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冬が過ぎたら、夜が明けて(レトクロ)※おまけ&ボツ話

全体公開 レトクロ 10972文字
2026-03-13 21:46:33

『冬が過ぎたら、夜が明けて』で削ったシーンや入れたかった話をちょっと整えたものたち。
現パロで、短い話が7篇。最後だけ一線を越えたあとの時間軸になります。

Posted by @Bombwooo

1.

 重要なプレゼンを控えた朝。洗面所の鏡の前で、俺は苛立っていた。
 どういうわけか、今日に限ってネクタイの結び目がまったく決まらない。ディンプルが綺麗に作れず、何度目かのやり直しのために布地を荒く引き抜こうとした、その時だった。
 背後から白い腕が、俺の首元に巻き付くようにして伸びてきた。
「うおっ、」
 頸動脈のすぐそばを冷たい指先が掠め、俺は咄嗟に肩を跳ねさせて身構えた。首を絞められる――命の危機を察し、鏡越しの自分の顔が微かにこわばっているのがわかる。
 だが、背後に立つ同居人は俺の首を絞め上げるどころか、胸元で交差したネクタイの端を的確に掴み、流れるような指の動きで完璧な結び目を作り上げてみせた。
……なんだ。ただ結んでくれただけか」
 安堵とともに息を吐き出すと、鏡の中の男はかすかに眉根を寄せ、不満げに口角を下げた。
……君の首を絞めたりはしない」
「いや、背後から音もなく近付かれたら、そりゃあ誰だって驚くだろ」
 不服そうにしていたベレトも、この言い分には一理あると理解したらしい。眉間の皺をほどくと、鏡越しの俺をまじまじと見つめた。
「君は何でも完璧にこなすと思っていたが、意外と苦手なこともあるんだな」
「はっ。あるに決まってんだろ。俺だってただの人間なんだぞ」
 綺麗に整えられた結び目を指で弾き、背後の男を振り返った。ゆったりとした部屋着の首元から、男にしては線の細い無防備な鎖骨が晒されている。かつては彼自身も、護衛などの任務で息苦しいスーツに身を包み、この完璧な結び目を自分の首に作っていたのだろう。
……あんたが、自分の首にネクタイを締めずに過ごせる日が続くといいな」
 ふと口を突いて出た言葉に、ベレトは少しだけ目を丸くした。
「まあ、裏のヤバい仕事絡みじゃないなら、あんたがスーツを着てるところも見てみたい気はするが」
 俺がわざとらしく肩をすくめてみせると、彼はしばらく俺の胸元の結び目を見つめたあと、ひどく真面目な声で口を開いた。
……君が望むなら、いつでも着るが」
「だから、そういう意味じゃないんだよ」
 こうやって、あんたに俺の気持ちを伝えるのも苦手かもしれない。俺は苦笑しながら、洗面所を後にする。



2.

