さめ+ごろさめ。さめしし前提です。ある目標を抱いたごろさめと、それに振り回された村雨先生のお話。獅子神さんも最後に出てきます。
*ごろが動いています。 *お仕事さめの妄想創作多めです。
@5_bluedaisy
平日の早朝。昨夜の雨の名残りで水気を含んだ空気が満ち、筋雲の広がる青空の下。
獅子神の家で目覚めた私は、朝から甘やかな愛の言葉を交わし、彼の作ってくれた美味い朝食を平らげて、職場である病院に着いていた。
駐車場のゲートをくぐり、昨日と同じ位置に車を止める。鞄を持って降りて、建物の入口でIDカードをリーダーに翳す。真っ直ぐに外科の医局へ向かい、誰もいない更衣室に入ってロッカーを開け、どさりと鞄を置いたところで、しかし異変は起きた。
『ご……』
小さな、しかし確かに聞き覚えのある声。
さっと冷たいものが背筋を走った。
普通のマヌケならおそらく聞き逃すし、聞こえたとしても気のせいだろう、で終わらせる。そんな小さな、何でもなさそうな音だ。が、他人にとってはただの音としか聞こえなくても、私の脳には明確に意味が伝わってくる。
「クソっ……!」
私はいったん足早に更衣室を出て、机の並ぶ医局を見渡した。幸い、今のところは誰もいない。油断はならないが、少しくらいなら話す余裕はあるだろう。
ロッカーに戻り、鞄を開ける。
小さな軽い体が、待ちかねたように飛び出してきた。
「ごろ! ごっごろー!」
「騒ぐな、マヌケ。いつ誰が来るかわからん」
「ご!」
鞄に潜んでいた密航者は、全く何も気にしていない勢いで応じると、ぽふんと跳ねて私の手に乗った。小さな足で立ち、得意げに俵型の胴を反らしてみせるので、苦々しく思いながらも頭と腹を撫でてやる。フェルトの布地と詰まった綿、としか言いようのない感触が、指先を伝わった。
とりあえずはそれで気が済んだらしく、ご!とひと声鳴くと、小さな体は本来のうつ伏せの姿勢に戻った。丸い手足をぺしょりと広げて、私の手のひらの上で伸びをするように体を震わせる。
「待て、堂々と寛ぐな。そもそもあなた、何故私の鞄の中に入り込んでいた」
私は手のひらを顔の高さまで持ち上げて、抑えた声で話しかけた。
きらりと金の眼鏡の縁を光らせて——実際には糸の縫い取りなのでそう光るはずもないのだが、慣れによって意味も形容も付加してしまえるのだから、人間の認識というものは恐ろしい——ごろさめの顔がこちらを向く。黒いフェルトの前髪の間から、燕脂と薄紅の糸で縫い取られた瞳が私を見つめた。
「ごろご、ごろ。ごろろー、ごっごろろ!」
「ニンゲンのすなる仕事といふものを、綿の私もしてみんとてすなり……? あなた、何を読んで感化されたのだ」
「ごろ!」
「いや、褒めてはいないぞ」
「ごごろー……ごっごっ!」
ぷん、とむくれた気配が伝わってきて、次の瞬間べし、と頭突きが飛んできた。額にぶつかって落ちる綿の体を、乗っていた手で受け止めて捕まえる。身の程知らずにじたばたと暴れるのを軽く握りこみ、空いているほうの手で鞄をロッカーにしまいながら、私は深いため息をついた。
ごろ、と称される、小さなぬいぐるみ。俵型の胴体に形ばかりの丸い手足がつき、正面にデフォルメされた顔を持つ、一般的な見地からして多分に愛らしい形状のそれは、何故か意思を持って話し、動き、時として食事すらこなす。原理も理屈も全く不明だが、ハーフライフ以上のギャンブラーには(時として担当行員にも)稀にその「ごろ」の分身が生じるらしく、私たちもある日気がついたら、それぞれのごろが傍にいた。他の連中はともかく、私の場合は仕事に連れて行くわけにもいかないので、普段は獅子神の家に預けて面倒をみて貰っている。が、今朝はどうしたことか、鞄に入り込んで仕事についてくるという無鉄砲な冒険に出たようだった。
「しかし、大した度胸だな。ひ弱な綿の身で、私の裏をかこうとは」
「ごろ! ごっごろごー!」
「あなた、本当に自分の立場を弁えたほうがいいぞ……まったく誰に似たのやら、だ」
私の手に捕まえられているにも関わらず、あくまで強気と得意を崩さないごろの様子に、私はさらに深いため息を繰り返さずにはいられなかった。
