『籠の鳥』のつづき。傾国の男ベレト。
@Bombwooo
結局のところ、俺は抑えきれない好奇心に勝てなかったらしい。
あれから数日。あの夜の出来事がまるで白昼夢だったかのように、先生は何食わぬ顔をしていた。翌朝の軍議でも、その後の行軍でも、相変わらず淡々と指揮を執っている。恥じらう素振りもなければ、気まずそうにする様子もない。
あれは俺の願望が見せた幻だったのか? それとも、俺の頭がどうにかなっていたのか?
とにかく、無防備な表情が脳裏に焼きついて離れない。しかし、これが恋だの愛だの、そんなお花畑めいた感傷であるはずがない。断じてない。
そう、俺はただ確かめたいだけなのだ。あれが現実だったのか、はたまた幻だったのか、を。
自分にそう言い訳をして、俺は再び酒席を設けた。場所は俺の自室。誰に見られる心配もない、完璧な密室だ。
防御は固めた。前回の二の舞にならぬよう、自分の酒量は厳しく制限し、心の準備も万端に整えた。あの潤んだ眼差しで見つめられても、今度こそ冷静にいなして、事実確認だけ済ませてやるつもりだった。あくまで冷静に、検証と分析をする――つもり、だったのだが。
目の前には、あの日と同じ、いや、あの日以上に甘く溶けた瞳で俺を見上げる先生がいる。 酒瓶の底は既に空。俺が注ぐ加減をする間もなく、先生はまたしても水を飲むように年代物を空っぽにしてしまった。
「……酔ったのか?」
「……たぶん」
肯定の言葉とは裏腹に、その視線はあからさまに泳いでいる。嘘が下手すぎるだろ、と指摘するのは野暮というものだろうか。
俺がため息をついて机を片付けようとすると、長椅子の隣に座る先生が、身を寄せてきた。膝が触れるか触れないかぐらいの距離。俺は気づかないふりをして、手元の片づけに集中する体を装った。
またひとつ、距離が縮まる。今度は肩が触れた。
それでも俺が無視を決め込んでいると、先生は痺れを切らしたのか、俺の肩に頭を預けてきた――いや、正確には“打ちつけて”きた。
「……痛っ」
鈍い音がするほどの勢いだった。石頭か、この人は。しかも、俺の腕を掴む指先にはやたらと力がこめられている。
「ちょ、先生、痛い痛い! 骨が! 変な音してるって!」
思わず色気もへったくれもない、素の声が出た。戦場ならともかく、甘える時ぐらい手加減ってものを覚えてほしい。下手くそめ。
俺が腕を振りほどこうとすると、先生はさらに強くしがみついてきた。少しばかり朱に染まった頬に、髪がさらさらと落ちてゆく。
「……クロード」
「はいはい、なんだよ。離してくれないと話も聞けないんだが」
「自分を、」
「……は?」
彼にしては珍しく、もごもごと歯切れが悪い。慣れない語彙を必死に選びとっているようだった。
「君の、好きにしていいから」
うつむき加減で、彼はとんでもないことを口走った。あざとく甘えて相手を篭絡するにしたって稚拙な言葉だ。でも、そういう意図で口にしたならば、彼はもっとはっきりと言い切ったに違いない。何となくだけれど、断言できる。
だからきっと、あれは言葉そのままの意味なんだろう。君の思う通りの存在でありたい。君の役に立つ道具であれば、君は喜ぶだろう。短絡的で、あまりにも献身的な思考回路が透けて見える。
――ああ、嫌だ。俺は反射的に、胸の奥が冷えるのを感じた。
幼いころから、そんな視線ばかりを浴びてきた。俺を利用しようとする者、排除しようとする者。近づいてくる奴らの笑顔の裏には、いつだって打算があった。
だから俺も、そうやって生きてきた。誰も信用せず、笑顔の裏で策を練り、他者を利用することで生き延びてきた。
だというのに、この人はどうだ。何の裏もない。見返りすら求めていない。ただ純粋に、俺のために己を差し出そうとしている。
眼前にある無垢な献身は、俺みたいな人間には、あまりにも眩しくて、そして脆い。うっかり触れれば壊れてしまいそうなその純真さを、俺は直視できず、咄嗟に目を逸らした。
「……はあ。あんた、男心ってもんが分かってないなあ」
俺は先生の眉間を指先で軽く弾いた。ついでに、わざとらしくため息も吐いてみる。
そんな俺の態度が気に入らないのか、先生は不服そうにじっと俺を見つめている。その純粋すぎる瞳を見ていると、ふと嫌な汗が流れた。
いや、待てよ。普段から「使えるものは何でも使う」「勝てばいい」とうそぶいている、どこかの策士の背中を見てきたせいじゃないだろうな。そんな、まさかな。
俺は湧き上がる自責の念と、不慣れな好意への居心地の悪さを振り払うように、あえて意地悪く口の端を吊り上げてみせた。見たいものは見れたわけだし、そろそろお開きにしようじゃないか。これ以上振り回されてやるつもりはない。
「いいか、きょうだい。俺が欲しいのは、便利な『道具』じゃない。俺はもっと強欲で、たちが悪いんだ」
