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終わりの始まり、始まりの終わり

全体公開 16962文字
2026-01-23 19:07:41

【必読】五夏/if
巨大な蜘蛛に襲われる生徒を見つけた虎杖が、ヴァンパイアと関わる話
または、ヴァンパイアハンター機関呪術高専を追放され、ヴァンパイア認定された夏油と、唯一、夏油に銀の杭を打ち込めるかもしれない五条の話

目次
始まりの終わり、終わりの始まり 前編
始まりの終わり、終わりの始まり 後編(同人誌のみ)

凛歌さんと合同誌を作りました!俺達最強 VR2026 VALENTINE ROSE FES 2026-day1で頒布します!
興味のある方はどうぞ✋

Posted by @itou_888

終わりの始まり、始まりの終わり 前編

 何度も嘔吐きながら荒い呼吸を繰り返す。這う這うの体で階段を登り切り、ドアノブに巻かれた何重ものチェーンを引きちぎった。焦るあまり、埃まみれの踊り場に落ちた錠前を踏んで足首を捻る。崩れ落ちるようにして戸を開き、屋上へと飛び出した。
「っ、はぁっ、ぉえ、は……ッぐ、ぅ」
 よろめきながらも前へと進む。前へ、前へ。望もうと、望むまいと、それしか残されていなかった。途中で靴が片方脱げる。つい二日前に襲った獲物からせしめたものだ。新品同様の艶を放っていたソレも、紐は解け、靴先は拉げている。今や見る影がないほど傷だらけだった。
 どうしてこんなことに。
 ただ狩りをしていただけだった。獲物に近づいて、奴らを襲う。それだけなのに。唾液も枯れ果てた口腔が引き攣れるように痛む。どうして。どうして、自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか。
 挫いた足を引きずりながら、正面を向く。散々に追われて、視界も霞んでいた。次の一歩をと足を踏み出した、その時だった。錆びた戸が大きく開く音が響く。追っ手が、追いついたのだ。
 咄嗟に給水タンクの陰に隠れる。口と鼻とを両手で覆い、音をたてないようにした。効果のほどは、分からない。こちらが必死で気配を消そうとしているにも関わらず、相手は世間話でもするような、気軽な雰囲気で話しかけてきた。
「追いかけっこは、終わりかな」
 追っ手の、男の声はよく通る。恐怖で膝が震えた。ビルの下では無数の獲物たちが平和ボケした日常を送っているというのに。何故、高等種族になったはずの自分が、こんな惨めな姿を晒さなくてはならないのだろうか。納得できない。掌で覆った口内で歯軋りをする。拍子に、尖った犬歯がぶつりと下唇に刺さった。途端、血の匂いが鼻につく。匂いを漏らさないようにきつく掌を押しつけた。血の匂いにはどうしても敏感になってしまう。
「さて、追われる側は初めてかい」
 男は、たん、たたん、と手拍子を打ちながら語りかける。長く伸びる黒い影が足元にまで及ぶ。追っ手がすぐそこまで来ている事実に知らず身体が震える。男の手拍子は徐々に速さを増していき、まるで観劇を終えた観客が打つ拍手のようになっていった。
「ああ。緊張してるのかい。随分と、テンポが速い」
 戯れのように叩かれていたのは、こちらの心臓の鼓動に合わせた手拍子だったのだ。馬鹿にされている。怒りで目の前が真っ赤に染まっていく。ほぼ同時に、視界の端へ男の足先が映りこんだ。
……ッ!」
 男の影が真横に迫り、しかし、そのまま通り過ぎていった。あれほどまでに迷いのない足取りで近づいていたにも関わらず、屋上の端の方へと消えていく。助かった、のだろうか。念入りに周りの気配を伺うが、既に誰も居ないようだった。
「っはぁ……は、はは」
 両手を離し、大きく息を吸って吐く。危機的状況を潜り抜けたのだと理解した脳は、次第に、自らへ降りかかった理不尽に不満を覚え始める。着ている服が滅茶苦茶になっているのも許しがたい。全てこれまでの獲物共から奪った、質のいい一張羅だったのに。破れ、汚れた洋服を着ることは二度とないだろう。アレもコレも全て追っ手のせいだ。
「ひとまず、あの方に報告しなければ」
 誰に聞かせるつもりもなく独りごちたはずだった。
——ふうん。アンタ、蜘蛛? それとも別?」
「え」
 目の前に降ってきた黒衣の塊。派手な着地音はなく、しかし身に纏っている布が風にはためく音だけが響く。これだけ重量がありそうな男が数メートル以上の高さがある給水タンクの上から落ちてきたならば、派手な音がするはずだ。しかし、異様に静かだった。それは男が〝常識から外れた存在〟であることを意味している。
「あれだけ血の匂いをさせていたら、気づかないフリもできないじゃないか」
「あ、ぁ……
「隙を見せればボロを出すと思ったけれど、予想以上だった」
 どこにも逃げ場はない。去ったと思わせて、男はずっと給水タンクの上からこちらの様子を伺っていたのだ。気づかなかった。気づけなかった。こちらの探索能力よりも、男の方が一枚上手だった。
 腰が抜けて、間抜けな呼吸音が喉から漏れる。月を背に立つ男の長い髪がなびき、耳にはめられた大ぶりな暗色のピアスが光を反射して鈍く輝いた。
「さあ、吐けるだけ情報を吐いてくれ。時間が惜しいんだ」
 そう言って笑う男の口からは、鋭い犬歯が覗いていた。