綿たちの言葉は、姿の元となった本人と、それぞれの綿が認めた者だけが理解することができる。幾つかの例外はあるようだったが、それが基本の法則だった。私であれば、自身の姿を写したこの綿——ごろさめ、と獅子神が呼ぶのでそれが定着した——と、獅子神の姿をした綿(同じくごろしし、と呼ぶようになった)の言うことは理解できるが、真経津や叶、天堂の綿が言っている内容はわからない。綿共は表情も変わらず、心拍も呼吸も発汗も無いので、人間相手に心を読むようにもいかないのが少々癪なところではあった。
一方で、本体の人間と自身のごろとの間では、文字通りの以心伝心に近い状態も時々起こる。細かい情報伝達までは難しいが、気分や簡単な言葉程度なら、音の振動を介さずとも伝わってくるのだ。今も、私が握っているごろさめからは、話を聞くごろ、そろそろ離すごろ、といったニュアンスがふんだんに発されているのが分かる。ごろの言葉を言語として理解するのともまた違った感覚で、脳科学的な説明はつけられそうにもないのだが、獅子神や他のマヌケ共が気にしていないのもあって、もはや私も慣れつつあった。
「わかった、話を聞こう。しかし」
私は指先でごろさめの背を摘まむと、ぷらんと目の前にぶら下げた。暴れるなよ、と念じながら、糸で形取られた紅い瞳を見つめる。
「そろそろ、この更衣室にも他の医者が来る。そして私にも、朝の病棟仕事とカンファレンスがある。大丈夫だと思った時には話しかけるから、それ以外は白衣のポケットでじっとしていろ。わかったか」
「ご……」
「不満なら、このままロッカーの中に置いていくぞ。仕事の邪魔をさせるわけにはいかん」
「ごっご! ごろ!」
「ふん、分かればそれでいい」
どうやら合意が得られたので、私はとりあえず小さな綿の体をロッカーの棚に降ろしてやった。ようやく両手が空いたので、手早くスーツを脱いで、仕事用の黒のアンダーシャツとスクラブに着替えていく。
最後に白衣を羽織ったところで、ごろさめがぽん、と肩に飛び降りてきた。
「ごろ!」
「いや、白衣の胸ポケットは駄目だ。皆から丸見えだろう」
「ごろろ、ごっご」
「下のポケットだと外が見えない? まったく、我儘ばかり……では、せめてスクラブの胸ポケットにしろ。そしてなるべく白衣に隠れておけ」
「ご!」
元気よく返事をすると、ごろさめはいそいそと肩から降りてきて、器用にスクラブの胸ポケットに収まった。半分顔を出して、ごろごろ、と嬉しそうな意思を伝えてくる。
私はごろさめを隠しつつ、窮屈にならないように白衣の襟元を整えた。いつもは首からかけている聴診器を、右のポケットに突っ込む。
「ごっご」
「ああ、行くぞ。くれぐれも騒ぐなよ。普通のぬいぐるみらしくしていろ。出来るだろう?」
「ごろ!」
任せるごろ、と自信たっぷりに言われて、私はもう一度ため息をつきながらロッカーを閉じた。
病棟に上がり、担当患者の部屋を廻って、夜間に大きな異常がなかったかを確認する。呼びとめてくる看護師の話を聞き、急ぎの内容だけ対応して、残りは後回しにする旨を伝えてカンファレンスルームへ向かった。
今朝は術前カンファレンスの日で、これから一週間の手術予定の患者について、それぞれの担当医が順にプレゼンテーションを行なっていく。教授以下、大学に勤務中の医局員全員が揃っている前で、患者の病歴、現在の疾病とその評価、予定術式などについて画像を提示しながら説明していくのだ。勿論私も、事前に準備していた画像に沿って、説明を行った。もし患者の状態評価や手術計画に不備があれば、質問と指摘の集中砲火を浴びることになるわけだが、他のマヌケ共はともかく、私にはそのような事態は起こり得ない。問題なくカンファレンスを済ませ、担当患者について上級医と軽く打ち合わせを行い、予定している処置の時間を確認してから、ナースステーションへ向かった。
意外なことに、ごろさめはちゃんとおとなしくしていた。スクラブの胸ポケットに収まったままで動かず、余計な意思を発したり話しかけてきたりすることもない。眠ってしまったのかとも思ったが、それならそれで『寝ている』状態が伝わってくるはずなので、やはり起きたままでじっとしているのだった。
