自分の気持ちに自覚のない従者のために主が結託して…というラブコメ
一話目はジプソ視点でコメ要素ほぼありません
二話目はハルジオ視点でこれもコメ要素ほぼありません
合計四話でユカリ視点→カラスバ視点と続きます
その関係上一話と四話がジプカラ中心・二話と三話がユカハル中心となります
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いつもなら、扉を開けるのはジプソの役目だ。
しかしここでは、その必要はなかった。カラスバの歩幅に合わせた完璧なタイミングで扉が内側から開かれる。カラスバの歩みを止めるものも、スピードを緩めるものも何もない。ほんのわずかな時間稼ぎも許されないジプソは、カラスバがあの扉の先に行かないよう祈り――あるいは呪いをこめて、カラスバの背中を見ていた。ぴんとまっすぐ背を伸ばしたカラスバの後ろ姿は、毒のような意匠が垂れ下がる個性的なスーツがすばらしく様になっている。
サイズのまったく合わない薄汚れたシャツを着た、あの猫背の後ろ姿はもうすっかり、かすかな名残さえも失われている。
カラスバの靴先が重厚な扉をくぐる。その途端、サイコソーダのように弾ける明るい声がカラスバを呼んだ。
「カラスバさま!」
その呼び名につられるように視線を上げたジプソは、前方から駆け寄ってくるユカリの、大きな目に湛えた少女のような輝きを直視した。シャンデリアから降り注ぐ無数の光が、ユカリの目に宝石のようなきらめきを与えている。
愛されている人間だ、とジプソは思った。
生まれたその瞬間から今までずっと、大切に大切に大切に愛されてきた人間だ。オレとは違う。オレとはまるで違うけれど、オマエとも違うはずだ。
オマエはこっち側だろ。
ジプソはカラスバの背中をじっと睨みつけるように見つめながら、心の中でそう訴えかけた。まるでユカリを迎え入れるように、カラスバの腕が差し出される間も。カラスバの肘や手首が、ユカリを歓迎するようにやわらかに曲げられていく。カラスバの腕の中で微笑んだユカリが、わずかに顔を傾ける。カラスバの小さな後頭部も同じように傾く――その間も、ずっと。
ジプソは目をそらし、自分の靴の先に視線を落とした。
朝きっちり磨いてから家を出たのに、よく見るとちいさなシミがある。午前中、〝清掃〟の仕事があった。そのときについたものだろう。ちっとも気が付かなかった。
ジプソはその、断じてこの場にそぐわない汚れを焼くような強さで見据えていた。
きらびやかで荘厳な静寂に包まれた空間に、親密な軽やかさを伴ったリップ音が響いた。びくっとジプソの肩がわずかに揺れる。
「遅いですわ」とユカリがすねたように言った。
「時間通りやんか」まるでかわいい彼女の些細なわがままを受け止める男のように、カラスバはやわらかに苦笑した。
――こんなもの、ただの挨拶だ。
カロス式の挨拶は一見、頬にキスをしているように見えるが、実際には口をつけない。それどころか頬を触れ合わせてさえいない。そう見えるだけだ。頬は浮かせているし、リップ音は口で鳴らしているだけ。親しい間柄で交わされるただの挨拶――でもカラスバがこの挨拶を交わすのは、今までは手持ちのポケモンたちだけだった。
「ジプソ」
「――はい」
「オレら向こう行くさかい、ここで待っとってや」
苦汁をなめる一拍。
「はい、カラスバさま」
ジプソは頭を下げた。背中に隠した手を、短い爪が食い込むほどぐっと握る。
行くなと言いたかった。
カラスバの腕を掴んで無理やり引きずってでもここを出られたら、この溜飲も下がるだろう。
――どうしてこんなふうに思うのかわからない。
「ハルジオ、あなたもここで待ってなさい」とユカリが言う声が聞こえた。
「はい、ユカリさま」
「行きましょうカラスバさま! 今日はあなたの好きなロズレイティーを用意してありますわ」
「そら楽しみやな」
奥の個室の扉が閉まるまで、ジプソは決して頭を上げなかった。
そうすればカラスバが差し出した腕にユカリの腕が絡むのも、奥の個室へ向かう寄り添った二人の後ろ姿も見ずに済む。
ぱたん、と小さく遠慮がちな音を立てて扉が閉まってからようやく、ジプソは深く重い息を吐いた。
ホテルシュールリッシュ、サビ組の手の届かない摩天楼。ここの高層階に、ユカリが常時貸し切りにしているフロアがある。MSBCの拠点であり、ミアレのセレブたちが集う場所――本来、サビ組には縁もゆかりもない場所だ。カラスバがボスの座についてからというもの、瞬く間にサビ組の勢力は拡大した。ひとえにカラスバの手腕だ。今ではクエーサー社と対等に手を組める。ランカー上位陣とも協力関係にある。ミアレシティの中枢に、サビ組は深く食い込んでいる――しかしそれでもサビ組の力の及ばないところはいくつもあって、ホテルシュールリッシュはその代表格だった。スーパーユカリトーナメントというセレブらしい意味不明な催しのためバトルコートに招かれた――品良く言えば。正確に言うのなら拉致された――ことはあるが、カラスバとジプソが足を踏み入れたのはその一度だけだった。
噂によれば、ユカリ専用フロアにはバトルコートの他にラウンジやプール、カジノ、それに秘密の取引を行う個室などがあるという。実際には、プールもカジノもなかった。広々としたバトルコートに荘厳な意匠のラウンジ、そしてその奥に、重厚な扉に閉ざされた個室がある。ジプソはそこまで入ったことはない。毎回、その秘密の個室へ向かうカラスバの背中を、呪わしげに見ているだけだった。
カラスバはこのところ、ユカリの元へ通い詰めている。
以前のカラスバは、ユカリのことを苦手だと公言して憚らなかった。ユカリ本人に対しても苦手意識を隠そうとせず、どちらかというと二人は険悪な間柄だった。それが何をどうしたことか、異次元ミアレの問題が落ち着いてしばらくするとカラスバとユカリはやけに友好的になっていた。
おそらくきっかけはメガドーナツ大作戦に協力してくれた上位ランカーたちに礼をするため、カラスバが彼らを個別に訪ねたことだろう。あのとき、ジプソは別の仕事があったためカラスバについていくことができなかった。だからカラスバとユカリの間に何があったのかわからない。わからないが、とにかく事実として、カラスバはそれ以降ユカリのもとへ足繁く通うようになった。これは仕事ではないからついてこなくていいというカラスバに、ジプソはわたくしはあなたの護衛ですという定型文で半ば強引に毎回付き添っている。仕事熱心やなあとカラスバは呆れたように言ったが、そんな殊勝な理由は言い訳に過ぎないことをジプソは嫌と言うほど自覚していた。
