本編軸(翠風)で、第二部のどこか。
しれっとラッキースケベ体質になってしまったベレトに巻き込まれるクロードの話。レトクロです。
@Bombwooo
大広間へ向かう廊下の角を曲がった瞬間、視界が唐突に暗く塞がれた。
無防備に、顔面から激突しそうになった俺を、伸びてきた強靭な腕がぐんと引き寄せる。そのまま俺たちはもつれ合うようにして、冷たい石畳の上へと転がり込んだ。背中を強く打ち据える衝撃を覚悟して固く目を閉じたが、いつまで経っても痛みは訪れない。恐る恐る目を開けると、俺の頭と背中には、先生の手がしっかりと添えられていた。
「……すまない、クロード。怪我はないか」
俺を下敷きにするような格好で、彼が真剣な顔でこちらを覗き込んでいる。鼻先が触れそうなほどの距離。さすがに慌てたらしく、少しばかり呼吸が乱れているせいで、吐息が直接肌にかかるのがわかった。
「あー……いや、平気だ。俺こそ前を見てなくて悪かったよ」
精一杯の平静を装って返事をするが、胸の奥では心臓がばかみたいに警鐘を鳴らしている。組み敷かれた脚の間に、彼の硬い膝が入り込んでいるのが布越しに伝わってきて、どうにも落ち着かない。せめてもう少し、こう、位置をずらしてもらえないだろうか。
というか、顔がいい。近い。体温が熱い。ただの男同士の鉢合わせだというのに、どうしてこうも間が悪いのか。
あいにく、俺にそっちの気はない。俺自身、そういう方面に明るいわけではないが、誰がどう楽しもうと目くじらを立てるつもりはない。だが、この人だけは絶対にだめだ。俺たちはきょうだいで、互いに背中を預け合う唯一無二の存在なのだ。やっと手に入れた尊い均衡を、名前のつけづらい熱で崩したくはない。
だからこそ、俺はこの不慮の事故に対しても、ただの思いがけない僥倖だとか、役得だとか、頭の中で理屈をつけてやり過ごそうとしている。これしきのことで、俺がほだされるはずもないのだから。
「……クロード? やはり、どこか痛むのか。顔が赤い」
草原のような瞳が、純粋な庇護欲だけを浮かべて俺を見つめている。そこに微塵の下心もないからこそ、余計に性質が悪い。これ以上の無自覚な引力は心臓に悪いと判断し、俺は無遠慮に近づいてくる端正な顔面に掌を押し当て、力任せに遠ざけた。白い頬はことのほかやわらかい。
「っ、なんでもない! 頼むから、もう少し顔を離してくれ! 近いんだよ!」
無理矢理距離をとって、ようやく息継ぎをする。まだ心臓がうるさい。
近ごろ、先生の周囲では妙な出来事が続いている。
ひとりでに足を滑らせ、前を歩くヒルダに寄りかかったり、崩れた荷物を避けたはよいものの、勢い余ってラファエルの胸へ顔面からぶつかりにいったり。普段は隙のないあの人が珍しく災難に見舞われている姿は、正直に言えば、少しばかり面白かった。
けれども、いざ俺の番になると、どうも勝手が違う。ただぶつかるだけでは済まないのだ。なぜか顔が数寸の距離まで近づいたり、重なり合うようにして床に倒れ込んだりする。あの人は転ぶ寸前に気を利かせて俺を守ろうとしてくれるのだが、それがことごとく裏目に出るわけだ。
もちろん、あの整った顔を見られるのは間近で悪くはない。俺だって、うつくしいものは好きだ。
盟主として共にいる時間が長いから、単に間の悪い巡り合わせが多いだけ。そう自分に言い聞かせてはみるものの、どうも最近、俺の時だけ被害の規模が大きすぎる気がしてならなかった。
その懸念が確信に変わったのは、それから数日後、深夜の軍議でのことだった。
卓上に広げられた巨大な周辺地図を挟み、俺たちはふたりきりで進軍経路の最終確認を行っていた。
