パークリ。ふたりの始まりから終わりまでを20作の中でなぞっています。
お品書きはお題順ですが、ページは時系列順に並べています。時系列順にお読みいただく場合はもくじを飛ばして順番に読んで頂くとスムーズ。後半に行くにつれ時が経過するため、色んな要素が入ったり、捏造盛りだくさんになってます。
@kazane_noname
くちづけたくなる20題
注:下記はお題順に並んでいます。時系列順にお読みいただく場合は目次を飛ばしてページ順にお読みください。
もくじ
01 さみしさの影
今はまだ煩わしい。7≫
02 それ以上は言わないで
意外に口うるさいかもと思うんですよ。9≫
03 不意打ちですよ
リア充タイム。6≫
04 ながい睫毛と拗ねた頬
男は40代から。19≫
05 あまいひとときの、はじまりはじまり
ちょっと裏風味8≫
06 トクベツの証
家族になります。13≫
07 オトナの味を教えてあげる
重ねるもの。10≫
08 うわめづかい
無自覚とぬいぐるみ。5≫
09 いちばんドラマチック
家族が増えました。17≫
10 さよならのかわり
ED後のあれ。3≫
11 惚れたんだ
告白。4≫
12 世界をとめるくらいの威力
多少は笑い飛ばせるようになる。14≫
13 やさしいのはいや、うんと苦しいのがいい
裏風味その2。11≫
14 約束
献身系男子。12≫
15 不安な気持ちをはんぶんこ
未来の可能性を見たとして。16≫
16 繋ぎとめてよ
同じ世界で生きていたい。18≫
17 かわいい。
出会い。2≫
18 見る限り誰もいない…と、なれば
もちろん婿入りでした。15≫
19 覚えていてください
乗り越えて。安堵して。20≫
20 泣きはらした目で笑う君
さいごです。一応死にネタ注意。21≫
17 かわいい。
ゼクセン騎士団はじまって以来の女性騎士候補、クリス・ライトフェロー。
剣術、馬術、学術、どれをとっても成績はトップクラスで、実技試験の評価もすこぶる高い。
性別の差などものともせず、巨漢の候補生と手合せを行った際にはものの数十秒で一本を取ってしまったのだとか。
聞く限りでは非の打ちどころもない優等生だが、同期の候補生たちの評価は笑えるほどに低かった。
『お高くとまって可愛げがない』
『ちょっと育ちと成績がいいからって、俺たちを見下してバカにしてる』
『いやいや、どうせ上官に取り入って成績だって操作してるんだ』
……などなど、例を上げればきりがない。
人間というのは不思議なもので、団体の中で飛び抜けた存在を攻撃の対象に選びがちだ。
自分とて、平民の生まれというだけで入団時はどれほどの罵倒を浴びせられたことか。
クリスとは部隊も異なり、直接の関わりもなく性格も知りはしないが、影で好き勝手に言われることに関しては同情を覚えてしまう。
――そんな彼女と初めての接点を持ったのは、それから三日後のこと。
訓練のサボリ――否、自主練習の為に足を踏み入れた城の裏庭に、彼女は居た。
庭の中でももっとも逞しい大木の下――太い幹に凭れるようにして、クリスは寝息を立てていた。
その手には木製の模擬刀がしっかりと握られており、格好は従騎士服の上にプレートと肩当てを身に着けたまま。
大方、ひとりで素振りでもしていて、疲れて眠ってしまったというところだろう。
足音を立てぬように彼女へと近づいて、じっとその姿を見下ろす。
ひとつに束ねた長い銀の髪が、陽光に照らされてきらきらと輝いている。
長い睫毛もまた同様で、その煌めきに思わず魅入ってしまう。
寝顔はまだあどけない少女の面影を残していて、とても何かを見下して生きているようには見られない。
――まあ、そんな顔をしながら平気で男を貶めるような女がいることも、知らないわけではないが。
「起きて」
このまま放置して風邪を引かせてしまうの忍びなく、そっと肩をゆすって呼びかけた。
睡眠は比較的浅かったのか、クリスはほどなくしてうっすらと目を開き、眠りの世界から戻って来た。
「……ん?」
「こんなところで寝ていると、風邪を引くよ」
まだ意識が定まっていない様子の少女に、更に言葉をかける。
すると、彼女はようやく覚醒したのか、はっと目を見開いて薄紫の瞳を丸くさせた。
「あ、あれ、私……眠って……!?」
「そのようで」
「えっ、あの、あなたは……!?」
「ああ、ただの通りすがりだよ。変なことはしていないのでご安心を。それじゃあ」
伝えることだけを伝えて立ち去ろうと踵を返しかける。
――しかし、ふと視界に“あるもの”が映り、その足をぴたりと止めた。
そして、もう一度クリスへと向き直り、手を伸ばした。
「な、なに……!?」
「葉っぱ」
「え?」
「葉っぱが髪についてる」
少女の頭頂部にくっついている小さな葉をつまんで取ってやると、慌てふためきっぱなしだった彼女は、顔を真っ赤に染めて俯いた。
「……ありがとうございます」
「いいえ。それより、訓練場に行かなくて大丈夫かい? そろそろ君の隊の使用時間になると思うけど」
「え!? ほ、本当だ、もうこんな時間……! すみません、失礼します!」
まるで隊長に返事をするときのような張りの良い声と共に礼をした彼女は、木の根元に寄せていた荷物の一式を拾い上げて全速力で訓練場へと走り去っていった。
後に残るのは、胸をくすぐられるような不思議な感覚。
――周囲では散々な言われようの少女だが、実際に対面しての感想を上げるならば。
「なんだ、かわいいじゃないか」
その一言に尽きる。
もう見えなくなった少女に向けて微笑を浮かべ、先ほどまで彼女が眠っていた所と同じ場所に腰を下ろし、幹に背を預けた。
青々とした木の葉が太陽の光を程よく遮り、温かさも感じながら眠りに就ける。
なるほど、確かに良い場所だ。
うっかり眠りこけてしまえるのも頷ける。
そんな納得を覚えつつ、瞳を閉じて昼寝を楽しんだ。
眠りに落ちる意識の中で微かに見たのは――。
陽に照らされた、銀の煌めきだった。
10 さよならのかわり
「パーシヴァル」
朝日が顔を出し始めて間もない時刻。
まだ城も町も寝静まっている中、愛馬と共にひっそり立ち去ろうとする男を呼び止めた。
「見つかってしまいましたか。誰にも気付かれないと思っていたんですけどね」
「直感というやつかな」
「はは、クリス様には敵いませんよ」
言いながら、男はゆるやかに微笑む。
華々しく見送られる前に抜け出すであろうことは、なんとなく予測ができていた。
いつもそうだ。
多くの人々から注目を浴びる存在のくせに、こうしてときどき人の目を潜り抜けていなくなろうとする。
置いていかれる側の気も知らないで、スルリと、風のように。
「……どれくらいで、戻って来れる?」
「さぁ、どうでしょうね。風車を直して、畑も整えて……。大雑把に見積もっても、かなりかかるかもしれませんね」
「……そうか」
「再建できたら、ぜひ足を運んでやってください。村の者も喜ぶでしょう」
そう言って、男は笑みを深めた。
それは、何度となく見てきた微笑。
しかし、今ばかりはそれがどこか危うい。
手を伸ばしてもスッとすり抜けてしまいそうなほど、今の彼の存在は希薄だった。
「……お前が行けば、村の者たちも心強いだろうな」
「買い被りですよ。私が行ったとして、果たして何ができるのやら」
「何を言う。そんなこと――」
否定の言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
覗き込んだ深い茶の双眸は、光を通さない、昏い色。
すべてを負の感情で包み込んでしまいそうな表情に、胸がざわりとざわめいた。
彼は、本当にあの村を――イクセを愛しているのだろう。
共に訪れたときの彼はいつもより気取りがなくて、少し子供っぽく、それでいてとても嬉しそうだった。
大事な大事な生まれ故郷。
――だからこそ、赦せずにいるのかもしれない。
村を焼かれたとき、偶然その場に居合わせていた自分自身のことが。
すべてを救うことなど不可能に等しいと理解しながらも、もっとできたことがあったのではないかと後悔して、自分を責めている。
そんな弱音を口にするような人間ではないけれど、涼しい顔に薄暗い影が見え隠れするようになったのは、間違いなくあのときからだ。
「……では、名残惜しいですがそろそろ」
「……」
あのときから、ずっと考えていた。
何か彼に言えることはないか。
自分にできることはないか。
いくら考えても、答えは一向に見つからない。
そうして、気づけばこうして別れのときを迎えていた。
「どうかお元気で。幸運をお祈りしています」
小さく礼ををして、パーシヴァルは踵を返した。