恋人という関係になったのだろうか。
そう考えるのが最も自然だ。あんなに苦手意識を持っていたのになぜ急に打ち解けたのかはわからないが、今の二人は恋人と呼ぶべき親密さを備えている。少なくともジプソにはそう見える。カラスバがユカリのどこに惹かれたのかは不明だが、ユカリがカラスバに惹かれる理由ならば、ジプソにはよくわかった。
カラスバは誰よりも魅力的だ。
だから、不思議はない。カラスバを愛することに疑問の余地などない。
カラスバはすばらしいひとだ。いつかは必ず、カラスバに相応しいすばらしい相手が現れる。当然のことだ。ジプソはずっとそう思っていた。
ではなぜこんなに、心が暗く重く曇っているのだろう。
広々としたラウンジは人払いでもしているのか、今はジプソとハルジオしかいなかった。ジプソはハルジオに促され、個室のドアにほど近い席についた。すぐに紅茶と数種類の焼き菓子がサーブされる。
紅茶は香り高かった。花のような、甘くさわやかな香りが鼻に抜ける。クッキーは歯触りの良いさくさくした食感で、バターが重くなりすぎないほどよさで香った。さすが、ホテルシュールリッシュはとてつもなく質が良い。
しかしせっかくの味わいを楽しむようなゆとりが、今のジプソにはなかった。礼儀として一枚クッキーを食べただけで、あとはひたすらじっとティーカップの中に映る自分自身を睨んでいた。
何が気に入らないのか。
ユカリはカラスバが持たないものを持っている。恵まれた家庭、有り余るほどの金、無数の人脈。結構なことだ。カラスバならばきっとそれらをうまく使えることだろう。
ユカリがそれらを持っていなくても、カラスバはユカリを選ぶのだろうか。
カラスバはユカリについてジプソに何も言わない。仮にカラスバがユカリを利用するために近づいているのだとしたら、ジプソには必ずその計画を話すだろう。そしてジプソにも協力するように命ずるはずだ。それがない。ジプソはカラスバに、何も聞かされてはいなかった。
ならばきっと、カラスバの行動はサビ組を起点としていない。
――本気で愛しているのだろうか。
心臓に嫌な疼きが走り、ジプソは顔を顰めた。美しいティーカップの中で、かぐわしい紅茶の水面に険しい顔の男が映っている。あまりにも不釣り合いで滑稽だったが、笑う気にもならなかった。どうでもよかった。あの扉の向こうの個室で、カラスバは今何をしているのか。そればかりを考えていた。
「なあ」
ジプソはぱち、と瞬きをした。思いがけない、とジプソが感じるところから声をかけられたせいで、少し驚いていた。外にも世界があることを今の今まで、すっかり忘れていた。
ジプソは〝カラスバの護衛だから〟という理由でユカリの元を訪れるカラスバに毎回付き添いを申し出ているが、そんなものは言い訳に過ぎない。本当のところ、カラスバが一人でユカリの元を訪ねるのは嫌だった――ただそれだけだ。ジプソがついてこなければ、カラスバは時間を忘れて長居してしまうかもしれない。そうなると、そのまま夕食をともにする流れになることもあるだろう。夜も更ければ帰宅せずここに泊まることだってできる――カラスバのために用意された部屋に、カラスバがひとりで泊まるとは限らない。
考えたくもなかった。ジプソが毎回ここで空虚に紅茶を睨んでいるのは、そのわずかな可能性を完全にすり潰してしまうためだった。
仕事のスイッチを切ったジプソは、まるでカラスバが世界のすべてのようだった。休みの日に街を歩けば、店先のマネキンが着ているジャケットがカラスバに似合いそうだと思う。昼食をとるため入ったレストランのスープを飲んではカラスバが好みそうな味だと思い、ふらりと立ち寄ったカフェの雰囲気を気に入りそうだと思い、マーケットでどくポケモン用の新しいポケフードを見かけてはカラスバに教えようと思う。街にあるありとあらゆる風景から、ジプソはカラスバのことを考える。花にも星にも風にもカラスバがいる。ジプソの世界はカラスバでできている。
今もそうだ。
ジプソは紅茶の水面から顔を上げ、「はい」と返事をした。
声はジプソの向かいの席からかけられたものだった。そこにはハルジオが座っている。右手は頬杖をつき、左手は広げた足の膝に置かれている。世辞にも行儀が良いとは言えない姿勢だったが、無作法はジプソも同じだ。カラスバのことばかり考えていてハルジオのことなどすっかり忘れていたのだから。ハルジオのそのぞんざいさが今はかしこまられるよりもずっと気安くて、ジプソは知らず知らずのうちに入っていた肩の力を抜き、「なんでしょうか、ハルジオさま」と答えた。
「ハルジオでいいって」とハルジオは手を振った。ジプソは黙って軽く微笑むことで、やわらかくその要求を却下した。
「あのさ……」
ハルジオはおずおずと切り出し、再び黙り込んだ。たっぷりと空白の間が流れた。ジプソは話を促すべきかどうか迷ったが、結局、何も言わなかった。ハルジオの用件がわからない以上、ジプソがもっとも気にかかるのは必然的に扉の向こうにいるカラスバだったからだ。端的に言うと興味がなかった。ハルジオの話の続きを大人しく待つというポーズで、ジプソはわずかな音さえ伝えてこない分厚い壁に向けて神経を尖らせ、なんとか気配を探ろうとしていた。
「あいつ」と、唐突に思えるタイミングでハルジオが言った。「あいつさ……ユカリのこと、なんて言ってる……?」
ジプソは意味がわからず、ハルジオを注視した。
ハルジオはジプソを見てはいなかった。ジプソに横顔を向けて、奥の個室の扉を見ている。中にいるはずのカラスバとユカリを見透かそうとするかのような熱心さで、ただ一心に。
そこでようやく、ハルジオの言う〝あいつ〟がカラスバを指していることに気づいた。
「カラスバさまですか?」
「そう」
ハルジオはジプソを見ないまま頷いた。じっと、瞬きさえ惜しむように個室の扉を見ている。焦がれたような、寂しそうな、妙な眼差しをしていた。
ユカリのことが気にかかるのだろうか。
ジプソがカラスバのことを考えずにいられないように。
「カラスバさまは、ユカリさまについて何もお話になりません」
「……そっか」とハルジオは言った。しばらく間を空けてから、「そうなんだ」と再びこぼす。
