三日月宗近がやって来る話
あるいは、本丸に昇った月が、この本丸の問題に光を当てながら俯瞰し観測する話。
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護衛任務を核とする要人警護本丸では、正座からの初発刀も重要だ。
戦場ではのんびり正座して待つなど無いことだが、現代の生活に溶け込むためには往々にしてあること。
装甲無き現代服を纏い、刀を持つことなく、主人の側で自然な生活の傍らに存在する。それが要人警護の中心的な役割であり、不利な体勢からの抜刀術こそが、不測の襲撃に対し主の首を繋ぐ最大の要の一つとなる。
戦場で敵を討ち滅ぼすのが矛の役目なら
この本丸に最初に求められるのは、日常における盾の動きだ。
そして、この動きが、そら恐ろしいほどに巧妙な刀が一振りいる。
それが三日月宗近だった。
座したところに背後から斬りかかられども
ぴたりと受け止め、見事に受け流してみせる
片膝を立てる隙さえあれば、あとはどのような斬撃もたちまち無力だった。
「はは、なぁに、年の功よ」
本人はそのように鷹揚に笑うが、本来なら素早い抜刀術は反りの浅い打刀の専売特許だ。太刀でありながら平然と披露される洗練された技術は、驚嘆を通り越して薄ら寒さすらある。
千年をゆうに超える刻を重ねてきた、言葉を失うほどに美しく圧倒的な、決して折られぬその刀。
銘は三条。名物、三日月宗近。
彼の動きは、後方支援本丸にとって。
いつか辿り着かんと手を伸ばす、行き着く究極の理想型の一つだった。
《月出づる〜三日月宗近がやって来る話〜》
ああ、来ちまったか
と鶴丸国永は苦く笑った。
鮮やかな桜吹雪の舞う中に顕現したのは
瞳に月をたたえた誰より美しい男
三日月宗近を呼ぶよう頼んだのは鶴丸自身だが、できることならどうか現れてくれるなと願ってもいた。
だが、数多の者たちが焦がれて手を伸ばせど、手に入れること叶わなかった美しい月は、この本丸の空に容易く昇った。
彼女の鍛刀に関する才覚は本物だ。これまで一度きりの試みで呼べなかった刀剣男士は一振りもいない。
だが、天下五剣、他ならぬ三日月宗近なら、あるいは、と。
鶴丸のかすかな悪あがきは無駄に終わった。
「三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ」
新たな主人へと美しく微笑んだ男は、次いで鍛刀の供をした鶴丸へと視線をやった。
鶴丸国永は、片眉を下げて微笑んで、喜びと申し訳なさをない混ぜにしたような複雑な微笑みを浮かべた。
(すまんな、三日月。許せよな)
心優しい友が、必ず鷹揚に笑って許してくれると知っていて、胸の内で密かに謝る自分の罪深さを、鶴丸は明確に認識している。
「ようこそ、三日月宗近。わたしたちの本丸へ」
彼女が嬉しげに微笑んで、三日月もまた柔らかな微笑みを返したこの日を、鶴丸は自分の咎の証として心に刻んだ。
ついに、この本丸に呼ばれてしまった以上
折れない限り彼はいつか必ず先に鶴丸を喪うから。
できることなら、このまま月昇る事無き本丸を維持できれば良かったが、そうもいかなくなった。
先の今剣の事件だった。
呼んでしまった今剣は、彼女の異能の結果、力の源泉たる本霊とほぼ遜色ないほど、神格の水準が著しく高かった。
鍛刀ではなく正しく『神降ろし』となってしまった降霊に呼び寄せられた今剣は、視線一つでこの本丸の刀剣男士すべてを羽虫のように押し潰してみせ、笑った。
本来、人間程度は、決して目通りしてはいけないような。
そう、『見つかったら終わり』というのが近いような、恐ろしい厄災を手繰り寄せてしまったのだ。
結果として、鶴丸の主は幾度も命の危機に晒され、真っ先に歯向かってそれを止めようとした伽羅坊など臓腑をぐちゃぐちゃに引っ掻き回され、出た被害はいずれも目を覆うような有様だった。
無邪気な大災害を辛うじて凌ぎ切り、なんとかお帰り頂いたから良かったようなものの、この本丸はあと一歩で祟られて文字通り『終わる』ところだった。
全身全霊を以ても気を逸らすだけで精一杯だった鶴丸は、似た事態に備え、対策を強いられた。
それが、月を本丸に招くことだった。
くだんの件からしばらくは鍛刀そのものを避けていたものの、やがてそうもいかなくなった。
たった一度補充しただけで四年も尽きなかった珠玉の霊力だ。彼女の霊力過多は常軌を逸しており、今剣の時と同じ轍を踏まないようにと鍛刀を避け続けたせいで凝った霊力が、彼女の身を蝕むようになってしまったからだ。
彼女の場合、霊力は枯渇でなく湯水の如くあふれ過ぎるもの。
その点、三日月宗近のような古刀は、主人に恒常的に要求する霊力が格段に多い。
この本丸に、三日月はうってつけと言えた。
天下五剣、三日月宗近の鍛刀だ。さすがの彼女も苦戦するかと思われたが、彼女はやはり、たった一度の鍛刀で、かの刀との縁を見事に引き寄せてみせた。
彼女の類稀な異能の才により、この本丸は事実上の指名制を敷いている。
だから、鶴丸がああして提言さえしなければ、三日月は最後までこの本丸に着任せずに済んだはずだ。
だから鶴丸は、月の赴任を、己の咎として胸に刻んだ。
新しく呼ばれた刀に、この本丸では近侍から伝えなければならないことが山ほどある。
彼女が生来の異教徒であること、故にいささか自分たちの祈りの型に疎いのは大目に見てやって欲しいこと。
歴史修正主義者と政府の思惑の狭間で振り回され何も知らないまま本丸に赴任した特殊な経緯、特異体質故にひと月に一度しか帰城できないこと。
故に名代と番長を中心とした特殊な体制を敷き、交代で現世で警護していること。
彼女の異能、その隠蔽と政府との対立、監査の名目で来訪する山姥切長義、そして、────鶴丸国永。
