@monokurima
朝。窓からななめに差し込む光が、石造りの部屋に微かに舞う埃をきらきらと浮かび上がらせる。
部屋の空気はそれほど心地よいものではない。窓が開け放たれているにも関わらず、空気はそよとも動かず、湿度を含んでねばりつくようにわだかまり、ひどく暑い。
壁にかけてあった革のコートを取り、肩の部分を掴んでばさばさと振った。部屋の中によどむ空気が、無秩序にかき混ぜられる。
コートはずしりと重いが、見た目ほど暑いわけではない。つくりはしっかりしており、決して熱帯の樹海を歩き回るのに向く代物ではないが、背中の内側に礼装を納めるための薄いポケットがついている。その点において、これはこの場所における最適な装備である、とデイビットは思っていた。
礼装は、デイビットがかつてカルデアにいた頃に、同期の誰かが手慰みに編んだものだ。
それは決してデイビットのためだけに作られたものではない。7人……製作者を除いて6人か……に、何かのついでに渡されたものだった。
それほど性能がいいわけではない、単純な防寒・防暑の効果のある簡易礼装、という名目であり、その簡潔な表現が気に入った。それ以来その礼装はデイビットのコートの背中で、デイビットの背中を心地よく冷やし続けている。
(そして当然、デイビットでは到底編めないほど高度なものである。名目通り単純なものではあるのかもしれないが、単純なものほど精緻に作るのは難しいものだ。)
誰が作ったのかは、もう忘れてしまった。同期……Aチームの誰かが、他のAチームメンバーの、彼らが立ち向かう過酷な任務をほんの僅かに助けるために作ったものだ。そのことさえ覚えておけば十分だ、と。そう判断した。
ふと手を止めて、コートの内側を眺める。今日も変わらずにそこにある魔術礼装。編んだものは恐らく……83.3パーセントの確率で、もう死んでいる。
「ネヴァダの冬が恋しいか?」
不意に耳元に囁かれるまで、デイビットはその存在に気付かなかった。
眉を動かすにとどめたのは、彼の自制心と判断力あってのものだ。ともすれば反射的に飛び退いて戦闘態勢を取っていた。確かに記憶したこの声でなければ。
氷を吹くような冷たい声。
視界の端にちらつく金の髪。
「何故そう思う?」
「いくらオマエだって、この暑さには参るだろう?」
どこか歌うような調子でそう言いながら、デイビットの背中側からすいと回り込んでくる。
彼が歩くのに合わせて、固い革のブーツは石畳を叩き、金糸のごとき髪の毛は空気を撫でるように軽く揺れる。
朝の光が惜しげもなく差し込む窓を背に、テスカトリポカはデイビットに向き直った。
白い朝日を受けて、その輪郭が淡く燃えるようだ。
「おっと、質問を質問で返すのはマナー違反だったか?」
両手を大げさに広げ、薄い唇を笑みの形に曲げて、そう続ける。
朝からおしゃべりで、実に善いことだ。デイビットは本心からそう思う。
「出身を伝えた覚えはなかったが」
「いいや、聞いたさ。あれはそう……2週間くらい前だったか?」
コートを両手に持ったまま、デイビットは数度瞬きをした。そして首を振る。いくらか呆れたような調子で。
「わかりやすい嘘はやめてくれ。判断に困る」
「おおっと、人後に落ちぬ記憶力ってのは本当みたいだな」
「……試すようなこともだ」
おおかた、デイビットがいない間に彼の端末でも見たのだろう。新しもの好きのテスカトリポカは、とかくデイビットの持ち物はなんでも触りたがったし、デイビットも特段それを咎めることもしなかった。
見られて困るものは何もない。むしろ見てもらった方がいいとさえ思う。記憶の担保は、いくらあっても困ることはなかった。
やわい粘土をつまんだような細く高い鼻の先で、テスカトリポカは笑う。
「ただの雑談だ。わかるだろう? オレたちには相互理解が必要だ」
白い指先がサングラスのフレームにかかるのを横目に、デイビットはコートに腕を通した。
軽く肩をゆすって、襟を整える。背中にぴたりと礼装が添うと、そこを中心に冷たい空気が背中に広がっていくのを感じる。
体を包む不快な暑さが押しのけられていくとともに、今日するべきことが自然に頭の中に羅列されていく。
デイビットのルーティーン。
だからテスカトリポカは来たのか、と、そのときになってようやく思い至る。
恐らくいつものことだろう。だから、記憶に残しておくようなことでもない。毎日同じならば、毎日同じ答えを出せる。
やるべきことは山のようにあるのだ。この黄金樹海の一年限りの戦争には。
デイビットは顔を上げて、テスカトリポカを見る。
「さあ、今日は何をする? デイビット」
淡く燃えるような輪郭の、やはり芝居がかったように広げられた手の、その爪だけが夜を残したように黒い。
ネヴァダの冬が恋しいか?
