1p:燭台切と夢のバー
2p〜10p:安定のなりたい夢(もの)
11p side 博多藤四郎と魔法使い
12p side へし切長谷部と果報者
・みっちゃん編は《鶴丸国永編〜真白な鳥の偲びの舞と歌声〜》
https://privatter.net/p/11346386 が前提
・安定編は薬研編https://privatter.net/p/11755730もセットでどうぞ!
・安定と薬研の役割の解説はこちら!https://privatter.net/p/11710391
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《第一幕:燭台切と夢のBAR》
彼女はあの日、嬉しげに指先を合わせながら
「ねえみっちゃん」と幸せそうに光忠へ笑いかけた。
「みっちゃんはこの本丸で、どんなことしてみたい?」
今はまだ始まったばかりだけど
これから仲間がいっぱい増えて、少しずつ強くなって、わたしも少しずつみんなのことを知って。今よりうんと余裕ができたら。
そんな、ちょっと先の未来が来たら、やってみたいこと、ある?
光忠の主人からそんな話が出たのは、この本丸がまだまだ創設したばかりの頃だったと思う。
彼女は、刀剣男士から過去の逸話や今の日常の話を聞くのをとても好んでいたけれど、同時に未来について語らうのも好きだった。
まだまだ日々の任務に追われている中だった。
本丸中が右から左へと駆けずり回っている最中、光忠は、そんなふうに平和な未来を思い描くのは、少し後ろめたいような気がしていたけれど、彼女がひどく幸せそうに笑うのを見ていたら、何だか肩の力が抜けて、そんなふうに未来を思い描いてみるのも、いいような気がして。
少し気持ちが軽くなったのをよく覚えている。
その時、光忠は。
たとえば、もっと色々な刀に得意料理を振る舞って、できればいろんな彼らの郷土の料理も知っていって、たくさん笑顔のある本丸にできたら、と。まるで夢物語のように語ったのを覚えている。
今は三食の厨当番だけで手一杯だけど、そうだ、夜食食堂やバーをするのも素敵かもしれない、と。
そしたら彼女は、そんなふうに語る光忠に、にこにこと本当に嬉しそうに笑って
「じゃあ、わたしが絶対、みっちゃんをそんな未来に連れて行くからね」
そう、嬉しそうに、決意表明した彼女に
光忠は、ああ、僕は今度は本当に良い主人を持ったんだな、と
たった一言、それだけで。
十分、本当に十分すぎるくらい
ひどく救われた思いだった。
「だからここは、彼女が連れて来てくれた夢の城」
光忠は、グラスを磨きながら、バーのカウンターで、ひどく大事そうに、そう口にして微笑んだ。
ここは、食堂併設の厨とは別に新たに作られた、こじんまりしたごく小さなバーカウンターだ。
大人数で騒ぐには狭すぎるが、一振り二振りと内緒話をするには最適なこの洒落たバーは、『BAR 光忠』の看板で、不定期に開いて皆を受け入れている。
「素敵だね」
「うん、僕の宝さ」
今宵の客は大和守安定。
真夜中過ぎ、ふと目が覚めて水を飲みに起きて来た安定が、バーの明かりが付いていることに気付いてふらりと扉を潜ると、燭台切はあたたかく安定を迎え入れて、甘いカクテルを一杯作ってくれた。
照明が淡く落とされた静かな空間に満ちるのは、ひどく落ち着く穏やかさだ。
丹念に磨き上げられた美しいカクテルグラスが、光を吸って淡く煌めく。夜闇に馴染むような暖色の間接照明、隅々までつやつやに磨き上げられた美しくシックな黒い木目のカウンター、控えめに彩りを加える綺麗な飾り花。
そんな、シンプルで洗練されたお洒落な場所だった。
バーテンダーの光忠の背後棚に並べられた、ひっそりと煌めく酒瓶のガラスが、大小様々に光を吸って美しく乱反射する。
よく見れば、ボトルキープした刀剣男士のために、紋を刻んだ洒落た札が控えめに掛けられていて、それがどこか特別めいている。
朝の食堂の活気のある騒がしさとも、宴のどんちゃん騒ぎの華やかさとも違う。
ひっそりと優しい夜の揺籠に包まれているような、日々の喧騒が遠くなる、静かで安心感のある場所だった。
「なんだか、すごく落ち着く」
そう口にした安定に、燭台切はひどく嬉しそうに微笑んだ。
ここが皆の癒しと安息の場所になればと願ってやまない、そんな声無き想いが伝わってくる優しい笑みだった。
光忠がキュッとグラスを磨く音が、優しい夜闇の中へと溶けていく。
居心地の良い空間に、落ちる言の葉は多くない。
安定が黙って耳を澄ませていると、ぽつり、ぽつり、と淡雨のように、バーテンダーの光忠の微笑みが落ちるだけ。
燭台切光忠という刀が纏う、もてなしの精神が余す所なく発揮された、美しく粋で穏やかなバー。
そんな静かな空間がひどく心地良い。
どこか息がしやすくて、ほっと息がつける。そんな。
夜の静けさに居心地良く揺蕩うような
満ち足りた、調和の取れた場所だった。
甘いカクテルの優しさが、軽やかに舌に沁み入る。
ゆっくりと味わってグラスの中身を飲み干した安定は、ふわりと笑った。
「また、ここに来てもいいかな」
「もちろん」
楽しみに待ってるよ、と燭台切が優しく笑った。
安定を見送った後、光忠は彼のグラスを片付けながら、ひどく幸福な思いでテーブルを磨いた。布巾の下で、黒艶の木目が美しく輝きを返す。
この本丸では、厨番長を任された光忠が、皆の相談や悩みを聞きながら、組織が円滑に回るように絶えず腐心している。
頼られることは苦にならないが、やるべきこととしてあげたいことを追っていると、どうしても手が足りないと思うことは多々あった。
けれど、番長補佐を務める歌仙兼定が本丸に招かれてからは、ずいぶん楽をさせてもらっていると感じることが多くなった。
かねてからの夢だったBARを作ることになったのは、そんな折のことだった。
「みっちゃん、みっちゃん」
鮮やかに思い出せる。彼女が白紙の大きな画用紙を持ってきて、光忠に笑いかけた日のことを。
「作ろう、みっちゃんの夢のバー!」
ああ、覚えていてくれたんだ、と。
それだけで報われる思いだったのに
彼女がそう声を上げた途端、たくさんの刀が当たり前みたいな顔で集まって来てくれたことを、僕はきっとずっと忘れないと思った。
「予算の算段? とっくに付いとるたい。燭台切しゃん聞いてなかと? 勘定番長になって最初に任された仕事がこればい。みっちゃんの夢を現実にする資金ば用意したいってゆーとったとよ」
「俺か? 総務番長を仰せ付かった一週間後だな。博多の予算作りを手伝ってやってくれと。というか、そもそも、政府の補助金制度の利用基準を満たしたところだと、先ほど主にご報告したのは俺だが」
「ああ、僕は番長補佐を仰せ付かったその日だね。いつも皆を支える側の厨番長が、安心して自分の夢を追えるようにしてあげて欲しいと。なんだ、知らなかったのかい? どの番長と話しても知ってるから、てっきり話が通ってるものとばかり」
燭台切が唖然と振り返ると、彼女は鶴さんと歯を見せて笑い合い、二人揃ってピースサインを向け、せーので声を揃えた。
「「どうだ、驚いたかい?」」
お決まりの彼の口調を真似て、キシシ、とそっくりな顔で、悪戯っぽく笑った彼女と鶴さんに。
僕は。
驚いた、ああ驚いたよ、と笑ってみせるつもりだったのに
気付けば視界は滲んで、緩んだ涙腺を手袋で隠して、涙が落ちないように必死に堪えながら、皆に優しく肩を叩かれて、震えた声で「格好付かないなあ」と返すのが精一杯だった。
僕はずっと、最古参の厨番長として、みんなを支えてきたつもりだった。
けれど、本当はこんなにも、仲間に支えられていたんだと。
主だけじゃない。こんなにも良い仲間に恵まれて
本当に果報者の燭台切光忠だったんだと
改めて実感するばかりだった。
あの日、縁の大河の中から
彼女の祈りに応えて本当に良かった
僕の中には、お世辞にも幸福とは言えないような、既に滅びた古い本丸の無惨な地獄が焼き付いていて
人の子の祈りに再び応えることが恐ろしいとすら思うほどだったけど
今なら胸を張って言える
どんな凄惨な炎の向こうにだって
僕らを言祝いでくれる大事な誰かが見つかるから、と。
《第二幕:大和守安定のなりたいもの》
それは、ある晩、光忠が、戸締まりを確認してぐるりと回った最後だった。
ランタンを掲げた暗がりの先に、小さく蹲った人影を見つけたのは。
「大和守くん?」
安定は、鍵の掛かったBARの扉の前で、顔を両膝に埋めたまま座り込んでいた。
心配して隣にすぐしゃがみ込んだ燭台切に、安定は顔を見られたくないのか首を横に振るばかりだった。
光忠は静かに双眸を細めて、ぱちん、とランタンの灯りを消した。
「明かり切らしちゃったや。困ったなあ、僕は夜目が効かないから」
そうだ、大和守くん、少しだけ目を貸してくれないかなぁ
少し小腹が空いちゃってさ。火の元の確認が終わるまででいいから。ね?