     *

 明るい髪色の女が寝室で眠っている。そこに現れたのは、頭のてっぺんから足先まで黒ずくめの男。男は音もなく女に近づき、深く眠り込んでいるのを確認すると、ゆっくり口を開ける。その口から覗くのは鋭く尖った牙だった——
「おい、悠仁」
「うわーっ!」
「なんだ。うるさい」
「いや、今、いいシーンだったんだって!」
「ああん?」
 勢いよく襖を開け、声をかけてきたのは祖父だ。虎杖はモノクロの画面から視線を外し、祖父の方を向いた。
「ちゃらちゃらしたモンを見よって」
「いやコレ、めちゃくちゃ古い映画だっつーの。先輩から借りたから今日中に観なきゃいけないんだよ」
 虎杖の通う、杉沢第三高校には、生徒は必ず何かの部活動に所属しなければならない決まりがあった。そんな中で虎杖が選んだのは心霊現象研究会、通称オカ研である。子どもの頃から運動が得意で、運動部から引く手数多だった虎杖が、廃部寸前のオカ研を選んだのには、目の前の祖父が関係している。
「まあいい。ちょっと先生のところ行ってくるから、大人しく留守番しとけよ」
「着いて行くって」
「やかましいわ」
「ちょ、爺ちゃん!」
 虎杖が立ち上がるよりも早く、祖父は家を出て行ってしまう。向かう先は病院だった。今年に入って、病院に通う頻度が増えた気がする。家から距離のある病院へ向かうのに、できるだけ付き添いたいと思っているのだが、こうしてさっさと虎杖を置いて行ってしまうのだ。
 玄関にたどり着いた時には、祖父の姿はすでになかった。
「ったくもー……ん?」
 頭をかきながら視線を向けた先。靴箱の上に診察券が置きっぱなしになっていた。健康優良児である虎杖にはほとんど縁がない物だが、これがないと受診の際に困るということくらいは分かる。
「しゃーなし!」
 出しっぱなしのスニーカーを履き、玄関を飛び出る。虎杖の足ならば、バスに乗ったであろう祖父が病院に着く前に先回りすることができるはずだ。
 そうして、飛ぶように走っていた途中の道で、同じ学校の制服を着た生徒を見かけた。ふらふらと路地裏に進んでいく後ろ姿が妙に気になる。ちら、と確認した時間から逆算するに、まだ数分の猶予はあるようだった。
「ちょっと見るだけ」
 誰に言うでもなく、虎杖は生徒の背中を追って寂れたビルの間へと向かった。

 薄暗い路地裏を進む。
 何かが引っかかった感じがして、顔の前で手を動かしてみる。見えにくいが、透明な糸のようなものが指に絡みついていた。蜘蛛の糸だ。至るところに蜘蛛の巣が張り巡らされているらしい。口の中に入らなくてよかったと思い、足を進める。
 生徒にはすぐ追いついた。ビルに囲まれ、行き止まりになった空間で、どこを見るでもなく、ぼんやりとした表情で立っている。
「おーい。オマエ、ウチの高校の生徒だろ。こんなところで何してん、うわっ」
 声をかけながら近づく。そこに信じられないものを見つけ、思わず大きな声を出して後退った。反応が乏しい生徒の身体に、大きな蜘蛛が張りついている。日常で見かけたことのないサイズの蜘蛛だ。虎杖の掌よりも大きいかもしれない。いつの日だったか、ポケット図鑑で見たソレはタランチュラと呼ぶのだったか。蜘蛛は生徒の身体の上を、うぞうぞと動き回っている。
「タランチュラって毒あんのかな」
 脳裏に、蜘蛛に刺された牛が横倒しになる映像が浮かぶ。このままでは、あの生徒も牛と同じ道を辿ることになるかもしれない。なんとかして追い払うべきだろう。
 あんなに気味が悪い蜘蛛が張りついているというのに、何故か生徒は動かないし、助けも求めない。この場で対処できるのは虎杖だけだった。
 棒のような長い物がないかと辺りを窺うも、何も無い。手に持っているのは祖父の診察券だけだ。これでは流石に頼りないだろう。
 虎杖は覚悟を決めて、スニーカーを片方脱いだ。コレで蜘蛛をはたき落とす。診察券よりは長さがあるものは、これしか思いつかなかったのだ。
「よっ、と」
 靴先を蜘蛛に近づけて動かすも、全く動じない。それでも努力の甲斐あってか、蜘蛛は生徒を襲うよりもスニーカーの方に興味を示しているようだ。このまま、どうにか生徒から引き離したい。もう一度、腕を伸ばした時だった。
「行け、玉犬!」
「うおっ⁉ 何⁉」
 突然、風が吹いたかと思うと、生徒の身体が体当たりをされたかのように、ぐらりと傾いた。揺れに合わせて蜘蛛が跳ねる。生徒は姿勢を立て直しもせずに、どさりと地面に倒れ込んだ。そして。
「いっ……ってえーっ!」
 生徒から離れた蜘蛛は、虎杖に襲いかかった。手首に噛みついた蜘蛛をすぐさま振り払う。地面に落ちた蜘蛛は、捕まえる間もなく暗闇に紛れてどこかへ行ってしまった。
 噛まれた箇所には二つの穴が開いている。出血はしていないが腫れており、蜘蛛の体液か何かが体内に入った可能性があった。すぐに病院に行かなければならないだろう。毒じゃありませんように。そう願いつつ、路地裏から立ち去ろうとした虎杖の手の甲に、濡れた温かいものが触れた。
「犬じゃん」
 そこにいたのは、額に独特な模様が描かれた犬だった。真っ白な身体を虎杖に擦りつけては、もの言いたげに見上げてくる。
「迷子かワンコ~? あー、でも俺、今から病院に行かないといけな——
「おい、オマエ」
 犬に向かって話しかける虎杖の腕を、強く掴んで引く者がいた。ツンツンとした髪型の少年だ。険しい表情で虎杖を、というよりも腕に残った傷を睨んでいた。
「体調は? 吐き気や頭痛、痺れはないか」
「噛まれたときは痛かったけど、今は別に痛くないぜ」
 心配してくれているのかもしれない。そう思って安心させようと、包み隠さず現状を伝える。すると、何故か少年の表情が更に曇った。困惑しているようにも見える。
「ありえねえ」
 呆然と呟く少年から、離れようと身じろぎする。ふいに、足元に温かさを感じた。先ほどの犬だと思い、視線を向ける。予想に反して、そこに居たのは真っ黒な犬だった。この犬にも白犬と同じような模様がある。
「また迷子犬? 二匹も?」
「玉犬が見えてんのか」
「ギョクケンってこのワンコのこと? つーか腕離してよ」
 掴まれた腕を揺らす。少年はといえば、虎杖の返事に信じられない事を聞いたとでも言いたげに目を丸くしていた。もう、なにがなんだか分からない。
 虎杖に分かることは、多くなかった。自分が蜘蛛の糸まみれだということ、同じ学校の生徒が倒れていること、つい先ほど蜘蛛に噛まれたこと。そして。
「悠仁!」
「爺ちゃん⁉」
 祖父の診察券を持ったままだということだった。