この本丸には、主人に仔細を伏せる形でようやく均衡を保てていることも数多い。
だから、抱えた多くの爆弾を知った上で、自ら選んで欲しいこと。
この本丸では、主人に仕えるか、刀剣男士自身に判断を委ね、皆に猶予期間を設けている。
時間をかけて主の為人を見極めて、眼鏡に敵わなければ本霊に還ってもいい。そう主が定めた。
そうして、真に彼女を支える意志を固めた者だけが、残る形を取ることで
この本丸は主の不在が長い中でも、仲間と固い結束でやってきたのだと。
三日月は、決して易くはないこの本丸の事情を汲むと
けれど穏やかに微笑みながら
「うむ、折角こうして呼ばれたのだ、仕えることに否は無いが、せっかくだ、猶予期間とやら、俺も楽しんでみることとしよう」
と軽やかに笑って承った。
正式な対面を意味する大広間にて。
跪座して主人を待つ三日月へ、上座からするりと降りてきて
ととと、と愛らしく近付いた主は、無垢な少女のように、幼い童のように、にぱっと笑った。
「あのね、あのね、仲良くしてね。みかちゃんって呼んでいい?」
「うむ、良いぞ。好きに呼ぶといい」
「わぁい!」
薔薇色の頬を嬉しげに染めて、彼女はちょろちょろと三日月の周りを嬉しげについて回った。いささか愛らしすぎるきらいのある呼び名を舌に馴染ませながら。
三日月もまた、のほほんと穏やかに、己に懐く彼女に微笑ましそうに笑う。
「みかちゃん、みかちゃん! 嬉しい、仲良くしてね!」
──なるほど、なるほど。これは。
三日月は内心で静かに微笑んだ。
この少女は、まるで神事に仕える巫女のように、ひときわ無垢でしなやかだ。
決して振る舞いの幼さだけではない、その奥にある、無防備に差し出された魂と願いの清らかさが、はっきりと光を放っている。
いささか、危ういほどに。
さて、この本丸に呼ばれた月として
彼女の何を見極め、何を試し、何を望み、仕えるか判断すべきか。
月はまだ、昇ったばかり。
「なあ三日月、一局どうだ?」
よく使い込まれ、よく手入れされた将棋盤を前にして。
鶴丸は、背後から彼女の両肩を持って、三日月に向かってにまっと笑った。
この上なく楽しい悪戯でも思い付いたような顔で笑う鶴丸の傍らで、綺麗な正座で彼女は、無邪気にニコニコと笑いながら、楽しげに三日月の返事を待っている。
誘われた三日月は目を細めて鷹揚に笑うと
「どれ、このじじいでよければ、一局お相手いたそうか」
とゆったりと腰を上げた。
そうして打ち始めて間も無く、外が騒がしい。
「おい! 鶴丸ー! 鶴丸国永ーっ!!」
「げ」
遠くから加州清光の怒号がずんずん近付いて来て、鶴丸は顔を引き攣らせた。
さて、どの落とし穴、どの罠、どの驚きの仕掛けが初期刀殿の怒りに触れたやら。心当たりが多すぎてとんと見当がつかない。
「あーあー、せっかく一番いいとこだってのに!」
鶴がひらりと部屋から飛び立つとほぼ同時に、すぱん、と障子が開けられた。飛び込んで来た加州が、怒り心頭とばかりに青筋を立てている。
「あるじ! あの馬鹿は!?」
「ふふ、たった今そこの窓から出てったよ」
「あの野郎逃げやがったな!」
どどどど、と激しい足音が忙しなく遠退いていくのを、彼女がほわほわとした笑顔で手を振って見送る。どうやらいつものことのようだ。
そうして再び将棋盤に向き直った彼女は、ぱちり、と奇にも思える妙手を迷わず打った。
それを受けて、三日月は「おや」と目を見張った。
この手は、友の手だ。
数手打って、彼女の鋭い攻め手をゆるりと受け流した三日月は、「成程、そうか、そうか」としきりに頷いた。
「そうか。うむ、実に、良い師を持ったな」
三日月がそう微笑むので、彼女は、驚いたようにぱちぱちと瞬いた。
鶴丸と彼女が師弟関係にあることを、一目でこんなにも早く見抜いた刀は、三日月が初めてだったからだ。
それを、この本丸では、故あって皆に伏せている。
「ああ、気にする必要はない。彼奴も、俺には自分の手だと知られると分かっておったさ」
目を丸くした主が、誤魔化すか否かを選ぶより先に、三日月はそう、ゆったりと微笑みかけた。
鶴丸と同じく三日月も、千年の叡智を以って、時に迂闊に審神者の代わりに差配を振って、その結果、────栄養を与えすぎて、根腐れさせてしまった経緯を持つからだ。
「彼奴がなぜ詳らかにせぬのかも知っておるよ。なにせ、まぁ、俺も似たようなものだからな」
じっ、と月浮かぶ瞳を見つめ返した彼女は、やがてこてん、と小首を傾げてこう口にした。
「みんなには、内緒にしてるの」
「では、俺と主の秘密だな。うむ」
そう、朗らかに笑った三日月の穏やかさに、彼女はひどく嬉しそうに破顔した。
みかちゃんのこと、もっと知りたい
子兎のようにぴょこぴょこと懐いて回る主人が、そう嬉しげに口にしたのは、人の身の最低限の慣らしが済んだな、といった頃合いだった。
「うむ、そうか、そうか。俺のことが知りたいか」
三日月は悠然と、口許を隠して笑う。
美しい月にそう望む者は少なくない。だから至極当たり前のように、三日月はその言葉を受け入れた。
「して、何を知りたい」
「みかちゃんが大切にしたい相手のこと」
三日月は少しだけ、きょとん、と目を丸くした。
予想とはいささか異なる角度で投げかけられた問いに、彼女は、綻ぶ花のように笑った。
「だって、そしたらわたしも、みかちゃんの大事なもの、一緒に大事にできるから」
飾り気のない無邪気な言葉には裏が無く、素直な彼女が美しき月に求めたのは結局それだけだった。
それは、その後に、幾年、どれほど時を重ねても変わらなかった。
三日月は、切れ長の美しい双眸をやんわりと細めて「そうか、そうか」と微笑みを返した。
美しい月に照らされることより、照らすことを望むか、と。