「この谷の抜け道だが……ここを通れば、敵の背後を突けるのではないか」
背後に立った先生が、俺の肩越しに腕を伸ばして地図の一部を指差す。息がかかるほど近い距離に、俺は内心の焦りを悟られまいと、努めて冷静なあいづちを打った。
「ああ、悪くない手だ。ただ、足場が悪いから……」
言葉を返そうとわずかに振り返った、その時だった。先生が体勢を変えようと踏み出した足が、床に落ちていた丸まった羊皮紙を見事に踏み抜いた。
声にならない短い音と共に、背後で大きく姿勢が崩れる気配がした。咄嗟に卓へ手をついて身体を支えようとしたのだろう。だが、先生の無骨な手が滑り込んだのは、硬い木の板ではなく――あろうことか、少しばかり開いていた俺の衣服の襟元だった。
手袋に包まれた指先が、胸元の素肌を直接まさぐるようにして止まる。それだけならまだしも、体勢を立て直そうと無意識に指へ力が込められたせいで、鍛え抜かれた剣士の掌が、俺の胸筋を鷲掴みにするような最悪のかたちでもつれ合ってしまった。
「すまない、足元をよく見ていなかった。君に怪我は……」
「俺に怪我はないから! まずはその手を服の中から出してもらえるか!」
真顔で安堵の息を吐く先生に対し、俺は素っ頓狂な裏返った声を上げてしまった。
肌に触れる革のひんやりとした感触と、そこから伝わる容赦のない指の力が、どうしようもなく生々しい。当の本人は、俺の動揺など露知らず、服の中に手を入れたまま至極真面目な顔で俺の顔色を窺っている。まったく、この温度差はなんなんだ。
いや、一旦落ち着こう。これはただの憎めない失態だ。彼に悪気など一切ないことは、そのまっすぐな瞳を見ればわかる。
しかしさすがに、男女問わず魅力を振りまく相手に素肌にあんなふうに触れられて、何もなかった顔でいられるほど俺も鈍くはない。耳の後ろがぞくそくして、やわく噛み締めた唇の端からは熱い息がこぼれる。これではまるで、役得を通り越してただの拷問だ。
「君の服は、少し隙間が多いな。……それでは風邪を引きそうだ」
「あんたが手を突っ込んだせいで広がったんだよ!」
衣服から手を引き抜きながら、的外れな心配をしてくる男を前に、俺は深々と天を仰いだ。
俺はこの人には傾かない。この人にだけは、絶対。何があっても、だ。
そう固く誓っていたはずの防衛線は、日々じりじりと削りとられてゆく。
軍議での一件から数日後。天からの恵みによって、俺のささやかな平穏は呆気なく洗い流されることとなった。
次なる進軍に備え、俺たちは本隊より先行して山間の地形を偵察していた。護衛はつけると言ったのだが、「自分がいちばん手っ取り早くて、確実だろう」とあの男が譲らなかったのだ。
そうしてふたりで馬を走らせていた矢先、不運にも滝のような雨に見舞われた。
「先生、ひとまずあそこの見張り台に入ろう!」
打ち捨てられた石造りの古い見張り台へと滑り込み、俺たちは大きく息を吐き出した。雨宿りにはちょうどいいが、大人ふたりが身を寄せるにはひどく手狭な空間だ。
互いにずぶ濡れになった姿を見下ろし、俺は溜息をつきながら髪から滴る水を払った。
「まったく、とんだ災難だったな。本隊が追いついてくるまで、ここで少しやり過ごすしか……おい、ちょっと待て。何をしているんだ」
振り返った先で、先生はなんの躊躇いもなく、ずっしりと雨水を吸った分厚い外套を脱ぎ捨てていた。そればかりか、その下に着込んでいた上着の留め具にまで手をかけている。
「このままでは風邪を引く。君も脱いだほうがいい」
「言いたいことはわかるが、待て」
