@kijitora_hachi
収容人数百五十人程度の小劇場。マイナーながら知る人ぞ知る劇団の公演とあって殆どの席が埋まっている中、隅の方の座席に見知った顔を見つけて、僕は足を止めた。
――確か、天馬くん、だった。隣のクラスの、天馬司くん。神山高校の変人。転入したばかりの僕の耳にも、数々の噂が入ってきている。
やや幼さが残る綺麗に整った顔立ちに、毛先にかけてグラデーションのかかった珍しい金髪という派手な容姿。加えて、芝居がかった口調と、隣のクラスまで届く大きな声をしていて、非常に目立つ存在だ。見かける度に妙なポーズを決めていて、世界一のスターになると豪語し、高笑いをする姿は確かに変人だけど、うるせぇな、また天馬かよ、という呆れたような声は聞こえても悪い噂は聞かない。学級委員長をしていると聞いたことがあるから、変人でも人望はあるのだろう。
そんな彼がこんな場所にいることに驚いた。
今日の舞台は国内で最も有名な歌劇団に所属してキャリアを積み上げてきた演出家が、退団後に新たな劇団に所属して初めて作り上げたオリジナル作品だ。歌劇団で傑作と呼ばれるショーをいくつも作り上げてきた演出家のファンは多く、役者も実力派揃いではあるものの、敷居の高い小劇場での公演ということもあってあまり話題にはなっていない。座席を埋めているのは役者か演出家の熱心なファンばかりだ。
(……もっと大きな舞台しか興味がなさそうだと思ったのに)
天馬くんはスターになると言っていながら、演劇部に入っているわけでも、劇団に所属しているわけでもないらしい。高校のすぐ近くにはいくつものステージを抱え、ショーの盛んなフェニックスワンダーランドがあり、そこも定期的にキャストを募集していると聞くけれど、それに応募しているという話も聞かない。スターになりたいという発言も、ただ目立ちたいだけなのだろうと思っていた。
でも、どうやらそうではないらしい。
パンフレットを読み込む横顔は真剣で、琥珀色の大きな瞳は期待に満ちてキラキラ輝いている。彼が本気でこの舞台を楽しみにしているのは一目瞭然だ。
(……まぁ、どうでもいいか)
ふい、と彼から視線を逸らす。こんな所で同級生を見て驚いたけれど、それだけだ。隣のクラスの彼と関わったり、会話をすることなんて、これから先もないだろう。チケットを確認し、自分の座席へ向かう。
座席に腰を下ろし、パンフレットを読みながら開演のブザーを待つ。やがて舞台の幕が上がり、役者の動き、舞台装置、照明、音響、ありとあらゆる演出を見逃さないよう夢中になっていく――はずなのに、僕の頭の隅にはどうでもいいはずの同級生の存在がずっと引っかかっている。
終幕後、席を立ちながらもう一度だけ彼の方を見る。興奮したように頬を紅潮させ、楽しそうな笑顔を浮かべる彼の姿が、妙に目に焼き付いた。
□■□
チャイムが鳴って、授業が終わる。
数学教師が教室を出て行くと、クラスメイトがぱらぱらと席を立って動き出した。抜き打ちテスト最悪、難しかったね、やべぇ全然解けなかった――そんなざわめきを聞くともなしに聞きながら、黙々と手元のドローンを調整する。
教師や授業への愚痴は長くは続かず、教室内の話題は次々に移り変わって行く。楽しそうな笑い声、密やかな噂話。そういえばA組に『キャット』がいたらしいよ、えー都市伝説じゃなかったの、と教室の一角で女子が盛り上がっている。
……嫌なことを聞いてしまった。手は止めないまま、一つため息をつく。
キャット。名前の通り、猫の耳や尻尾を持つ特殊な人間だ。個人差があって、常に耳と尻尾が出ている者と特別な時にしか出ない者がいるらしい。校内で耳つきや尻尾つきを見たことはないし、こんな中途半端な時期に噂になるくらいだからA組の『キャット』はたぶん後者なんだろう。
特別な能力があるわけじゃないけれど、見目麗しく、人を惹きつけると言われるキャット。……まさか、こんなに近くにいるなんて。なるべくA組には近寄らないようにしよう、そんなことを考えていたその時だった。
「天馬ってウザいよな」
突然耳に入ってきた悪意のこもった言葉に、思わず手を止めてしまう。
出どころは前方の席のクラスメイト。その視線を追って窓の外を見ると、隣のクラス、二年A組が体育の授業を終えて片付けをしている最中だった。今話題に挙げられていた天馬くんはサッカーボールを抱えながらいつものようにポーズを決め、それを見るA組の生徒たちが呆れ半分、けれど笑顔で何か話しかけている。
――役者としての素質はあるんだろうな、と思う。くるくるよく変わる表情も、遠くからでも目を引く大きな動きも、いつでも胸を張ってピンと背筋を伸ばした綺麗な姿勢も、変人ながら人を惹きつけ笑顔にしてしまう人間性も。まだ荒削りだけど、磨いていけばきっと輝くだろう。
「あいつ、何にもしてないくせにスターになるとか言ってさ。馬鹿なんじゃねぇの」
そんなことを考えていたからだろうか。初めて耳にする、彼に対する悪意の言葉が頭の中に滑り込んでくる。ただのノイズだ、聞くなと自分に言い聞かせてみても、止められない。
「別に舞台が好きなんじゃなくて、有名になって目立ちたいだけなんだろ」
「ほんとだよ。うるせぇし周りの迷惑考えろっての」
――何も知らないくせに。そんな言葉が脳裏に浮かんだことに驚いて、小さく頭を振る。つい先日まで彼らと同じことを考えていたというのに。
劇場を出る前に見た、天馬くんの笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。あれは心の底から演劇を、ショーを愛する人間の顔だった。決して関わることのない人物だとしても、彼も僕に近い熱量でショーを楽しんでいる人間なのだと知って、親近感のようなものを覚えたのかもしれない。
聞くに耐えない言葉をそれ以上耳に入れたくなくて、立ち上がる。もうすぐ次の授業が始まるけれど、最近変人ツーと呼ばれるようになった僕がいなくても誰も気にしないだろう。調整中のドローンと工具を抱えて、教室を後にした。
□■□
二度あることは三度ある、ということわざを実際に体験したのは初めてかもしれない。
一度目は小劇場。二度目は映画館。そして、三度目もまた小劇場だった。チケットに書かれた座席を何度も確認して、先に座っている隣席の人物を後方から眺める。
後ろ姿しか見えないけれど、あの珍しいグラデーションの金髪なんて一人しかいない。この先関わることもないと思っていたのに、どうしてこうも毎回観るものが被っているんだろう。
小劇場演劇は、商業的成功より作り手のこだわりを追求したユニークな作品が多い。今日の舞台も、演出家自らが役者として舞台に立ち、メジャー作品にはない独創的な演出をふんだんに盛り込んでいるという。僕みたいに一人でパフォーマンスをする人間ならともかく、世界的スターを目指しているという彼――天馬くんならもっと有名な役者の多い、派手な舞台を好みそうなものなのに。
(眺めているのは面白いんだけど……)
いつも多くの人に囲まれている彼は、僕にとって遠くから観察するくらいがちょうどよくて、あまり関わり合いになりたくないタイプでもあった。
けれど、チケットを買ってしまった手前、席を空けたくはない。クラスも違うし、転入生である僕の顔なんて知らないはずだ。そっと歩を進め自分の席に向かうと、天馬くんはふと顔を上げて、ぱちりと目を瞬いた。
「……神代?」
名前を呼ばれて、思わず目を合わせてしまう。まさか、顔を覚えられていたとは。
何度か遠目に眺めていたけれど、こうして目を合わせるのは初めてだった。物怖じしない琥珀色の大きな瞳に見つめられて、僕はにこりと笑ってみせる。
「やあ。A組の天馬くん……だったかな。偶然だね」
「そうだな。偶然、三回も休日に同じものを観るとは思わなかったが。二度あることは三度ある、というのは本当だったんだな!」
……気づいてたのか。
にっこり笑った天馬くんから発せられた言葉に、浮かべた笑顔が一瞬引き攣るのを感じた。すぐに表情を取り繕って、彼の隣に腰を下ろす。
「神代もショーが好きなのか?」
「ああ。僕は演出に興味があってね」
「そうなのか。今日は演出家が自ら舞台に立つらしいな! 楽しみだ!」
それだけ言って、天馬くんは手元のフライヤーに視線を落としてしまった。もっとぐいぐい話しかけてくるかと身構えていたのに、あまりにもあっさりした対応に拍子抜けして、僕も作り笑顔を引っ込める。
派手な見た目や大きな声に加え、いつも人に囲まれていることから馴れ馴れしいタイプだと思っていたのだけど、予想外だった。他人に対して無関心なわけでもなく、人を寄せ付けないような空気もなく、けれど無遠慮に踏み込んではこない。意外と人との距離の取り方が上手いことに驚きつつ、変人でありながら人望があるのもこの立ち回りのうまさゆえか、と納得した。
