@otohitoe_
また会えなかった。
朝日に目を焼かれながらなるべく急いで帰宅したものの、クロウリーはもう仕事に出たあとだった。
玄関を開けて靴が無いのを見た瞬間それまで忘れていた冬の冷気がアジラフェルを襲い、がくりと落ちそうになる肩を竦めて寂しさをやり過ごす。
部屋の中はまだ暖かく、ほんのついさっきまでここにいたであろうクロウリーの存在を感じさせた。
寂しさはあっても、今はまだクロウリーがアジラフェルの部屋で過ごす冬だからましなほうだ。春になればまたいつも通り自宅へ帰ってしまう。そうなったら、果たして耐えられるのだろうか。約束もまともにできないこんな状況で、一体どうやって会えばいいのだろう。
クロウリーには申し訳ないけれど、冬は厳しい彼の住居スペースに、今だけはほんの少し救われていた。
(春には落ち着いていますように…)
そう願うしかない。
鞄とコートを部屋に置いたアジラフェルはすぐにバスルームに向かった。
バスルームにはクロウリーのシャンプーの香りが漂っていた。アジラフェルと違って身の回りのものに多少こだわりのあるクロウリーが持ち込んだ、爽やかでほんのり甘くて大人っぽい香り。冬でよかった、本当に。
簡単にシャワーを済ませてリビングへ入ったアジラフェルは、自分よりも先に“同居人”に水分補給をさせるために窓際へ寄る。さすがにクロウリーが過ごしているからか艶やかで活き活きとしている。様子を見るに、今はアジラフェルの世話は不要のようだった。譲り受けた身としては情けなくはあるが、親とも言えるクロウリーが目を掛けてくれるのは彼にとってこの上なく安心できる態勢だろう。
水を飲んだら眠ろう…とキッチンへ近付いたとき、ふと目の端に見慣れない緑色が映る。
「………、」
テーブルの上に置かれていたオセロ盤の緑色だった。
一手打たれてある。
見覚えのあるこのオセロ盤は、数年前のある日、クロウリーがよく行っている古本屋で買ってきたものだ。
「結構ちゃんとしたやつだろ?古本屋で見つけたんだ。百円でいいって言うからさ、おまえと遊ぼうと思って」
まだ付き合う前のこと。クロウリーはしばしばそうしてアジラフェルと遊んでくれて、オセロの他にもカードやタロットが出てきたこともあったし、バックギャモンやカタンといった名前しか知らなかった古いボードゲームをお互い手探りで遊んだこともあった。そのいずれも、仕入先は件の古本屋だった。
本だけでなく玩具も取り扱うんだなと感心しつつ妙に納得感はあった。クロウリーがそこで買っている本はどれも聞いたことのない作品ばかりだったから。
「あの古本屋、ボードゲームも取り扱ってるんだね」
「道楽でやってるからな。あそこの爺さん、でかいスーパーの土地の地主なんだ」
「同じ商店街にあるスーパー?」
「そう。最近二階に百均とドラストが入ったあのスーパー。古本屋のほうは三代目とかだったっけな…うちに負けず劣らずめちゃくちゃ古いだろ?客が少ないってとこも同じだ。売りに来る客も買ってく客も滅多にいない。だからそのへんの本屋には置いてないような本ばっかりなんだろうな」
「そういう本が好きなの?」
「別に。ただの暇潰しだよ。ほらやろうぜ、おれ先攻な」
狭いレジ台の上に広げられたオセロ盤。二つ折りで、内側はマグネット付きの石を重ねたケースを収納できるようになっている。
「わたし強いよ」
「ふーん?」
「だから、きみは三回まで待ったありでいいよ」
「こいつ」
クロウリーはくしゃりと笑って、アジラフェルはそれがすごくうれしかったのを覚えている。
宣言通り、アジラフェルの白はクロウリーの黒に大差をつけて勝利した。それも立て続けに三連勝。
「くそ!なんでだ…!?」
「後手でやってみる?」
「もしかしてそっちのほうが有利なのか?」
「いや、オセロは先手も後手も互角だよ。理論上は」
「じゃあ変えない」
そこから飽きずに十戦ほど、日がとっぷりと暮れるまで対局して、その日はクロウリーが辛くも一勝したところでおしまいとなった。
「勝ち逃げはずるいよ」