俺は慌てて彼の手を掴もうとする。濡れた衣服のままでは体温が奪われるなどということは、戦場に立つ者として百も承知だ。この大事な時期に風邪を引くわけにはいかないし、もちろん、それは彼も同じだ。
しかし、だからといってこの逃げ場のない狭い石室で、ふたり揃って素肌を晒す心の準備などできているはずがない。
「俺はあとでどうにかするから! あんたはとりあえずそれを……いや、濡れたまま着ろとは言えないが、とにかく!」
俺のしどろもどろな制止など意に介す様子もなく、重い布が容赦なく床に落ちる。薄暗い石室の中で、引き締まった半裸の身体があらわになった。
戦場で鍛え抜かれた無駄のない筋肉に、雨水が艶やかに伝い落ちてゆく。ところどころに刻まれた傷の中には、いびつに塞がったものもあって――いやいや、俺は何を見入っているんだ。直視してはいけないとわかっているのに、どうしても目が吸い寄せられてしまう。ただでさえ狭い空間に、じっとりとした体温が充満し始めていた。
「……君の髪、ひどく濡れているな。拭いてやろう」
「い、いい! 自分でやるから、こっちに近づく、なっ……」
小さな布を取り出して歩み寄ろうとした先生が、突然短く息を呑んだ。
不吉な破砕音が響いたのは、同時だった。雨漏りで腐りかけていた床板が、先生の踏み出した足の重みに耐えかねて崩落したのだ。
あ、と思った時にはもう遅かった。体勢を崩した先生が、咄嗟に俺の腕を掴み、背後から強引に引き寄せる。巻き込まないように庇ってくれたのだと理解するより早く、俺の背中は冷たい石壁へと激しく押し付けられていた。
「――っ」
声にならない悲鳴を上げたのは、壁にぶつかったからではない。俺を壁との間に挟み込むようにして踏ん張った先生の、しなやかな胸板が、背中に隙間なく張り付いていたからだ。
「古い木材は脆いな……君を巻き込まずに済んでよかった」
心底ほっとしたような声が耳のすぐそばで響く。だが、俺の心境はそれどころではなかった。
俺の服が水分を吸って肌に張り付いているせいで、素肌のまま密着してきた彼の、火傷しそうなほどの体温が直接流れ込んでくる。さらに最悪なことに、崩落を避けて踏ん張るため、彼の腕が俺の腰を逃げ場がないほどきつく抱え込んでいた。
少しでも身じろぎすれば、取り返しのつかないことに繋がりかねない。逃げ場のない密室。完全に身動きを封じられた体勢。どうしてこの人の善意は、俺の時だけこうも理不尽な結果を招くのだろうか。
「……先生。頼むから、離してくれないか。さっきから腰がみしみし言ってて痛いんだが」
「やはりどこか打ったのか。少し見せてみなさい」
「あんたのおかげで俺は無傷! でも腰が痛いのはあんたのせい! だからとっとと離してくれ!」
背後で心配そうに身をよじろうとする気配に、俺は半ば叫ぶように声を荒らげた。
頼むから、これ以上は勘弁してくれ。きれいな顔を近くで見られるとか、素肌に触れてしまったとか、そういう余裕ぶった見栄で蓋をできる限界は、とうの昔に超えている。これでまたひとつ、俺はフォドラの女神への信仰心をなくしたわけだ。
首筋に当たる彼の吐息がくすぐったくて、背筋が震えた。触れている場所が熱い。どうにか気を紛らわせようと石材の数を数えるが、視覚を疎かにしたせいで、かえって背中から伝わる心音ばかりがうるさく響いてくる。まったくの悪手だ。
じわじわと分の悪くなる背中の熱を持て余しながら、俺はこのふざけた豪雨と、足元の腐った床板と、目の前の底抜けのお人よしに向けて、ありったけの悪態を胸の中で吐き捨てた。
雨宿りの一件で、俺は本格的に彼との距離を置くべきだと悟った。軍議など、どうしても顔を合わせる時間は仕方がないとして、それ以外でふたりきりになる状況は極力避ける。そうすれば、これ以上の不慮の事故に見舞われる確率も格段に減るはずだ。
