X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです
Xフォロワー限定公開・リスト限定公開の停止について

キリシタンすり抜け主と火車切〜信じる夜は闇照らす灯〜

全体公開 刀剣乱舞(キリシタン主シリーズ) 1 10 15301文字
2025-10-06 20:48:46

◼︎「火車切がなんだか元気が無い」から始まる物語。時系列は火車切と大倶利伽羅の事件(火車ゆらめく宵にて)https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25505801の後。
この後、箸の贈り物や、イースターや、夏祭りへと続いていく。
◼︎1〜4p信じる夜は闇照らす灯

◼︎5p 鶴丸国永side 北極星夜咄
鶴丸国永→初期刀加州清光
この本丸の鶴丸にとって初期刀はいっとうまばゆい一等星という話です

《火車切〜信じる夜は闇照らす灯〜》

「元気が無い? 火車切が?」

加州清光は、打ち明けられた内容に、ゆっくりと目を見張った。

暗めに照明を落とされたバーの中は、内緒話にはぴったりだった。
燭台切に出された度数の強いカクテルグラスに口をつけながら、清光は記憶を辿るように眉根を寄せた。

「確かに……最近たまに、ちょっと気もそぞろだな、って思う時はあったけど。気付かなかったな」

ほのかに柑橘香る洒落たカクテルの匂いが、静かな夜にしっとりと溶けている。

この本丸の新刃育成を一手に担っているのは、教育番長の加州清光。
少し前にやって来た新しい脇差、火車切も例外ではなく、清光のところでみっちりしごかれてから、光忠と太鼓鐘が見守る遠征部隊に先日から配属された。
こうして清光から光忠、太鼓鐘へとバトンパスされていった新刃は、やがてカンストし、極めてから鶴丸の手で現世へ送り出される。
この本丸は設立以降、長いことずっと、この体制だ。

火車切が仲間になってまもなく、良くない暗がりで足を踏み外した主の失踪と救出で大騒ぎだった。
あれ以来、火車切はその件を苦にしてか、稽古に熱心なのはいいが、少し肩に力が入りすぎていたように思う。

けれど、そういう固さは、遠征隊の連中と苦楽を共にする中で、自然とほどけていくのではないかと考え、見守っていたのだが。

心配げに眉根を落とした燭台切がそっと声を潜めた。

「影から力になってあげたいんだけど、糸口が掴めなくて」
「太鼓鐘はなんて?」

第二部隊の遠征隊長、太鼓鐘貞宗。
鶴丸と燭台切に次いで降り立った、この本丸最初の短刀だ。

指揮役の燭台切を司令塔に、実働部隊の彼が皆の面倒を良く見ながら、後方支援の現場指揮を取っている。何かあれば逐次報告が上がっているはずだ。

「うんん、他の子とトラブルがあった、ってことも無いみたいで……

いかにも真っ先にあり得そうな選択肢にバツがつく。
思い当たる節が無い清光は、自分好みに誂えられた酒に口を付けながらじっくり記憶をさらい、顎に手を当てて考え込んだ。
そんな加州に、光忠はそっと耳打ちした。

「実は、気付いたのは僕や貞ちゃんじゃなく、伽羅ちゃんなんだ」
「大倶利伽羅が?」
「うん、自分が口を出すべきことか判断しかねる、って」

物思いに沈んでいる姿をよく見かける、と。
そう大倶利伽羅から相談があったのは、伊達の共通エリアに光忠と二人きりの時だった。

「おい、光忠」
「うん?」
「少し良いか」

そう呼び止めた大倶利伽羅が、くいっと顎で向こう側を指した。あちらは火車切の部屋だ。火車切は大倶利伽羅の隣部屋を与えられている。
そこは離れの方の、伊達刀たちが集まっている区域だった。他の刀たちとの共通エリアとは少し離れた位置になる。

大倶利伽羅ほどでないにせよ、基本的に火車切は個人主義だった。
本丸の広い敷地の中、賑やかな人の集まりより、静かな場所を探しては、ふわふわの毛玉と穏やかに日向ぼっこをして過ごすことが多かった。

どうやら目も耳も良すぎるほどだという火車切は、人が多くて騒がしい場所はあまり得意ではないらしい。
その点、大倶利伽羅以外の派手好きな伊達刀たちは常に、三人寄ればかしましい、と言わんばかりの騒々しさだ。嫌がられているわけではないが、積極的に距離を詰めようとすると猫のようにするりと逃げられてしまう。伊達伝来の面々は皆、本当は大倶利伽羅の弟刀を構いたくて構いたくて仕方が無いのだが。

周囲から見れば、いつも通り人混みを避けて大人しくしているだけ、のようにも見えるだろう。
だが、大倶利伽羅が言うには、いつ頃からか瞳に覇気がなく、何やら思い悩んでいる様子だと。