 今日に限って傘を持たずに出てきた俺は、最寄り駅のコンコースで朝ののんきな自分を殴ってやりたい衝動に駆られる。大きな柱の向こうでは雨粒が激しくコンクリートを打ちつけ、駅のそばを行き交う車たちは白く濁っている。
 タクシー乗り場には絶望的な長蛇の列ができている。皆考えることは同じか。そうなると、そこらのカフェで適当に時間を潰すか、いっそ腹を括って走って帰るか――しかめっ面で雨脚を眺めていると、不意にポケットの中で社用端末が震えた。画面には見知らぬ番号が表示されている。
「はい、」
 仕事の電話かと思い、よそ行きの声を作って応答した瞬間。
――クロード。今、駅にいるのか』
 耳に飛び込んできたのは、よく聞き慣れた声だった。
「は? その声、ベレトか? ……なんで俺の社用携帯の番号なんて知ってるんだよ。つーか、それの使い方知ってたんだな」
『自分の端末を自分で使えなくてどうする。番号に関してはリビングのテーブルに置いてあった、君の名刺を見た』
「うは、怖い怖い。こういうところから個人情報って漏れるんだな」
 俺がわざとらしい声で茶化すと、電話の向こうの男は相変わらずぶっきらぼうに答えた。
『君と一緒に住んでいるのに、今さら個人情報も何もないだろう』
……それはそれ、これはこれなんだよ。領域ってもんが違うの」
 ぐうの音も出ない正論を叩きつけられ、俺は苦し紛れの屁理屈で返すしかない。
「で、なんの用だ。俺は今、雨宿りするか走って帰るかという究極の二択を迫られてて忙しいんだが」
『走らなくていい。今から自分が傘を持って迎えに行くから、そこで待っていてくれ』
「い、いや、別にいいって。こんな雨の中、わざわざ来させるのも悪いし」
『自分が行きたいんだ。待っていてほしい』
 ベレトは言いたいことだけ言うと、勝手に通話を切りやがった。俺が駅のどこにいるかも分からないのに、いったいどうやって傘を届ける気なんだ。まさかこの広い駅の中をしらみつぶしに探すつもりだろうか。俺たちが感動の再会を果たすころには、雨が上がっているどころか日付が変わっているに違いない。
 それでもあいつならやりかねないと、俺はさっきかかってきたばかりの見知らぬ番号宛てに『改札前のコンビニの横にいる』と短いメッセージを打ち込んでいる。メッセージの読み方ぐらいは分かるだろう――と信じたい。
 ああ、あと傘は二本持って来るように言わないと。男ふたりで相合傘なんてまっぴらごめんだ。
 それからついでに私用のスマートフォンを取り出して、彼の電話番号を登録しておいた。あとでこっちを登録するよう、言ってやらないと。
 雨宿りの気怠さはどこへやら。雨の匂いが立ち込める駅のそばで、俺は傘を持って走ってくるはずの男の姿を、どこか浮ついた気持ちで待ちわびている。



3.

 休日の夕暮れ時。俺は台所に立ち、特売で買い込んだ肉と根菜を大きな鍋で煮込んでいた。
 日々の生活も効率が命だ。これで向こう数日の夕食と、ついでに昼のおかずも確保できる。完璧な費用対効果の計算に満足しつつ、俺は完成した煮込み料理を大皿にたっぷりと盛りつけ、ふたりで取り分けるようにダイニングテーブルの中央へと運んだ。
 向かいの席に腰を下ろしたベレトは、静かにスプーンを手に取る。彼の食事の仕方は、少し独特だ。ひと口に含む量は決して多くないのだが、咀嚼と飲み込みのペースが恐ろしいほど一定で、まったく途切れることがない。機械的にも見えるその反復運動を見ていると、大皿に山盛りだったはずの料理が、まるで手品のようにするすると彼の胃の腑へ消えてゆく。
 やがて、彼がふとスプーンを持ったまま動きを止めた。
 見れば、テーブルの中央にあったはずの料理は、すでに空になっていた。ベレトは空の皿と俺の顔を交互に見比べてから、眉根を寄せる。
……すまない。気がついたら、君の分まで食べてしまっていたらしい」
 ひどく気まずそうに視線を落とす同居人の姿に、俺は思わず喉の奥で笑いを転がした。
「ばか言え。俺が自分の飯を確保し忘れるような間抜けに見えるか? あんたに食われる前に、とっくに俺の分は避難させてある」
 俺は手元のグラスの水をひと口飲み、立ち上がった。
「はいはい、おかわりな」
 コンロの上に鎮座している大鍋には、明日以降のためにと計算して作った残りがまだたっぷりと入っている。
 呆れ半分、笑い半分で声をかけながら鍋を持ち上げ、残っていた具材を彼の手元の器へと思い切りよく移してやる。
「いいのか。それは、明日からの君の食事だろう」
 遠慮がちにたずねてくるが、スプーンの柄を握り直す指先にはすでにかすかな力がこもっているのが丸わかりだった。
「俺の計算通りに冷蔵庫の中で冷たくなるより、美味い美味いってあんたに全部食われるほうが、こいつも幸せかもな」
 湯気を立てる肉と野菜の山を見て、ベレトはほんの少し照れ臭そうにした。
「ありがとう。君の作る食事は、ほんとうにおいしい」
「はいはい、食い終わったら皿洗い頼むぞ」
 そもそも、こんな得体の知れない男を拾った時点で、費用対効果がどうだのと語る権利は俺にはないのだろう。美味そうにスプーンを動かし続ける同居人の規則正しい顎の動きを眺めながら、俺は次の休みに買い足す食材のことを考えていた。



4.