どうやら、普通のぬいぐるみらしくしていろ、と私が言いつけたのを忠実に守っているらしい。そういう切り替えができるのか、単に意思の力で頑張っているのかまでは分からないが、自信たっぷりに請け合っただけのことはある。そこは後で、きちんと褒めてやらねばならないだろう。
私はナースステーションへ入ると、隅のほうにある端末の前に座って、ログイン画面にIDとパスワードを打ち込んだ。電子カルテを起動し、患者ごとに必要なオーダーを打ち込んでいく。
手を動かしながら周囲の気配を確かめると、殆どの看護師は病室へ向かったらしく、こちらへ注意を向けている人間はいなかった。今なら、少しはごろさめと話せるだろう。
「……ごろさめ」
不自然にならないよう、視線は電子カルテの画面に向けたまま呼びかけると、ぴくっと胸ポケットのごろさめが反応してきた。
「今なら話していいぞ。小さな声でな。あと、暴れるな」
「ごろ」
ごろさめは頷くと、ごろごろごろ、と先ほどのカンファレンスの感想を述べ始めた。狭い部屋に人がたくさん居て驚いた、と言われて、思わず苦笑する。広々とした獅子神の家を日々気ままに駆け回っている身からすれば、カンファレンスルームに医局員達がぎゅうぎゅうと集まっている様子は、意味不明のものに見えても仕方がない。しかも、時として厳しい調子であれこれと言い合っていたのだから、さぞものものしく不穏に感じられたことだろう。
「あれは全部医者か、だと? 殆どはそうだな。数人は学生も混じっている」
「ごろ?」
「医学部の学生が臨床実習に来ているからな。まあ、その辺りは興味があるなら、家でゆっくり話そう」
「ご」
それでカンファレンスに関しては気が済んだらしく、ごろさめはポケットから少し顔を出して、私と一緒に電子カルテの画面を眺め始めた。もちろん内容が理解できるわけではないだろうが、興味深そうにしているのは伝わってくる。
好奇心旺盛で、得られるものはとりあえず吸収しようとする姿勢、その集中力は——綿の身としては、という注釈は付くが——なかなかのものだった。やはりそこは、私の分身ならではというところもあるのだろう。真経津の綿などは飽きっぽく、すぐに別の遊びを始めようとする。
であれば、こうして人間の私がこなす仕事の一環に触れさせるのも、或いは良い刺激になるのかもしれなかった。
「今日が手術日でなくて、よかったな」
カルテの記載を続けながら、私はごろさめに言ってみた。
「ごろ?」
「さすがに、手術室には連れて行けないからな。ロッカーか医局に置いておくしかないところだった」
するとごろさめは、くるりと体の向きを変えて、私の顔を見上げてきた。
変わるはずのない表情が、きらりと強気な光を帯びる。
「ごっごっ、ごろ。ごろろ」
「何? 今日手術がないことは知っていた?」
「ごろ!」
「手術日ではないし、担当患者も落ち着いていると言っていたから、今日なら大丈夫だと思った……あなた、私が獅子神に話したのを聞いていたのか」
「ご! ごっご!」
ごろさめが、小さな綿の体を得意そうに揺すってくる。胸ポケットから飛び出しかけてきたのをぐっと押し戻して、私は電子カルテの画面を切り替え、サマリーの書式を開いた。
突発的な悪戯心で鞄に潜り込んだとばかり思っていたのだが、どうやら綿なりの計画あっての行動らしい。病院に着くまで私に気づかれずに潜んでいたのも、思えば大したものではある。体も脳も綿とはいえ、その胆力と意思の強さには一目置かざるを得ないようだった。
「ごっごろー」
私の思考が伝わったらしく、胸ポケットの中でごろさめがふん、と体を反らしてみせてきた。どうだ凄いだろうごろ、もっと褒めるごろ、と自信満々なニュアンスが伝わってくる。
「調子に乗るな、マヌケ。あなたが綿の身であり、仕事中の私の負担を増やしている事には変わりないのだぞ」
「ごろっご、ごー」
「……まったく」
指先を胸ポケットに入れ、すりすりとごろさめの頭を撫でてやる。それで一応は満足したらしく、ごろさめはおとなしくなった。
「ごろ、ごろろ」
「あぁ、そうだな。これを書き終えたら、先輩と共に行う処置がある。だから先ほどのように、普通のぬいぐるみとして振る舞っていろ」
「ご! ご!」
