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仮面の下で呼吸したい

全体公開 3015文字
2025-10-09 14:37:01

誠実な人間を演じている男と飄々とした男のR-15BL作品です。死生観と永遠についての口論です。



「死ぬのは怖くないんですか」
 何度も問うた、純粋な疑問だった。通常ならば存在しないはずの器官――鰓に指を挿し込むと、華奢な長身の男は呻きながらも、口元にニヒルな笑みを浮かべていた。
「ああ、怖くないよ」
 もちろん、声帯を震わせて出してくるその答えも聞き飽きていた。死に対する漠然とした羨望を常に隣に置いている男は、自分を見て笑っていた。濁り切った金属のような眼が光を吸うこともなく、底知れぬ不気味さだけを醸し出している。
 変な男だった。妄執に縛られ、希死念慮を患いながら、同時に「永遠」へと焦がれている。まるで相反する二つを一つの軀に抱え込んでいるかのようだ。
 鰓をやわく蹂躙していた手を引き抜き、ベッドへと再度押し倒して首に両手をあてがえば、どこか期待に満ちているかのように目を開き、自分をじっと見つめていた。
「君は死に対して何を思うのかい? 死は決して終わりではないんだよ」
「何度も聞きました。死はスタートラインなんでしょう」
「ああ、そうだ。だからこそ、君には永遠の命を手に入れてほしいんだ。私がスタートラインに立つその日まで、ね」
「嫌ですよ」
 くすくすと笑い、答える。目の前の男は少しばかり不服そうに目を細めていた。
「なんでだい。君が永遠を手に入れたら、なんだって手に入れられそうだが」
「永遠なんて得てしまったら、罪を重ね続けて圧し潰されてしまう」
 彼は肩を震わせて笑う。鼻にかかった声は艶やかで、苛立たしいほど滑らかだ。
「罪か。……それなら、君の誠実さのほうがよほど罪深いと思うけどね」
 ベッドのきしみが耳に響く。真実というヴェールの向こうを偶像化するこの男のことが、どうにも面白くて気に入っていた。
 首を弄んでいた自分の手を柔く振り払い、男は起き上がる。それは私と対等な立場であるための一種の自己防衛か、それとも、単に天井の逆光が眩しかっただけか。
 目を細めていた男が、ゆったりと目を開く。それはまるで獲物を喰らう海の王者のようだった。
 いつもは弱いはずの男だった。しかし、どうにも真理や世界に対しては、まるで絶対的な存在であるかのような素振りを見せるのだ。
 口を開く。真理が、黒幕が、真相が、私を水底へと叩き込むかのようだった。
「君は”誠実な人間”を演じ続けている。でもそれは本当の自分じゃない。仮面を被って生きることほど、欺瞞的な罪はない」
 仮面を外せない。正しさを演じることでしか生きられない。ただの愚鈍であり傲慢な自分を、彼だけは見抜いている。否、彼だけには晒していた。
「君は人を救いたがっている。でもそれは本当じゃない」
「本当ですよ」
「違う。君は、”救っている自分”を救いたいだけだ」
 ふと、彼が私の手を取り、何かを握らせた。
 そこにあるのは刃物であった。
 一体いつから。声を出す間もなく、抗議する間もなく、男は自分の手を導いた。
「君のその誠実さは、どこまで通用するのかを試してみたい」
 彼は、彼自身の首に、刃を沿わせている。
……悪趣味」
「ああ、そうだ。完璧な善人なんていない。そして、完璧な善人を演じきれる人間も存在しないんだ」
 彼は私の手を離す。それと同時に、彼に預け切っていた手から刃物が零れる。
「だからこそ、人間は面白いし、君は恐ろしいんだ」
 ぼすり。ナイフが零れ、そうしてマットレスに突き刺さる。死が目前にありながらも、それでも彼は笑っていた。
 彼は、死にたがっている。だが同時に、永遠を欲している。矛盾だらけの生き方。それなのに、その矛盾こそが彼を生かしている。