「では、ゆるり、ゆるりと語らおうか。茶でも飲みながら、な」
共に春を織るように、穏やかな日々を重ねながら、やがて、三日月はおっとりと
「うむ。厚意に甘えてしばらくぶらぶら遊んでいたが、そろそろ給料分くらいは働かなくてはなぁ」
などと、いかにも三日月らしいのらりくらりとした調子で、正式にこの本丸に残る意志を表明した。
彼女はパァッと表情を明るくして、この上なく嬉しげに「やったぁ!」と言いながらぴょこぴょこと跳ね回った。
「嬉しい、嬉しい! みかちゃんとこれからもずっと一緒に居られる! 嬉しい! 嬉しいなぁ! やったぁ!」
そう言って、とにかく嬉しそうに、跪座する三日月の側をちょろちょろした。
子兎のようなその幼くも愛らしい振る舞いにゆるりと目を細めていると、やがてひとしきりはしゃぎ回った主は、なぜか不意に口を噤んで、ぴたりと無言になった。
豹変と言い換えても良いような変わりようで突然黙り込んだ彼女は、上段之間に戻って静かに両膝を折り、正座で三日月に向き直ると、こう口にした。
「お願いがあります、三日月宗近」
大広間の空気が、糸を張ったようにピンと澄む。
「うむ、なんだ、主」
「鶴るんを、鶴丸国永を助けてあげて欲しい」
小さな体から絞り出すように発された、胸を突くような、願い。
固い表情で俯いた主は、無力感を噛み締めるような面差しで、自らの唇を噛んだ。
「とても怖い今剣だった。オレでは危うくきみを護り切れなかったかもしれない。だから、だから三日月宗近を呼んでくれと。あんなふうに言う鶴るん、初めて見た」
三日月は、夜空色の瞳を悠然と細めた。
絞り出すような主人の願いを受け止めた三日月の老練した面差しへ、苦しげに彼女は言葉を継いだ。
「みかちゃんは、鶴るんとお友達なんだよね」
「確かに、うむ、古き友だ。まあとかく長い付き合いではあるな」
ぎゅっと不安げに自分の胸で両手を握った彼女は、俯いた顔をぐっと上げた。
真剣で真摯な視線は、祈りにも似た強さで三日月の瞳を射抜いて見つめ返した。
「助けてあげて欲しい。きっと、それが他の誰にもできないから、鶴るんは貴方を呼んだんだと思うから…」
「あいわかった。主の頼みだ、この老いぼれで良ければ、」
三日月宗近は、主に悠然と微笑んだ。
「いつでも、力になろうとも」
彼女はパァッと表情を明るくして、華が綻ぶように嬉しげに「ありがとう!」と笑った。
去っていった彼女を見送って、三日月は「ふふ」と裾で口を覆った。
「愛されておるなぁ、鶴丸国永」
「そういう子なんだ」
無言で三日月の背後に立った鶴丸が、片眉を下げて微笑んだ。
その視線にはあたたかな愛情が透けて見えて、三日月は「ふむ、よきかな、よきかな」と微笑んだ。
「うむ、千年か。思えば長い付き合いだ。在ってみるものだな、これほどの刻を経ても、まだ予想だにせぬものをこうして目にする」
「はは、自分でも驚いてる」
「大事にしてやらねばいかんな。他ならぬ古き友の寵児とあらば」
「……きみは引かないんだな」
「戀とは糸し糸しと言ふ心、人それぞれ、刀それぞれであろう。在りたいようにあれば良い。ただそれだけであろうよ」
正式にこの本丸の一員となった三日月宗近は、やがて教育番長、加州清光のもとで始まる、本格的な鍛錬に明け暮れることとなる。
古刀というものは、たとえ練度が1でも強さを持っているものだ。
なぜなら、固く鍛え上げた練度で増すのは耐久性や打撃力であって、剣の技術そのものは既に卓越しているからだ。千年かけて積み重ねてきたものは、柔い鉄に降ろされたとて変わらない。
未だ練度1の状態でありながら極短刀の動きを完全に見切ってみせた三日月宗近は、極短刀に素早くひと太刀で傷をつけてみせた。
だが。
(……浅い。柔い鉄に降ろされるとやはり思うようにいかんな)
と心の中で呟いた。
他の刀にとって修練が自己を高めるものだとすれば、三日月宗近にとって顕現とは、柔い鉄に降ろされ、それを元の水準まで引き上げていく作業のことである。
反撃が浅く、短刀の生存を刈り取りきるには至らない。
そのまま鍛錬は、周りが打ち込めども打ち込めども三日月が受け流すために、千日手の様相を呈していく。
「うっわ、信じらんねえ」
稽古の終いに、加州清光が呆れたようにごちた。
「あの練度の極短刀二人がかりで倒せないなんて、デタラメかよ」
「はっはっは、なぁに、勝とうとしなければ負けない、というだけだ。戦場では通用せん動きだが、この本丸ではそれが必要と見た。そうだろう?」
そう、ここは要人警護本丸。
後方支援が中心の本丸で、戦の勝利は必ずしも達成条件ではない。
あえて敗走して敵を引きつける囮役をこなすこともあれば、そもそも戦わずに陽動や伝令役を務める場合も多々ある。
だから何より重要なのは、たった一振りで現世の主人を護り切ること。
主を安全な場所へ逃し切るまで、絶対に深手を追うわけにはいかないのだ。
そのためなら、極論、敵はいくら撃ち漏らしても構わない。
この本丸に求められているのは矛の動きではない、盾の動きだ。
「この本丸、来て最初にぶつかる壁がそれなんだ。みんな、白刃戦は慣れてるけど、こういう形は中々」
「うむ、戦武功に逸るは刀剣の性質、そうだなあ、確かに無理もない」
うんうん、としきりに頷いて、そうして三日月はスッとその双眸で前を見た。
「とはいえ、これもまた刀の本分。主を勝たせることだけが全てではないからな」
美しい夜空の瞳をやんわりと細めて、口許を隠しながら三日月宗近は笑った。
「戦火の渦から主人を無事に逃すこともまた、刀というものに幾星霜と願い乞われてきた役目そのもの。ならば、俺たちがそうあることもまた、何の矛盾もなかろうさ」
こうしてやってきた三日月宗近は、やがて本丸全体の実力の底上げに、多大な貢献をすることとなる。