「天馬くんは、こういう演劇が好きなのかい?」
関わり合いになりたくないと思っていたはずなのに、無意識に質問が零れ落ちる。天馬くんはぱっと顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「ショーなら何でも好きだぞ! 大きな舞台の迫力あるミュージカルや演劇も好きだが、小劇場の距離の近さでしか感じられない空気も気に入っているんだ!」
さっきまでの一歩距離を置いたような態度から一転して、目をキラキラ輝かせた天馬くんが饒舌に話し始める。前回見た舞台の話。映画の話。昔見たお気に入りのミュージカル。好きなものの話となると止まらなくなってしまうらしい。最初は呆気に取られたけれど、その熱のこもった話しぶりにだんだん楽しくなってきて、気づけば僕も熱心に相槌を打ち始めていた。
僕にとって、ショーの話ができるのはひとつ年下の幼馴染だけだった。だからだろうか、ショーを愛する同い年の同性との会話は思いの外楽しくて、ついつい饒舌になっていく。
好きな作品をいくつか挙げれば、彼は見たことがある作品は好きなシーンや台詞を列挙し、見たことがない作品は気になるから見てみよう、と返してくる。逆に彼が好きな作品も教えてもらい、その作品はこの演出が素晴らしくてね、と話せばそういう見方もあるのか、と感心したように頷かれた。
「実は、この前神代を劇場で見た時からずっと話したいと思っていたんだ」
「おや、そうだったのかい?」
「ああ! 誰かとショーの話をしたいとずっと思っていたんだが、相手がいなくてな……神代は詳しいし、話し方も上手いからつい話しすぎてしまう」
「フフ、お褒めに預かり光栄だよ。……ああ、そろそろ始まるね」
気づけば公演開始直前まで話し込んでしまっていた。天馬くんはぱっと口を閉ざし、姿勢を正して舞台へ視線を移す。
舞台を観る時はいつも楽しんでいるけれど、こんなにもわくわくするのは久しぶりかもしれない。開演のブザーを待ちながら、僕も彼に倣って姿勢を正した。
□■□
三度目の偶然の後、僕と天馬くんの距離は急速に縮まっていった。
ショーの話ができる友人に飢えていたという彼は、週に一度か二度、昼休みにB組の教室まで押しかけてくる。中庭や屋上で昼食を摂りながら好きな作品について語り合い、時には天馬くんが即興劇を披露してくれた。歌って踊る天馬くんを見ていると次第に興が乗って、つい『僕もたまに路上でショーをしているよ』と同級生の誰にも言ったことがない秘密を打ち明けたら、彼は目を輝かせ、見せてくれと勢いよく飛びついてきた。
鞄の中やロッカー、空き教室にこっそり隠しておいたドローンやロボットを使って短いショーを披露すれば、天馬くんは大いに喜んだ。……もっと見たい、他にはどんなことができるんだ? と問われた時は少しだけ困ったけれど。
僕の演出、やりたいことは他人には理解されない。だからひとりで気ままにやってきたし、誰かに構想を語るなんてことはしなかったのだけど――天馬くんの目が、あまりにも真っ直ぐだったから。
こういうショーがしてみたいんだ、と話してみれば、天馬くんは目をまんまるにして口までぽかんと開けて、お前の演出は発想が人の域を超えているぞ! と文句なのか褒め言葉なのかわからないことを言ってきた。だけどそれは、否定や嘲笑のニュアンスじゃない。純粋な驚きと、できるのかという疑問と、面白そうだという期待。
彼は決して僕のやりたいことを否定しなかったし、試してみたいとまで言い出した。最初は断っていたのだけど、どうしてもと頼み込んでこられて結局僕が折れた。
ドローンを使って屋上から花吹雪を舞わせたり、プールに水柱を立てたり、校庭でヒーローショーのような爆発を起こしたり、大量の小型ロボットと校内を走り回ったり。僕の演出案を天馬くんが受け入れ、実行していく。それが楽しくて、嬉しくて、次から次へと新しい演出を考える。変人ワンと変人ツーだった僕たちが、いつの間にか変人ワンツーフィニッシュと呼ばれるようになるくらい、行動を共にしているのが当たり前になっていた。
「A組の天馬司だ! 神代類はいるか?」
今日もまたB組の教室を訪れて、天馬くんが声を張り上げる。クラスメイトが反応するより先に席を立ってそちらへ向かうと、彼はぱっと満面の笑みを浮かべた。
「珍しいね、お昼前に来るなんて」
「ああ、今から早退しなければならなくてな……だが、どうしてもこれを神代に渡したくて」
「……また早退?」
天馬くんから差し出された、ソフトケースに納められたラベルのない円盤を受け取りながら僕は首を傾げる。
友人になってから知ったのだけど、天馬くんはたまに授業に出ていなかったり、早退していることがある。授業中ロボットのメンテナンスをしていたり、サボったりしている僕から見ても進級できるのか心配になる頻度だ。事情があるんだ、補習や課題でクリアしているから問題ないと言っていたけれど、それでも健康優良児で生真面目な彼らしくないと不思議に思っていた。
「本当は早退なんかしたくないんだがな……ああ、それはこの前お前が観たいと言っていたミュージカルのDVDだ!」
「へえ、古いものなのによく見つかったね。借りてもいいのかい?」
「うちは母さんがピアノ講師でな。ミュージカル好きの友人がいるというから持っていないか聞いてもらったんだが、なんと! 譲ってくれたのだ!! 先に観させてもらったが、主演の演技も歌も音楽も素晴らしくてな……! ぜひ神代も観て感想を聞かせてほしい!」
「ありがとう。僕の幼馴染もミュージカルが好きなんだけど、観せてもいいかな?」
「もちろんだ! 出来ればその幼馴染の感想も聞かせてくれ!」
ではまた明日! と妙な――本人曰くカッコいいポーズを決めて、天馬くんは早足でA組の教室へ戻っていく。その背中を見送って自分の席に戻ろうとしたら、こちらを見ていたクラスメイト二人と目が合った。彼らは苦虫を噛み潰したような顔をしてふいと視線を逸らす。
「……また天馬早退だって」
「あいつ何でしょっちゅう早退すんの? 病気?」
「知らねーけど、一年の時からずっとあれで普通に進級してるんだよな。あいつの家金持ちらしいから、親に何とかしてもらってるんじゃね?」
……聞こえないように喋っているつもりなのか、それともわざと聞かせているのか。悪意に満ちた言葉が神経を逆撫でして、僕は眉を顰める。
天馬くんと親しくなる前は気づかなかったけれど、彼は多くの人に好かれている反面、それを妬み疎ましく思って悪意を撒き散らす人間も少数ながら存在していた。以前なら意味のないノイズとして聞き流せた言葉も、友人を貶める、聞きたくない耳障りなものとして頭に入ってきてしまう。
喧嘩なんてしたくはない。でも気分は良くなくて、がたんと音を立てて椅子を引けばクラスメイトは肩を跳ねさせて口を閉じる。『類は背が高いから、不機嫌そうな顔をすると威圧感がある』と幼馴染から言われたのがこんなところで役に立つとは。自嘲しながら、天馬くんから受け取った円盤を眺めた。
(病気……じゃなさそうだけど)
これを差し出してきた、天馬くんの白くて綺麗な手を思い出す。
天馬くんは細いように見えるけど、歌って踊っている姿を見れば、肺活量はあるし、きちんと筋肉がついて、体幹も鍛えられているのがすぐにわかる。僕の要望に応えて飛んで跳ねて走って、少し疲れたような様子を見せることはあっても次の日にはケロッとしているから、間違いなく体力もあるはずだ。
躊躇わずに友人、と呼べるくらいには親しくなっているはずなのに、僕は彼のことをほとんど知らない。知っているのは好きな舞台、好きなミュージカル、好きな役者、好きな作品の傾向。お互い自分のことは何も話さずに、愛してやまないショーだけで繋がっている。
早退の理由が病気でないとすれば、何なのだろう。借りたDVDのケースを鞄にしまいながら浮かんだ疑問に、僕自身が一番驚いた。
(……僕は、彼のことを知りたいと思っているのか)
脳裏に、苦い記憶が蘇る。
ショーを通じて、垣根を越えて、繋がりたい。かつて、そんな願いを抱いたことがある。
その願いを叶えるのはとてつもなく難しいと気づくのに、時間はかからなかった。小学生の時点で、僕のやりたいことは多くの人が嫌がる、理解されないものだと現実を突きつけられたから。そして――
『類くんのショー、素敵だね』
『もっと見たいな』
『……類くんは、いい匂いがするね』
――腕に絡みつく長い尻尾。擦り寄せられた頭に生えた三角の耳。べったりとまとわりつく視線も、薄く開いた唇から覗く赤い舌も、人のそれより鋭い牙も甘ったるい声も、全部グロテスクで。
