1/11インテ大阪にて頒布する傭占(砲兵×人間になりたい虎)の新刊サンプルです。 A5サイズ total56P(★NOVEL ONLY★) ※全年齢対象 表紙担当:れちさん 価格:600円 ファンタジー世界戦(鎌田コラボに沿っています) 捏造しかない、尊厳破壊、メカバレあり ※本編ではキャラクターがかわいそうな目に遭っていますので、苦手な方はご注意ください
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香ばしくて、いい匂いがする。
柔く解けていた意識が、鼻を掠める香りに呼び戻されていく。思わず、鼻が小刻みに動いた。―――焼きたてふわふわのティンブレッドに、黄身がとろりと蕩けるエッグ………それに、カリカリのベーコン!
匂いのもとを確信した瞬間にぱちりと目が開いた。くぅ、と悩まし気な音を響かせたのはこのお腹だ。空腹の誘惑に敵う筈もなく、半覚醒状態だった身体は半ば置き去りに、ふらふらと匂いのする方へ吸い寄せられていった。
煉瓦造りの壁を手で伝い、自分に宛がわれた寝室からキッチンへと歩いて行けば、じゅうじゅうという音と肉の脂の焼ける匂いが強くなっていく。廊下から、そっとキッチンの中を覗き込んだ。
火にかけられた脂がぱちぱちと跳ねる音に、彼の尖った獣耳が反応している。丁度出来上がったのだろう、ベーコン入りのフライパンを持ったままくるりと振り返った。
「お、来たな」
「なんだ、分かってたんだ」
彼は機械の手にフライパンを持ち、「おはよう」と挨拶した。つまらなさそうに口を尖らせ、倣うように返す。悟られないよう覗いたつもりだったのだが何時も彼には気づかれてしまうのだ。こっそり忍び寄って先に朝の挨拶をしてやろうという目論見は無事失敗に終わってしまった。バレてしまっては仕方がないと、大人しくキッチンへ足を運ぶ。
「早起きだな、記録更新じゃないか?」
「こんな美味しそうな匂い、放っておく方が失礼だよ!」
テーブルには予想通り、皿に装われたパンとエッグが待っていた。遅れて、フライパンからこんがりとしたベーコンが乗せられていく。食欲をそそる匂いが湯気と共にふわりと香り立つ。涎が垂れそうになる私を見て、彼―――ナワーブは頷いた。
「なるほど、虎は鼻が利くらしいな」
マグカップにミルクを注ぎ、テーブルに置いてくれる。コトン、という小さな音にも、その耳が動く様を見た。
「そう言う君は耳が利くんだ?」
こそこそとやって来た虎の微かな音にも気づいたくらいだから、彼の種は聴覚が鋭敏なのだろうか。素朴な疑問を口にすれば、特別耳が働くわけではないと否定される。ならどうしてと首を傾げる私に、ふっと笑みを零した。
「あんたがわかり易いだけだよ。
さ、腹ペコな虎さん。召し上がれ」
何か反論しようとした筈が、食事を促す合図にすべてどうでもよくなってしまった。待っていたとばかりに目の前の御馳走にありつく。どれだけ数を重ねてもこの刺激的な味わいは新鮮だ。少しずつ慣れ始めた食具を使い、噛み付くようにして口に運ぶ。舌が痺れるような味と香りは香辛料と言う植物素材の仕業らしい。小さく潰してエッグやベーコンに振り掛けると、食物のまろやかさの中にぴりぴりとするような感覚を合わせることができる画期的な代物だ。………だけど、油断して鼻を寄せてしまうとくしゃみが止まらなくなるので、とっても注意が必要だ!
