無双軸(黄燎)で、短い話が3篇です。ベレトを囲いたいクロードがやり返される話で、ほぼレト←クロ。
最後の話だけ流血表現がありますので、にがてな方はお気をつけください。
@Bombwooo
1.
「将と同等の天幕に、相場の三倍の専属料。おまけに五年という長期の拘束期間……自分は一介の雇われにすぎない。働きに見合わない過分な対価は、かえって陣中での反感を買うだけだ」
執務室の机に分厚い契約書を突き返し、ベレトは淡々と告げた。帝国から引き抜いたこの男に対し、クロードが提示した更新条件。それは破格の報酬だけでなく、食事の質から寝所の配置に至るまで、彼を連邦国軍の只中に留め置くための異常な厚遇だった。
「お前ほどの腕ならこれくらい当然の待遇だろ。遠慮はいらない」
「遠慮ではない。不自然だと言っている。君は損得を正確に計算する男だ。なぜここまで念入りに、俺を囲い込もうとする」
まっすぐな問いかけに、クロードは言葉を詰まらせた。図星を突かれて焦ったわけではない。ただ、なぜ自分がここまで破格の条件を提示してでも彼を手元に置いておきたいのか、論理的な理由がすぐに出てこなかったからだ。
「どうしてって……そりゃあ、お前がいなくなったら困るからな」
口をついて出たのは、ひどく単純な言葉だった。帝国から鞍替えさせた最強の駒。それがまた別の誰かに買われ、自分の手札から消えてしまうのが惜しい。ただそれだけのはずだ。
ベレトは少し考え込み、やがて納得したように頷いた。
「たしかに、連邦国軍は戦力が少ない。ひとりでも戦力を失えば、盤面が崩れる恐れがあるな。……君の懸念は理解した」
整理された単純明快な事実に対し、クロードは首を縦にも横にも振れずにいる。沈黙を肯定と理解したのか、ベレトはさらに言葉を続けた。
「安心しろ。……ジェラルトも、今は他に移る気がないと言っていた。より高い報酬を提示されても、今は君の元を離れない」
それは、雇い主と傭兵の会話として完璧な正解だった。戦力としての価値。駒としての重要性。クロードの言葉を戦術的な懸念として受け取り、忠誠を約束する。だが、正しさを突きつけられてもなお、クロードの胸の奥にひどく座りの悪いもどかしさが残った。
戦力としての価値の話をしているのではない。だったら俺は、どういう話をしたかったんだろう。クロードは自分自身の思考の終着点が見えずに眉根を寄せた。
黙り込んだ雇い主に、ベレトは再び口を開く。クロードは意外とよく喋るものなのだなと、場違いな感心をした。
「そもそも、俺は君を知らない。君も俺を知らないだろう。互いに素性も底の内も明かしていない関係で、これだけの好待遇を突きつけられれば、裏に何かあると勘繰るのが傭兵というものだ」
俺は君を知らない。その事実を真っ向から突きつけられ、クロードは思いがけず胸の奥がちくりと痛むのを感じた。だが、言われてみればその通りだ。戦場での恐るべき戦いぶり以外、自分はこの男の個人的なことを何ひとつ知らない。
「……違いない。お前の言う通りだ」
クロードは自嘲気味に息を吐くと、突き返された契約書を指先で弾き、ふとたずねた。
「じゃあ、教えてくれよ。お前は何が好きなんだ?」
過分な報酬でも、広い天幕でもないのなら。突然の質問に、ベレトは少しだけ目を瞬かせたが、やがて生真面目に指を折り始めた。
「ジェラルトと、剣の手入れ。あとは……誰かの笑顔と、信頼に応えること、だろうか」
あまりにも真っ当で、打算のない答えだった。クロードは毒気を抜かれたように小さく笑う。
「じゃあ、嫌いなものは?」
「特にない。……が、試されるのはあまりいい気はしないな」
じっとこちらを見据える凪いだ瞳に、クロードは苦笑するしかなかった。腹の探り合いや、過剰な契約条件で縛り付けようとする自分のやり方を、きっちりと見透かされている。
「そりゃそうだな。……悪かったよ」
クロードは素直に非を認めると、机上の契約書を手元に引き寄せた。
2.
