アルカヴェ
浮かれる🌱🦄
@dounudon
⚠️🏛の元恋人のモブ女性への言及があります!!!!!!!!!
うれしいことがあると踊りだしたくなっちゃうんだ、と少女は言った。
学院トーナメントはおおむね滞りなく進行していたが、どれだけ滞りがなくとも一秒おきに間断なく誰かの進捗が報告されるわけでもない。特別評論員のふたりにただ待機している時間が訪れるのは仕方がないことだった。
初日、彼女はその待機時間を沈黙で埋めてしまうことを恐れているような恥じているようなありようで、しきりに隣のアルハイゼンに話しかけてきた。義務というよりほとんど勇敢ともとれる決意の感じられる話しぶりだったが、アルハイゼンがひと言ふた言返すか返さないかといったいつもの反応をしているうちに、この場において沈黙は躊躇すべき対象ではないと学んだようだった。ニィロウは聡い少女だった。
だから、アアル村での急なそれは、彼女が心から話したいと思って口火を切った話題なのだった。
うれしいことがあると踊りだしたくなる。その言葉は、熱っぽい風に融けて無数の砂のひと粒となって消えてしまうまえにかろうじてアルハイゼンの耳に届いた。
「まず、指先がむずむずするの」
彼女はアルハイゼンに構わず話しだしていた。なにかを打ち明ける際に特有のちょっとした緊張を孕んだ声で。先ほどまでテーブルの上の果物をつまんでいた右手の指先を左手できゅっと握りしめ、膝に力が入り、こころなしか背筋がぴんと伸びて姿勢がいつもの二割増でよくなっている。まあ、もともと彼女は非常に姿勢がよいのだが。
踊り子の背中には芯がひとつまっすぐ通っている。どれだけ曲がっても反り返ってもしなやかにもとの位置へと戻っていく強靭な核心。
「ステップを踏みたくなるより先に指先なのってちょっとふしぎだよね? でも最近、心がうれしさでいっぱいになって、その衝動で居ても立っても居られなくなるなら、心により近い手の指先が最初に反応するのはもしかしたら自然なことなのかもしれないって思うようになったんだ。指先がむずむずしたら深呼吸をして、まばたきで拍子をとって、ただ心臓の鼓動を感じるの。そうしたら自分はうれしいを表現するためのシンプルなリズムのひとつになる。頬に触れる風のやわらかさも、太陽の熱気も、遠い鳥のさえずりも、スメールのぜんぶが私の衝動を後押ししてくれるメロディにきこえる……アルハイゼンさんも、そういうことってある?」
「ない」
「うん、そうだよね」
ニィロウはどこかほっとしたような声音で笑った。
「実はそれってアルハイゼンさんだけじゃないの。自分以外にそんなひとって見たことないんだ。唯一あるのは……お母さんに好きなお菓子を買ってもらえた五つくらいの子どもが全身を動かして喜びを表現してるのを見たくらいかな? つまり、私くらいの年齢のひとは誰もしてないってこと。あの一件があって、シティの雰囲気がダンスや音楽に寛容になってからもずっとだから、たぶんほかのひとはうれしいことがあっても踊りだしたくはならないんだと思う」
「我慢しているのか?」
はじめてアルハイゼンから質問という反響らしい反響があったことに対する驚きの表情を、彼女は隠さなかった。とっさに隠せなかったのだろう。素直な少女だ。
「私?」
と、おおきな瞳が見開かれ、愛すべき愚かしさで自らを指し示したあとに口を閉じた。
「我慢……してるのかな。考えたこともなかった。自分のなかではね、そのむずむずする衝動をなんとか持ち越して、次に踊る機会にどんなふうに有効利用するかを考えてるつもり。ときどきどうしようもなく衝動がふくらんで、風船に息を吹き込むのをやめられないみたいになって、パンパンになった私が風に飛ばされたらどうしようって想像することはあるよ。そうなったらどうしようもないから、いつも衝動をコントロールしようとはしてる……これを我慢って言うのかな。ふふ、名前をつけてもらえるとなんだか安心するね」
「衝動を発散する方法は人によりけりだが、すくなくともひとりで踊るだけなら共用のカレンダーを無秩序なインスピレーションで埋め尽くすよりずっと合理的だ」
