@otohitoe_
(さむ…)
トイレの扉を閉めたクロウリーはそのささやかな風圧にすら身震いした。冬の一階はとにかく冷える。休日の朝ということもあり人の気配もまだ無く、しんと満ちる静けさがまた寒さを感じさせる。
冷たい階段を急ぎ足で上って部屋に入り、健やかな寝息を立てるアジラフェルを鑑賞する余裕もなくベッドに体を滑り込ませる。二つある枕とは違い毛布も掛け布団も一組しかないため、アジラフェルに触れてしまわないよう端だけに留まり、背中にほんのりと温かさを感じながら体を縮こまらせる。じきに体温は戻る。そうしたら全身で抱きついて暖を取ってやろうと目論むクロウリーの背に、ひた、と熱が触れた。アジラフェルの掌だった。
「トイレ…?」
「うん」
「起きる?」
「おれは二度寝したい」
「そうしよう…」
言いながら、アジラフェルはぴたりと背中にくっついてきた。
冷えた体に躊躇なく腕を回して腕を辿って掌を握り、足先まで擦り寄せて温めようとしているらしい。
「アジラフェル、いいよ」
「うん」
「放っといたらすぐあったかくなるから」
「うん」
返事はしても聞き入れる様子はまるで無く、すぐ目の前で重ねられた手がゆったりと揉み摩られ、厚みのある柔らかい掌からじわじわ体温が移って混ざってゆく。付き合っているとはいえひと回りも年下の学生にこんなふうに慈しまれると面映ゆい心持ちになる。
「アジラフェル」
「もうちょっとこっちに来れる?」
「……ん…」
首筋に触れる唇と鼻先の感触。クロウリーはアジラフェルの厚意を受け入れることにし、アジラフェルの体が遠退くのに合わせて後ろへずれる。並んだ枕の中心へ頭を移すと、すぐに両腕に抱きすくめられた。
アジラフェルの体温の中でなるべく小さく縮こまり、自分の体温が戻るのを待つ。腿の間で手を挟もうと膝を曲げると、まだ冷たい足先が絡め捕られた。
「足、氷みたいだ」
「いいって、おまえが冷えちまうぞ」
「すぐあったかくなるから…」
クロウリーの台詞をなぞりながら、アジラフェルの足の側面が爪先にぎゅっと押し当てられる。ずっと布団の中にいたからというのもあるかもしれないが、アジラフェルは足の先までぽかぽかだった。せっかくそんなに温もっているのに、クロウリーがどんどん体温を奪ってしまう。優しいばっかりに寒い思いをしてかわいそうに。
「ね…クロウリー。考えてたんだけど」
「うん」
「冬の間うちに来る?」
「…うん?」
「お風呂とか寒いから、暖かくなるまで…毎日じゃなくて…毎日でもいいけど…」
「………」
「あの空いてる部屋も自由に使っていいし…部屋には鍵ついてないけど、つけてもいいし…」
寝ぼけてるな、とクロウリーは察した。途中まではわからなくないが、部屋まで持ち出したらそりゃ同棲ってやつだ。それに暖かくなるまでって、その判断はおれがするのか?あと二か月もすれば春はくる。そのとき『今日から家に戻るから』とか言うのか?気まずくなったりしないか?というのは杞憂だろうが、それでまた次の冬が来る頃に『そろそろおまえのとこで過ごそうかな』なんて言うのか。アジラフェルの周りではよくある話なんだろうか。おれからすれば変わった話だ。
アジラフェルの家で寝泊まりするとして、その間の光熱費ってどうするつもりなんだ。こっちは社会人、そっちは学生、面倒になるなんて絶対に御免だ。大体おれはこの暮らしを二十年近く続けてるんだぞ。今年が特別冷えるというわけでもなし。
(……けど)
なんていうか結構、そそられる提案ではある。
「…そうしようかな」
「うん」
ちゅ、と頭の天辺でキスの音が微かに鳴った。
…まさかたったこれだけで、本当に決まったんだろうか。
「じゃあ、今日の夜からうちで過ごそう…駐車場も一台使えるし…鍵も今夜渡す…んん…どこに仕舞ってたっけ…たしかもう一本…」
すう…と息を吸ったかと思うと、そのままアジラフェルは再び眠りに入ってしまったらしい。規則的な呼吸音が後頭部のあたりから聞こえている。
寝ぼけていて言ったことで、起きたらアジラフェルは忘れているかもしれない。でも、思ってもいないことを言うやつだとも思っていない。
クロウリーはなんだか目が冴えてしまって、ただ静かに瞬きを繰り返した。
(…そんなもんか?)
まだ一年しか経ってない。クロウリーにとっては。アジラフェルにとってはもう一年も経った、という感じなんだろうか。
クロウリーの年齢で、或いはアジラフェルの年齢で、これが早いのか遅いのかわからない。何せ他人と一緒に暮らそうと思ったことなんてない。こっちに越してきてからは祖母とだって最初の数か月しか暮らさなかった。だから一時的にとはいえ、これが…九年ぶりくらい?
…アジラフェルの提案が本気だったとして、クロウリーが本当にそれを受けるとして、の話だ。
アジラフェルはまだ学生で、あと一年ほどはそれが続く。学生のうちは別れることはないだろうと思っているが、働き始めたらもっと視野も広がるし何かと考えることも増えるだろう。そういう心づもりでいるクロウリーからすれば心理的負担のリスクの高いことは本当なら避けたいところではある。
クロウリーに体温を分け与えてすっかりぬるくなったアジラフェルの足先。アジラフェルの家でなら、ちょっとトイレに行ったくらいでここまで冷えさせることもない。というのは、言い訳にしては弱すぎるか。
毎日ってわけにもいかないしそのつもりもない。これまで以上にお互いのバイトのシフトとか授業とかのスケジュールを把握しあったりするんだろうな。アジラフェルは必要以上に干渉してこないから、おれのほうは全然平気な気がする。そういえばアジラフェルはバイトも夏頃には辞めるって言ってた。家庭教師のバイト。医大生だから需要もあって時給も良いらしい。いや、今はそんなことどうだっていい。
とはいえ限られた時間帯だけでもお互いの生活を共有するということは、考えることも多いし何かと取り決めも必要だろう。
飯とかどうするんだろう。もしかして作ったり作られたりするんだろうか。まさかおれが飯作ってこいつの帰りを待つような健気なことをする日もあるんだろうか。考えられない。小っ恥ずかしすぎてできそうもない。
それも時間が経てば気にならなくなったりすんのかな。二年も三年もすれば…そこまで続いてるかわかんねえけど。ていうか、これまでだってアジラフェルの家で過ごすことなんて普通にあったし、別に特別な話でもないのか?アジラフェルだってなんか、けろっとしてたし。わかってないだけかも。さすがにそんなことはないか?
ちょっと待てよ。
もしかするとおれ、ほんの少し浮かれてるかもしれない。