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冬が過ぎたら、夜が明けて(レトクロ)※現パロ

全体公開 レトクロ 25912文字
2026-03-12 07:48:33

現パロ。本編軸がベースですが、その設定が密接に絡んでるわけでもないのと、かなりゆるめです。
年齢設定はだいたい20代半ばぐらいで、クロードはコンサルさんをやってます。ベレトは訳ありなヒモ。
ふたりが出会って、一緒に暮らす話。レトモブ♀要素有。

Posted by @Bombwooo

 深夜の定食屋で、目の前の男は恐ろしい速度で白米を胃に流し込んでいた。
 生姜焼きの皿があっという間に空になり、三杯目のおかわりを要求する声は平坦だが、その視線だけが妙に生き生きとしている。
 ふと、空のどんぶりから顔を上げた彼が、壁にずらりと貼られた手書きの短冊メニューへと視線を滑らせた。油で少し黄ばんだ紙の束たちを、ひどく真剣な顔でなぞっている。
 助けられた身分でよく食う、あつかましい男だ。俺は呆れを通り越して感心すら覚えながら、水の入ったグラスを片手に口を開いた。
……頼みたいなら頼めよ、手持ちはあるからさ。餃子、からあげ、エビチリ、鯖の塩焼き、だし巻き卵……何でもいいぞ」
 読み上げておきながら、深夜にもかかわらず、こうも充実したメニューを提供してくれる飲食店には頭が上がらない。おまけに美味くておかわりが無料。ここまで今の俺にやさしい店を、ほかに知らない。
 呆れまじりにそう声をかけると、彼は少しだけ目を丸くし、それから迷うことなく「唐揚げと、だし巻き卵」と口にした。どうも遠慮という概念は持ち合わせていないらしい。

 彼――ベレトと名乗ったこの男を、俺はついさっき路上で拾ったばかりだった。
 ヒステリックな女の怒声とともに、近所のマンションから叩き出されていたのだ。シャツにスウェットという隙だらけの格好に、左右で色の違う靴下。極めつけは季節外れのシャワーサンダルだった。
 厄介事の匂いしかしなかった。あんな訳の分からない状況の男、関わり合いにならないのが正解に決まっている。そう理性が警告して踵を返そうとした瞬間、不意に、場違いなほど透き通った双眸と真正面から目が合ってしまったのだ。
 直後、その腹から派手な音が鳴り響き、薄情になりきれなかった俺は彼を見捨てて帰ることができなかった。
 追加で頼んだ皿がテーブルに置かれると、彼は再び淡々と箸を動かし始めた。ふと、咀嚼の途中で思い出したように顔を上げ、不思議そうに首を傾げる。
「君は食べないのか」
「あんたの見事な食いっぷりを見てたら、胸がいっぱいになってね。俺は見てるだけでじゅうぶんさ」
 頬杖をついて適当な軽口を返すと、彼は「そうか」とだけ言い、すぐにだし巻き卵へと意識を戻した。
……で。これから行くあてはあるのか」
 茶をすする彼にたずねると、行くあてはないとゆっくり首を振った。
 どうも、一緒に暮らしていた親父さんにいきなり「世の中を学んで来い」と放り出されて以来、声をかけられるがままに女の家を転々としていたらしい。そのことについて、「よくしてくれるから、断る理由がなかった」などと、危機感の欠片もないことを真顔で口にした。
「それが、どうしてあんな修羅場になったんだか」
……急に、『私のことなんだと思ってるの』と泣かれてしまって」
「あんたはなんて答えたんだよ」
「毎日食事を作ってくれる、ありがたい恩人だと答えた」
 あまりにも率直すぎる回答に、俺は思わず頭を抱えた。相手の女は、不器用でもいいから愛の言葉や甘い執着を求めていたのだろうに、この男にはそういう情緒が根本からすっぽり抜け落ちているらしい。
 下心ありきで素性の知れない男を拾うほうが悪いとは思ったが、今回ばかりは追い出した女に少しばかり同情してしまう。これでは本当に、ただ女に飯を食わせてもらっているだけの、純度の高い”ヒモ”ではないか。
 適当なビジネスホテルに泊まれるだけの金でも握らせて、ここで背を向けるのがいちばん賢い大人の立ち回りだ。だが話を聞くに、こいつには金がないわけではないらしい。単に、現金を持たせたところで、自力で安全な寝床を確保するという根本的な生活能力が欠落しているだけなのだ。それもそれで、どうかと思うが。
 警察に突き出すにしても、痴話喧嘩で家を追い出されただけの男を取り合ってくれるはずもない。かといって、このまま夜の街に放流すればどうなるか。その異常なほどの危機感の欠如と厄介な見目の良さのせいで、数時間後にはまた別の誰かに拾われているのがオチだ。そして同じように勘違いされ、破綻を繰り返すのだろう。
 ばかばかしい。他人の人生に深入りする義理などない。頭ではそう分かっているのに、湯呑みを両手で包み込んでひと息ついているのほほんとした姿を見ていると、どうしても、彼を捨てて帰るという選択はできそうにない。
 結局のところ、俺も彼を拾っていった数多の人間たちと同じ穴の狢なのだろう。このどうしようもなく放っておけない引力に、まんまと引き寄せられている。
……仕方ない、うちに来るか」
 我ながらありえない選択だと思う。だが、じっとこちらを見つめ返してくるひどく澄んだ瞳と正面からぶつかると、他のまともな選択肢など最初から用意されていなかったような錯覚に陥った。

 深夜の通りでタクシーを拾う。行きずりの男の家へ向かうというのに、彼は一切の躊躇を見せなかった。疑うでもなく、かといって媚びを売るでもなく、言われるがままに後部座席へ乗り込んでくる。あまりの警戒心のなさに、俺は何度目かもわからない息を吐き出した。
 車内はひどく静かだった。彼は自分から口を開こうとはせず、窓ガラスの向こうを流れる街灯の光をただ静かに見つめている。何を考えているのか、さっぱり読めない。
 隣に座る横顔を、気取られないように観察する。見ず知らずの女の家を渡り歩くような、決して褒められたものではない生活を送っているはずだ。
 それなのに、暗がりの中に浮かび上がる輪郭には、世間擦れしたような生活の濁りが見当たらない。形のよい鼻筋や伏せられた睫毛の先まで、おそろしいほど透き通って綺麗だった。