アルハイゼンの頭に光と同じだけ掴みどころのない金色がよぎる。しかも後日そのカレンダーを自分で見て「ああもう、日付が見えづらいったらないよ。手近なところにあるメモ帳がこれだけだったなんて、ここは学者の家失格だな」と理不尽に憤慨するのだから、これはもう手に負えない。そもそもカレンダーは予定を書き込むものであってメモ帳には括られない。そのうえ、いつもなら――そんな状況に備えて――テーブルに常備している雑紙を使い切っていたのもいつぞやの酔っ払った彼自身だという事実がいよいよどうしようもなかった。
その日以来、アルハイゼンの家のカレンダーは立派なカオスの体現となっていて、当の犯人は毎日月が変わるまであと何日……と指折り数えている。彼に言わせてみれば、いま買い替えるのは「まっさらのほかの月がもったいないだろ!」となるのだった。
「ニィロウ。君は自分と同じ人間を見たことがあるか?」
「同じ? 同じって、まったく同じってこと? ううん、ないよ」
アルハイゼンは黙って少女と目を合わせた。会話をしている相手の目を見つめるという円滑なコミュニケーションの基礎をきちんと実践している彼女はしばらくじっとアルハイゼンの返答を待ち、聡明な頭でアルハイゼンの側に返す気がないことを知ると、何度か瞬いたのちにはっとして俯いた。芯の通った背中は今度は緊張ではないなにやら純粋なもので張り詰めている。
「第一ラウンドからずっと考えてたんだ。アルハイゼンさんの言ってくれた、自由に生きられる私ってどんなものだろうって」
ほそい指先が胸元を控えめに押さえ、目を瞑って深呼吸する。乾いた風、砂まじりのややかすむ視界、避けようのない光熱。彼女がそれを全身で受け止めているのがアルハイゼンにもありありと伝わったころ、ニィロウは突然立ち上がった。それすら訓練された優雅なふるまいのように見えた。
「アルハイゼンさん、私……踊るね!」
足下の悪さをものともしない花咲くダンスを踊ってみせた彼女は、興味本位で覗いていたアアル村の住人の目をじゅうぶんに潤した。そしてそのときたしかに、ニィロウはつま先より早く指先から動かしていたのだった。
大のおとなが、それも知識も体力も豊富な若年層のおとながふたりいれば、たいていのことは滞りなく進む。アルハイゼンとカーヴェがはじめて官能的な意味合いでもって同じベッドに入った夜もそうだった。片方は雰囲気さえ含めた正真正銘の初心者としてその手のことと向き合い、もう片方はそういう空気は知っているものの役割的にはじめての立場というなかなかややこしい状況で、しかし幸運にも行き詰まることはなかった。
痛みを予感したカーヴェの本能的な怯懦が一瞬だけ立ちはだかりかけたが、それが本気の拒絶でないかぎり彼をなだめすかし口車に乗せるのはアルハイゼンの得意分野だったため、やはり問題はなかった。終わってみれば思いの外しっとりといかにもそれらしい夜になってアルハイゼンのほうが驚いたくらいだ。カーヴェの順応性は称賛に値する。
コメディじみたニュアンスが紛れ込みはじめたのはむしろ終わってからのほうで、半分以上腰の抜けたへろへろのカーヴェがこんなべとべとのからだで寝たくない、こんなぐちゃぐちゃのベッドで寝たくないと駄々をこねるので、アルハイゼンは余韻に浸る間もなく彼を浴室に連れていかなければならなかった。前言撤回。知識も体力も豊富な若年層のおとなとはアルハイゼンにのみ当てはまる表現であり、カーヴェは知識とバイタリティこそ潤沢だったが単純な体力には圧倒的に欠けていた。本人が協力的なだけ深酔いで正体をなくしているときより楽なはずなのに、力を入れたくても入らない腰抜け相手というのはむしろ厄介に働いた。しかもすこし目を離したら寝ようとする。立ったままでもバスタブでも。
アルハイゼンの献身的な介助によりぴかぴかになった彼を連れてこの家のもうひとつの、そしていまにかぎっては唯一の清潔な……つまりカーヴェの部屋のベッドにたどり着いたとき、カーヴェは「アルハイゼン、僕たち今後どれだけうまくいっても完全に寝室を一緒にするのだけはやめておこう」と言って満足げに自身のベッドに倒れ込んだ。要するにいつでも避難場所にできるもうひとつの寝台があることはすばらしいと言いたいだけなのはわかっていたが、アルハイゼンは律儀に苛立った。おそらくまだベッドでの昂揚を引きずっているのだ。