正座からの初発刀、人混みにおける盾の動き、千日手の舞い。
極めるべきそれらは、いずれもこの後方支援本丸に絶対的に必要なもの。
三日月はまさにそれを美しく体現する古刀であり、学びを得るのにこれ以上の手本もなかった。
なにぶん、教育番長である加州清光は、最初から比較的それに適性のある打刀。
加州の強いた教育体制は確かに見事だったが、決して万能ではない以上、どうしても穴はある。
そして三日月がこの本丸にもたらしたのは、その穴を埋めるに最適な回答のひとつだった。
本来それらに向かぬはずの太刀や、時に大太刀、薙刀や槍といった大型刀種が、短刀や脇差、打刀に代わって、どう振る舞うべきか。
同じ土俵では必ず劣る。だが、決して不可能ではないのだと。時にその有利不利すらも覆す策を、技を。
三日月はその叡智を以て、惜しみなく授けてくれた。
この本丸は後方支援中心で前線が遠い上に、主人不在が長いため、常日頃、戦場に出れる刀数に上限がある。
ひりついた戦場の空気は、やはり刀を強くする。だからこそフル回転する第一部隊や遠征部隊、畑仕事や馬当番から外れた非番の者たちは、戦場にも任務にも出れず、主の居ない本丸にどうしても長く滞在することとなるわけだが。
短い時間しか本丸に滞在しない主人の傍らに現世でもっと付き従いたいがために、実力の向上に飢えた者は多い。
刀派を越えて互いに稽古をし合ったりと皆それぞれ工夫は凝らしているようだが、外部との演練すらも禁止されている現状では、なかなか実戦経験が足りないのが実情だった。
だからこそ、三日月がやってきたことで、刀剣男士たちは鍛錬の際、多忙な教育番長の加州同様に、三日月宗近を積極的に頼るようになった。
そうした事情で、皆がひっきりなしに、代わる代わる彼を頼るので、三日月宗近が教育番長の加州に並び、皆の鍛錬をやがて常日頃から見届けるようになっていったのも、自然な成り行きだった。
「さんきゅ、三日月。いくら教育番長ったって、俺一人じゃ全員の相手はできなくてさ。正直助かってる」
「なぁに、このおいぼれの胸で良ければ、いくらでも貸そうとも」
「……正直、薙刀や槍みたいな大型刀種に関しては、戦の連携は一緒に鍛えられても、現世の方の振る舞いはどうしても手薄になりがちで。連中がそっちの実力の底上げを望んでたのは、本当はずっと分かってたんだけど……」
「なに、そう落ち込むことでもない。主人と共にこれほどまでに立派な本丸を鍛え上げてきたのは、加州清光、おぬしなのだろう?」
三日月宗近は好々爺じみた仕草で茶を一杯、ゆったりと喉を潤すと、鷹揚に微笑んだ。
「ただ、うむ、そうだなぁ。薙刀から脇差になったもの、大太刀から打刀となったものは数あるが、あいにく逆は無い。決して経験し得ぬことを想像するのは、予想以上に難しい。想像力豊かな人の子ならまだしも、こうして鉄の身ではな」
美しき金環を宿した瞳を優しく伏せるようにして微笑むと、三日月はころころ笑った。
「その点、このジジイは年嵩の分、少々向いているというだけのこと。適材適所、量才録用というやつだなあ。なぁに、主のためだ、存分にこき使うといい」
そんな三日月のもとへ、最も足繁く通ったのが山姥切国広だった。
強くなりたいと望む多くの者たちの中でも、頭ひとつ飛び抜けて懸命でがむしゃらな山姥切に、三日月はいつでも笑って応じた。
「連日押しかけてすまない、世話をかける」
「はっはっ、なぁに、熱心なのは良いことだ。どれ、このジジイでよければ、相手をしようか」
元は大太刀と言い伝えられている本作長義、その磨り上げられた姿を写した打刀が山姥切国広。
故に山姥切国広は、始まりの五振りの中で最も反りが深く、豪壮な姿をしている。
五振りの中で最も反りの浅い蜂須賀虎徹は0.9cm。2.1cm以上なら反りが強いと言われる刀の中で、山姥切国広の反りは2.8cmを超える。
三日月宗近の反りは同じく約2.8cm弱。そう、反りの深さだけで言えば、山姥切は他の四振りの打刀より、太刀の三日月宗近の方が近いほどなのだ。故に山姥切は、三日月の技術を一心不乱に吸収したがった。
山姥切の言はこうだった。
「この本丸は知っての通り、外部との演練が禁じられている上、戦場に出る機会もごく少ない。強くなるには、片時もじっとしていられないんだ」
山姥切は現世で主の側に控えるのに最も適性のある打刀。
実力は最精鋭に迫る勢いで、初期刀に代わって第一部隊を率いることもままある。
それでも足りぬと昼夜鍛錬に明け暮れ、隙を見つけては加州清光と打ち合い、上へ上へと登り詰めようと、三日月をひっきりなしに訪れる。
そんな山姥切の飢えたような鍛錬への執念、脇目も振らぬ猛進に、三日月は常に微笑みながら丹念に、根気強く付き合い続けた。
水を吸う向日葵のように、瞬く間に天へと伸びていく実力に、やがて三日月は、心胆の底までじっと見晴かすようにこう尋ねた。
「山姥切国広よ。お主は、どこまで登り詰めることを望む?」
「どこまでも」
その返答は迷いなかった。
三日月の問いかけに、間髪入れず、山姥切は鋭い碧眼で力強く言い切った。
「あいつがどんな無謀な物語を望んでも、それを切り拓けるように。オレは強くなる、そう決めた」
極めた山姥切国広が構える。刀を、そして鞘を。
夕陽色の鉢巻をはためかせた山姥切の眼、強さへの渇望と情熱は。
悠久の時を生きる三日月にとって、あまりにも刹那で激しく、火傷しそうなほどだった。
「うむ、熱いな。では、少々本気を出すとしよう」
たまには俺以外の手本も欲しかろう。
そうだな、大倶利伽羅などどうだ。
という三日月の発言で注目が集まった大倶利伽羅は、いかにも迷惑そうに渋面を作って、顔を顰めた。
「なぜ俺が」