 やがて俺の住むマンションに到着し、鍵を開けて玄関へ足を踏み入れる。
 見知らぬ男の縄張りに入ったことで、彼の背中の筋肉がわずかにこわばるのがわかった。あれだけすれた生活をしていても、本能はそれなりに働くらしい。彼は所在なげに廊下の端に立ち尽くし、こちらの様子を窺っている。
「あー……適当なスリッパがないな。まあ、裸足で上がってくれていい。冷えるようならエアコンの温度を上げるから、言ってくれ」
 靴を脱ぎながら日常の延長として声をかけると、彼の肩から目に見えて余計な力が抜け落ちた。
 こちらの顔を見つめる眼差しがかすかに細められ、安堵の呼気が唇からこぼれる。俺から危害を加えられることはないと判断したのだろう。
 その驚異的な順応と警戒心のなさに、俺は頭痛を覚えて眉間を押さえた。こんな調子ですぐに他人の善意を信用するから、都合よく使われては追い出される羽目になるのだ。危機感というものが根本から欠けている。危なっかしくて見ていられない。
 間接照明だけが点灯したリビングに足を踏み入れた瞬間、ベレトは廊下と部屋の境界線でぴたりと足を止めた。棒立ちのまま、部屋の隅の壁際を見つめている。
 一LDKのこの部屋は、寝室との仕切り戸を常に開け放して、ひと続きの空間として使っている。俺が脱ぎ散らかした上着やら読みかけの資料やらがそこかしこに点在している惨状に引いたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「ここでいい」
「それだと俺が落ち着かないんだよ。……そんな広い部屋でもないが、ほら、好きなとこ座れよ」
 頭を掻きながら、俺は部屋の中央にあるソファへと腰を下ろし、足元のラグを指差した。適当に壁際やクッションのそばにでも座るだろう。そう思っていた予測は、次の瞬間、あっさりと裏切られた。
 ベレトは迷うことなく歩み寄ると、ソファに座る俺のすぐ隣、手が届きそうなほど近い位置のラグに腰を下ろしたのだ。そのまま自身の膝を引き寄せて両腕で抱え込む。
 予想外の至近距離に、思わず上体が後ろにのけぞった。まさか、飯と寝床の対価として、そういう扱いをされるとでも思っているのだろうか。冗談じゃない。俺はそんな見境のない男でもなければ、惚れっぽいわけでもない。
 変な方向に誤解されているのではと渋い顔で足元を見下ろすと、彼は不意にこちらを見上げてきた。
 自分の膝に頬を押し当てて、うれしそうに、そして無防備に俺の顔を観察している。そこには打算も媚びもなく、ただ雨風をしのげる場所を見つけただけの、まっさらな顔があった。
 我ながら、どこまでお人よしなんだろうか。一気に怒りが失せて、言ってやりたかった言葉たちは霧散した。
 見ず知らずの男を引き取ったところで、俺には何の得にもならない。金や人脈に繋がるわけでもなければ、これほど費用対効果の合わない投資もないだろう。常に損得勘定で動いてきたはずの俺からすれば、イレギュラーにもほどがある。
 それでも、俺のそばでちっとも警戒していない男を見下ろしていると、毒気を抜かれたように肩から力が抜けてゆく。俺は短く息を吐き出して、立ち上がった。
……とりあえず、風呂にでも入ってこい。洗面所は廊下を出て右だ。俺はシャワーで済ませることが多いが、今日はいろいろあって身体が冷えただろうし、湯を張りたきゃ勝手に張ってくれて構わない。適当な着替えも出しておく」
 設備とタオルの場所を教え、洗面所へ向かわせようとする。だが彼は素直にうなずいたものの、すぐには動こうとせず、ラグに座り込んだまま俺の顔をじっと見つめてきた。
「どうしてそう、自分に優しくしてくれるんだ」
 不思議でたまらないといった様子でたずねられ、俺は思わず苦笑をこぼす。俺だって、同じ気持ちだよ。
「どうしてだろうなあ。俺、そっちの気なんてないのに。……お前を連れ込んだことが前の女にばれたら、刺されるかもしれない」
 冗談めかして笑い飛ばすと、彼は抱えていた膝から顔を上げ、ひどく真剣な瞳で言い切った。
「そんなことはさせない」
……頼もしいねえ。じゃあ、まずは自立するところから始めないとな」
 呆れまじりに軽口を叩くと、彼は「そうだな」と小さくつぶやき、ようやく重い腰を上げた。
 彼がリビングのドアを開けて廊下へ出るのを見送り、俺もソファから立ち上がってクローゼットを開ける。いくらなんでも、着の身着のままで過ごさせるのは良心が痛んだ。
 自分が着るには少し大きかったスウェットとTシャツを引っ張り出し、振り返ったときだった。背後でドアノブの回る音がした。見れば、廊下へ出たはずの男がドアの隙間からひょっこりと顔を出している。
「どうした。タオルの場所がわからないのか」
「いや」
 そっけなく首を振った彼は、大真面目な顔でこちらを見つめ、とんでもないことを口にした。
「君も入らないのか。せっかく湯を張るなら、一緒のほうが効率がいいだろうと思って」
「は……?」
 思考が数秒ほど完全に停止した。
 ただ単に合理的だから提案したのか、それとも自分を拾ってくれた人間に対する彼なりの見返りのつもりなのか。どちらにせよ、あまりにも不用心で、対人関係における距離感というものが理解できていない。
 一気に顔の表面へ血が上るのを感じながら、俺は手に持っていた衣類の塊を、ドアの隙間から覗く顔面めがけて思い切り投げつけた。
「一緒に入るわけないだろ! いいからとっととひとりで入ってこい!」
 俺がそれなりの力で投げつけた布の塊を、奴はあっさりと片手で掴み取った。顔に似合わず、運動神経や動体視力はかなりいいらしい。
 手の中の着替えと俺の顔を交互に見て、彼は数度瞬きをしてから、今度こそ大人しく扉の向こうへと消えていった。脱衣所のドアが閉まり、やがて水の音が聞こえ始めるのを確認してから、俺はどっと疲れた体を引きずるようにしてソファの背もたれに深く体重を預けた。
 やっぱり、あんな男拾うんじゃなかった。
 静かになったリビングでひとり、とんでもないものを背負い込んでしまったのだと今さらながらに後悔が押し寄せてくる。
 どうせ追い出せないくせに、後悔なんてしたって意味がないくせに、俺は隙間のできたクローゼットを眺めて深々とため息を吐いた。



 翌朝。薄いカーテンの隙間から差し込む朝日で目を覚ます。
 寝起きの気怠い頭のままリビングへ足を踏み入れた俺は、思わずその場で息を呑んで立ち尽くした。ソファの足元に敷いてやった布団の上に、見慣れない男が座り込んでいる。
 俺が貸した大きめのスウェットを着たまま膝を抱え、ぼんやりと窓の外を眺めていた。朝の白い光を浴びるその横顔には、一般的な、人としての営みが感じられず、そこだけ時間が止まっているかのような静寂があった。
 俺の足音に気づいた彼が、ゆっくりとこちらへ首を向ける。
……おはよう」
「ああ、おはよう。……よく眠れたか」
「君のおかげで」
 座り込んだまま見上げてくる視線と交差した瞬間、彼は不意に何かを思い出したように瞬きをした。
「そういえば、君の名前を聞いていなかった」
「クロード、でいい」
 彼からすれば俺もまた素性の分からない怪しい男だろうに、疑うそぶりも見せない。もし俺がとんでもなく悪い人間だったらどうするんだ。
 俺の心配など露知らず、ベレトは納得したようにうなずく。
「そうか。よろしく頼む、クロード」
 ――こうして、女に捨てられた男との奇妙な同居生活が幕を開けた。
 さすがに朝食ぐらいは食わせてやらないと、などという謎の義務感のせいで、俺はダイニングテーブルでノートパソコンを広げる羽目になった。冷凍庫に突っ込んでおいたパンをあたためて、あと適当に卵とベーコンを焼いてやると、ベレトはもそもそと口に運び始めた。
 コンサルタントという職業柄、自宅で作業をすることも多い。始業時間ギリギリでなんとかシステムにログインし、キーボードを叩き始めたのだが——どうにも落ち着かない。
 視線を上げると、向かいに腰掛けている男が、俺の顔を瞬きもせずにじっと見つめていた。
……あのな。見られてるとやりづらいんだが」
「邪魔はしない」
「そういう問題じゃない。……そういえば、あんたをここに置く以上、最低限の取り決めはしておかないとな」
 俺は画面に目を戻すと、ため息まじりに口を開いた。
「いいか。俺が仕事をしている間は静かにしていること。……って言ってもあんたは騒がないだろうから、これは別にいいか。あと、勝手に来客の対応をしないこと。荷物の受け取りぐらいは構わないが、俺がいるときはひと声掛けてくれ。それから――
 昨日、行くあてもなく路上に放り出されていた姿が脳裏をよぎる。こいつは声をかけられればホイホイとついて行く前科持ちだ。その前科のひとつは、俺のせいでもあるわけだが。
「暇だからってそのへんをうろつくのは構わないが、ひとりで出歩く時は半径二キロ圏内から絶対に出るな。知らない奴に声をかけられても無視しろ。昼飯と晩飯の時間には必ず帰ってくること。わかったか」
「わかった。自分はここから二キロ以上離れないし、食事はここでとる」
 ベレトは真剣な顔でうなずき、守るべき規則として反復した。一切の反抗期を持たない子どものように従順だ。
 それからの数日、彼はばかばかしい規則を完璧に守り抜いた。俺がパソコンに向かっている間は、黙って本を読むか、窓の外の雲をぼんやり眺めている。俺の仕事の邪魔になるような物音は一切立てない。
 あまりに静かすぎて逆に俺のほうが落ち着かず、動画や映画を観るよう勧めると、今度はB級映画ばかり観るようになってしまった。ああ、俺の視聴履歴がどんどん汚染されてゆく。
 そして昼時になれば、俺が適当に作った炒飯や買ってきた惣菜を、奴は恐ろしい速度で、かつ綺麗に平らげた。
「美味いか」
「ああ、おいしい。いくらでも食べられる」
 食事の手を止め、世辞の類をまったく含まない透き通った瞳でじっと見つめ返される。
「あんたはなんでも美味い美味いって食うからな。作り甲斐があるってもんだ。……ま、あんたの胃袋掴んだって仕方がないけどな」
 俺が呆れ半分で口の端を吊り上げると、彼は「掴まれなくても、逃げたりしないが」と短く返し、再びスプーンを動かし始めた。ものの喩えってものを知らないのか、まったく。
 外資系のコンサルタントとして、常に損得と理詰めで生きてきたはずだった。これほど費用対効果の合わない相手はいない。それなのに、懐に完全に異質な男が入り込んでいる今の状況を、俺は少しも不快に感じていなかった。
……自分は、何をすればいい」
 食事終えた彼がふとたずねてきた。飯と寝床を与えられている以上、彼なりに己の役割を果たそうとしているらしい。
 俺は少し考え、ひとまず洗濯や室内の清掃といった日常的な家事を任せることにした。ジェラルトという父親の元で荒事ばかりをこなしてきたという彼だが、教えたことはスポンジみたいにどんどん吸収するし、人並み以上の基礎能力が備わっていることも立ち振る舞いからして明らかで。
 とは言いながらも、タオルを半分に折り畳んだまま干したり、干し方が分からないと俺の下着を握り締めながらベランダから戻ってきたり、乾燥機にかけちゃいけないものまで乾燥させたり。少し抜けているというか、なんというか。

