無双(黄燎)軸の転生現パロで、『星を追って』がベースになっています。ふたりとも記憶有。
@Bombwooo
この途方もなく広い世界で、かつての顔なじみに遭遇する確率なんてのは天文学的な数字だ。だから俺は、今日も気楽に生きられる。
平和な現代社会は少し退屈ではあるが、気ままでいい。命を狙われることもなければ、目の前に毒が入っているかどうか疑う必要もない。今日の晩飯は何を食べようかなどとのんきな悩みを抱えて生きられる。
前世の、あの血と泥に塗れたみじめな最期は、俺の個人的な感傷の底に沈めておくのが一番いい。どれだけ焦がれようと、彼が俺の元を去ったあの日から、俺には彼を引き留める権利なんてないのだから。
彼の人生に俺という存在が入り込む余地なんて、最初からなかったのだ。そんな現実を二度も突きつけられるくらいなら、綺麗な思い出のまま終わらせておきたい。そう、本気で思っていた。
だが、運命の女神というのは、どうしてこうも俺の嫌がる盤面ばかり用意するのだろう。退勤ラッシュでごった返す、駅前の巨大な交差点。今日の夕飯は奮発して美味いものでも食おうか、などと平和ボケした頭で考えていた矢先だった。
すれ違う何百という群衆の中で、俺は呆気なく見つけてしまった。――目が、合う。どくどくと、心臓がひどくうるさい音を立てた。
「あ、」
向こうが何か言いかけるより早く、俺は踵を返し、一目散に駆け出していた。
「待て!」
背後から聞こえた声に、俺はさらに速度を上げる。今日は歩きやすい靴を履いていて本当によかった!
見るからに只者ではない圧を放つ男から、俺は本気で、文字通り命がけで逃げた。かつて、彼に命を狙われた日のことを思い出す。
行き交う人々の間を縫うようにすり抜け、歓楽街の雑踏を横切り、入り組んだ路地裏へと飛び込む。息が上がり、肺が焼けるように熱い。背後を振り返る余裕すらなかった。作戦もへったくれもない、ただ彼から逃げ切ることだけを考えた全力疾走。足がつりそうになる。
だというのに、角を曲がり、ビルの隙間を抜け、どれほど複雑なルートを辿っても、背後から迫る足音は一向に遠ざからなかった。野生の獣か、あんたは。
どれだけ走っただろうか。路地の行き止まりで、俺はとうとう腕を掴まれ、煤けたビルの壁に押し付けられた。
「……っ、何で、追いかけて、くんだよ……!」
「君が、逃げるからだ!」
互いに肩で息をしながら、俺たちはひどく間抜けな問答を交わした。あれだけ戦場を駆け回っていた俺たちも、今の体では数分本気で走っただけで息が上がるらしい。それが少しだけおかしくて、それと同時に、俺を絶対に見失わなかったその執念がうれしくて、もどかしくて、泣きそうな顔で笑うしかなかった。
「……家に来ないか。少し、話をしよう」
息を整えた彼が、ふと真顔になって言った。俺は目を丸くする。あの朴念仁だった男が、ずいぶんと直球すぎる口説き文句を覚えたものだ。ここでうなずけば、完全にペースを握られる。いよいよ逃げられなくなる。
「あのなあ……この世界じゃ、俺たちは今日が初対面なんだぞ? そんな誘いにほいほいついていくほど深い仲じゃないだろ」
わざとらしく肩をすくめてみせる。前世の繋がりがあるとはいえ、今の俺たちがどういう距離感で、どんな言葉で接していいのか、本当はよく分かっていなかった。
「つーか、あんた、自分のその顔わかってて言ってんのか? あんたがそうやって甘い言葉を囁けば、みんなころっと騙されるんだろうな。……悪いが、密室でおとなしく首を差し出す趣味はないんでね。話があるなら、そこらのカフェにしてくれ」
俺がそう言い捨てると、彼は少しだけ不満そうに眉を寄せたが、やがてしぶしぶといったふうに俺の腕を解放してくれた。強引に掴まれていた手首をさすりながら、俺たちは連れ立つようにして、薄暗い裏路地から喧騒の響く大通りへと戻った。
そうして持ち込んだカフェでの時間は、ひどく居心地が悪かった。
そもそも、どうして俺はこいつの誘いを断らなかったのだろう。あれだけ全力で逃げたくせに、いざ捕まって誘われれば、あっさりとその隣を歩いている。
いや、正しくは『断る』という選択肢が、俺の頭にまったく浮かばなかったのだ。そんな自分の未練がましさと情けなさに、今すぐテーブルに突っ伏して頭を抱えたかった。
彼は肝心なことは何も言わず、ただ「君に会いたかった」とだけ、あの深海のような瞳でまっすぐに告げてきた。俺を追いかけた、それなりの理由はあるらしい。
だが、俺からすれば、終わった話を今さらほじくり返されるのは酷というものだ。今さら絆らしきものを突きつけられても、俺の心はもう、あの暗い玉座で致命的にすり減ってしまっている。
見透かしてくるような視線から逃げ出したくてたまらなかった。だが、真正面から見つめてくる相手を前に、あからさまにスマホを弄るのも気が引ける。
逃げ場のない息苦しさをどうにかしたくて、俺は真っ直ぐに見透かしてくる彼の視線から強引に目を逸らした。