馬に跨ろうとする背中。
目の当たりにして、胸がぐっと締め付けられる。
――ダメだ、このままでは。
このまま別れたら、きっと、彼は二度と帰ってこない。
――そうして警鐘を鳴らしたのは、多分、自分の本能そのものだったのだと思う。
「パーシヴァル!」
気付いたときには絞り出すような声が発せられていた。
何事かとこちらをちらりと見やる昏い瞳をじっと見据える。
頭の中は今でもぐちゃぐちゃだ。
ずっと考え続けてきた答えがこんな土壇場で見つけられるはずもない。
しかし、次の言葉はそんな自分の思考とは無関係に、ごく自然とこぼれ出ていた。
「……私は、待っている。必ず、お前がここに帰ってくると信じている。だから――!」
それはきっと、心からの願い。
理性ではなく、ただひとつの想いが形になった言葉。
「……行ってらっしゃい」
告げた瞬間、昏い瞳が大きく見開かれる。
同時に、消え入りそうだった彼の存在がくっきりと色濃くなるのを感じた。
彼はしばらく黙っていた。
眠る街の中で、少しだけ時が止まっていたかのようだった。
そして、返ってきた言葉は。
「――行ってきます」
芯の通った返事は、彼が確かにそこに居ることを実感させてくれた。
瞳は光を取り戻し、見送るこちらの心に静かな安堵を灯してくれる。
去りゆく背中を最後まで見送る。
朝日に向かって遠くなっていく姿は、いつか見た頼もしさを取り戻していた。
――きっと、帰って来る。
そう信じさせてくれるような、背中だった。
11 惚れたんだ
「今日はもう十分に働いたでしょう? 少し出かけませんか」
まだ正午を回って間もない時間に立ち上がった、やや強引な提案。
いつもならただの冗談で終わる話。
しかし、今日はなぜか雲行きが違っていた。
「……仕方ないな。少しだけだぞ」
「ええ。少しだけ」
いたずらっぽく笑い合い、ふたりはそっと城を抜け出した。
雲ひとつない晴天の下、それぞれの愛馬に跨って草原を駆け回った。
馬が疲れた頃合いを見計らい、持参したサンドイッチで空腹を満たしてひと休み。
青々とした草の匂いを吸い込むのが心地良い。
そよぐ風の流れの中で、ぽつんと留まっている感覚には少しだけわくわくする。
――楽しい。
全身で“生きている”実感を噛みしめている気がした。
「空気がおいしいな……」
「ご満足いただけましたか?」
「おかげさまで。まったく、騎士団長相手にサボりの誘いをするのはお前くらいだよ」
「たまにはこんな日も良いかと思いまして」
「まあ、たまにはね。毎日こうじゃ困るけど」
「ご安心を。やることはちゃんとやっていますから」
他愛ない会話を交わして、少しばかりの沈黙。
そこに緊張や気まずさはない。
ただ、この広大な草原の中に溶け込むような、穏やかな時間が流れているだけ。
「……お前は、自由だな」
「好き勝手にやっているだけですよ」
「そうだな。勝手に出て行って、戻って来た」
「サボり魔の帰還はご迷惑でしたか?」
「まさか。嬉しかったよ。すごく」
「本当に?」
「もちろん。じゃなかったら、別れ際にあんなことは言わないよ」
『待っている』
『帰ってくると信じている』
そんなありきたりで簡単な言葉が、今のふたりを繋ぎ合わせている。
互いに確認したことなどないけれど、言わずともどこかで理解し合えているような気がしていた。
「あの言葉。嬉しかったんですよ。すごく」
「本当に?」
「本当です。じゃなかったら、今頃ここに戻って来てなんかいません」
風がざあっと草原を撫でて、なだらかな波を打つ。
その中で、手を伸ばせば届く距離にたたずむふたり。
どちらともなく向けた視線は、今、しっかりと結びついている。
「……気づいたことがある」
「偶然ですね。俺もです」
「本当は、もっと前から気づいていたのかもしれないけれど――」
「わかります。なんとなく、照れくさかったんですよね」
「ふふ。お前らしくもない」
「俺にもそういうときだってありますよ。しかし、それならもっと早くに言えば良かったですね」
「なんなら、今、一緒に言ってみようか」
「ええ、望むところです」
ひとつの風の波が抜けて、次の流れを待つ、僅かな間。
微かな鳥の囀りを聞きとめながら、ふたりは見つめ合う。
「クリス様、俺はあなたのことが――」
「私は、お前のことが――」
びゅうっと次に吹いた大きな一陣の風がうねりをあげて、草木がひときわ大きくざわめいた。
「「――」」
自然の力の中に、ふたりの言葉は飲み込まれる。
されど、互いの心にはしかと届いていた。
奥深くに根差した言葉。
互いの少し照れくさそうな微笑みが、ふたりの確かな始まりを告げていた――。
08 うわめづかい
『私は女らしくもなければ可愛げだってない。そんな女が好きだというお前は本当に物好きだ』
互いの心通わせて間もない頃、そんなことを言われた。
きっぱりはっきりと、それこそ恋人と言うより上司と部下の関係に近い口調で。
そのときは呆気に取られるあまり何も言葉が出てこず、気づけば彼女はその場からいなくなっていた。
思考が正常に戻ってから去来したのは、色々な意味での危機感だった。
「クリス様。これあげます」
両手に抱えた物体をいつものように書類とにらめっこしているクリスの目の前に置いた。
ほぼ無に近い表情で鎮座させられた物体。
クリスは間の抜けた顔で、それと自分の顔を交互に見上げた。
「なに、これ」
「熊のぬいぐるみです」
「それは見ればわかる。なんだってそんなものを」
「ブラス城の道具屋で買ってきました。なんでも、どこだかの国の交易商が置いていったんだとか」
「そうじゃなくて! どうしてそれを私に持ってくるんだ。というか、お前、これを道具屋からここまでその格好で抱えて来たのか」
「仕方ないじゃないですか。見回り中に見つけちゃったんですから」
やはり無表情のまま告げると、クリスはなかなか前進しない会話に疲れたのか、深いため息を吐いた。
「ぬいぐるみ、嫌いですか? ご自宅の部屋にたくさん飾ってあったので、てっきり好きなのかと」
「あれは子供の頃に買ってもらったものだ。まあ、別に、嫌いではないけど……」
「けど?」
「こんなかわいいもの、私なんかには似合わない」
呟きながら、クリスは羽ペンを置き、両手でぬいぐるみの小脇に触れる。
自虐的なことを言いのけながらも、その毛触りを確かめる指先は愛らしく、表情だってうっすら少女の無垢な顔を垣間見せている。
――まったく、これのどこが可愛げがないというのか。
呆れ気味にひとりごちて、愛でられているぬいぐるみをぐっと押しつけた。
「嫌いじゃないなら貰ってやってください」
「でも」
「他に行く宛てがないんですよ、この子は。引き取ってあげてください。俺もこれ以上、彼女を抱えて城内をうろつくのは避けたいですし」
「女の子なのか、この子は」
「多分。なんとなくですけど」
どうでもいい話をしつつ更にぬいぐるみを押しつけると、クリスはようやく観念して、それを自分の胸元まで引き寄せた。
「仕方ないな……」
口調は渋々といった様子だが、じっとぬいぐるみを見つめる顔は綻んでいて、まんざらでもなさそうだ。
やがて、クリスはいとおしげにぬいぐるみの頭を撫でながら、上目づかいでこちらを見やってくる。
「……ありがと」
囁かれた声に、一瞬だけ意識が飛んだ。
そして、いつしか覚えた危機感を思い出す。
「……あなたは自分のことをわかってなさすぎる」
「え?」
「本当に、少しは自覚してください」
「自覚って、なにを?」
「こういうことです」
手を伸ばし、彼女の顔に触れてこちらの都合のいい角度まで上向かせ、無防備な唇にくちづけた。
こんな衝動に駆られるくらいのとんでもない女らしさと可愛げを兼ね備えていること。
いい加減に理解して、他の奴には見せないようにしてもらいたい。
そう、切に願う――。
03 不意打ちですよ
彼女が自分の心を揺らすのは、いつも突然だ。
今回はひとつの部屋でそれぞれの読書を愉しむ。――なんて、なんでもない日常の中で、それはやってきた。
「なんだか幸せだなあ」
読み耽っていた文庫本の世界から帰ってきたクリスは、腰かけていたソファにゆったりと身を預け、スラリとした両腕と両足を軽く伸ばした。
「どうしたんですか、いきなり」
「こうやってのんびり休日を過ごしてると、戦場に出てたのが嘘みたいに思えて」
「そうですね。考えたら、こんなに一日中ゆっくりするのも久々ですね」
答えると、クリスはほどよく緩んだ、穏やかな笑みを浮かべて、呟いた。
「……この先、ずっとパーシヴァルとふたりで、こんな風に過ごしていけたらいいな」
ずっと。
俺と。
ふたりで。