ただただ優しすぎる光忠の声が薄闇の中へすっかり溶ける頃、安定はようよう、こくん、と頷いた。
からから、と引き戸を開けて、燭台切は暗がりのまま明かりを付けず、冷たく絞った手拭きだけを置いて奥へ引っ込んだ。
奥でカチカチカチ、とコンロの火を付けている音だけがする。
顔を拭いた安定が、赤い目元をすっかり冷やした頃になって、光忠はことさらゆっくりと戻ってきた。
「ごめん…」
蚊の鳴くような小さな声でしょぼくれた安定に、光忠はただ微笑んで「なんのこと?」と優しくとぼけるだけだった。
微笑んだ燭台切の手には、お椀が二つ。
自分の分と安定の分を、並べるとひとつ分席を空けて座って、本当に小さな明かりだけを付けて、静かに箸を進め始めた。
カウンター越しのいつもと違って
無理に向かい合って顔を覗き込んでくることなく、ただ黙って並んで食事する音だけが、静かなBARに降り積もっていく。
安定はようやく、のろのろと箸を持って、ひとくち、椀の中身を口にした。
その瞬間、安定は大きく目を見開いた。
こくん、と喉を潤した、沁み入るような懐かしい味に。
安定は驚いた顔を上げ、やっと燭台切と目を合わせた。
「……いつから?」
「きみがここに来てくれたらいいな、って思った時から」
舌でほどける優しい甘さ。
沁み入るような懐かしい味がする。
安定の遠い遠い故郷の味がする茶漬けを手に
燭台切はただ柔らかく微笑んだ。
大和守安定という刀は、木の国とも呼ばれる紀伊の国に端を発する刀匠達の流れを汲んでいる。
安定を打った刀工はそこから江戸に出て腕を磨き、安定を打ち、それが新撰組の沖田総司のもとへと至ったと言われている。
刀剣は皆、火の中から生まれる。
砂鉄より作られた玉鋼から、芯となる心鉄と刃となる皮鉄を取り出され、繰り返し打たれ、鍛えられ、やがて形を得る。そして水に焼き入れられて刃文を得る。
鉄の塊から『刀』というものが生まれる瞬間があるとしたら、それは出来を決定付ける焼き入れの瞬間だ。
熱した鉄に刃文の形に土を起き、郷の水で急激に冷却するその瞬間。刀の運命は決まる。
名刀でなければ、付喪神として人と長い時間を在ることはできないから。
そう、刀剣は、鉄と水によって成り、火床の中から生まれる。
だからだろうか。刀剣男士たちの中には不思議と、打たれた郷の水を『懐かしい』と感じる者がいる。
付喪神として目覚めるまでは、もちろん口にしたことなどないはずなのに。
それでも、不思議と、感じるのだ。
酒や、料理の形で。
郷の水を、懐かしいと。
「僕、紀伊国のことはあまり覚えてない、けど」
安定がかすかに声を震わせて、その優しい味を噛み締めた。
沖田総司の愛刀として在った安定は、江戸や京の方で多くの時間を過ごした。
安定を打った刀工は、数多くの『大和守安定』を打ったが、その内の多くは江戸にて打たれている。
だが、遠征の中で江戸に出ても、その水を懐かしいと感じることはなかった。
なのに、今、こうして
どうしようもなく感じている。
懐かしい、と望郷の念を。
「僕らの主は旅行が好きでさ」
燭台切はまるで夜に溶かすように、ことさらゆったりとした口調で、柔らかく語った。
「僕らに出会う前から、いろんなところを旅するのが好きだったみたい。旅先で出会う行きずりのいろんな人と、彼女、不思議とするりと仲良くなってお話しするんだよね」
誰かに寄り添うことが得意な主だ、目に浮かぶようだった。
「前に僕、話したことがあったね。できたら色んな刀を郷土料理でもてなしてみたいって、主と語らった日のことを」
「彼女ね、時間を見つけては、この国のいろんなところに行ったよ。時間の許す限りいろんなものを食べては近侍と分け合ったり、お土産に持ち帰ってきてくれたり。僕も何度も呼んでもらった。僕は本丸で、彼女は現世で。僕ら、普段在る場所は違うけど、彼女はずっと僕と同じ夢を追ってくれてる」
「きみを呼ぼうと決めてから、僕ら、すぐ顕現の準備をしたわけじゃなかったんだ。彼女は月に一度しか帰って来れないし、山積みの仕事も片付けなきゃいけなかったからね。だから、ふた月ぐらいあったかな。その間に、彼女、加州くんと現代の和歌山と三重を巡ったんだ」
「その時、暑い中でも食べやすくて美味しかったって、僕を呼んでくれて、椀を分け合ったのが、これ」
褐色の香りの良い茶の中に粥が浮かんでいる、素朴であっさりとした茶漬けだった。
「向こうの言葉では『おかいさん』って呼ぶらしいね。茶粥に甘いさつまいもを入れたのが彼女は好きだったみたい」
「まだ見ぬきみも、好きだったらいいなあって、笑ってたよ。きみは心から望まれてた」
じわ、と安定の目元が滲んで
ごし、と安定は手の甲で目を擦った。
「清光と僕、内番で組み合うと、鏡みたいなんだ」
安定はそう、白状するみたいにようやく、胸の内を零した。
「同じ沖田くんの刀だから、癖までそっくりで」
ひどく思い詰めた安定の横顔を見つめながら、光忠は無言でじっと耳を澄ませた。
「でも、今は違う。あいつは極めてて、僕はそうじゃない。あいつはこの本丸で最強の実力者で、僕は全然」
でも、焦ることないって思ってた。
あいつは初期刀で、僕は新参で。僕も僕なりに着実に強くなっていけばいいって。
あいつが来るまでは。
「あいつ?」
「山姥切国広」
安定の言葉に、燭台切が小さく目を見張ったのがわかった。
「僕より遅く顕現したのに、あいつ、もうあんなに強くなって」
優しい味の椀を掴んだまま、安定の手が震えた。
「みんなもうとっくに気付いてる。この本丸で清光に並ぶ打刀はあいつになるって…!」
僕、恥ずかしくて
鍛刀された時期の差に胡座をかいて、死に物狂いでやってこなかった
前線が遠い後方支援本丸だからって気を抜いてたんだ
僕、戦場の空気を吸わないと、どうしてもスイッチがうまく入らなくて
焦れば焦るほど上手くいかなくて
揺らいでばっかの自分がますます恥ずかしくて
彼女の目が真っ直ぐ見れないんだ
大事にしようとしてくれてるって分かってる。だから余計に、こんな弱い自分で主の前に立つのが恥ずかしくて
「僕、こんな気持ちじゃ、沖田くんに会えない…っ…」
こんなふうに逃げたままじゃ
極の旅を言い訳に目を背けて逃げ出してしまう
燭台切は、安定の吐露を
ただ、ただ。うん、うん、と優しく相槌を打って受け止めていたが
やがて、ぽつんと、こう口にした。
「怖いよね」と。
「僕ら、主人に合わせて磨り上げたら、もう元には戻れないもの」
怖いね
人はいつだっていつか僕らを置いてうんと遠くへ逝ってしまうのに
自分の刀身に消えない証を刻むのは
この本丸は、極めるまでの期間が異様に短い。
鍛刀が他に比べて極端に少ないこの本丸は、一振り極めるたびに新しい刀を呼び、極めた刀だけが現世で主を警護する体制を取っているからだ。
「旅立つ決意には、何よりも主と過ごす時間が必要なのに、この本丸でその日々を勝ち取るには旅に出なければいけないから」
だから、この本丸では、焦りが生まれる。
狼狽し、居ても立ってもいられないぐらいに。
胸がざわめき、不安で心を掻き立てられ
たとえ誰が責めなくても急き立てられる
