本編(翠風)軸で、第二部のどこか。短い話が5篇。
ベレト目線で、変わったもの、変わらないものを見つめる話。CP未満ぐらいの温度感です。
@Bombwooo
1.
石壁を打つ雨音が響く、肌寒い夜のことだった。卓を挟んで向かい合い、ふたりで盤面遊戯に興じていた。
自分の戦術は、いつだって単純明快だ。クロードに言わせれば安直なだけかもしれないが、傭兵としての長年の癖からか、どうしても遊撃や正面突破といった手数で押し切ろうとしてしまう。今回も、相手の視界の端で、新たな石を置いたところだった。
向かいに座る彼は、盤面を見つめたまま面白そうに目を細めた。
「なるほど、そう来るか。だったら……」
彼が盤上に手を伸ばす。その長い指先が石を置いた――その瞬間、自分は卓の上の空間へ鋭く手を伸ばし、彼の手首を掴んで押さえつけた。
「……っ、おい、痛いって!」
大げさに声を上げる彼を、冷ややかに見据える。掴んだ彼の手首はがっしりとしていて、大人の骨格をしていた。けれど、やっていることはひどく子供じみていた。
「……今、袖口から盤上にないはずの石を滑り込ませたな」
「人聞きの悪いことを言うなよ。元からそこにあった伏兵さ」
「嘘をつけ。手の中に隠し持っていたのが見えた」
逃すまいとさらに手首を握り込むと、彼は諦めたように息を吐き、もう片方の手で降参の仕草を見せた。
「あーあ、見つかっちまったか。傭兵の動体視力を甘く見てたぜ」
悪びれる様子もなく、彼は掴まれたままの手を開くと、隠し持っていた予備の石を卓の端へ転がした。しかも、いくつも。呆れを通り越して、その器用さには感服させられる。
「だけどさ、俺がインチキしなくたって、どうせあんたは勝てないだろ。考えなしに真正面からぶつかってくるんだから」
痛いところを突かれ、自分はわずかに言葉に詰まってしまう。確かに、盤面全体を俯瞰して巧妙な罠を張り巡らせる彼の知略に、自分の采配が勝てた試しはない。この勝負も、すでに自分の敗色が濃厚だった。とはいえ、それとこれとは話が別だ。
「……勝てると分かっているなら、無駄な小細工はするな。盤上の采配だけで勝てるというのならそうしろ。……とりあえず、袖の中にあるものをすべて出しなさい」
「はいはい、悪かったよ。……さっきのでぜんぶさ」
苦笑交じりに両袖をまくって見せる彼を確認してから、自分は小さく息を吐いて手を離した。実戦ではどうしても自分に一歩譲る分、せめて盤上の戦いくらいは完璧にこちらを叩きのめしてやりたいという、彼なりの意地もあるのかもしれない。
彼の言う通り、このまま互いに小細工なしでやり合ったところで負けるのは自分なのだろう。不正を見破ったところで、負けまでの手数が少しばかり延びただけに過ぎない。
戦場において、勝利のために手段を選ばないのは傭兵の鉄則だ。自分も、卑怯な手を使っても勝てばよしと教えられて育ってきた。だが、こと盤上において、目の前の彼を相手に小手先の策を弄したところで、すぐに見破られて痛い目を見るのが落ちだ。
ならば結局、自分にできるのは、どれほど罠を張られようとも力ずくで正面からぶつかることだけだ。自分は石をひとつ取ると、静かに盤面へと向き直った。
2.
