@otohitoe_
「いいタイミングで帰ってきたな」
帰宅してすぐ、脱衣所に繋がるドアからクロウリーがひょっこりと顔を出した。
「おかえり」
「ただいま、お風呂入るとこ?」
「今日カレーだから一緒に入ろう」
一瞬言葉の意味を考えたが、たぶんもう出来上がっていて、あとは温めなおすだけだからどうせなら入浴も一緒に済ませようということだろうと理解して、その提案を二つ返事で受けた。断る理由などない。
「出たら野菜素揚げする」
「やった、夏野菜カレーだ」
「入浴剤選んでいいぞ」
クロウリーはアジラフェルが靴を脱ぎきるのも待たずに顔を引っ込めて消えていった。数日分の朝食の材料が入った買い物袋と鞄を廊下の定位置に置き、開いたままのドアを覗くとちょうどバスルームの戸が閉まるところだった。さては既に裸だったな。
手洗いとうがいをきちんと済ませてから買ったものを仕舞いにリビングへ向かうと、入った途端にカレーの香りが食欲を擽る。夏野菜のラインナップはまだ見ないよう努め、入浴後の楽しみにしておいた。
アジラフェルはいそいそと戻って洗面台の棚を覗き、クロウリーが揃えてくれている数種類の入浴剤の中から、今日は一番香りの控えめなサボンを選んだ。
入浴剤のボトルを携えてアジラフェルがバスルームに入ったとき、クロウリーはちょうど髪を洗い流し終えたところだった。
「白いのにした」
「まだあるか?」
「半分くらいあるよ」
蓋を開けて手早く浴槽に塗し入れるとふわりと良い香りが漂った。ボトルは脱衣所の足元に一旦置いておく。
数年前、引っ越しを決める際にクロウリーが唯一希望したのが『広いバスルーム』だった。ずっと浴槽のない生活をしていた反動かなとアジラフェルは勝手に思っていたが、実際に広いバスルーム、広いバスタブで過ごすのは想像以上に快適で、やはりクロウリーの選択は間違いないのだと信頼を強めたものだ。こうして一緒に入ることもできるし。
事を済ませて先にクロウリーが浸かっていたバスタブに足を入れると、クロウリーはすい…と珍しく後ろを譲った。お互いにバックハグが好きなためにどちらがどう向くのかいつもちょっとした攻防になるのに。
腰を下ろしてすぐ脇を抱えると、水の推進力のおかげで子供一人分よりも軽くクロウリーの体は引き寄せられた。
「なあ、前から訊きたかったんだが」
「うん?」
「おまえが髭剃り夜派になったのっておれが朝なんにもしなくなったからか?」
「…どういうこと?」
「朝忙しくて時間ないから」
「なんかしげしげ見てくるなと思ったらそんなこと考えてたの?違うよ、夜のほうが都合が良いだけ」
「ふうん」
「仕事中はどうせずっとマスクしてるし」
「まあそうか」
「気兼ねなくきみにくっつけるし」
「『都合が良い』?」
「ふふ…」
処理したての頬をクロウリーの首筋に擦り寄せる。いつもなら最後に済ませるところを、くっつくのを許されたいがために先に済ませた。嫌がられることなく穏やかに笑う声が聞けたのだからその甲斐もあったというものだ。
「でも前は朝派だったよな?」
「ずっと前はね。まだ学生だった頃の気がする」
「そうだっけ…」
今は夜にしっかり剃って、気になる朝は軽くシェーバーで撫でる程度で済ませるのがいつものパターンだ。この手間が無いクロウリーが時々少し羨ましくなる。
「わたしも脱毛しようかな?」
「だめだ。面倒なら毎晩おれがする」
「そこまで?」
「絶対だめだからな…」
クロウリーは好きに甘えさせてくれつつアジラフェルの肩を枕のようにして、ゆっくりと脚を伸ばして深い息を吐く。
「なんか疲れてるね。今日忙しかった?」
「いや。けどでかいの結構運んだから」
「さすろうか」
二の腕を緩い力でやわやわ揉むように撫でると、クロウリーはんん…と小さく声を漏らした。
「筋肉痛は?」
「そこまでじゃない」
「寝る前にもマッサージしようか」
「ん…肩と腰も」
「いいよ。休みだったら手伝えたのにな」
「おまえにはおまえの仕事があるだろ。これはおれの仕事」
「次にこういう作業があるときはわたしの休日にしてね」
「聞けよ」
「聞いてる」
「最近ほんと人の話聞かないよな」
「聞いてるってば」
不満そうに顔を向けてくるクロウリーと見つめ合うと甘えたくなる悪戯心がうずうず湧いて、鼻筋にちゅっとキスをする。横一線になっていた唇はますます引き結ばれた。そこにもしようと唇を寄せたもののそれはふいと振られてしまい、仕方なくこめかみで我慢する。
「疲れてるのにご飯作ってくれてありがとう」
「飯作るのそんなに苦じゃないし」
「前は家にコーヒーしかなかったきみが…」
「何年前の話してんだ」
「ふふ…」
クロウリーはもういいと言うように、腕を柔らかく揉みしだいていたアジラフェルの手を取って前に回させた。真っ平らなお腹の前で指を組むと満足そうに大きな掌が重なる。
