X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです
Xフォロワー限定公開・リスト限定公開の停止について

寒月(レトクロ)

全体公開 レトクロ 2385文字
2026-03-04 19:20:42

無双軸(黄燎)。ベレトに対して「いなければよかったのに」と「ずっとそばにいてくれればいいのに」という相反する感情を抱く、クロードのある夜の話。レト←クロ気味。

Posted by @Bombwooo

 卓上に広げられた大陸の図面は、幾度も書き直された墨の跡で黒く汚れきっていた。戦局は泥沼の様相を呈している。戦場をどれほど敵の血で染めようとも、彼らはすぐさま新たな軍勢でその傷を塞ぎ、陣形を塗り替えてくる。勝てば勝つほど、大切な何かが壊れてゆく。終わりなき消耗。
 内と外を隔てる古い壁を壊し、誰もが隣人と手を取り合う世を創る。その大望を抱き、クロード自身もまた駒となり、盤上を駆け抜けてきた。
 駒を進めるたび、苦しくなる日々。嫌な現実ばかりが目に入る。理想や夢はすっかり煤けて、もはやどんな色をしていたのかすら思い出せない。
 そんな苦しみの最中に現れたベレトという存在は、その野望を実現するための最強の手札だった。戦神の如き武で敵を蹂躙し、絶望的な戦況すら単騎で覆す。どれだけ手札がみすぼらしかろうとも、彼だけはいつもかがやいて見えた。
 その姿を見るたび、クロードの胸の奥底で、とうに潰えていたはずの夢想が再び首をもたげる。彼がいれば、本当に世界を造り替えられるのではないかという、身の丈に合わない光を抱いてしまうのだ。
 しかし、手札がどれほど強大であろうとも、それを切る盤面そのものが淀みきっていては意味がない。時間は無情に過ぎ去り、旧き秩序も崩れる気配はない。
 ただクロードの精神だけが、削り取られてゆく。命が掌からこぼれ落ちる瞬間が、強烈に眼裏に焼き付いて離れない。

 血濡れた外套を翻し、帰還の報告に訪れた傭兵の顔には、疲労の色ひとつ見えない。
 ただ事実として勝利を告げるその双眸を見つめたとき、クロードの中で限界まで張り詰めていた糸が、唐突に断ち切られた。
……お前さえ、あんたさえいなければ、」
 吐き出した呪詛は、酷くひび割れていた。 終わりの見えない戦の重圧と、積み重なる死骸、そして一向に塗り替わらない地図。
 限界まで張り詰めた思考は暗い淵を宛てもなくさまよい、底なしの泥沼へと沈み込んでゆく。
 半端に口にしておきながら、それ以上はとても言えなかった。彼ではなく、自分がいよいよ壊れてしまいそうだったから。
 いっそ、この狂いかけた雇い主を見限ってくれればいい。呆れて、その背を向けて去ってほしい。そうすれば、叶いもしない大望など捨ててしまえる。
 だが、彼が本当に踵を返せば、己は這いつくばってでもその足首を掴み、引き留めるだろう。どこか、この手が届かぬところへ消えてほしい。どこへも行かないでほしい。相反する願いが刃となって、内側から己を切り刻む。
 投げつけられた理不尽な感情の波を前に、翡翠の瞳はただ瞬きを忘れたように静止していた。 ベレトは歩みを進めることも、退くこともせず、冬の木立のように立ち尽くす。
 機微に疎いその精神には、目の前の男がなぜ自ら噛み付いては傷ついているのか、まるで理解が及んでいない。深い静寂が横たわり、永遠とも思える時間が過ぎた。
 やがて、迷うような微かな衣擦れの音が落ちる。丸まった背中に、不格好な重みが乗った。
 剣を振るうことしか知らない掌を、強張った背の造作を確かめるように、ただ不器用に上から下へと撫で下ろした。それは見様見真似の、ひどく拙い慰めの作法だった。
 その掌の動きがもたらす僅かな摩擦に、クロードは背筋を凍らせた。また、焦がれてしまう。この温もりに触れてしまえば、とうに砕け散ったはずの世界を造り替えるという幻想を、再び追い求めてしまう。その絶望的なまでの予感が、抗いがたい引力となって魂ごと絡め取る。やめてくれと叫ぶべき喉はひきつり、震える体は逆にその掌の重力へと傾いていった。
 背を撫でていた手が止まり、次いで力強い腕がクロードの身体を引き寄せ、囲い込んだ。彼の身体は想像通り無機質で、しかし人のかたちをしていた。
「優しくしないでくれ……自分でも、おかしなこと言ってるってわかってるんだよ」
 衣服の肩口に押し付けられた顔から、掠れた声がこぼれ落ちる。
「自分には、正解が分からないが」
 かすかな迷いを孕んだ声が落ちた。己のこの不格好な振る舞いが、相手を慰める作法として正しいのか、彼自身にも判断がついていないのだろう。けれど、続く言葉には一切の打算も嘘も感じられなかった。
「ただ、こうしてやりたいと思った」
 耳元で紡がれたただの事実に、堪えきれない何かが肺の奥からせり上がってくる。唇が震える。これ以上無様を曝すわけにはいかない。これ以上、情けない姿を見せたくなかった。
 クロードは咄嗟に身をこわばらせ、相手の薄い胸を押し返そうとあがく。
……離せ。頼むから、見ないでくれ」
 震えを帯びた声で拒絶を試みる。しかし、突き放そうとする両手が伸びきるより早く、その細い腕のどこに潜んでいたのかと疑うほどの強い力に抱き締められる。
 刃を振るうためだけに鍛え上げられた、有無を言わさぬ腕力。どこにも行かないでほしいと願った通り、彼がすぐそばにいる。違う、こんなの望んじゃいない。やめろ、やめてくれ。身を焦がすような歓喜よりも、抗いようのない引力に呑み込まれる底知れぬ恐れが背筋を這い上がってくる。
 ベレトは何も言わない。もしかすると、言葉を知らないだけかもしれない。
 クロードにとってはどちらでもよかった。擦り切れた自尊心はもはや何の役にも立たず、堰を切ったように感情が溢れ出す。
 決して見捨てられはしなかったという途方もない安堵と、結局この男に縋るしかできない己の底知れぬみじめさ。真逆の感情が綯い交ぜになり、声にならない嗚咽となって喉の奥を塞ぐ。
 抗うことを諦めた指先が相手の外套をきつく握りしめる。不器用な手が、孤独な背を撫でる。差し出された温もりにすがりつくことしかできない、こんなちっぽけな自分が、今さら彼を諦められるはずもないのだ。


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.