本編軸/士官学校時代。マシュマロでいただいた、「クロードが薬を作る際に、出た煙や蒸気を自分で吸ってしまう」話のつもりでしたが、自分でお香をつくって自分で火をつけてます。
マロリクありがとうございました🙏✨
@Bombwooo
近ごろの俺は気付きを得た。口に入れるものはやはり警戒される、と。
それを俺が勧めるのだからなおさら怪しまれる。日ごろの行いが悪いなんてことはないはずなのに、何も入っていないものですら怪しまれる。
しかし毒というものは身体に取り込まれなくちゃあ、意味がない。目や耳も入口としてありといえばありだが、手段が思いつかない。どうしたものかとさすがの俺も頭をひねる。
そんなとき、食堂から立ちのぼる黒煙――よその学級の生徒がどうもやらかしたらしい――を見て閃いた。そうだ、煙だ、と。
香にすれば皆、怪しむことなく吸い込むのではないか。東方から仕入れた格式高い香木をうんたらかんたら。まあ、説明は適当でいいだろ。善は急げとばかりに俺は自室へと戻ろうとする。
しかし、ふと冷静になった。手段は決まったが、肝心の目的がまっさらだ。腹を下す香なんて作れるのか。そもそもそんなものが存在するのか。
行先を変更して、勢いよく大広間を突っ切る。途中、先生とすれ違ったので、機嫌よく手を振ったやった。みるみるうちに眉間に皺が寄る。とても生徒に向けるような顔じゃなかったが、構ってやる暇もないので俺はそのまま書庫へと急いだ。
正直、書庫に眠る書物には期待していない。俺がよろこびそうな代物はかたっぱしから燃やされていることだろう。だからここで想像力を働かせてみる。たとえば兵法の本。煙をどう使うか、考える。しかしどうもぴんとこない。
次に手を伸ばしたのは、埃を被った古い文化史の書物だった。紐解いてみると、とある部族の儀式で用いられるという特殊な香の記述を見つけた。人の警戒心を解き、心を静める効能があるらしい。材料は数種類の枯れ葉と樹液。これなら手持ちの薬草を勝手に組み合わせて、どうにかできそうだ。名案に口角が上がるのを止められなかった。
目当てのものを手に入れた俺は、今度こそ自室へと戻り、さっそく薬草をすり潰す。肝心のにおいが気になったので、軽い気持ちで火を落としてみた。が、それが運の尽きだった。
香の出来が悪かったのか、あるいは独自の配合が裏目に出たのか。香炉から立ち昇ったのは、ひどく甘ったるく、脳髄の奥を直接撫で回すような濃密な煙だった。
扉を開く鈍い音がしたとき、俺の視界は春の陽炎のように頼りなく揺らいでいた。警戒して跳ね起きるべき思考はひどく鈍り、手足からはすっかり芯が抜け落ちている。部屋の入り口に立つ影を見上げ、俺はだらしなく頬をゆるめた。あの不自然な笑顔を訝しみ、わざわざあとをつけてきたのだろう。ご苦労なことだ。
「よう、先生。ちょうどいいところに来たなあ。少し、俺の膝を貸してやろう」
普段なら絶対に口にしないようなたわ言が、呆気なく喉からこぼれる。油断も隙もない策士の皮は完全に溶け落ち、目の前の相手に対する一切の警戒心が霧散していた。
俺の聖域に踏み込んできた男は、甘い煙に満ちた部屋の惨状と、骨抜きにされた俺の姿を胡乱な目で見下ろした。
「……いや、結構だ」
すげなく切り捨てられた声は、冬の海のように冷ややかだった。先生は袖口で鼻と口を固く覆いながら大股で部屋を横切り、躊躇いなく窓を大きく押し開けた。途端に、冷気がどっと室内に流れ込んでくる。澱んでいた空気が外へと散ってゆく中、窓際に立つ影が、呆れたような、しかし逃げ道を塞ぐような声音で問いかけてきた。
「この甘い香りは何だ」