「きちんと切り替えられるのだな。それは、見事だった」
「ごろ!」
ごろさめは嬉しそうに胸ポケットの中で跳ねると、ごそごそと動いて手足の位置を整えてから、ぴたりと動きを止めた。カンファレンスの時のように、意思も気配も感じない状態になっている。収まりの良い位置を決めて『ぬいぐるみモード』に入ったらしかった。
私は視線を落とし、ごろさめの顔を眺めた。糸で縫い取られた燕脂と薄紅の瞳、丸い眼鏡。小さな口元は決して笑顔とは言えず、どちらかといえば不機嫌そうに見える。だがそれは、周囲へ対し油断なく構える心、曲がらぬ強い意思の現れとも取れるのだった。
——私の分身とされる、不思議な綿。
「あなた……どうしてわざわざ、私について来たのだ」
仕事をしてみたい、などと述べてはいたが、それだけが真意とも思えない。獅子神の家で、番たるごろししと共に悠々と過ごす時間を犠牲にし、私に叱られるのを(運が悪ければそのまま鞄かロッカーに置き去りにされるのも)覚悟の上で、鞄に潜んできたのだ。それなりの目的があると考えるべきだった。
ごろさめの、大切なもの。綿の行動原理。
何となく分かるような気もするが、確信は持てない。私はため息をつくと電子カルテの画面に向き合い、書きかけのサマリーの続きに取りかかった。
午前中は、つつがなく過ぎ去っていった。
病棟の雑事を片付け、空いた時間には論文に目を通す。予定の処置がある時間に合わせて透視室やICUを訪れ、先輩と共に手技をこなした。外来で転倒した患者がいて、傷の縫合と検査の手配に駆り出されたりはしたが、そんなのは大したトラブルでもない。いつもの忙しさで、概ね平和な日だと言ってよかった。
ごろさめはおとなしくスクラブの胸ポケットに収まって、私のする事を眺めていた。話せる時には話をして、疑問に思ったことをあれこれと尋ねてくる。特に関心が高かったのは、医療用の針と糸を使っての縫合で、なぜ針が曲がっているのか、どうやって糸を結ぶのか、などと細かいことまで積極的に訊いてくるのだった。
「あなた、縫合に興味があるのか? やはり自分が縫われているからなのか」
「……ごろ? ごっごー」
とぼけて踊るように手足を動かすごろさめを見下ろして、私はため息をついた。
綿の考えていることは、どうにも私には把握しかねる。
「まぁいい。そろそろ昼食にするぞ」
「ごろ!! ごー!」
「今の時間なら、医局にさほど人はいないだろう。売店で何か買い足してから戻る」
「ご!」
今日は獅子神が弁当を作って持たせてくれている。栄養のバランスを整えつつ、隅々まで私の好物で占められた素晴らしい弁当だ。が、ごろさめが来ている以上、私ひとりでそれを平らげるわけにもいかない。よって売店でおにぎりでも買って、おかずも少しずつ分けてやればよいだろうと考えたのだった。
ごろさめに好きな具のおにぎりを選ばせて買って、医局へ向かう。弁当を包んでいる布を解き、電子レンジで温めて、自分の机に戻った。幸い、医局に他の者はいない。
「ごろご!」
スクラブの胸ポケットから出して机の上に降ろしてやると、ごろさめは嬉しそうにごろごろと端から端へ転がり回った。
「ごろー、ごー」
「ああ、よく頑張った」
私も些かほっとしながら、ごろさめを労った。綿の存在が知れないように、とやはり自分が気を張っていたのだと気づく。見つかった時の説明も一応考えてはいたものの、そんな苦しい言い訳はしないで済むに越したことはない(その意味では、隣の席の同期が今日外勤で不在なのはありがたかった。見つかるとしたら彼女にだろう、と思っていたからだ)。
「はしゃぐのも程々にしろ。誰も来ないうちに食べるぞ」
私が弁当箱の蓋を開けてみせると、ごろさめはぱっと起き上がって、弁当箱に駆け寄ってきた。
「ごろ!」
「いただきます」
手を合わせて、目を伏せる。
——そして、戦いはここからだった。
「ごろーー!」
「何を言う。これは獅子神が夜の間に徹底して味を染み込ませた牛肉のしぐれ煮を、形が崩れるぎりぎりまで詰めて、素晴らしい技量で整えてくれたおにぎりだ。すなわち、彼の私への深い愛が込められている。やすやすとあなたに譲り渡すわけにはいかない」
「ごろっごろ! ごろろ!」