「わたしの人生って十五年遡ってもきみがいるんだな」
「…あ?そんな経つのか」
「そうだよ」
「今一気に老け込んだ気がする」
「きみは全然変わらないよ…」
本心からそう言いながら首筋に頬を寄せると、くすぐったそうに竦められた肩でちゃぷ…と湯面に小さな波が立った。
クロウリーがあの頃から変わったことといえば左手の指輪と引っ越しを機に短くした髪くらいだ。撫で梳くときの指先の感触を寂しく思いもするが、大人っぽくて男性らしくてとにかく格好いいから前のほうが良かったとは全く思わない。今のほうが良いというわけでもないが。クロウリーはクロウリーというだけで好きだ。
愛おしさからぴたりとくっつけた頬にもこっそり触れた唇にもクロウリーは頓着せず、それが当然であるようにただ受け入れてくれていた。
「あと三年と少し経ったら、わたしの人生の半分きみがいることになる」
「はあ、なるほど」
「早くもっといっぱい過ごしたい…」
「週末の話?」
「明日になったら百年一緒にいたことになればいいのにって話」
「めちゃくちゃなこと言ってんな。もうのぼせたか?」
「ううん」
「じゃ、おれより疲れてるな」
振り向かないままのクロウリーの濡れた手が頬をひと撫でする。アジラフェルからすれば何も変わったことは言っていない。二十年以上ずっと思っていることだ。本音を言えばこれからだけでなくこれまでの時間も全部欲しい。頬から伝って滴ってゆく雫でさえクロウリーに与えられたと思えば惜しい気さえしてくるくらい、クロウリーの何もかもが欲しい。その何もかもというのが、無限にあって尽きなければいいのに。
「今度今日みたいな日があったら夕食はテイクアウトにしよう」
「うん」
「わたしが代わってもいいんだし。時間的に大したものは作れないかもしれないけど」
「よっぽど疲れてたらな。でもほんとに苦じゃないんだ」
「わたしだって苦じゃない」
「休みにはおやつにチュロス揚げるくらいだもんな」
「わたしも結構料理上達しただろ」
「ふふ…うん」
さっき頬を撫でてくれたのとは反対の掌が赤い髪を掻き上げる。その色っぽい所作を間近に浴びてときめいたものの、あまりにベタ過ぎるからこれは内緒にしておく。
「おまえは?今日仕事どうだった」
「わたしはいつも通りかな。…あ、そういえば今日とうとう言われたよ。『子供がいない人にはわからないだろうけど』って」
「おー、ついに」
クロウリーの口調はごく軽かったが、アジラフェルは言ってから下手をしたかもな…と少し後悔した。時折話題にしていたとはいえ別に今わざわざ言うことじゃなかったかもしれない。食事前、しかも入浴中のこんな状況で。それくらいフランクに受け取ってくれればいいが…と思いながら様子をこっそりと窺う。ひとまず、肩に預けられている頭の重みに変動はない。
「誰に言われたんだ?患者の親?同僚?」
「診察に来た子のお母さんに」
「どう思った?」
「どうとも。それはそうだろうなって感じ…」
「ふうん」
「親とか子供の前に、同じ年齢でも、同じ性別同士でも、わかることなんて大してないだろ。同じ立場ってだけでわかりあえるならしょっちゅう起こってる保護者トラブルもないだろうし…冷たいかな?」
「いや。苦労してるんだな」
なるべく普段通りに努めて素直に答えると、ふ、と苦笑しながらアジラフェルの膝を撫でてくれた。
「で、なんて返したんだ?」
「特に何も。普通に『そうですね、すみません』って」
「まあそうなるよな」
「きみならもっと上手い返答ができただろうなとは思った」
「ええ?うーん…おれはおまえみたいに優しくないからなあ…」
「優しくなくてもよければ、なんて返した?」
「んん…『自分の子供のことでわからないことがあるから来たんだろ』って言うかな」
「一理ある」
「百理あっても絶対言うなよ。人の頭は理屈でできてんじゃないからな」
全くその通りだ。クロウリーの言うことは正しい。
もし理屈で出来てくれていれば仕組みを紐解いて円滑なコミュニケーションがとれるし治療も進みやすいのに。
ただ、もし理屈で説明できたとしてもクロウリーのことをすっかり理解できる日などくる気がしないのは何故だろうな。完全には払拭しきれない先入観や理想像がもしかしたらあるのかもしれない。頭の中がどんなふうだって、ずっと好きでいる確信しか無いとしても。
「大人同士で、毎日一緒にいて、すごく知りたいと思ってる相手でさえ、どう思われてるのか心配になることだってあるもんね」
「おれのことか?」
「もちろん」
「おれ相手に、どう思われてるのか心配になるって?」
「そりゃあなるよ。時々ね」
「ふうん…」