キャットを酔わせて引き寄せる特殊体質の『マタタビ』に近づくため、ショーを利用する人がいる。それを知ってしまったあの日から、僕は誰かと同じ想いを共有するよりも孤独を選んで、他人を深く知りたいなんて考えないようになっていた。
人が嫌いになったわけじゃない。見てくれる人を笑顔にするショーをしたい、その気持ちは変わらない。ただ、あんな欲をぶつけられるのなら、僕のショーを利用されるのなら。輪の中に入るのではなく、隣に立つのでもなく、楽しむ人々を俯瞰で見ているだけで十分だ。
天馬くんとも、中学の頃に屋上で出会った、孤独だけで繋がっていた仲間のように、ショーだけで繋がっていれば十分じゃないのか。そう思うのに――どうしても、知りたいという気持ちは消えない。突然生まれた感情を持て余して、僕は小さくため息をつく。
ふと窓の外へ視線をやれば、鞄を背負った天馬くんが校門に向かって駆けて行くのが見えた。やっぱり、早退の理由は体調不良ではないのだろう。振り返らずに駆けて行くその背中が見えなくなるまで、目で追い続けた。
□■□
「重い」
「えっ」
貴重なミュージカルのDVDを借りたから一緒に観ようと幼馴染を誘って鑑賞会をして、子どもの頃に戻ったように感想を言い合って。お茶を淹れて一息ついたところで、DVDを貸してくれた天馬くんの話を始めると、幼馴染――草薙寧々は開口一番にぴしゃりと言い切った。
「友達にそこまで知りたいとか思われたら普通に引く」
「……そういうものかな」
「友達の距離感じゃないでしょ、それ。……わたしも友達が多いわけじゃないからわからないけど……」
相変わらずの毒舌に苦笑してしまう。
寧々とこうして過ごすのは久しぶりだった。幼馴染とは言え、異性であること、そして彼女のトラウマとなっている事件の後から少々疎遠になっていたのだけど、借りたDVDのおかげで昔のように会話ができている。
このきっかけをくれた天馬くんに、何かお礼がしたい。だけど、何をすれば彼が喜んでくれるかいまいちピンとこない。
困ったな、寧々に注意されたばかりだというのにまた彼のことを知りたいと考えている。少し冷めたお茶を一口飲んで息をつくと、寧々が足元に置いた鞄から何かを取り出して僕の目の前に差し出した。
「まあ、ちょうどよかったかも」
「え?」
「類、春名座って知ってる?」
「ああ、もちろん」
突然の問いかけに、僕は頷く。
春名座は日本を代表する老舗の劇団だ。劇場で公演を見たことはないけれど、映像はいくつか見ているし、所属する役者は春名座の舞台以外やドラマ、映画でも活躍しているから見る機会も多い。
どうして突然そんなことを、と聞く前に、寧々が僕の目の前に置いた白い封筒を指先でつついて切り出した。
「これ、春名座の公演チケット。お母さんが貰ってきてくれたんだけど……二枚あるから、今日のお礼に受け取ってくれない?」
「……寧々は行かないのかい?」
すぐに受け取るのは躊躇われて、僕は寧々に問いかける。
寧々は僕をショーバカと評するけれど、僕から言わせれば寧々も負けず劣らずだ。ステージに立てなくなってしまった今も、憧れの俳優の出演作は必ずチェックしているし、舞台やミュージカルをよく観ていることも知っている。
僕のエゴだとわかっていても、きっかけさえあれば、寧々にはもう一度ステージに立ってもらいたい。そう思っているのに、もう、観ることすら嫌になってしまったのだろうか。そんな僕の不安を読んだのか、寧々はぱたぱたと手を振った。
「別に、舞台に興味をなくしたとかじゃないから。その日、友達と一緒にフェニランに行く約束しちゃってて」
「フェニラン?」
「うん。フェニックスステージに、すっごく歌の上手い子がいるんだって。他のステージも、わたしに見てほしいって……わたしはもう、ステージで歌わないって言ったのに」
ほんとに困る、強引なんだからと言う寧々の口元には小さな笑みが浮かんでいる。言葉ほど嫌がっているようにも見えないし、これはかなり良い変化だろう。思わず笑みを浮かべると寧々は恥ずかしそうに小さく咳払いをして、ずいとチケットを僕の方へ押し付けてきた。
「だから、もったいないし類が使ってくれると助かるんだけど。その友達と行ってきたら?」
「そういうことなら、いただくよ。……お互い、いい友人に恵まれたね」
「……そうかもね。ま、さっきの激重彼氏みたいなこと言って引かれないように気をつけてね」
「……そんなに酷いかい?」
「うん、ヤバい」
真顔できっぱりと言い切られる。
一度知りたいと思ったことは、とことん調べなければ気が済まない僕のことをよく知っている故の忠告だろう。
寧々も人見知りだし友人がすごく多いわけではないけれど、せっかくのアドバイスだし素直に受け取っておこう。肝に銘じるよと伝えれば、そうしてと大真面目に頷かれてしまった。
□■□
いつもより早めに登校して、借りたDVDと寧々から貰ったチケットを持ってA組の教室へ向かうと先客がいた。
天馬くんが背の高い男子生徒と教室の入り口で何か話し込んでいる。誰だろう、見たことがないから別学年、制服がまだ真新しいから一年生だろうか。
彼から大きめの紙袋を手渡され、それを覗き込んだ天馬くんがパッと表情を綻ばせる。見たことのないその顔に、胸の奥がちり、とざわついた。
……もしかしたら、寧々に言われた通り僕は重いのかもしれない。
相手によって見せる顔が違うのは当たり前だろうと自分に言い聞かせて、僕は彼らの方へ向かって歩き出す。先に気づいたのは天馬くんで、僕を見るなり笑みを浮かべた。
「神代! お前から来るとは珍しいな!」
「うん、借りていたものを返したいのと、少し話があってね」
天馬くんに笑みを返しながら隣の男子生徒を見れば、彼は何か探るようにじっと僕を見つめていた。僕と目が合うとはっと一礼して、彼は天馬くんに向き直る。
「司先輩、俺はこれで。咲希さんにもよろしくお伝えください」
「ああ、ありがとう、冬弥!」
――名前で呼び合う仲なのか。
天馬くんはクラスメイトも僕のことも苗字で呼ぶからそれが普通なのかと思っていたけれど、親しい相手だと違うらしい。
そんなことを考えている間に男子生徒は丁寧に天馬くんに頭を下げ、僕の横を通り過ぎる時も会釈をしながら去っていく。天馬くんはぶんぶんと大きく手を振って彼を見送ってから僕を見上げ、眉を顰めた。
「お邪魔してしまったかな」
「いや、そんなことはないが……どうした、神代」
「え?」
「何か言いたそうな顔をしているが……」
問われて、僕はぱちりと目を瞬く。
いつも通りにしているつもりだったけれど、変な顔をしてしまっているのか。何と答えるべきかと考えあぐねていると、天馬くんが何か思いついたように口を開く。
「さっきここにいた冬弥はオレの幼馴染でな。クレーンゲームが趣味で、よくぬいぐるみを妹にくれるんだ。今もぬいぐるみを持ってきてくれただけで、神代が邪魔というわけではないぞ!」
だから気にしないでくれ! と天馬くんはからりと笑う。
僕も幼馴染の寧々のことは名前で呼んでいるし、そういうものなんだろう。そうなんだね、邪魔をしたんじゃなかったならよかった、と笑って一言言えばいいだけなのに言葉が出てこない。
黙りこくる僕を見て、天馬くんは小首を傾げる。何か言わないと、当たり障りのない、友人として違和感のない言葉を――
「……名前」
「名前?」
「天馬くんは、友人を名前で呼ぶタイプなんだね」
だけど出てきたのはそんな言葉で、天馬くんの目がきょとりと丸くなった。
やってしまった。これじゃあ『友人なのに名前で呼んでくれない』と言外に拗ねているみたいだ。寧々から言われた『重い』の一言が頭の中でリフレインする。
とにかく急いでごまかさないと。ふざけて『僕も友人なのに寂しいなあ』と泣き真似でもしてみようか、それとも深く突っ込まれる前に別の話題で流してしまおうか。いつもは回転が速いと言われる頭がこういう時に限って働かない。内心慌てていると、天馬くんがふむ、と声を上げた。
「特にこだわりがあるわけではないが……では、今日から類と呼ぶとしよう! オレのことも司と呼んでくれ!」
「おや、いいのかい?」
「ああ、もちろんだ! それで、話とは何だ?」
あっさりと頷いて、天馬くん――じゃなくて、司くんが尋ねてくる。僕は借りたDVDのケースを差し出した。
「これ、ありがとう。昨日幼馴染と観たんだけど、とても面白かったよ」
「おお、それはよかった! 昼休みにでも感想を聞かせてくれ!」
「うん。それで、幼馴染がお礼にって春名座の公演チケットをくれたんだ」
寧々から貰ったチケットをポケットから取り出して見せると、司くんは目を丸くする。
「幼馴染は予定があって行けないらしくてね。来週末なんだけど、一緒にどうかな」