追い立てられ、追い詰められてしまう
その焦燥感は、途方もなく強烈だ。
「違うんだ、違う。愛されてないって、疑ってるわけじゃないんだ、ほんとうだよ」
安定は、優しい愛の味を噛み締めながら
ぼろ、と涙を落とした。
甘く軽やかな茶漬けに、一雫、苦みが落ちて波紋を広げた。
「ただ、僕が、僕を疑うのをやめられない。きっと彼女に愛されるのに相応わしいのは僕じゃないって」
ぽた、ぽた、とカウンターに雫が落ちる。
安定は、悔しげに噛み締めた。
「そんなふうに言ったら、彼女が哀しむって分かってるから、だから、……だから…っ」
安定はしゃくりあげた。
刀工や産地の分からない無銘刀を、その姿形、刃文、茎の細部に至るまでじっくりと鑑定して見極め、折り紙と呼ばれる刀剣鑑定書に価値を書き残す。
これを『極め』と呼ぶ。
そう、刀剣男士の極の旅とは
強さを極める旅であるのと同時に
自分が誰の系譜を継ぎ、なんと名付けられた刀なのか。
どんな願いで付喪神として目覚め、何のために刀であり続けるのか、そのまばゆい物語を。
もう一度探して、見つける旅だ。
そして極の字には『約束』の意味がある。
極の旅と帰還とは、自分が何者であるか見つめ、主人と再び約束をすること。
自分の茎に、消えない朱漆で自ら刻む
己が誰なのか
己が誰の物なのか
そうして、主人に合わせて丈を詰めるように
主に最も相応わしい姿で帰ってくる。
極の旅とは、見極め、朱漆を刻み、磨り上げる旅だ。
主のための刀になって帰って来る旅。
故に、極めてしまえば逃げられない
たった一人、主のための刀になってしまったら
もう二度と、誰かと誰かの間を転々と流れるだけの揺籠のようなひとときには
流れゆく泡沫の刻には、帰れないから
あまり眠れていなかったのか、最終的に泣き疲れて、寝酒代わりのわずか一杯で潰れてしまった安定に。
燭台切はカウンターに突っ伏したままの安定の背中を優しくさすって
扉の向こうにじっと佇む気配へと振り返った。
「寝ちゃったね」
「……」
からから、と静かに引き戸を開けて、暗いままのBARに入って来た加州清光が、すっかり潰れてしまった安定の腕を黙って肩に回した。
「さんきゅ、燭台切」
「うんん、僕は何も」
柔らかに微笑む光忠に、清光は片眉を下げて苦笑した。
この本丸では、誰もが燭台切に足を向けて眠れないから。清光自身もこんなふうに何度も潰れては世話になっている。
やはりどうしても、安定と自分は鏡みたいだ。
「心配かい」
「大丈夫」
そっと労わるように清光に問いかけた燭台切に、加州は首を左右に振った。
「俺に主がいたように、安定にも主と仲間がいるから」
他に客のいないBARの薄闇に、加州の揺るがぬ声がしんしんと溶ける。
「こいつの強さなら俺がいちばん知ってる」
潰れた安定をおぶって。
加州は迷いなくそう答えた。
「今はただ信じて待つだけだ。こいつが自分の答えを見つけるのを」
前の主人が忘れられなくて
主人が最優先じゃない刀?
もちろんいいと思うけど、なんで?
え、だって、心があるって
好きなものも、なりたいものも
みんなそれぞれ違うってことでしょう?
それって、とっても当たり前で
素敵なことだよ
「薬研の補佐? 僕が?」
指名された安定は、目を丸くした。
珍しいことに、なんとこの本丸では識別救急システムが採用されている。
手入れ部屋の隣、医務室に刀剣男士が常駐し、主不在の中でも滞りなく手伝い札の使用と治癒が行えるよう支援する輪番体制があるのだ。
その頂点に置かれているのが、医務室預かりの薬研藤四郎。そして次に番長補佐の歌仙兼定。
彼らが手伝いながら、多くの刀が交代でトリアージを担当する。それが、主不在のこの本丸に敷かれた体制だった。
歌仙は頷いて微笑み、こう言い添えた。
「一応僕が補佐役という体にはなっているけどね。厨も含めて、僕が任された仕事はまだまだあるから。いずれ適任が見つかれば任せようと思っていたんだ。交代で手伝ってくれたらとても助かるよ」
やんわりと目を細め、歌仙はゆったりとした調子で、ことさら穏やかに続けた。
「引き受けてくれないかい? なに、今までとそう大きく変わりはないよ。新人が来たらやり方を丁寧に教えて、現場が混乱してたら引き戻せばいい」
安定はこれまでも、新しい刀がやって来ると、この本丸ならではのやり方を、丁寧によく教えていた。
主不在のこの本丸には、確立されてきた独自のルールが色々ある。それに混乱しないように、と心を砕き、自ら進んで面倒を見る安定の姿は、至る所で見かけた。
穏和な安定に声をかけられると、戸惑っている新人も心強いのだろう。教育番長の加州清光と共に、新刃がこの本丸に馴染むまで、誰に頼まれることもなくサポートしている。
そんな安定の柔らかな気性に、心を開いている新参刀は多くいる。
「一人一人に合わせて、焦らず優しく、根気強く丁寧に教える。現場で頭に血が昇ってる連中がいたら、肩を叩いて冷静に戻してやる。それだけさ。短気な僕よりきみの方が向いてる。仕事は丁寧、対処も的確。きみなら大丈夫さ」
「……そんなにベタ褒めされると断りづらいなあ」
安定は苦笑して、照れたように頬を掻いてはにかんだ。
「わかった。歌仙が他の仕事で忙しい時に手伝えばいい、ってことだよね?」
「ああ。よろしく頼むよ」
「良い刃選だな」
薬研がしみじみとそう言った。
「単に傷を治す場所じゃないからな、医務室ってのは。傷は、己の未熟さを、判断のミスを、仲間に与えた損害を、容赦無く白日の下に突き付ける」
「動揺、狼狽、焦燥、消沈、あるいは、自分への怒り。それを主人の目に入れない内に消しちまうってのは、想像よりずっと弊害がある」
「大和守、あいつは、仲間のそういう感情を、あまさずちゃんと拾い上げられるやつだ。良い眼を持ってる。まだ自覚はないんだろうが」
カリ、と書き終えた紙カルテを閉じると、薬研は顔を上げ、ふっと口角を上げてみせた。
「あんたのお眼鏡に適っただけある。これも、あんたの見立て通りかい、大将」
彼女はにこりと微笑みを絶やさぬまま。
◇ ◇ ◇
「ふざけるな!」
「ああん!?」
ガシャン、と医務室に置かれた花瓶が割れた。
山姥切国広の怒鳴り声に、近くで五虎退がびくっと体をこわばらせた。
この夜、厳しい戦場で被害は普段より大きかった。
だが、問題だったのは、負傷そのものではない。被害の内訳が、斬り込み隊長役だった和泉守兼定に偏りすぎていた点だった。
この時、部隊長は山姥切国広。陣形は統率を重視した方陣。
しかし、形成不利において撤退の判断を下したのは、和泉守の方が早かった。そのため、和泉守は隊長の指示を待たずに敵陣に突っ込み、いち早く退路を確保した。おかげで短刀達の損害は無いに等しい形となったが、和泉守にだけ負傷が集中したのである。
方陣の中心にいた和泉守が前に出たため、擬似的に陣形は魚鱗陣に移行。上昇した打撃で和泉守が退路を突破、統率はその代償となった。故に和泉守だけ被害が拡大したのだ。
「あの場面ではあれが最良だっただろうが!」
「ふざけるな、その結果がこれだ!」