恋しいと思ったことはない、と、デイビットは結論付ける。
それを答えることはなかった。そうして、このことも記憶に残ることはなかった。
***
物心ついてから研究所での悲劇までの間の記憶は、デイビットが奪われなかった数少ないもののひとつだ。
それはデイビットの記憶……脳、人格、あるいは魂……の奥底の方に刻まれて、何度も何度も折に触れては取り出して思い出せるほど強固なものであった。
そのために、まぶたの裏に思い浮かべるそれは、切り絵が回る走馬灯のように、ことさらくっきりと色鮮やかに見える。
たとえばそれは何気ない朝食の風景だったり、学校に行くバスの窓から見る乾いた青空だったり、しぼみかけたサッカーボールに空気を入れる父親の背中だったりする。
いつまでも続きの更新されない鮮やかな映画に似ていると思う。ある瞬間に突然、観客の手の届かない場所で暗転してしまうところなども。
デイビットの原風景とも言えるそれは、デイビット自身の為すべき膨大なタスクの中に何度も現れたが、"思い出した"ことそのものは、価値のない記憶として消えるに任せていた。
いつものことならば、記憶に残しておくようなことでもない。毎日同じならば、毎日同じ答えを出せるのだ。
忘れてしまっても、毎朝目を覚まし、文字通りの浴びるほどの偽物の日光の中で一日を始められる。
手の届かない場所で暗転してしまう映画を、今はもう泣かずに眺められる。
***
大仕事になるぜ、と、テスカトリポカは言う。
その声に滲む喜色に、デイビットまでも高揚してくるようだった。オセロトルが仕留めたはじめての得物。賢く穏やかなディノスの遺体を前にして。
何度、何十度と敗北を重ね、多くの命を無駄に散らした。辛抱強くオセロトルを指揮したイスカリと、イスカリのあらゆる面での模範であった2柱のサーヴァントあっての勝利だと、デイビットは思っている。
とはいえ、完勝には程遠い。この戦いでも多くのオセロトルが命を落としたし、手を足をあるいは臓器を喪った者は、遠からずそれに続く。テスカトリポカが納める楽園へ招かれることを信じて、彼らはそれを恐れず後悔もなく、幸福のうちに人生を終えるのだ。
とかく、彼らは自らの手ではじめての神への捧げものを得た。メヒコシティの戦士たちにとって、これは大きな一歩である。
そして、デイビットとテスカトリポカの目的にとっても。
……
「脱げるものは脱いでおけ。相当汚れるぞ」
その言葉に顔を上げると、テスカトリポカはいつもの現代風の装いではなく、黒い全身鎧に身を包んでいた。
密林の中をしなやかに戦う、ジャガーの神としての面が強く出た装束である。どこまでも黒く艶やかで、血を浴びてもすぐにはそれとわからない。
頷いて、デイビットはコートを脱いだ。セーターを脱ぎネクタイを外し、シャツも脱いで丸め、荷物の中に押し込む。
ここから先は神と神官だけの儀式である。
勇敢に戦ったイスカリとオセロトルたちは、負傷者を連れてメヒコシティへと引き上げた。きっと夜っぴて火が焚かれるだろう。闇夜を焦がす戦勝の火は、彼らが待ち望んでいたものでもあった。
先ほどまでの戦の熱気は薄れつつある一方、まさに南中たる日差しは容赦なく照り付けた。撒き散らされた血や肉片は早くも腐りつつあり、礼装を脱ぎ捨てたデイビットのむき出しの背中に早くもじわりと汗がにじむ。
「まずは肉を開く」
ベルトに挟んだ鞘から肉厚のナイフを引き抜くデイビットを見て、テスカトリポカはディノスの遺体を足で蹴りつけて強引に転がした。
比較的小柄な個体であるが、強かった。彼らの強靭な肉体は、戦意がなくとも容赦なく他者を傷つけうるものとなる。
デイビットに、見ておけ、のハンドサインをして、テスカトリポカはナックルの爪を鱗の隙間に押し込み、縦に大きく切り裂く。