「おや、日々あれほど熱心に竹林で居合の修練をしておるではないか。あれは主の傍に控えることを想定した動きだろう?」
鶴丸国永を折らせないため、遊撃隊に近い役目を主人に与えられた大倶利伽羅は、故に近侍として現世の主に同帯することがほとんどない。
にも関わらず、本丸に来てからずっと、大倶利伽羅は居合の鍛錬を欠かしたことがないのだ。
ほけほけと好々爺じみた調子でそれを指摘した三日月は、いかにも喰えない笑みを浮かべた。
大倶利伽羅は苦々しく舌打ちした。それだけで、三日月に余計な情報を流したのが驚き好きの鶴だと気付いたらしく、じろっと恨みがましい目を向ける。鶴丸はケラケラと笑った。
「活かさぬにはちと惜しいのではないか」
「……いざ必要な時に『出来ない』では話にならないだろう。馴れ合うつもりは無いが、用命に応える気はある」
それだけだ、と舌打ちした大倶利伽羅に、三日月は満足げにゆったりと笑みを深めた。
三日月と大倶利伽羅のやり取りに、横で聞いていた歌仙がふと思い出したようにこう口にした。
「ああ、そういえば先の折の舞扇も見事だったね。見習わなくてはならないかな」
「そっか、それも抜刀できない場面ではひとつの最適解かもだよね」
「鉄扇かあ、オレどーも苦手なんだよなあ」
「居合にしても鉄扇にしても、咄嗟に主を護る術は多いに越したことはありませんしね」
「確かになあ。これを機にちゃんとやり直すかあ」
「ね、ボクにも教えて、大倶利伽羅さんっ!」
あっという間に囲まれてしまった大倶利伽羅は、じろっと三日月のことも恨めしそうに睨んだ後、深々と嘆息して群がった連中を払いのけると、指先でくいっと手招いた。
「あいにく、懇切丁寧に教えてやるほど暇じゃない。まとめて掛かってこい」
三日月宗近の慧眼はこの本丸をさらに強くした。
千年の月が資質を見抜く眼は鋭く
見えないその手に導かれるかのように、本丸という大河のうねりが変わり始めた。
手始めに大型刀種を中心とした全体指導
山姥切国広たちを筆頭とした個人指南
大倶利伽羅のような指導役の発掘と誘導
加州清光だけで補えなかった部分に光を照らし
頂きを示し、山姥切国広が追う。
場を作り、大倶利伽羅が技を示す。
聡明な三日月の存在そのものが、加州だけで補い切れなかった部分を軽やかに埋めている。
自然な流れで、瞬く間に加州ひとりに負担が偏らない体制が築かれていく様は、美しく河の流れを導くようで。
より適した形にパズルを組み替え直していくような、より巧みに目が行き届くように網を張り直すような。
田端の隅々まで水が行き渡るような、肺の隅々まで空気が満ちるような、そんな印象を受ける手腕だった。
鶴丸は丁寧に本丸を俯瞰すると
その仕上がりの見事さに舌を巻いた。
「さすが三日月。こうも見事だと文句の付けようがないなあ」
なにせ三日月がこの本丸に手を入れ始めてから、まだ月暦が二周するほどしか経っていないのだ。
たったこれだけの時間で、大海のうねりのように未来が変わっていく。
遠い未来まで見晴かすように俯瞰した鶴丸には、それを確かに感じ取ることができた。
じっと遠く遙かな未来まで見極めて
ふっと肩の力を抜くと、鶴丸は満足げに笑った。
「うん、よかったよかった、これで、」
「…………『オレが去っても大丈夫』──か?」
鶴丸の肩がぴくっと跳ねた。
音も無く現れた月は、鶴の顔を覗き込むようにして、その千年の叡智をたたえた夜空の双眸を細めた。
「老兵は黙して去るのみ、そんな眼をしていたぞ?」
うっかり仮面を剥がされてしまった鶴丸は、ほどけるように淡くあえやかに微苦笑した。
「こりゃ驚いた驚いた。やはりきみの手は一段と巧みだなあ。一本取られた。なるほど、きみが珍しく伽羅坊に話を広げた段階で気付くべきだったか」
「刀にとって役目は強固な拵え。それを剥いでこそ、鋼の本質がまろび出るというもの。だろう?」
そう、この本丸で。
初期刀の目の行き届かぬ側面を、陰に日向に、様々な形で飛び回ってこれまで補完してきたのは鶴丸だった。
だからこそ、いつかその必要も無くなると思えるほどの、成長のうねりの兆しを見せた本丸に。
自分がいなくても大丈夫、と。
鶴丸は詰まるところ、油断したのだ。
それこそが、聡明な月の一手とも知らずに。
「これだからきみには勝てんなぁ」
三日月が助け、補い、支えてみせたのは、表面上は初期刀と本丸全体。
そしてその実ずっと、鶴丸国永の分厚い仮面の下をこそ、美しき金環浮かぶ瞳でじっと覗き込み続けていた。
鶴を助けて欲しいと乞い願う主人の命を正しく果たすため、三日月は池に波紋を起こしたのだと。
友のたった一言で全てを理解した鶴丸は、苦く笑う他なかった。
「まあ、まんまと引っ掛かったオレが悪いか。きみ相手だとどうにも油断していかんなあ」
三日月は双眸をゆるりと細め、鶴が纏う土の匂いを嗅ぎ取った。
この鶴からは、どこか。
わずか少し、古ぼけた腐葉土の臭いがする。掘り返した墓土の臭いだ。
決して無理に咎めたりはしない。それもまた友の一側面だからだ。
だが、主人を泣かすのは鶴とて本意ではなかろう。三日月はゆるりと深く思い巡らし、ひとつだけ釘を刺しておくこととした。
「のう鶴や、俺たちのような年寄りにはどうも、悪い癖があると思わんか」
「うん?」
「遠い先の先の遥か先まで見晴かして、もう全てを見てきたような気になる、そんな悪癖だな」
優しく柔らかな三日月の声が、真昼の軽やかな空気の中、まるで夕暮れへと溶けるように穏やかに響く。
「遠くばかり見ていると、今を生きる者と歩調を合わせるのが難しくなる。ふと足を止めて振り返ると、驚くほど遠くへ追い抜いて」
三日月はつい、と視線を遠くに投げかけた。
見遣った先には、まぶしい陽射しの中で泥だらけで畑仕事に興じる、彼女と山姥切国広の日向の笑顔がある。
