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水面鏡(レトクロ)

全体公開 レトクロ 6956文字
2026-03-02 21:50:53

本編軸/士官学校時代。マロリクでいただいたお題に沿えなかった産物ですが、せっかくなのでアップします。
1頁目だけベレト視点で、以降はクロード視点になります。よそにベレトをとられたくないクロードの話。

Posted by @Bombwooo

 大修道院の石畳を歩いていると、背後の曲がり角や、少し離れた柱の影から、ひっそりとした視線を感じることがある。
 殺気はない。ただこちらを観察し、動向を探るような、ひどく用心深い気配だ。さしたる脅威ではないと判断し、気づかないふりを続けている。なぜなら、視線の主が、自分の受け持つ学級の級長であることは分かっていたからだ。

「先生の剣を、どうか青獅子の生徒たちにも――
「私の覇道には、貴方の力が必要なの」
 近ごろ、他学級の級長から声をかけられることが増えた。
 まっすぐな瞳で弱きを助ける騎士道を語るディミトリ。理路整然と己の理想を説くエーデルガルト。
 よりよい条件や、確固たる信念を持つ者から誘いを受けるのは、傭兵にとって日常茶飯事だ。ふたりの熱意と気高さは、純粋に眩しく、好ましいものだった。
 しかし、彼らがこれほどまでに堂々と己の理想を語る一方で、クロードは決して、自身の夢を明かそうとはしなかった。
 いつだったか、思い切ってたずねてみた時も、飄々とした笑みを浮かべて「それはまだ言えない」と躱されてしまったのだ。
 彼に、拒絶されたとは思っていない。
 けれど、傭兵の基準で言えば、相手に底を見せてもらえないというのは、すなわち「信用に足る力を備えていない」という事実を意味する。
 つまり、自分はまだ、彼に背中を預けてもらえるだけの信頼を得ていないのだ。人一倍猜疑心が強いということは、彼の貼り付けたような笑みを見るに明らかだった。分かってはいたから、傷付きもしないし、怒りもしない。自分に許されたのは、ただうなずくことだけだった。
 それでも時折、彼は不思議な――言葉にするには難しい顔つきで、こちらを見ることがある。畏怖とも、疑心とも違う、何か。そんな彼を見ると、たまらなくさみしい気持ちになるのだ。
 自分がもっと言葉を知っていれば、明るく振る舞うことができたのなら、彼にそんな顔をさせずに済むのだろうか。そう思い立ち、試しに鏡の前で口角を上げてみるも、薄情な女神が笑うだけだった。

 彼からの視線を感じるようになってから数日が過ぎたころ、釣り池や食堂でひとりの時間を過ごしていると、決まって彼が隣にやって来るようになった。
「奇遇だな、先生。俺もちょっと息抜きしたくてさ」
 そう言って他愛のない世間話を始めるが、言葉の端々に探るような気配が滲んでいる。
「そういえば、最近よく他学級の級長殿と話してるみたいだけど。先生はああいう、立派な大義名分がある奴のほうが教え甲斐があるのか?」
 冗談めかした口調だが、あまり機微が分からない自分にも伝わるよう、注意深く言葉を選んでいるのがわかった。
……そうだな」
 水面を見つめたまま、自分はたずねられた通り素直な思いを口にする。
「己の信念を隠さず、真っ直ぐに理想を語るふたりの姿は、純粋に眩しく、好ましいと思う」
「へえ、」
「傭兵だった自分にとって、目的が明確な人間というのは信頼に足るから……その人が雇い主であれ仲間であれ、何を為そうとしているのか、理解できているほうが動きやすい。だからこそ、以前君にも夢をたずねたのだが」
 彼らがそうであるように、君も堂々と夢を語ってくれるのではないかと期待していた。そんな思いを込めて隣を振り向くと、彼はひどく間の抜けた顔をしてこちらを凝視していた。
 いつもの余裕のある笑みは完全に消え失せ、わずかに開いた口元が引きつっている。
……あー。なるほど。眩しくて、好ましい、ね……
 彼は誰にともなくそうつぶやくと、視線を伏せた。彼がどんな顔をしているのか、影になっているせいでよく分からない。
「クロード?」
……いてて。ごめん先生、なんか急に腹が痛くなってきた。今日はこのあたりで失礼するよ」
「腹痛か。医務室ならば自分も同行しよう」
「いや、だいじょうぶ! ちょっと休めば治るから!」
 彼は立ち上がると、足早に――ほとんど逃げるようにして、釣り池から去ってしまった。
 残された自分は、ひとり小さく首を傾げる。昼に食堂で食べたものが悪かったのだろうか。それとも、水辺の風で冷えたのだろうか。
 急な腹痛とは気の毒に。あの歯切れの悪い話し方も、腹痛を堪えていたせいかもしれない。気づいてやれなかったことへの不甲斐なさが募る。
 次からはもう少し暖かい時間帯に誘おうか、それとも上着を持ってくるように伝えるべきか。
 教え子の体調管理も教師の務めだと反省しながら、自分はふたたび静かな水面へと視線を戻した。