脂肪の層と、密度の高い筋肉。神経と血管。その下にある鋼鉄のような骨。
爪と腕と足、全身を使って、テスカトリポカは傷口を押し広げる。滴る血がテスカトリポカの美しい金糸の髪を汚し、傷口に上体を押し込んで骨から肉を切り外しているデイビットの背中に点々と落ちた。
吹き出す汗が、血や脂と練りあわされて、顔に体にねばりつく。酷い血の臭いに鼻はとうに馬鹿になり、血混じりの汗が目に流れ込み、視界まで赤く染まるようだった。
肉まではどうにかなったが、骨を切り開くには、ナイフでは到底足りなかった。角度を変えて何度か刃を当ててみたが、試すまでもなくナイフの方が負けるだろうとすぐにわかった。
デイビットは傷口の間からはい出し、テスカトリポカを見上げる。
「代わろう」
「うん?」
「ここを折ってくれ」
「ああ」
テスカトリポカはすぐに意図を察したようだった。立ち上がったデイビットが重たい死肉を肩で支え、傷口を体で開く恰好で姿勢を整えるまで待ち、赤黒い肉の奥に覗く骨に狙いを定める。
一閃。放たれた鋭い蹴りは、金属と金属が打ち合ったような音を立てた。
まさに風のような動きだった。デイビットの目には一度蹴ったようにしか見えなかったが、その僅かな間に何度か攻撃を加えていたらしい。一瞬の後には粉砕された血と肉が煙のように飛び散り、デイビットの肩にのしかかる肉の重みが増した。
「硬いな。見た目以上だ」
白い顔を血で染めたテスカトリポカは、髪にこびりついた細かい肉片を鬱陶しそうに振り落としてから、先ほどの蹴りでさらに広がった傷口の間に体をねじ込み、細い顎をしゃくった。
デイビットは頷き、役割を替わる形で身をかがめた。蹴り折られた骨のさらに奥……とうに動きを止めている心臓に、ようやく手を伸ばす。
神への供物。その尊きひとつ目である。
その筋肉の塊に手を触れたとき、デイビットの心には、ついぞ彼が感じることを忘れていた感慨がじわりとこみ上げた。
ようやく、ここまで来た。
……そこからはさらに時間がかかった。狭い肉の間から心臓を取り出すのは難しく、結局はディノスの体を仰向けにして喉から股間まで切り開き、内臓を露出させた上で、テスカトリポカの力で骨を少しずつ砕いて心臓を摘出するような形に落ち着いた。
南中だった陽は、すっかり神殿への帰途についている。
試行錯誤して取り出した心臓は、帰り際の赤い陽に照らされ、炎のように赤く燃え上がって見えた。
「さて。取り出したはいいが……」
テスカトリポカは鼻から息を吐き、額から後頭部に向けて髪をかき上げた。
どこもかしこも血や肉や脂肪だらけで、ひどい臭いを放っている。白い横顔が赤く染まっているのも、血だか夕焼けだかわからないほどだ。
「持っては帰れんな。ここで食っちまうか」
その言葉に我に返り、そのときはじめて、デイビットは自分が放心していたことに気づいた。
それはほんの僅かな、ひと呼吸にも満たない時間であったが、そうと悟られないように、さっとナイフを差し出した。頑丈なはずのそれも、酷使に耐え兼ねてあちこち刃こぼれしている。
テスカトリポカはデイビットの方を見もせずにナイフを受け取り、迷いなく心臓に突き立てた。繊維に添って刃をすべらせ、やがて一片の肉片を切り出す。
陽を浴びて、それは黒々と赤く見えた。
天を仰ぐように顔を上に向けたテスカトリポカは、大きく開けた口に、その一片をためらいもなく滑り込ませる。
じっくりと、長い咀嚼。そして満ち足りたような嚥下。喉が動くさままでは、黒い鎧に覆われて、見ることは叶わなかった。
それでも、デイビットはその様子を、はじめから終わりまで見つめていた。
彼に捧げられたはじめての供物。
神への尊き信仰の、そのひとつ目。
ようやく、ここまで来た。
