@tirichann
「いいですけど」
苗字さんがそう言ったことで、場の空気が凍った。渦中にいる俺はもちろん無事ではない。どうしてこんな事態になったかというと、遡ること数分前だ。
俺が清掃業者として働いている会社で、飲み会をするらしかった。普段俺は参加していない。というか、誘われていない。行ったところでサイボーグ用の吸引式の食べ物を別で頼まなければいけないし、あちらも面倒なのだろう。会社の人間が俺達サイボーグを見下していることは知っている。俺も行きたいとは思わないし、いつも知らないふりをして帰宅していた。でも今回だけは、やけに機嫌がいい上司の提案でサイボーグも飲み会に参加することになった。
アルコールが入った人間というのは、どうしても無礼になる。その対象は同僚や上司にも及ぶのだろうが、普段から見下している俺のような存在も例外ではない。
「クレイマー、お前彼女いんの?」
俺が「いないです」と答えるより先に「いないだろ!」と誰かが言い、爆笑を生んだ。俺は適当に飲み物を飲んでその場をやり過ごす。早くこの時間が終わればいい。そんなことばかりを考えていた。
「彼女いないのも可哀想だから作ってみろよ、ほら苗字さんとかいいんじゃない」
酔った社員が挙げたのは、社内でも一際人気のある存在だった。会社のマドンナに俺がフラれるさまを肴にして酒を飲もうと思っているのだろう。俺だけが弄られるならいいが、面倒なことになってきた。そう思っていた時、酔った社員が大声を出す。
「苗字さん、クレイマーが付き合ってほしいだって!」
「おい、やめろよ」と誰かがおどけたように言う。俺は冷静に次の転職先を考えていた。サイボーグでも雇ってくれて、できるだけ金払いがいい所。現実逃避を始めた俺の頭に冒頭の声が響き、俺は固まる。どうやら俺の幻聴ではなかったようで、告白をした社員も顔をひきつらせていた。
「え? 苗字さん、クレイマーだよ?」
「はい」
苗字さんが何を考えているのかわからない。居ても立っても居られなくなった俺は、苗字さんの腕を掴んで店を抜けた。普通の男女なら冷やかされそうな場面だが、浮きまくっている俺とある意味浮いている苗字さんなのでみんな呆然とするばかりである。
「何考えてんですか」
俺は外に出て、路上で苗字さんと並んだ。本当は目の前から詰め寄りたいが、流石にそんなことをできる距離感ではない。
「俺のこと馬鹿にしてます? それとも、苗字さんもあの社員が嫌いで俺でスカっとしたかっただけですか」
苗字さんは唯一と言っていいくらいサイボーグにも平等に接してくれている相手だったのに、こんな言い方をしては嫌われてしまう。俺がこの職場を去る理由がまた一つ増えた。苗字さんは動じずに俺を見返す。
「別に、本当に付き合ってもいいからそう言っただけだよ」
この人はまだ、俺をからかっているのではないか。俺の猜疑心は抜けない。何しろ、散々不遇な目に遭ってきたのだ。
「嘘つかないでください。新手の嫌がらせですか」
「好意が嫌がらせなんて酷いなぁ。私はクレイマーくんのことが本当に本当に好き。付き合ってもいいと思ってる。女の子にここまで言わせたんだから付き合ってよね」
「は……」
苗字さんは嘘を言っているようではない。付き合うと言って後でこっぴどくフるならまだしも、俺に好きなどと言うメリットはないからだ。つまり苗字さんは、本当に俺のことが好きだ。
俺は今すぐ暴れ出したいような葛藤を抱えて後ろ髪を掻く。
「嘘だとは、もう思わないですけど。でも」
言いかけた俺を遮って、苗字さんは俺を店の中に押し込む。
「もう戻りづらい雰囲気だし、二人で飲み直さない? クレイマーくん、私の荷物とってきて。コートも忘れずにね」
戻りづらい雰囲気の自覚はあるのに俺には店内に行かせるのか。そう思う俺だったが、苗字さんには逆らえずに店内に入って荷物を回収した。それまで俺を馬鹿にしていた社員達が恐れるような目で俺を見ている。外には、俺を待っている苗字さんがいる。転職はやっぱり今度でいいかもしれない。