熟考に熟考を重ねた上で、光忠にそれを伝えることを選んだ大倶利伽羅に。
光忠もまた、初めて火車切の思い悩む様子を知ったのだという。

「やっぱ良く見てんね」
「うん。伽羅ちゃんらしいよ」

わかった、俺の方でもよく見とく。
迷わずそう請け負った清光は、翌日、長谷部のところへ足を運んだ。
本人たちは遠征に出ている。この時期、新参刀はみんなそうだ。わずかな補給に本丸に寄る以外は四六時中、遠征を回すのに限界まで時間を使うことになる。
この本丸では戦場に出られる機会に限りがあるから、得られる資材以上に、遠征先で仲間と重ねる経験が重要だ。

「ああ、この辺りだな。任務効率が落ちてる」

淡々と告げた長谷部が、眉根をゆっくりと寄せ、藤紫の瞳に憂いを広げた。

長谷部がここ最近の任務記録を丁寧にさらい直すと、改めて言われなければわからないほどだが、ある時期からいささか調子が落ちている、という結論になったらしい。

長谷部が書類で指した時期。
火車切が遠征部隊に配属されて、少し経った頃からだった。

「ありがと、参考になった」
「また何かあれば言え。俺はこの手のことはどうにも不得手でな。後はお前たちに任せる」
「ん、任せて」

ぽん、と肩に手を置いて去った長谷部を見送りながら、加州はじっくり考え込んだ。
遠征先で何かあったなら、きっと太鼓鐘が気付く。それか、彼には言いにくい話か。

兄弟刀や伊達の面々を除けば、来たばかりの頃から新人教育を担当している自分が、いちばん近しい、と言えるだろう。

遠征組に入るまでは、特訓に次ぐ特訓で四六時中共にいた。なら、自分が話を聴いてやるのがたぶん一番だ。

遠征隊の帰還を知らせる鐘が鳴る。
わらわらと廊下にあふれ出す賑やかな足音。火車切を含む第二部隊の連中だった。
手に入れた資材を運んだら、隊長の太鼓鐘が素早く報告に出る。その間に隊員は、楽な格好に着替えたり、そのまま風呂に直行したり、はたまた遠征先では食べられない厨の凝った料理に舌鼓を打ったりと、思い思いに英気を養うのだ。
出迎えに出た清光は、柱に肩を預け、帰ってきた火車切に後ろから声をかけた。

「おかえり。遠征どうだった?」
……別に……いつも通り」
「そ」

パシ、と木刀を投げる。反射的に受け取った火車切が、こちらを見つめ返した。
加州はニッと不敵に笑いかけた。
「鈍ってないか見てあげる」

自分たちは刀の付喪神。
刃を交わせば、自然と伝わるものはある。


道場に響く、高らかな打撃音。
繰り返される打ち合いの中

感じる、既視感

……あ)

これって。

打ち筋に出る迷い。まるで、軸足が定まってないみたいな。
どうして良いか分からない、と途方に暮れるような。
惑いの一太刀が、そこにあった。

「はあっはあっ!」

汗ひとつ掻いていない清光と違い、火車切は汗だくだった。
一生懸命ではあるがまだ青い。強さの頂きへの長い長い道のりはまだまだこれからだ。

「ちょっときゅーけー」

ぽい、と投げた缶は、カフェオレ。
受け取った火車切は、こくん、と言葉少なに受け取って、甘い飲み物をちびちびと飲み出した。

「がんばってんじゃん」
「ん」
「きっとあるじも褒めてくれるよ」

それきり火車切は黙り込んだ。
清光はゆっくりと目を細めた。言葉少なではあるが、拙くとも丁寧に言葉を返す努力をするやつだ、と清光は火車切を捉えている。
ということは、たぶんアタリだ。

清光は並んで座ったまま、ゆっくりと隣を覗き込んだ。

……彼女の側にいたいけど、それに相応しい刀は自分じゃない?」
びくっ、と肩を跳ねさせた。
「って、そーいうふうに悩んだ時期、俺にもあったなあ、って、そう思って」

てきめん動揺した火車切は、どうやら図星だったらしく気まずそうに視線を逸らしながら「……その」と言い淀んだ。
急かさず辛抱強く待ってやれば、拙い言葉を懸命に掻き集めて、火車切はしょんぼりと肩を落とした。

「あのひとのこと」
「主?」
「最初は、なんだか話しやすくて、息がしやすい、って思ったんだ」

最初にあれって思ったのは、遠征隊に入って少ししてから。
みんな、思い思いに本丸でのことや、主の話をしてた。

そしたら、気付いたのだと。
みんなが話題に載せる主の面影が、自分の知っているものとなんだか違うことに。

「みんな言ってた。俺たちの主は、俺たちの話を聞くのが好きで、来歴を聞くのが好きで、交友関係を聞くのが好きで、俺たちがどう生きてきたのか聞きたがるって」
……聞かれるのは、嫌?」
「聞かれたくないことは、聞かれたことない」