 さて、同居人が増えたことで、俺の生活環境も物理的な変化を余儀なくされた。
 もともと客人を泊める気など毛頭なかったため、慌ててネット通販で予備のベッドマットを注文した。広めだったはずのリビングの隅に真新しいマットレスが鎮座し、部屋の余白は随分と窮屈になった。だが、なぜだかその手狭さが不快ではない。
 ベレトが熱心に床を拭いている背中を眺めながら、俺はマグカップを片手に声をかけた。
「あんたの服も、今度の休みに適当なのを買いに行かないとな。いつまでも俺のお下がりじゃ不便だろ」
「いや。君の服は着心地がいいから、できれば同じものがいい」
 拭き掃除の手を止め、彼が迷いなくこちらを見上げて即答した。
 他人の服を欲しがるなど、本来ならひどく私的な領域に踏み込む要求だ。だが、その瞳には打算も執着もなく、ただ単に機能性と肌触りのよさを評価しているだけの純粋な色が浮かんでいる。
「そりゃあ、それなりに値段するからな。俺の趣味がいいのもあるが」
 俺はわざとらしくお手上げだと両手を上げてみせた。
 同じ服を着たがるという行為が、相手にどれほどの親密さを錯覚させるか、この男は根本的に理解していない。そういう無自覚で隙だらけなところが、誤解を与えてヒステリーを起こされる原因なのだ。
 口に出して忠告してやるべきかとも思ったが、彼が俺の服を着て同じ柔軟剤の匂いを漂わせている状況が、幼稚な優越感を呼び起こしそうで、俺は結局その言葉を飲み込んだ。

 深夜、喉の渇きを覚えて寝室からリビングへと足を踏み入れた俺は、暗闇の中でわずかに息を呑んだ。
 窓から差し込む青白い月明かりの中、部屋の隅のマットレスの上で、ベレトが身を起こしていたのだ。
……起きてたのか」
 グラスに水を注ぎながら声をかけると、彼はこちらへ顔を向けた。俺は注いだ水をひと息に飲み干す。
「君を起こしてしまったか」
「いや。……それより、あんたが眠れないのかと思って」
「違う。ただ……ひどく静かだと思っただけだ」
 ぽつりとこぼされた声には、どこか遠くを見るような響きが混じっていた。
 いったい彼はどんな世界で生きてきたのだろうか。夜の静寂は、彼にとってひどく異質で手持ち無沙汰なものなのかもしれない。
 俺は手元のグラスにもう一度水を注いで、彼のほうへと差し出した。
「静かなのは悪いことじゃない。安全な証拠だ」
 ベレトは差し出されたグラスを受け取ると、ゆっくりと喉を鳴らした。喉仏が上下するのを視界の端で捉えながら、俺は彼のすぐそばのラグに腰を下ろす。
……そうだな。君の言う通りだ」
 グラスを持ったまま、彼が短く同意の息を吐く。いびつで平穏な日常は、夜の静寂の中でも確実にふたりの境界線を曖昧にしてゆく。



 風呂上がりの濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながらリビングに入ってきた彼を見て、俺はふとパソコンから視線を上げた。洗面所で乾かしてこいと言っても一向に聞きやしない。かく言う俺も、タオルを首に掛けながら仕事をすることが多いから、説得力に欠けるという自覚はあるが。
……なあ、ベレト。ちょっとこっちに来てくれ」
「なんだ」
 ソファの横に立たせ、まだ湿っているベレトの髪に触れる。指を通すも、うまく滑らない。それなりに艶があってやわらかそうだった髪が、俺の家に来てからというもの、ひどく傷んでいる。
「やっぱり髪が傷んでるじゃないか。俺が使ってるやつ、あんたの髪質には合ってないみたいだな」
「そうなのだろうか。自分としては、汚れが落ちれば何でもいいが」
「そういう問題じゃないだろ」
 この身なりに対する無頓着な発言たちにもだいぶ慣れてきたが、だからといって、はいそうですかと引き下がるつもりはない。俺のものは俺の髪に合わせて選んだものだ。他人の彼に合わないのは当然だが、同居人の身だしなみが荒れてゆくのはどうにも見過ごせない。
 翌日の仕事帰りに俺はドラッグストアに寄って、奴の髪質に合いそうなものを新しく買って帰った。一生価値が分からないだろうな、と思うくせに、そこそこ値が張るものを選んだ俺はどうかしている。
「今日からこれを使え。あんた専用だ。俺のやつを使うとまた傷むからな」
 夕食後、真新しいボトルを渡して風呂へ追い立てる。しばらくしてから、脱衣所の扉が開いた。湯気を纏って戻ってきた彼は、いつものように雑な手つきでタオルで頭を拭いているが、その艶は目に見えて蘇っていた。俺は満足げにうなずき、冷蔵庫から水を取り出す。
「どうだ、指通りがよくなっただろ。感謝しろよ」
 得意げに声をかけると、ベレトは自分の髪の毛先を指でつまみ、不満そうに顔をしかめた。
……匂いが、違う」
「当たり前だろ。俺とは別のなんだから」
「前のがよかった」
「ばか言え。あんたの髪、限界だったんだぞ。大人しくそれを使っとけ」
 俺が軽く一蹴すると、彼は不服そうに口を噤み、じっと俺の顔を見つめてきた。
 いつもは温度を感じさせないほど静かな瞳に、今は明確な非難の色が混じっている。せっかく髪質に合ったものを買ってきてやったというのに、どうしてそんなに残念そうな顔をするのか、俺にはさっぱり理解できなかった。
 汚れが落ちれば何でもいいと言っていた割に、一丁前に好みを主張してくる。だったら最初から教えておいてくれ。大抵のことはすぐ納得するくせに。そう思いつつも、押し黙ったまま俺を見る顔が妙にむくれていて、なんだかおかしくなってくる。
「そんなに嫌か? ……どれ」
 俺は面白半分で手を伸ばし、まだ少し湿っている彼の毛先をすくい上げて鼻を近づけた。少しだけ、後を引く甘い匂いがする。
「いい匂いじゃないか。あんたに似合ってるし、俺はけっこう好きだけどな」
 わざと機嫌をとるように笑いかけてやったというのに、彼はまったく納得していない様子で、ふいっとそっぽを向いてしまった。
……わがまま言うなよ」
…………
 ベレトは何も言わず、諦めたように短く息を吐くと、少し離れた床に座り込んで黙々と髪を拭き始めた。
 せっかくの気遣いを無下にされたようで少し腹が立ったが、大人しく俺の買ってきたものを使っている背中を見ていると、まあいいかという気分になる。この男の考えていることは、本当にわからない。