執務机に向かうクロードの顔を、気付けばじっと見つめていた。窓の向こうを見るよりも、どうしてか、彼を見ていたくて。
やがてこちらの視線に気付いた彼が、手元の書類から顔を上げて意地悪く口角を上げる。
「何だよ、俺の顔がそんなに好きなのか?」
「いや、」
「いやってなんだよ」
意図せぬ方向で伝わってしまった自分の返答に、彼は露骨に眉尻を下げて不満げな声を漏らした。
「違う、そういう意味ではなくて……」
妙な誤解を招いてしまったことに慌てつつ、自分は思わず彼へと手を伸ばし、顎を覆う短く整えられた髭のあたりへ指先を這わせた。
「……ずいぶんと印象が変わるものだな、と。そう思っただけだよ」
「んー、まあ髪も伸びたし、体つきも変わったからな」
クロードは不服そうな表情を崩さないまま、羽根筆を置いた。
彼のぼやきを聞き流しながら、自分は顎の輪郭に沿って指を滑らせる。ざらりとした硬い毛先が指の腹を擦る。あのころの彼にはなかった、大人の男としての手触りだ。
「ふふっ、やめろって。くすぐったいだろ」
喉の奥を鳴らして身をよじる彼に対し、自分はなおも指を離さなかった。
「不思議な感触だから、つい」
「そういうあんたは、相変わらずつるつるだよな。ま、そもそも髭なんて似合わなさそうだけど」
「そうだろうか」
「ああ」
そう答えるとともに、今度は彼がこちらへと手を伸ばしてきた。しっかりとした指が、自分の顎から耳の下あたりをゆっくりとなぞり上げる。肌の表面を滑る体温に、思わず息が止まる。
「これであんたが大人の色気なんてものを備えちまったら、敵なしかもな」
彼のつぶやきに、自分は真剣に思考を巡らせた。色気を備えれば、敵なし――。
「……それは、前線での遊撃から敵陣へ潜り込む密偵まで、いかなる立ち回りも可能になるということか?」
「はあ……」
真面目に見解を問うと、彼はひどく深いため息を吐き出した。
「そんな物騒な話してねえよ」
呆れ果てたように首を振ると、彼は自分の輪郭から手を離し、やれやれと肩をすくめた。
「ほんと、あんたが自分の魅力に無自覚でよかったよ」
無自覚。子ども扱いするかのようなその言葉の響きに、自分はかすかに眉をひそめた。何も分かっていないと高を括られているようで、どうにも癪に障る。小さな意地で、反撃の言葉を探す。
「……君が、自分の顔を好いていることぐらいは分かっているが」
少しだけ顎を引き、彼を見据え返す。この程度の指摘なら、彼も少しは動揺を見せるだろう。しかし予想に反して、彼はすっかり落ち着き払っていた。
「そりゃあ、あんたのことは昔から穴が開くぐらい熱心に見つめてたからなあ」
余裕たっぷりにほほえんだ彼は、ぐっと身を乗り出してきた。唐突に、先ほど彼が指でなぞったあたりをかすめるようにやわらかい唇が落とされる。
「じゃ、俺は軍議の準備があるから。また後でな、先生」
固まる自分を置いて、彼はひらひらと手を振りながら去ってしまった。残された自分は、かすかな温もりの残る顎に手を当てたまま、瞬きを繰り返す。
――なるほど。相手をやり込めるには、ああ振る舞えばいいのか。
しかし、どう頭をひねってみても、自分が彼のように振る舞える気がしなかった。
3.
不意に視界が浮き上がり、足裏から硬い地面の感触が消えた。
「何を――っ、」
驚いて身をこわばらせた自分を、クロードはひどくあっさりと腕の中に掬い上げていた。
先ほどの戦闘中にくじいてしまった足の痛みを、誰にも気取られないよう歩いていたつもりだった。しかし、隣を歩く彼にはとうに見抜かれていたらしい。
「無理するなって。天幕までは俺が運んでやるよ」
降ろせ、と抗議するより先に、歩き出した彼の足取りが揺るぎないことに気づいて、自分は言葉を失った。
「……大きくなったな」
呆然としたままこぼした言葉に、彼は少しだけむっとしたように眉を寄せた。
「あれから背が伸びなかった俺への嫌味か? ……まあ、背丈はどうしようもないとして、筋肉はかなりつけたからな。見た目が貧弱な盟主じゃ、誰もついてきてくれないだろ?」
軽口を叩く彼の身体は、ゆったりとした異国の衣服に隠れて普段は分かりづらいが、確かな厚みと骨格を備えていた。自分を背中と膝裏から支える両腕には、決してこちらを落とすまいとする、慎重で穏やかな力強さがある。
彼と離れていた五年という歳月。そのあいだに彼がどれほどの重圧を背負い、諸侯をまとめるために血の滲むような苦労を重ねてきたのか。そばにある身体が、彼が幾度も乗り越えてきた死線を物語っていた。
返答に窮した自分を見かねてか、彼は歩きながら、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「まあ、おかげであんたをこうして難なく抱えられるようになったわけだ。士官学校のころの俺じゃ、ここまで余裕はなかったからな」
「……そうだな。足の怪我が治ったら、今度は自分が君を抱えよう」
「ははっ、どんな礼の仕方だよ。男の俺がそんなことされても嬉しくないっての」
彼が愉快そうに笑うと、胸の奥で響く低い振動が直に伝わってくる。
「あんたはただ、勝って、勝って、帝国の連中を黙らせてくれればそれでいい」
頼もしい横顔を見上げながら、自分はそっと視線を伏せた。
大切に抱えられているという事実が、どうしようもなく感慨深い。かつては自分が先頭に立ち、庇うべき対象だった彼が、今はこうして自分を軽々と抱き上げている。よろめくことなく大地を踏みしめる足は力強い。
彼が迷いなく自分へと手を伸ばし、こうして確かな力で引き寄せてくれるようになった今の関係は、この上なく喜ばしい。
けれど、その成長を誇らしく思うと同時に、ほんのわずかな淋しさが胸の奥を通り過ぎてゆく。
お互いの腹の底を探り合い、どこか不安定で不確かだったあのころ。あの手探りの日々はもう戻らないのだと、この心地よい揺れが教えているような気がして、自分はただ黙って彼の鼓動に身を委ねていた。
4.