送られた視線に気付いてふと振り返った主が、ぶんぶんと大きくこちらに笑顔で手を振った。
「それを喜べるのは良いことだが、追い抜く側にはよく泣かれてしまうなあ」
鶴丸は面差しにじんわりと苦笑を広げた。金色の瞳の中に、ゆるやかに理解が満ちていく。
「独り路は退屈だろう。そうだな、誰を供に分かち合うかだけ、せめて考えておけ。なぁに、御指名ならば俺が付くもやぶさかではないからな」
三日月の申し出に、複雑そうに微笑んだ鶴丸は、応とも否とも首を降らなかった。
ただそっと、ありがたそうに「きみは、ほとほとお人好しがすぎると言われないかい」と、甘すぎる苦みを噛みしめて微笑むに留むるのみ。
水面に優しく小石は投げられた。鏡面は緩やかに波立ち、再び凪。
それが、心というもの。果ての無い底なし沼。ままならない白銀の鏡。
人の形をした心は時に、己の池でたやすく溺れる。
共に溺れてやっても良い
岸辺で藁となってやっても良い
凍える手のひらに焚き火を焚いてやってもよい
ただ共に凍えるとて良いだろう
そのいずれも、この鶴は望まないかもしれないと、月は正確に見抜いた上で、そっと睫毛を伏せて微笑むに留めた。
今はまだそれでもいい。後はきっと、鶴次第だろう。
望むならいくらでも力を貸そう。望まねばただ見守ろう。
出来うることならば、寂しがり屋の鶴に独りで夜道を歩かせたくはないものだが。
いずれ、時が来よう。
それまではしんしんと静かに
月はただ満ちて夜道を照らすのみ。
「鶴るんね、時々、すっごく遠くを見て笑うの」
ぷらん、と素足を縁側に無防備に投げ出して揺らした彼女は、つま先を見つめるみたいに俯いた。
「わたしの目を覗き込んで、今じゃないうんと遠くを見て笑うんだ」
「きみの幸せ以外なにも望まない。そんな目」
「きみが幸せじゃなかったら、オレも不幸だって、歌うみたいな目」
「きみが居ないならずっと不幸だ、って笑うみたいな目」
指を折りながら数えるように、彼女は記憶の中の鶴の眼の色を口にした。
「どうしたら笑ってくれるのか、ずっと考えてるけど、皆目検討もつかないの」
「だからね、鶴るんに手渡したい。鶴るんを支えてくれる何か、引き留めてくれる誰かの手のひらを」
「もしかしたらその時には、わたしは鶴るんの傍にいられないかもしれないから」
土の臭いのする鶴丸国永が愛した主人は、どこか鶴に似た遠い金眼で、ここに居ない鶴の瞳の奥にある、うんとうんと遠い先まで覗き込んで、憂い顔を見せた。
「わたしはね、しあわせだよ。うんとしあわせ。ほんとだよ。かしゅーがぜったい護ってくれて、鶴るんがぜったい助けてくれて、みっちゃんがぜったい傍にいてくれるの」
「そこから全部始まって、刀達が増えるたびに嬉しいが広がるばっかりなのに、どうしてもね、鶴るん、笑ってくれないんだ。困ったなあ」
「どうしたらいいのかな。誰も不幸にならずに、鶴るんが笑ってくれるには、なにが足りないんだろう」
「できるのは、まずはわたしがちゃんと幸せになることだけ。そうじゃないと、鶴るんもみんなも哀しむから……」
「一緒に不幸になるんじゃない。一緒に分かち合ってくれる誰かが、鶴るんのそばにいてくれれば、もしかしたら、って」
彼女は、静かに首を左右に振った。薔薇色の珠を連ねたキリシタンの祈り具を抱いて、両手を祈りの形に合わせて目を閉じる。
「わからないから、ずっとお祈りしてるの。かみさま、かみさま、どうか、鶴るんが笑ってくれますように、たすけてください、って」
「俺たちの主、あれは、虚を抱えておるなあ」
三日月は盃を揺らしながら、ままならなさを辛い酒と共に喉にゆっくり流し込んだ。
「恐らくは、髪置も帯解きも裳着も済んでおらぬのだろうなぁ。与えられるべき言祝ぎが与えられるべき時に与えられていない。それでいて、あれほどに古き神からまばゆく祝福されていては、な」
髪置きの儀とは、数えで三歳を迎えた頃に、幼子の髪を伸ばし始め、白髪が生えてくるまで長生きするように、と寿ぐこと。
帯解きの儀とは、数えで七歳を迎えた頃に、幼い命が神の御許に去らないよう帯を締めて魂を留める風習のこと。
いずれも現代では七五三として残る風習だ。
風習の形はその時代その時代で移ろう。儀式を受けたか否かが問題なのではない。もっと根本的なものだ。
そう、つまり彼女は、少なくとも三歳以降、保護者に長生きを望まれたことも、病に罹らないようにと願われたことも無い、ということだ。
自分たちのような平安古刀の眼には、それが浮かび上がって見えてしまう。そういうことだった。
「だから魂が安定しない。いつまでも魂の領域が神座側にある。あれを才と呼ぶにはいささか危うい。あれほどまでに贄と巫女の資質を兼ねるとなると……迂闊に盗られないよう、気を払わねばならん、か」
「誰かが代わりに言祝いでやらねば、ふらりと夜道で迷ってしまいそうだからなぁ。情の深い鶴があてられたのも、詮無いこと、か」
まるで、親鳥に成り代わって、夜露から温めてやるかのような、それ。
愛しい愛しいややこを、誰にも盗られないようにと羽根で覆って目隠しをしている。
「誰よりも早く嗅ぎ取ってしまったのだろうな。あやつは時に、あの手の虚に聡いから」
斬れば血が出る、それが生きる者の道理。けれど。
斬れど血が流れ出ること無く、虚無だけが切り傷からぽっかり覗く、そんな常闇を。
冷たい土の下で知っているのもまた、鶴丸国永という刀であるからだ。
絶えず互いの幸福を祈りながら
互いを暖め合いながら
胸の空虚を埋めるように
羽根を畳んで寄り添い合う、真白な鳥と雛
「嗚呼、ああいった者に、隣でああも無垢に祈られると、たまらない気持ちになるなぁ。なんでも捧げるから、どうか、と。身投げされているような錯覚を起こす」
