アジクロ
@otohitoe_
気分は最高だった。アジラフェルの温かい手が腿に置かれたとき、当たり前のように体に触れてくれるのがうれしくて、その無遠慮さをもっと受け入れたいという意思表示のつもりでアジラフェルの背後に手をついて身を寄せると、アジラフェルもまたそれに応えて顔を近付けてきた。腰掛けているベッドの縁が僅かに沈む。
「きみ、今夜は眠る?」
「おまえはどうしてほしい?」
「もう少し話していたい」
クロウリーはうっとりとした心地で顔を寄せ返した。
「何を話す?」
「そうだな…」
首を傾け、そっと息をのむ。
キスだ…とわかっていても胸がぎゅっとときめく。
鼻先が交差し、唇が触れる…寸前、外からわっと歓声が上がり、お互いに伏せていた眼差しがぱちっとかち合う。
ぱちり瞬くと丸いペールブルーに、クロウリーは目を細めて不満を訴えた。
「騒がしいな」
「だって大晦日の夜だから」
そんなことは勿論わかっている。この寒い中、書店前の通りにはもうすぐひとつ進む年を盛大に祝いに来ている近隣住民たちがしばらく前から集まって、わいわいと楽しそうに賑わっている。だからこうして、中で過ごしていることが外の連中にばれてしまわないよう二階の寝室で明かりも点けずにひっそりと過ごしているのだ。
以前まではなかったこの集まりが最初に行われたのはロックダウンが明けて最初の年だった。クロウリーからしても決して短くはなかった退屈な時期。抑圧された日常から解放され、これまで当たり前だった楽しみを発散しようとするのは至極当然だろう。ただ、それがこんなふうにちょっとした慣例行事になるなんて思っていなかった。商店街に少なからずいる集会好きのことを考えれば予想できたことだったのだが。
溜め息を噛み殺しながら反対に首を傾げると、アジラフェルは何故かふふ…と小さく笑った。せっかくの良い雰囲気を壊されたとがっかりしたのは自分だけなのかと思ってそれがまた不満になって募った。
「何笑ってんだ」
「いや、なんでもない」
「なんだよ」
「本当になんでもないんだ。ただ、こうして鼻先を触れ合わせる求愛行動があったなと思って…確か鳥だったかな」
「…求愛行動」
「そう」
「これが?」
首を伸ばし、すり…と鼻先同士を再び擦り合わせる。アジラフェルは擽ったそうにまた笑った。その目尻の皺や柔らかく綻ぶ口の端を見ると、不思議とクロウリーの胸のもやもやはすうっと晴れた。
「鳥がやっているのも可愛いと思ったけれど、きみがしてくれるのはもっとかわいい」
「鼻が触れるだけだ」
「そうなんだけど…でも、ほら」
つんと持ち上がったアジラフェルの鼻先が、クロウリーのそこにちょん…と触れる。まるでキスの代わりみたいに。
「とっても楽しい」
「…ふん」
クロウリーにしても、正直悪くないコミュニケーションだった。
「それを受け入れるときはどうするんだ?」
「同じようにする」
「こんなふうに?」
「ふふ…そう…」
「お断りだってときは?」
「どこかへ行っちゃうんじゃないかな」
「ふうん」
「きみはどこにも行かないで。ここにいてね」
そんな気さらさら無いが、こうしてはっきり求められて悪い気はしない。さっきまでの不満はすっかり消えてむしろ上機嫌だった。
クロウリーは腿の上に置かれたままのアジラフェルの手に触れ、ほんの指先を掬い上げるようにして絡めた。
「…なあ」
「うん」
「おまえが新しく求愛行動をする生き物を作るとしたら、どんなやり方にする?」
「そうだな…」
アジラフェルはクロウリーの目をじっと見つめ、思案しているようだった。どんなことを考えているのかは想像もつかないが、その根底にいるのはクロウリーであることに間違いなかった。
「やっぱり、素直に愛してると伝えるかな」
「それはおまえの経験から?」
言葉で答えはしなかったが、アジラフェルはただ穏やかに微笑んで返した。
「…それで」
「うん」
「その求愛を受け入れるとき、相手はどうする?やっばり同じように愛してると答えるのか?」
「そうだったらいいな」
「おまえが決めていいんだぞ…」
「そうだけど…」
声が落ち、目が伏せられる。アジラフェルもクロウリーも何も言わなくなった。
10!