待望の衛生的なリネンに包まれたカーヴェはすぐさま眠りの国に旅立つかと思いきや、なぜかぼんやりと視線をさまよわせて誘惑的な睡魔を懸命に追い返しているようだった。
アルハイゼンは彼の前髪をかき混ぜた。汗ばんで額に張りついていたのがまだ記憶に新しいというのに、浴室を経た彼の髪の毛はもうふわふわだ。
「ミルクを飲まないと眠れないのか?」
「そこはせめて酒にしてくれよ……子どもじゃないんだぞ。子ども相手にはしないようなことをしたばかりなんだから、そういう物言いはよくない。君こそ眠らないのか」
「君のベッドで眠れる気がしない」
「君のベッドよりややちいさいから?」
「君の存在感がつよくて興奮するから」
反射的にアルハイゼンの手を弾いたカーヴェが上掛けをかぶって隠れる。
「もうしないぞ! こっちのベッドまで酷使して結局夜中に寝具一式総取っ替えなんてまっぴらだ。君が新しいリネンを準備しているあいだにリビングで寝てしまう。そうしたら明日は全身ひびが入ったみたいにバキバキなんだ」
「そうじゃなくとも明日はそうなるだろう」
「それはそうかも……なあ、柔軟運動とかしたほうがいいのかな? 今夜のははっきり言って未知の関節のひらき方だったけど、ストレッチってああいうのにも効果あるんだろうか」
言いながらぐっと背中を伸ばしてほとんど冗談めいた声で唸る。上掛けがずれ、彼の清かな顔がふたたび現れた。まぶしそうに目を細めるので照明を絞ってやる。
いまにも眠りに落ちそうなとろとろの目をしているのにどうして抗っているのか、アルハイゼンにはさっぱりわからない。いまさら片方を置き去りにしては眠れないなんて行儀のいい関係ではないだろう。アルハイゼンは早く彼に寝てほしかった。そしてひとりしずかに余韻に浸りたかった。奇跡的な一夜を厳かに反芻するには意識のある彼の気配は濃密すぎる。
「気は晴れたか?」
「え?」
「数日前に昔交際していた女性と再会してからというもの、ずっと考え込んでいただろう」
「だ、誰が君にそんな密告をしたんだ!」
「深酔いした君が自白した」
思い当たるところがあったらしい彼はおとなしく黙り込んだ。酔いのまわった彼はひどく饒舌になり、あらゆる羽目をはずし、吐き出される言葉からはあらゆる自制が撤廃される。そのくせ嘘がつけない気質だけは平常時から一貫しているので、ほんとうのことをいくらでも垂れ流すおしゃべりという御しがたいいきものに成り果てる。思考と直結したらくがきで意思表示するか、呂律のまわらない舌で喋りつづけるかの無敵の二択だ。
「……気が晴れるもなにも、僕と彼女のあいだになにかが残っているわけじゃない」
「そうだろうな。今夜俺とこういうことができるくらいだ。つまりなにも残っていなかった君のなかに、彼女と再会したことでなにかが芽生えたのだろうと推測できる」
「それはあまり楽しい推測ではないと僕は推測するんだが、どうだろう。特にこの場にふさわしい話題でもなさそうだ」
「そうか? 俺はたのしいが。久しぶりに再会したかつての恋人が知らないうちに結婚していた。相手とのあいだになにも残っていない状態で、そこになにを気に病むことが生じるのか俺にはわからないだけだ。ありがたいことに経験がないからな」
「そうだな、僕が君の知らないうちに結婚でもしていたら……ちょ、待った! 冗談! 冗談だ! というか酔っ払った僕がほとんど自白してるじゃないか……」
しかしあの夜アルコールに火照った顔で帰ってきた彼が漏らしたのはここまでだ。かつての恋人と偶然再会した、彼女はすでに別の誰かと結婚していたという事実そのものはさておき、そこで発生した自身の情緒的な回路の動作を体系立った語句に振り替えるほどの理性は残っていなかったにちがいない。
「彼女のお腹には赤ちゃんがいた」
アルハイゼンは、ほんの一瞬だけ、たったいま同性同士で夜を過ごした自分たちにとって非常に繊細な話題がはじまるのかと思った。だがそこはさすがにカーヴェというべきで、予想もしていなかった方向に舵を切った。