 鉛を飲み込んだかのように喉が張り付き、関節の端々が軋むような感覚で目を覚ました。
 ただの寝不足かと思ったが、どうやら違うらしい。ひどく重い身体をどうにか起こし、壁伝いにリビングへと足を踏み入れる。ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、パソコンを開こうと手を伸ばした途端、横から伸びてきた大きな手が、俺の手首を静かに、けれど確かな力で掴み取った。
……なんだよ。仕事の邪魔はしないって約束だろ」
 掠れた声で強がる俺をよそに、ベレトは一切の遠慮なく距離を詰め、空いた方のひんやりとした掌を俺の額に押し当ててきた。
 他人の低い体温に触れた瞬間、自分の顔がひどく火照っていることを嫌でも自覚させられる。
「具合が悪いんだろう」
「これぐらいどうってことない。どうしても今日中に外せない――
 掴まれた手を振り払い、端末のキーボードに指を置こうとした瞬間。今度は両肩を背後からがっちり掴まれた。そのまま、およそ病人に対する扱いとは思えないほどの強引さで、座っている椅子から物理的に引き剥がされそうになる。
「おい、ちょっと待て! 引きずり下ろすな!」
 抵抗する腕の力など、荒事を潜り抜けてきた彼からすれば小枝のようなものだろう。俺がバランスを崩しかけたところで、彼はようやく動きを止め、俺の顔を上から覗き込んできた。
……休みなさい」
 いつもは表情の薄い彼が、真剣な眼差しでこちらを見下ろしている。怒気はない。
 だが、その静かな声の底には、まるで出来の悪い生徒を諭す教師のような、逆らいがたい威圧感が伴っている。卓越した身体能力と、めったなことでは揺るがない強固な意志。
 こうなると、この男はてこでも動かない。短い同居生活の中で、俺も少しは学習していた。
……わかったよ。休みの連絡を入れて、今日中に返しときたいメールだけ処理する。あんたは横で見張ってていい。それが終わったら大人しく寝室に行くから」
 妥協案を提示して深く息を吐くと、彼は少しだけ眉根を寄せたあと、俺の肩から手を離し、ゆっくりと首を縦に振った。
 それからの数十分間、俺は背後に無言の監視者を立たせたまま、最低限の連絡とメールの処理をこなす羽目になった。見張っていいとは言ったが、まさかほんとうに見張られるとは思いもしなかった。
 ようやく端末を閉じた途端、待ってましたとばかりに腕を引かれ、有無を言わさず寝室へと連行される。
 俺がベッドへ倒れ込むと、彼がすかさず常温の水の入ったグラスを運んできた。乾いた喉にそれを流し込んでグラスを返した直後、分厚い掛け布団が俺の顎のすぐ下まですっぽりと引き上げられる。
 それだけではない。肩口や脇腹にできたわずかな布の隙間までも、冷気が一切入り込まないように、彼の手によって外側から入念に内側へと押し込まれてゆく。
 身動きひとつ取れない簀巻き状態で呆然としていると、彼が上から俺の顔を覗き込んでくる。
……何なら食べられる?」
「そうだな……胃が受け付けないから、軽いものなら」
 喉の奥でもたつく声を絞り出すと、彼は小さくうなずき、具体的な案を口にする。
「ゼリーを買ってこようか。お粥も作るから、君の好きなほうを食べればいい」
 迷いなく提案された献立に、俺は思わず数度瞬きを繰り返した。
 拾ったばかりのあの夜は、現金を握らせたところで自力で寝床を確保することもできないほど、生活能力が欠落していたというのに。今では体調不良の同居人を的確に拘束し、消化のいい食事の選択肢まで用意できるほどになっている。あんなに隙だらけだった男が、随分と立派に成長したものだ。
「へえへえ、頼もしいことで。……にしてもあんた、妙に手際がいいな。それに、ちょっと楽しそうじゃないか」
 俺が熱に鈍る頭で感心半分にぼやくと、彼は布団の縁をもう一度だけきっちりと整え、心底満足げな声で答えた。
「いつも君に貰ってばかりだから。君のために何かできるのが、嬉しいんだと思う」
 ベレトは少し迷ったそぶりを見せたあと、俺の寝室の戸を閉めた。そっと、静かに。開け放しにしていた部屋が、急に窮屈に思えてくる。早く戸が開かれることを祈りながら、俺は瞼を閉じた。



5.