――などと頭では理解していても、いざ実行に移そうとすると、ひどく胸の奥が軋む。意図的に彼を避ければ、必ず不審に思って理由を探ってくるだろうし、何より俺自身が、彼との心地よい時間を手放したくなかった。
そんな見苦しい葛藤を抱えながら、俺は深夜の書庫に身を潜めていた。調べ物を口実に、ここなら彼と鉢合わせる心配もないだろうと油断していたのだ。
だが、俺の甘い目論見は、背後からかけられた静かな声によって呆気なく打ち砕かれた。
「……こんな夜更けにどうしたんだ。眠れないのか?」
声をかけられるなど微塵も思っていなかった俺は、驚きのあまり手元の燭台を取り落としてしまった。鈍い金属音と共に灯りが掻き消え、視界が完全な暗闇に閉ざされる。
見えない焦りから慌てて後ずさったのが、完全な運の尽きだった。足元に積まれていた古い書物の山に踵を引っかけ、無様に仰け反る。
「危ない!」
暗闇の中、咄嗟に手を伸ばして庇おうと飛び込んできた彼と派手に衝突し、俺たちはもつれ合うようにして冷たい床へと転がり落ちた。全身の空気が押し出されるような衝撃のあと、俺の腹の上に跨るようなかたちになった先生が、至近距離で短く息を吐いた。
「……すまない、驚かせるつもりはなかったんだ。重いだろう、すぐに退く」
手探りで体勢を立て直そうと彼が身じろぎした、その時だった。
持ち上がった彼の引き締まった太腿が、よりにもよって俺の脚の間に深く入り込み、不用意な摩擦を生んでしまった。
短く息を吐き、俺は咄嗟に下半身をこわばらせた。ああ、もう、いやだ。
布越しに伝わる生々しい弾力と熱が、いやでも意識をそこへ引き戻す。連日の軍務で疲労が溜まっているだけだ。神経が過敏になっているせいで、些細な刺激を過剰に受け取ってしまっているだけだ。決して、俺が彼に対してよこしまな気持ちを抱いているわけではない。
必死に言い訳をかき集める俺の葛藤など露知らず、彼は「布が絡まっているな」と、再び無造作に腰を浮かせようとする。
「待て、動くな! 頼むから……今は、絶対に動かないでくれ……っ」
震えた、情けない声が出た。俺は咄嗟に両手を伸ばし、俺の上に跨っている彼の細い腰を力任せに掴んで、床へ押さえつけるように引き留めた。
「クロード? どうした。脚が挟まっているのか」
「ちがう、違うんだ。……ただ、今は、少しだけこのままでいさせてくれ」
腰を強く掴まれたまま、先生は不思議そうに動きを止める。これ以上動かれたら、取り繕う余地がなくなる。それを隠すための、必死の拘束だった。
しかしその必死さが、俺自身の首を絞めることとなる。腰を掴んで密着させてしまったせいで、彼の体温や、衣服越しに伝わる腹筋のしなやかな起伏までもが、俺の掌と下半身にありありと伝わってくる。
どうにか気を紛らわせようと固く目を閉じるが、暗闇の中ではかえって触覚ばかりが鋭く研ぎ澄まされてしまった。
「……ひどく熱いな」
至近距離から、ひそやかな声が降ってくる。心配そうに覗き込んでくる彼の吐息が、俺の火照った首筋を掠めた。
「熱でもあるのか? それに、君の心臓の音が、ここまで響いてくる」
「……熱じゃない。ただの、……っ、不可抗力だ」
純粋な心配と、これ以上ないほどの密着。気が狂いそうだ。俺は頭の中で白旗を揚げながら、彼に見えないよう、そっと奥歯を噛み締めた。
言い訳の余地など、どこにもなかった。やがて、衣服越しに伝わるあからさまな反応に気づいた彼が、かすかに息を呑んだ気配を、俺は確かに感じ取ったのだ。