「あの」と今度はジプソが切り出した。「ユカリさまは、カラスバさまについて何か話していらっしゃるのでしょうか」
「いや、ユカリは何も言わない」
「そう……ですか」
沈黙が降りた。
ユカリがハルジオにカラスバのことを何も話さないとは、少し不可解に思える。ユカリの人となりをジプソは詳しく知らないが、自身の色恋沙汰を秘めるようなタイプには見えなかった。
「付き合ってるのかな……」
個室の扉をじっと見つめながら、ハルジオが言った。
「……」
その、わずかな語尾の震え。
焦燥を浮かべた眼差しのかすかな揺るぎ。
稲妻に打たれたような天啓が、ジプソの中にひらめいた。
おそらくハルジオはユカリのことを愛している。
だからあんなふうに焦がれたような目をしている。不安そうな響きが声に交じる。自分の愛するものに恋人がいるかもしれないという疑念がハルジオを強く揺さぶっている。
――オレもそうだ。
ジプソはようやく気がついた。オレも同じだ。ユカリを認められないのは、ユカリだからではない。他の誰であってもジプソは同じように思っただろう。それは、ジプソがカラスバのことを愛しているからだ。カラスバのことを誰にも取られたくないと心の奥底で願っているからだ。
カラスバを愛している。
最初の出会いは、目と目が合った瞬間に運命の鐘の音が鳴り響くような、そんな劇的なものではなかった。凡庸な一幕に過ぎない。ジプソはカラスバのことを単に生意気なだけの小汚いガキとしか思っていなかったし、その印象はしばらくの間更新されることはなかった。〝カラスバ〟という名はジプソの中で特別な意味を持たず、ただの識別記号でしかなかった。
カラスバは遅効性の毒だ。
気づかないうちに心の中に入り込んで、ゆっくりと全身に回っていく。
最初の一滴がどこだったのか、ジプソは自分でもよくわからない。当時のジプソはカラスバのことを特別だとは思っていなかったから、消えそうな記憶を後から掘り返して大事にしまっている些細なエピソードたちは時系列も曖昧だった。賢い立ち回りを目の当たりにした、敵対しているはずのジプソに向かって素直に礼を言った、カラスバには卑屈なところがないと気づいた、他人に嘲られても屈託のないままの態度を見てジプソのほうがもどかしくなった、ちいさくて薄っぺらい体の中に秘めている、その光の深遠さを知った。
路地裏や地下水道やとっくに使われなくなった廃ビルにひそむ行き場のない自分たちのような日陰者にとって、カラスバはかけがえのない、太陽のような存在になるだろう。
ジプソは自分でも不思議に思うほど、日陰者を集めた組織のボスにカラスバを据えることに執着した。それはジプソの人生で唯一と言えるほどの崇高な目標だった。今まではその強さから他人にかしずかれてきたジプソが、初めて自ら人にかしずいた。それは屈辱ではなく、確かなよろこびだった。
――なんだ、あれはそういうことか。
今、カラスバはボスとして、サビ組をより明るく、より高い場所へと導いている。ジプソの見立てに間違いはなかった。間違っていたのは、ジプソが執着した理由だ。ジプソはそもそも善良になりたいなどと思ったことはない。カラスバに導かれようとしたのは、自分を正してほしかったのではなく、ただ単に、カラスバを〝ボス〟という離れることのできない場所に縛り付けておきたかっただけだった。
ジプソはカラスバにそばにいてほしいと願っていただけだった。
認めてしまえばあっさりと腑に落ちた。鈍い自分に呆れさえした。なんだ、そういうことか。なんといっても、カラスバは誰よりも魅力的だ。だから不思議はない。カラスバを愛することに疑問の余地などない。
次に湧き上がったのは、なぜ今の今まで気づかないんだ、という己の愚鈍さに対する怒りだった。もう少し、あとほんの少し早ければ――いや、まだわからない。決まったわけじゃない。本当にカラスバがユカリを愛しているのなら、ジプソが何を言おうが付き添いを許さないほうが自然だ。どんな理屈を並べたところでジプソは邪魔者でしかないのだから。
今ならまだ間に合うかもしれない。
二人の間で愛のようなものが育まれているのだとしても、今ならまだ、強固な絆にまではなっていないだろう。咲く前の花のつぼみのようなやわらかなものならば、それならば、摘んでしまうことだってできるかもしれない。今ならば――あるいは手遅れだとしても、それがなんだ。諦める理由などどこにもない。
永遠になどしない。
ジプソは向かいに座るハルジオに視線を戻した。
ハルジオはきっとまだ気づいていない。なぜ自分があの扉の向こうに心を砕いているのか、その理由を知らないまま焦がれている。
この女は使えるはずだ。
ユカリのこともハルジオのことも等しく、ジプソはサビ組が収集できる情報以上のことは知らない。しかしそれでもユカリが時折ハルジオに対して執着めいたものを見せることは知っていた。何によるものなのかは検討もつかない。支配欲なのかそれ以外のものか――なんであっても構わない。カラスバとユカリが互いにばかり目を向けている今は、ささいなそよ風でさえ火種を燃え上がらせる危険性を孕んでいる。しかし時間ならばきっと、絶えず流れる河のように、この火を冷ましてくれるだろう。今はカラスバとユカリを引き離すことができればいい。
カラスバがサビ組のボスとなる前、ジプソがごろつきどもをまとめていた時分は、目的のために手段を選ばなかった。多くの場合、それは武力という形を取った。それがジプソの一番の武器だったからだ。しかしカラスバはジプソが得意としてきた力でねじ伏せるやり方を好まなかった。ジプソは新たに、言葉という武器の使い方を学んだ。例えば相手を言いくるめながら目的の方へと導いていくやり方――これをジプソに教えたのは、ほかでもない、カラスバだった。
「ハルジオさまは――」ジプソは感情を滲ませない、平坦な声音で言った。それは『エアームドははがねタイプである』というような、単純な真実を告げるための響きだった。「ユカリさまを、愛していらっしゃるのですね」
「え?」
ハルジオはここにきてようやく、ジプソを見た。意思の強そうな目が、ぱちりと無防備に瞬く。
「うちが? ――ユカリを?」
「違いますか?」ジプソはわずかに首を傾げる。「わたくしには、そう見えました」
「そ……」
ハルジオの目が動揺するように揺れた。わずかに震える唇が、「そんなこと……」と弱々しい声を漏らす。