特上の微笑みで、サラリとそんなことを言う。
「……不意打ちが過ぎますよ」
呆れにも似た溜息が漏れたのは、きっとただの照れ隠しだ。
それなのに、言いのけた彼女ときたら、自分の口にした言葉の重大さにまるで気付いていない。
「ん? 何が?」
「いえ、なんでも」
悟られまいと席を立ち、ソファに座る彼女に覆いかぶさるようにして、キスをした。
絡めた視線の先には、幸福の中に微かな不機嫌を宿したクリスが、頬を朱く染めている。
「……不意打ちはどっちだ」
「先に仕掛けてきたのはそっちですよ」
言い返すと、クリスは不機嫌の色を少しばかり強めて膨れた。
それでも、このゆるやかで穏やかな幸せに満ちた空気だけは、変わることはない。
「……俺も同じ気持ちですよ」
そう。
願わくば、十年、二十年先も、この穏やかな空間が変わらず残り続きますよう――。
01 さみしさの影
ブラス城のサロンで開かれたささやかな宴会の幕が閉じ、それぞれが各々の部屋に戻っていく。
自分もそれに続こうと席を立つが、向かいの椅子に腰かけていたクリスは一向に立ち上がる気配を見せなかった。
「クリス様、大丈夫ですか? よければ部屋まで送りま――」
紡いでいた言葉は途切れ、空気に溶けるように消え入った。
彼女の表情があまりに虚ろで、声どころかそれ以外の何もかもが、夜の闇に飲まれてしまいそうだった。
ほんの少し前までは、グラスを片手に涙が出るほど大笑いしていたというのに。
「何か、嫌なことでもありましたか」
「……ううん。すごく楽しかった」
「では、なぜそんな顔を」
「……楽しかったから、寂しくて」
言葉の意味を汲み取って、酔いが醒める。
同時に、どうしようもないやるせなさが込み上げて、思わず彼女の頬に手を伸ばしていた。
その体温を感じてか、クリスは虚ろなまま、希薄な笑みを浮かべた。
「いつか、みんないなくなってしまうんだな……って。こんな風に宴会が終わった後、ひとりになったときに、ときどき感じるんだ」
ぼんやりと話しながらクリスは己の右手の甲を見る。
時を止めた体と、それに絡みつく呪い。
自分はそれから目を背けていた。
「いなくなるのは、明日、明後日の話ではないですよ」
「……そうね」
「俺は今、ここにいます」
「……うん。ありがとう、パーシヴァル」
力のない返事と笑顔を前に、心の中で舌を打つ。
こんな言葉、なんの慰めにもならない。
わかっていながら、それ以上の言葉が出てこない。
「……クリス」
苛立ちを押し潰すように、薄く開いた唇に口づけた。
――そうでもしていなければ、やっていられなかった。
05 あまいひとときの、はじまりはじまり
彼によって与えられる快楽は、日々の鬱憤を忘れさせてくれる力があった。
頭の中が真っ白になるような感覚は、考えることを放棄できるほどに甘美だった。
――たとえ、それが僅かなひとときであったとしても。
今日も今日とて、その行為に溺れた。
余韻と体越しに伝わる鼓動を味わいながら、荒くなった呼吸をゆっくりと整える。
「ん……」
重ね合わせていた肌がゆっくりと離れてゆく。
冷えた空気に晒されて身をよじると、すぐさまシーツをかけられた。
シルク生地の肌触りと、額に触れる指先の温度が心地良い。
その両方に誘われて、ゆるゆると眠気がやってくる。
実のところ、今まさに、という瞬間よりも、この終わりの後のまどろみが好きだった。
考えることを停止したあと、そのまま眠りに落ちる自分には何も背負うものがない。
何も気負わず、考えずに眠って良いと許容されるなんて、まるで夢のようだ。
「――……ル」
うとうとと、ほとんど意識も飛びかけているような状態で、うわごとのように名前を呼ぶ。
うっすらと開いた視界には確かにパーシヴァルがいて、穏やかなまなざしでこちらを見下ろしていた。
『忘れることは難しくても、それ以上の何かで上塗りすれば、僅かな時間でも記憶の大地の下に埋めることができる。この行為の本当の目的はそこではないけれど、そうすることで一瞬でも楽になれるのなら、それはそれでひとつの手段だと思いますよ。あ、だからって、俺以外の相手にお願いするのは絶対にやめてくださいね』
――なんて、笑えるほど真剣な顔で言っていたのはいつだっただろう。
その言葉でどれだけ心が楽になって、自分を晒せるようになったか、彼は気付いているだろうか。
愛おしくなって、手を伸ばす。
指先で力なく頬をなぞると、その手を握り返されて、額に口付けられた。
本当は顔を寄せて口付けたいけれど、それを“おやすみ”の合図とばかりに、意識は更に深く遠いところへ落ちていく。
意識を手放した先に待つのは、夢の世界。
何にも囚われず、自由で在れる場所。
それは砂糖菓子のように甘くて、現実の苛酷さも殺ぎ落としたあまい、あまい世界。
一夜だけの夢とはわかっている。
それでも私は何度でも彼を求め、彼に溺れ、落ちる。
――このあまい、あまいひとときに。
02 それ以上は言わないで
「聞いてますか、クリス様」
説教が始まってから、間もなく十分が経過しようとしている。
しかし、終わる気配は一向にない。
「どうしてすぐそこのベッドまで移動して寝るって簡単なことができないんですか」
書類の処理をしている最中にちょっと眠気が差して転寝してしまったくらいで、なぜこんなに怒られなくてはいけないのだろう。
目の前でこんこんと説教を続けるパーシヴァルは、もはや恋人というよりお父さんのように見えた。
「……別に寝るつもりはなかったんだ」
「でも、実際には寝てましたよね。デスクに向かったまま思いきり眠りこけてましたよね。一体これで何十回目ですか」
ひとつの返事をすれば、十も二十も上乗せして問い詰められる。
長いこと一緒に居てわかったことだが、パーシヴァルは意外に細かい。特に、こと私のことになると、些細なことでもあれこれと指摘してくるのだ。
「俺は寝るなと言ってるんじゃありません。ちゃんとベッドで寝て下さいと言ってるんです。こんな所で寝てても疲れなんか取れやしないでしょう」
心配してくれているのは大層ありがたい。ありがたいけれど、もう気持ちはあり余るほど受け取った。これ以上はおなかいっぱいだ。
「そもそも、また仕事を詰め込みすぎなんですよ。明日やれることは明日やればいいんです」
――ああもう。
我慢していた自分の中の何かが、遂に吹っ切れた。
「だから、俺が言いたいのは――」
腰かけていたチェアから唐突に立ち上がり、今もお小言を零しつづける奴の唇に、自分の唇をやや強引に押し当てた。
「……」
言葉は途切れ、僅かな沈黙。
「ごめんなさい」
息を吹きかけるように囁きながら、相手の額に自分の額をこつりと当てた。
「次は気を付ける」
奴は目を見開いて押し黙ったまま、動かない。
付き合いも長くなれば、私だってこれくらいの扱いは覚えるものだ。
頭の中でひとりごち、奴の間抜けな顔を至近距離で眺めながら、私はにやりと笑んだ。
07 オトナの味を教えてあげる
向かいに座る男を凝視する。
片手には上等な陶磁器のカップ。
中には奴の瞳の色よりも更に深く濃い液体が注がれている。
いわゆる、ブラックコーヒーというやつだ。
「……」
カップを持ち上げ、唇に宛がい、中身を飲む。
顔色ひとつ変えず、なんでもない顔で。
それが信じられず、一連の動作を眺めながら、感心の唸りが漏れた。
ブラックコーヒー。
遠い遠い記憶の中で、父がよく飲んでいたのを思い出す。
父にはコーヒー、自分には甘いジュース。
そして、母の手作りの菓子。
それらを囲んで、家族水入らずの穏やかな時間を楽しんだ。
ある日、得体の知れないコーヒーの味が気になって、父に「飲みたい」とねだったことがあった。
父は「これはオトナの飲み物だから、クリスにはまだ早い」と、少し意地悪そうに笑った。
その答えに私は不満げに頬を膨らませ、母はくすくすと笑いながら私の頭を撫でた。
それから数年が経って、父がいなくなり、やがて母もいなくなった。
私はひとり、育っていった。
しばらくして、母の何度目かの命日の日。
じいに頼んでブラックコーヒーを淹れてもらった。
初めて飲んだその液体は、とても苦く――あまりの苦さに胸が詰まって、半分しか飲むことができなかった。
以来、一度も口にしたことはない。
そんなセンチメンタルな過去を逡巡させながら、なおも奴を凝視した。
「どうしたんですか、さっきから」
さすがに気になったのか、パーシヴァルは訝しげな顔でこちらを見つめ返してきた。
「――別に。よくそんな苦いもの飲めるなと思っただけだ」
「コーヒー、嫌いでしたっけ」
「ミルクと砂糖が入ってたら飲めるけど、ブラックはダメだな」