 お大事に、の声掛けに軽く頭を下げてから診察室を出る。
 待合室にあるソファには祖父と、先ほど出会った少年が腰掛けていた。少年の隣には白黒の犬が控えている。
「あーっと、とりあえずなんともないっぽい。毒蜘蛛じゃなかったのかもな。まあでも、もし、症状が出るようだったら、受診に来てくれって」
「そうか」
 安心したように頷く祖父に、虎杖も笑いかける。すると、二人のやり取りを眺めていた少年から、倒れていた生徒も命に別状はないと告げられた。
「そっか。じゃあ一件落着、ってわけじゃなさそうだな」
「ああ」
 少年が重々しく頷く。その様子をみた祖父が、居住まいを正して話し始めた。
「悠仁。オマエの両親について話しておくことがある。あまり人の多い場所で話すことじゃないけどな」
「すみません。では、場所を移しませんか」
 立ち上がった少年は、虎杖と祖父とを交互に見つめる。異論がないと分かると、いい場所を知っています。着いてきてください、と言って歩き始めた。

 伏黒に連れて来られたのは、虎杖も利用したことのある某大型チェーン店だった。食事時からずれた時間帯だからか、他の利用客はまばらだ。店員に一声かける。奥のソファ席へと案内された三人が腰掛けると、少年はおもむろに人差し指と中指を組んで口を開いた。
「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
 少年の言葉に合わせ、見る間にソファ席全体が半透明の膜に覆われてしまった。思わず触れると、指先には確かな感触が広がる。閉じ込められたような状態だ。
 どういうつもりかを問おうとした虎杖は、このような状況になっても、冷静なままの祖父に気がついた。
「爺ちゃん、なんか知ってんの」
「詳しくはないがな。オマエの母親に関わることだ」
「そこも含めて、先に話をさせてほしい。その前に素性を明かす必要があるな。俺は伏黒恵。呪術高等専門学校に所属する学生だ」
 少年、伏黒が名乗る学校名に聞き覚えはない。曖昧に頷くと、そのまま続けて話し始めた。
「俺たちは、ヴァンパイアハンターをしている」
……ん?」
「呪術高等専門学校では、ヴァンパイアハンターを育成している。オマエを噛んだ蜘蛛はヴァンパイアが操る下僕で、噛まれた者はダンピールになるか、死ぬかの二択だ」
 真面目くさった表情で、今朝観た映画のような話を始める伏黒に戸惑ってしまう。冗談を言っている風ではないことを確かめてから、情報を整理するために口を開く。
「ちょっと待って。ヴァンパイアって吸血鬼のことだよな? あの、映画とかになってるドラキュラ伯爵みたいな」
「あれはフィクションだろ」
「ヴァンパイアはフィクションじゃないって言ってる? つーか、ダンピールってなに」
「そのことなんだが」
 疑問だらけで頭を抱えた虎杖に、声をかけたのは祖父だ。
 てっきり彼も伏黒の突拍子のない話に混乱しているかと思ったのだが、先ほどと変わった様子はない。もしかして、祖父の言う母親に関することと繋がっているのだろうか。
「ヴァンパイアと人間の混血はダンピールと呼ばれるそうだ。これまで名前がついていることさえ知らなかったが、存在自体は身近だった。悠仁。信じられんかもしれんが、オマエの母親はヴァンパイアだった。いや、ヴァンパイアになったというのが正しいか」
「どんな方法でも、両者の血が混ざった存在はダンピールと呼ばれる。強制的に血を与える方法でヒトから変異したダンピールと区別するために、ヴァンパイアと人間が番って生まれたダンピールを、デイウォーカーと呼ぶ」
 祖父の言葉を継いだ伏黒は、一度、顔を伏せてから、もう一度しっかりと虎杖を見据えた。
「虎杖。オマエは恐らく、デイウォーカーだ」
「いやでも、俺、ニンニク好きだし、太陽の光を浴びても平気だし、血なんか飲みたいと思わねーけど」
「だからデイウォーカーなんだよ。その名の通り、日の下を歩けるって意味だ。ヴァンパイアやダンピールと違って、デイウォーカーには身体的制限がほとんどない。驚異的な回復力と、無尽蔵の体力。超人的な筋力が備わっている。心当たりがあるはずだ。それに、下僕である蜘蛛に噛まれて死にもしないし、ダンピールにならなかったのは、噛まれた側がデイウォーカーだったからだと考えた方が無理はないだろう」
 昔から運動は得意だった。それも、デイウォーカーだかなんだかの力によるものだったというのか。