ショーが好きな司くんのことだから、二つ返事で頷いてくれるだろうと思っていたのだけど、彼は難しい顔で口を閉ざしてしまった。
……もしかして、あまり嬉しくなかっただろうか。
春名座の芝居は現実的で人間の内面を丁寧に描いたものが多い。役が現実に存在しているかのように感じさせる演技派俳優揃いの春名座だからこそできる芝居でとても素晴らしいのだけど、観る人によっては淡々としていて退屈だという意見もある。ショーなら何でも好きだと言っていたとはいえ、好みじゃないということもあるだろう。
「……あまり、興味がないかな? もしそうなら、他を当たるけれど……」
人を誘った経験が少ないから、こういう時どうしたらいいのか思いつかない。困らせてしまっていたら申し訳ないなと思いながらそう言えば、司くんはぶんぶんと大袈裟なくらいに首を振った。
「いや、春名座の芝居は一度観てみたいと思っていた! だが……」
ぬぐぐ……! と唸りながら頭を抱える司くん。眉間に指を当てたり身を捩ったり、奇妙な動きをしているのはいつものカッコイイポーズの一環なんだろうか。面白いし見ていて飽きないけれど、おそらく真剣に悩んでいるのだろうし、これは笑ってはいけないところだろう。しばらく黙って眺めていると、司くんは意を決したように大きく頷いた。
「……まあ、大丈夫だろう。ぜひ同行させてくれ!!」
「もしかして、先約があったとか?」
「そんなところだが、本当に大丈夫だ! 誘ってくれて感謝するぞ、類!」
そう言って、司くんはにっこりと笑う。気を使わせてしまったかと思ったけれど、曇りのない心からの笑顔に僕も釣られて笑みを浮かべたその時、予鈴が鳴り響いた。
「おっと、そろそろ先生が来てしまうな」
「そうだね。昼休みにまた来るよ、時間や待ち合わせ場所は近くなったら決めようか」
「ああ! では、また後で!」
ひらひらと手を振って、司くんは席へ戻っていく。
いきなり誘って迷惑だったかもしれないと思ったけど、そうでもなさそうだ。意気揚々と歩いていく後ろ姿は上機嫌そのもので、思わず笑ってしまう。
……それにしても。ああして言葉や表情に頼らず感情を表現するのも一種の才能だ。
司くんはスターになりたい、とよく口にしている。それなのになぜ、行動に移さないんだろう。
もし。彼が『演出のための実験に付き合う』じゃなくて『一緒にショーがしたい』と言ってくれたら。そうしたら、僕は――
「おーい、予鈴鳴ったぞ。教室に戻れー」
物思いに耽っていたら、通りすがりの教師に声をかけられて我に返る。目を付けられて、昼休みに反省文なんてことになったら司くんとの約束を果たせなくなるし、面倒だ。早くしろよという言葉に素直に頷いて、B組の教室に戻った。
□■□
舞台の開演は午後一時。十一時に駅で待ち合わせをして一緒にお昼を食べようか、ということになった。
以前司くんと鉢合わせた小劇場はどちらも収容人数百人前後で、普段着でも気楽に入れた。でも、今回は八百人規模の中ホールだ。ドレスコードはないとはいえ、春名座のファンは老若男女幅広いし、あまりラフな格好だと浮いてしまうだろう。
かなり悩んで、普段はあまり着ないジャケットとシャツ、ラフすぎない綺麗めのワイドパンツを選んだ。母さんには『デートみたいな気合いの入れようだね』と言われてしまったけれど、司くんはジャケットやベストを着ていたし、これなら並んでも違和感はないはずだ。
そんなふうに服選びにもたついてしまったせいで、待ち合わせ場所に着いたのは約束の時間ギリギリだった。休日だから、シブヤ駅直結のショッピングモール入り口は人の波でごった返している。これは場所を失敗したな、司くんを見つけるまでに時間がかかるかもしれないとポケットの中のスマホに手を伸ばした、その時だった。
「類!!」
よく通る声が、雑踏の中で響く。声のした方を振り返ると、一際目を引くグラデーションの金髪――司くんがこちらに向かって手を振っていた。
「すまないね、待たせたかい?」
「いや、オレもさっき着いたばかりだ!」
「ならよかった。……それにしても、司くんは目がいいんだね」
足早に歩み寄ると、司くんはにかっと笑みを浮かべる。そのままショッピングモール内を通り、地下鉄の改札へ向かいながら話を振ると、司くんは小首を傾げた。
「む、そうか? 確かに視力は悪くないが……」
「あの人混みで、すぐに僕を見つけてくれただろう?」
「……ああ。類は背が高いからな、近づいてきたらすぐにわかったぞ! 前と服装が違うから少し戸惑ったが……」
そう言いながら、司くんは僕の格好をまじまじと眺める。
「そういった服もよく似合っているぞ!」
「フフ、ありがとう。司くんも……」
司くんの今日の格好はアーガイル柄のベストに白いシャツ、テーパードパンツを合わせた綺麗めカジュアルだ。シャツの襟に緩い雰囲気の魚のワンポイントがあって、かっちりしすぎた印象にならず、童顔の司くんによく似合っていて可愛らしい――いや。同い年の同性に対して、可愛いは不適切だろうか。友人と出かける機会なんてほとんどなかったから、こういう時何て言えばいいのか思いつかない。
「その魚のブランドが気に入っているのかな? 似合っているよ」
結局、司くんと同じ褒め言葉しか出てこなかったのだけど、司くんは嬉しそうにふふんと笑った。
「ああ、よく気付いたな! このブランドの服は愛らしさとかっこよさのバランスが絶妙で気に入っているんだ!」
ふむ。愛らしい、でいいのか。なら褒め言葉は『可愛い』でもよかったのかもしれない。
取り留めもない話をしながら改札をくぐり地下鉄に乗り込む。十数分揺られて着いた駅はシブヤと変わらず人で溢れていた。
「食事はシブヤで済ませてくればよかったかな。失敗したねえ」
「いや、劇場の近くにカフェやハンバーガー屋があるしそこでいいんじゃないか? 店内で食べられなければ公園で食べてもいいしな」
二人でスマホを覗き込んで打ち合わせを済ませ、はぐれないように肩がくっつくくらい近づいて歩く。大型複合施設のある東口の方に人が集中しているのか、目的の劇場がある西口を出る頃には人混みはだいぶましになっていた。
司くんが見つけたカフェで軽い昼食を摂り、公園をそぞろ歩いて時間を潰してから劇場に向かう。流石日本でも有数の劇団、春名座の公演とあって入場口には多くの人が並んでいた。
「F例の14番と15番……あった、ここだな」
「うん、いい席だね。役者の表情も舞台全体も見やすそうだ」
「ああ、楽しみだな!」
まだ開演まで少し時間があるというのに、司くんはキラキラと目を輝かせている。ああ、誘ってみてよかった。きょろきょろと興味深そうに劇場内を見回す司くんを微笑ましく思いながら僕も座席に腰を下ろした。
やがて照明が落ち、舞台の幕が上がる。
――物語は、主人公の母の葬儀から始まった。
母子家庭で育った主人公は、母の死後、生き別れの兄を名乗る男と出会う。突然現れた兄を最初は受け入れることができず、戸惑い、すれ違い、時に傷つけ合いながら、二人は家族としての在り方を模索していく。
大きな事件があるわけではなく、静かに進んでいくきょうだいの日常。でも、目が離せない。表情やほんの少しの仕草だけで心の機微を表現する演技、荒ぶる感情を叩きつける長台詞。役者の演技を邪魔せず引き立たせるためだろう、照明も音楽もかなり控えめながら、観客を物語に引き込んで離さないよう緻密に作り込まれているのがわかる。僕らが見ているのは舞台のはずなのに、まるできょうだいが慎ましく暮らす古いアパートを覗き込んでいる錯覚を覚えるほど、全てがリアルだ。
物語の終盤、それまでの穏やかな日々が一転する。兄は自分を養子に出した母と、母の元で育てられた主人公を恨んでいた。主人公に接触したのも、信頼を得たところで今度は自分が捨ててやるつもりだったと告白する。
主人公は騙されたと怒り狂うことも嘆くこともなく、ただ兄の話を聞いている。台詞はない。それでも、観客には彼の感情が伝わってくる。例え兄がくれた優しさが偽りだとしても、二人で暮らした日々は楽しくて幸せだったのだと。
ラストシーン、主人公と兄はほんの少しのぎこちなさを残しつつも、変わらず二人で暮らしていた。けれど、一つだけ変わったことがある。主人公が、兄を『兄さん』と呼ぶようになっていた。
スポットライトが主人公から母の遺影へと移動する。写真の前に飾られた花がふわりと揺れたところで、幕がゆっくりと下りていった。
(……これは『赦す』ための物語なんだな)
ありがちなテーマだけれど、主演二人のおかげで全く安っぽくなっていない。悩み、苦しみ、悲しみ、恨み。飲み込めることも飲み込めないことも全部抱えて、彼らは『赦す』ことを選んだのだろうと感じさせてくれる。流石名俳優揃いで知られる春名座の役者だけあって、圧巻の演技だった。