外から窓を震わせる明るい声。世界ではいよいよカウントダウンが始まった。
「なんか、カウントダウンを聞くと何かしなきゃって急かされる気持ちになるよね」
7!
「何するんだ?」
6!
「何するって、今からじゃ何も…」
5!
「何も考えてなかったし…」
4!
「………」
3!
「うーん…どうしよう…」
2!
「………」
1!
「どうしようか…」
ゼロ、の声は無く、代わりに新年を祝う歓声が上がった。
きっと同じことをしている人間が何組もいたことだろう。でもこのキスには敵わない。と、クロウリーは何の根拠もなしに確信していた。
唇が離れるのが名残惜しくて微かに鳴らしたリップ音。すっかり力を抜いて委ねていた指先はそっと解かれ、クロウリーの下唇を優しく撫でた。
「…これってロマンチックだった?」
「いいや。少しも」
「だよね」
ふっと笑い合って再び交わしたキスが次第にしっとりと馴染んできて、気付くと二人、シーツの上に傾いて。外からはまだ賑わしい声が聞こえているはずなのに、今二人の耳が拾うのは、微かな布擦れの音とお互いの息遣いばかり。
ロマンチックの欠片も無くても、それでももう頭の中はアジラフェルでいっぱいだった。もっと触れられたい。もっと求められたい。もっと愛されたい。
(……あ…)
と、クロウリーは気付いた。
「アジラフェル…」
「ん…?」
「忘れてるぞ」
クロウリーの胸元から顔を上げたアジラフェルはきょとんとした眼差しで、一拍置いてから「ああ…」と呟いた。その声色が求めているものではない…どうせ新年の挨拶かとでも思ったのだろう…と感じたクロウリーは、制止の意味を込めてアジラフェルの髪を撫で上げた。
「求愛行動は?」
その問いにアジラフェルはにやりと笑い、上げた顔を近寄せてきた。キスでもしてくれるのかと構えていたのに、その優しく柔らかい感触が与えられたのは唇ではなく鼻先だった。
揶揄われたとすぐに理解したクロウリーは顔を顰めてみせた。
「そっちじゃない」
「でも、これも嫌いじゃないだろ?」
「じゃあおれのお返しもこれでいいんだな」
クロウリーはアジラフェルのシャツの襟刳りを鷲掴みにして、些か乱雑に“お返し”をしてやった。
「待ってわかった、ごめんごめん…ちゃんとする。やり直させて」
「もういい。返してやらない」
「ごめんってば。ね、愛してるよ」
クロウリーの肌を啄む低い声が、体じゅうのあちこちで繰り返される。
「クロウリー、返事はしてくれないの?」
「だめだまだ、こんなんじゃ…」
肌のほとんどが露わになっても、舌や指先、体の奥がしとどに濡れても、クロウリーはアジラフェルの囁きにだけは応えてやらなかった。ここまでくるともうただの意地だった。簡単に言ってなどやるものか、と、懇願するようなアジラフェルの囁きにクロウリーは口を噤み続けた。
とうとう陥落したのは、もう明け方近くになってからだった。
「っん、ぅ…!」
「…クロウリー…、愛してる…愛してるよ…」
「あ、は…ぁッ、…!」
「クロウリー…」
「っ、お…おれ、も、アジラフェルッ…」
愛してる。
ついに引きずり出した譫言のようなその一言に、アジラフェルは心底満足そうに微笑んだ。
まったく、これでは一体なんのための求愛なのか。
外にはまだ人の影があっただろう。また年が過ぎ、また夜が明け、また朝が始まる。
ただクロウリーはそんなことに構っていられなかった。もっと重要で大切で御しがたく揺るぎなく大事なものがある。ずっと昔から、いつも目の前に。