判断の可否を争い、和泉守と山姥切であっという間に掴み合いの喧嘩になった。
その間で五虎退と前田と秋田がおろおろしている。
医務室に到着し、和泉守の負傷の大きさが明るみになるにつれ、隊長命令を待たずに突っ込んだ和泉守の決断と、護りの固い陣形を維持しながら被害を分散し退路確保を図るべきだったという山姥切の隊長としての意見が、真正面から対立したのだ。
形成不利の中、護りを捨てて単騎で素早い退路を確保した和泉守の判断は、結果として成功したが博打に近い。しかし、細い退路を完全に塞がれる前に打って出た判断は、負傷と引き換えに確実な帰還を確保したとも見れるだろう。
だが、本来それは隊長が下すべき判断だ。
部隊長はあくまで山姥切であり、短刀の割合が大きい今回、方陣を強いた山姥切の意図とは真っ向から反する。
国広は、護りを維持したまま、博打を打たず確実な退路確保を行うのが最善だったと判断している。
しかし、故に撤退が遅れ、退路を完全に塞がれるリスクが高かったのも事実だった。
どちらの意図も正しいと言えるし、どちらの意図も間違いだとも言えなくもない。
問題は、隊長の意図を正しく理解していたはずの和泉守が、指示を待たずに特攻する短気を起こした己の行動を、結果として成功したのだからいいだろうと居直った点にもある。
結果として被害は少なく済んだんだからいいじゃねえかと主張した和泉守に、隊長として和泉守の負傷をかなり重く見ていた山姥切国広は「ふざけるな!」と声を荒げたのだった。後は売り言葉に買い言葉だった。
刀剣男士自身に判断が委ねられている、というのは、刻一刻と変化する戦場において、それだけ大きな摩擦が発生することと同義だった。
指揮者たる審神者が居ない。その不在の穴は想像以上に大きい。
「ストップ、ストップ」
割って入った安定が、和泉守の肩を叩いた。
「ああ!?」
「反省会は後でみんなでやろうよ。ね」
ほら、と安定が指で指した足元には、二人に踏み潰されてしまった見舞いの花がある。
福島光忠が丹精込めて育てたものだ。主がいっとう愛する赤い薔薇だった。
「少なくとも、ここは軍議の場所じゃないよ。ちゃんと休んで、万全にしないと。次に活かすためにもさ」
ぐっ、と言葉に詰まった和泉守が、掴み上げていた山姥切の胸倉を離して突き飛ばした。国広は舌打ちした。
しかし次いで山姥切は、素早く屈んで、踏みつけられてしまった薔薇と破れてしまった花瓶の破片を、ばつが悪そうにかき集めた。
「……すまない、頭に血が昇っていた」
「悪りぃ」
おろおろするばかりだった短刀たちも、明らかにほっとした顔をした。
「さ、和泉守から順に手入れ部屋行こ。ほら、モタモタしない」
ばしっ、と安定が不意に兼定の背中を叩いた。
傷に響いた和泉守は「いってえ!」と文句を言ったが、「ほら、ちゃーんと痛いんじゃん」と安定はしたり顔で笑った。
大したことないと意地を張っていた和泉守も、心配から転じた怒りで傷への配慮が欠けていた山姥切も、同時にきまり悪そうな顔をした。
「すまない、感情的になりすぎた」
国広はそう、真っ先に率先して皆に頭を下げた。
「改めて振り返れば、加州に代わって第一部隊を必ず生還させなければ、と気負って慎重になり過ぎていたかもしれない。その時差で和泉守が前へ出過ぎたなら、責任の一端は俺にもある。第一、あいつがああいう場面で痺れを切らして前に出過ぎることぐらい、考えれば分かったことだ。なら隊長の俺がすべきは、あいつが暴発する前に決断してさっさとあいつの補助に回るか、最初からあいつを中心に置かずに下がらせておくことだった。それを、場所を弁えずにぶつけたのは、俺の身勝手だった。五虎退たちにも悪いことをした」
「あー、あー、まあ、確かによ、隊長命令ガン無視しといてあの態度は無かったな。わりぃ。反省してる。つーか、いくら形成不利ったって、山姥切のやつに合図の一つも出す余裕ぐらいはあったわな。それを怠っておいて居直ったんじゃ、山姥切がキレんのも当然か。あいつが第一部隊任されて気負ってんの分かってて、加州ん時と同じつもりで勝手したわけだしな。まあ、ちーっとかっこ悪りぃわな。仲間を頼んのと甘えんのはちげーよな」
どちらも、根はまっすぐで良い刀だ。
少し頭を冷やせば、冷静に現状から問題点を洗って自ら開示してみせ、進んで仲間に頭を下げてみせた。
間にいた五虎退や前田や秋田はいずれも、至って穏和で責任感の強い刀たちだ。自分たちを庇ってくれた頼もしい二振りが、幸いにして後に引きずらず和解してくれたと、当人たち以上に皆揃ってほっとした表情を見せた。
それを見て取った山姥切も和泉守も、大事な仲間に余計な気を揉ませてしまった事実に、決まり悪そうに苦笑していた。
審神者不在の本丸。最終判断が分散しやすい特殊な体制。第一部隊をずっと率いてきた頼もしい初期刀が、あえて一歩引いて次世代に前線を譲り始めてまだ日が浅い。
だからこそ、より一層、固い結束でやっていかなければ立ち行かない。最前線から遠いこの要人警護本丸で、主不在で強くなれなければ、大事な主人は護れないのだ。
要人警護の原則に真っ向から反し、ただの一振りたりと使い捨てず折らないと心を決めた、危うく脆い主人を。
この本丸では、誰もがたった一振りで護り切らなければならないのだから。
「和泉守くんも山姥切くんも、頑固だけど、根は素直だからね」
「そうだね、僕だと頭ごなしに叱り飛ばして、かえってへそを曲げさせてしまったかもしれない」
照明を優しく落とされたBARにて。旬の果物をふんだんに使った、季節の移り変わりを鮮やかに感じるカクテルでもてなした燭台切に、歌仙は穏やかにそう相槌を打った。
「歯がゆいと、つい余計な口を挟みたくなってしまってね。きみや大和守のように、待ちの姿勢が取れる者の方が、やはりああいう役目は向いてる」
「薬研くんはなんて?」
「きみの予想通り、といったところだよ。さすがだね」
「そっか、やっぱり」
以前から前兆を感じていた『予感』が当たったことに、光忠はゆっくりと深く納得すると、柔らかく頷いて微笑んだ。
「あとは、大和守くん次第、だね」
「ああ、こればかりは見守るだけだね」
周りを丁寧によく見ている者ほど、自分の心を省みることを後回しにしがちだ。そんなところまで優しい主人に似なくてもいいだろうにと、苦笑するに留める。
後は安定自身が、自分で気付けるか次第だった。
心がある、ということ。
それはすなわち、願いがあるということだ。
自分で気付いているにしろ、気付いていないにしろ、必ず
願いは、望みは、渇望はある。
「なあ、燭台切。僕はね、こういう時、思うよ。僕らはとても、とても良い主人を持った」
「うん、わかる、わかるよ、歌仙くん」
光忠は、まるで泣き出しそうなほどに、幸せに溺れた目でくしゃりと相貌を崩した。
「僕に、迷わずBARをくれた彼女だ」
本来、どこまで行っても、自分たち刀の本質は人斬り包丁。
そんな僕らが、血と戦い以外を望む欺瞞に。
なんの疑問も挟まず、ただ花のような笑顔で両手を差し出してくれる彼女だから
きっと、彼も。
枕元の灯りをつけたまま、寝落ちした安定に代わって、ぱちん、と読書灯を清光は消した。