「まあ、好き嫌いは分かれる飲み物ですよね」
他愛ない会話を交わしながら、思い出を少しずつ内側に押し戻していく。
目の前にいる男は“今”を生きている。
そんな彼の何気ない断片に“過去”を重ねるなんて。
自分自身に、心底嫌気が差す。
「確かに、単体で飲むのは苦いですけど」
コーヒーを啜りながら、ぽつりとパーシヴァルが口を開く。
「甘いものとあわせるなら、さほど苦みも感じなくておいしいと思いますよ」
「――え?」
「例えば、そのフォンダンショコラとか」
デスクの脇に置いた皿を指差される。
奴が仕入れてきたゼクセで人気の店のフォンダンショコラ。
少々甘みが強く、半分ほどでフォークが止まっている。
「試してみますか?」
何とない顔で、奴のカップを差し出される。
まだ半分ほど残っている、深い黒の液体。
あの頃、飲み干せなかった苦い黒。
何も知らないとはいえ、この男はそれを飲んでみないかと促している。
しかも、苦さを和らげる方法すら提示して。
――なぜだか、目頭が熱くなった。
「……本当になんなんだろうな、お前は」
「何がですか?」
「いや、なんでもない。……コーヒー、試してみる」
カップを受け取り、そっとその淵に口づけた。
一気に飲み干したその味は、昔と変わらず確かに苦かったけれど。
どこかやさしく、いとおしい味がした。
13 やさしいのはいや、うんと苦しいのがいい
長い口づけで人を酔わす男の指先が、頬から首筋をゆっくりとなぞってゆく。
しなやかで悪戯な手はそのまま鎖骨の縁から肩口を辿り、衣服の隙間へと潜り込んだ。
服は肘のあたりまで降ろされて、やんわりと自由を奪われる。
もどかしくも甘ったるい感覚に、肌はじわりと熱を帯びていく。
「っ……」
身じろいで、声にならない息が漏れる。
その反応に気を良くしたのか、いつの間にか背中までまわっていた腕に少しばかりの力が加わり、ぐいと抱き寄せられた。
体を密着させて、再び唇を重ねられる。
抵抗せずに受け入れた舌は口内の奥深くを貪って、体も意識もゆっくりとほぐしていく。
――甘く、じっくりと溶かすように、パーシヴァルは私を抱く。
触れる指先はいつだって優しくて、慈しむ心配りを忘れない。
少しでも辛いそぶりを見せればもっと優しく触れてきて、それを和らげてくれる。
信じられないくらいに優しく甘い夜に、いつも満たされる。
優しくされるのは、嬉しい。
――けれど、ときおりふと思う。
果たして、この優しさは彼の本性なのだろうか。
この優しさの流れの中にいる内は、まだ本当の彼に触れられていないのと同じなのかもしれない――と。
思うと、次第に強い欲が込み上げてくる。
――知りたい。見てみたい。
「ん……?」
口づけたまま、優しい掌が胸元に触れようかというタイミングで、不意に脱力していた体に体重をかけて、抱き合ったままシーツの海に倒れ込んだ。
押し倒され、弾かれたような顔でこちらを見上げるパーシヴァル。
その表情に少しだけ優越感を覚えて、やや強引に唇を押し当てた。
満たしてもらうばかりだった自分には考えられないような行為。
角度を変えて口づける内にようやく羞恥の感情が追い付いてきて、体の芯がかっと熱くなる。
「はっ……」
散々唇を味わって、吐息をひとつ。
灯りを絞った静寂の寝室の中で、自分の心音だけがうるさく脈打っている。
その鼓動を黙らせるように、少し低めの声で言葉を押し出した。
「優しくしなくていい」
その先の言葉はとても面と向かっては言えそうにない。
だから、黙って自分を見つめる男の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「好きに、して」
告げて、少しの間が空く。
反応のなさに気を少し抜きかけた瞬間、世界がぐるりと反転した。
気付けば上下の位置関係は正反対。
見上げた先には何とも言えない複雑そうな表情を浮かべるパーシヴァル。
「人の我慢も知らないで、とんでもないことを言う」
「気遣ってくれてるのはわかってるし、ありがたいとも思ってる」
「わかっていて言ったなら、尚のことタチが悪いですよ」
「私にだって、そういうときもあるの。自分でも、今、気づいたけど」
「……苦しくても、もう止められませんよ」
「構わない。本当の顔を見せてくれるなら……それでいい」
指先で、薄く開いた男の唇をゆるりとなぞる。
解き放たれた男はその指を軽く咥えて舐めたのを皮切りに、獣に豹変した。
あとは、苦しいくらいの快楽と歓喜の渦に意識ごと飲み込まれるだけ。
溢れる優しさよりも、苦しいくらいの真実。
刻み付けられた躰は、それは幸せそうに、良く啼いた。
14 約束
「パーシヴァル。少し話がある」
――その日のクリスは、ひどく不機嫌だった。
「約束を守らない奴は嫌いだ」
呼び寄せられた彼女の私室でふたりきり。
いつもならば柔らかく穏やかな空気が漂うところが、今日はそうはいかない。
じと目でこちらを見てくるクリスの仕草は実に愛らしい。
しかし、周囲を包むどす黒いオーラはそんな感想すら抱かせぬほどの怒気に満ちている。
「破ってはいませんよ」
「いいや、破った」
力ない反抗は間髪入れずにあっさりと握り潰される。
――まずい、本当に怒ってる。
怒る彼女は今まで何度となく見てきたが、これはかなり危険な部類の怒り方だ。
三日――いや、もしかすると一週間は尾を引くかもしれない。
ちょっとした身の危険を覚え、血の気がすっと引いていく。
「どうして守ってくれないんだ」
「だから、破ったつもりはなかったんです」
「そんなの嘘」
唇を尖らせながら、クリスが右手を伸ばしてくる。
――ああ、これは殴られるかな。
予感をしつつも、避ける気は起きなかった。
一発殴ることで気が済むのなら、それでもいい。
思いながら、掌が自分の左頬に触れるかどうかというところまで近づいたところで目を閉じ、歯を食いしばった。
「……?」
待ち構えていた衝撃は 一向にやってこない。
恐る恐る片目を開いて見やると、クリスの掌からうっすらとした光が生み出されていた。
光は薄青色に輝き、クリスの指先に一点集中する。
その指先が、自分の頬をゆっくりと撫でた。
――先の戦いで傷ついた箇所だった。
「怪我をしたら言えって言ったのに」
「こんなかすり傷、怪我のうちに入りませんよ」
「入る。出血だってしてる。放っておけば跡も残る」
「構わなくて大丈夫ですよ。嫁入り前のお嬢さんじゃないんだから」
「いやだ。構う」
「跡が残ったら婿にはしてもらえない、と?」
「ち、ちがっ……! そういう問題じゃない!」
頬を染めて見上げた瞳は微かに潤んでいて、今にも泣きそうな顔をしている。
それから、傷を癒す指先はそのままに、クリスは切々とした声で言葉を紡ぐ。
「お前の傷は、私が治す。唱えるのは時間がかかるけど、私でもそのくらいのことはできるんだから……」
うっすらと光り続ける指先は、傷口を辿って癒していく。
手に力を宿した意味を探すように、少し惑いがちに、ゆっくりと。
――その切なさが、やるせなくなるほどに、いとおしかった。
治療を終えた手をそっと握り締めて、顔を近づける。
ちょっとその気になれば、唇も奪える距離で、静かな懺悔。
「約束を破ってすみません」
「……」
「次からはちゃんと言います」
「……絶対だぞ」
「はい。紙で指を切っても言います」
「うん」
「口の中を切っても言います」
「うん。それでいい……って、え!?」
「治してくれるんですよね?」
「……し、知らないっ!」
握りしめていた手を振り払われて、バシリと肩を叩かれる。
怪我を治した後にこれなのだから、笑いのひとつもこぼれてくる。
――けれど、これでいい。
この約束が長い時間を生きていく糧になるのなら。
この他愛のないやり取りが心の支えになるのなら。
愛した人の傷を癒したという事実が紋章の呪いを晴らす一粒の光になるのなら。
小さな約束くらい、いくらでも君に捧げよう。
いくらでも、この命ごと――。
06 トクベツの証
彼女は多くの人に愛されながらも、どこかひとりだ。
市民や部下たちの前では常に気を張り、己を律して立つ。
他人に弱みを見せることは自分自身が許さず、誰かを頼ることなど最初から選択肢にない。
そんな窮屈な人生を歩んでいるのが、クリス・ライトフェローという人間だ。
互いの心を通わせようともその姿勢は変わらず、彼女はかたくなに甘えることを拒んだ。
最初は単なる筋金入りの頑固者なのだと思った。
本当は心細いくせに、意地を張って、少し可愛げがないと感じたこともある。
しかし、更に長く近くに居続けるうちに、気づいた。
意地を張る?