 それから、久しぶりの休みを利用して、俺たちは適当な衣服をいくつか買い揃えた。値札を切ったばかりの新しいシャツに袖を通したベレトの姿を、俺はリビングのソファから眺める。
 同じ身長の俺と比べて、彼の骨格は明らかに華奢でしなやかだ。それなのにお仕着せのような不格好さは微塵もなく、布地の余白すらも彼特有の静かな空気に馴染んでいる。
「どうだろうか」
「悪くない。サイズも合ってる」
 短く評価を下すと、彼は自身の袖口をまじまじと見つめる。
「でも自分は、君みたいには着れないな」
 ぽつりとこぼされた言葉に、俺は少しだけ目を丸くした。この男の口から、明確な他者との比較や、自己評価のような言葉が出たのは初めてだったからだ。
 ここ数日、少しずつだがベレトの口数が増え、張り詰めていた緊張感のようなものが確実にほどけ始めている。
「あんたはあんたの着方でいいんだよ。似合ってる。俺が言うんだから、信じてくれよ」
 素直にそう返すと、彼の目元がわずかに和らいだように見えた。



 俺はノートパソコンを前に、ひどく重い息を吐き出した。客からの理不尽な要求と、終わりの見えない資料整理。限界まで張り詰めていた糸がふつりと切れるような疲労感に襲われ、背もたれに深く体重を預ける。
 視界の端で、影が動いた。ソファの足元にいたはずの男が音もなく立ち上がり、こちらへ近づいてくる。
……なんだ。腹でも減ったか」
 気怠くたずねると、返事の代わりに視界が暗転した。
 気がつけば、俺は座ったままの体勢で、ベレトに正面から抱き込まれていた。首元には彼の肩口が押し当てられ、背中に回された両腕が逃げ場を塞いでいる。
 華奢なはずの腕からは、静かな力強さが伝わってくる。
「おいおい、急になんの真似だ」
「君が、ひどく消耗しているように見えたから」
 耳元で、ベレトが答えた。
「だからって、なんで抱きついてくるんだよ」
「君の前に世話になっていた人は、泣いている時にこうすると、落ち着いていたから。自分には、これ以外の対処法がわからない」
 どうにか頭をひねったことだけは分かる響きだった。与えられた親切に対して、彼なりに優しさを返そうとしているのだ。過去のデータを引っ張り出して実行された、情緒の欠片もない戦術のような抱擁。
 その不器用さとズレっぷりに、俺は数秒ほど呆然とし、やがて腹の底からこみ上げてきたおかしさに耐えきれず声を上げて笑ってしまった。
……っ、ははは! なんだそれ、そもそも俺は泣いてないぞ」
 肩を揺らして笑う俺を、彼は抱きしめたまま不思議そうに見下ろしている。
 慰め方としては完全に間違っている。だが、限界までこわばっていた俺の肩からはすっかり毒気が抜け落ち、どうしようもなくほっとしている自分がいた。
……まあいい。あんたのその気持ちはありがたいよ」
 笑いと苦笑を半分ずつこぼしながら、俺は背中に回された彼の腕を軽く叩き返した。大人としての、余裕のある対応のつもりだった。だが、彼がゆっくりと体を離した瞬間、真正面からぶつかった凪いだ瞳には、俺の、ひどく間の抜けた顔がはっきりと映り込んでいた。
 その視線から逃れるように、俺は後頭部を掻く。
「いいか。そんな無自覚なことばかりするから、一緒に暮らしてた相手が勘違いするんだ。ただ飯を食わせてもらった対価のつもりだろうが、そういうのは本当に好きな相手にだけにしておけ」
……でも、君は勘違いしないだろう」
 忠告を遮るように、彼が静かな声で言い切った。
 深い意味はない。ただ単に、事実を確認しただけだ。その迷いのない断言に、俺の胸の奥でかすかな、ほんとうにかすかなさざ波が立った気がした。
 俺は口の端に余裕の笑みを貼り付け、ふと目を細める。
「ああ、そうだ。俺はあんたがいないと生きていけないわけじゃないからな。残念だったな」
 突き放すような、けれどどこか甘さの残る軽口。それを聞いたベレトは、納得したのかしていないのか、よく分からない顔で離れていった。

 それから、数日経った夜のこと。ベッドで微睡んでいた俺は、シーツが不自然に沈み込む感覚に目を覚ました。
……おい」
 暗闇の中、隣に得体の知れないものが潜り込んできている。得体が知れないったって、その正体は分かっているのだが。
 男ふたりで暮らすには手狭になったこの部屋で、普段は少し離れた寝床で寝ているはずの彼が。どうやら寝ぼけたまま這い上がってきて、あろうことか俺のベッドのスペースを陣取っているらしい。
「おい、起きろ。ここは俺のベッドだぞ」
 ため息をつき、俺はベレトの頬をぺしぺしと軽く叩いた。その瞬間。さっきまで完全に脱力していたはずの彼の手が跳ね上がり、俺の手首を正確に、骨が軋むほどの強い力で掴み上げた。
――っ、」
 とにかく速かった。完全に、荒事をくぐり抜けてきた人間としての、本能的な反射だった。
 暗がりの中で、温度を感じさせない静かな瞳がうっすらと開かれる。だが、至近距離で俺の顔を認識した途端。その瞳から、張り詰めていた殺気のようなものがふっと霧散した。
……なんだ、クロードか」
 ひどく安心しきったような、ゆるみきった声。彼は俺の手首を解放すると、再びシーツに深く顔を埋め、あっという間に規則正しい寝息を立て始めた。
「なんだ、じゃないだろ。人のベッドに勝手に潜り込んでおいて、ほんと何なんだよ……
 勝手にやってきて勝手に納得して寝るという、あまりにも理不尽な振る舞いに、俺は掴まれた手首をさすりながら大きく息を吐き出した。
 元々、誰かと同じ空間にいると無意識に気を張ってしまい、深く眠れない性分だ。こんな狭い部屋で他人がすぐ傍で寝ているだけでも落ち着かないというのに、同じベッドなど論外だった。
 追い出そうと思えばできる。だが、蹴り飛ばすのは憚られる。部屋の隅で居心地悪そうなあの日を思うと、どうしてもできなかった。
 窓からの月明かりに照らされた、嫌味なほど整った顔立ち。結局、俺は彼を床へ蹴り落とすのを諦め、隣でその静かな寝顔をじっと見つめたまま、長い夜を明かす羽目になった。

 一度、完全に自分の縄張りへの侵入を許してしまったせいか、それからの俺たちの距離感は、以前にも増して曖昧なものになっていった。
 朝、俺が洗面台で顎の髭を整えていると、横から無造作にベレトが割り込んでくる。時間をずらすなんて概念はないらしい。
 繊細そうな顔の割に、案外大雑把というか、隙だらけなところがあった。ふたり並ぶには窮屈な場所で俺の肩に腕をぶつけながら立ち、彼が鏡も見ずに勢いよく蛇口をひねっても、もう何とも思わなくなってきた。
「もうちょっと端に寄ってくれないか」
「ん」
 短い生返事をして、彼は両手で掬った水を勢いよく顔に叩きつける。豪快に洗うのはいいが、ふと横を見ると、彼の着ているシャツの襟元から胸のあたりまでが、水跳ねで見事にビシャビシャに濡れていた。
……顔洗うたびにそうやってびしょびしょにするの、どうにかならないのか」
……? こんなの、すぐ乾くだろう」
 濡れた顔をタオルで拭いながら、本気で不可解そうにしている。その顔がおかしくて、俺はトリマーを持つ手を止め、思わず声を出して笑ってしまった。
「ははっ、乾く乾かないの問題じゃないだろ。気持ち悪くないのかよ」
「こうやって水で洗うと目が覚める。だから、これがいいんだ」
 ひどく真面目な顔で反論してくるのがさらにおかしくて、俺は肩を揺らして笑い続けた。人といると気を張ってしまうはずの俺が、自分の領域をここまで無遠慮に侵されているというのに、ちっとも嫌じゃない。むしろ、このだらしない水浴びを見るのが、毎朝のひそかな楽しみになりつつあった。