「そうですか」と頷いて、ジプソは軽く頭を下げた。
「思い違いだったようです。申し訳ございません」
「え、あ……いや……」
こういうときには引き下がったほうがいい――とカラスバならば言うだろう。押せば相手を意固地にさせる可能性がある。ジプソにとって、ハルジオが実際にユカリをどう思っているかは問題ではない。ジプソの目的はユカリをカラスバから引き離すことだ。それならば、ここはまず引いてみせ、疑惑をじんわりと相手に染み込ませるべきだろう。
ジプソは全神経の半分を扉の向こうのカラスバに向けながら、もう半分でじっと冷静にハルジオを観察していた。ハルジオはきょろきょろとせわしなく視線をさまよわせている。それはハルジオの中に眠る、ユカリとの記憶を巡る旅のようにも見えた。じわじわと、耳に開いたピアスホールから熱が這い出てくるように、ハルジオの耳が赤く染まっていく。ジプソはわずかに目を細めた。疑惑の芽が、ハルジオの中で芽吹こうとしている。
「そ、そう見えるのか?」とハルジオが言った。声が震えている。「う、うちが、ユカリのこと、……」
ハルジオはその続きを言葉にはせず黙り込んだ。耳の赤さは今や頬に及んでいる。ジプソは堂々とした、確信に満ちた声音で「ええ」と告げた。
「ずっと扉のほうを気にかけておられますよね」
ジプソの言葉に、ハルジオははっとしたようにジプソを見た。自分があれほど熱心にあの扉を見ていたことに、たった今、ジプソの言葉でようやく気づいたかのようだった。
ジプソは最初の一口を飲んで以降、ずっとソーサーの上で鏡としての役割しか果たすことのできなかったティーカップを持ち、すっかり冷めきった紅茶を飲んだ。ふくよかな香りはすでに失われていたが、喉を通り過ぎていく冷たい感覚は、静かに燃えるジプソの胸の中を落ち着かせる効果があった。
「カラスバさまは――」とジプソは言った。「カラスバさまは、わたくしにユカリさまのことを何もお話されません。ですからわたくしはカラスバさまとユカリさまがどういったご関係なのかを知らないのです」
ジプソは口を閉ざし、一拍の空白が生まれる。
ハルジオの戸惑いをふんだんに含んだ目が、そろりとジプソを見上げる。ジプソはまるで指揮者のように、声でこの空間を支配していた。
「ハルジオさまも同じではないですか?」
重々しく 。
ハルジオの迷える視線が、ふらりと扉のほうへ向かう。寄せた眉の下で、焦がれるようなまなざしが扉を撫でる。ハルジオは小さく息を吐いて、目を伏せた。視線をジプソに戻し、頷く。
「不安に思われますか?」はっきりと 。
「不安……」
「もやもやする?」
「ああ、うん」
力強く 。
「二人がまだ恋人関係ではなかったら、安心しませんか?」
「それは……」
「恋人関係だと思うと胸が痛みませんか?」
「……」
静かに 。「それは、あなたがユカリさまを愛しているからでは?」
ハルジオは深く俯いた。
長い沈黙が流れた。
ジプソはいまだ閉ざされたままの扉を見つめた。
カラスバは今何をしているのだろう。
「ゆ……」ハルジオの震える声が、ジプソの視線を遮った。「ユカリが……」
ジプソは俯いているハルジオを見下ろす。波打つような肩のフリルが、かすかに揺れていた。
「ユカリが……もし……もし、本当に付き合ってるなら――」
ハルジオをじっと見下ろすジプソの中には、同情も共感も沸き起こることはなかった。ただハルジオの胸をかき乱しているその葛藤が、ユカリとの間に波紋を起こすことだけを望んでいる。
ユカリとハルジオの関係がこじれて、カラスバにかまけている余裕がなくなれば、その隙にカラスバに思い出させることができる。ジプソやカラスバのようなこちら側の人間と、ユカリは違うということを。あのきらびやかな、汚れることを知らない人間に、カラスバを理解することはできないことを。
それができるのは、オレだけだということを。
「お、応援するべき……なんだよな?」とハルジオが言った。
――応援?
「……、」
ジプソの唇が震えた。それをごまかすように、ジプソは手で口元を覆い、その下で唇を噛む。
応援する? あの二人を?
肩が震えそうになるのを、ぐっと力を込めてこらえる。ジプソは腹の底から込み上げてくる笑いをなんとか飲み下し、言った。「……、さあ……わたくしからはなんとも……」
「でも……つ、付き合ってる相手がいるのに、好きって……」
ああ、なるほど、とジプソは思った。
好きな相手の幸せを願うべきだ、とハルジオは考えているらしい――すばらしいことだ。清らかなる善性の魂。晴れやかな美しい心。
オレはそんなものはいらない。
欲しいのはカラスバだけだ。
「愛するひとのために自分は身を引くべきだとお考えですか」
「わ……わからない」
「自分のためか、人のためかなんて」ジプソはふっと笑った。「正解があるとは思えませんがね」
「……」
ハルジオの表情は、迷いに支配された弱々しさを消し去り、険しさだけを残していた。眉間に深く刻まれたしわが苦悩を示している。それを見ても、ジプソの中にはやはり同情も共感も沸き起こることはなかった。ジプソの中の感情は常にカラスバに紐づけられていて、他の何かが動かせるものではなかった。
「一度、ユカリさまとお話をされてはいかがでしょう」とジプソは言った。表面的に、穏やかに見えるはずの薄笑いを浮かべ、なるべく優しげに響く声音を努めて作った。「まだ付き合っていると決まったわけではありませんし」
ハルジオはわずかな間を空けて、頷いた。
「そうしてみる……」
ジプソはそのつもりがないカラスバに何度も懇願し、サビ組という組織のボスの座に就かせた。それまでずっとグレーゾーンからこちら側へはみ出ることなく歩いていたカラスバを、こっちへ引っ張り込んだのはジプソだ。もしもジプソに出会わなければ、カラスバはこちら側へ来ることはなかっただろう。
今度はそれを理由に、カラスバからやわらかな恋も奪おうとしている。
吐き気がするほど傲慢で、自分勝手なことくらい、嫌というほどわかっている。
カラスバというあの温かな、まばゆい光を持つ男に、自分はふさわしくないことも。
でも、それがなんだ。
オレは善良になりたいんじゃない。良い人間になりたいなどと思ったことはない。望むものはひとつだけだ。カラスバに出会ってから、己のすべてを賭けて、ただそれだけを求めている。
カラスバだけを。
他のものなどどうでもいい。