違う。
彼女は――甘えることができないのだ。
そうなってしまったのは、恐らく彼女の過去にある。
幼い頃に家族を失くした彼女は、人よりも早く自立せざるを得なくなった。
更に女でありながら騎士を志すという茨の道を選ぶことにより、その気持ちには拍車がかかる。
『誰にも頼らず、己の力で道を切り開き、自分の足だけで立たなければいけない』
そんな意思が強迫観念のように渦巻いているのだろう。
だから、できないのだ。
甘えることも、気持ちのままに怒りをぶつけることも、理不尽な駄々をこねることも。
それらの感情をすべて押し殺して、きっと彼女はここまで生きてきたのだ。
もう、赤の他人では彼女を甘えさせてやれない。
――もし、できるとしたら。
方法は、ただひとつ。
「なんだ、これは」
「指輪です」
「指輪? 誕生日でもないのに、どうしていきなり……」
「俺を、あなたの家族にして欲しい」
「な――」
「例え相手が俺でも、あなたは甘えることができないんでしょう? 所詮は他人ですからね」
「何を言ってるの」
「でも、家族になればそうもいかない。一緒に生きていく間に、いつかボロを見せるはずだ」
言いながら、差し出した指輪の入ったケースを更に彼女に近づけた。
ケースを持つ己の左手薬指には、同じデザインのシンプルな銀のリングがすでに嵌まっている。
「これはその証。あなたがいずれ俺に甘えずにいられなくなる証です」
「……」
「受け取って貰えますか」
「……嫌だ」
「……クリス」
苛立ち気味に名を呼ぶと、クリスは瞳を微かに潤ませ、顔を真っ赤に染めながらも不機嫌そうに口を開いた。
「自分で嵌めるのなんか、嫌だ」
「――え?」
言葉の意味を解せずにいると、彼女は自分の左手をやや乱暴に突き出し、目を逸らしながら少し怒ったように言い放った。
「……嵌めて」
自分の顔を見られないように極限まで顔を背けつつも、指輪を要求する左手はしっかりとこちらに向けられている。
それが彼女の最初の甘え。
“家族”としての最初のワガママだった。
「……ありがとう」
彼女の左手の薬指にリングを嵌める。
彼女が甘えられる証。彼女と自分が家族になった証。
唯一で、特別な、証。
「……それは、こっちのセリフよ」
やはり目を逸らしながら、それでも女らしく呟く彼女。
愛おしくなり、そっと彼女の頬に手を伸ばしてこちらに向け、満ち足りた思いで口づけた。
12 世界をとめるくらいの威力
広い世界の中で二十七しかない真の紋章は、世界をとめるくらいの威力を持っているのだという。
――そのひとつが今、自分のこの右手に宿っている。
右手の甲に浮かぶ、薄青の円。
水を司る紋章にふさわしく、円はときおり静かな光を放つだけで、それ以上の何かをもたらすことはない。
もう既に何年かの付き合いだが、そんな大それた力があるものだとは、とても思えなかった。
……まあ、自分の魔力が乏しいがゆえの反応なのかもしれないが。
「この紋章の力を解き放ったら、世界は凍ってしまうのかな」
右手の甲をぼんやり眺めながら、呟く。
なんとも物騒な話題だが、茶の相手をしてくれていた男は平然とした面持ちで受け止め、考える素振りを見せた。
「どうでしょうねえ。炎の英雄が紋章を暴走させたときは、グラスランド一帯が三日三晩は火の海になったと聞きましたが」
「……だとしたら、私くらいの魔力しかなくても、ブラス城くらいは凍らせることができるかな」
「それくらいなら、できるかもしれませんね」
探るように見つめると、右手の円は微かに青白い光を放った。
まるで「容易いことだ」とでも言いたさげな様子だ。
紋章に意思や心が宿っているとは思えないが、こちらの心に呼応する何かはあるらしい。
「試してみますか?」
無言で右手を見つめ続けていると、その手越し、向かいのソファに座っている男がぽつりと言葉を投げかけてきた。
視線を右手から、男へと移す。
「お望みなら付き合いますよ。幸い、水魔法にはそこそこ自信がありますから。お力にもなれるでしょう」
にこりと笑って、そんなことを言う。
どう考えも、午後のティータイムにするべき話題ではなかった。
いや、ティータイムではなくとも、こんなに軽く口にして良い話題ではない。
それでも、こぼれてしまったのは――。
「お前が付き合ってくれたら、ゼクセまで凍らせることができるかもしれないな」
「おや、その程度ですか? せめてグラスランドくらいまでは頑張りましょうよ」
「頑張るって、そんな」
くすくすと笑い合う。
自分でも驚くほどの笑みがこぼれた。
思わず手を伸ばして、口付けてしまいたくなるくらいの嬉しさが込み上げる。
テーブルひとつを挟んでの距離が、今日ばかりは妙に遠く感じられた。
「試したくなったらいつでも呼んでください。準備はしておきますから」
「あぁ。ありがとう」
静かな微笑を浮かべて、互いの茶菓子に手を付けた。
こんな話、とても他の誰かには聞かせられない。
こんな話をして、こんなに満たされる自分など、彼にしか見せられない。
今も、これから先も、それは揺らぐことのない事実になるだろう。
世界をとめるくらいの力。
そんな人智を超えた力を手にしてもなお、穏やかに笑い、隣にいてくれる人がいる現実。
その現実こそが、世界をとめるくらいの力を、止める力なのだと思う。
18 見る限り誰もいない…と、なれば
自分の家の屋根に上ったのは、初めてだった。
梯子に足をかけて上りきると、のんびりと仰向けになって空を眺めている男がいた。
「どうしました?」
「どうしたもこうしたも、工具を持って上ったっきり全然帰ってこないんだから」
「それはご心配をおかけしまして」
笑いながらもまだ戻る気配のなさそうな男の様子に軽い溜息を吐き、その隣にそっと腰を下ろした。
目線の先にはゼクセの街並が広がっている。
民家よりも背の高いギルドホールの頭がちょこんと突き出ているのが、評議会議員たちの不遜な態度を象徴しているような気がして、苦笑が漏れる。
台風一過で晴れ渡った空は高く、空気もよく澄んでいて心地が良かった。
「じいが真っ青になっていたわ。ライトフェロー家の当主に雨漏りした屋根の修理なんかさせてしまったって」
「好きでやってることだから気にしなくていいのに。大した傷みでもなかったし、わざわざ大工を呼ぶまででもないですよ」
「修理は終わったの?」
「ええ。ご覧の通り」
自慢げに修理した屋根を指差し、パーシヴァルは笑う。
当人は軽く笑って済ませているが、確かに屋根の補修など、貴族の当主たる人間がやるようなことではない。
それでも、彼はまったく気にすることなく修理役を買って出た。
それだけではない。
使用人たちを労う意味も込めて手料理を披露したこともあれば、メイドの背丈では届かないような位置の埃を払う掃除だって手伝ったことがある。
聞きつけた他の貴族たちは「当主の矜持もない」だとか「平民の血が流れている証拠」などと嘲笑したが、彼はまったく相手にしなかった。
そして、私も恥ずべきことだとは思わなかった。
「当主は何もせず偉そうにふんぞりかえっているべし」だなんて、誰が決めた。
そんな法律など、どこにある。
他の貴族の当主たちと振る舞いが異なるからと言って彼を否定するならば、それは自分自身を否定するのと同じだ。
女でありながら騎士になった自分を否定することと、何も変わらない。
彼は他の誰でもなく、私はそんな彼を唯一の人として望んだ。
自分には、それだけで十分だった。
「にしても、屋根の上でくつろいでいる人がいませんね」
「そういう習慣は、ゼクセにはないわね」
「イクセでは多かったですよ。かくれんぼの隠れ場所にしてる奴もいました」
「へえ。で、お前もそうだったと」
「まあね。懐かしいですよ」
パーシヴァルは上半身を起こして、あたりをぐるりと見回した。
自分もそれに倣うが、当然ながら屋根の上には自分たち以外の人影は見当たらない。
下界の路地には人が行き交っているざわめきが聞こえてくるが、現在の位置からでは姿までは見えない。