 奇妙な同居生活が安定してきたこともあり、俺は同居人であるベレトに留守を任せて外へ出る日が増えていた。
 ばかにできない防犯意識の高さと、言いつけを守る従順さのおかげで、部屋にひとりで置いておくことへの懸念はすっかりなくなっていたのだ。
 ある日の朝。玄関でジャケットを羽織り、靴紐を結び直していると、背後に気配を感じた。
 振り返ると、ベレトが廊下の壁に肩を預け、じっとこちらを見つめている。似合わないスーツを笑いにでもきたのだろうか。
……どこへ行くんだ」
 いつもと変わらない、濃淡の薄い声でたずねてくる。最近、俺が外出しようとするたびに彼はこうして行先を確認するようになった。
「仕事だよ。帰りはちょっと飲んでくる。遅くなるから、晩飯は冷蔵庫のものを見繕って適当に食っておいてくれ」
「そうか」
 ベレトは短くうなずくが、その視線は俺のジャケットの襟元から靴の先に至るまでを、ひどく熱心に追っていた。俺を引き留めるわけでもなく、ただ観察するように見つめるだけ。その行動の理由はおそらく彼自身にもわかっていないのだろうが、まとわりつくような視線に、俺の背中はいつもひそかな緊張を強いられる。

 深夜、酒の匂いを纏って帰宅すると、間接照明だけが点いたリビングで同居人がぼうと佇んでいた。
 俺がテーブルの上にビニール袋を置くと、彼の深海のように静かな瞳がほんの少し揺れる。帰り道のコンビニで、無意識のうちに手に取ってしまったプリンとケーキだ。どっちがいいか俺には分からなかったから、結局両方買ってしまった。
「起きてたなら、これ食うか」
 それぞれ袋から取り出すと、彼は躊躇うことなくスプーンを手に取った。
 俺は冷蔵庫から氷とウイスキー、それに炭酸水を取り出し、手早くハイボールを作ってからソファに深く腰を下ろす。外で散々飲んできたというのに、この静かな部屋で向かい合って飲む酒が、今の俺にとっていちばんの酔い覚ましになっていた。
 甘いものを平らげ、さらに俺が作り置きしていた肉の炒め物まで温めて食べ始めた彼を、俺はグラスを傾けながら眺める。
「君は食べないのか」
 そう言えば、はじめて会った夜も同じことを聞かれたっけか。あのときも、俺は水を飲んでただけだったな。そう懐かしくもない思い出にひとり浸りながら、のろくなった思考の中から言葉を選び取ってゆく。
「俺は酒があればいい。甘いものは昔から苦手なんだよ」
 そう答えると、彼は咀嚼の手を止め、俺の手元のグラスを見つめた。
「つーか、食う時は割と食ってるぞ。あんたが食事に夢中で、気付いてないだけ」
 俺が冗談めかして笑うと、彼は少しだけ不服そうに目を伏せたが、すぐに無言で残りの肉を口に運んだ。また買い出しに行かないとなあ、と、酔った頭で考える。
 夜のリビングには、冷蔵庫の低い駆動音と、俺の手元で氷が鳴る音だけが落ちている。やがて皿を綺麗にした彼は、グラスの水をひと口飲むと、ソファでゆったり酒を飲んでいる俺の姿や、間接照明に照らされた部屋の輪郭を確かめるように、ゆっくりと視線を巡らせた。
「君の生活は、平和だな」
 不意にこぼされた言葉に、俺は少しだけ目を丸くした。
「ジェラルトのところにいた時とは違う。誰も怪我をしないし、命を狙われることもない。静かで、安全だ」
 彼が知る荒事の世界と比較しての、純粋な感想なのだろう。だが、俺はグラスの氷をカラリと鳴らし、自嘲気味に口の端を吊り上げた。
「そうでもないぞ。あんたが見えないところで、俺はずっと戦ってるんだ。血が出ないだけで、けっこうしんどいんだぜ」
「君は、今の仕事が嫌いなのか」
「嫌いじゃないが、最終目標じゃない。俺は将来、国境も業界のしがらみも全部ぶっ壊すような、でかいプラットフォーム企業を立ち上げるつもりなんだ。今はそのための資金と人脈作りの期間ってとこかな」
 酔った勢いとはいえ、こんな青臭い野望を他人に語ったのはいつぶりだろうか。笑われるかと思ったが、ベレトはひどく真剣に、俺を見つめていた。
「すごいな、君は。自分にはそんな先の目標は何もない。ジェラルトのところで、言われた通りにトラブルを処理してきただけだ」
「そういえばあんた、親父さんのところでは具体的にどんなことをしてたんだ?」
 ふと気になって尋ねると、彼は視線を伏せたまま淡々と口を開いた。
「主に揉め事の仲裁や、警護だ。自分はただジェラルトの隣にいて、相手が手を出してきたら、それを物理的に排除するだけでよかった。……それ以外は、全部ジェラルトがやっていたから」
 静かな声で語られた内容に、俺は手元のグラスを落としそうになった。 ただの探偵や警備員などではない。完全に、裏社会の境界線で汚れ仕事を請け負う暴力装置そのものではないか。
……っ、冗談だろ。あんた、なんて危ないことやってたんだよ! ただ者じゃないとは思ってたが、そんなの命がいくつあっても足りないだろうが」
 思わず声を荒げると、彼はきょとんとした顔で首を傾げた。
「危なくはない。相手が動く前に、自分が完全に制圧するから問題ない。それに、他にできることもなかったから。……そのせいか、ジェラルトには『もっと世の中を勉強してこい』と放り出された」
「世の中の勉強の第一歩が、行きずりの女のヒモになることかよ。親父さんが泣くぞ」
 俺が呆れて天を仰ぐと、彼は「そうかもしれない」と小さくつぶやき、俺の顔をじっと見つめた。
「でも、君に出会えてよかったと思っている」
 そりゃあ、そうだろう。暴力と死線が隣り合わせの世界から見れば、誰も刃物を向けてこないこの部屋はさぞ天国に思えるはずだ。俺が普段相手にしている理不尽な顧客どもだって、彼が制圧してきた連中に比べれば可愛いものに違いない。
 だからといって、彼を拾って自分のそばに招き入れたことそのものを、肯定するにはまだ俺は青くて。
「そういう妙に警戒心が薄いところが、放っておけないんだよ。あんたがそれだけ強いって知ってりゃ、俺はあの夜あんたのことを見捨てられたのに」
 火照る顔をごまかすように残りのハイボールを一気に煽った。思ってもないことを言っているのが伝わっているのか、彼は動揺ひとつ見せない。うれしいやら、悩ましいやら。
……俺が会社を立ち上げたら、あんたを俺の専属の護衛として雇ってやるよ。危ない橋を渡らなくても、俺が三食きっちり美味い飯を食わせてやる」
 冗談めかして笑うと、彼の瞳がゆったりと細められる。
「それは、いいな」
 ひどく大切そうに、彼が俺の提示した未来を反復する。
 自分の野望の中に、いつの間にかこの得体の知れない男の席を用意してしまっている。そんな口約束を無意識にこぼした己の軽薄さに、俺は自己嫌悪に陥る。
 完全に浮かれている。飲み慣れたはずの酒に、ひどく悪酔いしているらしい。
……いや、今のは忘れてくれ。ただの酔っ払いの戯言だ」
 照れ隠しにそう吐き捨てて空のグラスをテーブルに置いたが、彼は「忘れない」と静かに、けれど頑なに言い切った。
 俺はもう一度小さく息を吐き、ひどく静かなリビングの天井を見上げた。