「そうだ。何のために私が売店で、あなたにおにぎりの具を選ばせたと思う。自分で選んだものなのだから、責任を持ってそちらを自分で食すがいい。獅子神もきっとそう言うとは思わないか?」
「ご、ごご……」
「まあ、私も鬼ではない。その代わり、こちらのウィンナーと卵焼きはあなたに提供しよう」
「ごろっ、ご?」
「は? 唐揚げは私のものだ。当然だろう」
「ごろーーー‼」
小さな足で地団駄を踏むごろさめをよそに、ぱくりと唐揚げを口に放り込む。なおも残りの唐揚げを狙おうとするのを牽制しつつ、弁当箱の蓋にウィンナーと卵焼きを載せて差し出した。
「さあ、あなたのだ」
「ごろ、ご……っ」
ごろさめは唸ったが、背に腹はかえられなかったらしい。ばたたっ、と手を動かすと、ひゅっとウィンナーが口元で消えた。
「ご、ごろご」
「そうだ。獅子神が弁当用に焼いたウィンナーだからな。焼きたてとはまた違った美味さに満ちているだろう」
「ごろー……」
「フフ、理解したか? では唐揚げは潔く諦めて」
ここぞとばかりに、私が詰めの一手を畳みかけようとした時。
ピリリリリ、と院内用のPHSが鳴った。取り出して画面を見てみると、オーベンの番号が表示されている。
「ごろ?」
「オーベン……指導医からだ。要するに、仕事の先輩だ。静かにな」
「ご!」
ごろさめに言い渡してから、通話のボタンを押した。
「はい、村雨です」
『おぅ村雨。今どこだ?』
歯切れの良い早口の声が、勢いよく飛び出してきた。歩きながら話しているらしく、院内履きのサンダルが廊下を踏む音が混じっている。
「医局ですが」
答えると、すぐに声が返ってきた。
『あ、昼メシ食ってたか? すまんな、でも好都合だわ』
「……何がですか」
『すぐに着くから、そこ居ろよ。ちょっと頼みたいことがあるんだよな』
「嫌な予感しかしませんね」
私は箸を置き、空いた手で机の隅を指し示した。学術雑誌と書類が積み重ねられたその陰に、素早くごろさめが移動する。念のため、弁当が包まれていた布を上から掛けて、ごろさめの姿が見えないようにした。
からから、とオーベンが笑う声が受話器越しに届く。
『そう言うなって。手術、好きだろ? お前』
「……」
『図星だからって、照れなくていいんだぜ? もっと素直になれよ』
彼の言葉に重なって、部屋の外の廊下に足音が響く。最後の部分はPHSと廊下の両方から聞こえて、直後にばん、と医局のドアが開かれた。
「おー、ちゃんと居たなぁ。村雨」
スクラブの上下に白衣を引っかけただけの格好で、彼はまっすぐに私の机へ歩み寄ってきた。首から提げたIDカードが揺れ、前を留めていない白衣の裾がふわりと広がる。
私はPHSの通話を切って、小さくため息をついた。
「逃げたからってどうなるものでもないでしょう」
「まっ、そうだな」
「で、どんな急患ですか?」
隣に立ったオーベンを見上げて、尋ねる。
さらさらと流れるように、説明が返ってきた。
「69歳男性、コントロール不良のDMあり。ドロドロの憩室穿孔のオペ後に、癒着で腸閉塞を繰り返してる。いつもは保存で何とかなるんだが、今回は絞扼しかけててなぁ。夜中にバタバタするより、もう開けちまったほうが良いだろうって判断になった」
「……それだけですか」
「ITPもあるけど、ま、それはそこそこ。麻酔科は納得させたから大丈夫だって」
そこを突っ込むと長くなりそうだったので、私は曖昧に頷くに留めて、話の矛先を切り換えることにした。
すなわち、何故私が声をかけられるのか、という方向に。
「しかし、今日のファーストは」
日替わりで決まっている若手のオンコール当番——緊急の手術や手技が生じた場合に、真っ先に駆り出される存在だ——は、今日は私ではない。一年下の後輩が当たっているはずだった。
わかっている、という風情でオーベンは頷く。
「そうなんだけどな。アイツ、今日カミさんの誕生日らしいんだよ。整形の腫瘍のオペが終わってから搬入して、始まったら癒着を剥がしまくって……クッソ遅くなるのは目に見えてるだろ? ちょっと可哀想だし、家庭内の不和の元なんて無いに越したことはないからな。お前、明日のファーストと代わってやってくれないか」
