情は幼い頃の印象とあまり変わらない。寧ろヌヴィレットが要塞に収監されていた青年期の頃の彼をそこまで知らないということもあるが、弱々しく眠っているその表情には見知った幼い頃の面影というものを確かに感じられた。

「いつもベッドで見上げる君の顔は、もっと逞しい雄の顔をしていたはずなのだが」

僅かに笑みを浮かべて思い描くのは、なし崩しでベッドに押し倒された時の彼の顔。抗えない雄のそれとは全く違うその庇護欲を唆る表情は、ヌヴィレットの中に普段は内包されている母性や慈愛と似た感情に火を着けてしまい、額だけでなく首元や胸元まで優しく丁寧に手巾を押し当てて甲斐甲斐しく世話を焼いてしまう。

――んん

人間の看護なんてものはほとんど経験なんてないにも関わらず本能的な感覚で世話をしていれば、少し身動いだリオセスリが微かに目を開ける。起こしてしまったかもしれないと心配そうにヌヴィレットがその顔を覗き込むも、どうやら寝惚けているのかまだ下がらない熱のせいなのかぼんやりとした意識はそう覚醒していないらしい。

リオセスリ殿、まだ苦しいだろうか?」

無理に起こさないよう囁くように問い掛けると、視点の定まらない目が自身を捉える。そして力無く伸ばされた手が空を掻いて、何も掴めないことを当然とでも言うようにシーツの海に落ちそうになった瞬間、咄嗟にヌヴィレットの手がその手を取った。

――――

ぽつ、りと熱に乾いた唇が声にならない声を紡ぐ。
その唇が何を紡ごうとしているのか理解してしまったヌヴィレットは、握っていた手をゆっくりとシーツの海に置いて彼の頬を両の掌で包むといつもの体温より幾分高い額に自身の額を触れ合わせた。

リオセスリ大丈夫、私でも良いのであればここにいる」

吐息が触れ合う距離で言い聞かせるように囁き、曖昧に開かれた目蓋が何度か静かに瞬く。緩慢な動きで持ち上げられた手が髪を撫で、そのまま首に腕の重さが預けられて自然と唇が触れる。それが意図したものではないことは、彼の力がそれから特に強くならなかったことからもわかった。

――が、いい

微かな接触だけで離れた熱い唇が掠れた声で名を呼んで、深い吐息をこぼして目蓋を落とす。そのまま首から滑り落ちた腕がシーツに沈む音の他に再び静寂と柔い吐息だけが響き、その表情を見つめながら身体を起こして上着や装飾品を取り払ったヌヴィレットはそれらを乱雑に椅子の上にまとめると彼の横にそっと横たわった。

凍える心は、私が暖めよう」

汗ばむ額に口付けを落とし、優しく身体を抱きしめる。

「滾る身体も、抱いて鎮めよう」

いつも抱きしめてくれる身体が、今夜はひどくか弱く感じて。

だから、安心しておやすみ。可愛い子」

今だけは、この夜だけは君を抱くことを許して。
祈るように、願うように、その身を抱いて目を閉じた。


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