もはや自分をごまかす余裕など残されていなかった。この尊いきょうだいという関係を、俺の勝手な熱で揺らしてしまったという屈辱と自己嫌悪が、胸を激しく締め付ける。
俺は彼を突き飛ばすようにして身をよじり、もつれる足で立ち上がった。何を言おうとしたのかも、実際何を口走ったのかも分からない。もしかすると言葉にすらなっていなかったかもしれない。
振り向くことすらできず、俺は泣きそうな顔を隠すようにして、逃げるようにその場を後にした。
情けなくも致命的な失態から数日。俺は露骨なまでに先生との接触を避けていた。
顔を合わせるなんてもってのほかだ。思い出すだけで、その場で頭を抱えてうずくまりたくなる。
俺の情けない反応に彼が気づいたのは明白だった。次にどんな顔をして会えばいいのか。どれほど知恵を絞っても、この絶望的な状況を切り抜けるための、気の利いた言い訳などひとつも浮かんでこない。
穴があったら入りたいとはよく言ったものだが、いまの俺なら自ら土を掘って地中深くまで潜り込む自信がある。
そうして逃げ回っていた矢先のこと、喧騒に包まれた大広間で、少しでも早く席を立とうと、手元の食事を胃に流し込んでいた視界の端に、見慣れた黒い外套の袖が不意に映り込んだ。
顔を上げるより早く、目の前に皿が置かれる。香草で丁寧に焼き上げられた肉が、手つかずのまま切り分けられていた。
「今日は、あまり肉の気分ではなくて。……よかったら、自分の代わりに食べてもらえないだろうか」
頭上から降ってきた声は、怒気など微塵も孕んでいなかった。ただひたすらに静かで、不器用な気遣いが滲んでいる。
見え透いた嘘だった。目の前に出されたものは残さず平らげるし、食べるとなればいくらでも胃に収めることができるこの人の性質を、俺が知らないはずがない。どうにか俺と話をするための、あまりにも下手な口実だ。
「……最近の君は、どうにも運がないように見える。見張り台では床が抜けたり、書庫で転んでしまったり……疲労が溜まっているのだろう。しっかり食べて休むといい」
どこまでも澄んだ眼差しで、望まない慰めを口にする。
いったい誰のせいだと思っているんだ。ぜんぶ、ぜんぶ、あんたの無自覚な行動が引き起こした災難だろうが。
いつもの俺なら、こんな悪態もうまく軽口に変えて言い返していたことだろう。けれども、今の俺は精神的にすっかりしおれきっていて、言い返す気力すら湧いてこなかった。彼から見れば、俺はただ立て続けに不運に見舞われているだけの、気の毒な男にすぎないのだ。
嫌われてはいない。あの暗がりでの出来事を経てもなお、彼は俺を見限らなかった。その事実に安堵の吐息が漏れそうになるのと同時に、胸の奥がひどく軋んだ。
こんなにも純粋で無防備なやさしさを向けられているというのに、俺の腹の底には、あわよくば彼に触れたいという、どうしようもない熱がまだ燻っている。
俺たちはきょうだいだ。他ならぬ俺自身が、この関係を求めたのだ。彼からのこの透き通った親愛を、いつまでも手放したくない。この心地よい関係を永遠に独占していたい。だからこそ、そのやさしさを真正面から受け止めるわけにはいかなかった。一度でも甘えてしまえば、必死に保ってきた理性があっけなく決壊してしまいそうな気がした。
我ながら、ひどく身勝手で面倒な感情だと思う。いっそあのときはどうかしていたのだと笑い飛ばせたら楽なのに、どうやらいまの俺の舌はそこまで器用に回ってくれないらしい。
差し出された木皿の縁に添えられた、幾つもの小さな傷跡が残る彼の指先を見つめながら、俺は血の滲むような思いで喉を動かした。
「……悪い。俺も今日は、どうにも食が細くてね」