「人の子は皆愛しい。主ともなれば一層のこと。そのような真似などせずとも、ただ名を呼んで願えば、叶えてやってもいいのだと。教えてやるのは、容易いことではないなぁ」
ことん、と盃を置き
三日月宗近は静かに顔を上げた。
「お主もそれを感じ取ったから、こうして早くから本丸の守りに専念している。違うか、石切丸よ」
置かれた盃に清らかな酒を注ぎながら、石切丸はどこかほろ苦い微笑みを、優しく浮かべた。
さて、どうしたものかな。
とはいえ、そうだなあ
鶴には日頃、随分と苦労を掛けておるからなあ
たまには俺が、気苦労を掛けられる側になるのも良いだろう。
共に悩み、心を砕こう。
さすがに連日連夜押しかけている自覚がある国広が、いかにも洒落た茶菓子の袋を掲げながら、気まずそうに顔を逸らしてこう叫んだ。
「いくらなんでも甘えすぎという自覚はある、あるんだが!」
「はっはっは。なあに、そのように気を使わずとも良いぞ。が、ちょうど茶菓子の気分だったのだ。ありがたく頂こうか」
昨日も一昨日もその前も居室を訪れた国広を、鷹揚に笑った三日月は、今日も快く招き入れた。
加州が新人の面倒を見ている間、三日月は特に中堅や古参の技量上げに関わっている。
この本丸は長らく教育番長の加州清光が新人指導を一手に担う体制だったが、こうして三日月宗近がやってきてからは、太刀以上の大型刀種の鍛錬は三日月も積極的に噛むようになった。
そんな三日月のもとを、鍛錬や研鑽目的で訪れる頻度ぶっちぎりナンバーワンが山姥切国広だった。
山姥切の方にも、さすがに世話になりすぎという自覚があるらしく、どうやら堀川国広のおすすめらしい洒落た茶菓子や茶葉を手に三日月のもとを来訪することが多いのだった。
なお、山姥切いわく、自分が手土産を選ぶと腹が膨れるか否かにどうしても判断が偏ってしまうので、頼もしい兄弟の審美眼を借りているのだと。実に兄弟仲睦まじく良きかな良きかな、だ。
「どれ、じじいは見ての通り暇をしていてなぁ。若者が相手をしてくれて助かる助かる」
三日月は三日月で、そんな山姥切に鷹揚に笑うと、そうやって快く迎え入れた。
「はっはっは、あんまり暇ばかりしていると、すぐボケてしまうからなあ。なにせじじいでな。はっはっは」
山姥切国広。この本丸では比較的遅めに顕現されるも、実力は初期刀の加州清光に次ぐ最精鋭。
寸暇を縫うように鍛錬に明け暮れてはいるが、内務や内番も嫌がることなく懸命。周囲からの信頼も得ている。
そんな山姥切は最近、加州に代わって第一部隊の隊長を任されることが多く、審神者不在の中で難しい判断を迫られる場面が多いようだ。
「ただ一心不乱に剣を振るってた間は良かったんだが……もちろん、隊員と部隊長は役目が大きく違う。なおかつ、主人が不在で判断までとなると」
本来なら審神者が振るうはずの差配と判断。それの一部が、不在中に刀剣男士自身に委ねられているこの本丸では、どうしても大きく勝手が違う場面が目立つのだ。
「今までは近侍の鶴丸国永と、初期刀の加州清光が、それぞれの場面で頼りになる差配を振ってくれていた。が、加州から任される部分が増えて身に沁みた。俺たちがあの二人にどれだけ頼っていたのか」
「先日も撤退の判断が遅れて、和泉守と大喧嘩になってしまってな……俺なりに何とか殻を破ろうと必死なんだ」
「ふむ、それで俺か」
「ああ。こうしていざ自分が任されてみると、本当に難しい。頼りきりで申し訳ないと思っているが、お前以上の適任はいないと思う」
「はっは、仲間にこうも高く買ってもらえると面映いなあ。もちろん構わんが、少し気になることもあってな」
「なんだ」
「なぁに、元々、この本丸では鶴丸や加州清光が長らく差配を振っていたのだろう? 故に、皆もその差配の方が慣れていよう。新参者の俺の差配で良いならいいが、素直に鶴丸や加州の差配に癖を寄せた方が皆も混乱せず良いのでは無いか、とも思ってな」
「いや、それはできない」
山姥切国広は顔を上げると、不意に息を呑むほど真っ直ぐ三日月を見つめ返した。
「初期刀の代わりは誰にも出来ない。俺に期待されているのは、あいつらの物真似じゃないことだけは分かっている。俺は俺なりにやらなければならないんだ」
「それに、鶴丸国永、迂闊にあいつの代わりを務めようとするのは、良くないのではないかと感じるんだ」
「ふむ、して、なぜそう思う?」
「なんというか……感覚的なものでな、いざ言葉にしようとすると難しいんだが……」
しばらく山姥切は、難しい顔をして自分の中で懸命に言葉を練っていたが、やがて顔を上げてこう口にした。
「俺も、お前も。決して、誰の代わりもできはしない。俺たちが主にとって代わりが無いからだ。俺たちは、一振り一振りが、いざという時あいつを護る唯一無二の剣でなくてはならないと重々理解している。だが……」
「だが、鶴丸国永、あいつは少し違う気がする。加州のやつは一人一人の個性を伸ばしているが、鶴丸は自分の代わりができるやつを探している気がするんだ」
直感的な山姥切の言に、三日月は切れ長の美しい双眸を静かに細めた。
「あいつは、自分の代わりができると判断したら、あっさりそこを去ってしまうように思う。それは多分良くないことだ。俺では恐らく、その予兆を察知できない。鶴丸の後を追うのではダメなんだ」
だから、と国広は向き直ると、背筋をまっすぐに正してこう告げた。
「三日月宗近、お前ほどの刀なら、きっとその道筋を見つけられる。そんなお前から少しでも多く学び取る事で、俺は危機に備えたいんだ。主のために」
「そっか、山姥切がそんなことを……」
この本丸の初期刀、加州清光は、想い沈むようにそう呟いた。
「頼もしいよね。山姥切も、歌仙も、他の連中もさ」
ふーっと深く深く息を吐き出した加州清光は、椅子に沈み込むようにして、合わせた両手を顔に当てながら、ひどく物憂げだった。