こうして味気のある物を咀嚼していると、初めて彼の手料理を摂った時の衝撃を思い出すことがある。
此処で厄介になるまで、虎―――イライは〝食事〟というものが何なのかを知らなかった。自生している果物や木の実を齧り、鹿や兎の干し肉を噛んで生活していたのだ。火というものの存在は知っていても扱い方は分からなかったし、調味なんて複雑なものはもっと存じ上げなかった。
つまるところ、相当の田舎者―――と言うより野性的な生活をしている獣人―――だったのだ。
「食欲があるのは元気な証拠だな」
「君のごはんが美味しいんだから仕方ないよね」
「呑気なやつ。俺たちが見つけていなかったら今頃どうなっていたんだか」
ナワーブは黒くて苦い飲み物―――珈琲を啜り、息を吐いた。当時どれほど肝を冷やしたのか、その表情から察するには十分であった。
田舎者の虎が何の因果でこの機械仕掛けの都市国家【霧の国】へ訪れることになったのか………それは実のところ、当事者である私自身にも謎であった。道中出会った獣人の伝手であったのか、可能性は極めて低いが、ただ単に迷子になってしまったのか。暫く前に住処から旅立ったことは確かだが、此処に行き付くまでの経緯は何一つ思い出せない。
ただ事実としてあるのは、私が【霧の森】という場所で行き倒れていたところを、彼に助けられたということだった。
と、眼前で金属製の掌がひらひらと揺れている。
その手を掴もうとすれば、すいっと避けられてしまった。急にどうかしたのかと問えば、此方の台詞だと言われた。
「手が止まってたから」
「ごめん、ちょっと考え事」
珈琲を飲み終えていた彼は席から立ち、カップを濯ぎに行く。ぼうっとしていた私に背を向けながら、「本当に野生で生きていたのか?」だなんて意地悪を言っていた。
「本当だよ、それは覚えてる」
慌てて残りの食事を平らげ、ナワーブの元まで食べ終わった後の食器を運ぶ。道中皿を落としてしまいそうになった様子を見て、苦笑していた。
「へぇ、それにしちゃ危なっかしいことで」
達者な口ぶりが気に食わないが、もっともなことなので何も言い返せずに終わった。元気は有り余っているのに、身体が思うように動かないことがあるのは事実だった。………それに、これ以上皿を割ってナワーブに迷惑をかけるのも居たたまれないので、大人しく引き下がることにする。
森で私を見つけた直後に、急ぎお医者様というひとへ診せてくれたらしく、目立った外傷はなかったそうだ。それでも暫くは元気になれるか様子を見ていないといけないそうで、身体の安全が確保できるまではナワーブの家に泊めてもらうことになった。
彼は日中に出かけていることが殆どと言っても、たいそう献身的に世話を焼いてくれた。温かい水―――お風呂なんてものがあるのも驚いたし、あわあわした石鹸にはもっと驚かされた。それに、夜はふかふかの寝床―――ベッドで暖かくして眠りにつくことができて、つい寝坊してしまったのも記憶に新しい。お昼をとっくに過ぎた頃に目を覚ましても、ナワーブは「よく眠れてよかったな」と笑うだけだった。買い物というものに付いて行ったこともあるが、働いて稼いだお金を使って物を交換すること、と説明された。細かいことはよく分からないけれど………私が割ってしまった皿も、新しいものをお金と交換しているのを見たことがあるので、家の物を壊してしまわないように気をつけようと思った。
ナワーブが食器を片付け終わると、壁に掛けられた時計を見た。カチコチと規則正しく立てられる音が最初はとても耳に響いて仕方がなかったのだが、今では随分と気にならなくなっていた。彼はハンガースタンドからスカーフとゴーグルを取り、慣れた手つきで装着していく。服の穴から通された三角の耳や縞々の尻尾が乱れていないかも確認していた。機械の両腕は蒸気機関という仕組みらしく、指の一本一本の関節に至るまで器用に動かせるのが不思議でならない。
「もう行くの?」
「あぁ」