ろくな言い訳も用意できず、差し出された皿を受け取ることなく、俺は逃げるように席を立った。背中に突き刺さる痛切な視線を振り切るように、足早に大広間を後にする。
俺の逃亡生活はいよいよ過酷さを極めていた。どうしてフォドラに来ても身内から逃げなきゃいけないんだ。とにかく、最近は一歩歩いてはため息を吐くような生活だった。
食事の時間をずらし、先生と顔を合わせる隙を徹底的に潰す。けれども、どれだけ立ち回りを工夫しようと、あの男は恐ろしいまでの戦術眼で俺の退路を塞ぎにかかってくる。
避けられている原因がわからないなら、相手が逃げられない状況を作るまで。まるで敵将を追い詰めるかのような、完璧で息の詰まる理詰めの包囲網だ。
その日の軍議も、深夜に及んだ。卓を囲んでいた諸将が次々と部屋をあとにする中、俺は誰よりも早く羊皮紙を丸め、逃げるように席を立った。
だが、出入り口へ向かうよりも早く、背後から静かな声が降ってくる。
「待ってくれ、クロード。君と話がしたい」
振り返ると、卓の向こう側で先生がこちらをじっと見据えていた。
「悪いが、このあとも執務が残っていてね。込み入った話なら明日にしてくれないか」
適当な口実を並べてあしらおうとするが、彼は動かない。普段なら俺の言葉を尊重してあっさりと引いてくれるはずなのに、今日の彼は珍しく食い下がってきた。
士官学校のころから思っていたが、この人は淡泊そうな見た目の割に、かなり頑固だ。そうしたところが好ましかったし、頼りにもしているわけだが、今の状況ではいまいましいことこの上ない。
「……明日になれば、君はまた逃げるだろう。いま、ここで話したい」
図星を突かれ、俺は思わず目を閉じる。その瞳は揺らがないどころか、この場を一歩も退かないという強い意志が伝わってくる。
ここで強引に逃げようとすれば、それこそ強硬手段に出られかねない。あの恐ろしい身体能力とやり合ったところで、俺に勝ち目はない。
「あのなあ、軍議はもう終わったんだ。俺がこのままひと晩中ここにいるって言ったら、あんたはどうするんだよ」
精一杯の虚勢を張り、わざと呆れたように肩をすくめてみせる。これで諦めて引き下がってくれれば御の字だった。しかし、俺のささやかな期待は、続く彼の言葉によって無残に打ち砕かれる。
「自分もここにいる」
一切の躊躇もなく、極めて真面目な顔で即答された。冗談でもなんでもない。俺がここにいるなら、この人も当然のように付き合うつもりなのだ。夜明けまでだろうと、何日だろうと、俺が口を開くまで絶対に逃がすつもりはないらしい。
――完全に、詰んだ。俺は深く、ひどく重い溜息を吐き出す。退路はすべて断たれた。こうなればもう、腹を括るしかない。
「……わかったよ。あんたの勝ちだ」
丸めた羊皮紙を乱暴に卓へ放り投げ、俺は観念して彼の正面へと向き直った。
逃げ道を塞がれ、覚悟を決めた俺の前に、先生は静かに歩み寄ってくる。卓を回り込み、真っ直ぐに距離を詰めてこようとするその動きに、俺は思わず一歩後ずさった。
「待て、動くな。……用件があるならそこから言ってくれ」
「……自分は何か、君を不快にさせるようなことをしただろうか」
立ち止まった彼の口からこぼれたのは、ひどく沈んだ声だった。いつもまっすぐな瞳が、かすかに揺れている。
「違う。あんたは何も悪くない」
「ならば、なぜ逃げる。君に避けられ続けるのはひどく堪える。自分たちは『きょうだい』ではないのか」
その言葉に胸を深くえぐられた。彼もまた、俺が勝手に定義した『きょうだい』という言葉に縛られ、俺との関係を直そうと必死になっていたのだ。自分の勝手な熱のせいで、大切な人をこうも傷つけていたという事実に、強烈な自己嫌悪がこみ上げる。