「……俺が悪いんだ。初期刀の俺が気付かなきゃいけなかった。あいつの絶望を止めなきゃいけなかった。あいつの前に居たのは俺だけだったのに、なのに俺、自分のことばっかで」
加州は、沈んだ憂い顔をスッと上げて、決意に煌めく柘榴の瞳で懸命に未来を睨んだ。
「だから、今度こそ間違えない。あいつのことは、俺が止める。そうでなきゃダメなんだ」
《夜鶴譚》
夜露冷える月夜が、荒涼と横たわっている。
「そうだね、鶴さんは──……この本丸で、彼は」
燭台切光忠は、盆に酒を乗せて膝を折り、縁側の柱に身を預ける大倶利伽羅の隣に静かに座った。
「昼の鶴のふりをしているけれど、本質的には夜の鶴だから、ね」
「五弦彈、か」
五弦彈。五つ弦彈き。
五弦の琵琶の美しく心掻き乱す音色を、夜の鶴が泣く様に喩えた古い漢詩のこと。
詩に曰く、琵琶の三と四の弦は冷え冷えと響き渡り、夜の鶴が子を想って泣くが如く也。
焼け野の雉子夜の鶴。
ことわざによると
己が巣を焼かれれば、雛を救うため命を投げ捨ててでも火の中に戻り
霜降りる夜には翼で覆って子を暖めて護るのが、夜の鶴であると。
夜鶴とは
命を賭し身を削るのも厭わぬ、親の愛の深さを示す、古い古い言葉だ。
鶴丸国永
とうに喪われた美しき白鶴紋の化身へ
寄せられた愛が形作った付喪神
自ら進んで鶴を名乗る彼の中には
人の子の想う『鶴』が織り込まれている
名を持つ付喪神たれば皆等しく
時に逃れようなく、否応なく
魂の奥深くへ織り込まれて
夜鶴の如き愛情深さが
鶴丸国永という愛の眠る奥深くに
「昔話の鶴は、人の子が約定を違えたから飛び去ったけれど」
ゆらり、手にした盃に月が映る。
冷え冷えとした下限の月が、その裏を見せないまま。
「ねえ、もし、約束を違えない、美しい織物を決して強欲に求めない、そんな誠実な人の子だったら?」
無言で酒盃をくっと煽って、苦みを飲み下した大倶利伽羅の隣で
空の盆を抱え、静かに光忠は項垂れた。
「心配して部屋を覗き込んでも、上手に笑って隠してしまえる鶴だったら、鶴は────いつまで、自分の羽根を毟り続けるんだろうね」
僕は、それが怖いよ
鶴さん
「一度ああいう形で執着を持ってしまうと、なかなかね」
歌仙兼定は、静かに深く深く嘆息した。
ままならないものを呑み下すように、ゆっくりと首を左右に振って、諦観を孕んだ言葉を継ぐ。
在るべき刻に無理に引き剥がされた瑕疵は、神を深く狂わす。
傷は浅い内に手当てをすれば綺麗に治るが、己で何度も抉ってしまえば膿むのも仕様が無い、と。
「こうして人の身に心を持ってしまってはね。手入れで容易に直らない傷というものも、あって然るべしだろう。まして、ああも深く愛して仕舞えば」
静かに茶器を置き、歌仙はふっと外へと視線を投げかけた。
遠い目は、見事な美しい庭ではなく、遠い昔に散った花々へと向けられている。
「……僕の元主も、彼が深く愛した女性も、愛に生き、愛に傷付き、愛に多くを狂わされながら愛を貫いた人たちだった。僕らが人の子の愛によって目覚めたなら、きっと僕らは最初から狂っている」
「愛は時に、周囲を巻き込みながら互いを傷付ける。憎しみを孕まない愛などあり得ない。愛とは、それを奪う一切を憎むことだ」
恐らくオレは、もっと早く折れておくべきだったのだろう。
この本丸に降り立ったあの日、大河の流れに還って欲しくないとオレに願ったのは彼女だが、それを承諾したのは間違いなくオレだ。
勝手につまづき、勝手に足を取られ、勝手に溺れた。欠片もあの子に罪は無い。
こうも彼女に溺れる前に、ほとほとさっさと折れておくべきだった。
だが、今となってはもう、あの子の自由は、オレと政府の密約によって危うく均衡が保たれている、というのが現状だ。
彼女を自由にさせてやるためには、決して途中で折れるわけにもいかなくなった。
政府の目論見は、政治的に不都合なこの本丸を強制解体し、より本霊に近い位置で巫女として生涯仕えさせること。
彼女の自由と引き換えに与えられる役割は、生贄。泥沼の戦の栄誉の人柱、というやつだ。
冗談じゃない。何よりオレが許せなかった。彼女を奪い、彼女を閉じ込め、彼女を囲う、オレではないその檻が。
────進言してやってもいい。できることなら、鶴丸国永に仕えられるように、と。
彼女がオレではない俺のものになると思ったら、瞬時に頭が沸騰した。
美しい自己犠牲や忠義なんかじゃない。オレはただ、他の俺に彼女を渡すのが到底許せなかっただけだ。
だから彼女の運命を、オレと繋いだ。
オレの仮面を巧みに剥いでみせた三日月は、あの美しくも優しいかんばせで、道行きを共にしてもいいと伝えてきた。
真っ暗で終わりのない黄泉路を、独り歩くなら連れになってやっても良いのだと。
あまりに心強く、切ないほどにありがたかった。
きっと、冷たくも美しい旅になるだろう。
道導を失った黄泉路を終わりなく彷徨う旅は、隣に月が居ればどれほど心強いだろう
きっとオレは、狂わずに常世を歩けたはずだ。
その想像は、確かに深くオレを慰めた。
ありがとう。それを言う資格はオレには無いが、それでも
だからこそ、この上なく美しく思い知った。
そんな優しすぎるきみを、決してオレの我が儘の犠牲にはできないと。
彼女を見送った暁の茜空を見上げる頃には
オレはとうに壊れてしまっているだろう
オレの狂気は、きみの優しさをきっと喰い潰す。
だめなんだ。どうしても受け入れられない。
あの子の居ない世界で永らえるのが苦痛で苦痛で仕方が無いんだ。
すまない、三日月。
オレはもう、己の朽ち方を、こうと固く決めてしまった。
冷たい骨壷を掻き抱いて
彼女の墓で永遠に眠るように、共に朽ち果てて折れてしまいたいんだ、オレは。
to be continued