というより、火車切の由来や歴史、個人的な部分にまったく話題が及んだことがないのだと。

そう口にした火車切はしおしおと小さくなった。

俺のせいで、危ない目に遭ったのに、全然怒らなくて、
それで、……それで……
もしかして、優しいんじゃなく、ただ関心が無いだけなんじゃないか、って
俺のこと、だから聞かないし、失態にも怒らないんじゃないか、って
……一度頭によぎったら、離れなくて。

都合が良すぎるんじゃないか、って思ったんだ

ぽつり、ぽつり、と
心の澱を吐き出していく火車切は
暗い顔で口にすればするほど、ぬかるみに足を取られて、自分から深みに嵌っていくみたいだった。

清光は、柘榴の双眸をゆっくりと細めた。

この本丸は、月の大半が審神者が不在だ。
自分の在り方を定めてくれる主人が側に居ない自分たちは、己で道を選んで、剣の振るい方を決めるよう自然と要求される。

でも、それはとても難しいことだ。自分たちのような、人に振るわれることを前提とした武器にとっては特にそう。
その心細さを。終わりの見えない崖を独りで登るような孤独な苦しみを。
清光は、決して笑えなかった。自分も通ってきた道だから。

……試してみたら?」

だから、清光はこう口にした。
火車切は、跳ねるみたいに顔を上げた。

火車切は息を呑んだまま、何も言わなかった。
揺れるその眼はひどく心細そうで、そこに清光は、極める前の自分を見た。

「たぶん、きっと。あるじは怒んないと思うよ」

清光は、その沈黙ごと受け止めるように、隣で大きく空を見上げた。

清光自身、惑った時に抱き留めてもらった経験があるから、迷わずそう言える。
自分たちの主はそういう人だと、新刃に清光は伝えてやりたかった。

「俺の時は受け止めてもらった。それは、初期刀の俺だけに与えられた優しさじゃないって、俺は思うよ」

俯いた火車切の震える手の中で、カフェオレの空き缶が、くしゃりと潰れた。
奇しくも、まもなく月に一度の主人の帰還の日だった。



宴の夜だった。
月に一度しか帰城できない主は、朝から本丸中を駆け回って書類仕事に報告に戦指揮と大忙しだったが、酒宴の宵は別だ。
皆、主人と共に思い思いに呑み、騒ぎ、羽目を外す。明るく楽しいどんちゃん騒ぎの中、幸せそうに彼女は微笑みながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、蝶のように皆の間を嬉しげに泳いでいく。

夕暮れがとっぷり沈み、夜の帳が深く下りる頃。
橙の提灯が、ゆらり。
ふと、視界の端で揺れた灯りに釣られて、彼女は縁側の外に目を向けた。

宴の光の届かない向こう側、宵闇の中に
灯篭を手にした火車切が、じっと立っていた。

「火車ちゃん?」

ぼおっと闇に浮かび上がる火車切の表情はよく見えない。
夜の中でも鮮やかなはずの猫の瞳キャッツアイは、目深に被ったフードに隠されたまま。

よく見えない暗がりで、懸命に目を凝らす。
喧騒に混ざらず、ぽつんと立ち尽くしたまま、俯いて固く固く唇を噛み締めているのがわかった。

それを見てとった瞬間、大きく目を見張って、躊躇うことなく彼女は縁側を飛び出した。
夜露で肌寒いのに上着も羽織らず、慌ててサンダルを引っ掛けただけの格好で、火車切のもとまで走り寄る。

「火車ちゃん、どーしたの? こんな暗いところで」
柔らかい手のひらで火車切の手を拾い上げて、ぎゅっと握った彼女。火車切はますます俯いて、小声でこう呟いた。
……ついてきて」
宴の華やかさに背を向けた火車切に、一つ返事で迷わずついて行った彼女の足取りは、やがて、ふっと闇の中へ消えた。


火車切は、赤灯籠を灯したまま、主人を夜道へいざなった。

月も星も無い夜だった。闇の方へ手を引いて、もっともっと深い暗がりへ。
一寸先すら見えない危険な道にいざなっても、主は火車切に付いてきた。

一歩、また一歩と、暗い夜道を進んでいく度に。
段々と仄暗くなっていく。
風も無いのに、ゆらぁ、と灯篭の影が揺れる。
まるで夜霧に覆われたみたいに、不自然なほど何も見えない。
鬱蒼と茂る森の奥か、はたまた川辺の獣道か。どんどん漆黒が濃くなって、手を繋いだ相手の顔も曖昧でよく見えないほどだった。
誰そ彼と問うにはあまりに暗く、引く手を離して引き返すには遅すぎる。そんな暗闇だった。

明かりは、赤い灯篭だけ。
だが、火車切の目には暗闇も関係無いのか、すいすいと進んでいく。
彼女にすると、足元もおぼつかない真っ暗闇の中では、手を引く火車切だけが暗がりの杖だった。

闇というのは、どこまでも果てが無いらしい。
まるで、真っ暗な黒い海にどんどん潜っていくみたいだ。
段々と視力が落ちていくように、どんなに目を凝らしても、なぜか灯篭の明かりすらも小さくなっていく。
名残り火が消えていくみたいに。