「違うんだ、先生。俺の方こそ、あんたを傷つけるつもりはなかった。ただ」
「ただ、何だ」
問い質そうと、彼がさらに一歩踏み込んでくる。鼻先が触れそうなほどの距離。俺の視界いっぱいに、見慣れた、けれど抗いがたい顔が広がる。
あの日、見張り台や暗闇の書庫で密着した記憶が鮮烈な熱を伴って蘇り、半端に押し込めていたものが、熱をもって背筋を駆け上ってゆく。
「……頼むから、これ以上近付かないでくれ」
「クロード、」
「あんたが俺に近付くと、ろくでもないことが起こるし、俺の身体がろくでもない反応を返すんだよ! だから近付きたくないんだ! わかったか!」
半ば自暴自棄になって、俺はとうとう致命的な事実を叫び、身体をこわばらせる。
これで終わりだ。俺はきつく目を閉じ、降り注ぐであろう拒絶の言葉と、この人が近づくと必ず起きる“不慮の事故”を覚悟した。
――しかし。静かな足音がしたかと思うと、俺の震える両手は、温かく力強い掌によってあっさりと捕らえられた。
恐る恐る目を開けると、先生は躊躇うことなく俺の目の前まで進み出て、俺の手を両手でしっかりと握り込んでいた。床が抜けることも、天井から何かが落ちてくることもない。ただ、ひどく静かで穏やかな空気が流れているだけだった。
「……何も起こらないな。やはり、最近の君が少しばかりついていなかっただけかもしれない」
「いや、そんなはずは……」
彼の言葉が真実となりつつある一方で、俺は血の気が引く思いだった。手を握られたまま、これ以上ないほど密着しているこの状況そのものが、理性の糸を容赦なく断ち切ろうとしているというのに。
「それに……ろくでもない反応というのは、これのことだろうか」
至極真面目な声でそう告げた彼の視線が、わずかに下へと向けられる。布越しに伝わるあからさまな俺の熱を、彼は完全に理解していた。
「っ、だから離れろって言ってるだろ! 頼むから、あんたのその顔で俺を見ないでくれ……」
泣きそうな声で懇願する俺に対し、先生は顔色ひとつ変えなかった。それどころか、俺の手を握る力をさらに強め、真顔で凄まじい言葉を落とした。
「君こそ、自分がどれほど魅力的な姿をしているか自覚がないのか。……自分だって、君のようなうつくしい人にあれほど密着されれば、当然そうなる」
「…………は?」
俺の思考は、今度こそ完全に停止した。自分だって、そうなる? この男は今、なんて言った? 俺の耳が狂ったのか、それともこの部屋の空気に幻覚でも見る毒が混ざっているのか。
「暗がりの書庫で君に腰を掴まれた時……自分も、少しばかり危なかったんだ。君が逃げてくれなければ、自分の方こそ、君を幻滅させていたかもしれない」
懺悔でもするように、わずかに目を伏せる先生を前に、俺の口はだらしない半開きになったまま塞がらない。
俺が必死に保ってきた、見えすいた言い訳も、きょうだいという尊い境界線も。それらすべてが、彼のはにかんだような笑顔と、あまりにも無防備な肯定によって、音を立てて粉々に砕け散ってゆく。
掴まれた両手に、どんどん力がこめられる。痛い。力の加減なんて知らないこの人は、自分の感情のままに俺の手を握り締めている。
伏せられていた双眸はいつの間にか俺の顔を熱心に見つめている。こういった場面において、どうするべきかを知らないわけではないが、なんというか、空気に飲まれるのも悔しくて。
疲労と混乱で頭がうまく回らない。そんな状況で、考え抜いた末に俺が口にした言葉は、「そろそろ寝ようか」だった。ほんとうに、心底情けない。