―――【霧の国】はその外周を【霧の森】に囲まれた、孤立した国家なのだそうだ。濃霧は原因が知れず、三メートル先を見渡すことができるかできないかという程に視界が悪い。さらに、どれほどまで森が続いているのかも分からないという。それ故、【霧の森】の探索を行い、情報や資源を持ち帰ることで生計を立てている探索隊が居る。かくいう彼もその一員らしく、朝早くから仲間と共に森へ赴き、陽が落ちるよりも早くに帰還してくるのだ。
「私も行きたいなぁ」
「なら、医者先生に同じことを言って打診してみるといい」
無茶苦茶を言う口だ。最後にお医者様に会ったのは、つい一昨日のことなのに。
ずっと家にいるから身体が鈍ってしまいそうだというのもあるが、一番は自分が行き倒れた森の周辺を調べ、旅立つ方法を模索したいからだった。
【霧の国】はこれまで他国からの来訪者はただの一人もなく、また逆もしかりだった。つまり私は半ば、この国に閉じ込められるような状況になってしまったということだ。旅を目的としていた者にとって、それは非常に拙いことである。出来るだけ早く元来た道を探し、この状況から解放されたい―――そんな葛藤が、駆け巡っていた。
相当苦い顔をしていたのだろう、ナワーブは手にスカーフを巻き付け、フード越しの虎の頭をぽんぽんと撫でてくれる。
「何か見つけたらちゃんと教えてやるから、な?」
「分かったよ、いってらっしゃい」
「しっかり休んでおくように」
普段素っ気ない言葉が多いけれど、声色はいつだって優しい。【霧の森】で泥んこになって倒れていた余所者に自分から居場所を与えてくれたし、何だかんだ言ってとても頼りになるひとだと感じている。私を拾ってくれたのが彼で、本当に僥倖だった。
余韻の残る朝食の香りと窓越しの―――曇り空から差し込む白い陽光に、改めて一日の始まりを自覚させられる。玄関扉の閉まる音を聞きながら、何も〝視る〟ことのできない眸を閉じた。
・・・・・
この国へ来るに至った経緯はちっとも覚えていない………と言ったけれど、住み慣れた場所を離れることにしたきっかけだけははっきりと覚えている。
〝人間に、なりたい〟。
彼らの【故郷】へと帰り、新たな風に吹かれたい。
………まだ母が健在であった頃、私は初めて猛烈な憧憬を抱いた。洞穴のような住処で身を寄せ合い、幼い子虎を寝かしつけるため、母は毎日様々な話を聞かせてくれたものだ。童話のような物語や経験してきた事柄など、無垢な虎は微睡みながらも、それらに胸を高鳴らせていたものだった。
そして、あるときこんな話を聞いた。
―――〝人間〟は、我々獣人が行きつくことのできる進化の終着点である。獣が獣人に進化した過程のように、獣人たちは今日日、その過程の最中に居る。
その奇跡を起こすことができる者はほんの一握りであるが、人間になることができた暁には、潜在意識に根付く彼らの【故郷】へ辿り着くことができるという。多くの未知に溢れた地であるが、飢餓や争いなどは無縁で、四季の移ろいや娯楽を楽しむことのできる理想郷だと言い伝えられているらしい。
幼き日の私は眼を輝かせ、人間たちの夢のような【故郷】に想いを馳せた。虎たちの暮らしは楽なものではなく、食うに困ることや雨風に耐え冬の厳しさに震えて過ごすことも多かった。生理的な欲求を充たすことにしか生命を費やすことができなかったのだ。強いて楽しみを挙げるとするなら、母の寝物語くらいのものだった。故に眸を閉ざしてみても、理想郷がどんな場所なのか予想すらできなかった。
明くる日、虎は生まれて初めて、吹き抜ける風に思考を巡らせることをした。森暮らしで無知な虎が簡単にできる娯楽はそれだけだった。風は嵐を教えてくれる情報でもあるが、時に天敵ともなり得る。しかし存在自体を意識してみれば、ふわりと柔らかく頬を撫でて通り抜けていくそれが、何処か心地良い。ふとした瞬間こういった心地よさを豊かに感じ取ることができることこそ、理想のひとつなのだろうと知った。
誰も知らない地には、知らない風が吹いているに違いない―――それに触れてみたいと思った。それだけの、拙くもたいそうな理由である。