「あなたこそ滑稽です。死にたいのか、生きたいのか。永遠に焦がれるなんて、無限地獄に身を投げるようなものですよ」
「何が悪いんだい?死の先にある安寧と、その先にある更なる世界は人類未踏の境地だ。死ぬことにより君と同じ目線になれるならば、きっとゴールは甘美なものだろう?」
「言っていることがわからない。死が救済であるならば、どうして私に永遠など――
 私の頬に触れる。その手は海底の如く冷たく、死を纏っているがごとく硬くてかさついていた。
「君は死を拒む。僕は死を求める。けれど、どちらも同じくらい永遠に縛られている。皮肉だと思わない?」
「皮肉でもなんでもありません。永遠なんて人間には扱えない」
「死は永遠にこの肉体で目覚めぬことだ。しかし、生は永遠にこの肉体に留まり続けることだ。どちらも永遠が側にある。そも――
 彼の手が、服の中を滑り込む。布を隔てず、左胸に押し当てられた手のひらは、やはり人間の温度を持っておらず、底知れぬ不気味さに心臓が早鐘を打っていた。
「神様ならいいのか?」
 ひゅ、と息を呑む。その声が、あまりにも温度という概念を知らなかったからだ。
 その言葉の
抑揚が、あまりにも情に欠けていたからだ。
……神如きが、僕の運命を変えられると思うな」
 彼のその声が、あまりにも語り部に近いものだった。まるで、壁の向こうから語りかけてくるかのようだった。
 彼の言葉に、声を振り絞る。張り付いた喉に空気を送り込み、震わせる。発せられた声は、どうしようもないほどに情けなくも掠れていた。
 彼に恐怖を抱いたのは、初めてではない。そして、彼もまた、自身に恐怖を抱かれていることを明らかに認識していた。
 自分の言葉に、男はくつくつと笑う。まるで僕の、私の行動を全て見据えているかのような様子であった。
「でも、神に愛されている自覚はあるだろう?しがない父に、愛されている自覚が」
 いつの間にか、私は彼と温度を分かち合っていた。すっかり温くなった左胸に置かれた彼の手が、するりと引き抜かれる。
「そして、私のことを君も気に入ってはいる。……こういう関係値であり、こういう性格の奴らは惹かれ合う運命だったのかもしれない。それが世のためになるかどうかは、さておきだけど」
 そして、その手は私の手を引き、再びベッドへ沈み込む。
 先ほどの威厳、そして冷たさはそこにはなかった。あるのは生温い瞳の温度と、少しだけ人間らしく動く口角だけであった。
 触れていた肌が離れ、彼は両手を広げる。
 まるで処刑を待つ罪人のように、彼は私に身を委ねる。しがない人間であり、善人にすらなれない自分に。
「殺してくれてもいいんだよ。私は歓迎するさ。君の誠実な手で死ねるなら、本望だ」
……するわけないでしょう」
「ああ、知っている。君はそこまでの”善人”ではない。それどころか、単なるエゴイストだ」
 彼の声は、どうにも甘やかだった。けど、そこにある甘さや、甘味料や菓子のような軽やかで可愛らしいものではなかった。
 まるで泥のように醜く纏わりつく彼の情動に、私は今日も雁字搦めになっている。
 そこに愛があるのか、それとも、単に私という存在に興味を示しているのか、今は推し量ることはできなかった。
「だからこそ、私は君という存在に惹かれているんだ」
 男は言った。私は何も答えなかった。否、答えられなかった。
 適当に相槌を打つという選択も、容認や拒絶するという選択も、今の私には取れなかった。
……はは、大丈夫だ。この答えは、人生の分岐点に成りえない」
 まるで、私を見透かしたように、彼は口を開き喉を鳴らす。

 彼もまた、人という仮面を被っていた。


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