「んー……適当に作った香」
視界がぐにゃぐにゃと歪んで気持ち悪い。でも、気持ちいい。自分でも何を言っているのかさっぱりだったが、そんなよく分からない高揚感がずっと続いている。俺は先生の手を引いて寝台に腰掛ける。当然、俺の力じゃ先生は微動だにしないので、俺がひとりで勝手に転がるかたちになった。
「食堂でつまみ食いをしたのは君か?」
「ああ、そうだよ。見つからないようにうまーくやったつもりだったんだけどなあ」
「温室に怪しい花を植えたのも君か?」
「……あれは毒草なんだぞ。すごいだろー? 俺もまさか、あんなに目立つ花が咲くとは思わなかったけどさあ」
答えたいわけではないのに、止めどなく真実がこぼれ落ちる。先生は呆れを通り越して、すっかり真顔になっていた。
どうやら自作の煙は、人の頭をとことんばかにする恐ろしい効能を秘めていたらしい。なんという失敗作か。
しかし、理性を覆っていた分厚い壁が取り払われたことで、心の奥底に厳重にしまい込んでいた澱のような本音までもが、波打ち際へと押し流されてゆく。ああ、先生。どうかもう喋らないでくれ。俺が悪かったから。
「こんなものを作って、いったい何がしたかったんだ」
俺の気持ちなんて見向きもせずに、ため息交じりの問いかけが飛んでくる。俺は自嘲気味に笑った。
「相手の心を丸裸にしてやりたかったんだ……そうすれば、俺は疑わずに済むだろ」
大陸を隔てる壁を壊し、誰もが手を取り合う開かれた世をつくる。それが俺の野望だ。けれど、世界を丸ごとこじ開けようとしているくせに、俺の内側はひどく狭く、閉じている。
故郷で生き抜くために培った猜疑心は、常に誰かの腹を探り、毒を警戒し、決して他者に背中を預けようとはしない。血の繋がった者同士ですら命を奪い合う世界で、無条件に寄りかかれる存在などあるはずもない。それでも心のどこかで、俺の理想をかき集めたような「きょうだい」という温かい繋がりを、暗闇の中で探し求めているのだ。
そんな矛盾に満ちた孤独が、煙に酔った口からするりと滑り落ちた。
「腹の探り合いをしなくていい、気を赦せる相手が欲しかったのかもな。一切の警戒を捨てて、隣で笑い合えるような」
唐突にこぼれ落ちた願望は、ひどくちっぽけで孤独な響きを帯びていた。
これまで誰にも言わず、ひた隠しにしてきた夢を口にしてしまった途端、肺を満たしていた甘い香りが急速に薄れてゆくのを感じた。吹き込む風とともに煙が散るにつれ、輪郭が溶けきっていた理性が急速に元のかたちを取り戻してゆく。
自分がいま、どれほど無防備な顔で、どれほど致命的な本音を吐き出してしまったのか。その事実に思い至った瞬間、冷水を浴びせられたように全身の血の気が引いた。
ごまかす言葉を探して顔を上げる。しかし、窓際からこちらを見下ろす瞳に、先ほどまでの剣呑な光はなかった。
呆れと、それ以上の何かが混じったようなまなざし。その真意を測りかねていると、先生は静かに歩み寄り、ほっとしたように微笑んで、俺の頭に不器用な手を乗せた。それから、子どもをあやすようにやさしく撫でる。
慰めなのか、あるいはばかな真似をした生徒への哀れみなのか。ただその手のひらの重みは、ひどく温かかった。俺が軽口を叩き返す前に、先生は満足したように手を離すと、そのまま背を向けて部屋を出て行ってしまった。
甘い残り香と、全開の窓から吹き込む風と、呆然と間抜け面を晒している俺。ばかなやつ、と笑われたほうがどれだけ気が楽だったか。
誰も笑ってくれないならと、せめて自分で笑ってやろうとしたのに。あの人のせいで、俺は何者にもなれなかった。