私は表情筋が動かないように細心の注意を払いながら、内心でマヌケめ、と怒鳴った。勿論、目の前のオーベンにではなく、今日の第一オンコールである後輩に。
そんなに大切な日なら、今月のオンコール表が出された時点で、誰かに交代を頼んでおけばいいのだ。他の当直や外勤との兼ね合いで難しい場合もあるにはあるが、それにしても楽観的すぎる。結局こうして誰かに迷惑をかけることになるのだから、多少言い出し辛かったとしても、さっさと手配しておくべきではないか。
心中で文句を述べ立て、沈黙していたのは一瞬のはずだった。
だがオーベンは、私の顔を見て苦笑した。
「お前が納得いかないのは当然だよ。でもさ、ここは頼めねぇかな。村雨」
静かな、誠実な口調が、耳に痛かった。
オーベンは、私が入局した時からの指導医だ。何もできなかった頃のヒヨッ子の私を知っている、最も頭の上がらない先輩。その彼にこう頼まれると、私が断る術は無いに等しいと言っていい。
彼もそう知った上で、私に告げているのだ。
それは狡猾だとか、立場の力で押し付けているというのとは、少し違う。私達の世界ではある意味自然なことであり、これが最も円滑に回る、という判断なのだった。
そして彼は、かなりまともな人間だ。誰からも好かれる人柄で、手術の腕も良い。こうしてマヌケな後輩の家庭の事情にまで通じ、気配りと根回しをしてやる優しさを備えている。息をするように自然に周囲へ目を配り、思いやりで動ける人間なのだ。そう、誰かさんのように。
だから彼は、私に対しても、私が納得できる理由を放ってくるはずだった。読みや計算によってではなく。彼なりの当然として。
私は彼を見上げて、それを待った。
ぴくり、と隠れているごろさめが、一緒に身構えたのが伝わってくる。
大丈夫だ、と私はごろさめに向けて念じた。
心配しなくていい。
これが仕事というものなのだ、と。
はたして、邪気の無い眼で私を捉えて、オーベンの彼は言った。
「俺としてもさ、お前が助手に入ってくれた方が助かるんだよな。前立ち、頼むよ」
——これだ。
ちゃんと私の自尊心をくすぐってくる。
私を動かす術を、心得ている。
「……あなたが執刀するんですか。今日の急患当番じゃないでしょう」
「ま、俺の患者だからな」
にやりと、オーベンが笑う。至極当然だという顔つきで。
今度は、私が苦笑する番だった。
「わかりました。やりますよ」
「よっしゃ。さすが村雨」
ばし、と大きな手が背中を叩いてくる。親愛と、信頼を込めて。
私はお返しに、わざと痛そうに顔をしかめてみせた。
「あなたにそう言われて、嫌とは言えないでしょう。せいぜい早く終わらせてください」
「そりゃ、助手の優秀さ次第だなぁ。じゃあ頼むぜ。搬入はたぶん15時過ぎだろうから、また連絡する。病棟医長にも俺から言っとくから」
「了解です」
私が応えると、オーベンはひらひらと手を振って、風のように医局を出て行った。
扉が閉まり、しんと静けさが戻る。
「……ご」
隠れていたごろさめが、そろりと言葉を発した。被せていた布をどけてやると、書類の山の陰からとことこと這い出してくる。
たふ、と小さな手が弁当箱を叩いた。
「そうだな、食べてしまおう」
「ごろ」
私は箸を取り、残っていた最後の唐揚げを持ち上げた。そのまま口に運ぼうとして、思い直して弁当箱の蓋に置く。
箸先で二つに割り、半分を改めて摘まむ。
弁当箱の蓋をすべらせて、もう半分の唐揚げをごろさめに差し出した。
「ご⁉︎ ごごっ ⁉︎」
「あぁ、食べていい」
「ごろ! ごろっろ‼︎」
歓喜と共に、感謝だごろ、と意思が伝わってくる。ほぼ同時にごろさめがばたばたと手を動かすと、ヒュッと口元で唐揚げが消え去った。
「ごろー……ごろごろ……」
満足げに天井を仰ぎ、こてんと転がって腹を上にする。そのまま右に左にゆらゆら揺れるごろさめの腹を、私は指先で撫でてやった。
やわらかいフェルトと、詰まった綿の感触。いったいこの腹の何処に唐揚げが入るというのだろう。口も開かない、ぬいぐるみの身だというのに。
全くもって、この綿共は不思議に満ちている。
そして、懸命で愛らしい。
私は指先を動かしながら、ゆっくりと口を開いた。