「勝率一割以下のどこが勝ち逃げなんだよ」
勝ったのにちっともうれしそうにせず、クロウリーはじとっとした眼差しでアジラフェルを睨んだ。睨まれたのに、クロウリーから向けられた新しい表情にときめいてしまっていっそう好意を深めたものだ。
次に対局したのはそれから数日して、学校帰りにお店に寄ったときだった。クロウリーは明らかに強くなっていて、五戦目には勝ち星を挙げていた。
「強くなってる」
「だろ」
相変わらずうれしそうとまでは言えないものの、それでも先日より多少得意げにしながらクロウリーは頷いた。
「勉強した」
オセロの?と、思わず聞き返しそうになるのを、アジラフェルはぐっと堪えた。「成果が出てるね」などと当たり障りのないことを言って、両端に並べられた白黒の石をケースに仕舞いつつ、
(この人…)
本当にかわいいな、とこっそり感動していた。マメというか、勤勉というか、凝り性というか。根が真面目なのだろう。
いつかクロウリーが、「おまえって何でも真面目に遊んでくれるから大好きだ」と言ってくれたことを思い出す。それはきみのほうだ、と今は思う。
ああそうだ、あれは初めてクロウリーがアジラフェルを“友達”だとも言ってくれた夜だったな。
「もう一戦しよう」
「もちろんいいよ」
クロウリーに魅力を感じれば感じるほど、親しくなればなるほど、自分の中にある恋という下心が後ろめたくなって悩んだ時期もあった。ただ、そんな日々はすぐに過ぎ去った。クロウリーの魅力は本物だったからだ。謎に満ちていて、何でも知っていて、何でもできて、格好よくて、綺麗で、かわいくて、楽しくて、幸福をくれる人。
アジラフェルがクロウリーと真面目に遊ぶのは本当に本心から楽しいからだった。
ただ、勉強の成果を揮うクロウリーの指先を見つめながら、一緒にいないときでもアジラフェルのために時間を使ってくれていたことをうれしく思うのは、やはり恋心からなのだろう、とも思った。
「どうやって?」
「あ?」
「オセロの勉強、どうやってしたの?」
「ネットで記事読んだり、動画見たり」
「それでちゃんと身についてるのがすごいよ。もしかして練習したりもした?」
「練習ってほどでもないが、ネットで無料の…んあっ!?」
「今のは悪手だったね」
「おまえわざとだろ!会話で気を逸らして…!」
「待ったする?」
「しない!」
きっぱりと言い切り、眉間にきゅっと皺を寄せてオセロ盤に前のめりになるクロウリーにアジラフェルは笑いを漏らした。こんな姿を見せられて、真面目に遊ばないほうがおかしい。
それから数えられないほど対局を重ね、やはりアジラフェルの勝率ほうが大幅に高くても、クロウリーは本当に一度も待ったを使わなかった。意地もあるだろうが、やはり根が真面目だからだ、とアジラフェルは思っている。
その後もしばらくは遊んだはずだが、そういえばいつの間にかオセロ盤は見なくなっていた。たぶん別の遊びにブームが移ったのだと思う。これが今もクロウリーの手元にあるということは過去に遊んだボードゲームたちもどこへ仕舞われてあるのかもしれない。
とにかくこのオセロ盤は、そんな懐かしい思い出のものだった。
テーブルにも冷蔵庫にも、家でのやりとりに使っている付箋も無ければスマホへのメッセージも無く、突然そこにただ置かれていたオセロ盤。ゲームをしよう、ということなのだろうか。
取り敢えずアジラフェルは一手打ち、それから寝室へ向かった。
どうやらそれで正しかったようで、次に仕事から帰ってきた日もクロウリーとは会えなかったもののゲームは一手進めてあった。クロウリーの意図が伝わって、アジラフェルはほっと心が綻んだ。研修が忙しくなり、同じ部屋で寝起きしているはずなのに会ったり話したりすることがめっきり減ったのを、これで補おうとしてくれているのだと思う。効果は抜群だった。クロウリーとの繋がりを感じることはアジラフェルにとって何よりの安心だった。
オセロは最大で六十手。毎日仕事前と後で二手ずつ進められたとしてもひと月はかかる。