母が息を引き取って暫く後、唯一の血縁との別れを十分に惜しんでから、人間になる方法を探すためひとり旅に出た。方向など分からないが、自慢の鼻と〝眼〟があったので心配は無かった。
〝天眼〟―――私が生まれながらにして持ち合わせた、特異な能力である。時に未来が視え、ゆくべき方向を指し示してくれるこれは、これまで大いに役立っていた。旅の中でも成果を発揮してくれることだろう。眸の示した方向へ只管に歩く。途中で霧が目立ち始めたりしても何ということは無い。普通の獣人なら苦労したのだろうが、何かにぶつかることも方角を見失うことも無かった。まだ見ぬ場所へ向かう足取りは、自然と軽い。
………記憶がぷつりと途絶えたのは、この後からだった。
重鈍く揺れる視界で目が覚めた時には柔い寝床に横たわっており、【霧の森】で倒れていた私を保護したナワーブが、看病をしてくれていた。彼との共同生活が始まったのは、この頃からの話である。
―――そしてこの出来事を境にして、私の天眼は〝映さなくなってしまった〟。
視力そのものには何の問題もない。しかし、何度試しても未来や道を視ることは叶わなかった。【霧の森】探索を焦るのには理由がある。下手をすれば私は、生涯此処を離れることができなくなってしまうかもしれない。
あの濃霧の中に、天眼を妨げる何かしらの要因があるならば―――一刻も早く突き留めたかった。
・・・・・
ふらり、ふらり―――
模様の入った尻尾が振り子のように揺れ、革張りの椅子を柔く擦る。腰掛けた虎は足をぶらつかせながら、壁に掛けられた標本や装置を眺めていた。夕方を過ぎ、部屋には暗がりが降りつつあったが、それでも彩り豊かに煌めくそれらはよく見える。
羽根の透けた色とりどりの蝶々や、変な形の植物が入った硝子瓶………用途が分からない歯車だらけの装置は、壁に這うようにしてパイプがくねっており、時折メーターの針が左右に動いている。これらはすべて、ナワーブのお手製らしい。流石は機械仕掛けの都市国家というべきか、民も機械弄りが得意なようだった。
標本や瓶の方は、彼が【霧の森】で採集してきたお宝なのだそうだ。探索中、初めて発見したものがあったときは持ち帰り、こうして大切に飾っているらしい。土地が変われば動植物の生態も変化する。それは謎に包まれた地の探索が、一歩ずつ着実に前進しているという何よりの証拠でもあった。
ギィ、と扉の開く音で、揺れていた虎の尻尾がぴんと持ち上がる。家主の御帰還を察知し、すぐさま出迎えに行った。ナワーブはタオルで顔を拭き、尻尾に付いた露を払っているところだった。
「おかえりなさい、遅かったね」
出迎えに短く返し、此方を見る。低く声を漏らしたかと思うと、傍に在ったブランケットを虎の肩に掛けてくれた。
「此処寒いんだから、そんな恰好してんなよ」
微かに細められた瞳が、虎を薄いピーコックの蒼に染めていた。彼の眼に映る私は仄かに鼻先や頬が赤く、確かに少し寒そうだった。
「君のが寒いだろうに」
「俺はいいの、慣れてるから」
確かに彼の顔色は普段と遜色なかったが、身体のいたる所が霧でしんなりしている。対して虎の毛並みはまだふわふわしているのだから、ナワーブにこそ使って欲しいものだった。
耳や尻尾を丁寧に拭く様を横目で見つめていると、機械の腕の後ろ側に、枯葉がくっ付いているのを見つけた。彼の気がつかないだろう位置にあったため、そっと手を伸ばして葉の柄を摘まむ。と、素早く一歩分離れられてしまった。
「こら」
「だって、枯葉が付いてたから」
悪気があった訳ではないが咎められてしまった。ナワーブは腕に触られることを極端に嫌がる。肩を竦め、手に持った葉っぱをおずおずと差し出した。
「そんなもののために火傷をつくることはないだろ」
機械の掌を身体の後ろに隠し、大きな溜息を吐く。彼の両腕は蒸気機関という特殊な機械らしく、お風呂の時に出る湯気と同じようなものを沢山利用しているため、部位によってはとても熱くなることがあるそうだ。極力自分以外のひとに触れないようにしたり、触れなければならないときには布を巻いたりして、直の接触は避けているようだった。自分に厳しいところがあるのは元来の性格なのだろうが、こと他者を傷つけるような可能性があることには一倍敏感だった。
