@kojika2018
安室透が、喫茶ポアロで働き始めて、ひと月が過ぎようとしている。二階の探偵事務所の見習いという触れ込みで入ってきた安室に対して、梓は当初、歓迎の目を向けてはいなかった。梓がポアロで働き始めてから、マスターは数人のアルバイターを雇ったが、長続きする人はいなかったのだ。だから梓は、安室もすぐ辞めるだろうと考えていた。
しかし、安室は梓の思惑とは裏腹に、初日からその力量を発揮した。とにかく覚えがいいのだ。一度教えたことは忘れない。気が回るし、ひとつひとつの仕事が丁寧だ。舌がいいのか、味付けも失敗しない。気のいい性格で、嫌みなところがない。これは、いい同僚が入ってきてくれた、と梓は当初の考えを引っ込めた。
――しかし、完璧と思われる安室だが、ひとつだけ難点がある。
「昨日は、急なお休みありがとうございました」
早番でキッチンに立っている梓に、ポアロに入ってきたと同時に深々と頭を下げる安室に、梓は目を向けた。
――そう、この男、急に消えるのだ。店が混んでいても、空いていても、『すみません、急用ができました!』とエプロンを外して出て行ってしまうのだ。さすがに毎日ではないが、このひと月の間に、5回ほどあったように思う。
「おはようございます、安室さん」
梓は、濡れた手をタオルで拭きながら安室に挨拶をした。頭を上げた安室は、幾分ほっとした表情だ。
「……怒っていませんか?」
「怒っていません」
昨日は、安室が急に出て行ってしまったが、マスターもいたので、何の問題にもならなかった。
「すみません、急な仕事で……」
安室が後頭部に右手を当てながら眉毛を下げた。確かに急に出て行かれるのは困るけれど、安室の様子を見ていると怒るのも筋違いだ。むしろ、仕事熱心なことに呆れてしまうほどだ。
「探偵さんって、忙しいのねえ……。たしかに毛利さんも日本各地飛び回っているものねえ」
「ええ、毛利探偵は僕の憧れです。警察も、困ったら彼を頼りますし」
「ポアロにも毛利探偵目当てのお客さん、来るんですよぅ。あ、安室さん、コーヒー飲みます? もう、朝飲んじゃいました?」
「ありがたく、頂きます。荷物、置いてきますね」
安室がバックヤードに消えてから、梓は安室が使っているマグカップを温めて、コーヒーを入れる。自分にはカフェラテを入れることにした。
ほどなくして、安室が昨日脱ぎ捨てたエプロンを身にまとって、ホールに戻ってくる
「そうですか。了解しました」
安室が半分ほど残ったカップをカウンターに置いて、体を捻った。その時、僅かだが眉をしかめたことに、梓は気づいた。しかし何も言わず、カフェラテをまた啜る。
それから、作業をしながら、安室をそっと盗み見ることに意識を集中した。野菜庫から玉ねぎを出してきて、安室が大量の玉ねぎを切っている間、梓の意識は安室に向けられていた。梓が挽肉に、ナツメグや胡椒を入れた肉団子を作っている間もだ。安室の目の下の隈は濃く、肌も荒れているように見える。ランチ用の肉団子をバットに並べ、冷蔵庫に仕舞ったところで、安室が息をふう、と吐き出した。
「……やっぱり、怒ってます?」
安室の意外な言葉に、梓は目を丸くした。
「え……? なんの話ですか?」
「いえ、梓さんがこちらを気にしているので、昨日の早退の件、気にしていないとおっしゃってましたが、やはりご立腹なのかと……」
安室は困った様子で、顎をぽりぽりとかいている。梓は安室の鋭さに感嘆した。
「探偵さんなんですねえ……。あのぉ、私怒っているわけではありません」
梓は、眉を下げて告げた。
「では、何か……?」
安室が訝しげな顔になる。
「あの、差し出がましいとは思うんですけど、安室さん、今日怪我してますよね」
「え……?」
梓の指摘に、今度は安室が目を丸くしている。
「体伸ばしたとき、顔しかめていたので……あと、いつもなら袖捲りするのに、今日は袖捲らないで玉ねぎ刻んでいたりして……ちょっと違和感あるなあって思っていたんです。だから怒っているわけじゃなくて……気になっちゃって。じろじろ見て、ごめんなさい」
梓は頭を下げた。安室は黙り込んだままだったから、怒らせてしまったかと梓は落ち込んだ。しかし、「……他に、気づいたことあります?」と、俯いたままの梓の頭上から、安室が問いかけてきた。
「え……? あ、ええと、お肌が荒れてるなぁ、とか?」