息を吸って、吐く。たったそれだけのことが、少し苦しい。
「たとえばの話だ。もしも俺が王様だったら――」
彼の、汗を含んだやわらかな髪を指で梳きながら、俺は言葉を紡いだ。これは俺の願望か、それともただの逃避か。
「まず、あんたにありったけの金銀財宝を与えて、絹の敷布を敷き詰めた立派な寝床を与えてやる。戦わずとも生きられる生活を用意してやろう。そうやって、俺から逃げられないようにして……一生、飼い殺してやるのも悪くないな」
自分自身、何かに縛られることを誰よりも嫌っているくせに、この人を縛り付けることばかり考えている。
首輪をつけられるのは御免だが、あんたには俺の手で首輪をつけておきたい。身勝手な矛盾と独占欲を、悪役じみた台詞で飾り立てて脅してやる。これで怯むはずだ。呆れて離れていくだろう。そうすれば、俺は正気を保てる。
けれど、先生は瞬きひとつしなかった。俺の冗談を、あるいは本音を聞き流し、ただじっと俺の瞳の奥を覗き込んでくる。俺の計算など、初めから存在しなかったかのように。
「……金も、寝床もいらない」
「ベレト、」
世界からすっと音が消える。
「君が、ほしい」
まっすぐに。矢を放つよりも速く、鋭く、その言葉は俺の心臓を貫いた。途端に、立場も、矜持も、逃げ道も、すべてが無になる。
頭の中が真っ白になる。俺というものを構成する何かが、形を失って溶けてゆく。
この人は、いつだって無欲だった。食事だってなんだっていい、寝床だって屋根があればいい。そんな人が今、俺のことだけを見て、飢えた獣みたいに目をぎらつかせている。その落差に、背筋が粟立つような戦慄を覚えた。
昔と違って、俺だって体格はよくなった。酔っ払いの力など、ねじ伏せようと思えば造作もない。ここで突き放せば、俺の勝ちだ。理性を保てる。国を傾けずに済む。
そう自分に言い聞かせ、俺は理性を総動員して先生の胸を押し返そうと腕を伸ばす。拒絶の意志を行動に移そうとしたその手首は、しかし触れるよりも早く、逃げ場を塞ぐような強い力で捕らえられていた。
「……っ、」
かすかな呻きが漏れた。手首を掴む力は、逃がさないという意思とは裏腹に、ひどく丁寧でやさしかった。だからこそ、そこに触れる剣胼胝の無骨な硬さが際立って感じられる。
俺の手だって、決してきれいとは言えない。だがそれ以上に、この人の掌には、あまりにも多くの命を断ち切ってきた記憶が刻まれている。
ふと、恐ろしい空想が脳裏をよぎる。
もしも今、この手に暗器が隠されていたら? その唇に猛毒が含まれていたら?
俺は抵抗もできず、あまりにあっけなく死ぬのだろう。策を弄して生き延びてきた男の最期が、酔った恩師に口説かれた挙句、命を落とすだなんて。なんとも情けなくて、馬鹿らしい幕切れだ。
動揺する俺に追い打ちをかけるように、潤んだ瞳が俺を射抜く。
「……クロード」
名前を呼ばれただけなのに。
その響きには、すべてを差し出そうとするような、重く、静謐な覚悟が滲んでいた。
英雄としての力でも、便利な駒としてでもなく。ただの人間として、俺に愛されたいと、そう願う瞳だった。
俺が、胸に抱く野望を捨てられないことなど、この人はとうに知っている。俺がこれからも計算高く生きるしかないことだって、分かっているはずだ。それでもなお、この人は俺という個を選ぼうとしている。
酒精の芳醇な香りを纏った唇で言われたところで、本来なら何の説得力もない。酔っぱらいの戯言だと切り捨ててしかるべきだ。なのに、言葉の意味を咀嚼するより早く、身体の奥底をどうしようもなく沸き立たせている自分がいる。
理屈を並べて、外堀を埋めて、防御を固めて。そうやって武装した俺の心なんて、この人の無垢で残酷な求愛だけで、こんなにも容易く粉砕されてしまう。
――俺だって、あんたさえいれば、それでいい。
そう返せたら、どれほど格好がつくだろう。だけど、俺にはどうしてもそれが言えない。俺はどこまでも強欲な男だからだ。夢も、理想も、野望も、何ひとつ手放すつもりはないし、選べない。ぜんぶ欲しい。手に入るなら、あんただって。
唇が重なったのは、どちらからだったか。皮が剥けた唇の感触に脳の奥がじんと痺れる。熱く、ぬめった舌は酒の味がした。
いつか誰かに、自分のすべてをさらそうとする日が来るなんて、想像もしなかった。破滅というのは、きっとこういうことを言うのだろう。
加減を知らない手が、俺の輪郭をたしかめている。このまま骨を砕かれるかもしれないと思ったが、不思議と恐怖はなかった。
俺もまた、殺せるものなら殺してみろといわんばかりに彼の背に手を回す。
けれども――小さく俺の名を呼びながら、不慣れな愛を囁く姿に、ああ、やっぱりまだ殺されてはやれないなと、そう思った。