「えっと、勝手に触ってごめんなさい」
再三注意されていたことを破ったのは虎だったため、素直に謝罪を口にする。いつもよりしおらしくなった様子に、ナワーブは二度ほど瞬きをし、ばつが悪そうに目を逸らす。
「………いや、あんたは気遣ってくれただけなのにな。
悪かった、ありがとう」
こう言えば少しでも機嫌を直してくれると踏んだのだろう。虎が単純な性格であることをよく理解している。ほっと胸を撫で下ろす私自身が、それを証明していた。彼の少し戸惑うような仕草を見る限りそれが本心であることもよく分かる。他人のことを言えないくらいには、ナワーブも純粋であるのだろう。
彼の後を追うようにして居間へ向かう。先程虎が眺めていた機械の一部にスイッチがあり、彼がそれを押すと部屋の真上から橙色の暖かな光が灯った。寒い部屋にふと虎の居た痕跡を見つけたのだろう、じとりとした目で私を見つめる。
「まさかとは思うが、ずっと此処に居たんじゃないだろうな」
「あはは………」
「はぁ。次から電気とストーブは点けたまま出るようにする」
金属製のストーブを点火させ、ひんやりと肌寒い部屋にあたたかな空気が満ち始める。濡れた服を火の前に干し念入りに腕を拭いた後、新しい服に袖を通していた。
「珈琲……いや、あんたはホットミルクか。飲むか?」
「飲む!」
ストーブの上にポットを置きミルクを温めている。ナワーブ曰く慣れた者の横着だそうなので、虎は真似しないようにと釘を刺された。
マグカップを用意する手の関節が時折、カチャカチャと高い音を鳴らす。悲鳴のようにも聞こえるそれが、少しだけ切なく感じられる。
―――数年前、勇気あるレッドパンダの若者は志を同じくする者たちと【霧の森】探索に向かうようになった。彼らの冒険は順風満帆で、毎日が未知に溢れたものであったそうだ。探索地には目印を刻み込み、次回にはさらに奥へと進んでいく………そんな充実した日々を過ごしていた。
しかし、彼らはその順調さが故に【霧の森】の恐ろしさを軽視していたのかもしれない。森にはごく稀に〝罠〟が仕掛けてあることがある。外界の者の仕業か、はたまた先住の民が仕掛けたものか、あるいは別の何者か―――子細は不明だが、そのどれもが精巧で明らかなる殺意を秘めたものである。探索に向かう者たちは、未知の場所にはこれらが仕掛けられていることを大前提として、石橋を叩くように進まなければならない。ある時、同士の一人が油断ののち、頭上に吊るされていた無数の刃物が降る瞬間を見た。その傍にはレッドパンダの若者の姿があり、長年の探索により研ぎ澄まされた聴覚をして、仲間の危機を瞬時に察知した。
反射的に取った行動は、仲間の身体を遠くに押しのけ―――自らがおびただしい鉄の雨を浴びることであった。
助けるため伸ばされた腕は一番に切り刻まれ、次いで肉体に傷がついていく。それでも彼は生を諦めず、なんとか獣体の急所を避け、死は免れることができたそうだ。………でなければ、ナワーブが今目の前にいることは無かっただろう。
一命は取り留めた男だったが、両腕は神経を傷つけられ、もう使い物になってくれなかった。それ故、仲間の技師の元で機械の腕を作らせ、自分の動かしやすいように改造を重ねた結果、今のような姿になったという訳だった。
レッドパンダの青年は火の近くに陣取り、その灯りを見つめている。私はテーブルに伏し、顔だけを彼の方へ向けてみた。濡れそぼっていた毛並みは既に乾き始め、ストーブの稼働する音に、獣耳がぴくぴくと反応しているのが見えた。
「ナワーブ」
「ん」
「怖くないの?」
ぽつり、と零れるような疑問だった。投げかけるつもりは無かったのに、もう口にしてしまっていた。
灯火に向かっていた眼差しが、ゆっくりと此方を捕らえる。何を、と言わずとも私の言葉が何を指しているのか読み取ってくれたようだった。