ジプソは再び、神経を扉の方へ向けた。向こう側の音は何ひとつ聞こえてこない。テーブルの上に漫然と落とした視線が、底の近くなったティーカップの中の紅茶に映る、横暴な男を見つける。ジプソは途端に、こんな男に目をつけられたカラスバがあわれに思えた。せめて今日だけは、急かすことなく待っていてやろう。そう心に決めて、ジプソは紅茶の水面をじっと睨んだ。
シャンデリアからヤミラミの目のようなきらきらが無数に降り注いでいる。
その真ん中に、ユカリがいる。つやつやの髪も、チョコレートのような甘い肌も、大きな瞳も、光をたっぷり浴びてまぶしいくらいに輝いている。
不思議だ、とハルジオは思った。
ホテルシュールリッシュの中にある広々としたダンスフロアは天井から複数のシャンデリアが垂れ下がり、そのどれもが均等な輝きを放ってフロアのすみずみまで明るく照らしている。それなのに、どうしてユカリばかりがあんなにまぶしいのだろう。どこにいたってすぐに見つけられるくらい、ユカリだけが、いつもきらきら輝いている。まるでスポットライトを浴びているみたいに。
まばゆいきらめきの中にあった視界を黒い影のようなものが遮り、ハルジオははっと我に返った。
ユカリの手を取り、その背中を抱いている、黒っぽいスーツの男――カラスバだ。
音楽に合わせて、二人がターンする。ハルジオの視界は再び、ユカリに注がれるきらきらとした光で満ちる。ハルジオはユカリに嫌というほどさんざん教え込まれた、背中をまっすぐ伸ばしておなかの前で軽く手を組む〝正しい姿勢〟を保ちながら、目だけでひたすらユカリを追いかけている自分に気づいた。ユカリにあとで指摘を受けることがないよう、極限まで小さくしたため息をそっと唇の間からこぼす。
ユカリとカラスバのダンスは、この上なく絵になった。
ただそれは、絵として見るならばの話だ。ダンスとしては壊滅的だった。ちぐはぐなステップのせいで、幾度となく互いの足を踏み合っている――今もそうだ。
「きゃあ! ちょっと、カラスバさま! 足踏みましたわね!」
「オマエ足が逆やねん! こっちやこっち! おい! ちゃうて! 右下げんねん!」
「こっち? あら? こう?」
「わざとやろオマエ!」
黙って微笑んでさえいれば美しい絵だが、二人は額縁におさまるつもりはなさそうだった。
絵のほうがましだ、とハルジオは思った。
騒がしく言い合いをしている二人は、誰がどう見たって気安い仲だとわかるだろう。ハルジオはユカリから厳しく〝軽く組む〟と言い聞かされてきた手を、ぎゅっと握った。ユカリに見つかったらお仕置きをされるに違いない――別に構わないと、ハルジオはユカリに出会ってから初めてそう思った。
ハルジオはちらっと少し離れたところに立っている、サビ組の大男――たしかジプソといった――に視線をやった。
ジプソは体の後ろで手を組んで、まるで睥睨するようにじっとカラスバを見つめている。一心不乱といってもいいような、奇妙な熱心さだった。
『ハルジオさまは、ユカリさまを愛していらっしゃるのですね』
あのときのジプソの声が、またハルジオの頭の中でリフレインした。
初めてユカリを見たとき、ハルジオはユカリのことを、ケーキの上にのっかっている砂糖菓子みたいだと思った。
当時のハルジオは己の強さを磨くため、さまざまなトレーナーと戦うことを目的に各地を放浪していた。たいてい、行き先は決めなかった。野生ポケモンと戦い、ときどきはごろつきどもとポケモン抜きで直接戦って、足の向くまま街から街へと旅していた。ハルジオはただ強さだけを追求していて、常に自由だった。
そんな旅路でも例外的に目的地を定めることがある。バトルトーナメントの開催地へ赴くときだ。
ハルジオはスマホロトムにバトルトーナメントの開催情報があれば知らせるよう設定しておき、色んなバトルトーナメントに参加した。たいていの場合、トーナメントの優勝者には賞金が出る。お金も稼げて、バトルもできる。ハルジオにとっては一匹のイシツブテを投げて二匹のポッポを得るような、おいしい話だったのだ。
ミアレに立ち寄ったのは、その例外があったからだ。
MSBC主催のバトルトーナメント。開催地はホテルシュールリッシュ内のバトルコート。誰でも参加可能、参加費無料。優勝者には賞金、および副賞あり。
そのときのハルジオはMSBCという団体のことなど何も知らなかったが、迷うことなくエントリーしてミアレシティへ向かった。カロスで一番栄えているミアレシティの街並みにも、ホテルシュールリッシュの荘厳な佇まいにも、デカいなという感想しか抱かなかった。当時のハルジオにとってそれらはすべて、単なる通過点だった。
トーナメントを主催するMSBCはお上品なお金持ちたちの集団で、参加者もMSBCのメンバーが大半を占めていた。ハルジオはあからさまに浮いていた。彼ら彼女らは戦い方もお上品だった。スマートで、声を荒げず、服に埃ひとつつけないような落ち着いたバトル。野生のサザンドラのように獰猛なハルジオは、この場において完全な異物だった。
それでも、強いのはハルジオだ。
ハルジオはトーナメントを勝ち抜き、決勝まで駒を進めた。
そこでユカリと出会った。
ユカリはまだ少女といっていいような年齢だった。フリルがたっぷりついたスカートをはいて、つやつやの長い髪にリボンをつけていた。大きな目をきらきら光らせて、やわらかく微笑むユカリはどこをとっても完璧な〝かわいい女の子〟だった。
ハルジオは鼻白んでいた。というのも、このかわいい、繊細そうなお嬢様が、MSBCの代表だとトーナメント開始前の挨拶で言っていたからだ。このお金持ち集団の中でもっとも権力を持つ代表のお嬢様が、シード権を行使して決勝にご登場する――つまり、これはそういう接待なのだ、とハルジオは考えた。MSBCのメンバーがうまい具合に調整してお嬢様に勝っていただき、お嬢様の機嫌を取る、そういう催しなのだと。
でも、ハルジオにはそんなこと関係ない。
ハルジオは相手が誰であっても手加減したりしない。昨日パートナーをゲットしたばかりの駆け出しトレーナーだろうと、引退することを決めたトレーナーの最後のバトルだろうと、この砂糖菓子のようなかわいらしいお嬢様だろうと、ハルジオは決して手を抜かない。たとえハルジオに怯え、泣いたとしても、ハルジオは容赦するつもりはなかった。
ハルジオは吠えて、全力で挑んだ。
そして負けた。