卓上に置かれた強い蒸留酒から、焼けつくような甘い匂いが漂っている。クロードは呆れたように息を吐くと、隣に座る男の肩へ遠慮なく腕を回した。
「なあ、もう少し肩の力を抜けって。せっかくの美酒が不味くなるぞ。お前のために用意したのに」
「……自分は休めと命じられたからここにいる。君に馴れ馴れしく触れられに来たわけじゃない」
ベレトは露骨に眉根を寄せて身をよじったが、クロードは構わずその身体をきつく引き寄せた。普段は感情の読めない双眸が、明確な苛立ちを含んでこちらを睨みつけてくる。
「堅いこと言うなよ。雇い主の気まぐれに付き合うのも立派な任務だ。……ってことで、俺に大人しく可愛がられとけ」
「よせ、鬱陶しい」
「そんな怖い顔するなよ。働き詰めの有能な傭兵を労って何が悪い」
クロードは薄く笑い、卓上にあった杯を手に取った。琥珀色の液体が、天幕の灯りを反射して揺れる。
「ほら、王様直々の恩賜だ。俺の手から飲ませてやるよ」
杯を無理やり口元に押し付けようとした、その時だった。
「……そうか。そこまで言うなら、ありがたくいただこう」
低い声が落ちたかと思うと、ひったくられるように杯が手から奪われた。ベレトはなみなみと注がれた液体を煽るように口に含み――次の瞬間、クロードの襟元を乱暴に掴んで引き寄せた。
「っ、んぅ!」
視界が反転した、と錯覚するほどの強い力だった。逃げる間もなく顔が重なり、唇が塞がれる。驚愕で息を呑んだ隙をつかれ、有無を言わさぬ力でこじ開けられた口内に、焼けるような酒が注ぎ込まれた。
咽せる暇すらない。生き物のように這い回る舌と、強引に流し込まれる酒精の刺激に、クロードは反射的に喉を鳴らしてすべてを飲み下すしかなかった。あまり厚みのない胸板を押し返そうとするも、びくともしない。それどころか抵抗する手を痛いほど握られ、指先の感覚が薄れてゆく。
暴力的なまでの他者の体温が粘膜から直接叩き込まれ、思考が真っ白に飛んだ。
「……っはぁ、」
解放されるころには、腰に力が入らなくなっていた。情けない音を立てて椅子の背もたれに崩れ落ち、熱くなった喉を押さえて荒い息を繰り返す。頭の芯が痺れて、手足の先までまったく力が入らない。
「自分にはあまり酒の味は分からない、が……なるほど。たしかに悪くない」
ベレトは卓上の酒瓶を手繰り寄せると、空になった杯を満たし、親指で己の唇を無造作に拭った。
「どうした? ずいぶんと静かになったな」
どこまでも平坦な声で見下ろされ、クロードは反論の言葉ひとつ紡げない。完全に、やりすぎた。
腹の底からこみ上げてくる強い酒精の酔いと、未知の被虐感に脳を揺らされる。未だ心臓がうるさい。視界がぼやけているせいで、目の前の男がどんな顔をしているのかも分からない。さぞ冷たくて、残忍な顔をしていることだろう。そんな推測をよそに、男は静かにもう一度杯に口をつけている。
己の有能な手札を都合よく囲い込み、あわよくば自分の掌の上で転がしてやろうなどという浅ましい優越感は、この男の牙によって、いとも容易く潰されてしまった。
クロードはただ焦点の合わない目で、ベレトを見上げている。
3.