言葉にした後で、焦りが募る。もしかして虎は、彼にとってたいそうなことを言ってしまったのではなかろうか。「馬鹿にするな」と怒られるかもと身構えたが、当の本人は意外にも眉ひとつ動かさない。口の近くに手を近づけ、考える仕草をしながら首を傾げる。
「そりゃまぁ、怖かったよ」
尋ねたのは私の癖に、「怖い」を表す言葉が出てくるなんて想像したことも無かった。ただ正直、その言葉を望んでいる虎も居た。口が悪いこともあるが、彼はとても良いひとだ。死ぬような思いをして両腕を失い、今度は機械に挿げ替えてまで無理に探索に出向く必要はあるのだろうか。虎の立場でものを言うのはたいそうおかしな話だが、ナワーブが必死に消耗するだけの日々を過ごしているのではないかと、何処か同情的に見ていたのかもしれない。
暫く心を落ち着ける時間を取ってみたらどうかと提案しようとしたとき、彼の口は「だが」と逆接を紡いだ。
「このまま諦めたとき、俺には何も残らない。
待っているのは退廃的な生活だけだ」
パチン、とストーブの薪が燃えている。機械の両腕を撫でるナワーブの眸は、何処か誇らしげだった。
「そう思ったら、怖くなくなった」
「何が君を、そこまで―――?」
「あんたになら理解できるさ」
とは言われても、頭の悪い私には分からない。一生懸命答えを探してみたが、やっぱり思いつかなかった。おろおろする虎を見て、目を細める。此方をしっかりと向き直り、真っ直ぐに見据えた。
「あんたは〝希望〟だよ、イライ。
俺たちが目指してきたものが間違ってないって、証明してくれたんだ」
―――〝希望〟―――
目を、見開く。毛が逆立ち、瞳孔が開いていくのがよくわかった。懐かしくも真新しくもある感情だ。
それは、私が〝人間〟を―――【故郷】を目指したあの日に抱き、今日……今この瞬間にも持ち続けているものだった。そう考えれば、何も難しい話ではない。
形は違うが、彼も私と同じだ。
まだ見ぬ地を求め、ずっと旅をし続けているんだ―――。
ピィ――と甲高い音がした。ストーブの上に置いていたポットが温かくなった合図だ。それを手に、彼はテーブルの方へ近づく。置いていた二つのカップへ、熱いミルクを慎重に注ぎ込んでいった。片方には棚から取り出した蜂蜜を、もう片方には珈琲の粉末を入れて掻き混ぜる。
「猫舌だろ、少し冷まして飲めよ」
「ありがとう」
両の手に収まったカップを、ぼんやりと眺める。覗き込む顔にあたたかい湯気が触れ、霧散していく。ほんのり甘い、思わず泣きたくなるような香りが鼻腔をくすぐった。
―――何もかも、吐き出してしまいたい。
「私………未来が、視えるんだ」
珈琲を運んでいた手が、ぴたりと止まる。ナワーブの眉が訝しそうに歪んだ。
「占い師の真似か?いきなりだな」
想定通りだった。だから今まで、吐き出すことをしなかった。簡単に信じて貰えるなんて思っていなかったし、私が彼の立場だったとしても同じことを言っただろう。それでもこう言うしかない。しゅるり、と軽い布擦れののち、細かい網目状の布越しだった視界が清明に開けていく。
「信じて」
肉親以外の前で初めて目隠しを外した。そうしないと、この眸が見たくないものまで視せてしまうからだった。
男を見つめ、視線を交わして訴えかける。イライはナワーブを信じることにした。故にナワーブにも、イライを信じて欲しかったのだ。
彼は、何時になく真剣な態度に気圧されている様子だった。困惑こそすれ、疑念の表情は見当たらない。そして、大きく溜息を吐いた後、珍しく観念したような表情を浮かべていた。
「話してみろ、聞いてやるから」
・・・・・
対面するように座り、各々のカップを手に、言葉を交わす。涙ながらに、総てを詳らかに話していた。ホットミルクがすっかり冷めてただのミルクになってしまうくらい長い間、抱えきれなくなった不安と葛藤………それから、虎を虎たらしめる正しく〝希望〟について語った。ナワーブには、以前から話していたことではあったが、私の生涯にとってどれほど重きを置いているものかを示すことに必死だった。
ぐずぐずと鼻を鳴らす姿はきっと見苦しかっただろうし、余裕を無くして切羽詰まった言葉は聞き取りにくく、理解しづらかったことだろう。それでもナワーブは、嫌な顔ひとつせず話に三角耳を傾けていた。