すやすやと眠る安定の頬の下には、広げたままの分厚い本がある。歌仙に代わって医務室を手伝う機会が増えたからと、薬研に頼んで借りてきたらしい。医学書だ。
本来、頭を使うのはそこまで得意じゃない癖に。
「がんばってんじゃん」
清光は、借り物の貴重な本に涎が付かないように慎重に引き抜いて、代わりに片付けてやりながら、そう小声で激励してやった。
安定はむにゃむにゃと寝言を言っていた。どことなく幸せそうだ。
「…………」
清光は、複雑そうに片眉を落として、苦く笑った。
この本丸で。
自分は初期刀として、愛してくれた彼女を絶対に護り抜く最強の打刀として、仲間を率いながら戦い抜くと心に誓った。
誰よりも愛してくれた彼女のために。主が大切にする仲間のために。
誰も欠けずに未来へ。無謀な主の望みを叶えるため、どんな困難な道も戦い抜くとそう決めた。
想像しなかったと言えば嘘になる。
戦場で刃を振るうその背中に、自分に誰よりも近いこいつが、片時も離れず共にいてくれたら、と。
沖田くんと駆け抜けたあの頃のように。
けれど、本丸にこいつがやってきたあの日から
本当は予感があった。
ここに降り立った安定が
清光とは、別の未来を無意識に探していたことに。
どうしたって、自分たちは、鏡みたいだ。
だから、安定自身より先に分かってしまう。
いつだって俺より先に安定が気付くのと同じように。
安定が主を遠くから見つめる、その熱視線の中に
ずっと存在していた渇望。無意識の期待。
安定が、あの顔をする時は。
ふっと片眉を落として、清光はほろ苦く笑いながら、未練を振り払うように、首を左右に振った。
迷いを断つように、ぱちんと橙の豆電球も消した。
安定は、強い刀になりたいんじゃない。
沖田くんになりたいのだ。
そう、憧れの沖田くんのような
強く、強く、そして、何より優しい人に。
刀はどこまで行っても人斬り包丁
主人に代わって斬り、殺す。その本質に迷わず身を任せていれば、何も考えずに済んで楽だろう。
だが、自分たちには心がある。
人の子が寄せた想いが形作った、思い通りにならない心が。
その衝動が渇望する。時に理性を裏切って。
戦うこと以外がしてみたかったと渇望した燭台切のように。
戦うより薔薇に触れる方が好きな己を後ろめたく思っていた福島のように。
強さより戦場での医術を極める方向に尽力する薬研のように。
その中でも、安定の渇望は
実のところ、刀剣男士としては、一際、かなり異端だ。
人がどう足掻いても刀になれないように
刀もどう足掻いても人には成れない。
人の似姿をとってはいても、この身は血肉ではなく、人を効率よく斬るための玉鋼でできている。
けれども、安定はなりたいのだ。
よりによって、新撰組一番隊隊長、歴史に最たる剣豪とも言われる、剣閣集団最強の象徴とも言える沖田総司の
戦いや強さの側面ではなく
優しさという側面に。
刀剣男士としての血と本質から、あまりにかけ離れすぎたその願い
異質で、歪な、三百年以上続く、──執着。
「そっか、だから安定は、優しくて強いんだね」
彼女は、素敵なものを見つけたように破顔して
いとも容易く笑って受け入れてみせた。
「だって『誰とも違う』は、『誰にもできないことができる才能』ってことだもんね」
「…………うん、うん」
清光は、どこか泣きそうにくしゃりと笑い返して、心から、心から噛み締めた。
この人が自分のあるじで、本当によかったと。
「あいつの優しいは、強いんだ。本当に、本当に、強いんだよ、あるじ…」
「もーいーかい? まぁーだだよ」
可愛らしい歌声が廊下に響く。
ぺたぺた、とたとた、愛らしい足音が、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、蝶のように泳ぐ。
「もーいーかい? もーいーよ」
ぱっと柱の影から覗き込むように、彼女が嬉しげに声を上げた。
「みーっけた、安定っ!」
にぱっ!と花のように笑った彼女に
晴れやかな陽射しの下、堀川と一緒にシーツの海を青空へ干していた安定は、洗濯籠を抱えたままきょとんと振り返った。
「僕?」
「うん!」
彼女は、後ろ手に抱えたバスケットを抱え直して、夏の向日葵みたいに鮮やかに笑った。
「やーすさだっ、ピクニック行こ!」
大丈夫ですよ、洗濯の残りは、僕がやっておきますから。
いってらっしゃい、と笑って見送った堀川国広にぶんぶんと手を振って、彼女は大きなバスケットを大事に抱えたまま、安定と初夏の陽射しを歩いた。
「あのね、あのね」
まるで幼い子どものような無邪気な様子。
平坦とは言えないデコボコした道を、足元に充分に注意を払わずにふらふら歩く。
楽しげに笑いながら、蝶みたいにあっちへふらふら、こっちにふらふら、足元がおぼつかない。
安定は転びそうで心配になって裾を引いたり、最終的に大きなバスケットを引き取ったり、幼子にするみたいに手を引いたりしたが、天衣無縫な彼女は嬉しそうにするばかりだ。
やがて気付いた。
驚くぐらい、安定のことしか見ていないのだ。
辿り着いたのは、裏庭の奥の一本桜の下。
主人の霊力で黄金に咲き誇る桜は、季節外れに満開だった。
黄金の桜の根本にすとん腰を掛けた主人は、慣れた様子で右手のひらを樹の幹に付いた。
たちまち鮮やかな金色の霊力があふれだし、桜に吸われていく。
「みんなに出会うまで知らなかったんだ。自分にこんな力があるなんて」
まるで、降り注ぐ、銀杏の嵐のようだった。
おぼれるような桜の芳香が舞い散り、黄金に光り輝いたまま青空へと舞い上がる。
真昼の空に、眩しいほどの金色が溶けていった。
「自分のことでも、知らないことっていっぱいあるね。みんなが教えてくれるまで知らなかったよ。わたしってどんな形をしてるのか」
空を見上げていた彼女は、振り返って微笑んだ。
「今はね、少しだけ分かった気がする。みんなが教えてくれたから」
「安定はどう?」
「え…?」
「わかるようになった? 自分のカタチ」
まるで、謎かけのような主人の問いかけに。
安定は、しばし黙り込んだ後、ゆっくりと首を横に振った。
「うんん、わからない。ずっと探してる気がする。この本丸に降り立った日から、ずっと」
隣にすとんと座り込んだ安定が、同じように木の根本に腰掛けて、こう尋ねた。
「だから教えて欲しいんだ。……ねえ、主。きみの目に、僕は、どんなカタチをしてる?」
安定の瞳の中に、じわりと熱が滲む。期待、という熱が。
この人なら、自分の知らない答えを見せてくれるかもしれない、という渇望が。
「わたしの目に、安定は──……」
安定の問いかけに。黄金の花弁舞い散る中、主人は笑みを深めた。
「他の誰とも違う、そんな。とてもしなやかで、軽やかで、」
「なによりも、優しいカタチをしているよ」
ザァァァ、黄金の風が舞い上がった。
ここまで来れば、ただの思い付きで安定を誘った訳でないのは明らかだった。
安定は、主人の言葉を受け止める覚悟を静かに固めて、こう尋ねた。
「……主、大事な話が、あるんだよね?」
「うん」