「爺ちゃん、さっき母ちゃんがヴァンパイアになったって言ってたのはどういうこと? 初めは違ったってことかよ」
「オマエの母親、香織はヴァンパイアと戦っていた。そこの坊主が言う、ヴァンパイアハンターだ。仁と結婚した後も仕事は続けていたんだが、討伐の途中で敵の手にかかり、ヴァンパイアに転じた。数か月後、これまで子どもが居なかった二人の間に生まれたのが、悠仁。オマエだ」
「それだと、さっきの伏黒の話と違うだろ。ヴァンパイアから襲われた奴は血が混ざってダンピールになるって言ってなかったか? なんで母ちゃんはダンピールじゃなくてヴァンパイアに、」
——そういう疑問を解決する知識を与えてくれるのが、呪術高等専門学校だ。虎杖。オマエには呪術高専に転入してもらう」
「んなこと急に言われたって、納得できねーよ。今まで通りじゃ駄目なん?」
 高校に入学して数か月とはいえ、クラスには友人がいるし、オカ研には世話になっている先輩もいる。現実味のない話を鵜吞みにして転校するなど、やはり納得できなかった。
 虎杖の表情に、考えていることが出ていたのかもしれない。伏黒は、冷静な口調で続けた。
「〝視える〟ようになっただろ。玉犬も、帳も。下僕に噛まれたことで何らかの作用が起きて、ヴァンパイアの血が活性化したんだ。今の虎杖は、人間よりもヴァンパイアに近い。デイウォーカーについての知識もないまま、完全なヒトとして生活できるのか? 何かあったときに対処できるのか?」
 伏黒の言葉に何も返せないでいると、足元をふわふわと温かく柔らかいものが通り抜けた。目を移した先には、白黒の犬たちがうずくまっている。身体の大きさから、テーブルの下いっぱいに寝転ばざるを得ない様子だ。もちろん、祖父の足にもふさふさの毛が触れている、はずだった。
「視える、視えないってさあ。爺ちゃんにも見えるだろ、この犬。足元にいるやつ!」
「悪いが、悠仁。俺には、何も視えん。オマエの言う犬も、コイツが言う帳も。いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていたが、予想よりも随分と早かったな」
 しみじみと、どこか寂しそうに言う姿を見てしまえば、虎杖は口を閉じる他なかった。

 出発はできるだけ早い方がいいらしい。
 祖父と共に自宅へ帰った虎杖は、身の回りの物を鞄に詰めるところから始めた。呪術高専では、学生は寮住まいをするのだという。
 オカ研の先輩から借りた映画のパッケージを見つめる。
 こんな、嘘みたいなことが自分の身に起きたのだ。信じられない気持ちと、腑に落ちたような気持ちで心が二分されるようだった。家を出るという行為によって感傷的になっているのかもしれない。
 寮生活になったからといって、祖父と連絡がとれなくなるわけではないだろう。分かっていても、通院している祖父を一人残して行かなければならないことが心配だった。
「気をつけてな」
「爺ちゃんこそ」
「年寄り扱いするな。その、なんだ。呪術高専ってところに行けば、行方不明になっているオマエの両親に会えるかもしれん」
 祖父の言葉に対して曖昧に頷く。両親の行き先が気にならないといえば嘘だ。しかし、虎杖は天涯孤独で育ったわけではない。そばにはいつも家族が居た。
「ううん、いいんだ。二人が何処に行ったか、気にならないわけじゃないけど、俺には爺ちゃんがいるから、」
 言い終わるか終わらないかのうちに、祖父に抱きしめられる。幼少期にはあんなに大きかった両手は、今や虎杖の方が一回り大きい。自分の成長と祖父の老いを感じて目頭が一気に熱くなった。
「達者でやれよ」
「うん、うんッ!」
「次の連休には美味いモン用意しとくからな」
「うん……うん? 連休?」
「暦を見てないな。再来週は三連休だ。帰って来んつもりか」
「え、あれ、そんなすぐ帰って来れる感じなんだっけ」
「あの坊主の言っていたことを聞き流したか。寮生活にはなるが、いつでも帰れると言っていただろう」
「あー。聞いてなかったわ」
 羞恥で赤くなった顔を手で仰いで冷まそうとする。
 今生の別れとは言わないが、すっかり年単位で会えないようなつもりでいたのだ。電話も手紙も出すから、なんて口走らないでよかった。二週間ほどで帰ってくるのに、そんな小っ恥ずかしいことをするつもりはない。
「んじゃまあ、行ってくるわ」
「乗る電車を間違えるなよ」
「何歳だよ。間違えねーって」
 やいのやいのと最後まで騒がしく、そして温かく見送られ、虎杖は呪術高専へと向かったのだった。

