5年後のふたりで、レト→クロです。戦がつづく、ある夜の一コマ。
@Bombwooo
盟主ともなれば、そう簡単に泥酔するわけにはいかない。
いつ敵襲があるかもわからない戦中だし、何より、誰かに隙を見せるなんて芸当は俺の性分じゃあない。だから、俺が飲む酒はいつだって付き合い程度だ。本音を言えば、何も考えずに樽ごと空けてみたい夜だってあるけれど。
「……あーあ。あたしも『酔っちゃったー』とか言って甘えたーい」
いつだったか、ヒルダがそんなことを言っていたのを思い出す。あいつ曰く、たまには弱みを見せないと、周りが甘えられないんだとかなんだとか。『じゃあ俺に甘えろよ』と軽口で返した俺の横で、先生――ベレトが、何も言わずに酒を煽っていた光景が脳裏をよぎる。
そんなことを思い出していたのがよくなかったのか。星空の下、ちびちびと安酒を舐めていた俺の前に、とんでもない上物が現れた。
「村人を助けた礼にもらったんだが、ひとりでは飲みきれない」
そう言って俺の隣に腰を下ろした先生の手には、年代物の酒瓶。見れば、琥珀色の液体はすでに半分ほどに減っていた。
「先生、それいつ開けたんだ?」
「さっきだ。食堂で味見をした」
「……味見で半分なくなることってあるか?」
呆れつつもたずねると、先生は不思議そうに黄金色の水面を揺らした。
「あまり味がしなかったから、つい」
「その酒銘は、貴族でも滅多にお目にかかれない上物だぞ。味がしないわけあるか」
「そうなのか? 水みたいに飲みやすかったから」
きょとんとする先生の口から出かけた『てっきり』のあとに続く語彙は、酒好きどもを怒らせるものでしかないだろうから、これ以上は聞かずにおいた。
この人は昔からそうだ。戦場では神がかった采配を振るうくせに、こういう嗜好品のこととなると途端に子ども並み――物と事によっては子ども以下の感性になる。
俺にとっては垂涎ものの年代物も、この人にかかればただの“飲みやすい水”だ。まったく、宝の持ち腐れというか、名酒も形無しというか。
「クロードも一緒に飲もう」
声色はいつもと変わらないが、たしかに、話し方がところどころ舌足らずというか、ふわふわしている。この人が酒ひとつでこんな大喜びするとは思えないから、ほかにも何か、いいことがあったのかもしれない。
「……いただくよ。あんたにしては珍しいな、そんなに飲むなんて」
「そうか?」
タンカードに注がれた酒は、香りだけで酔いそうなほど芳醇だった。
こっちは舌の上で転がすようにちびちびやっているのに、先生ときたら。遠慮会釈もなく喉を鳴らして干そうとしている。
「おいおい、大丈夫か? 明日の軍議に響くぞ」
「……問題ない」
言ってるそばから、目が据わり始めているんだが。止めようかと思った矢先、ずし、と右肩に重みがかかった。
「……先生? おーい、先生……寝たのか?」
返事はない。おいおい、無防備にも程があるだろ。
押しつけられた額から、じわりと滲んだ汗の湿り気が伝わってくる。戦場での鉄錆びた匂いじゃない。生きている人間の、どうしようもなく生々しい熱と、かすかな汗の匂い。
視覚、嗅覚、触覚。それらすべてが一気に流れ込んできて、俺の思考回路を埋め尽くす。軍議のこととか、明日の進軍経路とか、そういう重要な懸念事項が全部吹っ飛んで、頭の中が先生のことでいっぱいになった。
正直、そっちの趣味はないのだが、この人が相手だと不思議と悪い気分ではない。もしもこれがローレンツだったら、張り飛ばしていただろうが。
むしろ、戦場の張り詰めた空気が少しだけゆるむような、妙な心地よさすらある。
逃げ場のない距離で、俺は仕方なく先生の顔を見下ろした。至近距離で見ると、改めてその造形のすばらしさに呆れる。
元傭兵で、今は軍の指揮官で。死線をいくつも超えてきたはずなのに、なんでこの人の顔には傷ひとつないんだ? ふつう、もっとこう、歴戦の証みたいなものがあってもいいはずだろ。それなのに、月光に照らされた肌は陶器みたいに滑らかで、長い睫毛が頬に影を落としている。思わず見入ってしまうぐらい、きれいだった。
――現実逃避だ。おかしな方向へほだされてしまいそうな自分をごまかすために、俺は必死に先生の謎について思考を巡らせている。
顔がいい。腹が立つぐらいに顔がいい。強くて、やさしくて、かっこいい。でも完璧じゃないから、放っておけない。こういう人が国を傾けるのだろうなと、かつて聞いた話をふと思い出す。この無自覚な引力はたしかに、国のひとつやふたつ、たやすく傾けてしまいそうだ。
そんなどうでもいいことを考えていないと、心臓の音がうるさくてかなわない。
ふと、先生が顔を上げた。意識はあるらしい。いくら先生が華奢とはいえ、担いで部屋まで連れてゆくのはさすがに骨が折れるから、少しほっとした。
それから、潤んだ瞳と、目が合う。目じりにたまった涙には、わずかに星の光がかがやいている。
――ああ、と。思考が白く塗りつぶされてゆく。
揺れている。いつもは凪いでいるはずの湖面のような瞳が、今はとろりと甘く、頼りなげに揺らめいて俺を映している。
そこには『灰色の悪魔』なんて不名誉な呼び名は微塵もなくて、ただ、ひとりの人間としての体温だけがあった。ヒルダの言っていた、弱みを見せるってのは、こういうことなのかと、場違いな合点をした。
計算も、理屈も、立場も関係ない。ただそこに無防備な信頼を差し出されるだけで、こっちはどうしようもなく胸を打たれてしまう。言葉よりも雄弁な引力が、俺の策など容易に溶かしてゆく。
こんな顔で金銀財宝をせがまれては、抗えるはずもない。俺が自由に使える資産がなくて、つくづくよかったと思う。
先生の顔が、ゆっくりと近づいてくる。うすい唇はいつもより血色がいい。そこから、目が、離せない。
「……む、ぐ」
すんでのところで先生の口を掌で塞ぐ。吐息がくすぐったくて、背筋が震えた。
危なかった。本当に危なかった。やわらかい感触が掌に残って、指先が痺れたように熱い。
「さすがに飲みすぎだ、先生。ご馳走になったし、部屋まで送るよ」
火照る顔を見られないように顔を背けつつ、俺は努めて冷静な声を出す。すると先生は、俺の手をどけて、ふらりと立ち上がった。
「いや……ひとりで帰れる」
「はあ? 何言ってんだ、そんなふらふらなのに……」
そう言いかけて、俺は言葉を失った。
すたすたと、まるで定規で引いたような一直線の足取りで、先生が闇夜へと消えてゆく。背筋は伸び、足もとには乱れひとつない。
「…………嘘だろ」
呆然と見送る俺の耳に、夜風が吹き抜ける。あの日、ヒルダの話を聞いていた先生の横顔を思い出す。弱みを見せる。甘えるふりをする。それを実行に移したのは、他でもないこの俺に対してで。
あんな顔をされたら、財産どころか、俺がこれから背負う国ごと傾けられかねない。まあ、俺だって策士の端くれだ。むざむざ傾いてやるつもりはないし、徹底抗戦するつもりではあるけれど。
ため息とともに、残った酒を呷る。しかし、舌の上を滑り落ちたのは、何の風味もしないただの水だった。
今日は未遂で終わったが、次はきっと違う手でくるだろう。国を傾ける、あのおそろしい美貌をひっさげて。