戦火のあわいに吹く、穏やかな風が心地よいある日のこと。食堂で何を食べるかを決めかねている自分のもとへ、クロードがふたつの盆を両手に提げてやってきた。
「ほら先生、あんたの分だ。今日は特別に俺が運んでやったぜ」
気の利いた真似をするものだと思いながら、向かいに座った彼と共に食事に手をつける。添えられていた茶はどこか不思議な風味がしたが、特に気にとめることなく喉に流し込んだ。
今日の料理は見た目こそ赤みが強いものの、口に運べばほんのりとした甘みすら感じられ、するすると胃に収まってゆく――が、食事が終わりに近づいたころ。不意に、舌先から唇にかけて、異変が走った。はじめはわずかな違和感だったそれは、またたく間に刃物を押し当てられたかのような鋭い痺れへと変わる。火を吹くような辛味が遅れて口内を支配し、急激に身体が火照って額からじわりと汗が滲み出した。
「……っ」
たまらず口元を押さえて鋭い視線を向けると、目の前に座る彼はさも可笑しそうに口角を上げていた。
「おや、先生にはちょっと辛すぎたか?」
とぼけた物言いだが、その眼差しには明らかな悪童の光が宿っている。やられた――あの不思議な味がした茶には、彼手製の、ろくでもない薬が混ぜられていたのだろう。おおかた、味覚を麻痺させるだとか、そういった類の。
さすがにこういう悪ふざけも落ち着いただろうと、油断していた自分が甘かった。
五年経っても、こんな子供じみた悪ふざけを仕掛けてくる。それは彼なりに、どれだけ凄惨な時が流れてもこの関係性が壊れることはないという、確かな信頼の証なのかもしれない。
だからといって笑って流してやるつもりはない。よくないことはよくないと教えてやるのが教師のつとめだ。 もちろん、ここで調子付かれても困る、という本音もあるにはあるが。
とにかく一刻も早く口をゆすぎたいが、このふざけた男を逃がすわけにはいかない。自分は立ち上がると、厨房の裏手へ連行すべく、彼の襟首を容赦なく掴んで引きずろうとした。
ぐっ、と腕に力を込める。――しかし、かつての士官学校時代なら簡単に引き倒せたはずの彼の身体は、びくともしなかった。それどころか、予想外の質量に引っ張られる形となり、自分の方が前へのめり込むように大きく体勢を崩してしまった。
「おおっと」
つんのめった自分を振り返り、彼は悪びれる様子もなく得意げな笑みを浮かべた。
「あのころのひよっ子の俺とはひと味違うぜ?」
からかうような言葉に、自分はかすかに目を細めた。布をたっぷりと使った装束に隠れて分かりづらいが、襟首を掴んだ手から伝わってきたのは、少年のそれとは違う、鍛え上げられた青年の骨格だった。だが、その事実を認めて引き下がるような殊勝な気質は、あいにく持ち合わせていない。
「……そうか」
「え?」
自分は掴んでいた襟首から手を離し、瞬時に姿勢を低くした。彼の懐へと滑り込み、その見事な体格の重心の真下へと肩を潜り込ませる。
「あっ、おい! 先生!」
持ち前の要領で、一気に彼を肩口へと担ぎ上げた。いかに彼が重くなろうと、重心さえ捉えてしまえば持ち上げるのはそう難しいことではない。
突如として盟主が担ぎ上げられた光景に、周囲が何事かとざわめき始める。視界が逆転した彼は、たまらず足を大きく振り乱した。自分は片腕でその両膝をがっちりと挟み込み、見苦しい抵抗を完全に封じる。
「降ろせ! 俺を荷物みたいに扱うな! 仮にも盟主なんだぞ、周囲の目ってものをだな……!」
「君がよくないことをしたのが悪い。きっちり反省してもらう」
四方八方から向けられる好奇の目線など気にも留めずに言い捨てると、足を固定された彼は、今度は自由な両手を使って、こちらの背中を幾度も乱暴に打ち据え始めた。
容赦なく落ちてくる拳は、かつての悪あがきとは比べ物にならないほど重く、芯に響くような鈍い痛みを伴っていた。不用意に叩かれ続ければ、こちらが音を上げてしまいそうなほどの確かな筋力だ。
たまらず眉をしかめる。背中に伝わる痛みと重みが、彼が戦火を潜り抜けた大人の男へと変わったことを嫌でも実感させた。
――けれど。手の込んだいたずらで自分をからかおうとする悪童ぶりも、こうして制圧されて抗う不器用さも、あのころから何ひとつ変わっていない。変わってしまったものや、自分たちが変えたもの。その裏側に隠れて、この関係性の根底にあるものは驚くほど昔のままだった。
してやりたい説教の内容も、あのころとまるで同じだ。重くなった背中の痛みに耐え、久しぶりの小言を頭の中で組み立てながら、自分は水場へとまっすぐ歩き出した。
5.