 さて、電車だ。それも新幹線での長旅となれば、買う物は決まっている。
「いっただっきまーす」
 別れ際に握らされた小遣いから、美味しそうな駅弁をいくつか見繕って買った。種類豊富なご当地弁当に舌鼓を打ちつつ、ご当地グルメって地元の人間は殆ど食べないよな、などと考えていると、隣の座席に誰かが座る気配がした。
「君は良いモノを持っているね」
「ん、あ、ふぁい」
 ちょうどオカズとご飯を口いっぱいに頬張ったところだったので、間抜けな返事になりながら相手を見上げる。隣にいたのは、長髪でガタイのいい男だった。
 ハーフアップというのだろうか。詳しくはないが、髪の一部を後頭部の高い位置で団子状にくくり、残りを下ろしている。特徴的な福耳には大ぶりな暗色のピアスがはめられていた。前髪がひと房、額にかかっていて、男が首を傾げるのに合わせて動くものだから思わず視線がつられた。
「少しだけ、譲ってくれないかな」
「え、駅弁を……っすか?」
 長髪の男は、ぱち、と目を瞬かせるとおかしそうに笑った。
「違う違う。すまない、勘違いさせるような言い方だったね」
 笑うと随分雰囲気が変わる人物だ。笑いがおさまらないまま、男が手を伸ばしてくる。体格に見合う、大きく節くれだった指が、虎杖の手首に触れた。するりと撫でられたのは、先日蜘蛛に噛まれた傷口だった。
「君の血が欲しいんだ」
「え」
 薄く開いた口の中に、尖った牙が見えた。一般的な人間のソレよりも、よほど大きく、鋭い。
「きゅっ、吸血ッ⁉」
——見ず知らずの少年にイカレた要求をしないでもらおうか」
 瞬きの間。気づけば、長髪の男の口元が大きな掌に塞がれていた。虎杖に触れていた手も、高い位置で掴まれて宙に浮いている。
 突然現れた手の主を、腕を伝って確認すると座席の横に長身の男が立っていた。
 照明を反射し真っ白に見える色素の薄い髪は良いとして、全身黒ずくめの服装や、顔の上半分を包帯でぐるぐる巻きにしている様子は、不審な大人だ。変な大人たちに絡まれてしまった。
 音をたてて米を飲み込む。対処法が分からなかったので、無言で弁当の中身を食べ続けた。
「っは。いい加減、離してくれないか。大人二人で子どもに近づくなんて、怖がらせたらどうするんだ」
「一人だとしても、オマエの発言で一発アウトだっつーの」
……確かに性急すぎた。驚かせてしまったしね。それは認めよう。けれど、この子は高専に行くんだろう。その前にどうしても血を採らせてほしいんだ。〝蜘蛛〟に噛まれて生き残った男の子。君のことだろう」
 長髪の男は、夏油と名乗った。なんでも、虎杖の血液から蜘蛛の毒に対抗する血清が作れないか、と考えているのだという。
 始めは突拍子もない発言に引いていたが、そういうことなら話は別だ。あの生徒のように蜘蛛の被害者がいて、虎杖の血が役に立つのなら協力してもいいと思ったのだ。もしかすると、見た目ほど危ない人ではないのかもしれない。
 それに、蜘蛛のことを知っているということは、伏黒と同じく、呪術高専の関係者なのだと察せられる。少しだけ警戒を解いて、夏油と包帯男とのやり取りを見守った。
「血清ね。それなら高専でも作れる」
「仮に作り出せたとして、完成した血清が市場に出回るまでにどれくらいの時間がかかる。高専以外でも同時進行で血清を作った方が得策だろう。どうせ、高専に入学してしまえば、こちらからの接触は難しくなるんだ。私には、移動中の今しかチャンスはないんだよ。邪魔しないでくれ」
……夏油さんって高専の人じゃないんすか」
 虎杖の言葉に、夏油と包帯男が顔を見合わせる。包帯男は、僕が高専の関係者ね、と自身を指さした。
「そして私は、その高専と思想を分かつ追放者。つまり、皆の鼻つまみ者ってところだね」
 追放者ってなんだろう。助けて、爺ちゃん。
 フィクションの住人だと思っていたヴァンパイアが存在し、自分はヴァンパイアと人間の混血だと言われ、転校するはめになったと思えば、個性強めの人たちに絡まれている。
 どう考えても、一日で与えられていい情報量を超えていた。
「そもそも。いくら君が高専側の人間だからって、私と彼が交渉するのを止める権利なんてないだろう。それともなんだ? 高専の教員にでも就職して、彼の担任になろうって?」
「そうだよ」
 包帯男は当然のように言い返す。
「情報網を張り巡らせているオマエでも、まだ情報を掴めてなかった? 今月から高専で教師になるって決定してんだよ。嘘だと思うなら学長に聞いてみろよ」
 その言い分に、夏油は驚いたように目を丸くすると、親指と人差し指とで顎を擦った。なにか考え事をしているようだ。
「そうか。担任にね。だとしたら、君にも関係のある話になるか。今後、虎杖に用事があるときは、君を通すべきかな」
「そうなるね」
「では改めて連絡させてもらおう。連絡先は、」
「変わってない」
 食い気味な返答にも動じず頷いた夏油は、最後に虎杖へ手を振ると、席をたち、次に停車した駅で降りてしまった。