ハルジオは呆然として、ユカリを見つめた。怯えて泣くどころか終始楽しそうにしていたユカリは、そのきらきら輝く大きな目を笑った形に細めて、ハルジオに言った。
「あなた、名前は?」
背中がぞわっとした。初めての感覚だった。
「は……ハルジオ」
「そう。ハルジオ。わたくしはユカリです」
ユカリは見た目こそ少女そのものだったが、その振る舞いは不相応なくらいに優雅で、堂々としていた。作り物のような華奢な手をぱんとひとつ鳴らすと、クラシカルな燕尾服の男がしずしずと何かを持ってきた。ハルジオは首を傾げる。
それは筆記台に載せられた紙とペンだった。
「ハルジオ、あなた、副賞についての説明は読んでいるわね」とユカリが言った。
「副賞?」とハルジオ。
「エントリーするときに説明があったはずよ」
「えっと……なんだっけ」
優勝者には賞金と副賞がある、という記載は確かに見た。しかし副賞が何かということは記憶していない。たぶん読み飛ばしたと思う。たいていの場合、副賞はボールだ。ハイパーボールよりも高めのクイックボールやタイマーボールなどが選ばれることが多い。今回もそんなものだろうと思っていたが――
「優勝者は敗者を一人指名して、なんでも言うことを聞かせられるのよ」
「はあ!?」
ハルジオはびっくり仰天して、口をぱくぱくさせた。なんでも言うことを聞かせられる? どんな副賞だよ!
「つまり、負けたら何か命令を受ける可能性がある。これに同意しなければエントリーはできないわ」ユカリはにっこりと微笑んで言った。見た目だけなら可憐な少女のあどけないほほえみのように見える。でも、ハルジオの背中には冷や汗がにじんでいた。「つまり――わかりますね」
同意しなければエントリーできない。つまり、エントリーしたからには、この条件に同意している――
「ハルジオ。あなたはこれから、わたくしのメイドです」
「はああ!?」
にっこりと微笑むユカリに〝ユカリのメイドとして働きます〟という旨の契約書にサインさせられ、ハルジオはその日、自由気ままな旅を終えた。通過点だと思っていたミアレシティは結局、ハルジオの最終到着地になった。
あの日から今にいたるまで、ハルジオはユカリに仕えている。
ハルジオは採寸され、サイズがぴったりのメイド服を与えられた。ハルジオはこういうかわいいデザインは趣味ではなかったし、ものすごく強い抵抗を覚えた。スカートでないのが唯一の救いだった。メイド服を着たハルジオを見て、ユカリはにっこり微笑んで「かわいいわね」と言った。
じわ、と耳にあいたピアスホールから熱が染み出してくるような、妙な感覚を覚えた。
「へんなこと言うな」とハルジオは言った。「似合わない、こんなの」
「あら」ユカリの花の茎のような細い指が、ハルジオの熱っぽい頬を撫でた。びく、とハルジオの肩が跳ねる。
「とても似合ってるわ」きらきらとスパンコールのように光る大きな目が、じっとハルジオを見つめている。「かわいい、わたくしのハルジオ」
ハルジオは口をぱくぱくさせた。やけどしたみたいに顔が熱かった。
ユカリといると本当に調子が狂う。
口調や姿勢を矯正され、上流階級の社交の場というまったく馴染みのなかったものにも馴染み、メイドらしく振る舞うことに慣れても、ユカリにだけはまったく慣れることがなかった。ユカリに名前を呼ばれるだけで、ハルジオは自分というものを簡単に見失った。すぐにうろたえるし、怖いと思う。ユカリは底しれない。何を考えているのかよくわからない。ハルジオは振り回されっぱなしだ。
ハルジオはユカリの元を離れることを望んでいた。ユカリに振り回されることにうんざりしているからだ――そう思っていた。
ハルジオは何度もユカリに挑んだ。ユカリに勝てば堂々とここを出ていける。いまだにそれは叶っていないけれど、正直に言えば、ユカリと戦うのは楽しかった。ユカリがハルジオをはるかに上回るバトルジャンキーで、一度バトルを始めたが最後しつこく何度も何度も何度も付き合わされたりしなければもっと積極的に勝負を挑んだだろう。
事情が変わったのはプリズムタワーの事件やアンシャのボディガードという一連のイレギュラーを経て、なぜかカラスバが頻繁にユカリに会いに来るようになってからだ。
ユカリに対する評価は二極化している。MSBCのメンバーのような裕福な家庭で育った人間の場合、多くはユカリを崇拝する。対してセレブではない、多少なりとも常識を持ち合わせている人間は、ユカリに対して尻込みする。カラスバは明らかに後者で、ユカリを面倒くさがって嫌っているそぶりさえ見せた。それなのにある時期から突然、二人は妙に親密な関係に変わっていた。
ユカリはハルジオに対してはわりとあけすけに、今日はこんなことがあったという話をする。それなのに、カラスバについてユカリはハルジオに一言も話さなかった。だからハルジオは二人がどういう関係なのかわからない。ユカリとあんなふうに、対等に見える関係性を築いたやつははじめて見る。
ハルジオは気分が悪くなるほどもやもやした。
――付き合ってるのかな。
ハルジオの胸の中に、そんな疑問が浮かび上がった。もしユカリがカラスバと付き合っているとして、だからなんだろう? ハルジオにはなんの関係もない。そのはずなのに、そう考えるとハルジオは居ても立ってもいられないほどもやもやした。このもやもやは〝くろいきり〟みたいに真っ黒だったから、中にどんな感情が潜んでいるのか自分でもよくわからなかった。
ハルジオがジプソにカラスバについて尋ねたのも、このもやもやのせいだった。
ユカリとカラスバが本当はどんな関係なのか知りたくて尋ねたのに、答えがわからなかったことに対してなぜかものすごくほっとした。自分でも意味がわからない。ラウンジの奥はたいてい商談に使っているけれど、そういうときユカリは必ずハルジオを伴った。カラスバがきたときだけだ、ハルジオを連れて行ってくれないのは。
今、ユカリは何をしているんだろう。
そうしてハルジオが胸をもやもやさせているときに、ジプソがあのセリフを口にした。
『ハルジオさまは、ユカリさまを愛していらっしゃるのですね』
意味がわからなかった。
愛してるなんてきれいで高級な言葉、ハルジオにはよくわからない。ハルジオは自分の心できちんと感じることができる言葉を信じている。その感覚でいうと、〝愛してる〟はハルジオの心の範疇にはなかった。どうにも実感が湧かないのだ。
でも、〝好き〟なら?