なんだか足元がふわふわする。
まるで一滴も飲んでいない酒に酔ったみたいに。
とぷんと闇に浸かって、瞳がくらくらする。

小石に軽くつまづいてよろけても、火車切はぐっと握る手を強くして、決して手放さないようにしながら、どんどん、どんどん先へ進んでいく。

フードの中にいるふわふわが、静かに、フシャー、と毛を逆立ててずっと唸っている。
まるで、良くない何かに、少しずつ近付いているみたいだった。

灯篭がふっと消えた。
ぴたり、と歩みを止めた火車切に、足音が途絶える。

「なんで……

火車切は項垂れた。

「なんで、なにも聞かないの

彼女は不思議そうに首を傾げて
「火車ちゃんが『来て』って言ったから」
と当たり前のように答えた。

「もしも、このまま、」
ぐ、と喉を詰まらせて、火車切は青い唇をわななかせた。
「帰って来れないところまで、連れていったら?」

きょとん、と瞬いた彼女は、こてん、と小首を傾げた。

「フラペチーノ」
……は?」

「デラックスキャラメルフラペチーノ。火車ちゃん好きそうだなあって、一緒に行こうと思ってたの」

他にも、あまいもの、かわいいもの
いっしょにいきたいところ、いーっぱいあったんだけど
でも、しょうがないね

まるで、日常の延長線みたいに、指折り数えながら、彼女はひどく穏やかにそう口にして
「いいよ、つれてっても」
と、こともなげに答えてしまった。

「火車ちゃんが行きたいなら、いいよ。どこでも」

連れてって
と彼女の唇が紡ぎ切る前に。
火車切が、慌てて彼女の口を塞いだ。
「?」
「だめ、ダメだ。こんなところで、」

こんな一寸先に何が潜んでいるかも分からない暗闇の中なのに、恐ろしいほど簡単に言質をやってしまおうとする彼女を慌てて止める。
灯篭の明かりが消えて、彼女からは何も見えない。
だが、火車切は、くしゃ、と顔を歪め、途方に暮れた迷子のような顔をした。

「なんで、どうして?」
「だいすきだから」
…………理由に、なって、ない」

火車切の言葉を聞いて、彼女は少しだけ首を傾げて言葉を咀嚼すると、こう続けた。
この暗闇では何も見えないはずなのに、彼女の眼は、じっと火車切を射抜いている。

「心も、命も、みんなが初めて護ってくれたものだから」
「え」

「ずっと貰ってばっかりで、何を返せば届くのか、わからないから」

だから、ぜーんぶあげる
みんなになら、あげていーよ

そう、金色の瞳がとろけて、こんなに幸せなことはないと笑った。

「わたしね、今がいちばん幸せなの」

だれもわたしを殴らないし、蹴らないし、吹雪いてる外に追い出して鍵かけたりもしないし、きもちわるいって言わなくて

そんな日が来るなんて思わなかった
だれともかぞくになれないわたしは
この先もずっと独りで死んでいくんだと思ってたのに


そんなふうに。
容易く投げかけられる、凄絶な告白。

あまりにも深すぎるこんな暗がりでは、ひとは自分を偽れない。

暗闇にとっぷりとおぼれて酩酊した彼女の本音に、火車切は息を呑んだ。

「かしゅーがね、いちばん最初にぜったい護るって言ってくれたんだよ」

次に鶴るんが、みっちゃんが、みんなが
どんな時もぜったい助けて、ぜったい幸せでいられるようにしてくれるって
安心して笑えるように、してくれた

みんなと出会ってからずぅっと
今が人生最高の日だから
だから、今日何があっても
わたしは、今日のために生まれてきたんだなあって言える


あまりに幸せそうに告げられる、酩酊の中身の不釣り合いに。
火車切が絶句して言葉を失っていると、訥々と、彼女なりの『理由』を並べる声が、不意に途切れて、こてんと首が傾げられる。

「火車ちゃんは、伽羅ちゃんきらい?」
「え」

急に投げかけられた問いに、火車切は反射的にぶんぶんと首を横に振った。
だよね、と笑った彼女は、さも当たり前のようにこう口にした。

「ちゃんと見てたら、わかるよ。火車ちゃんって、『伽羅ちゃんの宝物』なんだなあって」

息を呑んだ火車切は、ぐしゃ、と泣きそうな顔をした。

「大事な伽羅ちゃんの宝物だもん、わたしの宝物だよ。それだけじゃ、足りないかなあ」
「だって」

だって、みんなと違って、何も、何も聞かれなかったから。
俺のせいで怖い目に遭ったのに、怒られないし、聞かれないから、だから、

きょとん、と瞬いた彼女は、ゆっくり首を捻ると、出しぬけにこう言った。
「火車ちゃん、根性焼きって聞いたことある?」
……え」
「わたし、太腿の内側にあるんだ、煙草を押し付けた跡」
ぎょっとして息を呑んだ火車切の顔は、闇の中で恐らく彼女には見えなかっただろう。
彼女はまるで天気のことを話すような口ぶりで、どこか過度に無関心めいた調子でこう続けた。
「よく見ないとわからないんだけどね。赤ん坊の時だったみたいだから」