「ぶっ、ぶぶっ……!」
唐突に安室の笑い声が聞こえて、梓は顔を上げた。右手を顔に当てて、安室は笑っている。
「ええ……?」
どうしてここで笑うのか分からない梓は、置いてけぼりだ。
「梓さんのご指摘通り、怪我はしてしまいました。まあ、腕も、擦り傷ですけど。見苦しいので隠していたわけですが……」
ひとしきり笑った後で、安室はシャツの上から腕を撫でた。梓は無言で頷く。
「肌荒れは……ちょっと不摂生でした。寝不足もあって……。反省します」
「反省だなんて」
「パフォーマンスを上げるには、いつも万全の状態で居るべき何ですが、仕事が立て込んでしまっていて、梓さんにも心配をお掛けする羽目に」
「探偵さんのお仕事って大変なんですねえ」
「ええ、まあ。しかし、梓さんに気づかれるとは、僕も間抜けですね」
安室がはあ、とため息を吐いた。
「接客業だからですかねえ。私も探偵になれます?」
「ええ、名探偵アズサになれます。困ったなあ。名探偵アズサには隠し事ができなさそうだ」
安室が肩を竦めている。
「ふふっ、安室さんったら、大げさなんだから。それにしても、怪我は隠さないでくださいね。腕が痛くて、フライパンが振れないときとか、私やりますから、安室さんは座っていて」
梓は微笑んだ。
「座っているわけにはいきません。ちゃんと働きます」
「でも、怪我してるでしょ。そんな人を働かせたら、ポアロの名が廃ります」
軽く睨むと、安室が困ったように笑顔を見せた。安室は、梓の押しに弱いのかも知れない、とふと思う。なんとはなしに、顔を上げて、目に入った壁の時計に、あっ、と声を上げる。スーパーが開店する時間だ。
「あ、そろそろ行かなきゃ。安室さん、店は頼みます。痛いと思ったら休んでてください」
梓はエプロンを外し、カバンを手に取った。
「はい。いってらっしゃい、梓さん」という安室の声に見送られて、外へと出た。
◇
梓が出て行くと、客の居ない店内は、BGMで流れているオルゴール音のみになる。安室は、梓が出て行くまで顔に張り付かせていた笑顔を剥いで、眉間に皺を寄せた。
「……何をやってるんだ、俺は」
やれやれと肩を竦め、昨日の事件で痛めた脇腹に触れる。そこまでの怪我ではないので病院にも行っていない。車から飛び降りたときに擦ってしまった腕の傷も、大きめの絆創膏で足りる程度の傷だ。日常的に怪我をするから、安室にとって、このぐらいは傷の内に入らない。ちょっと指を切ったぐらいの感覚である。怪我をしたと周囲に知られるのはリスクが高い。そんなに怪我ばかりしている喫茶店店員兼探偵見習いはいない。疑われるのも避けたい。だから、安室は怪我したことを、梓に知られないようにしていたのだ。
――それなのに、気づかれてしまった。
安室は、榎本梓の調査書を読んでいる。あまり警戒すべき相手ではないと認識していたし、実際会ってみて、その通りだと思ったのだ。街の喫茶店の老若男女に優しい看板娘以外の何者でもない。――そう思っていたのだが。
つらつらと考えていると、ポアロの扉が開いた。
「いらっしゃ……あ、梓さん」
安室は目を見開いた。そこにいたのは、はにかんだ笑顔の梓だった。
「お財布、忘れちゃいました。もう、私抜けてるんですよね。あ、安室さん、面食らった顔してる。マスターには言わないで下さいよ。恥ずかしい……」
少し赤らんだ頬を手のひらで押さえながら、梓がレジの横から買いだし用の財布を取った。鋭いのか、抜けているのか分からない。安室の――否、降谷の周りにはいない人物で、新鮮で興味深い。
安室はエプロンを外した。
「安室さん?」
訝しげな梓に、安室は微笑んだ。
「お客もいないことですし、僕も買い出しに行きます」
「え? 安室さんも?」
「ええ、梓さんと買い出しに行きたくなりました。荷物は僕が持ちます」
「ミ、ミニトマトだけですよ?」
有無を言わさず、梓の手から財布を奪い、扉へと梓を促す。扉にクローズを出すと、安室は鍵を掛けた。「ん、もう、安室さんったら……」
梓は呆れた顔だ。
「はい、行きましょう」
安室は梓と連れだって歩き出した。相手を知ることが、捜査の第一歩だ。安室は、梓のことを知りたいと思ったのだ。
スーパーまでは、徒歩10分。相手を知るには、少し足りないけれど、丁度よい会話を楽しめそうだ、と安室は内心喜んだ。