〝愛してる〟のきれいで高級な響きはハルジオにとっては映画の中の言葉のように思えるけれど、〝好き〟ならちゃんとわかる。ハルジオの心には〝好き〟という気持ちを感じる場所がちゃんとある。ハルジオはバトルが好きだ。相棒のドラミドロも好きだ。ドラゴンタイプをじっくり時間をかけて強く育てることも好きだし、肉を食べるのも好きだし、体を動かすことも好きだ。それに、かっこいいものも。いつも自分がかっこいいと思うものを選んできた。
それなのに、ユカリはハルジオのことをかわいいと言う。
あのいつもスポットライトを浴びているみたいにきらきら光っているユカリが、ぬいぐるみのような誰が見たって本当にかわいいピクシーをこよなく愛するユカリが、よりによってハルジオをかわいいと褒めそやす。ハルジオがほんとうに困っているのは、自分がそれを嫌だと思っていないことだった。
ハルジオはようやく理解した。ユカリから離れたいと願っていたのは、ユカリにかき乱されて自分らしくいられないからだ。どうしてユカリの言葉ひとつ、視線ひとつ、指先ひとつでこんなにも動揺するのか――それは、ハルジオがユカリのことを好きだからだ。だからかわいいと言われても、嫌だと思えない。ユカリの言葉だから、たまらなく恥ずかしいが、それを嬉しいと思う。
カラスバに、取られたくないと思う。
こんなことになってようやく自覚するなんて我ながらばかばかしい。ユカリはもう、愛するひとを見つけてしまったかもしれないのに。恋というものとはまったく無縁でやってきたハルジオにとっては初恋と失恋が同時にやってきたようなもので、すっかりこんらんしてしまった。
本当にユカリのことが好きならば、ユカリの幸せのために身を引くべきじゃないのか?
ハルジオは、ユカリとカラスバのことを応援するべきか、という疑問を口にしながら、自分でも白々しいと思った。それが正しいと自分で思っているんだろうか? 本当に?
「自分のためか人のためかなんて、正解があるとは思えませんがね」とジプソは答えた。
ハルジオははっとした――そうだ。ハルジオは自分のために強さを追い求めていたけれど、誰かのために強くなりたいと思う気持ちを間違っているとは思わない。これだって同じことだ。自分のために気持ちを打ち明けたって、ユカリのために胸に秘めていたって、どっちを選んだって間違っているわけじゃない。間違いも正解もない。自分がどうしたいかだ。
ハルジオはジプソにすすめられた通り、ユカリと話し合いをしようと思っていた。
そんな折、クエーサー社からパーティの招待状が届いた。
招待状はユカリとハルジオそれぞれのもとに届けられた。慰労会という名目で、異次元ミアレの問題に多少なりとも関わった上位ランカー陣を中心にミアレの名士たちが招待されているパーティだという。パーティと名のつくものにはたいてい招待されるユカリは「行きます。返事をしておいて」と言っただけで、特別興味があるわけではなさそうだった。ハルジオは少しほっとした。おそらく招待されているだろうカラスバを理由に、はりきって準備をするユカリは見たくなかった。
クエーサーに返事を出した翌日のことだ。お茶の時間(だいたい午前十時頃と、午後の二時から三時頃の一日二回そういう時間がある)にユカリのスマホロトムに電話がかかってきた。多忙なユカリにはよくあることでハルジオは気にせず二杯目の紅茶を用意していた。それをユカリにサーブする頃には、ユカリは通話相手と言い合いをしていて、ハルジオはぎょっとした。
「いやですわ」とユカリがつっけんどんに言う。ユカリは基本的ににこやかだが飄々としていて、表に出す部分は喜怒哀楽でいえば〝喜〟か〝楽〟であることが多い。こんなふうに〝怒〟を含む部分を、ユカリはあまりに人に見せなかった――ハルジオ以外には。
「そんなこと言わんで、頼むわ、ユカリ」と通話相手が言った。それは聞いたことがないくらい困り果てたようすだったが、確かに、あの男の声だった。
カラスバだ。
「いやったらいやですわ」
「ユカリ~」
ハルジオは平静を装って、二杯目の紅茶をカップに注いだ。花のような丸い香りがふんわりと立ちのぼる。紅茶なんて淹れたこともなくて、最初の頃はユカリにさんざん文句を言われた。やれ蒸らす時間が足りないだの温度がぬるいだの熱すぎるだのなんだの。今はもうすっかり慣れて、完璧にユカリ好みの紅茶を淹れられる。
カラスバにはできないだろう。
なぜだか指が震えて、かちゃ、とティーポットの蓋が音を立てた。ユカリがハルジオを見た。ようやくうちを見た、とハルジオは思った。胸の中が熱いような苦しいような変な感じがした。
「なあ、ユカリ、頼むわ、オマエしかおらんねん」と、スマホロトムの向こう側でカラスバが言った。
――オマエしかいない。
かっと頭の中が熱くなった。心臓が大きくなったみたいに、体いっぱいに鳴り響いていた。
そんな言葉をこんな簡単に言ってしまうなんて、ハルジオには信じられなかった。なんだかユカリが軽んじられた気がして、ハルジオは心の中で、断っちまえ、と念じていた。何の話か知らないけど、断っちまえ、そんなやつ困らせとけよ。
ユカリは少しの間、迷ったみたいに沈黙した。もうその目はもうハルジオを見ていなかった。スマホロトムをじっと見つめて、ユカリは答えた。
「……もう、仕方ないですわね。わかりましたわ」
あのユカリが、折れてやっていた。
ユカリは自分のしたいことしかしない。それが正しいからだ――少なくともユカリの中では。セレブとしての役目も、ユカリがそうしたいと思っているから果たされている。
だからユカリが今カラスバの頼みを聞くという答えを出したのは、ユカリがそうしたいと思っているからだ。
ハルジオは胸が苦しくてうつむいた。怒りのような、悔しさのような、悲しみのような、正体不明のなにかがハルジオをいっぱい満たしていた。
うちのほうが、とハルジオは思った。
うちのほうが、絶対、ユカリのことを――
