無双軸(黄燎)で、短い話が2(+1)篇。ベレトが加入してそこまで日が経っていないぐらいの日常の話。
最後は1頁目のおまけの話です。
@Bombwooo
1.
前哨地の外れ、心地よい風の吹き抜ける丘の上で、ひときわ目を引く純白の巨躯が身を横たえていた。遠目から足を止めて見つめていると、やわらかな布で熱心にその白い鱗を拭き上げていた彼が、こちらに気づいて大きく手を振った。
「なんだ、興味あるのか? こいつは俺の相棒さ。とって食ったりしないから、こっち来いよ!」
促されるまま、自分はゆっくりと巨大な飛竜に近づく。近くで見ると、磨き上げられた純白の鱗は真珠のような光沢を放ち、鋭い爪や牙の恐ろしさを忘れさせるほどの気品があった。
「……日ごろから疑問に感じていたんだが」
「ん?」
「君はよく、彼の背で立ったり跳ねたりしているだろう。危なくはないのか」
「おいおい、それじゃまるで戦いの最中に俺が遊んでいるような言いぐさだな」
彼はあきれたように肩をすくめ、飛竜の分厚い首筋を労うように軽く叩いた。
「こいつは賢いから、飛んだり跳ねたりしても、絶対に俺を落としたりはしないのさ」
飛竜は主の言葉に同意するように、喉の奥で低く重い音を鳴らす。王のための立派な装飾が吐息にあわせて揺れた。
「そうだ、お前も試しに触ってみるか? 気位は高いが、人は嫌いじゃないんでね」
差し出された提案に少しだけ躊躇していると、ふいに飛竜が長い首をこちらへ伸ばしてきた。自分の腰のあたりに鼻先を寄せ、品定めでもするように幾度も匂いを嗅いでいる。
「……どうやら、自分ではなくこっちに用があるらしい」
懐から、袋に包んだ携行食の干し肉を取り出す。手のひらに乗せ、与えてもいいだろうかと視線で彼に合図を送った。彼が面白そうにうなずいた、その直後だった。
目の前の飛竜が突如として視界を覆うほど大きく顎を開き、鋭い牙の並ぶ凶悪な口内を丸出しにして迫ってきた。
「――っ」
悲鳴こそ上げなかったものの、自分は心臓が止まるかと思い――いや、自分の場合、実際心臓が動いているかは怪しいのだが――干し肉を差し出した体勢のまま完全に硬直した。本当に、頭から食われるかと思った。
隣では、意地の悪い男が腹を抱え、声を出して笑い転げていた。
「悪い、悪い。こいつ、はじめての相手をわざと脅かす癖があってさ。……お前がそんなに見事に固まるとは思わなかったけど」
息も絶え絶えに笑う主の横で、飛竜は器用に干し肉だけを食み取ると、驚いて固まっている自分の胸元へ、今度は親愛を示すように巨大な頭を擦りつけてきた。さっきの凶悪な顔が嘘のような、ひどく愛嬌のある仕草だ。
自分の寿命を縮めた一匹とひとりを交互に見比べ、深く息を吐き出す。
「……意地の悪いところまで、主に似なくていいのに」
「ん? なんか言ったか?」
「何でもない」
真珠のように滑らかな鱗をそっと撫でてやると、心地よさそうに目を細めた。本当に、彼は主によく似ている。
2.