静まり返った夜の大広間。どこからかかすかに聞こえてくる旋律に誘われるように足を向けると、月明かりの差し込む窓辺で、クロードがひとり鼻歌をこぼしていた。
「おっ、先生じゃないか。こんな夜更けにどうした?」
「君の歌が聞こえたから」
「ははっ、そいつは失礼」
彼は苦笑して肩をすくめると、誰もいない広間をぐるりと見渡した。
「ここにいると、どうしたってあのころを思い出す。……そういや、あんたに無理やり踊りを覚えさせられたなあ」
恨みがましい言葉とは裏腹に、その口元には懐かしむような弧が描かれている。
「あんたも踊れないくせに、感覚だけで右とか左とか言ってきてさ。ふた言目には『脇が甘い』だの『踏み込みが足りない』だの……剣術の稽古かっての」
拙い指導を掘り返され、自分はひどくばつが悪くなって視線をそらした。確かにあのころの自分は――正確には今の自分も、なのだけれど――他人に教えられるような踊りの作法など何ひとつ持ち合わせていなかったのだから、彼の言い分はもっともだ。
「……すまない」
小さく息を吐き、かつての教え子へ向けて素直に頭を下げる。
「みっともないが、言い訳をさせてもらうと……自分に教える手立てがないことは、あの時点でもわかっていた」
「へえ?」
「踊りのことはまったく分からなかったが、君なら自分が言いたいことを理解してくれるだろうと。……何も分からない自分を、助けてくれると思って」
「なんだよ、そんな不純な動機で俺を代表に選んだのかよ」
意地悪く目を細めてからかう彼に対し、自分は静かに首を振った。
「理由はそれだけじゃない」
「え?」
「あのとき、真っ先に頭に思い浮かんだのが君の顔だったから」
飾らない本音を告げると、彼は意表を突かれたように目を瞬かせた。それから、ひどく照れ臭そうにふっと息を漏らして笑う。
「……あんたって人は。そういうことをよく平気で言えるよな」
つぶやきながら、彼はゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。そして目の前で片膝をつき、見上げるような体勢で恭しく右手を差し出した。
月明かりに照らされたその流麗な所作は、まるで絵物語に登場する王族のように洗練されていて、見慣れたはずの彼がひどく眩しく見える。普段の悪ふざけからは想像もつかないほどのうつくしい振る舞いを前に、自分は理解が追いつかず、ただ棒立ちになったまま動けずにいた。
差し出された大きな掌と、こちらを見据える瞳を交互に見比べる。
「なんだよ。また俺が手を引いてやるしかないのか?」
呆れたような、けれどひどく愛嬌のある声で急かされ、自分はようやく躊躇いがちにその手へ己の指先を重ねた。
「自分は、踊れないが」
「知ってるさ。だから、俺がリードしてやるよ。あのときの恨みを今ここで晴らしてやる」
「……それは誘い文句なのか? それとも宣戦布告なのだろうか」
「両方さ。覚悟しておけよ、先生」
立ち上がった彼にぐっと腰を抱き寄せられ、静寂に包まれた広間でふたりだけの足音が鳴り始めた。
その滑らかな足運びに合わせようとするものの、自分の身体はどうにもぎこちなく、何度も彼の足を踏んでしまいそうになる。そのたびに彼は機敏に身を躱し、愉快そうに喉を鳴らした。
「ほら先生、踏み込みが足りないぞ。次は右だ」
かつての意趣返しのように、彼はいい加減なことを口走っては目じりをゆるめた。不格好に振り回されながらも、重なり合う笑い声が大広間の夜気に吸い込まれてゆく。