@xxxyueyunxxx
やれやれ、やっと終わったよ――
ランフォードは、この世界でのかりそめの姿、黒木嵐として勤めている会社のデスクで大きく伸びをした。この仕事は好きだが、終業間際に仕事が増えて残業になるのは少々いただけない。
「お先に失礼するよ」
「黒木さん、お疲れ様です」
同僚に挨拶して、会社を出る。家へ連絡を入れようとスマートフォンを取り出したが、なんとなく気乗りがしない。そう――なんとなく、一杯やりたい気分だ。それも一人飲みではなく、友であるジェフと飲みたい気分なのだ。
自営業のジェフは、もうとっくに仕事を終えている時間だ。家にいきなり友を呼んでは、妻の負担が重くなるが、ジェフの家に酒を持ち込んで飲むのなら、悪くないはずだ。忘年会や新年会のシーズンだと、ジェフにも商店街の人との飲み会があるだろうが、幸い今はそういう季節ではない。きっとジェフは家にいるに違いない。
美味しい酒を持っていって、ふたりで飲もう。ランフォードは勝手にそう決めると、家にその旨連絡を入れてから夜の街に買い物に出たのであった。肝心のジェフに連絡を入れるのは、すっかり忘れて。
「何にするか迷っていたら、少し遅くなってしまったよ」
酒屋の大きな袋を提げて、ランフォードはゆったりとジェフの家への道を歩いていた。――時間が遅くなった分『転移』の魔法を使って急げば良かった。それに気付いたのは帰りの電車に乗ってからなのだから、致し方ない。
彩花商店街が見えてきた。ここまで来たらジェフの住んでいるところはもうすぐだ。現在時刻を確認したら、夜の九時前だ。他人の家を訪ねるには少々遅い時間だが、相手はジェフだ。怒られるかも知れないが、まあ良いとしよう。
後少しでジェフの家が見えてくるというところまで来たときだった。その声が聞こえてきたのは。
電柱の明かりしか無いような暗闇から、声がするのだ。その声の響きからすると、何やら楽しんでいるような声であった。
「ふむ。何かあったのかね。というより……」
声の片方は、ジェフの声のように思えるのだが。時間を考えて抑えてはいるが、低いよく響く音楽の調べのような良い声をしていたから。あの声は、ジェフの声に違いない。
一体暗がりで、何をしているんだね、ジェフ――?
ランフォードは、少し早足でジェフの家へと急いだ。
ランフォードやジェフは人間ではなく異種族『魔族』だが、魔族の瞳は、闇をものともしない。
なのでランフォードの瞳には、眼前の出来事がはっきりと映った。
闇の中に、ジェフがしゃがみ込んでいる。その手には、猫じゃらしを模した猫用のおもちゃが。そしてジェフの前には、そのおもちゃに小さな手を伸ばす、黒い子猫の姿があった。
「よし、クロ。こっちだ」
ジェフがおもちゃを振ると、クロと呼ばれた子猫はにゃおんと鳴いて、おもちゃにぴょんと飛びつこうとした。クロがもう少しで穂先を捉えるといったところで、ジェフはひょいとおもちゃを遠ざける。
「まだ取らせんぞ、クロ。――これはどうだ?」
ジェフは子猫の鼻先で、おもちゃを振る。子猫はどこか嬉しそうな声でにゃおにゃお鳴きながら、小さな前脚で懸命におもちゃを追っていた。
珍しい。ジェフが心からの無防備な笑みを見せている――子猫と戯れているジェフは、いつもは鋭いシトリンの瞳を細めて、リラックスしている風の顔をしていた。ここまで無防備なジェフは、ランフォードでもなかなか見られない。
「……暗闇で遊ばず、電気をつけたらどうだね、ジェフ?」
ランフォードが来たことにさえジェフは気付いていなかったので、仕方なく声をかけた。友はどこか幸せそうだったので、そのまま放っておいてやった方が良かったのかも知れないと、思いつつも。
声をかけられたジェフは、びくりとしたかと思ったら、硬直していた。ぎこちなく、ランフォードの立っている方へと顔を向けてくる。
「……心臓に悪いぞ、ラン。お前が来るなんて聞いていないぞ」
「あれ? 連絡していなかったかね?」
「絶対にしていない。――確認してみろ」
ランフォードはスマートフォンを取り出して、アプリを起動した。そして確認した瞬間、顔が青くなった。――確かにジェフの言う通りだと。
「おや。連絡を忘れていたよ。ごめんね、ジェフ。というわけで、来たよ。今からお酒を飲まないかね? 酒もつまみも買ってきたんだよ」
ジェフは大きなため息をついていた。今もなお、手の中のおもちゃを振りながら。
「――今度から、連絡を入れてくれ。今回はもういい。ここまで来てしまったなら仕方ない、入っていけ」
ジェフはランフォードに玄関の引き戸を示してみせた。それから子猫の頭を撫でて、立ち上がる。
「――またな、クロ。お休み」
子猫のクロはジェフに返事をするかのように、にゃおん、と鳴いていた。
――知らなかったね。ジェフが、あの子猫とおもちゃで遊ぶまでに仲良くなっていたとは――
意外な事実を知ってしまった。――いや、意外ではないかも知れない。ジェフは優しいから。
自分は冷たいと思い込んでいるのは、ジェフ本人だけだ。ランフォードの目から見るジェフは、愛情深くて、優しい男だから。――ただ少々、愛情表現がわかっていないようだと言うだけで。
「こんな時間にここに来て、奥方は何も言ってないのか?」
「サティナには連絡を入れているから大丈夫だよ。それよりもジェフ。クロも家に入れてやったらいいのに」
「――ここは賃貸だ。猫を飼って良いのか分からん」
おや、ここも少し前とは変わっている。前は、骨董がどうなるかわからないから嫌だと言っていたのに。またひとつ、知ってしまったね。
どうせなら、猫を飼ってもいいか、ここを貸してくれている相手に聞けば良いのにね――
でもそれは決して口にはしない、ランフォードであった。