 そうして空いた席に、包帯男が座る。座ったからには話しかけてくるのかと思いきや、一切言葉を発しない男に戸惑うしかない。
 というか、この人、担任になるとか言ってなかったか。え、この人が先生? 両目を怪我してるっぽいけど、体調とか大丈夫なのだろうか。
……っは~」
 隣の人物がぐるぐる悩んでいることも知らず、大きく息を吐いた男は、座席の背を思いきり下げて伸びをする。それから、ぐるん、と虎杖の方を向くと口を開いた。
「それで、君、名前なんだっけ」
「ええ……まあ、俺も先生の名前知らんけど」
「先生? あ、そうだった、そうだった。連絡しなきゃ」
 ごそごそと端末を取り出した包帯男は、僕の名前は五条ね、GTG(グレードティーチャー五条)だよ、と言いながらどこかへ連絡をとりだした。同じ車両に乗客が居ないからだろうか。そのまま通話まで始めてしまう。
「あ、もしもし学長? お久しぶりです。はいはい。今日はその件じゃなくて、一応伝えておいた方がいいかなと思ったから連絡したんですけど。例のデイウォーカー、僕が担任になって指導します。恵も同学年でしょ? 二人とも僕の管轄ってことで。あと、田舎から出てくる子がいましたよね。アッチも僕の受け持ちにしまーす。日下部さんの負担も減るし、ちょうどいいし、ウィンウィンでしょ。あはは。やだな~別に何も企んでませんよ。じゃ、そういうことで」
 通話先ではまだ何か言っているようだったが、五条はそのまま通話を終えてしまった。
「えーっと、五条先生?」
「なに?」
「俺、虎杖悠仁っす。よろしくお願いします」
「悠仁ね、よろしく。恵のことはもう知ってるか。君たちは数少ない同級生だ。仲良くね。若人は青春しなきゃ!」
「はあ」
「あ、そうだ。到着まで時間があるし、僕がヴァンパイアとかダンピールとか、デイウォーカーについて特別授業してあげよう」
「え! やりぃ! おなしゃーす」
 そこから暫く、五条の講義が続いた。
「まず初めに、この世界ではヴァンパイアと呼ばれる存在は二種類に分けられる」
 一つは、呪術高専から追放された者を指す呼び方だ。呪術高専という組織を抜けた者は、例外なくヴァンパイアと呼ばれるらしい。
 もう一つは、儀式によってヴァンパイアになった者だった。ヴァンパイアに転じた、という祖父の言葉から察するに、母親は後者なのだろう。
「そういや、さっき追放者って言ってたけど、夏油さんってヴァンパイアなん?」
「まあね」
 ちらりと見えた鋭い牙を思い出す。虎杖に生えている犬歯とは比べ物にならないほど尖っていた。映画でよく見る、ヴァンパイアの身体特徴だ。
「ちなみに、これから説明するダンピールを生み出せるのは、儀式でヴァンパイアになった者だけだよ」
 そう前置きをしてから、五条はダンピールについても教えてくれた。伏黒が言っていたように、こちらも二種類存在するようだ。
 一つは、ヴァンパイアから血を与えられて転じる者だ。彼らはそのまま、ダンピールと呼ばれる。
 そしてもう一つが、ヴァンパイアと人間の混血、デイウォーカー。つまり、虎杖のことだ。
「デイウォーカーはよく知られている吸血鬼の弱点を持たない。じゃあ、どういうものが弱点になると思う?」
「太陽とか、ニンニクとか?」
「当たり。つまり、陽の光もニンニクも、教会の神父が読む聖書も十字架も聖水も、その他、吸血鬼退治に効果があるとされる全てに耐性を持っているんだ。耐性っていうか、効かないって感じだね。ヒトと同じなんだ。まあ、自分の身体のことだから分かるか。これといった弱点はないし、身体能力はヴァンパイアと同じだし、ハンター候補として貴重な存在ってわけ。加えてもう一つ、ハンターからしてみれば涎ものの強みがある」
 すっと、人差し指がたてられて、虎杖を指さす。包帯が巻かれているはずなのに、真っすぐと見つめられているような気がするから不思議だ。実は見えていると言われても納得してしまうほどに、五条の動きは自然だった。
「強みって、なんすか」
「ダンピールはね、ご主人様の居場所が分かるんだ。気配を察する能力が高いっていうのかな。血を分けてくれたご主人様がどこに居ても、なんとなく探知できる。そして、ここが重要なんだけど、デイウォーカーには全てのヴァンパイアの探知ができるんだ。悠仁が蜘蛛を見つけたんだってね。そんな感じでヴァンパイアやそれに類するものを探し出すことができるんだ。ほらね、高専が手放したくない性質だ」
 ここにきて、虎杖は、ようやく自分が何か大きなうねりの中に放り込まれたのかもしれないと思い至った。
 更に言うと、今後、様々な役割を求められるのかもしれないということに気づいたのだ。知らず、背筋が伸びる。そんな様子を見て、五条がふっと息を漏らした。
「緊張しなくていいよ。さっきも言ったように、恵と同じ学年だし、分からないことはじゃんじゃん聞くといい。あの子はもうハンターとして任務をこなしているからね。あと一人、生徒が入学してくる予定だけど、ソッチもハンターとしての仕事を経験済みだ。三人で力を合わせて、楽しくやってよ」
 ちょうどその辺りを語り終えた頃、新幹線が目的の駅に到着した。改札を抜けると、五条は軽く手を振って何処かへ去ってしまった。五条の背中に手を振り、荷物を背負いなおす。彼が言うには、呪術高専から迎えの車が来ているはずだった。辺りを見回してすぐ、見知ったツンツン頭が見えた。伏黒だ。
「お、迎えに来てくれたん? さんきゅ」
「任務もなかったしな。車は向こうに待たせてるから、早く行くぞ」
「おう」
 伏黒の周りには、見覚えのある白と黒の犬が控えていた。駅を利用する多くの人たちは、自然と避けて歩いているから不思議だ。自分もそうだったのだろうか。そんなことを考えながら、呪術高専の車に乗り込んだ。
「虎杖悠仁くんですね。私は補助監督の伊地知と申します。補助監督とは、ハンターの皆さんの任務をサポートする役割を担う者です。これから、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
 元気ですね、とバックミラー越しに伊地知が笑う。なんとなく、良い人そうな印象を受けた。