 俺にはとてつもない夢がある。いつからかはっきりと覚えていないが、気がつけば俺の中にあった。でも、その夢を――大きな役を作るための手札を俺は持ち合わせていなかった。
 王族の血こそ流れてはいるものの、どこへ行っても半端者で、迫害される。どうにか外へ飛び出しても、世界はあまり変わらなかった。俺の手元はいつまでもさみしいままだった。
 そんな俺を見かねてか、ある夜、すごい出会いが天から降ってきた。先生だ。優れた指揮能力と圧倒的な武力、おまけにフォドラの文化や思想に染まっていない。そんな『灰色の悪魔』の力を、誰よりも求めていたのは俺だった。だから、そんな彼が金鹿の学級を選んでくれた時は、本当に嬉しくて、信じられなかった。
 だが、手放しでよろこんではいられない。彼がうちの学級の担任になってからというもの、俺はことあるごとにその動向を気にしてきた。
 特に、各学級が激しくぶつかり合ったあの鷲獅子戦以降、ディミトリやエーデルガルトからの彼への接触は目に見えて苛烈さを増している。
 あの人が他の奴らの誘いに乗ってしまうのではないか。いつかあっさりと、この学級を、俺を見限るのではないか。そんな疑念が頭をよぎるたび、俺は気配を殺して彼の背中を尾行した。
 相手を信じきれず、物陰から監視するような真似をしている自分にひどく嫌気がさしていたが、それでも、不安を拭い去るためにはそうするしかなかった。相手を信じずにいることなんて呼吸と同じぐらい簡単だったはずなのに、今の俺はばかみたいに罪悪感を抱いている。

 釣り池のほとりで、彼が真っ直ぐな瞳で告げた言葉が、今も耳の奥で呪いのように響いている。
 逃げるようにその場を立ち去ったものの、腹の底が冷たくなるような、嫌な汗が止まらなかった。腹痛という言い訳は、あながち嘘でもなかったかもしれない。
 傭兵という生き物にとって、目的が明確な人間は信頼に足る。彼の言い分は痛いほど理解できた。理解できてしまったからこそ、たまらなく恐ろしかったのだ。
 俺は彼らのように、自分の野望を真っ直ぐに語ることはできない。己の腹の底を見せず、のらりくらりと躱し続ける俺のような人間は、彼から見れば、信頼に足らない、不誠実な雇い主に映るだろう。まあ、俺と彼の関係は教師と生徒だから、正しい喩えではないけれど。
 とにかく、あの純粋で残酷なほどに素直な言葉は、俺の生き方を根底から否定するものだった。
 ――いや、違う。俺はいったい、何にこんなに怯えているんだ。
 自室の寝台に倒れ込み、天井を睨みつけながら奥歯を噛み締めた。本来なら、「じゃあ相手の好みに合わせて、適当な夢でもでっち上げて語ってやるか」と笑い飛ばせるはずだった。盤上の駒を動かすように、彼を上手く手懐ける算段を立てればいいだけのことだ。
 なのに、今の俺はどうだ。彼の『好ましい』というたったひと言に心を乱され、他学級に奪われるかもしれないという可能性に、息が詰まるほどの焦りを感じている。彼に対するこの得体の知れない執着心も、余裕を失って怯えている自分自身も、ひどく俺らしくなくて、みじめだった。
……こんなの、柄じゃないのにな」
 やさぐれたようにつぶやいてから、俺は勢いよく身を起こした。今すぐ自分の夢を語って、彼の言う“信頼”を勝ち取れれば手っ取り早いが、それはできない。だったら、別の手札を切るしかない。他の奴らに彼を奪われないためには、とにかく物理的な時間を奪い、外堀を埋めることだ。
 その日を境に、俺はなりふり構わず行動を開始した。図書室にこもり、ぶ厚い修道院の規則書や過去の記録を血眼になってひっくり返した。学級の担任が年度の途中で変更された前例はないか。もし他学級への異動を申請された場合、生徒側からそれを阻止する規則はあるのか。
 同時に、彼がひとりでいそうな時間を徹底的に割り出し、食堂でも訓練場でも、とにかく隣に陣取って他愛のない会話を浴びせかけた。少しでも金鹿の学級を、俺のそばを、居心地がいいと思ってもらえるように。
 今の俺はみっともなく、手札をかき集めるしかなかった。