 仕事が忙しい日や食材のストックがない時は、ベレトに近所への簡単な買い出しを任せるようになっていた。あれもこれもと余計な品を買い込まないよう、持たせる現金をわざと少なく絞っている。しかし、帰宅した俺を出迎えたのは、食卓を埋め尽くす惣菜の数々だった。
 メンチカツ、マカロニサラダ、肉じゃが、アジのフライにほうれん草のおひたし。今日渡しただけの予算で、これほどの品数が揃うはずがない。
……なんだこれ。やけに種類が多いじゃないか」
 上着を脱ぐ手を止めてたずねると、ベレトは少し得意げに口角を上げる。
「商店街の惣菜屋で、おまけしてもらった。よく食べる顔をしているから、たくさん食べなさいと」
 よく食べる顔、とはいったいどんな顔なのだろうか。常に表情の薄いこの男が、店先で物欲しそうに惣菜を見つめていたとでもいうのか。想像するだけで少し頭が痛い。
「へえ、そりゃよかったな」
 表面上はいつもの軽口を取り繕うも、胸の奥には泥のような澱みが沈んでゆく。
 惣菜屋の店員。女か、男か。どちらにせよひどく面白くない。本人はただそこに立っていただけなのだろうが、この隙だらけの男が外の世界で他人の好意を無自覚に受け取っていることそのものが、腹の底をじりじりと焼く。
 俺が衣食住の面倒を見ているというのに、目の届かないところで、あっさりと他人の懐に入り込んでいる。
「その店員、ずいぶん気前がいいんだな。毎日通えば食費が浮くかもしれないぜ」
 あえて突き放すように、興味のないふりをして首元のボタンを外す。余裕のある大人の男としての、完璧な立ち回りだ。見苦しい嫉妬を露わにするなど、俺の矜持がゆるさない。
 けれど、そんな見え透いた意地などお見通しとばかりに、ベレトは不思議そうに小首を傾げる。
「君は、うれしくないのか」
「ん? うれしいに決まってるだろ。食費が浮くのは大歓迎だ」
「そうか。でも、君の目は少しも笑っていない。……どこか不機嫌に見える」
 ぼんやりしているようで、的確に急所を突いてくる。ごまかすように手元のグラスへ水を注ぎ、一気に喉へ流し込んだ。
「気のせいさ。仕事で少し疲れてるだけだよ」
……そういえば、昼間読んだ本に書いてあったんだが」
 ベレトはふと何かを思い出したように、まじまじと俺の顔を観察してくる。
「本心とは裏腹の態度をとって有利な条件を引き出したり、相手の本音を探り合ったりすることを、戦略的な駆け引きと呼ぶらしい。君が今やっているのは、それか?」
「ぶっ、」
 喉を通るはずだった水が、見事に気管へと入った。
 激しくむせる俺の背中を、ベレトが不思議そうな顔でさすってくる。いたわるという言葉を知らない、遠慮のない手つきで背中が燃えるかと思った。
……っ、げほっ、あのなあ。どんな本読んでたんだよ」
「本棚に置いてあった、君の仕事の本だ。商談の進め方について書いてあった」
 ああ、と適当にあいづちを打つが、まったく覚えていない。一度流し読みをして、そのまま本棚に放り込んだのだと思う。見られて困るものでもないが、こうやっておかしな知恵や知識をつけられるのは厄介だ。本棚も片付けないとな、なんて考えながら、もう一度グラスに水を注ぐ。
「駆け引きってのはな、もっと複雑な盤面で使うもんだ。俺がこんな場所で、あんた相手にそんな真似をするわけないだろ」
「そうなのか。人間関係というのは難しいな」
 妙に納得した顔をして、ベレトは大人しく自分の席へ戻る。器の小さい独占欲を隠そうと取り繕った結果が、仕事用のテクニックを疑われる始末。怒る気すら削がれ、俺は額に手を当てて深く息を吐き出す。
 視線の先では、騒動の元凶である男が、山積みの惣菜をさっそく口へ運び始めている。
 よく食べる顔。確かに、少しばかり頬を膨らませて淡々と咀嚼するその様には、なぜか他人の世話を焼かせる不思議な引力があるような気もする。世の中、俺のような奇特な人間は案外多いらしい。

 男ふたり、狭くなった部屋で駆け引きだのなんだのと言われてから数日が経った、ある夜のこと。仕事の疲れを引きずって玄関の扉を開け、靴を脱いで顔を上げた直後だった。
 不意に目の前に立った同居人の手が伸びてきて、あろうことか、俺の頭を撫でてきたのだ。ほんとうに、子どもにするみたいに。
――は?」
 あまりに突拍子もない行動に、俺は声を上げることもできず硬直する。髪に触れる遠慮がちな手のひらからは、ひどく穏やかで確かな体温が伝わってくる。
……おかえり、クロード。今日もお疲れ様」
 ひどく真面目な顔で囁かれたのは、低く落ち着いたいつもの声だ。頭を撫でる行為は数秒ほど続き、俺が呆然としている間に、彼は満足げに手を下ろしてリビングの奥へと消えていった。
 あとに残されたのは、異常な速さで警鐘を鳴らす己の心臓と、完全に置いてけぼりを食らった俺だけ。
 いったい何のつもりだ。
 洗面所で手を洗いながら、俺は鏡の中のひどく動揺した顔を睨みつける。あの男が、意味もなくあんな真似をするはずがない。いや、意味がないならまだいい。俺から何かを引き出そうとしているのか。あるいは、居候の身分をより強固にするための彼なりの処世術か。
 すっかり忘れかけていたが、あいつは女の家を転々としてきたヒモなのだ。そうした手管を――いや、あの男に限ってそれはないか。そんな計算高い真似ができるなら、女に怒鳴られた挙句、道端に放り出されたりしない。
 だとすれば、あれはただの純粋な労いということになる。下心なしの、ただの善意。そっちのほうがよっぽどたちが悪い。
 深読みが癖になっている俺の頭は、自分を納得させる理由や言い訳を探そうとしては、あっけなく自滅を繰り返している。

 だが、俺の警戒をよそに、彼の不可解な行動は翌日も、そのまた翌日も続いた。
 帰宅時の奇行だけではない。俺がソファでパソコンを開いていると、無言で隣に座り込んできたりする。
 さらに、俺が何気なく褒めたシチューを、律儀に三日連続で食卓に並べてきたりもした。三日目まで何も言わずにいた俺もたいがいだが、さすがに呆れて指摘すると、「君の好きなものをたくさん食べさせようと思った」とどこまでも真剣な顔で返された。
 そんな奇行の極めつけは、休日の昼食時だった。向かいの席に座る男が、あろうことか自分の箸でつまんだ白米を、卓越しに俺の口元へと真っ直ぐに突き出してきたのだ。
……まさかとは思うが、俺に食わせようとしてるんじゃないよな?」
「理解してくれたのなら話が早い。口を開けてくれ」
 一切の照れもなければ、悪びれる様子もない。ただひたすらに透き通った真顔。冗談を言っている気配は微塵も感じられない。俺は持っていた箸をテーブルに置き、深々と天を仰ぐ。
「なんであんたに飯を食わせてもらわなきゃならないんだよ」
「たまに行く喫茶店で、雑誌を読んだんだ。親しい相手にこうすると、より仲が深まると書いてあった」
 見よう見まねで、ただ俺と親しくなりたいという目的のためだけに、こんな訳の分からない真似をしているのだ。常識というものがすっぽり抜け落ちているこの男には、ほかに学ぶべきことがいくらでもあるだろうに。
……あんたな。そういうのは、もっと特別な関係の奴らがやるもんだ。男ふたりで向かい合ってやるもんじゃない」
「自分たちも、特別な関係だろう」
 淀みなく返された言葉に、俺は思わず息を詰まらせた。
 その瞳に下心はない。ただの事実として、俺という存在を特別だと言い切っている。胃の腑のあたりが、得体の知れない熱でじりじりと灼かれる。
「君はいつも自分によくしてくれる。だから自分も、君がよろこぶことをしたいと思ったんだが……だめだっただろうか」
 こういうずるい聞き方ができるのは、天性のものなのだと思う。彼にそう聞かれて、だめだと答えられるわけがない。だが、俺はまっすぐな好意を向けられることに、ひどく不慣れだった。
 俺が一方的に面倒を見ているうちは、関係の主導権を握っていられる。だが、こうして打算のない想いをぶつけられると、どう応えればいいのか分からなくなり、勝手に底の浅い裏を読もうとして自滅してしまう。
 与えるのは得意なくせに、受け取るのはひどく下手くそだ。自分の臆病さと余裕のなさを突きつけられ、俺は重い息を吐き出した。
……気持ちはうれしいが、そういうのは心臓に悪い」
 白旗を揚げるようにつぶやくと、ベレトは満足げに目を細めた。俺の牽制など意に介さない様子で、再び白米を口元へと突き出してくる。
「うれしいなら、遠慮はいらないな。ほら」
……だから、自分で食えるって言ってるだろ。あんた、純粋そうな顔して案外ひねくれてるな」
 呆れ半分で悪態をつきながらも、結局は差し出されたそれを渋々口に含む。咀嚼する俺の顔を眺めながら、ベレトはどこか愉快そうに喉を鳴らした。
「誰かさんに似たらしい」
 にしては、たちが悪すぎる。口元を片手で覆い隠した俺は、目の前で満足そうに箸を進める男から、どうしても視線を外せなかった。