 世の中には、使い古された古典的な手法というものが存在する。
 特に男女の駆け引きにおけるそれは、雑誌やネットの特集で幾度となく擦られ、もはや手垢にまみれている。構造を理屈として理解していれば、自分がその罠に嵌まることなどあり得ない。ずっとそう高を括っていた。
 騙される奴が悪いとまでは言わないが、危機感が足りないだとか、どうしてそう根拠のない自信にあふれているのか、とか。そういった類の思考を持ち合わせている自負はあった。
 しかしまあ、実際に自分がそうした目に遭って、人は初めて学ぶのだ。俺みたいな人間すら足を掬われるからこそ、古典として残るのだ、と。

 大きな仕事がひと段落してから迎えた、はじめての休日。目が覚めてからずっと、気分がいい。
 水回りの掃除を終えてリビングに戻ってきたベレトの指先が、ふと視界に入った。家事全般を任せきりにしているせいか、骨ばった手が少しばかりかさついている。
 見過ごすのも居心地が悪く、俺は買うだけ買って仕事用鞄に放り込んでいた、無香料の保湿クリームを彼に押し付けた。
「適量を手に取って、しっかり擦り込むんだぞ」
 俺の話を聞くよりも先に、不器用にチューブを握り込んだ掌には、重みのある白いクリームが山を作っていた。
……いくらなんでも出しすぎだろ。ほら、手出してくれ」
 俺は彼の手から余分なクリームを自分の指でごっそりとすくい取り、自分の両手にもなじませながら呆れ顔で小言をこぼす。
「いいか、せっかくだから教えてやるよ。これから先、もし女が『クリーム出しすぎちゃったから、もらって』なんて言ってきても、絶対に手を出して受け取るなよ。それはおすそ分け口実にした、合法的な接触なんだからな。ホイホイ手を出したら、自分に気があるんだなって勘違いされるから気をつけろ」
 大人の余裕たっぷりに忠告してやったというのに。
 ベレトは俺の手によって滑らかになった自分の手と、同じようにクリームを擦り込んでいる俺の手を交互に見比べた。やがて、その視線がゆっくりと俺の顔へ上がってゆく。
……そうなのか。しかし、そういうことなら君のほうが引っかかりそうだな」
「は」
「今も、ごく自然に触ってきたから」
 数秒の沈黙。言われてみれば、俺は彼が持て余したクリームを躊躇いもなくすくい取り、ご丁寧に彼の手の甲にまで塗り広げてやっている。
 完全に、俺自身が言った『合法的な接触』の口実の模範解答を無意識にこなしていたのだ。
「ち、ちが、これはそういうのじゃない! あんたが俺の注意も聞かずに出し過ぎてたから、」
 俺が慌てて弁解すると、彼は自分に言い聞かせるように低い声を落とした。
「わかっている。君がただ親切で世話を焼いてくれているだけだと。勘違いしないように、自分でも気をつけているから……安心してくれ」
 その不器用な誠実さに、俺は口を閉ざすしかなかった。ここでどれだけ言い返したって、情けないだけだから。