「ごろさめ。先ほどの話は、聞いていたな」
「ごー」
「では分かったと思うが、私はこの後、緊急手術に入ることになった。そして、手術室にあなたを連れていくことはできない」
「……ご」
「今から獅子神に連絡して、あなたを迎えに来てもらう。彼が到着したら、駄々を捏ねずに家に帰れ。あなたの今日の冒険は、そこまでだ」
ぴた、と体を揺らすのを止めて。
ごろさめは、すっくと起き上がった。小さな足で立ち上がり、じっと私を見つめてくる。
「ごろ……」
糸で縫い取られ、表情が変わらないはずの瞳に、真剣な光が宿っていた。
まだ成し遂げていない、という無念の気持ちと、仕方がない、と冷静に諦める心。両方が同時に伝わってくる。だがどちらかと言えば、前者の方が大きいようだった。
薄紅と燕脂の眼が伝えてくるのは、綿の身ならではの悔しさ。
そして、寂しさ。
言葉にならないその気持ちが、私の心に響いてくる。
掴み、揺らし、共振させる。
「あなたは……何を成したかったのだ?」
ずっと疑問だったことが、自然に口をついて出た。
「こっそり職場へついて来たりすれば、私に疎まれるのは分かっていただろう。自由に動くことも話すことも出来ないし、獅子神の家で駆け回っている方がずっと楽しいはずだ。なのに、何故わざわざ」
「……ごろ、ごろろ」
小さな、しかしはっきりとした声。
「ごろっろ、ごろー。ごろ、ごろご、ろ」
「なっ……⁉︎」
思ってもみなかった答えに、私は思わず言葉を失った。
わたしもきずをなおしたい、とごろさめは言ったのだった。
ししがみたちになにかあったら、わたしがなおす。
だから、まなびにきた、と。
「馬鹿なことを。あなたは、綿だぞ。少しばかり意思を持ち、動けるからといって、その指も関節も無い手で何をするというのだ。分不相応な高望みは止めて、せいぜい身の程を弁えろ。そしてこれ以上、私の負担を増やすな」
「ごご! ご!」
「何を言う。人間の獅子神は関係ないだろう。もっと現実を見ろ」
「ごろ、ごろっごろ!」
「……いや、しかしだな」
「ごろろー、ごろ! ごろろ、ご、ろ……」
威勢よくまくし立てていた声が弱まり、言葉が途切れて。
ぷるぷると小さな体を震わせたかと思うと、ごろさめはびょん、と跳ねてこちらへ突っ込んできた。
「……っ!」
反射的に出した手のひらに当たって、べし、と綿の身が机の上に落ちる。慌てて掬い上げて顔を近づけると、ごろさめは鼻と言わず頬と言わず、ぽかぽかと私を叩いてきた。
「あ、こら、やめ……」
「ごろ、ご、ごー……! ごろ、ごろっろ!」
「わかった、すまない。私が軽率だった」
「ごご!」
「ああ、悪かった。だから、眼鏡を殴るな」
「……ごろ」
ふー、とフェルトの毛を尖らせながら、それでもごろさめは私を殴る手を止めた。頭と腹を撫でてやるとごろごろ、と応えて、じっとりと私を見つめてくる。
私はため息をついて、手のひらにごろさめを乗せ直した。
自分の目の高さまで持ち上げて、まっすぐに瞳を見つめ返す。
「あなたの気持ちを蔑ろにしたことは詫びよう。すまなかった。だから、私の話も聞いてほしい」
「……ご」
「あなたが、あなたの獅子神と友人達を大切に思っているのはわかった。自身に対するプライドもな。だが実際のところ、あなたの手で針に糸を通し、体に生じた綻びを縫い上げるのは、極めて困難だと言わざるを得ない。それに、人間と綿では体のつくりも何もかもが違う。私の仕事を眺めたところで、大して参考にはならないだろう」
「ごろっご、ごご」
ごろさめがまた、低く唸ってくる。
その額をとん、と指先で突いた。
「だから」
誠意を込めて、ゆっくりと言い聞かせた。
この小さな体で、懸命に意思を貫こうとする、健気ないのちに。
私と同じように、獅子神を愛し、友人達をいとおしむ者に。
「あなたの大切な者達の怪我は、私が治そう。その時はあなたに、私の助手を勤めてほしい」
「ご……!?」
「重要な役目だぞ。術者がその実力を遺憾なく発揮する為に、優秀な助手は不可欠だからな」
「ごろ……!」
ふるふる、と手のひらの上で、小さな綿の体が震えて。
「ごろーー!」
次の瞬間、ごろさめはぺし、と私の鼻先に飛びついてきた。
