@kojika2018
『さて、ここで抑え投手の宮下がグラウンドに上がります。5対5の同点。この回を抑えれば、延長に突入します。先ほどは中継ぎの遠藤が、代打で出た大川に手痛いスリーランを打たれましたね。さて、この宮下、この前の試合では……』
壁に設置された大型テレビのチャンネルは、野球中継が流れている。梓のひいきチームではないけれど草野球をやるから、どのチームでも野球を見るのは好きだ。
投球練習をするピッチャーをぼんやり眺めていると、「お待たせしました!」と元気な声とともに、梓の目の前にビールが置かれた。
「ありがとうございます」
店員に声を掛けたのは、向かいに座る安室だ。安室の前に置かれたのはウーロン茶だ。いつ仕事が入るか分からないから、と安室はいつもノンアルコールを選んでいる。
「盛り上がってますね」
ちらりと壁のテレビを見て安室が目を細めた。
「スリーラン、見逃しちゃいました。……乾杯?」
梓は自分だけビールを飲む居心地の悪さをビールのジョッキを掲げることで帳消しにしようとした。
「ええ、乾杯」
安室もウーロン茶のグラスを掲げる。縁をかちんと合わせて、梓はビールのジョッキを口元に持っていった。ビールは一口目がとても美味しい。ジョッキをテーブルに戻すと、微笑んだ安室と目が合った。
「うん、美味しそうに飲みますね」
「……ファミレスでもよかったんですよ」
梓は唇を尖らせた。夕ご飯だけならファミレスでもラーメンでもよかったのだ。安室が、焼き鳥屋がいいと主張して譲らなかったのだ。
「安室さんは飲まないのに」
「僕はいつ仕事が入るか分かりませんからね。あ、土鍋の炊き込みご飯頼みますけど、どの味がいいですか?」
「安室さんの好きなのでいいです。あ、梅つくねお願いします。あと、ねぎま」
「はい」
安室はスマホに目を落としているので、2人の間に沈黙が下りた。焼き鳥屋は狭く店内は混んでいて、冷房はあまりきいていない。ビールのジョッキにすぐ汗が浮かんでくる。
ちらりとテレビを見たのは、手持ち無沙汰だからだ。ちょうどワンアウト取ったところで、カウンターに座る男性が、ガッツポーズをして歓声を上げた。
「注文、終わりました」
顔を上げた安室が、「暑いな」と呟きながら、薄手のパーカーを脱いで白いTシャツ姿になる。
「前来た時は、こんなに混んでなかったし、夏日じゃなかったから」
そう答えながら、梓は、失敗したと思った。――前に来たってことを、言うんじゃなかった。
「ああ、そういえば、前美味しいと思っていたの、期間限定だったんですね。もうなかった」
安室が、眉をひそめた。
「炭焼きチキン?」
「そうです、梓さんも気に入ってましたよね」
「なかなか食べられないですよね。炭で焼くってだけではなく、鉄板もないと雰囲気でないですし」
炭焼きチキンを食べたのはつい先月なのに、まだ舌先に味が残っている。チキンの味だけではなくて……。
梓は、あの夜のことを思い出して、叫びだしそうになった。叫ぶかわりに、ジョッキを掴むと勢いよく煽る。ビールの炭酸がつん、と鼻の奥にしみる。
そんな梓を、安室は面白いものでも見たといわんばかりに目を丸くしている。
「どうしたんです?」
安室は楽しげだが、梓にはたまったものじゃない。安室に答えず、梓はまたビールを煽った。顔も熱いし、店も暑いから、飲んだ先からビールが蒸発していく気がする。ビールが底に3センチぐらいになったので、新しいのを頼んだ。
「覚えてます? 前に来たときも、野球やってて、あの日も延長だったんですよ」
「そ、そうでしたっけ」
梓はとぼけてみる。でも、覚えている。あの日も野球はやっていて、お店は混んでいなくて、梓は楽しくてビールを3杯飲んでしまった。もう少し飲んでたら、諸々記憶が飛んでいたかもしれないのに、何もかも隅々まで記憶している。
安室は――。梓はちらりと安室を見る。彼はもちろん、とても記憶力がいいので間違いなく覚えているだろう。
あれは事故、と言い切るような状況でもなかった。梓は、届いたビールに手を伸ばす。持ってはみたものの、口はつけなかった。濡れた手のひらを誤魔化すように膝に戻す。
安室は肘をつき顎を手のひらに預けて、首をかたむけていた。
「この前と違うのは炭焼きチキンがあるかないか、だけですね」
「安室さん、からかってるでしょ」
梓は安室を睨み付けた。アルコールが体に満ちてきて、気が大きくなっている。それにともなって思考にふわんとした幕が掛かったみたいに、ぼんやりとしてくる。手のひらを顎から離した安室が、テーブルの下に腕を差し入れて、膝の上に置かれた梓の手のひらを掴んだ。梓の指の1本1本を親指の腹で撫でている。利き手である右手を捕らえられてしまって、梓は左手でぎこちなくビールジョッキを持ち上げる。店員が持って来た焼き鳥の盛り合わせも、左手で食べられる。不自由だけど、左手だけでいい。
「あ、打ちましたね」
安室が梓の手を握ったまま、テレビに視線を送る。ダイヤモンドを回る打者に、スタンドが立ち上がり歓喜に震えているのが見えた。あの日の試合の結果はどうだったんだっけ、と梓は考えるけれど、何も考えられなくなってしまっている。安室が手を放してくれないので、梓は左手でねぎまを口に入れる。もちろん、あの夜の炭焼きチキンの味はしない。もう焼き鳥の味は分からなくなってしまった。