撫でていたアジラフェルの膝を支えにするように、クロウリーは伸ばしていた脚を静かに曲げて戻した。角ばった膝が湯面からひょこりと覗く。
「流れでついでに言うけど」
「うん?」
「この前たまたま車で病院の前通りがかったときおまえを見掛けてさ」
「いつ?気付かなかった」
「ほんとにちょっと通りがかっただけだったからな。たぶん退院した子供の見送りに出てたんじゃないかな。入り口のとこで、三歳くらいの子を抱えてやってた」
「ああ、あったかも」
「なんかすげえ複雑な気持ちになった」
「それは…どういう意味で?」
「何かが違ってたらこういうおまえもいたんだろうなと思って」
「クロウリー…」
「わかってる。おまえの言いたいことは」
「わかってるならわたしは何も言わない」
抱きしめるべきか迷ったがやめておいた。深刻な話にしたくはなかったからだ。クロウリーも同じだったようで、「あんまり真面目な話はしたくないけどさ」と正面を向いたまま静かに続けた。
「うん」
「おれは何ひとつ後悔は無いし、これ以上の望みもない。おれがそう思ってるってことは、おまえもそうだってこともわかってる」
「うん」
「でも、頭でわかってることと心で感じることは別だろ?」
「だめ。同じにして」
「でも…」
「クロウリー」
ああしまった。やっぱりどうしても抱きしめてしまう。
首筋に頬を寄せてもクロウリーはたじろぎも拒みもしなかった。
「…でも…だっておまえ、子供自体は好きだろ」
「そりゃね」
「おまえも小さい頃はぼんやり思ってただろ、大人になったら誰かと結婚して、いつか自分の子供を持つんだろうなって」
「思ったことない」
「一度も?」
「一度もない」
「子供の頃だぞ。人を好きになったことがなくても想像くらいはするだろ」
「きみがそうだったから?」
「………、」
触れていた喉からはっきりと言葉に詰まるのを感じ取り、アジラフェルははっとして今度こそ本当に後悔した。
「ごめん、違う。責めてるわけじゃないよ」
「わかってる」
「責めてないし怒ってもない、少しも」
「わかってるって」
「小さい頃は親が世界の指針なんだから当たり前のことだ」
「わかってる、アジラフェル。わかってるから」
「わたしが変わってるだけだと思う。家族仲も良くなかったし」
「そうだなとも言いづらいんだよその話…」
「ふふ」
「笑ってるし…」
苦笑した表情でやっと顔を振り向かせたクロウリーと小さく笑いあったあと、そっと瞼に口づける。クロウリーは静かに受け入れてくれた。
こんなに大好きで何より大事な一人のために生きていけるなんてこれ以上の幸福はない。本当にそう思っている。出会う前のことなど思い出せなくなるほど、クロウリーはアジラフェルにとって自分の全てに等しかった。そんなクロウリーが家に帰れば出迎えてくれて、時々こうして一緒にお風呂に入ったりもして、同じ食卓で食事をし、同じベッドで眠り、一緒に朝を迎える、そんな毎日を重ねて過ごしていけるのを、アジラフェルがどんなに幸せに思っていることか。
「一緒にいようね」
きみがいるなら他に何も要らない。そういう意味で、約束を強いるようにアジラフェルは言った。
クロウリーも優しい眼差しで微笑み返してくれ、ゆっくりと口を開いた。
「やだ」
そのあっけらかんとした軽い返答に思わず険しい顔になる。クロウリーは笑った。
「心拍数上がってきたから先に上がる」
「もう」
クロウリーはアジラフェルの胸を押してざぱんと立ち上がった。お尻が綺麗に色づいていたから嘘ではないのだろう。
「おまえもそこそこで上がれよ。髪乾かしてやんないぞ」
そう言ってクロウリーはバスルームから出て行った。
クロウリーの手が空いているときは乾かしてもらうのがずいぶん前から慣例化しているが、一度だってアジラフェルから頼んだことはない。これはクロウリーなりの甘え方のひとつなのだ。
当たり前になったのはいつからだったか、たぶんアジラフェルが一番身を削っていた時期、一緒に暮らし始めた頃だと思う。苦々しい思い出まで呼び覚まされそうで、それを打ち消すようにアジラフェルも浴槽から上がった。
お湯を抜いて脱衣所から出たときには、既に廊下にまで香ばしい油の香りが漂っていた。
楽しみにしておいた夏野菜は茄子、ニンジン、ゴーヤ、オクラにレンコン、それから初めてのミニトマト。これだけはパン粉で衣がついていて、レシピを聞いたから試してみたかったのだとクロウリーは言う。見た目にもかなり豪勢な夏野菜カレーだった。
リビングに入ったアジラフェルに開口一番「ルーにニンジン入れたのに、素揚げしたのも乗せたら変かな」と訊いてきたのも健気でかわいい。
「変じゃないよ。ニンジン好き」
「じゃあいいか」
それがどういう意味を持つのかはよくわかる。惜しみないクロウリーの愛情だ。