でも、どうしてって聞かれたら、少し困る。

聞かれたくない、覗かれたくないことって、あるよ。
火車ちゃんも、そうだと思ったの。
だから、聞かなかった。不安にさせちゃったね。

「ごめんね火車ちゃん、苦しかったんだね。火車ちゃんが自分から教えてくれることだけ、大事にしようって思ってたから」
そよ風のような柔らかさで、彼女は火車切の心をふわりと撫でていった。
「そういえばわたし、火車ちゃんのこと、確かになんにも知らないね」

「わかるのは、火車ちゃんも伽羅ちゃんのことだいすきなんだなーってことと」

彼女の手が、容易く。
行き場のない、火車切の震える手を拾い上げた。

「ふわちゃんのこと撫でる手が、いつも優しい、ってことだけ」
…………

ぼろ、と火車切は、膝から泣き崩れた。

「ごめん、ごめん、ごめんなさい。ばかなことした。ごめんなさい」

わっと泣きじゃくる火車切を、彼女はぎゅうっと抱きしめて、背中をいつまでも優しくさすった。柔らかであたたかな手のひらで。
ずっと黙っていた毛玉が、すんすん、と鼻を鳴らして、ぺろ、と二人の頬を交互に舐めて慰めた。




やがて、その優しい手のひらが往復する速度が、段々と鈍くなり、うつら、うつらと瞼が重くなっていく。彼女は「……?」と戸惑いの声を上げた。
「なん……きゅう、に……?」
やがてまもなく、くてっと火車切に寄り掛かったまま眠ってしまった。

すー、と寝息が暗闇に溶ける中、火車切は、ごし、と目元を拭って、くたりと弛緩した彼女を抱え直して、横抱きにそっと抱え上げた。

……その、えっと」

躊躇いがちに、火車切が目線をじっと闇の中に投げかけた。
無言のその視線を受け、物陰の向こうが、ガサ、と揺れる。加州がゆっくりと顔を出した。

実はこっそりついてきていた清光は、見つかっていたことに小さな苦笑だけを浮かべた。
……あー、やっぱ、最初から気付いてたんだ?」
……うん」

清光は、主人の側に片膝をついてしゃがみ込んだ。
刀剣男士の眼にも深すぎる暗がりの中、安らかな表情で寝息を繰り返す彼女に、清光はほっとした顔をした。加州は上着を脱ぎ落とすと、眠り込む主の肩にかけて優しく包んだ。
火車切は躊躇いがちに目を逸らした。