 喫茶店で雑誌を読み、外の人間と真っ当な関わり方を覚え、少しずつ世間の知識を吸収してゆく同居人。彼が自立に向けた一歩を踏み出しているこの現実は、本来ならば喜ばしいことのはずだ。
 だというのに、俺はどうにも面白くない。彼が外の世界で勝手に知識を吸収し、誰かと関わることに対して、心の奥底で得体の知れない不快感がくすぶっている。

 ある日の午後。買い出しに行こうと立ち上がった彼に、俺はつい、もっともらしい理屈を並べて引き留めていた。
「わざわざ出かけなくても、必要なものがあるなら俺があとで買ってくるから。今日は家でゆっくりしてればいい」
 玄関へ向かおうとしていた足が、ぴたりと止まる。
……どうして?」
「どうしてって、夕方はどこも混むし、用事のある俺がついでに済ませたほうが、効率がいいだろ。あんたが外で余計な厄介事を拾ってくる心配もないしな」
 うまく言いくるめるつもりで放った俺の言葉に、ベレトはゆっくりと振り返った。
 反論されるか――身構えた俺に対し、しかし彼は硝子のように透き通った瞳でこちらを見つめ返しただけだった。
……わかった。君がそう言うなら、出ないでおこう」
 あっさりと引き下がり、彼はソファへと戻る。拍子抜けするほどあっけない勝利。だが、俺の安堵は数分と持たなかった。
 ダイニングテーブルで仕事の資料を広げた俺のすぐ横に、彼が椅子を引き寄せて座り込んだのだ。
 距離にしてほんの数十センチ。画面に向かう俺の横顔を、瞬きもせずにじっと観察し続けている。怒気はない。ただ、俺の腹の中を探ろうとする、底知れない眼差しが無言の圧を放っていた。
……なんだよ。見られてると気が散るって言っただろ」
「君と話がしたい」
「俺は今、仕事中だ。急ぎの資料をまとめなきゃならない」
「わかった。では君の仕事が終わるまで、ここで待つ」
 キーボードを叩く指先が盛大に滑る。この至近距離で、仕事が終わるまでずっと監視を続けるつもりらしい。
……っ、終わったらちゃんと話す。だから、向こうで待っててくれないか」
 半ば悲鳴に近い声で懇願すると、ベレトはようやくソファへと退却していった。
 肌に突き刺さる視線を感じながら、俺は画面の文字を追う。だが、頭の中は仕事どころではなかった。
 いったい、何と弁明すればいい。成人した男の外出を、適当な理由をつけて引き留めようとしたのだ。論理の破綻もいいところである。
 効率がいいから? 厄介事を避けるため? どれもただの言い訳だ。俺自身、どうして彼を外に出したくなかったのか、その感情の正体がうまく掴めない。
 優秀なはずの脳髄は、俺の突発的な我儘を正当化する理屈を、ただのひとつも弾き出してはくれなかった。

 数時間後。逃げ場のない夜が訪れた。
 パソコンを閉じた俺の前に、ベレトが静かに腰を下ろす。俺は居心地の悪さに耐えきれず、また適当な言い訳を口にしようと息を吸い込んだ。だが、それよりも早く、抑揚のない声が落ちる。
「クロード。君は自分に、何を求めている」
 予想外の角度からの問いに、俺は言葉を詰まらせた。
「君は、自分に寝床と食事を与えてくれる。だが、自分が何かを返そうとすると頑なに拒む。そのうえ、今日は外に出ることすら制限しようとした」
 淡々と事実を並べるその眼差しは、俺の薄暗い打算をすべて見透かしているようだった。
「まるで、自分が君の庇護下になければ生きていけないような……ただの無力な存在であってほしいと、そう願っているように見える」
「おいおい、飛躍しすぎだぞ。俺は別に、あんたを見下してるわけじゃ……
「分かっている。君がやさしい人間だということは」
 どうにか余裕を取り繕おうとした俺の言葉を遮り、ベレトはゆっくりと首を振る。
「君から見れば、自分は世間の常識も知らないし、ひどく頼りないのかもしれない。だが、君は少し勘違いをしている。……自分は、君が養ってくれなければ生きていけないわけじゃない」
 それは、これまで俺が見ないふりを決め込んできたものだった。あの夜、俺が拾わなかったとしても、彼はどこかで適当に寝床を見つけていただろう。今の彼なら、その気になれば働き口も見つかるはずだ。俺が提供する寝床や食事は、決して生きてゆくために不可欠な命綱ではない。
「こんなに安心できる、いい生活はできないかもしれないけれど、君から離れようと思えば、いつでも出て行ける。……それでも自分がここにいるのは、君のそばにいるのが、心地いいからだ」
 穏やかに、けれど揺るぎない確信を伴って告げられた言葉。
 言われてみれば、まったくもってその通りだった。そもそも行きずりの彼を勝手に拾って、勝手に面倒を見始めたのは俺のほうだ。厄介払いして追い出そうとするならともかく、わざわざ彼をこの狭い部屋に閉じ込めて、俺はいったい何がしたかったんだろう。
 保護者面をして引き留めるための理屈を探していたが、結局のところ、ただ彼が自分の手から離れてゆくのが嫌だったのだ。そんなみっともない執着を、もっともらしい理由で包み隠そうとしていただけの話。俺が与えるものに依存しているからではなく、彼自身の意志で、俺を選んでここにいる。
 その単純な真実を前にして、俺はどうしようもない己の矛盾に気づかされた。
……そうだよな。あんたは世間知らずで、どうしようもないところはあるが、立派な大人で、ひとりの人間なんだもんな」
 肩から一気に力が抜け落ちる。俺は大きく息を吐き出し、天井を仰いで自嘲するように笑いをこぼした。
「養ってやってるだなんて、俺の傲慢だった。……あんたの気持ちを否定して、悪かったよ」
 素直に非を認めた俺に、彼はかすかに目を丸くしたあと、ふっと目元を和らげた。
「君が与えるばかりじゃなく、これからはお互いに与え合えばいい。……君も、少しは頼ってくれ」
 どこか誇らしげに言い切る彼に、俺は思わず苦笑する。
「そうだな。でも、もう変な雑誌の真似事みたいなのは勘弁してくれよ」
「善処する」
 全く善処する気のない響き。だが、胸の奥に沈殿していた黒い澱は、すっかり溶けて消え去っていた。
 狭いリビングに、グラスの氷が溶ける微かな音が響く。窓の向こうでどれほど広い世界が広がろうとも、俺たちが帰る場所は、この部屋でじゅうぶんなのだと、今はただ素直に思えた。