「新幹線の中で何も起きなかったか? 念のため、車両には誰も乗車しないようにしてあったが」
「え⁉ アレって偶然人が居なかったわけじゃねーんだ」
「そりゃそうだろ」
「んー、何かっていうか、人には会った。夏油さんっていう人と、ぅおッ⁉」
「す、すみません」
 安全運転で進んでいた車体が一瞬揺れた。謝る伊地知に問題なかったことを告げるが、隣に座る伏黒は思案顔だ。
「夏油さんに会ったのか」
「あ、うん。なんか、俺の血が欲しいって話しかけられたんだけど……
「血をやったのか」
「いや、あげてない」
「そうか」
 沈黙が車内に満ちる。
 夏油の話題は出さない方が良かったのだろうか。五条と同じく、見た目にパンチはあったものの、話してみると、悪い人ではなさそうだった。そこまで考えて、そういやあの人ってヴァンパイアじゃん、と思い至る。これからハンターを養成する機関に転入しようとする人間が、敵対する相手と交流したのはマズかっただろうか。けれど、その割には、五条の態度は無難だったように感じた。無難、というかどこか気安さや親しみさえ感じるような。
「その、夏油さんって、何者?」
 気になることは聞いておくべきだろう。五条だってそう言っていた。伏黒も、面倒がらずに教えてくれる。根が親切なのかもしれない。
「あの人は、いや、その前に等級について説明した方がいいか。俺たちはハンター候補として高専に所属するが、ハンターとして認められると、強さに応じた等級が与えられる。一番下が四級。上が一級だと言われているが、実はその上に、もう一つ等級が存在する。冗談でしか聞かないようなソレを特級と呼ぶんだ。夏油さんは、特級ハンターとして高専に在籍し、数年後、除籍されてヴァンパイアになった特殊な人なんだ。あの人、年単位で連絡がとれないって噂だったのに、どうして急に虎杖の前に現れたんだ」
 まだ何か考えているような伏黒に、五条にも会ったということを伝えておいた。すると、半目になり、ああ、とおざなりな相槌を打たれる。
「五条さんは、まあ。神出鬼没だしな」
「俺たちの担任になるって言ってたのに、神出鬼没なのは困るだろ」
「はあ⁉ そんなこと聞いてないぞ。第一、あの人も特級のハンターだし、なんなら御三家って呼ばれるハンターにとってエリート一族の当主だ。そんな忙しい人が高専の教員なんてできるわけない」
「それが、その、事実だそうで」
 控えめに口を挟んだのは伊地知だ。つい先ほど、伏黒が虎杖を迎えに行っている間に、五条が彼らの担任になることが決定したと連絡が入ったらしい。伏黒は、なに考えてんだあの人、とため息をついていた。
「伏黒と五条先生は知り合い?」
「知り合いっつーか、家のごたごたで世話になったことがあるんだよ。俺は、物心ついた頃から生みの親と離れて育てられた。里親選びに関わったのが五条さん。それ以降、なんだかんだ姉弟で世話になってんだよ」
「そっか」
——とにかく。五条さ……五条先生が担任になるってことは、百パーダンピールがらみだろう。ダンピールについて説明は受けたか?」
「ああ、うん。伏黒が言ってたことと、ヴァンパイアを探知できる、みたいな」
「そこが重要なんだよ」
 身体ごと虎杖に向き直った伏黒が真剣な表情で話し始める。
「デイウォーカーの特性が、ハンターとして活動するのに役立つっていうのは何度も聞いた通りだ。だが同時に、他にも、その特性を重視する者たちが居る。居場所を隠しているヴァンパイアだ。俺たちハンターは、ヒトに危害を加えるヴァンパイアへ対処する必要がある。どこかに潜んでいるヴァンパイアを見つけ出すなんてことは、相手にとっちゃ最悪な能力だ。つまり、自分の身を守るくらいの力をつけねーと、ヴァンパイアやその下僕であるダンピールから狙われ続けるんだよ」
 先ほどまで感じていた漠然とした緊張が形を帯びてきた気がした。どうして考えつかなかったのだろう。新幹線に現れたヴァンパイアが夏油ではなかったら、虎杖は襲われていたかもしれないし、最悪の場合、殺されていたのかもしれないのだ。
「まあ、五条先生もそれが分かってたから一緒に居たんだろう。周囲を警戒してたんだ。特級ハンターが居るところに、わざわざ現れるヴァンパイアは居ないからな」
……俺って、思った以上に大変なことになってる?」
 口の端がひくひくと痙攣している。今まで通りの生活なんて、できっこなかった。虎杖が狙われるということは、周囲の人間をも危険にさらすことだ。祖父の顔が浮かんで消える。二週間後の連休に、地元へ帰ってもいいのだろうか。
「悪い。脅すようなことばかり言ったが、高専に所属した以上、オマエに喧嘩を売ることは、大元である高専に喧嘩を売ったってことだ。加えて、後ろには五条先生がいる。手を出してくる奴はいねーよ。だから、その、帰省くらいしていい。それでも気になるなら、俺も着いて行く。オマエが蜘蛛に襲われたのは、俺の対応が遅かったことに原因があるからな」
「いやいや、別に、伏黒のせいだとか思ってねーよ! 逆にびっくりしたわ。そんなこと考えてたわけ?」
「事実だろ」
「アレは、俺が首を突っ込んだんだって。でもまあ、そっか。帰省の時に伏黒も着いてきてくれんの」
「俺には責任があるから、」
「違う違う、責任とかじゃなくてさ。新しい学校の、新しい友達として爺ちゃんに紹介させてくれよ。伏黒って、もうハンターの任務をこなしてるんだろ。頼りになる先輩兼友達がいてくれたら、俺が安心するんだよ」
……恥ずかしい奴」
 ふい、と伏黒は視線を逸らしてしまう。照れ隠しなのは分かったから、それ以上何も言わなかった。虎杖も同じように窓の外へと目を向ける。流れていく夜景は全く見知らぬ景色だ。
 望もうが、望むまいが、既に知らない世界に足を踏み入れている。その実感がわいてきて、知らず、強く手を握りしめた。自分はどうなっていくのだろう、何ができるのだろう。
 希望ばかりではない門出だ。それでも、人には恵まれていると思う。これから先、悔いがないように積み重ねていきたい。まだ見ぬ未来を想像して、一度、目を閉じた。