 最高の気分で始まったはずの休日は、午前中の手痛い自爆のせいで、妙な気まずさを引きずったまま午後へと突入していた。
 いつかはやらなきゃなと先送りにしていた衣替えをするべく、クローゼットの奥から引っ張り出した冬物の部屋着をまとめて洗濯機に放り込んだ。結果、ベレトが今すぐ着られるあたたかい服が一時的に枯渇してしまった。
 ペラペラの薄着でうろつかれて風邪でも引かれたらたまらない。俺の予備の部屋着を渡してやると、奴は目の前で着替え始めたので思わず目を覆う。どうしてそう大胆なんだ。恥じらいを持てというのもおかしな話だが、遠慮というか、配慮ぐらいはしてほしい。
……やっぱり、だいぶ余るな」
「すまない。君の服は、自分には少し大きいらしい」
 着替えを終えて現れた同居人を見て、俺は顎をさすった。
「まあ、部屋着だからな。俺が着てもゆったりしてるから、華奢なあんただとなおさらでかく見えるんだろうよ」
 肩の縫い目は本来の位置からずり落ち、長すぎる袖口は彼の手をすっぽりと覆い隠している。広めに開いた首元からは、男にしては線の細い首筋と鎖骨が覗いていた。
 世間には、女性が異性の服を着ることで庇護欲を煽るという、これもまた古典的な手法があるらしい。目の前に立つ男の姿は、まさにその現象を体現するようなシルエットを形成していた。
 ――いやいや、相手は成人した男だ、比較対象として根本的に間違っている。そう自分に言い聞かせるように短く息を吐き出す。
「袖、邪魔なら捲ってやるよ」
「いや、自分でやる」
 彼が余った袖口を無造作に肘まで引き上げる。現れた二の腕から手首にかけてのラインは、やはり同年代の男と比べてもずっと細く、白い。だが、その無防備な肌の上には、過去の荒事を物語るようないくつかの古い傷跡がかすかに残っていた。
 華奢に見える身体と、ふいに見せつけられた物騒な過去の痕跡。俺はその目のやり場に困るアンバランスな落差に当てられ、ただ黙って視線を逸らすことしかできなかった。

 そして、立て続けに足を掬われたこの休日の極めつけは、夜だった。
 すっかりペースを乱された疲労感を誤魔化すようにリビングのソファに深く腰を掛け、パソコンの画面をスクロールしていると、ふと視界の端に影が落ちた。視線を下げると、床のラグに座り込んでいたベレトが、ソファの座面に片腕を乗せるような体勢でこちらを見上げている。
……クロード。少し、頼みがあるんだが」
 妙に真剣な響きに続きを促すと、彼はゆっくりと口を開いた。
……また、君のシャンプーを使ってもいいだろうか」
 予想外すぎる単語に、俺は危うく端末を取り落とすところだった。まだ諦めてなかったのか、こいつは。
「は? 自分のやつがあるだろ。このあいだ、あんたの髪に合うやつを買ってやったじゃないか」
 呆れ顔で見下ろすと、彼は少しだけ唇を尖らせるようにして言った。
「わかっている。だが、今日は君のを使いたい気分なんだ」
 気分ってなんだ、気分って。俺が買ったものを無下にしているわけではないらしいが、わざわざそれを置いてまで俺のものを要求してくるとは、よほどあの香りが気に入ったらしい。
 そう理詰めで突き放そうとした言葉は、しかし最後まで続かなかった。
 普段は感情の起伏が薄く、どこか気怠げに伏せられていることの多い彼の瞳が、今は物理的な位置関係のせいで、下からまっすぐに俺の顔を射抜いている。
 少しだけ上を向いた首筋の骨張ったライン。長い睫毛に縁取られた瞳が、俺の言葉を待ってかすかに瞬きをした。
 それはいわゆる、上目遣いというやつそのものだった。ねだりごとをする際の、手垢のついた手法。そんなものに引っかかるわけがないと思っていたのに。
 下から静かに見上げられるというただそれだけの物理的な圧に、どういうわけか心臓の奥が妙な音を立てて跳ねた。
……今日だけ、使ってみたい。だめだろうか」
 重ねられた低く落ち着いた声に、俺はたまらず視線を天井へと逃がした。口調こそしおらしいが、とにかく強引に押し通すつもりらしい。
……わかったよ。今日だけだからな」
「ありがとう」
 降参の合図を出すと、彼はとても満足げに目元を和らげ、そのまま立ち上がって脱衣所へと消えていった。
 残された俺はパソコンの画面に目を戻す。真っ暗になったディスプレイにはことごとく掌で転がされた、ばかな男の顔が反射していた。



6.