 夜の帳が下りた頃、自室の扉を叩く音に顔を上げると、そこに立っていたのは他でもない彼だった。
……どうしたんだ、先生。こんな夜更けに」
 内心の動揺を悟られないよう、あくまで飄々とした笑みを浮かべて出迎える。だが、彼は静かな瞳で俺をまっすぐに見つめ返してきた。
「自分の思い違いかもしれないが、君の様子が気になって。近ごろ、元気がないようだったから」
 その淀みない言葉に、心臓が跳ねる。だが、ここで部屋に招き入れてしまえば、逃げ場のない空間で彼を相手にすることになる。それだけは避けたかった。
……少し、場所を変えようか」
 腹を括り、俺は彼を釣り池へと誘い出した。夜風に髪をすかれ、嫌でも頭が冷える。
 ――よし、だいじょうぶ。月明かりの下、俺はわざとらしく肩をすくめた。
「なんだよ。あんたと仲良くしようとしてる、かわいい生徒の何が気に食わないって言うんだ」
「仲良くしようとしていたのか?」
 彼は小さく首を傾げ、悪びれる様子もなく淡々と告げた。
「自分はてっきり、懐柔しようとしているのかと思っていた」
 その言葉に、俺は思わず息を呑む。変に勘が鋭くて、本当に嫌になる。俺が必死に外堀を埋めようと駆けずり回っていたことなど、彼にはとうにお見通しだったというわけだ。
……懐柔、かもな」
 自嘲気味に息を吐き出し、俺は視線を夜空へと逃がした。
「いや、あんたと親しくなりたいってのは本当さ。嘘じゃない。ただ――
 そこから先の言葉が、どうしても喉の奥でつかえて出てこない。俺の野望にはあんたが必要だ。他の奴らの立派な理想に惹かれないでくれ。どこにも行かないでくれ。
 それは決して、浮ついた好意などではない。だが、自分の弱さをさらけ出してすがるような真似は、今の俺にはどうしてもできなかった。相手を縛り付けるための正当な理由も、夢を語る勇気も持っていない。
 沈黙が落ちる。己の情けなさに唇を噛んでいると、ふいに彼が静かな声を紡いだ。
「自分は君のことをまだ知らない。……だから、今から伝える言葉が適切かどうかは分からないけれど」
 前置きをしてから、彼はゆっくりと俺に向き直った。
「傭兵にとって、よりよい条件を提示する雇い主を選ぶのは当たり前のことだ。君が危惧している通りにな」
 その真っ当な事実に、胸の奥が冷たくなる。だが、彼は揺るぎない眼差しで俺の目をまっすぐに見た。
「だが、一度請け負った仕事を途中で放り出すような真似は絶対にしない。自分が選んだのは金鹿の学級だ。他の学級に行く気はない」
 それに、と彼は少しだけ口元を和らげた。白い頬が、月の光に照らされている。
「いつか君が、自分に堂々と夢を語れるようになるまで。……自分も担任として、できる限りの力を尽くしたいと思っている」
 その静かで揺るぎない声が耳に届いた瞬間、張り詰めていた緊張が唐突に限界を迎えた。安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになるのを、こぶしを強く握りしめて意地で堪える。ここでへたり込んでしまえば、自分の抱えていた執着も余裕のなさも、すべてが白日の下に晒されてしまう。
「君を不安にさせて、悪かった」
 ひどく真摯な声で謝罪され、俺は息を呑んだ。そうやってまっすぐに謝られてしまえば、俺が先生を奪われることを恐れ、みっともなく怯えていたという事実が、覆しようのないものとして確定してしまう。絶対に認めたくなかった己の弱さを、これ以上ないほど優しく突きつけられ、返す言葉すら見つからない。
完全に打ちのめされ、俯く俺に、彼が静かな声をかけた。
……夜風は冷える。そろそろ中へ戻ろう」
 そこに甘やかすような響きはない。ただ純粋に、教え子の体調を案じる教師としての、あるいは野営の夜を知る傭兵として、ただ淡々と事実を告げただけだった。それなのに、心底ほっとしている自分がいる。
 顔を上げると、夜の闇の中でもはっきりとわかる、底知れないほど透き通った瞳が迷いなく俺を見つめていた。腹の底にある泥のような執着や、醜い独占欲など一切気にも留めない、ただの善意だ。
 相手を盤上で操るつもりが、どうだ。俺は自分の不安すら見失い、彼が提示するひどく単純な『事実』をありがたがって、ひとり勝手に息を吹き返している。
……ほんと、ばかみたいだ」
「何か言ったか?」
「なんでもないよ。先生の言う通り、冷えてきたからそろそろ戻ろう」
 この恐ろしくまっすぐであたたかな人を、いずれ手放せなくなるのは自分の方なのだ。冷たい風に火照った頬を撫でられながら、俺は誰にも聞こえない声で、その残酷な予感をそっと飲み込んだ。