拍手が鳴り響く中、ちらりと隣の司くんに視線をやる。途中、鼻を啜る音が聞こえていたし泣いているのかと思いきや、彼はぎゅっと胸元を抑えて俯いていた。
「……司くん?」
拍手が収まる頃合いを見計らって声をかけると、司くんははっと目を瞬いてこちらを見る。目は潤み、頬は少し赤らんでいた。誤魔化すように顔をパンと叩いて、司くんは笑みを浮かべる。
「あ、ああ、とても素晴らしかったな! 役者の演技に説得力があって、とてもリアルで…………」
興奮気味に喋る司くんの声が、だんだん尻すぼみになっていく。どうしたんだろう、と司くんの顔を覗き込んで――ぞく、と背筋が震えた。
潤んだ瞳と真っ赤な頬。素晴らしい芝居を見た感動や興奮もあるのだろう。だけどその奥に、別の色が滲んでいる。
忘れもしない、べたついてグロテスクで気持ち悪い、情欲の色。
――まさか。
女子たちの噂話。度重なる早退。人混みの中でもあっという間に僕を見つける。いくつかの疑問点が全て線で結ばれて、考えたくない答えを突きつけてくる。
「……顔色が悪いけれど、大丈夫かい?」
どうか勘違いであってほしい。感動して泣きすぎてしまったんだと笑い返してくれたらいい。けれど、そんな僕の願いは叶わずに、司くんは伸ばした僕の手から逃げるように身を捩った。琥珀の瞳が一瞬怯えるみたいに揺れて、さっと伏せられる。
「……ッ、す、すまん、帰る……っ!」
司くんは脱兎の如く駆け出してホールから出ていく。僕も慌てて席を立ち彼を追いかけた。
「司くん!!」
マナー違反だと分かっていても、なりふり構っていられない。逃げる司くんを追いかけて劇場を飛び出す。
人混みの中を縫うように易々と駆けて行く彼を追うのはなかなかに骨が折れたけれど、だんだん彼の足がふらついて、やがて走ることもできなくなったのか路地裏へと入り込んでいった。捕まえようと速度を上げて踏み込んで、目に入ってきた光景に絶句する。
雑居ビルの薄汚れた壁に凭れて、頽れながら息を整える司くん。その丸い頭の上に――髪と同じ色の、猫の耳が生えていた。
「……キャット」
無意識に呟いた僕の言葉に、司くんが振り返る。
苦しそうにきゅっと寄せられた眉、荒い吐息を零す唇から覗く赤い舌と鋭い歯、熱を孕んだ視線。その姿がかつて『いい匂いがする』と迫ってきたキャットに重なって思わず後退ると、司くんは唇を噛み締めた。
「……気持ち、悪い、よな」
「……っ」
咄嗟に、何も言えなかった。
司くんは、あのキャットとは違う。頭ではそう思うのに、身体が勝手に拒否してしまって、唇が動かない。
「――すまん」
弱々しく謝って、司くんは僕に背を向ける。
去っていく後ろ姿を、僕は追うことができなかった。
□■□
週明け、司くんは学校に来ていなかった。
司くんのあの様子からして、おそらく発情期だったんだろう。キャットの発情期は個人差があると聞くけど二、三日は続くというから、今日明日くらいは来られないかもしれない。
――司くんが、キャットだった。そうと知れば、今までの疑問のほとんどに説明がつく。
キャットは月に一度程度、発情期が来るという。だけど、司くんは今まで一度もそんなそぶりを見せなかった。抑制剤を使っていたんだろうけど、薬は副作用が出やすく、使い続ければ耐性がついてしまう。そうなると、病院でより強い薬を注射や点滴で打ってもらわなければならない。早退を繰り返していたのはたぶんそれが理由だ。
病院通いをしていたから、演劇部に入ることも、ショーキャストのアルバイトをすることもできなかったんだろう。大きな劇場ではなく小劇場で出くわしていたのは、前もってチケットを取らなくても体調が良い日に飛び込みで観劇できるから。一緒に出かけようという僕の誘いを一瞬渋ったのは、発情期がいつ来てしまうかわからないから……そして、発情期のキャットにとって、マタタビのフェロモンは心身共にかなりの負担になるから。
……司くんは、キャットであることを隠したかったはずだ。それなのにどうして、僕の誘いを断らなかったんだろう。
どうしても春名座の舞台が観たかったのか、観劇中くらいなら発情してしまっても耐えられると自分の身体を過信したのか。それとも――
「あ、あの、神代くん」
声をかけられて、はっと我に返る。いつの間にか授業が終わって昼休みになっていたらしい。顔を上げると、クラスメイトが教室の入り口を指差した。
「神代くんを呼んでほしいって頼まれたんだけど……」
「僕を?」
誰だろう。寧々は学校ではあまり声をかけてこないし、緑化委員の誰かが当番を変わってほしいと頼みに来たんだろうか。そんなことを考えながらクラスメイトが指差した先を見遣って、思わず目を瞬いた。司くんが幼馴染だと言っていた、すらりと背の高い一年生だ。
クラスメイトにお礼を言って、教室の入り口に向かう。一年生は僕と目が合うと、礼儀正しく頭を下げた。
「突然呼び出してしまってすみません、神代先輩。一年B組の青柳冬弥です」
「昼休みだし大丈夫だよ。何か用かい?」
一年B組ということは、寧々と同じクラスだ。寧々に何かあったのか、それとも。首を傾げる僕を真っ直ぐ見つめて、青柳くんは口を開いた。
「司先輩からの伝言を預かってきました。『迷惑をかけてすまなかった。今後はなるべく関わらないから、安心してほしい』と」
「……へえ」
すぅ、と頭の芯が冷えていく。
「……司くんも結局、ショーを利用してマタタビに近づこうとしていただけだったんだね」
自分で思っていたよりもずっと平坦で、冷たい声が唇からこぼれ落ちた。
キャットは嫌いだ。でも、司くんはあのキャットとは違うと思っていた。ショーを心から愛している仲間なんだと信じたかった。
だけど、違ったんだ。彼はマタタビの匂いに惹かれて寄ってきただけ。キャットを拒否するマタタビなんかに用はない、だからもう近づかないということなんだろう。
大切な友人だと思っていた自分が愚かだった。苦笑を浮かべてため息をつくと、青柳くんはきゅっと眉根を寄せた。
「あの。お二人のことに、俺が口を挟むのは差し出がましいとわかっているんですが……」
幼馴染を悪く言われたのが気に障ったのか、控えめに、けれど僕から目を逸らさずに青柳くんが言葉を続ける。
「司先輩は昔、マタタビの方とトラブルを起こしてしまって……それ以来、マタタビの方には近づかないようにしていたんです」
「トラブル?」
「俺からは内容まで言えませんが……相手に迷惑をかけてしまったと、とても悔やんでいました。だから、司先輩が神代先輩と親しくしているのを見て驚いたんです」
そう言えば、初めて会った時青柳くんは僕を探るように見ていた。あの時から、僕がマタタビだと気づいていたということは――
「……君も、キャットなのかい?」
声を潜めて問い掛ければ、青柳くんはこくりと頷く。
「はい。俺はパートナーがいるので、マタタビの匂いに惑わされることはありませんが……それでも、神代先輩の匂いはわかります。普段の司先輩なら、絶対近寄らないはずです」
強い口調できっぱりと言い切る青柳くん。だけど、次の瞬間には叱られた犬みたいにしょんぼりと肩を落とした。
「だから、司先輩は神代先輩を傷つけたくて近づいたんじゃないと思うんです。俺の憶測でしかないんですが……」
「……君は、ずいぶん司くんを信頼しているんだね」
司くんを庇いつつ、僕のことも否定せず慎重に紡がれる言葉からは優しさと気遣いが感じ取れる。こんな好青年が必死になってフォローするくらい、司くんは慕われているんだろう。なんとなくそう口にすれば、青柳くんは大真面目な顔で頷いた。
「小さい頃からお世話になっているんです。俺がパートナー……相棒に会えたのも、司先輩のおかげなので」
青柳くんの口元がふっと綻ぶ。そして、またぺこりと丁寧に頭を下げた。
「では、俺はこれで。お時間を取らせてすみませんでした」
「大丈夫だよ。……話を聞かせてくれて、ありがとう」
まだ、司くんへの気持ちの整理はつかないけれど。考える材料をくれたことに感謝を伝えると、青柳くんは目を丸くする。涼しげな印象を与える唇が、迷うみたいに開かれ、閉じてを繰り返し、結局何も言わないまま彼はまた小さく頭を下げて去っていった。
ひとつため息をついて、自分の席に戻る。昼休みだけど、今日は弁当を持ってきていないし、今から購買へ行くのも面倒だ。何より、食べる気にもならない――なのに、お腹はきゅう、と鳴いて空腹を訴える。
以前は、一食抜くくらいしょっちゅうだった。特に問題もなかったのに、司くんと友人になってからは彼が早退しない限り一緒に昼食を摂っていたから、食べることが習慣づいてしまったんだろう。ほんの二ヶ月程度ですっかり変わってしまった。