主は、安定が問うのを待っていたみたいに、柔らかに微笑んだ。
「ね、安定。歌仙が引き受けてくれたの、どんな役目か、知ってる?」
「歌仙?」
歌仙兼定。古参に次ぐ中堅として鍛刀。
与えられたこの本丸独自の役職は。
「────番長補佐。厨を中心に、垣根なく番長たちを良く補佐し、支えて欲しいって、言われた、って……」
折に触れて歌仙が誇らしく語る、それ。
なぞるようにそう口にしながら、安定は徐々に、予感に大きく目を見開いた。
「……もしかして」
「うん」
彼女は笑みを深めた。
「安定。番長補佐を引き受けてくれないかな。歌仙と同じで少し違う、安定だけの番長補佐を。安定がいいんだ」
安定に迷わず差し出されたのは。
医務室の補佐を期待した
もう一人の番長補佐の肩書きだった。
「医務室を…?」
「うん。一緒に、薬研を支えて欲しいんだ」
思いもよらないことに、安定は大きく目を見開いて固まった。
他に極めた刀がいくらでもいる中で
まさか自分に声が掛かるなんて。
「僕でいいの? だって……」
「だって?」
「僕、まだ初だよ。他に信頼できる極めた刀がたくさんいるのに」
「? それって、安定を選ばない理由になる?」
「え」
「え、だって、極めてないってことは」
掠れ声で、あぜんと安定は口にした。
「あなただけの刀になる覚悟が、あなたを何より優先する覚悟が、どうしても付かないってことなのに」
「? それって、何か問題なの?」
「え」
「大事なみんなを大事にしてくれるのに」
何よりそれが重要なのにと、本当に不思議そうに彼女は首を傾げた。
「安定が最初に教えてくれたんだよ。安定は、扱いにくいけど良い刀だ、って」
「安定をね、どう振るうのがいちばん素敵か、ずーっと考えてた。けど、なかなか答えが見つからなくて。だからね、これが安定の言ってた、扱いにくいけど良い刀ってことなんだろうなって」
「たくさんたくさん考えて、いっぱいいっぱい考えて、こうしようって決めたの」
「これがきっと、とびきり素敵な、安定の振るい方だって」
「そう思ったから。自信あるよ」
こてん、と彼女は不意に首を傾げた。
「いや、かな?」
「嫌なわけないよっ!」
安定は迷わず首を横に振った。
これほど名誉なことはない。
主人から与えられる自分だけの肩書き。名刀の代名詞とも言えるそれが、刀剣男士にとってどれだけの誉れか。
「安定、歌仙や薬研のこと、ずっと手伝ってくれてるよね。資料室の本もたくさん読んでる」
「誰かに頼まれたわけでも、お願いされたわけでもない。安定がしたいと思って、してくれたこと」
「安定がまるで、息をするみたいにしてる全部が、優しい安定の才能だと思った。それが、安定を選んだ理由だよ」
ああ、見ててくれたんだ、と安定は思った。
安定の方はずっと、己を不甲斐なく恥じる思いから、主人を直視することを避けていたのに。
彼女はびっくりするぐらい自分を見ていたのだと、見つめてくれていたのだと、安定はようやく気付いた。
主人は、安定を練度で見ていなかった。
純粋すぎるほどに見つめて、その適性だけを測っていた。
極の旅の有無すら評価の埒外だと話す。
そんな危うくて、純粋すぎる期待をくれる彼女
ずっと期待してくれていたんだ。
顕現の桜にも負けないほど、輝く花びらが舞い散る。
安定は思い出した。
この本丸に降り立った日の直感を。
『この主なら安定自身も知らない安定の振るい方を見つけてくれるかもしれない』と
そう期待して、この場所に根を下ろすことを選んだ、あの日の決意を。
「僕、沖田くんみたいに、また大事な人を病で喪うのが嫌で、どうしても嫌で、少しでも何かしたくて、じっとしてられなくて」
あの日の直感が真実だったことに気付き、電撃に打たれたみたいに安定は打ち震えた。
「だけど、僕は刀だから。結局どっちか斬り捨てることでしか何も護れないって心のどこかで思ってた」
「でも、きみがくれたこの役目の中でなら──沖田くんを病で失ったから、もっと誰かを助けられる、そんな……沖田くんが生きた証を、僕らに残してくれた何かを、僕なりに未来に広げていけるかもしれない」
「僕、やるよ。やらせてほしい」
安定は彼女の柔らかい手のひらを握って、何度も何度も頷いた。
「いっぱい練習する。これまで以上に。あなたの期待に応えてみせる」
安定の決意に、彼女は嬉しそうに「ありがとう」と微笑んだ。
「……ねえ、主。ひとつだけ聞いていい? どうしても聞きたいんだ」
「うん、なんでも聞いて」
「主はどうして、医者でいられるの。そんなに強く優しくいられるの? 難しいってわかってて、自分から困難な道へ行くのはどうして? 手を伸ばしたって助けきれないかもしれないのに」
それは、安定にとって、積年の疑問だった。
きっと本当は、彼女ではなく沖田くんに聞きたかった言の葉だった。誰かを助けるために血を浴びに行く、その強さと優しさは、どこから来るのだろう、と。
「うーん、かみさまが守ってくれているから、かなあ」
彼女は空を見上げた。まるで、空の彼方の誰かの声に耳を澄ますみたいに。
「助けた人もたくさんいるけど、助けられなかった人だっている。けど」
彼女はそっと振り返った。
静かな湖畔のように凪いだ、穏やかな眼と微笑みだった。
「助けようとするから血を浴びるんだ。助けようとしないで安全なところにいれば、誰を殺してしまうこともないんだよ。医者も、刀も」
「それって、刀剣男士とおんなじだって、わたしは思うんだ」
だから、わたしは戦うよ。
誰も助けられない安全なところにいるより、血を浴びながらみんなと一緒に戦いたい。その力が、わたしにはあるんだから。
大丈夫。わたしには、みんながいるから。
安定にはわたしが、みんながいるから。
きっと大丈夫。
「ね、安定。それ開けてみて」
「え?」
「開けてみて。安定のこれからに、必要なものが、きっと入っているよ」
安定は、自分が主人に代わって抱えたままだった、バスケットボックスを、戸惑いながら開いてみた。
ぱかっと開いた、お弁当。
安定は、大きく目を見開いた。
「……僕の好物ばっかだ」
丁寧に詰められた、細やかで地味な色合いの、けれども、とびきり時間を掛けて作られた、端までみっちり詰まった弁当箱。
すぐに分かった。
これは、応援だ。安定への。
仲間から、歌仙から。
ひとくち、口にすれば、じわりと目元が滲んだ。
優しくて力強い味がした。
ぐしゅ、と目元を拭って、安定は素早く立ち上がった。
「いってくる!」
どたた、と転げるように安定は走り出した。
何もかも分かっているみたいな笑顔で「どこに?」と聞いた主へ、肩越しに振り返ってこう声を上げる。
「歌仙のところへ!」
伝えよう。今すぐ。
歌仙と同じ場所に立つために
きみのエールを力に精一杯走るから、と。
安定が残したバスケットを抱えて
一人、桜の下に残った彼女は
黄金の桜のたもとで、輝く青空を見上げながら、こう声を上げた。
「もーいーかい? まーだだよ」
一人花見に響く童歌。
「もーいーかい? もーいいよ」
桜を見上げた彼女が、無邪気な声に確信を乗せて、虚空へ向かってこう声を上げた。
「かしゅー、みーつけたっ!」