人口の多い首都だというのに、その中でふたりきりだけになってしまったかのような、不思議な感覚がした。
「本当に、誰もいないですね」
「いないな」
「……と、なれば」
ぼそりとしたつぶやきが耳に入り、不意に顔を覗き込まれた、と思った瞬間。
既に唇を奪われていた。
予期もしない出来事に体は硬直して動かない。
それをいいことに奴はこちらの肩を抱き、あっさり自分のテリトリーに引き込んでしまっている。
台風一過の晴天の下。
確かに見る限りは誰もいない。
奴との関係が始まって、もう結構な年月が経つ。
キスひとつに動揺するような乙女はとっくに卒業した。
世間にだってすっかり知れ渡った関係で、後ろめたいことも何ひとつない。
だけど。
だけどだ。
「お前という奴はっ……」
「何か?」
ほとんど口づけたままの状態で交わす会話。
こんなに気持ちのいい日にまったくそぐわない甘い何かが漂っている。
まるで、本当にここだけが別世界に切り離されたかのようだ。
「いくら誰も見てないからって、ここをどこだと――!」
「奥様ー! 旦那様はご無事でしたか?!」
抗議の声は、屋根の下から響く使用人たちの悲鳴によって掻き消された。
「あ、ああ、大丈夫! 安心して、もう少しで降りるから!」
抱きすくめられたまま、下界に向かって叫ぶ。
体を引き剥がそうと腕の中で軽く抵抗を試みても、男はそれを許さず満足げに人の髪を撫でている。
――もはや怒りも冷めて、呆れしか残らない。
「……このバカ当主」
「なんとでも。それにしても“今すぐ”じゃなくて“もう少し”なんですね」
「……うるさい」
抵抗を諦めてその身を男の胸に預けると、優しく、包み込むように抱きしめられた。
その感触と暖かさはなぜか深く自分の中に残り続け、忘れられない宝になっている――。
15 不安な気持ちをはんぶんこ
繰り返し見続けている夢がある。
ある夜は沈黙に包まれた白い世界。
ある夜は血飛沫に満ちた赤い世界。
その極端に偏った世界にたたずむ夢を、毎日、交互に見る。
それぞれの世界はすべてが正反対だった。
五感をすべて失くしたと錯覚するほどの静寂に閉ざされた白。
五感のすべてを強烈なまでに刺激する狂気を帯びた赤。
両極端な、白と赤。
連日繰り返される色彩は、チカチカと点滅する光のように、心を惑わせる。
ふたつの世界は、確かに両極だ。
交わることなど、有り得ないと思わせる。
しかし、同じ夢を見続ける内に、ふと気づく。
それぞれの世界は正反対でありながら、実はまったく同じものを示している。
すべてが異なるように見えて、赤と白は太く揺らぐことのないひとつの共通点によって、強く結びついていたのだ。
ふたつの世界には「命」がない。
白にも赤にも、生命の息吹はかけらも見当たらない。
此処に立つのは、自分ただひとり。
その自分ですら、その先の生は望めない。
水も、食物も、生命を紡ぐ手段はすべて潰えて、あとは絶えるのみ。
……そう、この白と赤は、どちらもこの世界の『最後』。
あの風の子が憂い、抗い、打ち砕こうと対峙した、運命の終着点の可能性たち。
万物の祖とたるモノが見せる、不変の理なのだ。
それに直面した私は――
「――私、は」
言いかけた所で、ぼろぼろと涙がこぼれた。
眼前には隣で眠っていた――うなされている自分を起こしてくれた男が心配そうにこちらを見つめている。
あまりに抽象的な夢想世界の話。
何があったのかを問われ、隠すこともできず、すべてを語った。
男はそんな話にも黙って耳を傾けていた。
途切れ途切れの言葉をすべて聞き入れてくれていた。
「私は……怖い」
呟くと同時に、頬から顎を伝って流れた涙が右手の甲に滴り落ちる。
甲に刻まれた薄青の楕円状の紋章は、そんな自分をせせら笑うようにうっすらと光を放った。
その光がたまらなく憎くて、悔しい。
支配などされまいと強い意志で制していたつもりだったのに。
無常な存在になど飲まれまいと誓っていたのに。
ふたを開けばこうも簡単に、心は絶望と不安に満たされてしまう。
いずれにしても、何も残らない終焉は、いつかやってくる。
何をしても無駄だと提示されているような気がして。
――迫りくる恐怖に、自然と肩が震えた。
「こいつは、ずいぶんといい性格をしているようですね」
口を開いた男が、両手で包み込むように右手を握ってくる。
薄青の光はひとまわり大きな手に包まれて、挟まれた空間の中でだけ、窮屈そうに輝いた。
それを見つめる男の瞳は冷ややかで、どこか挑戦的だ。
寝癖で乱れた髪をそのままにしつつも、その顔は戦場に立っているときの頼もしさすら感じさせる。
「その夢、俺にも見せてもらおうか」
「……え?」
「ひとりで見るから不安になって、いろいろ考えて押し潰されそうになるんですよ。新手の嫌がらせみたいなものです」
言いながら軽く息を吐いて、指と指とを絡めてきて、固く手を握られる。
脱力しきって口をぽかんと開けていると、空いた方の指先で目元のに残る涙を拭われた。
「同じ夢を見て、一緒に不安になりましょう」
微かに笑まれて、額に軽く口づけを落とされて、半ば強引にベッドの中に引きずり込まれた。
それでも、繋いだ手は絡めたまま。
その温もりと存在感に、確かな安らぎが灯る。
「……かなり強烈な夢だぞ」
「心構えはしておきますよ」
「きっと、後悔すると思う」
「するかもしれませんけど、それはもう自業自得ですから。ま、世界なんて終わるときは終わるものですし、先に知っておくのも悪くはないでしょう」
サラリと、あまりに簡単に囁かれた言葉。
投げやりとも思えるその言葉は、今の自分を立て直させるには十分すぎるほどの力を持っていた。
「……ありがとう、パーシヴァル」
「いいんですよ、俺が望んだことなんだから。でも、ここまで言ってこいつが同じ夢を見させてくれなかったら、とんだお笑い草ですけどね」
「ふふ、いい性格をしてるなら、そういう意地悪もするかもね」
「さあ、朝までまだ時間はあります。ゆっくり眠って下さい」
小さく笑い合って、手を結んだまま、再び眠りに落ちる。
――その後に見た夢は、やはり血まみれの赤い世界だった。
けれど、今回は隣に立ってくれる男がいた。
固く手を握り、気の狂いそうな赤の中で片時も離れることなく傍にいてくれた。
結局、どうにもすることもないまま、夢からは目覚めてしまったけれど。
今はまだ、それでいい。
途方もないこの不安を分かち合うことで、私はまだ。
まだ、前を向いて、生きてゆける――。
09 いちばんドラマチック
『たぶん、女の子だって』
『それなら、きっと髪の色も目の色もあなたに瓜ふたつな美人が生まれてきますね』
『そんなこと言って。いざ自分と似てたら、絶対に嬉しくなるに決まってる』
『かもしれませんけど。でも、やっぱりあなた似がいいです。そう簡単に男も寄せ付けないような、あなた似のとびきりの美人が生まれてくるんですよ』
大きくなった彼女のお腹を撫でながら、そんな夢を語った。
彼女は『生まれる前から親バカだな』と笑っていたが、信じ切っていたのだ。
銀色の髪と、紫の瞳を持つ、彼女の遺伝子を全身に受け継ぐ美しい娘が生まれてくる。
自分に似た要素なんて持っていなくていい。
流れる血や遺伝子で、彼女と自分の子供だと証明できればそれで十分だ。
半ば、本気でそう思っていた。
――そして、出会いの日。
「おめでとうございます、旦那様。少し小さめですが、元気な女の子ですよ」
部屋から出てきた医師に告げられ、ほとんど無意識に立ち上がっていた。
ふらふらとした足取りで部屋へと進む。
中央のベッドに横たわる彼女と、その脇に居る小さな命。
「……お待たせ」
汗を滲ませ、少しぐったりしながらも、クリスは微笑む。
大業を成し遂げた彼女は充足感に満ちていて、かつてないほどに眩く見えた。
「体は、大丈夫?」
「うん。私は平気。だから、この子のこと、見てあげて」
ふと目配せされて、何となくすぐには目を向けられなかった“彼女”へ、ゆっくりと視線を移した。
待ち望んでいた存在のはずなのに、いざ対面となると、こんなに照れくさいものなのか。