そして私は最後に、どうか探索に同行させてほしいと申し出た。外に出る方法も探したいし、記憶をなくしたことや未来が視えなくなったことの手がかりも掴みたい。時が経てば、当時の状況は薄らぎ、濃霧に葬り去られてしまうかもしれない。一刻を争うのだ、としゃくりあげながら訴えかけた。どうすれば同行を許してもらえるか分からなかったので、一生懸命に頭も下げた。これで駄目なら―――もう、ひとりで家を飛び出す他ない。内心でそう決意を固めていた。
………身体が小刻みに震えているのは武者震いというやつに違いなかったし、尻尾が床についているのは勿論………冷静であることを主張するために決まっていた。
ゆっくりと顔を上げて、男の顔色を窺う。
ナワーブはカップを傾け最後の一口を啜ると、こくりと喉を鳴らす。空になったそれを机に置き、今まで引き結ばれていた口を開いた。
「ひとつ、条件を出す」
椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づく。機械の手が触れないよう後ろに組み、私の顔の傍で芯の通った声が響いた。
「俺の傍を離れないこと、これだけ。
………できるか?」
一瞬だけ、胸の辺りがざわつくような、変な気分がした。
凛とした迷いない言葉だったのに、此方に問いかけるときにだけ、懇願するような切ない色を帯びている。まるで〝不可〟を紡ぐことを、心から哀しむようなそれだった。
何処までも過保護で、お人好しなひとだ。そんな優しい彼を前にして、私の答えが〝不可〟になる筈がない。
「できる……っ!」
「よし」
ピーコックグリーンの眸が、安堵を示して不器用な微笑を模る。それを見てほぅっと息を吐き出せば、眼前に小さな布―――ハンカチを差し出された。
「拭ってやりたかったけど、何せこの手だ」
おずおずと受け取り、自分の眼に当てていく。鼻に触れたハンカチからは石鹸の香りと、微かな歯車の匂い………それに染み付いた深緑の香り―――ナワーブの匂いが嗅ぎとれた。
こっそり深く吸い込むと、旅立つ前のあの森を思い出す。時折彼に懐かしさを覚える気がしていたのは、匂いが似ているからだったのか。とても、安心する。
目頭がじんわりして、鼻の奥がツンと痛む。折角止まった筈の涙が、またぽろぽろと零れてしまった。ハンカチが雫を吸い微かに変色していくのが、勿体なく思えた。
穏やかな表情で見つめるナワーブに気づいて、慌ててごしごしと擦るようにして拭う。
「泣き虫だって思ったでしょ」
「泣きたいときくらい誰にだってある」
「うぅぅ」
「おい、これじゃ俺が泣かせたみたいだろう……」
困惑する様子が少し面白くて、虎は泣きながら微笑む。何時もは此方が揶揄われてばかりなのだ、たまにはこういうときがあってもいい。
何時訪れるか分からない旅立ちに想いを馳せ―――ほんの少しだけ名残惜しさを抱く心臓が、締め付けられた気がした。
***
早起きは得意じゃないから、きっと呆れた顔の彼に起こされてしまうのだろうと考えていた。しかし予想に反して、この日ばかりはすっきりと目覚めることができたのだ。勿論ナワーブには「意外だ」などと言われてしまったのだが、それほどまでにこの門出に並々ならぬ思いを持っていたということだろう。
野性を離れ、此処で彼と生活を共にする中で………風を感じるのとはまた違った〝理想〟を知った。のんびりするのは、悪くない。がむしゃらに生きて狭まっていた視界が急に柔らかく開けていくような感覚に、心があたたまった。
けれど前に歩き続けなければならない。貪欲で世間知らずで、実現困難な茨の道だったとしても、その道を往くことを望んでしまったのだから仕方が無い。
温かい朝食を摂り、曇天から朝陽が差し始めた頃に家を出た。ナワーブは普段通り身軽な装いだったが、腕には金属が見えないほどしっかりと布を巻きつけていた。対して虎はというと、口酸っぱく言われたお陰で肌一つ見せない防寒っぷりだった。極めつけにもこもこのファーコートを持って来られたときには流石の虎も全力で拒否を示し、渋々今の恰好で及第点を出された。