 五年という歳月は、多くのものを変えた。この修道院もまた、戦火に焼かれ荒れ果てていたもののひとつだ。
 しかし、この釣り池だけは不思議と昔の面影を残していて、水面を見つめて静かに釣り竿を握る彼の背中も、士官学校時代と何ひとつ変わらないように見えた。
「お、またこんなところで油を売ってるのか」
 あの日と同じように声をかけると、彼はゆっくりと振り返り、わずかに目を細めた。かつては冷たく透き通っていただけの瞳の奥に、今は確かな親愛と、人間らしい感情の色が滲んでいる。
……少し、昔のことを思い出していたんだ」
「昔?」
「ああ。ここで君が、急な腹痛を起こして医務室へ向かった時のことだ」
 唐突に急所を突かれ、俺は思わず顔を引きつらせた。あのころの、余裕がなくて必死に探りを入れていた自分が、彼の純粋で残酷な言葉に致命傷を負って逃げ出した日のことだ。勝手に突っ込んでいって勝手に傷付いただけの、愚かな自分。それでもあのころはああするしかなかったのだ。
 思い出すだけで、忘れていたはずのひりつくような焦燥感がよみがえる。
「今の自分ならわかる」
 隣に腰を下ろした俺に向かって、先生は水面を見つめたまま、静かな悔恨を滲ませて言った。
「あの時の腹痛は、嘘だったのだろう」
……
「当時の自分は人の心というものが分からず、君の言葉をそのまま受け止めてしまった。己の夢を語りたがらない君に対して、他学級の生徒のあり方を『好ましい』などと……君をひどく追い詰めるようなことを言って、すまなかった」
 他者の痛みを知った彼は、過去の己の無神経さを恥じるように、静かに伏し目がちになる。そのひどく人間らしい、申し訳なさそうな横顔を見ていると、ひりついていた胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされてゆくのがわかった。
……まったく。あんたは相変わらず、変なところで勘が鋭いな」
 小さく息を吐き出し、俺は自嘲するように肩をすくめる。
「いいさ、もう昔の話だろ。それに、あの時の俺がたいそう焦っていたのは事実だ。喉まで出かかっていたのに、どうしても言えなかった言葉があったんだからな」
 自分の弱さを認めるのが怖かった。どうにかうまく立ち回って、彼を自分のそばに置いておくことだけを考えていた。
 だが、今は違う。俺たちは共に血を流し、五年という歳月を越えて、互いの命を預け合う仲になった。もう、みじめな執着だと切り捨てて逃げ出す必要はない。
「なあ、『先生』」
 過去の自分を受け入れられる程度には大人になったと思っていたが、いざ口にするとやはり緊張する。でも、この人に求める以上、俺も差し出さなくてはならない
「どこにも行かないでくれ。俺には、あんたが必要なんだ」
 あの日、どうしても口に出せなかった言葉。五年越しに誇りを持って差し出した本音を聞いて、彼はわずかに目を丸くしたあと、ひどくやわらかく微笑んだ。
「自分が選んだのは金鹿の学級であり、他でもない君だ」
 わずかな迷いもない、あの夜と同じ、静かな声だった。懊悩した日々が、少しばかり恋しい。
「これからも、君と共にいよう」
 冷たい風の中で逃げ出したあの日から、どれだけ遠くへ来ただろう。俺たちが見ている景色もずいぶんと様変わりしてしまった。でも、この人は変わらず俺のそばにいて、のんきに釣り糸を垂らしている。
 五年という時を経ても色褪せないその確かなあたたかさは、この先もずっと、俺の心を生かし続けるのだろう。


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