あてられて・・・・・、疲れたんだと思う。寝てるだけ」
ここは、人にはちょっと、暗がりに近過ぎるから、と。

よっ、と。
と加州は、受け取った主を軽々と背負う。

すー、すー、と繰り返す穏やかな寝息に、同じく穏やかな微笑みを返した清光。
火車切はそれを見て「……ごめん」と俯いた。

「焚き付けちゃったからさ、まあ。責任とって、ってやつだよ」

すこしヒヤッとしたけどね
この先まで行かれちゃうと、俺には進めないから

そう口にする加州の声音は、闇の中でもなお、とても穏やかだ。火車切はふるりと肩を震わせた。

……なんで、止めなかったの……?」
「あるじが信じるものを、一緒に信じるのが、俺の役目だから」

加州の声は、闇夜の中で迷いなかった。

「あるじが信じたんだ。ぎりぎりのぎりぎりまで、信じて、信じて、信じて」

それで、どーしても間違いそうな奴がいたら
力づくでとっ捕まえてぶん殴って、止める。
それが、俺の仕事。


だから、大丈夫だよ。

ぽす、と火車切の肩に手を置いて、加州は柘榴色の瞳を優しく細めた。
「また迷ったら、ちゃんと止めに来てやるからさ」

ぽろ、と泣き崩れてしゃくり上げた火車切に
加州清光は、言い聞かせるように、背中を二度、手のひらで大きく叩いた。

……り、がと!」
「みんな待ってるよ。ほら、伊達の連中なんか、あんたのこと可愛くて仕方ないみたいだしさ」

俺たちみんな。
どんな時も絶対、あるじと一緒に帰るんだよ。
それが、主と俺とみんなで決めた、いちばん大事な約束事だから。




とっぷり暮れた宵闇の中で
帰ると、門の柱の前で、人影が一つ。

腕を組んで、柱に寄りかかって
じっと、待つ、大倶利伽羅だった。

「あ……

火車切は、足を引きずるように立ち止まった。
密やかに笑った清光は「じゃ、俺たち、先行ってる」と優しく主人を背負い直した。

「ほら、お前もおいで。魚出してあげる」

ぴょこっと嬉しげに耳を立てた毛玉が、ぴょーん、ぴょーんと高く跳ねて、蹴鞠のようについていった。

門を潜って行った二人と一匹。
残されたのは、火車切と大倶利伽羅だけ。

立ち尽くしたまま、門の内側に入れないでいる火車切に、大倶利伽羅は、ゆっくりと、寄り掛かった柱から身を起こした。

「ごめんなさい……

びくっ、と身をすくめた火車切に。
大きな手のひらが、わしゃ、と柔らかく後頭部を掻き回した。

「帰るぞ」

とん、と大倶利伽羅の手のひらが、火車切の肩を前へ押す。

────伽羅ちゃんの宝物だもん

そう笑った主の優しい声が、耳に響いて
ぼた、ぼたた、と涙を落とした。止まらなかった。

「うん!」

ぐしゃ、と火車切は、大きく目元を拭って駆け出した。
帰路に立つ影が二つ揃って、宴の灯りの中へと溶けていった。




俺、余計な事考えすぎてたみたい。

そう火車切が自分から打ち明けてくれたのは、それからしばらくしてからのこと。
加州は静かに微笑みながら、うん、と柔らかに相槌を打った。

この本丸は、時の政府と歴史修正主義者の思惑に翻弄された主が、何の教育も与えられず、歴史と刀剣男士について何も知らない所から全て始まった。
まっさらでなんにも知らない彼女は、だから鍛刀する場合、事前に縁者からできる限り多くのことを聞いて、ありありとイメージできるようになってから、鍛刀する。
だから彼女が知ることは全て、この本丸に先に居る刀か、刀剣男士自身が語ったことで構成されている。

だが、火車切は、鍛刀ではなく、異去への出陣を繰り返したことで縁ができて迎え入れられた刀だ。
広光の弟刀であることは前もって伊達の刀が教えてくれたが、手ずから迎え入れた大倶利伽羅自身は、今回は鍛刀が必要ではないから、それは俺が語ることではなく、あいつが自分で証明すべき事だから、と。身内について多く語ることはなかった。
大倶利伽羅らしい立ち振る舞いだ。信頼の置き方は一つじゃない。

故に、彼女は火車切のことをほとんど何も知らない状態からスタートした。
その差が、遠征組と話が合わなかった原因。

今回、新しい刀剣男士を鍛刀する準備を始めた彼女を初めて見ることになった火車切は、すぐ自分の思い違いの理由を悟ったらしい。

彼女は確かに、刀の来歴や逸話を聞くことを好む。ひどく嬉しそうに。
けれど、よくよく見ると実は、既にある程度知っていること、それを訊かれても相手が困らないと分かっていることしか聞かないのだ。

あれは、来歴を知るのが好きなのとは少し違う。正確には、刀剣男士が自ら誇らしげに語る武勇伝に、幸せそうに相槌を打つ時間が好きなのだ。

覗き込まれるのを怖がって、目を逸らしてばかりいたから気付かなかった。
ちゃんと目を合わせて信じて目で追えば、ちゃんとわかることだったと。

「そっか」
……ありがと。信じて、見守ってくれて」

そう、ぽつり、ぽつりと口にする火車切に、清光はやんわりと微笑した。

ああ、こいつはきっともう大丈夫だな、と。そう確かに感じられたからだ。

「言ったでしょ。あるじが信じたいものを信じるのが、俺の役目って」
……ねえ、どうして、そんなに強くいられるの」

火車切が、まるで口から勝手にこぼれたみたいな顔で、途方に暮れたみたいに口にしたので、清光は目を丸くして、くく、と喉を鳴らして笑った。
……?」
「いや、悪い。俺とおんなじこと言うもんだからさ、つい」

そう懐かしそうに笑って、加州は軽やかに語り始めた。

「俺さ、まだ極める前、どうして彼女、あんなに強くぜんぶを信じられるんだろう、って思ったこと、何度もあってさ」

だから清光は、火車切に大事な胸の内をこう開示した。
きっとこれからの彼女と本丸を支えてくれる仲間へ。

「聞いてみたことあるんだ。ねえあるじ。なんでそんなに信じられるの。なんにも知らなくても信じられるのはどうして、ってさ」

愛されたくて理由を探してた、まだ青くて必死だったあの頃を、閉じたまぶたの裏に思い出す。

彼女はあの日、自分に向かって容易く両腕を広げて、春風みたいに抱き締めて軽やかに笑った。

「キリシタンにはさ、こんな言葉があるんだってさ。『見て信じるのではなく、見なくても信じる人になりなさい』って」

最初はよく分かんなかったけど、今なら俺、ちょっとわかる気がするんだ。そう加州は笑った。

「目に見える、信じられることを信じるのは当たり前で、それはただの判断だって。目に見えない、信じていいか分からないものを信じるから、信じるって言うんだって」

「信じたいから信じるだけだって。愛したいから愛するだけだって。だから、理由は要らないんだってさ」

だから俺も、信じたくて信じるし
愛したくて愛するんだ、と

加州清光は、揺らがず極めたその在り方で
柘榴の瞳に愛を満ちさせて笑った。

「俺がそういられるのは、彼女が俺にそう教えてくれたから」

「そうだよね。信じたいから信じて、愛したいから愛するんだ。理由や意味じゃなくて、心で」
……心」
「そ。付喪神おれたちを作った、途方もない愛ってやつ」

そう言いながら加州は、笑って迷うことなく振り返った。
晴れやかなその笑みは、火車切の目に、ひどくまぶしく映った。

「だからきっと、心のままに生きればいいんだ。俺たちの中には最初から、誰かが与えてくれた心があって、自分なりに育てた愛がずっと流れてるから」
……心のままに、生きる」
「うん。信じたいものを信じて、愛したいから愛するだけ。俺はあるじに貰ったそれを、また誰かに渡してやりたい。そうしたいって、俺が思った。それだけなんだ」