蝋燭のあたたかな灯りが揺れている。ひとりきりの天幕は、痛いほど静かだった。
ふいに天幕の入り口がめくられ、夜の冷たい風と一緒に、場違いなほど気安い声が入り込む。
「なあ、お前の名前のつづりを教えてくれないか?」
レスターの王は片手に小さな蝋板を持ち、悪びれもせず足を踏み入れた。
「いつも地図には親父さんの名前でまとめてたんだが、明後日の索敵はお前ひとりだろ? さすがにそのままじゃまずいと思ってな」
差し出された蝋板と尖筆を前に、自分はぴたりと動きを止めた。沈黙が落ちる。炎の爆ぜるかすかな音だけが響いた。
「どうした? そんなに難しいつづりなのか?」
彼が小首を傾げる。自分は気まずさに視線をさまよわせ、やがてぽつりとこぼした。
「……自分の名前を、書けないんだ」
「え?」
「そもそも、文字を書くこと自体あまり得意ではない。読み書きはひと通りジェラルトから教わったが、読むことはできても、書くのはせいぜい短い記号ぐらいだ。人の名前は、書いたことがない」
言い訳のように言葉が続く。傭兵稼業の交渉はすべてジェラルトが行うため、文字を書く機会がなかったこと。どうしても書く必要がある時は、手本を見ながらゆっくりと絵を描くように線をなぞるしかないこと。
「学校というものにも、行ったことがないから」
正直に告げると、彼はわずかに目を丸くした。しかしすぐに、ひどく申し訳なさそうに眉尻を下げる。蝋燭の光に照らされた彼の顔は、普段の飄々としたそれよりもずっとやわらかく見えた。
「そうか。悪いこと頼んじまったな」
「いや、いい。……自分の名前ぐらいは、そろそろ書けるようにならないととは思っていたから」
うつむき加減でそう言うと、彼は優しくうなずいた。戦うこと以外取り柄がないことに対して、茶化しはせずとも、軽くあしらわれるものだとばかり思っていたが、彼は至ってまじめな顔をしている。
「そうだな。大事な名前だし、書けたほうがジェラルトさんもよろこぶだろ。明日、ジェラルトさんが戻ってきたら、俺からつづりを確認しておくよ」
「ああ……」
気まずい沈黙が、ふたたび天幕を満たす。 しかし、その静けさは決して冷たいものではなかった。自分は無意識に、彼の手にある蝋板を見つめていた。
「君の名前は、どういうふうに書くんだろうか」
口をついて出た問いに、彼も驚いたように瞬きをした。
「俺の名前か? そんなの書けたって、何の役に立たないと思うが」
肩をすくめながらも、彼は尖筆を構える。なめらかな蜜蝋の上に先端を下ろし――そこから、ほんの一呼吸だけ、ぴたりと動きが止まった。
迷うような、何か別のものを思い浮かべたような、不思議な間。やがて彼は、その迷いを振り払うように、軽快な音を立ててすらすらと文字を刻んだ。
「ほら。これで『クロード』だ」
「なるほど。これで、クロードと読むのか……」
自分が見慣れないその軌跡に感心してまじまじと見つめると、彼は照れくさそうに頬を掻いた。
「何てことない名前でも、そうやって感動してもらえると書いた甲斐があるもんだな。今ごろ、うちの親も感激のあまり涙を流しているだろうさ」
「書いてみても?」
「お、おお……構わないが……」
受け取った尖筆は、少しだけ彼の体温を残していた。自分は手本となる文字の横に、ゆっくりと、不格好な絵を描き写すように線を刻んでゆく。
少しでも力を加えすぎると蜜蝋ごと削ってしまいそうで、たどたどしく歪んでしまう。それでも、この名前を間違えてはいけないという思いだけで、ひどく丁寧に、大切になぞった。
息を詰めて最後の線を払い、顔を上げる。手袋の下はじっとりと汗をかいていた。
「……どうだろうか」
問いかけると、彼は自分の手元をじっと見つめていた。その瞳には、言いあらわしようのない揺らぎが浮かんでいる。あまりの不格好さに彼を傷付けてしまったのではないかと、恐れすら生まれる。
「……うまく書けてるんじゃないのか。俺がガキのころよりうまいと思うぜ」
「子どもと比べられても……」
思わずむくれると、彼は弾かれたように吹き出した。
「あはは、そりゃそうか」
そう言って笑った顔は、いつもの底知れない笑みではなく、歳相応の無防備なものだった。不意に見せられたそのやわらかな表情に、一瞬、呼吸の仕方を忘れる。どういうわけか、胸の奥が締めつけられるのを感じて、自分は誤魔化すように唇をすり合わせる。
彼は、たどたどしく刻まれた自分の名前を、愛おしそうに指の腹でなぞった。
「でもこれ……消すのがもったいないなあ」
「どうして?」
「そりゃあお前――いや、何でもない。明日、お前のぶんの蝋板も用意しておくよ」
ともすれば灯かりに消えてしまいそうな穏やかな声で、クロードはそう言った。
3.