     *

 だだ広い日本庭園だ。日中であれば色とりどりの薔薇が咲き誇っているであろう庭も、月の光が支配する時間は、静寂を保っていた。閉じた蕾は夜露にしっとりと濡れている。
 どこからか鹿威しの音が聞こえてくるような、和と洋が共存する花の楽園を、黒衣の男が通り過ぎていった。
 男の名は、夏油傑。
 勝手知ったる動きで、庭の奥へと足を進める。迷いのない足取りは見知った背中を見つけて、ようやく止まった。
「お久しぶりです、黒井さん」
「ああ、夏油さん」
 お久しぶりです、と返すのは夏油と歳の頃が変わらないように見える女だ。黒井と呼ばれた女は、こんな夜更けだというのに、庭仕事をしている。
「手伝いましょうか」
「いえいえ。昼間に動きまわれない分を、夜に補っているんです。私がお嬢様にできることは、これくらいですので」
 どこか寂し気に語る黒井の指先が、薔薇の蕾に触れる。すると、薔薇はぽとりと首を落とした。まるで椿のように花全体が落ちた薔薇を、丁寧に籠へと移していく。
 この薔薇を持って行く先を、夏油は知っている。目を覚まさない主人の元へ、黒井は毎晩薔薇を届けているのだ。
 文字通り、精魂込めて育てた薔薇には、吸血行為を行わないヴァンパイアやダンピールを生かす効果があるらしい。きっと、黒井と主人である天内理子との関係性があってこその効果だと、夏油は信じていた。
 天内は、十年ほど前に誘拐され、儀式を通じてヴァンパイアに転じた。その場に居合わせた黒井をダンピールにして、すぐに意識を失ったのだという。夏油がたどり着いた時には全てが終わった後だった。
 あれから、一度も目を覚まさず、真紅の薔薇で満ちた棺の中で眠り続けている。
 なにも言わず作業を見つめている姿を不思議に思ったのだろう。黒井は、穏やかな口調で夏油に問いかけた。
「今日は、どうされたんですか。普段は連絡をくださるのに」
「ヴァンパイアの呪いに対抗できる血清が、作れるかもしれないことをお伝えしようと思って来ました」
 はっと顔を上げた黒井が、夏油を見つめる。血清の意味するところを過たず理解したようだった。
「もちろん、それが理子ちゃんに効くのかは、やってみなければ分かりません。それでも、ご家族である貴方にはいち早く伝えようと思って、」
 そこまで話して、自嘲するように首を振った。
「いえ、不確定な情報を持ってきてすみません」
 頭を下げ、踵を返す夏油を黒井が呼び止める。見た目こそ、近い年齢に見えるものの、黒井は夏油よりも年長だった。彼女はダンピールになってから、外見が変わっていない。
 姿形は近くとも、実年齢は上だ。だから、だろうか。黒井には、時々、現在の夏油が、出会った当時の姿と重なって見えることがある。まだ少年だった頃の姿を見つけては、つい手を差し伸べたくなってしまうのだ。
「お時間があるなら、理子様に薔薇を届けるのを手伝ってくださいませんか」
「私で、よければ」
 黒井の手からそっと籠を受け取った夏油が室内に入っていく。誰も触れるものがいないのに、ひとりでに開いた襖は、二人を招き入れた後に閉まる。その襖を、否、部屋の中に消えていった夏油の背中を、屋根の上から見つめる者が居た。
 まるで室内が見えているかのような眼光で、瞳はじっと何かを追い続ける。暫くそうした後に、碧眼を包帯で隠すと、闇夜に溶けるように姿を消した。

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