「新しいいのちを迎えるにあたって、これからの生活にぴったりの家族のための家を注文するつもりなんだと彼女は言った。それをきいた僕は……カーヴェという建築デザイナーは、間髪入れずに申し出てしまった。――僕でよければなんでも力になるよ」
カーヴェは言いながらひとりで悶えていた。
「ああいうとき、僕はほんとに考えなしなんだ。誤解を招きたくないから言っておくけど、彼女の未来にちょっとでも関わりたいとかそういう下心や未練があったわけじゃない、断じてない! ただ話が急に自分のテリトリーに入ってきたから思わず――でも、誰が昔付き合っていた相手に一生ものの大切な新居の設計を任せたいんだ? 誰もいい気がしない最悪の申し出だよ」
「君の剥き出しの善意はたいていの人間の想定の外にある」
まさにね、と彼はため息を吐いた。
「彼女ははじめびっくりして、それから急に笑ったと思ったら『それはフェアじゃないと思う』と言った」
顔も知らないその女性の思慮深さにアルハイゼンは一気に好感を抱いた。フェアじゃないという言い方はカーヴェの野暮を極端に糾弾しない、しかし決してその無謀な善意を受け取るつもりもない、きわめて公平な言い回しだった。笑ってしまったのは久しく味わっていなかった純度の高い〈カーヴェ〉にあてられた結果だろう。さまざまな起伏――借金を背負うだとか、その結果家を失って離別した後輩の家に転がり込むだとか――を経て彼自身は自分がよっぽど変貌してしまったと思っているようだが、端から見ればちっとも変わっていない。彼の申し出はあまりにも彼らしく、どれだけ時間をかけても侵食されない彼そのもので、それは当然笑ってしまうに決まっていた。
「君はひとを見る目があるな」
「そうだろう? そのとおりだよ。見る目があるからそういう女性には振られて、こんな話題を記念すべき夜に延々拡大させる君みたいなやつとひとつのベッドに入っているんだ。なあアルハイゼン、こんな夜にはいい加減もっと前向きなことを話し合ってみないか?」
「君がこれからどんな柔軟運動に励むべきか」
「いいね、でもいまの状態だとあまり前向きになれないな。頭のてっぺんからつま先までぜんぶしんどすぎる……いまにも眠ってしまいそうだ……」
「だったら眠ればいいだろう。なぜ君は起きているんだ」
カーヴェのうすっぺらい手の甲が寝台に腰掛けていたアルハイゼンの腹筋を情けなく押し込んだ。あっちへいけと押し出したいのか、若干勢いのある突っ込みを入れたいのか、判断に迷う力のなさだった。
「こういう夜だからもうすこし気分のいい話をするかと思ったんだ!」
「俺はともかく、君にとってはたいそうな夜じゃないだろう」
「なんだって? やっぱり君の感受性は涸れてるな。はじめて誰かとするキスが、一緒に過ごす夜がたいそうじゃないなんて、道理で同じ初心者なのに全然動じてないと思った。手順さえじゅうぶんに予習しておけば、君にとってははじめてのことでも既知のこと同然なんだ。ああもう、明日の朝はとっておきのコーヒーくらい挽いてもらわないと割に合わないよ。僕は寝る! 夢のなかの君はちょっとくらい僕を労ってくれるだろう。僕の想像力が一生で一度の働きをしたらあまい言葉さえささやくかもしれない。君はひとりでなんの変哲もない夜を過ごせばいいさ」
「おやすみ」
「おやすみ!」
背を向けてこのうえなくわかりやすい拒否の態度をとったカーヴェは、一分も経つころには深い睡眠に落ちて自然と寝心地のいい姿勢を探りはじめ、ひとしきりもぞもぞしたあとに仰向けで落ち着いた。
前髪の流れてあらわになった白い額を見下ろす。指先が疼くが、ほんとうに指先で触りたいのか、指先なんかでいいのかどうかアルハイゼンにはわからない。
はじめて。
その単語だけがおかしくなったように駆けめぐる。それしか考えられなくなった単調な生物のようだ。はじめてはじめてはじめて。試しに深呼吸をしても事態は打開できない。これほどうるさい心臓の激動でカーヴェが起きないことがふしぎだった。
アルハイゼンは目を伏せた。踊りだしたいような気がした。