(……そう。たった二ヶ月)
司くんは、もう僕に関わらないと言った。
たった二ヶ月の習慣なんて、すぐに消える。かつてのひとり気ままに過ごしていた僕に戻るだけ。それだけのことだ。
頭を切り替えて、何をして過ごそうか考える。作りかけのドローンを完成させてしまおうか。でも教室で昼食を摂っている人もそれなりにいるから、工具を広げるのは気が引ける。かと言って教室を出るのも億劫だし……
「神代くん」
つらつらと考えていたら、声をかけられる。さっき青柳くんからの呼び出しを伝えてくれた、クラスメイトだった。確か、三宅くんだったか。
「神代くんはお昼食べないの?」
「ああ、うん、持ってくるのを忘れてしまってね」
聞かれていないとは思うけれど、さっきお腹が鳴ってしまった手前、食欲がないとは言いにくい。正直にそう答えると、三宅くんは目を丸くして、手に持ったトートバッグをちょっと持ち上げて見せた。
「あのさ、僕、今日パン買いすぎちゃって……よかったら、一緒に食べない?」
「え?」
「僕、神代くんが作ってるドローンに興味があって、ずっと話してみたいなと思ってて……あ、あそこの林くんと谷山くんも一緒なんだ! その、嫌じゃなかったらだけど……」
「……それなら、ご一緒させてもらおうかな」
転入してきて、クラスメイトから昼食を一緒にと誘われるなんて初めてだ。驚いたけど、嫌な感じはしない。笑みを浮かべながら頷くと、三宅くんはほっとしたような顔をして、教室後方の席にいる二人組に手を振った。
「林くん、谷山くん! 神代くんも一緒でいいかな?」
「全然オッケー!」
「じゃ、もう一個机くっつけるか」
ニッと笑った谷山くんが手を振り返し、林くんが近くの机を引きずってくっつける。席を立ち、三宅くんと一緒にそちらへ向かうと、谷山くんはくっつけた机をぽんぽんと叩いた。
「さ、どーぞ、遠慮なく」
「お前の机じゃないだろ」
「いーじゃん、誰も使ってないんだから細かいこと言うなって!」
「フフ、賑やかだねえ」
「あはは、林くんと谷山くんはいつもこんな感じなんだ」
「おい、引かれてるぞ谷山」
「えっマジ? うるさい?」
軽快なやり取りに笑いながら、林くんが動かしてくれた席に腰を下ろす。三宅くんは隣に腰を下ろし、トートバッグの中身を広げた。
「えーと、メロンパンと、クリームパンと、揚げドーナツと……ごめんね、甘いのしかないけど好きなやつ選んで!」
「ありがとう。じゃあ、メロンパンをいただいてもいいかな」
「神代、弁当ないの? じゃあオレのたまごサンドもやるよ!」
「俺は……ああ、チョコレートがあるな。やる」
「おや、いいのかい?」
あれもこれもと机の上に増えていく食べ物に首を傾げる。すると、谷山くんがけらけらと笑い出した。
「おう、食え食え! 神代はデカいんだから食わないと午後もたないだろ! オレなんか弁当とパン三つ食っても放課後には腹減るしな!」
「それはお前の燃費が悪いだけだろ……」
「男子高校生なんだからこれが普通だって!」
「でも、食べすぎると眠くならない?」
「眠くなるのは血糖値スパイクが原因だね。菓子パンは糖質が高いからたくさん食べると引き起こしやすいんだ」
「はー、詳しいな神代」
そんなたわいもない話をしたり、三宅くんに聞かれるまま制作中のドローンの話をしていたら、あっという間に昼休みも終わりに近づいていた。使わせてもらっていた机の持ち主が戻ってくる前に軽く拭いて汚れを払い、元の位置に戻しながら、僕は三人に笑みを向けた。
「今日は誘ってくれてありがとう。とても楽しかったよ」
僕の言葉に、三人は一瞬ぽかんとした表情を浮かべる。何かおかしなことを言っただろうか、こういう友人との気安いやり取りは慣れないなと内心困っていると、三人は楽しそうに笑顔を返してくれた。
「楽しんでくれたならよかったよ! 神代くんってひとりでいたいタイプなのかなって思ってたから、今まで誘えなかったんだけど……今日は天馬くんがお休みで、神代くん退屈そうだったから」
「……え?」
三宅くんの言葉に、思わず思考が停止する。それに気づかなかったのか、谷山くんと林くんがうんうんと大きく頷いた。
「今日静かすぎるもんなー。天馬の大声は聞こえないし、神代は授業中ニヤニヤしてないし」
「まあそれが普通なんだけどな。俺たち、変人ワンツーの奇行に慣らされすぎて、静かだと逆に不安になるって言うか、ちょっと心配になるって言うかさ」
しみじみとした言葉に、どう答えるべきか戸惑う。
……僕が、司くんと友人になって、おおよそ二ヶ月。たった二ヶ月だ。
変人ツーと呼ばれて、いてもいなくても誰も気にしなくて、クラスメイトから声をかけられることもなくて。そんな僕が、たった二ヶ月という短い期間で、話してみたいと言われたり心配されたりするなんて。それほど、僕は変わったんだろうか。
司くんの存在が僕の周りに、僕自身に、大きな影響を及ぼしている、ということか。そして、それはきっと――
「明日は天馬くん来るといいね」
「……そうだね」
自分が彼をどう思っているのか、これからどうしたいのか、少しだけ考えがまとまったような気がする。三宅くんの言葉に、僕は深い頷きを返した。
□■□
翌日、司くんは普段通り登校していたけれど、青柳くんからの伝言通り僕の前に顔を出すことはなかった。
と言うより、意図的に避けられている。授業中は元気な声が聞こえてくるのに、休み時間のたびにA組を覗きに行っても司くんの姿がない。さっきまでいたのに、と不思議がる人、ワンツー喧嘩でもした? とからかい半分に声をかけてくる人に曖昧にはぐらかしながら作戦を練る。
キャットはマタタビの匂いに敏感だ。僕が近づけばあっという間に察知され、雲隠れされてしまう。匂いのないドローンやロボットを使ってみても、音で気づかれてしまうのかダメだった。
――だけど、それくらいは想定済みだ。
仕掛けるのは放課後。そのくらいになれば効いてくるはずだ。
「さて……仕込みは全部完璧だね」
手元のタブレットを覗き込む。映っているのは、クラスメイトに手を振って昇降口へ向かう司くんの後ろ姿。気づかれないように距離を空けて追跡するドローンに搭載したカメラの映像だ。
この距離だと表情までわからないのが残念だけれど、今日の目的を果たすためには仕方ない。遠くて画面上では豆粒くらいにしか見えない司くんが、下駄箱の扉を開いて――
『どわああああ!! ななな、な、何だー!?』
ビリビリと、イヤホンから音割れした司くんの叫び声が響く。うん、予想以上にいい反応だ。さて、ここからは僕の想定通りに動いてくれればいいのだけど。
『あっ、こら、返せ!!』
画面を見守っていると慌てた声がして、司くんが走り出す。
司くんの下駄箱に仕込んでおいたのは、クラッカーと自律走行型のラジコンだ。扉を開いた司くんがクラッカーの目眩しに遭っているうちに、靴を乗せたラジコンが走り出すようにしておいた。
『くっ、類の仕業か……!! ええい逃がさん、待て!!』
ラジコンは僕がプロミングした通り、人や障害物を回避しながら決められたコースを進んでいる。司くんもちゃんと追いかけてきていた。……よし、狙い通り。
『ワンツーフィニッシュ、また何かやってる』
『やっぱ一日一回はこれ見ないと落ち着かないよな〜』
『天馬!! 廊下を走るな!!』
『競歩です!!』
笑う生徒の合間を掻い潜り、怒鳴る教師に言い返しながら司くんは階段を駆け上がる。ラジコンは市販のものよりスピードが出るように作ってあるけれど、階段を上るのはやっぱり時間がかかる。身体能力の高い司くんから逃げ切るのは難しそうで、じりじりと距離が詰められてきていた。でも――
『よし、捕まえ――!!』
「フフフ、残念、対策済みさ!」
司くんがラジコンに手を伸ばした瞬間、がらりと近くの空き教室の扉が開く。
『な……っ!!』
出てきた二体のロボットが抱えている『もの』を目にして、司くんは勢いよく後ろへ飛び退いた。一瞬遅れて、ロボットが投げた緑色の網――体育倉庫から拝借してきた障害物競走用のネットが、さっきまで司くんが立っていた位置にばさりと落ちる。
『フッ、オレを甘く見たな! こんな罠に引っかかるほど間抜けではないぞ!』
間一髪で避けた司くんは得意げな声をあげてカッコいいポーズを決め、少し距離が空いたラジコンを追いかけてまた走り出す。
「甘く見たわけじゃないんだけどねぇ」
あまりにも思い通りに動いてくれる司くんがおかしくて、笑ってしまった。
あの程度のトラップで司くんを捕まえられないのはわかっている。ただ、ラジコンが逃げる時間を稼げれば良かっただけなのだけど、その意図には気づいていないみたいだ。
その後もシャボン玉まみれにされたり大量のボールに足を取られたりして『いい加減にしろ類ーーー!!』とぎゃんぎゃん文句を言いながら、司くんは逃げるラジコンを追って走り続ける。向かう先は、屋上。