血と錆のむせ返るようなにおいが、狭い天幕の空気を濁している。わずかに聞こえるうめき声は生々しく、においと相まって心臓を握り潰されそうになる。
硬い椅子に腰掛ける男の姿を認めた瞬間、クロードは短い息を呑んだ。血の気を失い、ひどく悲壮な顔で足早に駆け寄る。だが、当の男は肩口を朱に染めながらも、まるで他人事のように平然としていた。
無意識に伸ばしかけた手をどうにか自制し、クロードは動揺を覆い隠すように深く呼吸した。
「見せてみろ。俺が手当てしてやる」
「必要ない。筋は切れていないし、止血も済んでいる」
「雇い主の命令なんだから、逆らうな。お前に死なれては困るんだよ。……いいから、大人しく手当てされとけ」
男の拒絶を無視し、クロードは血に塗れた外套を半ば強引に剥ぎ取った。現れた肩口には、真新しい裂傷が赤々と口を開けている。だが、クロードの目を惹きつけたのはその傷ではなく、男の身体に刻み込まれた古傷たちだった。
刃で深くえぐられた痕、焼け爛れた痕。これまで受けてきた傷の数々が、歪な肉の隆起となってこの男の歴史を語っている。クロードは喉の奥がきゅうと鳴るのを自覚した。
最強の手札を手に入れ、己の用意した盤上でうまく飼い慣らしている気になっていた。だが、この圧倒的な死線の集積を前にすると、自らの優越感などひどく薄っぺらなものに思える。
「……痛くないのか」
消毒用の酒精を含ませた布を傷口に押し当てながら問う。常人なら身悶えする痛みなはずだが、男の表情にはかすかな波立ちすら起こらない。
赤く口を開いた傷痕が、地獄の門のようだと思った。彼を連れて行かないで、奪わないでと、すがるように傷口を押さえ続ける。
「自分にも痛覚ぐらいはある。……でも、痛みに気を取られては次の刃を避けられない。それだけのことだ」
淡々と返す声には、虚勢も悲壮感もない。ただの事実として語るその平坦な響きが、逆にクロードの胸をひどくざわつかせた。
「手つきが甘い。……貸せ」
不意に、布を握るクロードの手首が掴まれた。迷いのない力で、己の手ごと赤々とした傷口へとまっすぐに押し付けられる。男の傷から溢れた熱い血が、クロードの指の隙間を伝ってどくどくと流れ落ちた。
「止血をするなら、迷うな」
至近距離で紡がれる低い声。指先に伝わるのは、火傷しそうなほどの血の熱さだった。それなのに、彼の命の音はおそろしいほど静かで。
とにかく訳が分からなかった。目の前の男は本当に生きているのだろうか。もしかすると、これは彼を失ったあとに見ている夢なのかもしれない。目の前がぐらぐらと揺れて、吐きそうだった。そんなクロードの様子に気づいたのか、ベレトはいっそう掌に力をこめる。ふたりの手を伝い、溶岩のような血が流れ落ちる。
この男は紛れもなく血の通った人間であり、いつ命を落としてもおかしくない戦場を、今たしかに生きて呼吸しているのだ。
その当たり前すぎる事実と、自らの掌にある命の重みに気づいた瞬間、クロードの指先がわずかに痙攣した。底の見えぬ恐怖に当てられ、押し当てた手が小刻みに震え始める。
ふと、ベレトはクロードの手首を掴んでいた力をゆるめた。咎めるでもなく、呆れるでもなく。血に染まったクロードの手の甲を、己の親指で不器用に撫でる。
「……ひどく手が震えているな。怪我をしたのはこちらなのに、君の方がよほど痛そうな顔をしている。……安心しろ。この程度の傷で、自分は死なない」
それは、血生臭い傭兵には到底似つかわしくない、ひどく穏やかでやさしい声だった。クロードは指先を真っ赤に染めたまま、ただひどく浅い呼吸を繰り返す。