しばしの沈黙の後、黄金の桜の枝ががさりと揺れた。
ぽりぽり、と頬を掻きながら、ゆっくり清光は身を潜めていた枝から降りてきた。
「あー、もしかして俺、隠れるの下手?」
「んーん、ほんとはね、どこか全然わかんなかったよ? あは!」
悪戯が成功した子供みたいに、彼女は楽しげに両手を叩いた。
「でもね、きっと居ると思ったの」
にぱっと彼女は無邪気に笑った。
「わかるよ。わたしはかしゅーが大好きで、かしゅーは安定が大好きだからね!」
「あ〜〜〜っ、もう、完敗! 勘弁して」
この上ないド直球で図星を突かれ、真っ赤な顔を片手で覆った清光は、顔の火照りを冷ますようにパタパタと片手で風を送っていた。
こういう主なのだ。あまりにも面映い言葉をなんの衒いもなく直球でぶつけてくる。少しでいいからオブラートに包んで手加減して欲しい。嫌ではない、照れくさすぎるからだ。
「どう? かしゅー」
「うん、多分もう、あいつは大丈夫」
「なら、安心だね。安定のことなら、かしゅーがいちばん知ってるもん」
確信めいたそれを聞いて、清光はふっと影のある笑みを浮かべた。
どこか哀愁を漂わせて丘の先を見る清光に、彼女は「かしゅー?」とそっと裾を引いた。
清光は眉を落として苦笑して「いや」と首を横に振って、安定の代わりに彼女と並んでお弁当の中身を食べ始めた。
「少し寂しい、かな」
安定の好物は、清光の好物でもある。
その優しい味に背中を押されるように、清光はぽつん、とこうこぼした。
「安定はこれから、きっと俺とは違う道を行くから」
「後悔なんてしてないぜ。でも、少し、少しだけ、さ。俺が走る最前線の、その背中にあいつはもう立たないだろうから、そう思ったら」
「少し、背中がスースーする。それだけ」
地面に這い出した立派な樹の根に並んで座ったまま、清光が頭をことんと主人に預けた。
彼女は愛おしそうに、細い指先で清光の髪をすいて、その頭を抱きしめた。清光は甘えるように、その旋毛をくりくりと彼女に押し付ける。
「ふふ、かしゅーにも分からないことがあるんだね」
「え?」
よくわからないまま、清光は顔を上げ、彼女を見上げた。
うんと遠くが見えてるような
たとえば、そう
彼女の大事な古刀を。────鶴丸国永を、どこか思わせるような金の眼で
清光の憂いを、彼女が優しく笑った。
「安定がかしゅーを独りにするはずないのに」
【安定からの問いと、主の回答】
どうしても捨てられない
どうしても忘れられないことを
忘れるには、どうしたらいいか…?
それが、安定の悩みごと?
うん、うん、そっかあ。
うーん、あのね、聞いてもいーい?
忘れられないそれは
安定にとって、とても辛いこと?
心の底から忘れたいこと?
そっか、違うんだ。
本当は忘れたくない、捨てたくないことを
目の前の何かのために捨てなきゃいけないって
安定は悩んでるんだね
そっかあ
じゃあ、あくまで、わたしが思う『忘れる』の話だけど……それでもいい?
悩みのヒントに、なればいいんだけど。
あのね
忘れるって、捨てる、とはちょっと違うんじゃないかな
思い出す、がセットじゃないと、忘れるって言わないの
胸の小箱に大事にしまって
今集中したい他のことに全力を注いで
静かな時に、ふと小箱を開けて、思い出す
それが『忘れる』ってことじゃないかなあ
だから、捨てたくないことを捨てなくてもいい
捨てないまま、忘れてもいいんじゃないかなあ
どうしても捨てられない大事なことを
忘れるって、方法はきっと二つある
ひとつは、心の小箱の周りに、別の大事なものをたくさんたくさんたくさん増やしていくこと。
たくさんある大事なぜんぶの中の一つにすること。
そうすると、大事さの大きさは決して変わらないけど
一度に考える心の面積の割合が小さくなるから
もう一つは、逆。
大事なそれで、心を埋め尽くしちゃうこと
息をするのに空気を意識しないように
意識しなくても側に当たり前にあることを、もっと当たり前にしてしまうこと。
大事なそれを空気にして、永遠に寄り添うこと
空気を吸いながらでも、両腕で誰かを抱きしめることはできるから
【安定の答え】
あなたは、忘れたくないことは忘れなくていいよって言ってくれた
でも、たくさん、たくさん考えて、わかったんだ。あなたは、自分がいちばんじゃなくても許してくれる人なんだって。
もしも誰かと一緒に二人、崖から落ちそうになって、片方しか助からない時
自分の大事な人が、自分じゃない方の人を助けても
それでも、許してくれる人なんだって、わかっちゃったんだ
そんなことあっちゃだめだ。
今までの僕なら
もし、もしもだよ
沖田くんとあなたが二人、崖から落ちそうになっていたら
片方しか助けられないって言われたら、どうしていいか分からなくて立ち尽くしてしまったかもしれない
だめなんだ。迷っちゃいけなかったんだ。
沖田くんとあなたの間で迷うってことは、過去の歴史とこれからの未来を天秤にかけることだ
僕は刀剣男士だから、絶対にやらなきゃいけないことがある
刀剣男士として立ちたいなら、迷わず沖田くんを見捨ててあなたを選ばなきゃいけなかった。それが歴史を、未来を守る覚悟ってことなんだ。
沖田くんに怒られたよ。僕をやらなきゃいけないことをやらない理由にするなって。
そうだった。僕は、刀剣男士として、これからのこの国の人のために力を尽くすって決めて、ここに立ってるんだ。
今から帰るよ、主。
僕は沖田くんになりたかった。憧れた沖田くんみたいな、強くて優しい人になりたくて、少しでも近付きたくて。沖田くんみたいに強くなれば分かる気がして、がむしゃらに刀を振るいながら、優しさの答えをずっと追い求めた。でも、どれだけ戦場を歩いても沖田くんの強さにも優しさにもたどり着くことはできなくて、どうすればいいかわからなくて。僕はずっと、戦場を彷徨う迷子だった。
その答えを探して戦場を彷徨い歩いたその先で、あなたに出会ったんだ。あなたがもう一度、沖田くんの死に向き合う勇気をくれた。
あのね、主。僕が知る沖田くんは、本当に本当に優しい人だったんだ。いつだって子供たちと笑顔でよく遊んであげて、人を悼むことを知っていて、自分が斬り殺した数え切れないほどの人の顔を生涯憶えておいて冥福を祈るような、剣を持つには繊細すぎる優しさを絶えず持っていたのに、それでも全霊で未来の人々のために剣を振るえる、びっくりするぐらい強くて優しい人だったんだ。
どんなに僕を振るって血を浴びても、それでも決して摩耗しない優しさと強さが、まぶしい人だったんだよ、主。
沖田くんに叱られて目が覚めたよ。
僕が沖田くんを大好きだったように、沖田くんも僕を大好きでいてくれた。病に伏せる彼の側に、素性を伏せてずっとついていた僕のことも、本当に大切にしてくれたんだ。僕の正体は知らないはずなのに、不思議だね。
それが沖田くんなんだ。僕を怒鳴って追い出したら、沖田くんは死の床に取り残されてしまうのにね。本気で叱ってくれたのが、僕を行くべき道へ送り出したのが、死の病に侵された彼がくれた最期の優しさだったんだ。