「吹っ切ったみたいだね」

後日、光忠はほっとした穏やかな面持ちで、大倶利伽羅にそう声をかけた。

あれから火車切は、それまでの停滞が嘘のように実力を伸ばし、後方支援部隊で頼もしく活躍しているようだった。
精彩を欠いていた今までとは違う、迷いを捨てた、目覚ましい躍進。

主人の下、どう刃を振るうか。
自分の意思でこうと道を定めた刀特有の鋭いキレが、傍目にも感じられる。
思いを定めたのだろう。想いによって目覚め、想いによって形作られた自分達には、それが何よりの力になる。

「ひと安心、かな。伽羅ちゃんも心配してたもんね」
光忠が少し笑みを混ぜて言う。
「してない」

ぶっきらぼうに、すかさず切って捨てる。そんな大倶利伽羅の無愛想にも、気心知れた光忠はただニコニコと隠れた言葉の続きを待つだけだった。

からかいを含む視線に、睨んでも柳に風といった風情だ。
大倶利伽羅はやがて、ふん、と鼻を鳴らした。

「あいつらならきっと、遅かれ早かれ、答えを出してただろう」

だから、心配はしていなかった。と。
光忠が焦らずじっと待てば、大倶利伽羅はそう、短く本音を落としてその場を立ち去った。

その大きく頼もしい背中を見送った光忠は、静かに笑みを深めて「強いなあ、伽羅ちゃんは」と晴れやかに笑った。

見上げた青空は、抜けるような快晴だった。

《信じる夜は闇照らす灯》





《鶴丸side》 北極星夜咄

「なあ、鶴丸。燭台切から聞いてる?」
「火車坊のことかい」
「うん」

加州清光が鶴丸のもとを訪れたのは夜半過ぎだった。
柘榴の双眸に明確な意思を乗せて、加州は並び立った鶴丸をしっかと見返した。

「俺が責任持って見張っとくから。だから、火車切のやつが何をしても、信じて見守ってやって欲しいんだ」

そう頼み込まれた鶴丸が、美しい陶磁の面差しでゆっくりと振り返る。
じっと奥底まで見晴かすように、清光を見つめる、闇にも鮮やかな金彩の双眸。
やがて鶴丸はふっと表情を和らげて肩をすくめた。
「わかった。きみの方針なら間違いない。オレは呼ばれるまで大人しく鞘で休んでるさ」

鞘で休む。つまり抜かない、手出しをしない、という確約だ。
加州は表情を和らげて「さんきゅ」と短く礼を言った。

こうして清光が前以って釘を刺すということは、すなわち明日、彼女に何かあるかもしれない、という意味だと鶴丸は正しく理解しているだろう。
その上で抜かないと、抜くような事態になったとしても見守ると。
そう告げるのは、仲間への敬意と信頼の証だ。

「なに、この本丸は彼女ときみのものだ。初期刀きみの指針は彼女の指針。きみがそういうなら間違いない」

鶴丸はひどく穏やかな表情でそう口にした。
繊細な睫毛を伏せ、盃に口を付けて味わい豊かな吟醸酒を煽る。

「にしても、そうか。きみが見守っているならひと安心だ。夕餉の時の火車坊、より一層ひどく思い詰めた様子だったからな」

やってきた伽羅坊の弟刀
常闇を覗く眼を持った、死神をも斬ると謳われし名脇差

まだまだやわこくまろい心を携えて
この本丸にやってきた伽羅坊に似た素直な坊や

まだまだ積み沸かしの道半ばといったところだ。
火床で熱されて名刀はやがて真に形となる

顕現したての頃から主人によく懐いていた彼が
後ろに下がって彼女に付いて回らなくなったのはあの件以来

月に一度だけ帰城する主。
近侍として鶴丸国永は、本丸中を笑顔で走り回る彼女を、陰に日向に一日中見守っている。

そうして、彼女が火車切と共に夜道へ消えた時、鶴丸は身を潜めたままその背を物陰から見守り、そして追って縁側に出た加州清光に黙って視線をやった。

すれ違いざま、無言で鶴丸は肩をすくめ、加州に合わせて手をあげた。
ぱん、と密やかにハイタッチが交わされ、清光が追って宵闇の中に消えた。

帰りを待つ時間を、長いとは思わなかった。

眠り込んだ彼女を優しく背負った加州清光が、元気に跳ねる毛玉と共に火車坊を連れて無事に帰還したのは、とっぷりと夜も更けた明け方前だった。




琥珀色の酒をグラスに揺らして、丸い氷をゆらゆら泳がせる。
からん、と月氷が鳴く。度数の強いアルコールに酩酊した夜に、バーのカウンターで光坊が「さすが加州くんだね」と柔らかく微笑んだ。