 季節が少しずつ移り変わるころには、俺たちの同居生活は、もはや完全にひとつの日常として定着していた。
 休日の昼下がり、俺がソファでパソコンを開いている傍らで、ベレトは取り込んだ洗濯物を手際よく畳んでいる。だいぶ手慣れてきたらしく、いびつな山が崩れることはなくなった。
 掃除から簡単な料理まで、今では俺よりも彼の方がこの部屋の家事全般を完璧に回している。大鍋で作ってくれたカレーがやたら美味くて、思わずおかわりしたのは記憶に新しい。
 そういえば、同居を始めて数日目に、彼が自身のスマートフォンを取り出したときは正直驚いた。
 俺の予備のケーブルを貸してやって以来、リビングの片隅で大人しく充電されている黒い端末。自分名義で通信機器を契約できる程度には、身元が法的に白である事実に安堵したものの、それが鳴ることは今までほとんどなかった。
 その時だった。
 静かなリビングの空気を震わせるように、低い着信音が鳴った。音の出所は、まさにその黒い端末からだ。
 彼は畳みかけのタオルを置き、無表情のまま通話ボタンを押した。
……ああ」
 ひどく淡々とした声が部屋に落ちる。
……それなりにやっている。いや、問題ない」
 数回の短いあいづちのあと、彼はあっさりと通話を切った。相手が誰なのかたずねるまでもない。彼がこれほど無機質に、かつ従順に言葉を返す相手など、世界にひとりしかいないはずだ。
「親父さんからか」
 わざと興味のなさそうな声を出しながら、俺の心臓は嫌な音を立てていた。
 いつかはこの日が来ると思っていた。親父さんから“社会勉強“の終わりを告げる連絡があったのなら、彼がこの部屋に居座る理由はない。
「ああ。最近どうだと聞かれた」
 彼はスマートフォンを置き、正面から俺を見た。
「ここでの生活のことは話した。そうしたら、ジェラルトがそろそろ一度顔を見せに来い、と」
 その言葉に、俺は喉の奥にこみ上げた執着を無理やり呑み込んだ。
 つい先日、ひとりの大人として彼を尊重すると決めたばかりだ。彼が自分の意志で帰るというなら、引き留める権利なんて俺にはない。
 ふたり分の食費だってばかにならないし、帰ってくれたほうが俺としてもありがたいはずだ。
 そうやって必死に言い訳を並べ立てているのに、心の底から「よかったな」という言葉が出てこない。口の中がひどく乾いて、言葉を探す喉が引きつるようにこわばった。
 張り詰めた沈黙のあと、彼は少し困ったように眉間を寄せた。
「君が決めたルールを破ることになる。……どうしよう」
 純粋に、俺が定めた外出制限のルールを破ることへの確認だった。
 ここで「行くな」と言えるほど、俺は素直でもなければ子供でもない。理性ですべてをねじ伏せて、わざとらしく短く息を吐き捨てた。
……潮時だろ。わざわざ俺の許可をとる必要もない。あとは好きにしろよ」
 突き放すような俺の言葉を額面通り受け取ると、彼は「わかった」と短くうなずいた。
 そして、俺と一緒に買いに行った数着の服や私物をまとめることもせず、ただスマートフォンと財布だけをポケットに突っ込んで立ち上がる。約束を破ることへの申し訳なさをかすかに滲ませてはいるが、残してゆく荷物に未練やためらいは一切ないようだった。
 手ぶらであっさりと準備を終えた彼は、俺の顔を一瞥して、けれど何も言わずに玄関へ向かった。
 扉が開き、そして閉まる。鍵の落ちる音が、やけに部屋に響いた。

 ベレトが出て行ってから、数時間が経過していた。深夜二時。
 俺はリビングのテーブルでパソコンを開き、無意味にキーボードを叩き続けていた。仕事などまったく手についていない。ただ、彼がいなくなったことで急激に広くなった部屋の余白と、嫌になるほど耳につく冷蔵庫の駆動音をごまかすための作業だった。
 あの中には、彼によく食わせていた肉やら何やら、山ほど食材が残っている。俺だってそれなりに食うほうではあるが、さすがにひとりでは食べきれない。明日から、作り置きというやつに挑戦してみるか。
 いつかの夜、彼の不器用な慰めを突き放すように「あんたがいないと生きていけないわけじゃない」と豪語した手前、酒を煽って不貞腐れて寝るわけにもいかず、そんなとりとめのない思考と一緒に、行き場のない喪失感だけが胸の奥で重く沈殿している。
 不意に、静まり返った部屋の空気を裂くように、エントランスの呼び鈴が鳴った。非常識な時間の来訪者に、俺は苛立ちとともに目を細める。無視して視線を画面に戻そうとしたが、二度、三度と間髪を入れずに呼び出し音が繰り返された。
 ただの酔っ払いの間違いか、あるいはたちの悪い変質者か。俺は万が一警察に通報する事態に備えてテーブルの端末を掴み、足音を殺して壁のインターホンへ近づいた。

 だが、小さな画面に映し出された訪問者の姿を見た瞬間、俺の指からすっと力が抜け落ちた。
 乾いた音を立てて、端末が床に落ちる。白黒の粗い映像の向こう側で、カメラをじっと見上げる見慣れた男の姿があった。その肩には、ここを出ていった時には持っていなかったはずの大きめの鞄が掛けられている。二キロの制限などとうに超えている実家から、深夜にわざわざ車でも飛ばしてきたのだろうか。
 なぜ。どうして。思考が真っ白に塗り潰され、気持ちの整理など何ひとつついていない状態のまま、俺の指は半ば反射的に解錠のボタンを押し込んでいた。
 数分後。重い金属音とともに玄関の扉を開けると、そこには数時間前とまったく同じ、静かで表情の読めない顔をした彼が立っていた。
……なんで帰ってきた? 親父さんは、」
「たまには顔を見せろと言われたから、見せてきた。それから、自分の私物をまとめてきた」
 呆然とつぶやく俺の問いに、彼は事実だけを告げた。
「君が『好きにしろ』と言ったんだろう」
 堂々とした帰還宣言だった。彼にとってあの外出は永遠の別れなどではなく、ただ言われた通り父親に顔を見せに行き、ついでにこれからの生活に必要な荷物を取りに帰っただけの、単なるお使いの延長だったのだ。
 俺が買った服を置いていったのも、未練がないからではなく、すぐに戻ってくるつもりだったからに過ぎない。
 すべては俺の早とちりであり、完全なひとり相撲だ。
 安堵よりも先に、限界まで張り詰めていた見栄と強がりが音を立てて崩れ落ちてゆく。いい歳をして、感情の育ちきっていない得体の知れない男の行動ひとつで、ここまで振り回されている。
 あまりの情けなさと、顔から火が出るような居たたまれなさに、俺は彼の顔をまともに見ることができず、勢いよく視線を逸らした。
……ちょっと用事を思い出した。コンビニに行ってくる」
 口に出すとなんともみじめな響きだった。すれ違いざまに彼を置いて外へ逃げ出そうと、革靴の踵を踏み潰すようにして玄関へ足を踏み出した瞬間。
 背後から、一切の気配もなく伸ばされた両腕が、俺の身体を背中ごと強く抱きすくめた。
 背中から密着した体温と、絶対に振り解けない静かな腕の力。俺の身体の重心を的確に捉え、物理的な逃げ道を完全に塞いでいた。
……おい、離せって。すぐ戻ってくるから」
「行かせない」
 耳元に落とされた低く揺るぎない声に、俺の足がぴたりと止まる。有無を言わせぬ言葉通り、俺を捕らえている腕には微塵の迷いもない。荒事を潜り抜けてきた男の、見事な制圧だった。
 背中に回された拘束がふっと緩み、俺は半ば強引に身体を反転させられた。至近距離で、真正面から視線がぶつかる。どこまでも澄んだ瞳には、相変わらず打算も計算も浮かんでいない。ただ、まっすぐな光だけがあった。
「君は、都合が悪くなると、すぐそうやってはぐらかして逃げようとする」
……
「でも、逃げ道を塞いでしまえば、君は大人しくなる。……君の扱い方が分かってきた」
 淡々とした口調とは裏腹に、腹立たしいほどの自信がにじんでいた。
 これまでずっと、俺のほうが世間知らずなこいつを拾って、世話を焼いてきたはずだった。保護者として余裕のある態度を保ってきたつもりだったのに、この男は俺の最も弱い部分を本能だけで的確に突いてくる。
……あんた、本当にたちが悪いぞ」
 深く、大きく呼吸をしたのち、俺が両手を軽く挙げて降参の意を示すと、彼は腕の力をすっと抜いた。
「わかったよ。逃げないから」
「ほんとうに?」
「ああ。ただまあせっかくだし、あんたの帰宅祝いに好きなもん買ってやるよ。……コンビニだけどさ」
 俺が半ばやけくそ気味にそう告げると、彼の瞳がわずかに見開かれたあと、やがてやわらかな光を帯びて細められた。
「この時間は何があるんだろう」
「さあな。あんたが好きそうなものがひとつでも残ってるといいが。……俺が深夜に出歩くとろくなことが起きないからなあ」
「それは大変だ」
 まったく、嫌味のひとつも通じないのか。俺は呆れまじりに笑い、彼の背中を軽く叩いた。まだ少し肌寒い深夜の風の中、俺たちは並んでエントランスの扉を抜ける。


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