いのちの息遣いと、うごめく影、藁を踏む感触。夜の厩舎は深い森を想起させる。
周囲に人の気配がないことを確かめてから、自分は純白の巨躯が休む柵の前へと音もなく歩み寄った。
気配に気づいた飛竜が、長い首をのばして暗がりから顔を出す。その鼻先へ、隠し持ってきた干し肉を差し出すと、凶悪な牙を持つ口が器用にそれだけを食み取る。満足そうに喉を鳴らす飛竜のやわらかな鼻先を撫でてやっていると、不意に背後から声が降ってきた。
「誰かと思ったらお前か……まったく、焦らせやがって」
振り返ると、柱の影から現れたクロードが、安堵の息を吐き出しているところだった。いつからそこにいたのだろう。まったく気がつかなかった。
「ここ数日、妙な気配がするから毒でも仕込まれてるんじゃないかと見張ってたんだが……まさか犯人がお前だとはな」
彼の視線は自分の手元にある干し肉の包みを捉えていた。
「……すまない。よろこんでもらえるのが嬉しくて、つい」
見つかってしまった気まずさに謝罪すると、彼は苦笑して飛竜の首を軽く叩いた。
「俺としては、お前がこいつを気に入ってくれて、嬉しいよ。ただ問題なのは、こいつもお前のことをすっかり気に入っちまったってところで……最近、他の人間が用意した飯をわざと残すようになったんだよ」
「そうなのか? 自分がここに来るときには、餌箱はいつも空になっているが」
不思議に思って首をかしげると、彼は大げさに肩をすくめた。
「だから『こいつは賢い』って言っただろ。飯を残してちゃ、お前から何ももらえないって分かってるんだ」
「……なるほど」
主の容赦ない種明かしに対し、飛竜は非難がましく熱い吐息を彼に吹きつけた。自分は悪くない、とでも言いたげな様子だが、したたかで賢いところは、本当にこの主によく似ている。
「まったく。飛竜ともどもたぶらかして、いったい何をする気だか。『悪魔』って異名もだてじゃないな」
「飛竜、ともども……?」
どうにも彼の言葉が引っかかり、思わず聞き返す。自分は飛竜に干し肉をやっただけで、彼をたぶらかした覚えはない。飛竜だけではなく、主である彼まで手懐けたような言い回しには納得がいかない。
相手を見つめ返すと、彼の顔からは余裕の笑みが消えた。彼はとっさに口元を片手で覆ってから、気まずそうに視線を泳がせた。
「あー……いや、なんでもない。と、とにかく、こいつを甘やかすのはほどほどにしてくれ」
彼は早口で誤魔化すと、逃げるようにこちらに背を向け、そのまま立ち去ってしまった。
あからさまに動揺する雇い主の背中を見送っていると、手元で不満げな吐息が漏れた。飛竜は主の言葉など気にも留めず、次の干し肉をねだるように鼻先をすり寄せてくる。
――気位が高いそぶりを見せながら、結局のところ欲に忠実で、でも憎めない愛嬌がある。
「……君は本当に、主とよく似ているな」
慌ただしく去っていった彼と、目の前で甘え続ける彼の相棒。自分は呆れ半分、感心半分のため息を吐き出すと、もう一切れだけ、こっそりと白い鼻先へ差し出した。