上着のポケットに手を突っ込み、付き合いで買った、ろくに減っていない煙草の箱を探り当てる。この店が禁煙であることは、入り口の扉をくぐった時から分かっていた。目の前のテーブルにもご丁寧に禁煙マークが置かれているのだから、火をつけるわけにはいかない。少しでも今のすれっからしな自分を見せつけて、がっかりしてほしかったのに。
それでも、今の俺にはこのちっぽけな箱を盾にして、沈黙を誤魔化すしかなかった。
わざとらしくポケットから箱を取り出すと、ことさら音を立ててテーブルの上に置く。そして、さも今、目の前の小さなマークに気づいたかのように、大げさな身振りで肩を落としてみせた。
「……あーあ。ここ、禁煙か」
とっくに知っていたくせに、ひどく残念そうな芝居をする。我ながら滑稽だ。手持ち無沙汰を装って箱のフィルムを爪で弾くと、彼は静かにこちらを見据えたまま、少しだけ目を細めた。
「……煙草を吸うのか」
「まあね」
俺はこれ見よがしに大きく息を吐いた。
「大人になれば、いろいろとしんどいことも増える。煙に巻きたくなることだってあるのさ」
どうだ、あんたの知っている夢見がちだった男は、こんなくだらない虚勢を張るようなつまらない大人になっちまった。そう伝われと念じながら、彼が静かに過去の輪郭に触れようとするたび、俺は今の仕事の愚痴やどうでもいい世間話へと露骨に話題をすり替え続ける。決してあのころを思い出させないように、のらりくらりと核心を躱し続け、気づけば店を出る時間になっていた。
すっかり日の落ちた街道を、無言で歩く。お互い、帰る方向すら聞いていない。
なのに、どうしてか「じゃあな」のひと言が切り出せずに、肩を並べて歩き続けていた。
見ちゃいけないとわかっているのに、街灯に照らされる彼の横顔を、つい何度も盗み見てしまう。前世の無骨な傭兵姿からは想像もつかないほど、仕立ての良い細身のスーツが嫌味なほど似合っていた。すれ違う通行人が幾人も振り返るようなその洗練された佇まいが、なんだか無性に腹立たしい。
カフェでわざと、打てば響かないような冷めた受け答えばかりを繰り返した。俺が自分で突き放したのだから、この重苦しい沈黙は自業自得だ。きっと彼も呆れたことだろう。これでもう、本当に最後だ。
自ら突き放しておきながら、どうして追いかけてくれないんだと心のどこかですがろうとしている。自分のこの底なしに面倒くさい感情に、ほとほと嫌気がさす。
そうだ、これで最後になるなら、あの冷たい土の上で思い描いた顔を、この目の前にある真新しい横顔で少しだけ塗り替えるぐらいは、赦されるだろうか。
そう言い訳をして視線を向けるたび、どうしても目が吸い寄せられて、やめられない。相変わらず無機質で、きれいで、でも考えていることは大抵顔に出る。あんたのそういうところが好ましかった。
――駄目だ。雰囲気に呑まれそうになる。これ以上見つめていたら、俺のほうがどうにかなってしまいそうだ。期待して、また掌を返されたら、今度こそ俺は完全に壊れてしまう。
どんな手を使ってでもこの息苦しい空気を壊したくて、俺はさっきの箱を取り出した。
「さっきの続き、一本吸わせてもらうぜ」
彼のがっかりした顔が見たくて、歩きながら慣れない手つきで紙の蓋を開けようとした、その時だった。無骨な手が伸びてきて、俺の手ごと、脆い煙草の箱を容赦なく握りつぶした。
「――っ、痛っ……何す、」
相変わらず、加減というものを知らないらしい。紙箱がひしゃげる音と一緒に、指の骨が軋むほどの強い痛みが走る。だが、抗議のために顔を上げた俺の言葉は、呆気なく喉の奥へと押し戻された。掴まれた手首を力任せに引き寄せられ、そのまま、すべてを塞ぐように唇を奪われる。
手の中で潰れた煙草の感触と、鼻先をかすめる微かな葉の匂い。それらをすべて塗り潰すように、息が詰まるほどの熱が押し付けてくる。
近すぎる。睫毛が触れそうなほどの距離で、相手の表情なんて何ひとつ見えない。強烈な衝撃に声も出ず、俺はただその場で石のように固まるしかなかった。
けれど、冷たい土の上で俺が最後にすがりつき、永遠に瞼の裏に閉じ込めたはずの顔が――今この瞬間の、火傷しそうなほどの熱と現実感によって、跡形もなく上書きされていくのがわかった。
ああ、駄目だ。理性を覆っていたぶ厚い壁が、呆気なく音を立てて崩れていく。過去をはぐらかそうとした俺のささやかな虚勢は、彼の手によって、中身の折れた箱ごと完全に握り潰されたのだった。
「……これで、分かった」
ほんの僅かに唇が離れた隙間。俺を見下ろす深海のような瞳が、ひどく満足げに細められて、低い声が鼓膜を打った。いったい、こんな無理矢理なキスで何が分かったって言うんだよ。いきなり口の中まで侵略しておいて、ひとりで勝手に納得するな。何もかも、順序がおかしいんだよ。
文句のひとつでも叩きつけてやろうと口を開いたのに、再び深く塞がれた息のせいで、それはただの情けない熱い吐息にしかならなかった。
フォドラの女神は、つくづく俺が嫌いらしい。