テスカトリポカのこれまでに働きに報いることができる。
「……不味い」
赤い舌が薄い唇を舐め、呆れ果てたように、テスカトリポカはそう呟く。いかにも不愉快にすがめた、神の横顔。
「あの蜘蛛にくれてやるのなら、こんなものでも十分だがな」
デイビットは、息を吸い、長く息を吐いた。血の匂いと腐臭に満ちた空気がひととき、肺を満たし、そして出て行った。
よかった、と思う。テスカトリポカが肯定するのならば、そういう言葉でしかありえないだろう、と思った。
彼の働きに報いることはできた。これからの行いをそうと定めるために、この儀式は誤りではなかった、いう意味で。
そこで、テスカトリポカはようやくデイビットを見た。
暗闇に沈みつつあるこの森の中で、瞳だけが青く涼やかに、デイビットをまっすぐに捉えている。
「オマエも食え」
否やはない。デイビットはためらいもなく頷いた。テスカトリポカは恐らくそのためらいのなさに笑い、先ほどと同じように心臓から一片の肉を切り出した。
手を差し出して、それを受け取る。それしきの動きですら、乾きかけた血が剥がれてぱらぱらと零れた。
きっと自分も、テスカトリポカに負けず劣らず、酷い臭いを放っていることだろう。
頭から脚の先まで血肉にまみれて。熱く重いディノスの心臓。そのひとかけらを享受する。
「腹を壊さないだろうか」
「ああん? オマエも見ただろう。まだ新鮮だ」
「どうかな」
「うるせえな。食えばわかるだろう。これしきのことで死にゃあしない」
デイビットはふっと微笑み、そうして、テスカトリポカと同じようにした。
天を仰ぎ、肉を口に滑り込ませる。
心臓は固く臭く、噛むことすら難儀した。硬直し腐敗しつつある筋肉。つい数時間前までディノスを活かしていた命の塊。
これはイニシエーションなのかもしれない。デイビットはそう思った。テスカトリポカに仕える神官となることへの。あるいは、この世界を滅ぼすための破壊の天使となることへの。
少なくとも、ためらいはない。後悔もない。死にゆくオセロトルたちの末期のように。
そして、この瞬間を生涯忘れまい、とも思った。テスカトリポカと同じように、臭く固い肉を噛み、飲み下した、この瞬間を。
心臓を飲み下したデイビットを見て、テスカトリポカはようやく、ふ、と目元をやわらげた。
「相当汚れたな」
その通りだろう。
「だが、いい顔だ。悪くないぜ、デイビット」
そうだ。その通りだろう。オレは今いい顔をしている。間違いなく。
なにもかも忘れていた。ただこの瞬間、この血の儀式だけに耽溺していた。テスカトリポカとふたり、同じ場所で同じ血にまみれ、同じものを口にした。
むき出しの肌に浴びた血と肉と脂肪。頬のべたつきは膠のようだ。
心を満たし、濡らす感慨。心臓が高鳴る。まるで生まれてきたばかりのよう。
テスカトリポカの隣に立つための、これはイニシエーションだ。まぎれもなく。
デイビットは笑い、ようやく、ナイフを鞘にしまった。
ディノスの体は腐るに任せられる。
太陽は休み、空には星々が瞬いていた。
***
チチェン・イツァーに足を運ぶたび、そこにはいつでもメヒコシティとは違った穏やかな繁栄と賑わいがあると感じる。
テスカトリポカの興味は、デイビットの持ち物から彼らが建てた都市の民、さらにそこを発展にさせるための種々様々な銃火器類に移りつつあるが、デイビットが興味を引かれるのは、どちらかというとディノスたちの築いたこの都市であった。
単独で行動するディノスを狙っては酸鼻極まる殺戮を繰り返すオセロトルたちとデイビットが無関係なはずはない。そのことを賢いディノスたちは理解しているはずだが、それでもデイビットがこの都市の市場をうろつくことを咎められたことはない。