「ハルジオ」
「――はい」
「五日後、カラスバさまがいらっしゃるわ。準備しておいて」
「……」ハルジオはユカリを見ることができなかった。うつむいたまま、小さくうなずく。「はい、ユカリさま」
――そうして今、ハルジオはシャンデリアの光をいっぱいに浴びながらダンスしている二人を眺めている。
カラスバがユカリに頼み込んでいたのは、こういう社交の場でのダンスを教えてほしいという内容だったらしい。それならユカリが突っぱねていた理由もわかる。ユカリはありとあらゆるパーティに招待されるが、ダンスは一切しない。
ユカリはダンスが苦手なのだ。
ハルジオはユカリのその唯一と言える弱みを知ってから、ユカリに何度かダンスを教えた。
ユカリとダンスすることはもちろん、ユカリに何かを教えることもこれがはじめてだった。ダンスする間、ユカリは終始不服そうな顔をしていた。ユカリは無表情にしていてもきらきらと輝いていて、表情が削げ落ちたその顔のつくりの美しさが際立っていた。
ユカリは音楽に合わせてステップを踏むのが苦手で、遅すぎるか速すぎるかした。ハルジオはユカリのそのへんなリズムに合わせてステップを踏んだ。パーティダンスなんてただできるというだけで楽しいと思ったことはなかったけれど、このとき、ハルジオはダンスを楽しんでいた。ユカリのほっそりとした手も、やわらかな曲線を描く背中も、ハルジオの手には他の誰よりもしっくりと馴染んだ。ユカリの甘くやわらかい匂いがすぐそばにあって、ユカリがくるりと回るたびにふわっとやさしく香った。
まだユカリのことが好きだと気づく前の、心を甘くする記憶だ。
――今、ハルジオの目の前で別の男と踊るユカリはあのときよりもずっと表情豊かだ。
お互いに文句を言い合っていて、とてもじゃないがいい雰囲気なんて言えないけれど、それだけ気を許している証だ。飾ることも繕うこともなく、素のままでお互いに受け入れ、受け入れられている――まるで、そんな関係のように。
「やだ! 引っ張らないでくださる!?」
「ちゃうねん! オレが引っ張ってるんやなくて、オマエが逆いってんねん!」
カラスバが出した右足を、ユカリのヒールがぎゅむっと踏んだ。うわ、とハルジオは思った。靴の先ならまだしも、あのヒールで踏まれると本当に痛い。ユカリとダンスしたとき、ハルジオも何度かやられたことがある。
「痛ぁ!」と叫ぶカラスバに、ユカリは特に悪びれるでもなく「あら、まあ。ごめんあそばせ」といつもの調子だ。これではどちらが練習相手なのかわからない。いつものハルジオならユカリの相手に同情していたところだが、今回ばかりはそんな気にならなかった。
「あー、もう!」
「きゃあ!?」
カラスバはさっきまでのユカリに合わせたステップをやめて、ずんずんと無遠慮にユカリの方へ向かってステップを踏んだ。ステップというか、ユカリを押しやるように歩いていると言ったほうが正しいかもしれない。ユカリは後ろに下がるしかなく、カラスバにしがみつくようにぎゅっとスーツを握りながら「ちょっと、なんですの!?」と文句を言った。
「もう知らん! オレがやりたいようにやったる!」
「まあ!」
カラスバは曲をすっかり無視して、自分勝手なステップやターンにユカリを無理やり付き合わせている。さっきまではかろうじてフラフラダンスと言えなくはなかったが、今はもうとっしんとかぶんまわすといった調子だ。ユカリはしばらくの間、一方的にカラスバに振り回されていたが、ターンを中途半端なところで強引に止めてカラスバの方へとステップを踏んだり、カラスバが向かってこれば半回転して方向を変えたりとだんだん反撃に出始めた。
「くっ……この……やるやないか」
「うふふ、わたくし負けませんわよ」
もはや自分の行きたい方向へ相手を引っ張っているだけの、文字通りの足の引っ張り合いである。まるで兄妹喧嘩のようで、ハルジオの中にあったもやもやは呆れを含んだ安心へと変わりつつあった。ハルジオはふっと息を吐いてから、自分が張り詰めていたことを知った。
ぴりっとした、辛いようなわずかな刺激が肌を走り、ハルジオは思わずボールホルダーの相棒へ手を伸ばした。ハルジオの視線の先には、無表情のジプソがいる。ほんの一瞬だけ放たれたあれは、怒りでかたどられた殺気のようだった。ジプソはじっと、カラスバを見つめている。ハルジオもつられてカラスバの方へ視線を移した。
そして、ぎくりとした。
カラスバは笑っていた。
「オマエ……ふふ……なんやねんな……」
目を細めて、ユカリを真正面から見つめ、やわらかに笑っている。まるでこごえるかぜが体の中に吹いたみたいに、心臓がひやっとした。今、ハルジオからはカラスバが正面で、ユカリは背中しか見えない。
どく、どく、と心臓が鳴っている。
ユカリが左足を引いた。ボリュームのある髪がふんわりとなびいて、きらきらした軌跡を描いた。
「ふふ、もう、こんなのダンスじゃありませんわ」
――ユカリが笑っている。
ポケモンバトルでもないのに、ダンスは苦手だと言っていたのに、うちと踊ったときはずっと無表情だったのに――ユカリが笑っている。
ハルジオはおなかの前でぎゅっと握りしめていた手をだらりと下げた。指先がわずかに震えていた。何も見たくなくて、ハルジオは顔をそむけた。視界のはしっこで、スポットライトを浴びたようなきらめきの欠片がちらちらと瞬いてる。
うちのほうが好きなのに、とハルジオは思った。
ユカリが好きだ。
ユカリにそう言おう。ユカリがなんと答えるのか、ハルジオにはわからない。ユカリのことなんてわかったためしがない。だから、怖くないと言えば、それは嘘だ。
だけど、ユカリに知ってほしかった。
自分のためだ。ハルジオがそうしたい。ユカリのことを想っていると、ユカリに知ってほしい。ユカリがハルジオを拒んだとしても。
ハルジオはぐっと唇を噛んだ。
ユカリの笑い声が聞こえる。ハルジオは目を閉じて、早くこの時間が終わることを願った。