【霧の森】へ行くには、国外への唯一の出口である門を越えなければならない。森は危険なため例外を除き許可が無ければ通過することはできないが、探索隊はその例外のひとつであり無条件で通行できるそうだ。何があったとしても自己責任になることを覚悟するという規約に則っているが故らしい。探索隊にとって、命を掛けることこそ誉とする者も少なくはないようだった。
けれど、中には名誉よりお金が大切な獣人も存在するらしい。ナワーブの仲間と合流した際、歯に衣着せぬ物言いをしてきたトビネズミの獣人が居た。「探索は遊びじゃないんだけど」と虎を一瞥する様子には、能天気な虎も流石に気まずく感じてしまった。ナワーブや他の仲間が宥めてくれて助かったが、やはり別行動を提案するべきだっただろうか。
―――国外への門扉は獣人の何倍もの大きさがあった。【霧の国】の周囲には高い塀が伸びているが、上空より霧が立ち込めないのには台風のような特殊な風向きが影響しているのだと聞いた。故に私はこの時、【霧の国】や【霧の森】の所縁となった自然現象を、初めて目の当たりにすることとなった。ゆっくりと開かれていく扉の隙間から、重苦しい濃霧が這い回るように漏れ出る。とぐろを巻きながら此方に忍び寄る様は、形の無い大蛇のようでもあった。
向こう側の景色を見渡そうとしたが、どこまでも白い靄が続いているのみで見渡すという行為すら難しい。足を踏み入れ直接見ようとしなければ、森であることすらも疑わしいだろう。
「行きましょう、逸れないようにね」
ムササビの獣人の音頭に各々が歩を進め始めた。隊の半数は可愛らしい女性の獣人だったというのに、恐れるような仕草は微塵も感じられない。歴戦の探索家にとってあの霧の向こうこそが日常のようなものなのかもしれない。この瞬間異様な空気に尻込みしてしまうのは虎だけであった。皆が迷わず門を潜っていくのに、無意識に脚が止まってしまう。
一部の記憶を失った私は、この光景を知らない。それなのに、この痛いくらいの胸騒ぎは一体何なのだろう。天眼は相も変わらず発動しないが、眼の奥が脈打つように疼き、チカチカと明滅する。頭の中で警鐘を鳴らすのは、危険と隣り合わせの冒険と知っているからか、それとも―――。
「いい度胸だな、初日から条件を破るつもりとは」
前方から届いた声に、はっと我に返る。扉を潜ろうとしたナワーブが脚を止め、此方へ振り返っているところだった。聞き慣れた声に引き戻され、少しは症状が緩和されたが、それでもまだ心臓がどきんどきんと強く拍動している。
「どうした、具合が悪いのか?」
「この霧を見たら、すごく心がざわざわしちゃって」
只事ではない様子だったのだろう。彼にはいつも心配をかけていた。私がしっかりしないとナワーブに迷惑をかけてしまう。そう思って「もう大丈夫だから!」と精一杯の笑顔を繕った。ナワーブは少しの間、黙ったまま虎を見る。
―――す、と此方に掌を差し出す。
布が巻かれているとはいえ、彼がその手に触れることを許したのはこれが初めてのことだった。反射的に伸ばした手が、中途半端に宙をそよぐ。触れるなと言われていたものに触れていいと言われると、調子が狂ってしまうものだ。
「早く」
「わ」
痺れを切らしたナワーブが、私の手を掴み取った。金属でできた硬い掌なのに、血が通っているみたいにあたたかい。蒸気機関のせいだと分かっていても何故か心が弾む。石鹸の泡を飛ばしたときのような、ぷかぷかと浮かぶみたいな心地がした。ナワーブが、目をまん丸にしてぽつりと零す。
「柔らかい手」
「む、肉球の名残りだよ」
「そうか」
ふとましいという意味で取られたのなら心外だ、と今一度文句を言おうとしたのだが………優しく細められた眼差しを見て、浅慮な考えを捨て去る。もし褒め言葉だったなら、なんて不器用なのだろう。けれどその不器用さに助けられることがあるのも確かだった。気づけば動悸は嘘のように消え失せており、手を引かれるままに門を潜った。
・・・・・