それどころか、彼らはこの異邦の客人に対して、惜しむものは何もないとばかりに歓待するような姿勢を見せる。
数々の品も、話題も、時には情報も、無私の親切も、だ。
いつ来ても穏やかで、清潔な都市。サッカの時期には熱狂に包まれる、平和そのものの光景。大小さまざまな鳥脚類や獣脚類が悠然と街を行き交う様子は、デイビットの中にあるプリミティブな好奇心を刺激した。
その日、並べられた色とりどりの木の実を眺めていたデイビットに話しかけてきたのも、そのようなディノスの一体だった。
曰く、以前街の外でデイビットを見かけたときのことを思い出して、ある品を作った。興味はあるか。
そう言って、木でできた盆のようなものを差し出してくる。
そこには手のひらほどの長さの食物らしきものが、ふたつ乗せられていた。
穀物、種、乾燥させた果物などが、蜜で固められ、四角く成型されている。
「きみ、外でこういうものを食べていたでしょう」
ディノスが語る"その時"のことはどうにも思い出せなかったが(なにせ街の外に出ている時間の方がずっと長いのだ)、デイビットには心当たりがないでもなかった。
フィールドワークには必ず持っていくようにしている携行用のエナジーバーを食べているところでも見られたのだろう。火を炊かず水を沸かさずとも食べられるそれは、味も悪くないし、何より手軽なため、デイビットが積極的に口にするもののひとつだ。
確かにあれは四角くて、このくらいの大きさだ。今も鞄の中に入っている。
そのようなことを返すと、ディノスは嬉しそうに目を細めた。爬虫類めいた顔つきをしているのは間違いないのだが、彼らは非常に表情豊かで、情緒的だ。
どうぞ、と言われるままに、ひとつを手に取る。見た目よりも持ち重りがする、と感じるのは、彼らがこの大きさに詰めるべき栄養に苦慮した結果なのだろう。
……爪の隙間に、落としきれていない血の汚れが、まだ僅かに残っている。
彼らはデイビットたちがしたことを知らないだけなのかもしれない。
「よかったら食べてみて。感想を聞かせてほしいな」
頷き、手にしたそれにかじりつく。舌に広がる味は、デイビットの予想を裏切って非常に複雑だった。
蜜の甘さを想像していたが、香辛料の類も配合されているらしい。どこか混沌とした味わい。そして食感。
ひと口飲み下すまでに、時間がかかった。よく噛んでいると、種の香ばしさや果物の甘さを感じ、それがより深い味わいをもたらす。
「意外な味だ。だが旨い」
舌に残る後味、余韻までもよく味わってからそう伝えると、ディノスは目を丸くした。
「本当? 実は、賛否両論、って感じなんだ。もっと甘い方が好きっていう意見もあって」
「糖分は確かに必要だが、摂り過ぎると疲れやすくなる。あくまで個人の意見だが、携行食とするならこのくらいがちょうどいいように感じるが」
「そうかぁ。……固さはどう? ディノスの歯の形も、個体差があるからさ」
「確かに固いな。でも嫌いじゃない。咀嚼回数を増やすことは良いことだ。唾液の分泌を促し満腹感に繋がる」
「喉は乾く?」
「そうかもしれない。だが、これの元になった食物も、それなりに喉が渇く食べ物だ。そこに関しては問題ないだろう」
なるほど、なるほど、と、ディノスは素直に頷いた。デイビットの返答をよく吟味しているように見える。
「どう? 改良すれば、もっといいものができるかな?」
「ああ。むしろ試作品でこれができるなら十分だ。あとは栄養のバランスと、携行への適性……長持ちするかどうか、かな」
そう言いながら、デイビットはバックパックを探って、エナジーバーの箱を取り出す。中身がひとつ残っていたが、潰れかけた箱ごとディノスに差し出した。
「対価だ。交換しよう。文字で書いてあることは難しいかもしれないが、食べてみれば新しい気づきがあるかもしれない」