味わったことのないようなくすぐったい気持ちが、全身を覆う。
ようやく、その姿をしっかりと目に止める。
そこにいる“彼女”は――。
「……」
ふわりと生えた髪は、自分とほとんど同じ黒に近い茶。
そして、うっすらと開いてぼんやりと室内の光を追う瞳の色は、彼女と同じ、薄紫色だった。
「……あ、」
言葉らしい言葉が出てこない。
そんなこちらの気持ちを悟ってか、クリスは穏やかに事実を告げる。
「髪の色はあなたと同じ。目の色は私と同じ」
彼女は優しい“母”の顔で“彼女”を見つめ、その真実をもう一度、自分に伝えてくれた。
「紛れもなく、私とあなたの子供ね」
その言葉が、自分の中にある最も深いところに突き刺さる。
優しく、されど力強く、自分の中に根を下ろす。
――この子が、彼女と、俺の――娘。
そんな当たり前の事実なのに。
実際に対面することで、こんなにも自分を震わせるなんて。
「……パーシヴァル?」
少し驚いたような表情で、自分を見上げるクリスに、首を傾げる。
何ごとかと彼女に顔を寄せると、そっと伸びてきた指先が自分の頬を拭った。
それで、ようやく気付く。
無意識に、涙が流れていたことに。
クリスはなおも呆然とした様子で呟いた。
「……泣いたの、初めて見たかも」
「初めて見せた、かも」
間の抜けた返事に、彼女はゆったりと微笑んだ。
「やっぱり、自分に似てるところがあったら、嬉しいでしょ」
「そうですね。でもそれ以上に、ふたりに似ていることが、嬉しい」
「……そうね」
笑い合って、額を寄せ合う。
それだけで、満たされる。
こんなに穏やかで深い想いがあることを、初めて知った。
他でもない彼女たちが教えてくれた。
「……クリス」
「なに?」
溢れそうな愛おしさと感謝をこめて、口づけた。
「ありがとう」
そして、そっと彼女たちを護る誓いを、自分自身に刻み込んだ――。
16 繋ぎとめてよ
混雑し合うビネ・デル・ゼクセの市場に訪れると、立ち並ぶ異国の食物や民芸品の屋台に魅入っていた人々の視線が、一斉にこちらへと向けられた。
注がれる眼差しは冷たく、瞳の中にはあからさまな恐怖、もしくは嫌悪の感情がふんだんに湛えられている。
こちらの耳に入らぬよう声量を絞って何かを囁き合う者もいるが、中身など聞かずともお見通しだった。
「本当に変わらない……」
「気味が悪いわ……」
「……やっぱり魔女なのよ」
――ほら、やっぱり。
予想どおりの会話が耳に止まり、思わず乾いた笑みが浮かぶ。
――右手に呪いを宿して二十年。
当時の歴史的英雄であった「銀の乙女」は既に齢四十を超えながらも二十代の若さを保ち続け、現在は「銀の魔女」と呼ばれ、恐れられていた。
「……帰りますか?」
並んで歩くパーシヴァルが、心配そうな面持ちで問うてくる。
二十年前に「ゼクセンの象徴たる英雄をかっさらった男」と話題を独り占めにし、祝福と羨望の眼差しを浴びた彼も、今や「魔女のしもべ」だのと罵られている。
当の本人はそれを「気にしていないし、しもべなのは間違いない」と笑って流しているが、道連れにしてしまった後悔を拭い去ることはできない。
「大丈夫。今更どうってことない。まだ目的の貿易船は見られてないし、このままじゃ帰れないわ」
「……そうですね」
気にしていないことを強調して笑ってみせると、パーシヴァルも薄く笑い返してくれた。
「無名諸国の新しい貿易船が停泊しているから」と、もっともな理由をつけて自分を連れ出してくれたのは、他でもない彼だ。
世間に余計な波を立たせまいと外出を控えていた自分への、これ以上にない気遣い。
外に出たなら、周囲の目も弾き返してなんでもない顔で並んで歩いてくれる。
その心強さは何物にも代えがたく、周囲の濁った視線も、どうとも感じなくなった。
久しぶりに浴びる陽の光が温かい。
箱に詰まった果実の色が瑞々しくて美しい。
そういった自然の産物に触れるだけで、十分に満たされる。
私は現実の世界に立っている。
ひとりきりではない。
――そう、言い聞かせている。
「思ったより見物人の混雑が酷いな……。だいぶ待ちそうですけど、良いですか?」
「大丈夫。せっかくだもの」
「そうですね。では、行きますか」
ひとつ頷いて、パーシヴァルは人ごみの方へと歩みを進める。
並んでいた体が、一歩先を行く。
――その瞬間、言いようのない不安に襲われた。
「――待って」
数歩遠のいたところで、慌てて彼の手を握りしめていた。
何度となく触れて、良く知った感触。
その容姿は時間を確かに刻んで変化し続けているけれど、温もりは決して変わることがない。
この繋がりが、彼と同じ世界に生きていると実感させてくれる。
止まった自分の時間と、淀みなく流れ続ける世界を繋ぎ止めていてくれると、感じさせてくれている。
「……クリス?」
手を握ったまま、不安そうにこちらを見つめる瞳はただただ優しい。
この二十年、いつだってそうだった。
もちろん、山も谷もなかったわけじゃない。
笑って、泣いて、苦しんで――けれど、その度にどうにか乗り越えてきた。
ふたりで、家族で、大切なものを育んできた。
自分がこうして正常な意識を持ってここに立っていられるのは、この手があったから。
彼がいたからに、他ならない。
「お願い……。繋いでいて」
「……言われなくても、俺は最初からそのつもりですよ。もちろん、最後までね」
その言葉と共に、力なくつかんでいた手を強く握り返された。
そして、ゆるやかな力で引かれ、再び並んで歩いてゆく。
歩きながら、時間の流れに沿って生きている手に、願いを乞う。
どうか、この手を離さないでいてください。
あなたがいる――あなたと生きるこの世界から切り離されて、落ちてしまわぬように。
どうか。
――どうか。
04 ながい睫毛と拗ねた頬
「どうせ俺は年寄りですよ」
不貞腐れた声に思わず苦笑する。
大層不機嫌なご様子でソファに仰向けになっているパーシヴァルは、今やこの家の「当主」と呼ばれる立場にある男だ。
言い換えれば、私の「夫」という立場でもある。
「いい年して、そんなに拗ねないの」
「……追い打ちをかけてくれる」
苦虫を噛み潰したような顔で睨まれる。
私はそれに臆することもなく、くすくすとからかい混じりに笑んだ。
彼は年齢こそ壮年期と呼ばれる年代から中年期へと足を踏み込みかけているものの、同じ世代の男性と並べば端整な顔立ちも相俟ってか、比較的若く見える方だ。
それに、普段はどちらかといえば自然にやってくる老いを受け入れている感が強く、「自分はまだ若い」などと変な意地を張ることもない。
では、なぜ今回に限ってこんなにご機嫌ナナメなのか。
それはすぐに察することができた。
「自分の子供たちに年寄り扱いされるのは、やっぱりショック?」
「当たり前です」
指摘すると、予想通りの回答が返ってきた。
先ほど、個人的に親睦を深めたカラヤ族の友人に会いに行くという実の子供たちのボディーガードを申し出た彼は、あっさりと断られた挙句、こう言われたのである。
『アムル平原の魔物くらいなら私たちでも大丈夫。父さまももうお年なんだから、ゆっくりお休みしていてよ』と。
子供たちからすれば、父をいたわっての発言だったのだろうが、現状を見るとまったくの逆効果なのが嘆かわしい。
「戦後処理明けだし、気を遣っていたのよ」
「……あなたにはそんなに気を遣ってなかったようですけど」
「あら、それを引き合いに出してくるなんて、珍しい」
自分の右手に宿る紋章は、人知を超える未知なる力を持っている。
その影響で、私の身体は老いることを止めた。
実年齢では彼より四つしか若くないのにも関わらず、私の外見はこの力を手にした二十代前半の頃のままだ。
今では彼と並んで歩けば、ひどく年の離れた夫婦に見える。
初めはそんな現状を嘆き、悔やんで、塞ぎ込んだ時期もあった。
だが、今は不思議とそれは薄らいでいる。
それは恐らく、彼を含めた家族や親しい人々が、そんな自分に変わらず、ごく自然に接してくれるからであろう。
「私はまだまだ若いからね」