「いい顔になったな、火車坊」
「うん、面差しが明るくなった」
「あれはきっと良い刀になる。今よりもっと、彼女を陰に日向によく助くる善き懐刀に」

期待をゆったりと宵闇に溶かして撹拌させると、白銀のまつ毛をそっと伏せて微笑する。

「オレが迂闊に手を出したところで、きっと隣の毛玉あれに手を噛まれて終わりだったな」
「鶴さんあの子にすごく警戒されてるもんね
「そうそう! この前、良かれと思って爆竹で驚かせてやってひっくり返っちまってから、火車坊のところのには目が合うたびにフシャーとばかりに威嚇されてなあ」
「鶴さん
あきれたように苦笑した燭台切に、煙に巻くようにしながら鶴丸は、ハハと軽やかに笑った。
繊細な銀細工のような長いまつ毛が、伏せられたまま笑みに釣られてくつくつと揺れる。

「だが、昨日珍しく火車坊の方から寄ってきてな。主のことがもっと知りたい、話を聞かせて欲しいと」

こいつは良い驚きだ。もちろんいいぜ。
そう明るく破顔し二つ返事で請け負った鶴丸に。

ホッとした顔をした火車切は、少しだけ照れた面差しを伏せて誤魔化しながら、ありがと、と小声で控えめに礼を言った。
彼女のために強くなりたいからと理由を語る火車坊の目に、もう影は無かった。

「さすが加州。オレではこうはいかなかっただろうな」

老獪に計算し尽くされた鶴丸の介入ではどうしてもあと一歩届かない、そんな。
善き明日に手が届く、色鮮やかな熱量とみずみずしい若さ。

「頼もしいね、加州くんは」
「ああ。彼女が望むより良き明日を、正しく嗅ぎ取る本能的な力を持ってる」

やっぱり、初期刀ってやつは違うな、と
グラスの中の丸い氷を転がしながら、鶴丸は香り高いウィスキーをくっと喉に流し込んだ。

「あれと二振りだけで居た時期が長かったからか、時折、ふっと思うことがあるんだ。もし仮に加州のやつが居なくても、オレは彼女をこうして善き道へ導けただろうか、とな」

彼女は赴任経緯が特殊だ。下手をすると定例通り初期刀を選ばなかった可能性すら大いにあった。
「答えは決まり切ってる。ゾッとするぜ」

もしも加州が居なければ。
自分はきっと、あんなにも善良な主人を信用せず、彼女の本質にろくに眼を向けることすらしないまま、都合よく傀儡にしようとしただろう。

自分にいかに初期刀としての資質が欠けているか。
分かり切った事実を改めてまざまざと見せ付けられたようだった。

「オレ目線、ここは初鍛刀が欠けた本丸なんだ。彼女を傍らで導くべき、太刀オレより先に居るべき短刀がどこにもいない。その空白を抱えたまま進んできた本丸なんだよ」

春の一号が欠けるように、存在したかもしれない空白だけが明白なまま、二番手に貞坊が名を連ねる。
ここはそんな本丸だった。

近侍、名代として多くを任され信頼される初鍛刀。
古くからこの本丸を誰より支えてきた鶴丸の指揮を疑うものはいない。そう、鶴丸自身以外は。

鶴丸という初鍛刀がいる皆と違って、鶴丸だけはその欠落をずっと重く見ている。

「オレは運が良かったんだろうな。たとえ彼女が今傍らに居なくとも、足を踏み外さないための指針が常に目の前にある」
「加州くんは強いね」
「あれは子の星だ。紅い星、揺らがぬ北極天」

航路の星、羅針盤
真っ暗な海を泳ぐ自分達の、終わらぬ旅路の帰り灯篭

「あれを追えば問題ない。そう思える初期刀が折れずに此処にいることは、彼女だけでなくオレにとっても僥倖で

空になったグラスが、とん、と置かれる。
小さくなった月の氷が、どこか物悲しく軋んだ。

「だからこそ、加州あれにだけは無事で居てもらわないと、だめなんだよ。どうしても」


これは──とある宵に浮かぶ
『初鍛刀不在の本丸を導き続けた刀』
の夜咄だ。
星の見えない夜空を指でなぞって、柄杓の七星を繰り返し辿り続けた天鶴座アルナイルの。


鶴丸は、まるで星にかざすように手のひらを天に掲げた。バーの天蓋に星は見えない。


けれども鶴丸国永は
迷うことなく七つ星を辿った。
大熊の尾を辿って、やがて至る

その揺らがぬ導の星を
指先で確かめながら


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.