その申し出に、ディノスはひどく喜んだ。箱の文字をしげしげと眺め、パッケージに大きく書かれたいくつかの単語の意味をデイビットに訊ねた。デイビットはそれを読んで簡単に意味を伝えてやる。これはカロリー。行動するためのエネルギーの単位。これはカルシウム。骨や歯を形成するミネラル。チョコレート……カカオの加工物の味。
「すごいなぁ。おもしろいなぁ。次はきっともっといいものを作るよ。だからまたおいでね」
デイビットが食べなかったもうひとつの試作品を木の葉に包んで手渡しながら、ディノスは朗らかにそう言った。
「僕たちは、あまり遠くに行くことがないからさ」
包みを受け取り、デイビットは頷く。
あまり遠くに行かない方がいい、とは伝えなかった。
彼らがこの安全な街の近くにいる間は、オセロトルは手出しができない。単独行動をしている個体が狙われるのではなく、そういった迂闊な個体にしか歯が立たないというだけの話だ。
「……ありがとう。大事にいただくよ」
「こちらこそ。貴重なサンプルをありがとう」
文明的な会話。メヒコシティではついぞ行うことはないやり取り。
それでもこの街を、デイビットが拠点とすることはない。
その他にいくつか必要な物資を揃え、陽が高いうちにチチェン・イツァーを発った。
背中に礼装の涼やかさを感じつつ、しばらく歩いたあとに、ふと速度を落とした。
今夜はメヒコシティには戻らないつもりだったが、少し予定を変えよう、と思い立つ。
手にした食物を、テスカトリポカと分け合いたかった。
***
「はぁん。なるほど、携行食か」
メヒコシティ、神殿。デイビットの部屋の寝台で、照明の火にそれをかざしてしげしげと眺めながら、テスカトリポカはどこか感慨深げに言う。
どこか嘲り笑うように聞こえるのは、恐らく彼の語調のせいだ。
彼は真にこの出来事を面白がっている。デイビットがエナジーバーを食べている姿を見た、ただそれだけで、この成果を導き出したディノスの生命としての格の高さに。
その言葉の裏に、イスカリとオセロトルの軍勢の姿があるのは間違いない。
他人が多くを語らずとも、その心の内をなんとなく察せてしまうことを、苦しいと感じることはままあった。
今夜もそうだった。
デイビットはコートを脱いでよく払う。固い革がばさばさと空気を叩く音の合間にチチェン・イツァーでの出来事を語ると、テスカトリポカは律義に相槌を打った。ディノスが作ったエナジーバーを眺めながら。
「で、味はどうだったんだ」
「言った通りだ。悪くない。想定外の味ではあったが」
「ほお。オマエがそう言うなら、まぁそうなんだろうな」
「食べてみるといい」
コートを壁に掛け、デイビットはテスカトリポカを振り向く。寝台に腰かけたテスカトリポカは、サングラスのフレームに白い指をかけたまま、視線だけをデイビットに寄越した。どこか意外そうな表情で。
「あん?」
「お前と食べようと思って貰ってきたものだ」
素直にそう言うと、テスカトリポカは薄い眉を露骨にしかめた。なにかを言いたげに口を開き、しかしそこから吐き出されたのは、大きなため息だけだった。
しばらく黙ったあと、テスカトリポカは口角を吊り上げた。笑顔ではない。どちらかといえば、寛容、とでもいえるような顔だった。それも無理やりひねり出した類の。
「まったく、無邪気なことを言いやがる」
デイビットはそれには答えず、テスカトリポカに手を差し出した。エナジーバーを受け取ると、半分に割る。
味は及第だが、やはり長くは持ち歩けそうにない。エナジーバーはぬたりと柔らかく折れ、ゆるんだ蜜が僅かに糸を引いた。
遠くに行かない者には、想像ができないこともある。帰る家を持つ者には。
半分に折った片方を、テスカトリポカに渡した。彼が白い指でそれを受け取るのを見て、デイビットはもう半分を口に放り込む。