勝敗がつくまでの間、もちろん顔を合わせる日もあった。仕事に行っているはずの時間帯に帰って来たのに思いがけず姿があったりもして、そんなときは一段うれしかった。
「急に休みになったから」
時々、それは嘘だった。お店やアルバイトよりもアジラフェルを優先してくれる日を、クロウリーはわざわざ作ってくれていた。気付いても言わなかった。クロウリーの優しさであり、アジラフェルへの好意を感じていたから。
そして直接顔を合わせるとき、リビングのテーブルからオセロ盤は消えていた。なんとなくそれには触れないという暗黙のルールが出来た。
会えた日の夜は同じベッドで寄り添って眠った。クロウリーに自由に使ってもらっている一室に移されているのであろうオセロ盤のことを想像しながら、抱きしめられると自分が黒に返されるような心地になった。オセロでは勝っても、クロウリーにはいつでも負けていたかった。
対面することのないまま進むゲームがとうとう終わったのは、クロウリーがバーの仕事に行っている深夜のことだった。
帰宅したアジラフェルは手を洗ってまっすぐにリビングのテーブルへ向かった。このオセロゲームが近頃数少ない楽しみのひとつだった。
けれどそれも、今夜でおしまい。
クロウリーの最後の一手が指されたあとのオセロ盤、そのひと枠空いているマスをパチ、と埋め、黒い石を白に返す。
夜間に仕事がある日はアジラフェルの家には来ないことも多いから、クロウリーがこの面を見るのは明日の夜かもしれない。
冷蔵庫にいくつも貼られているクロウリーのシフト表のコピーを確認すると、明日は午前中から土の仕入れで懇意にしている農家のところに行くようだ。だったらやっぱり今夜はここには帰ってこないだろう。
その予想通り、昼近くになって目覚めたベッドには眠る前と同じでアジラフェル一人だけだった。
ただ、
「……あ…、」
クロウリーはここに来ていたようだった。キッチンにはコーヒーの香りが漂い、水滴のついた洗いたてのマグカップが置かれ、窓際の緑の葉はきらきらと濡れて、それから、テーブルの上のオセロ盤にも変化があった。
白と黒の石が両端に並べられていた。僅かに白のほうが上回っている。
傍らに、一枚の付箋が貼られている。
『おまえの勝ち』
という文字と、絵文字のようなムスッとした顔のイラスト。アジラフェルはふっと頬を緩ませた。
決して粗雑ではないけれど軽やかな文字の曲線をそっと指でなぞる。こんな内容の付箋を取っておいたら怒られるだろうか…と思いながらも、きっと後生大事に取っておこうと決めた。
起こしてくれたらよかったのに。深夜に帰ってきたことを知っていて気遣ってくれたのだろうが、そんなのはクロウリーだって同じだ。クロウリーは隣で眠ったのかな。全然気が付かなくて呆れただろうな。それとも、いつもみたいに『可愛いやつだな』と微笑んで抱きしめてくれたかな。わたしは抱き返せたのかな。
アジラフェルはゆっくりと椅子を引いて座り、テーブルに置かれたままのペンを取り、付箋の束から一枚剥がして
『良いゲームだった』
とクロウリーへの返事を書き、先程の付箋が貼ってあったのと同じ場所に貼り付けた。
片付けようと同じ数ずつ重ねた石をケースに戻したところで、強い喪失感を覚えた。
寂しいと思った。この繋がりが消えてしまうのが悲しかった。
アジラフェルは仕舞いかけたケースを盤の対極に起き、それぞれのケースから二つずつ取り出した石を交差に並べた。
それから、付箋のメッセージの二行目に
『次はきっときみの勝ち』
と書き足した。
このやりとりをまだ終わらせたくなくて、アジラフェルはゲームを新しく始めることにした。今度はアジラフェルが先手。本来なら黒で始めるところだが、特別に色は変えずに白のまま。
「………」
ふと思いついて、もう一度ペンを取る。
先程書いたメッセージの末尾にもうひと言、
『かもね』
と付け足した。
生意気なやつ、と笑ってくれるだろうか。
ひとつ置き、ひとつ返し、アジラフェルは今日も家を出た。
まだもう少し、春が遠くにありますように。