「ご、ごろろ。ごろ……」
ぱた、ぱた、と頬に手が当たり、フェルトの顔が擦り寄せられる。尖った髪先が肌を撫でていくのが、くすぐったかった。
「ああ、わかっている。だから、もう泣くな」
「ごろ! ご!」
「ハハっ、そうだな。そういうことにしておこう」
どか、と頭突きをしてきた小さな体を捉えて、そっと肩に乗せる。
指先で撫でて宥めながら、もう片方の手でスマートフォンを取り出す。獅子神へのメッセージを打ち込みながら、自然に口元が綻んでいくのがわかった。
* * * *
「いやー、びっくりしたぜ……寝てると思ってたらごろさめ、いなくなってんだもんなぁ……ごろししがすぐ教えてくれたから、よかったけど」
連絡が通じると、獅子神はすぐに車を飛ばしてやってきた。外来患者用の駐車場の隅に止められた車の中で、私はごろさめをポケットから取り出す。
「ごろー」
「ごろ!」
獅子神の肩に乗っていたごろししが、嬉しそうに立ち上がる。ごろさめはぴょん、と私の手から跳ねると、ひし、とごろししに飛びついた。
「ごろご、ご……ごろっろ……」
「ごーろー、ごろ」
「おう、良かったな。んじゃ、こっちでゆっくりしててくれな」
抱き合う二体が肩から転がり落ちる前に、獅子神が彼らを掬い上げて、後部座席に手を伸ばす。家でごろ達のベッドに使っている籐製の編み籠が、ふかふかのタオルを入れて置かれていた。
「持ってきたのか」
「ん。運転中に走り回られても危ないしな。これに収まっとくのが一番だろ」
獅子神はごろ達を籠の中に降ろすと、そっとタオルを掛けてやってから、後部座席に置いた。
運転席に座り直してから、こちらを向く。
薄青色の美しい瞳が、私を見つめた。
「……で、お前は遅くなるんだよな」
私は頷いた。
「あぁ。緊急手術だ……すまない」
「いや、いいって。晩メシ、何か食いたいモンある?」
「肉だな」
くっくっ、とおかしそうに喉の奥で笑う声がした。
「お前、ほんとそればっか」
「……悪いか」
「違ぇよ。かわいいって言ってんの」
大きな手が伸びてきて、私の頬を包む。あたたかさが、心地よい。
近づく顔を先に引き寄せて、口づけた。
「んっ……」
やわらかい唇を堪能しながら、舌をすべり込ませて、絡め合う。吐息を吸い、口蓋の奥まで舌を這わせて、今できる限りの深さで獅子神に埋もれた。
背を撫でてくれる手に、力がこもる。
獅子神の熱が、優しさが、嬉しかった。
「……っはぁ」
名残りを惜しみつつ、唇を離すと、獅子神が潤んだ眼を私に向けた。
「仕事中だろ、先生。いーのかよ、こんなことしてて」
「構わん。せっかくあなたが来てくれたのに触れもしない方が、よほど非効率的だ」
ふは、と獅子神が口元を綻ばせ、こつんと額をぶつけてくる。
濡れた唇をもう一度重ねて、二人でくすくすと笑った。
「頑張れよ、村雨」
「ありがとう、獅子神」
「無理すんなよ。ちゃんと待ってっから」
「ああ。すまないが彼らをよろしく頼む」
軽く抱き合って、頬をすり寄せて。
そうして私は、助手席の扉を開けた。
「……ごろ」
「ごー、ご」
編み籠から顔を出したごろ達が、ぱたぱたと手を振ってくれる。
がんばるごろ、と応援してくれるのが伝わってきた。
「ありがとう。あなた達もな。獅子神に迷惑をかけないように」
「ごろー」
「ご!」
車を降り、扉を閉めた。
かちん、と獅子神がロックを掛ける音がして、窓越しに軽く手を上げてくれる。私も同じように応じると、獅子神はエンジンを始動させ、ゆっくりと車を発進させた。
病院の建物の方へ歩き出しながら、駐車場を出ていく車を見送る。
愛しい恋人が綿達を乗せ、明るい家へと帰っていく姿を。
「……良いことだ」
夜になれば私も、同じ場所へ帰るのだ。
空にした弁当箱を、携えて。
皆の笑顔が待つ家へ。
「さて、と」
ピリリリリ、と院内用のPHSが鳴った。画面に表示されているのは、オーベンのPHSの番号だ。おそらく、患者の搬入が早まるという連絡だろう。
実に、幸先が良い。
「……はい、村雨です」
通話ボタンを押して応じながら、足を速める。薄青色の空の下、穏やかな風に頬を撫でられながら、ふつふつと沸き起こる闘志を笑みに変えて、私は手術室へと向かったのだった。