躊躇なく、がしがしと噛んだ。種の香ばしさと果物の甘さ。蜜とそこに練り込まれたスパイスの風味。種と穀物が両方使われているのは、栄養面を補うのと、異なる食感を楽しむための、ふたつの意味があるのだろう。
口に入れたそれを飲み込むと、テスカトリポカはおかしくてたまらない、という顔で片目を細めて見せた。
その顔を見ると、デイビットは不思議と、ディノスを解体したあの日に食べた心臓の味を思い出す。
あの焼けるような暑さ。立ち込める血と腐臭。赤くにじむ視界と、その中に佇むテスカトリポカ。
「証明のつもりか?」
「安全だ。毒もない。お前の口に入れるに値するものだ」
デイビットの言葉を、はっ、と鼻で笑い、テスカトリポカはもう一度、無邪気なことを言う、と繰り返した。
「神への供物なら、受け取らんわけにはいかないか」
そして、観念したようにテスカトリポカがそれを口に入れ、ゆっくりと噛み始めるのを、デイビットは静かに見守った。
同じものを分け合うことを、デイビットはこれまでだってしてきたはずだった。
父と食べた食事。時計塔で学生たちに振る舞われる食事。そしてカルデアで同期とともに食べた食事。
その記憶の大半が奪い去られていても。無数に重ねたひとつひとつのイニシエーションが、今のデイビットを形作っている。
そして、今分け合ったこの食べ物も。
あのときの心臓も。
白い喉が動き、嚥下するのを、今度は見逃さなかった。
「……」
「どうだった」
「……まぁ、悪くはないな」
しばし考えるように沈黙したのちにそう答え、デイビットを見たテスカトリポカは、一瞬瞠目し、声を上げて笑った。
「なんて顔をしやがる」
デイビットは瞬きをした。オレは今いい顔をしているつもりだったが。
それでも。デイビットには心当たりがないでもなかった。
他人が多くを語らずとも、その心の内をなんとなく察せてしまうことは苦しい。
自分は今どんな顔をしているのか。
滅びを待つ世界に、迷うほどの時間はないはずなのに。
メヒコシティの夜は静かだ。暗闇に抗うほどの火を焚けるほど、この街は強くはない。
夜はただ眠る時間だ。無慈悲なる凍てつく冬に、獣たちが自然に目を閉じるように。
篝火は静かに燃え、部屋の空気は昼間の熱をはらんだままそよとも動かない。
礼装がなければ、流れ落ちる汗を止めることもできないのだ。この世界では。
「デイビット」
心臓だ、と、テスカトリポカは言った。
その白い指……爪の先だけが夜のように黒いその指が、自らの左胸を示している。
「オマエが迷ったとき。あるいは、迷わなくなったとき」
しんと静まり返った部屋。篝火のはぜる音だけが微かに響くその部屋に、テスカトリポカの言葉は夜風のように涼やかに吹いた。
「心臓に手を置いて、考えろ」
迷っている。迷っていた。一体この世界のどこに存続する価値があるのかと断ずる心と、同じくらい。
この世界に有り余るほどの時間があってほしいと、そう思ってしまう瞬間があった。幾度も。
それは未来などという輝かしくなまなかなものではない。
オセロトルが真の意味でディノスに勝ることはないのだ。決して。
体はごく自然に動く。デイビットは手を持ち上げ、自分の胸、心臓の上に、そっと手のひらを当てた。
当てることができた。
「そこにオレがいる」
「そのことを忘れるな」
───ネヴァダの冬が恋しいか?
デイビットは頷いた。
遠くに行かないものには、想像もできないことがあった。
そうして、この世界の一員になるために来たのだ。この世界を破壊する天使となるために。
恋しいと思ったことは一度もなかった。そのはずだった。
オレは一体どこから来たら、そうなることができたのだろう。
我々はどこから来たのか