開け放しておいたスチールの扉を潜り、ラジコンと司くんが転がるように屋上へ飛び出してくる。司くんが思い切り腕を伸ばして、ラジコンに頭から突っ込んで。
「……捕まえた!!」
「うん、ご苦労さま」
司くんがラジコンを捕らえた直後、ガシャン、と音を立てて扉を閉じながら声をかけた。
司くんは大げさなほど肩を跳ねさせて、油の切れたロボットみたいにぎこちない動きで振り返る。琥珀色の瞳が僕を捉えた瞬間、あり得ないものを見たとでも言うように大きく見開かれて。
「な、な……っ、何故ここに類がいるーーー!?」
「匂いがしないのに何故、ってことかな? キャットだけじゃなくて、マタタビ用の抑制剤もあるんだよ」
青空に吸い込まれていく叫び声にひらひらと錠剤のシートを振りながら答えれば、司くんは目をまん丸にして金魚みたいに口をぱくぱくさせた。
キャットは匂いに敏感で、近づけば逃げられる。それなら、匂いを消してしまえばわからないんじゃないだろうか。僕が仕掛けたイタズラだとわかっていても、向かう先から僕の匂いがしなければ油断して追いかけてくるだろうと踏んだのだけど、大正解だった。
……問題は、抑制剤の副作用が強いことだ。司くんがうまく策に嵌ってくれるかどうかハラハラしていた時は忘れていた頭痛と吐き気が思い出したようにやってくる。司くんはずっと、これを耐えながら僕の隣にいたのか。
気持ち悪さをぐっと喉の奥に押し込み、平気な顔を作る。気まずそうに視線を逸らす司くんを見下ろした。
「……司くん」
僕が一歩前に出て屈めば、司くんはじりじりと少しだけ後退る。なるべく刺激しないように、意識して柔らかい声音で僕は言葉を続けた。
「青柳くんから聞いたんだ。司くんは、マタタビに近づかないようにしていたって」
「…………」
「……君は、どうしてあの日、僕に声をかけたんだい?」
三回目のあの劇場で司くんが僕に声をかけなかったら、僕は何も変わらず彼を遠くから眺めているだけだっただろう。ふたりでショーの話をすることも、変人ワンツーフィニッシュになることも、寧々の変化を知ることも、クラスメイトに話しかけられることもなく。
ただマタタビに近づきたいだけの打算だったとしても、たくさんのきっかけをくれた司くんを、僕は嫌いになれない。このまま離れていくのだとしても、理由だけは知りたかった。
司くんは僕を見つめたまま黙り込んでいる。話したくないと言うよりは、言葉に迷っているといった表情だ。根気よく待ち続けると、司くんがそうっと口を開いた。
「……中学の時の話なんだが」
「うん」
「学校で、発情期がきてしまってな。マタタビの教師に襲われそうになったんだ」
「……っ!」
淡々と呟かれる内容に、思わず息を呑む。
「幸い、すぐに他の教師に見つかって何もされなかったんだが、まあしたことがしたことだから相手が停職になってな。オレは体調不良で助けを求めたつもりだったが……向こうはずっと、オレが発情して襲ってきたと言い続けていた」
「そんな……」
顔も見たことのない教師に、激しい嫌悪感と怒りが湧いてくる。
発情期とはいえ相手は中学生、教師からすれば守るべき子どもだ。助けを求めた子どもに手を出すことも、罪をなすりつけることも、決して許されることじゃない。あまりに卑劣で身勝手で――そこまで考えて、ふと自分に擦り寄ってきたキャットのことを思い出す。
……ああ、そうか。
僕はあの日から、ずっとキャットを己の欲に忠実ないきものとして嫌って遠ざけていたけれど……悪いのはキャットでもマタタビでもなく、己の性を利用して欲を満たそうとする人間。
キャットである前に、司くんは司くんだ。嫌いになれない、じゃなくて嫌う必要なんてなかったんだ。
「実際、オレが助けを求めなければその教師が停職になることはなかったからな。だから、もうマタタビには関わらないようずっと気をつけてきたんだが……」
重くなった空気を払拭するためか、司くんが明るい声を上げて苦笑いを浮かべる。違う、君は何も悪くないと僕が遮る隙を与えず、司くんは言葉を続けた。
「……ショーを観る類が楽しそうで、声をかけずにはいられなかった」
「……え?」
「お前がマタタビだというのは転入してすぐ気づいていたから、何度か確認のためにB組の前を通って見ていたんだ。お前、ずっと退屈そうな顔をしていただろう」
だから話したこともない僕の顔と名前を知っていたのか。ひとり納得していると、司くんはふっと笑った。
「初めてお前を劇場で見たあの日、お前は目をキラキラさせていて、楽しそうで……ショーを好きになったきっかけを思い出した」
「きっかけ?」
「ああ。オレは、妹に笑顔をくれたショーを好きになって……人に笑顔をあげられるスターになりたかったんだ」
そう言って、司くんはじっと僕を見つめる。大きな目が眩しいものを見るみたいに細められ、口元が弧を描く。笑っているはずなのに、その顔はどこかさみしそうに見えた。
「話しかけるべきではなかったのに、迷惑をかけて悪かった。もう、二度と近づかない」
深く頭を下げる司くんの肩が、小刻みに震えている。
――僕は、どう答えるべきなんだろうか。
迷惑だなんて思っていない、だから今まで通りでいてほしいと言えば、司くんは頷いてくれるような気がする。……でも、それでいいのか?
司くんは自分の発情期が他人にとって迷惑だと思っている。マタタビが隣にいればフェロモンによって発情を誘発される可能性もあるし、抑制剤の服用や病院通いが増えてしまうかもしれない。
今まで通りでいたいと願うのは、司くんを苦しめるだけだろう。彼のことを思うのなら離れるべきで、それが最善だ。
――それなのに。
「……司くん」
声をかければ、司くんがぴくりと震える。ぎゅうっと、強く握られた拳が、僕と同じ思いである故ならいい。そんなことを思いながら、そっと手を握る。
「僕は……司くんと出会って、ずいぶん変わったと思う」
力を入れすぎて白くなってしまった指を一本一本解いていく。ゆっくりと時間をかけて開かせた手のひらに自分の手を重ねて、僕は微笑んだ。
「君と出会ってから、退屈する暇がなくてね。毎日楽しいんだ」
勝手なことを言っている自覚はある。楽しいから一緒にいたいなんて、僕が最も嫌悪する自分の欲に忠実な人間と同じかもしれない。
「……君も同じ気持ちなら、もう少し、一緒にいられる方法を考えてみないかい?」
それでも――離れたくない。
同じものを見て、笑って、語り合って……願わくば、いつか一緒にショーが出来たらいい。司くんの『人を笑顔にするショー』を、僕の演出で彩りたい。
長い長い沈黙が続く。……ダメだろうか。弱気になりかけたその時、ぎゅうっと重ねた手が握り返された。
「……オレも」
司くんの声が震えている。でも、僕の手を握りしめる力は痛いくらいに強く、瞳からはさっきまでのさみしげな色が消えて星の煌めきみたいな輝きが宿っていた。
「オレも、お前ともっと一緒にいたい……!!」
「うん」
一緒にいたいと望んでも、僕はマタタビで、司くんはキャットだ。性も過去も変えられないし、お互い辛い思いをしたり、傷つけてしまうこともあるかもしれない。
だけど、諦めたくない。
司くんと一緒にいるための方法を、見つけてみせる。決意を込めて、司くんの手をぎゅっと握りしめた。
□■□
司くんと今まで通り友人でいたいとお互いの思いを確かめ合った、数日後。妹が風邪をひいてしまったから急いで帰ると言う司くんを見送って、僕は一年B組の教室に向かっていた。
司くんに聞いたところ、僕は『変人ツー』の他に『爆破のマッドサイエンティスト』なんてあだ名をつけられているらしい。そのせいだろう、下級生は僕を遠巻きに眺め、さっと道を開ける。まったく、僕はただの演出家なのに、ひどい恐れられようだ。訂正して回る気はないけれど。
窓ガラスから一年B組の教室を覗き込む。探していた姿は見つからなかったけど、代わりに幼馴染――寧々を見つけて手を振ると、ぎょっと目を見開いて駆け寄ってきた。
「……びっくりした。どうしたの、急に」
「急にすまないね。青柳くんに話があるんだけど、どこにいるかわかるかい?」
「……青柳くん? いつも友達が迎えにきて、早く帰ってるけど……あ、今日は来てなかったから図書室にいるかも」
「ありがとう、行ってみるよ」
寧々にお礼を言って、図書室へ向かう。
転入してきたばかりの頃、読みたい専門書が一冊もなかったのを確認してから図書室には行っていない。あまり人が多いようだったら、青柳くんが仕事を終えるまで待つしかないなと思いながらドアを開けると、幸いなことに人の姿はなかった。