横で見てるだけじゃない。初めて、真正面からぶつけられた沖田くんの優しさは、痛いぐらいだった。
痛いぐらいに優しくて、強かった。強かったよ、沖田くん。
主、聞いて欲しい。
あなたは言ったね。誰も助けようとしなければ、血を浴びることはないんだって。医者も刀剣男士も。
そうだね。幕末のあの激動の時代、誰も助けようとしなかったら、きっと優しい沖田くんは、殺しと無縁で子供と遊びながら生きていられた。
でも、それは沖田くんじゃない。優しくて、優しくて、途方もなく強い沖田くんだから、血に塗れながら僕を手に取ってくれたんだ。
あなたの強さと優しさが、僕に沖田くんの優しさの意味をもう一度教えてくれた。ありがとう。
目の前の護らなきゃいけない誰かのために
どうすれば沖田くんを忘れられるのか、って、
ずいぶん長く悩んでいたけど、僕は、あなたの大和守安定は、あなたに教わったやり方を選ぶことにするよ。
あなたは教えてくれたね。『忘れる』って『思い出す』とセットだって。
なら、『思い出す』すら無くなるぐらい近しくなれば、忘れると同じだって。
どれだけ痛くても、沖田くんがぶつけてくれた優しさを、心鉄の全部に受け止めて
僕のぜんぶを、沖田くんがくれたぜんぶで満たすんだ。
そうして、僕の存在と、沖田くんのくれた優しさと強さが分かち難くなった時
沖田くんを、思い出すことすらなくなるぐらい
大事なそれを空気にして、永遠に寄り添う覚悟を決めたよ
息をするのに空気を意識しないように
空気を吸いながらでも、両腕で誰かを抱きしめることはできるって
教えてくれたあなたを、抱きしめて護るために
帰るよ。
待っていて。僕は。沖田くんに成りたかった大和守安定は。
沖田くんを忘れて、彼を永遠にして、あなただけの刀になる。
《今再び、焼き入れ》
鍛え、熱した鋼を
郷の水で急激に冷やしたその瞬間
鉄は、鈍から名刀となる。
「はあっ、はあっ……!」
清光は弾む息を必死で整えながら、己から流れる血で滑る刃を懸命に握り直した。
厳しい戦況で負傷者が出ている。
お守りはもう無い。あと一撃でも許せば仲間が折れる。
だめだ、早く手当てをしなければ間に合わない。
だが、本丸最強の自分が一瞬でも攻撃の手を緩めれば、たちまち負ける。
形成不利。
一騎打ちに賭ければひっくり返せるかもしれない。
だが、打って出た瞬間に、背に庇っている仲間が討たれる。
究極の二者択一の前に
雷が落ちた。
増援だ。
浅葱色の羽織りがはためいて
白さらしの鉢巻が風になびいた。
名乗りが上がった。
「医療部隊、副隊長、大和守安定! 到着しました!」
相棒の声は、戦場の喧騒の中でまぶしいほどに響き渡って
にっ、と
ビッと白い包帯を広げて
戦場の最中で、刃すら抜かずに立った。
「任せていいよね?」
背中合わせのその声に
びりびり痺れるほどの、高揚
振り返るまでもなかった。
清光は、ただ口角を上げた。
「当然!」
自分は前を。安定は後ろを。
共に並んだ、背中が合わさる。
一瞬で、世界が完成する。
安定は膝をつき、戦場軍医として包帯を広げる。
刀を握らないその手を、清光は全霊で守る。
遅れてやってきた、清光の『半分』に。
もう、何にも負ける気はしなかった。
《大和守安定のなりたいもの》
Side 博多藤四郎
「長谷部しゃん長谷部しゃん、聞いてほしかー。俺、短刀ばってん、魔法使いになったらしいとよ」
「……ああ、察するに、そのやたらファンシーな語録は主だな」
「さすが長谷部しゃん、話が早かね。燭台切しゃんのバーが完成したばい、主ばお礼言いにきたと。みっちゃんが嬉しそうに笑ってくれた、みっちゃんが嬉しそうに笑ってくれた、ってぴょこぴょこ跳ねてたとよ」
「主らしいな」
「で、ぴょこぴょこ跳ねながら『みっちゃんの夢が叶った、博多が使う小判は魔法みたいだ、魔法使いだ!』ってお褒めの言葉を賜ったばい」
「ああ、なるほどな。目に浮かぶ」
「短刀はどこまでいっても短刀。ばってん、商売ではそうでもなか。交換がうまくいけば、短刀は短刀では終わらん。俺は商売のそういうとこが好きと。ばってん、魔法使いになるとは思わんかったばい」
博多はどこか誇らしげに鼻の下を擦って笑った。
「小判を誰かの夢と交換できる。本当に魔法を使ったのは主ばい。俺ば手伝っただけ、ばってん、俺たち良い仕事したと」
「そうだな。良い仕事をした。そう思えるような、良き主に恵まれたな」
Side へし切長谷部
「みっちゃんの夢が叶った! みっちゃんの夢が叶ったんだよ!」
本当に嬉しそうに主は笑って、椅子に座ったまま待ちきれないみたいに跳ねた。
燭台切のバーを実現するにあたって、総務番長の長谷部が主にした役割は、政府の補助金制度の利用基準を満たすように細かな調整をする程度だったが、長谷部にとってはさして苦でもないその業務に、長谷部の主人は重ねて労いの言葉をくださった。
「ありがとう、長谷部。本当にありがとう」
「礼など不要です。これからも何でも申し付けください。貴女の主命を叶えることこそ、俺の本懐ですから」
「えへへ、頼りにしてるね。あのね、みっちゃんと私の望みを叶えてくれたこともだけど、もひとつお礼言いたかったんだ」
身近な存在の幸福を何より願う心優しい主だった。
自分の刀が語ったささやかな夢が叶った。ただそれだけを、こんなにも嬉しそうに笑う俺たちの主は、不意に長谷部の手を取って笑った。
「長谷部はいつでも、わたしが欲しいもの、わかっててくれるね。それが嬉しいの。ありがとう」
長谷部は、胸の内側にぶわりと吹き付ける桜が、外に溢れ出ぬように必死に堪える必要があった。
誠心誠意仕える主人の理解者が自分であると、それが嬉しいのだと。
そんなふうに掛け値なしに礼を言われて、喜ばないへし切長谷部がいるだろうか。
「……もったいないお言葉です。この先も必ずそうあり続けられるよう、精進いたします」
「うん、頼りにしてるね。信じてるよ」
忠義の対価など、最期の瞬間にお側に留め置いてくだされば、それだけで良い。
にも関わらず、この本丸では。報われる、と思うことがこんなにも多い。
俺たちが主人を護り抜く限り
主は最期の日まで、俺をお側に留め置いてくださるだろう。
俺を誰にも下げ渡したくないと、ああして泣いてくださった主なら。
俺は今度こそ、主人の最期の日に立ち会うことを許される。
だから俺の忠義は、とうに報われている。
にも関わらず、主は、こんなにも俺に応えようとしてくださるのだ。
主は、俺に信じるということの真価を教えてくださった。
信じるとは、願いが既に叶えられたと心から深く信じることだと。
俺が長らく持てないでいた、その強さを。疑心を斬り捨てる勇気を。
生まれてまだ数十年しか経たぬ主が絶えず持ち続けていた、その強さを。
俺は、心から敬愛する。
そして思う。この優しき主の望む未来を、斬り拓く刀で本当に良かったと。
嬉しそうにはしゃいでいた主は、ふとこちらを振り返ると、優しく目を細めて笑った。
「だいじょうぶ。長谷部が欲しいものも、ちゃんとわかってるよ。一緒に行こうね」
この方に仕えることができた俺は、こんなにも果報者なのだ。