立ち上がり、余裕めいた笑みを浮かべながら、夫の顔を覗き込む。
「子供たちが疲れを気にかけてくれるくらい大人になったんだって、喜べない?」
「……素直には受け入れられないな」
不機嫌な表情のまま、パーシヴァルは溜息を吐く。
彼が纏う雰囲気は、昨日の仕事の疲れも含んでか、非常に気だるい。
それは、この年代でしか醸し出せない、一種の色気のようなものでもある。
その色気に素直に惹かれる自分がいることに気付いたのは、半年くらい前のこと。
「確かに、ちょっと老け込んだ」
まじまじと顔を眺めながら呟くと、彼はうっすら目を伏せ、わかるかわからないか程度に頬を膨らませて、更に拗ねた。
思いのほか長めの睫毛が揺れる。
年相応に老けつつも、その仕草はまるで子供のようだ。
「かわいい」
感想を述べるが後か先か、気持ちのままに口付けていた。
拗ねた子供をあやような気持ちと、純粋な恋心を伝えるような気持ち、どちらもが同居するようなキス。
それは、時を重ねてこそ生まれ、混じりあう感情に違いない。
――私も、年を取ったな。
素直にそう思えるのが、どうしようもなく、嬉しかった。
19 覚えていてください
人は老いていくにつれ、体も弱っていく。
免疫が薄れた体には病の源が棲みつき、体の内側を徐々に蝕んで、やがて死へと至らしめる。
辛く悲しいことだが、それが自然の流れ。
ごく自然で、人間らしい末路と言えるだろう。
体の自由が利かなくなり、ベッドに伏せることが多くなってから、しみじみとそんなことを考えるようになった。
「薬の時間よ」
ベッドから上半身を起こして読書に耽っていると、クリスが円形のトレイを持ってやって来た。
「はい。お昼の分」
受け取ったものは四錠の玉薬と、一包の粉薬。
それをまとめて口の中に入れ、渡された水と共に喉の奥へと流し込む。
粉薬の苦い後味に眉を顰めると、クリスは意地悪げにくすくすと笑んだ。
「笑いますけどね。本当に苦いんですよ、これ」
「良薬口に苦しと言うじゃないか」
「だといいんですけどね。……ところで、それは?」
ふと気づき、トレイの上に載っている皿を指差す。
不格好に切り分けられた林檎。
そのいびつな形は、彼女のナイフの餌食になったことを物語っている。
「さっき、ボルスが持ってきてくれたんだ」
「ボルスが? それはそれは。顔も見ておきたかったな」
「呼び止めたんだけど、これから見習い騎士の指導に行くそうでね。終わった後にまた寄ってくれると言っていたよ」
「いくつになってもあいつは本当に元気ですね。羨ましいことだ」
皿を受け取り、切り分けられた林檎をひと口齧る。
強い甘さとほのかな酸味が口内に広がる。
その味を噛み締めながら、空のコップや薬包紙を片づけるクリスをじっと見つめた。
彼女は右手の紋章の力によって今もなお若々しく、その美貌を維持し続けている。
確かに、その姿かたちは二十代の頃からまったく変わっていない。
――だが、それでも今の彼女は、明らかに当時とは違う。
妻や母としての頼もしさ……年相応の女性のしとやかさというべき雰囲気を柔かに纏っている。
それこそが、見た目は変わらずとも、内側にあるものは確かに時間を刻み続けている証明。
彼女を見ていると、人智を超える偉大な力でさえも、積み上げてきた人生の重みにまでは及ばないのではないかと実感させられた。
――だからこそ、告げておきたいと思っていたことがある。
「クリス様」
「なに? まだ食べる? たくさんもらったから二十分――いや、三十分待ってくれたらもう一個切って――」
腕を伸ばして、彼女の手を掴んだ。
同時に視線が交わって、言葉が途切れる。
真剣な話と察したのか、クリスの穏やかな表情はすぐさま神妙な面持ちに切り替わった。
「……どうした?」
「――この先、俺が死んだとして。もし、その後に心と体を預けたいと想うような人ができたとしたら――罪悪感なんか感じずに、その人を愛してあげてください」
絞り出すように言い切った後に、胃が軽く締め付けられるような感覚に襲われる。
この弱った老体には相当に堪える台詞だ。
それでも伝えておかねばならない。
想い、更に声を振り絞る。
「……でも。できれば、俺のことは、覚えていてください」
彼女の解放と――それに相反した願い。
凄まじい矛盾だが、どちらとも本心だった。
言葉を受け止めたクリスは、しばらく呆然としていた。
そして、口を開けたまま、人の額に掌を宛がってくる。
「……とうとう頭の方まで病が進行してきたのかしら」
「いえ、そっちの方は至って正常です」
「自覚症状がないのは、ことさらに問題ね」
「本当に正気ですってば」
「……」
何度も言い聞かせ、病でも冗談でもないことを認識させる。
すると、クリスはあからさまに不機嫌な溜息を吐いて、身を乗り出してきた。
「バカなことを言わないで」
目と鼻の先できっぱりと斬り捨てられる。
面白いほどに、はっきりと。
「この先、お前みたいな相手なんか作るつもりはない。私は、あとどれだけ生きるかはわからないけれど、生き続ける限りは私たちの孫やその先の子孫たちを見守っていくつもりなの。お前がどんなに物好きで、繊細で、勝手で、優しいご先祖様だったかも、全部その子たちに語り継いでやるんだ。だから、私の老後の楽しみに水を差すようなことを言うのはやめてもらおうか。第一、ここまで一緒に生きてきたお前を忘れるわけがないだろう。わかったら気弱なことを言ってないでさっさと寝てしまえ」
付け入る隙も与えられず、クリスは言いたいことだけを言い切った。
体をゆっくり倒されてシーツをかけられて。
「ボルスがまた来たら起こすから」とだけ最後に告げて。
彼女は、部屋を出て行った。
――後に残るのは、静寂と、どうしようもないほどの歓喜だけ。
「……本当に、敵わないな」
頭を抱えて、喜びを噛み締める。
もう思い残すことはないと思えるほどの充足感。
それでもやっぱりまだ生きて一緒にいたいと思ってしまう強い渇望。
すべてが溢れんばかりに込み上げてくる。
胸が熱くなるのと同時に目頭まで熱くなったのは――。
たぶん、年のせいだ。
そう思って、誤魔化すことにした。
20 泣きはらした目で笑う君
最期の瞬間は、思いのほか穏やかに訪れた。
朦朧としながらうっすらと瞼を開くと、自分を見下ろす家族たちが映る。
視力も衰え、もはや輪郭もぼやけてしまっているが、気配だけで間違いないと認識できる。
温かな自宅のベッドで、家族に囲まれて生を閉じるなんて、これ以上にない人生の幕引きだ。
満足しきった笑みを浮かべたいほどに心は浮かれていたが、残念なことに体は既に口元を動かすことも困難な状態だった。
徐々に体の機能が停止していくのがわかる。
息をすることも億劫で、視界も白んでゆく。
少しずつ意識も薄れて、現実との境界線が曖昧になっていく。
――終わりががもうすぐ目の前に迫ってきている。
しかし、不思議と恐怖や後悔はなかった。
俺は生きた。
悔いもなく、十分に。
いや、十分すぎるほどだとも思う。
戦って、失って、それでも守りたいものは山のようにあって。
何度も悩んで、生き抜いて、育んできた。
――それもすべて、彼女と、ともに。
「クリ、ス」
もう唇を動かすことすらままならないはずなのに、掠れた声がこぼれた。
すると、もう感覚のほとんどない手が握られたような気がした。
瞳は鮮明な世界を映す力などなくなっているはずなのに、はっきりと彼女の顔が見えた気がした。
夢か現実かももうあやふやなはずなのに、今、五感で捉えているすべてが真実なのだと確信できた。
透きとおるような銀の髪に、薄紫の瞳。
長い睫毛、桜色の唇、凛とした声。
長年に渡って剣を握り続けたせいでマメのある手に、滑らかだけれどあちこちにかすり傷のある体。
それから――右手の、青。
どれも彼女を象る、すべて。
自分が生きた――証。
「……ありが、とう」
さいごの言葉を捧げた。
彼女は、涙を流しながら、笑い返してくれた。
その尊いまでの美しさにさいごまで見惚れながら。
静かに、瞼を、閉じた。