室内に足を踏み入れれば、古い本特有の甘い匂いがする。ほとんど来たことがない場所なのにどこか懐かしくて落ち着くのはこの匂いのおかげだろうなと思いながら奥へ進むと、貸し出しカウンターの向こうからひょこりと探していた相手――青柳くんが顔を出した。
「……神代先輩?」
「やあ。今、忙しいかい?」
「いえ、返却作業が終われば手が空きます。本をお探しですか?」
「いいや。少し、君と話がしたくてね」
声のトーンを落としてそう言うと、青柳くんは僕の意図を察してくれたのかすいと図書室内に視線を走らせる。
「……奥の自習スペースには人がいるので、窓際へ。片付けをしてから行きます」
「うん」
頷いて、言われた通り自習スペースから一番離れた窓際の席へ向かう。パーテーションで区切られているし、これだけ離れていれば小声での会話が聞こえることもないだろう。音を立てないようにそっと椅子を引いて腰を下ろした。
少しして、カウンターから出てきた青柳くんがカラカラと小さな音を立てながらラックを押して奥の書架へ入っていく。あれを全部戻すなら時間がかかりそうだ。
手持ち無沙汰になってしまったので辺りの書架をなんとなく眺めていたら、医学部や看護学部を目指す受験生向けの本を集めた一角が目に入った。人体の仕組みについて書かれたものや医者、患者の手記、世界的ベストセラーになっている医療分野の発展を紹介した本……その中に、医学の歴史と書かれた背表紙を見つけて席を立つ。書架から取り出して開いてみると、漫画でわかりやすく描かれた医学の通史だった。
席に戻って目次をチェックする。医学の父ヒポクラテスの話から始まり、各国の医学の歩み、感染症の歴史、衛生学や防疫の発展……そして、最後の方に第二の性、キャットとマタタビについての記述を見つけてそのページを開いた。
――キャットは百年ほど前まで、日本では化け猫憑き、海外では魔女として扱われ、迫害を受けていた。
キャットが男女の性とは違う第二の性として認定されたのは、僕らが生まれる何十年か前。キャットについての研究が進むうち、キャットを引き寄せる特別なフェロモンを持つ性――マタタビの存在が発見され、こちらも第二の性として近年認定された。
第二の性として認定されたことで医療や公的支援を受けることはできるようになったけれど、キャットとマタタビに関する研究は遅々として進んでいない。キャットは絶対数が少なく、発情期やマタタビに対する耐性も個人差が激しい。マタタビは本人に自覚がない上、検査で見つかることは稀だからだ。
わかっているのは、キャットには猫の耳と尻尾があること。テリトリーと呼ばれる『一人になれる安全地帯』が必要で、それがないと体調を崩すこと。性別問わず妊娠が可能であること。定期的に発情期が来ること。発情期前後はマタタビのフェロモンにより発情を誘発されたり、心身に悪影響を及ぼす可能性があること。マタタビと交尾――性行為をして首を噛むことによって、他のマタタビのフェロモンの影響を受けなくなること。
(このくらいしか情報はないか……)
オンラインで無料で閲覧できる医学論文も読み漁ったけれど、キャットやマタタビに関するものは数が少なすぎる。結局のところ、キャット本人に確認しなければわからないことばかりだ。
ぱたんと本を閉じてため息をついたその時、ふっと影が落ちる。作業を終えたのか、青柳くんが小さく頭を下げて僕の正面の席に腰を下ろした。
「お待たせしました。話とは何でしょうか?」
突然の訪問だというのに、青柳くんは迷惑そうな顔もせず真っ直ぐ僕を見つめてくる。その視線に促されて、僕はゆっくりと口を開いた。
「答えにくかったら、答えなくてもいいのだけど……キャットにとって、マタタビのフェロモンは心身に影響を及ぼすものなんだろう?」
「はい、一般的には」
「……そばにいるマタタビが抑制剤を飲めば、少しは楽になったりしないのかい?」
僕がフェロモンを出さなくなれば、司くんは少し楽になるかもしれない。そう思ってここ数日は抑制剤を飲み続けていたのだけど、今日、彼から『飲まなくていい』と言われてしまったのだ。
副作用のことを気遣われているのか、それとも何か別に理由があるのか。聞いても、司くんは下手くそな誤魔化しばかりで話してくれない。ならば、同じキャットである青柳くんに聞いてみよう、というわけだ。
「そうですね……」
青柳くんは顎に手を当てて考え込むそぶりを見せた後、話し始める。
「俺はパートナー以外のフェロモンに対してだいぶ鈍くなっているのではっきりとは言えないんですが……この学校には、神代先輩を含めて十五人くらいはマタタビがいます」
「そんなに?」
「はい。中学の時もそうでしたが、学年に五人くらいはいるとみていいと思います」
キャットの数はおおよそ人口の1%から2%前後と言われているけど、マタタビは正確な数や割合が判明していない。予想以上の数に驚いている僕に頷いて見せてから、青柳くんは話を続けた。
「なので、一番近くにいるマタタビが抑制剤を使用しても効果は薄いんじゃないでしょうか。むしろ、発情期以外は慣れた匂いのマタタビが近くにいる方が安心かもしれません」
「……そうなんだね」
……少しでも司くんのためになればと思ってしたことが、何の意味もなかったとは。
やっぱり、パートナーでもないマタタビがキャットの友人としてそばにいるのは難しいんだろうか。それなら司くんにパートナーがいれば……いや、ダメだ。自分で想像したことなのに、見知らぬ人が司くんと親しげに並ぶ姿は胸の奥を掻き回されたような不快感があって、頭を振って無理やり追い払う。
司くんと一緒にいたくて、けれど彼がパートナーを持つのは想像したくない。ならいっそ僕がパートナーになりたいと言えば――とも考えたけれど。僕が司くんと出会ってまだ二ヶ月、彼に向ける感情も友愛なのか、寧々が言った通り『激重彼氏』のそれなのか判別もつかないのに失礼だろう。そもそも、僕が望んだところで司くんが僕を選んでくれるかどうかもわからない。
「……不躾な質問ばかりで申し訳ないのだけど、青柳くんは、パートナーとの付き合いは長いのかい?」
我ながら、会ったばかりの後輩に対してデリケートで触れてはいけないことを聞いていると思う。だけど、こんなことを聞けるのは青柳くんしかいない。
青柳くんはきょとんと目を丸くした後、目を伏せる。彼は表情筋の動きが乏しく、あまり感情が読めないけれど、不快そうには見えないことに内心安堵した。しばらく沈黙が続いて――青柳くんが口を開く。
「それなりに長いと思います」
「……どうしてパートナーになろうと思ったか、聞いても?」
「彼しかいないと思ったからです」
問いかけに間髪入れず、きっぱりと答える青柳くん。その表情には、パートナーへの深い信頼と想いが見て取れた。
「純粋に、夢に命をかけて、本気で向き合っていて、まぶしくて……俺のような中途半端な人間は彼に相応しくないと思ったこともありました。……でも、彼は俺を、最高の相棒と呼んでくれた」
青柳くんがぐっと拳を握る。静かな冬の湖に似た瞳に、熱が宿ってゆらゆらと揺れていた。ずっと穏やかな印象だったのに、こんな挑みかかるような、今にも喉笛に食らいつこうとする犬みたいに不敵な表情もするのかと驚いていると、青柳くんはじっと僕を見つめてくる。
「俺と相棒は長い付き合いでしたが『この人しかいない』『この人になら全部預けてもいいし背負ってもいい』と思えるのなら、時間はあまり関係ないんじゃないでしょうか」
「……そういうものかな」
「はい。……あ、その、あくまで俺はそうだった、という話なのですが……」
押し付けみたいになってすみません、と青柳くんが頭を下げる。さっきまでのギラギラした顔は何処へやら、しおらしく項垂れる様は謙虚な好青年そのもので、ふっと笑みが溢れた。
「いや、貴重な意見をありがとう。とても参考になったよ」
「……それならよかったです」
そう言って青柳くんが顔を上げた瞬間、がらりとドアを開けて女子生徒が入ってくる。返却だろうか、本を抱えたその姿を見て青柳くんがさっと立ち上がった。
「すみません、仕事があるので」
「ああ、忙しいのにすまなかったね。助かったよ」
もう一度お礼を言えば、青柳くんはぺこりと一礼してカウンターへ戻っていく。
(この人しかいない、か……)
青柳くんの言葉を頭の中で反芻する。
……どうだろう。司くんは僕にとって、たくさんの機会をくれる、失いたくない、隣にいたい存在ではあるけれど……青柳くんのあの熱のこもった眼差しを見ると、僕にも同じ熱量があるのかわからなくなってしまう。
ぼんやりと考えていると、ちらちらと青柳くんの視線を感じる。ここにいたら、彼も落ち着かないだろう。立ち上がって本を書架に戻し、青柳くんに軽く手を振って僕は図書室を後にした。