 訪れたばかりの春が踵を返し、おそろしく冷え込んだ夜。仕事の区切りがついた俺は、台所のコンロに小鍋をかけ、牛乳と茶葉を煮出していた。砕いたカルダモンとシナモン、たっぷりの生姜を加える。そして最後に、瓶に入った砂糖を躊躇いもなく大量に鍋へと流し込んだ。刺激的で、暴力的なほど甘い香りが、静まり返ったリビングにゆっくりと満ちてゆく。
 マグカップを用意していると、背後に気配がした。振り返ると、ベレトが廊下とリビングの境界に立ち、少し不思議そうな顔でこちらを見つめている。
……いい匂いがする」
「チャイだよ。ちょっと癖があるが、身体の芯からあたたまる」
「はじめて聞いた。……それにしても、ずいぶんと砂糖を入れていたな。君がそんなに甘いものを好むなんて珍しい」
 甘いものを嗜まない俺の姿を知っている彼は、心底意外そうに目を瞬かせた。
……これは、特別。甘いほうが美味いんだよ」
 俺が少しだけ嬉しさを滲ませて笑うと、興味深そうに視線を鍋へと向けた。
「飲むか?」
「ああ」
 棚からもうひとつマグカップを取り出して、ふたつのマグカップに茶褐色の液体を注ぎ、ダイニングテーブルで向かい合う。ベレトは立ち上る湯気に少しだけ顔をしかめたあと、縁に口をつけ、火傷しないように慎重にそれを流し込んだ。
 喉仏がゆっくりと上下する。数度瞬きをしたあと、彼はカップの底をじっと見つめた。
……不思議な味だ。舌の先が少しぴりっとするが、甘くて美味しい」
「そりゃよかった。でも、香辛料がたっぷり入ってるし、茶葉のカフェインもある。目が冴えちまうかもしれないぞ」
「それは問題ない。目を閉じれば、数秒で眠りに落ちることができるから」
 自慢げにとんでもない特技を口にする男を見て、俺は深い息を吐き出した。かつて親父さんのもとで命のやり取りに近い揉め事を処理していた人間だ。いついかなる場所でも、急速に身体のスイッチを切って休息をとる術が身についているのだろう。
 呆れまじりにマグカップを傾ける俺の手元を見て、彼の視線がテーブルの上のパソコンへと向けられた。
「君は寝ないのか。その画面の映像は……どこかの砂地?」
「ああ。地球の裏側にある砂漠の、定点カメラの映像だよ」
 画面の中では、見渡す限りの乾いた大地が強い日差しに照らされている。
「どうしてまた、そんなものを」
「こうして全然違う景色を見てると、世界はとんでもなく広いんだなって実感できるだろ。俺たちが今いるちっぽけな部屋の常識なんて、外に出れば通用しない」
 いつかの夜に語った、すべてをぶっ壊してでかい会社を作るという俺の野望を思い出したのだろうか。彼は真剣な顔で、画面の向こうの眩しい砂漠を見つめた。
「たまに、現地の動物が横切ったりするんだよ。それをぼーっと眺めてるのが、案外いい息抜きになる」
……そうか」
 彼は空になった自分のマグカップを両手で包み込み、静かな瞳を俺の横顔へと向けた。
「なら、自分ももう少しだけ君に付き合おう」
 テーブルに肘をつき、身を乗り出すようにして画面を覗き込んでくる。いつでも眠れると言い放っておきながら、俺と一緒に何もない砂漠の映像を見るつもりらしい。
 そのくせ、付き合うと言ったそばからあくびを噛み殺している。あとで毛布を持って来てやるかなと考えながら、丸まった無防備な背中を眺める。しあわせな夜だと思った。 



7.

 クライアントとの付き合いでしたたかに酒を飲まされた俺は、ふらつきながらもどうにか自宅へと帰り着いた。
「あー……飲みすぎた。目が回る」
 玄関先で靴を脱ぎ捨てるなり、俺は息苦しいネクタイを引き抜き、ジャケットを床に落とした。そのままリビングのソファへと直行しようとした俺の背中を、出迎えたベレトの静かな声が引き留める。
……酒臭い。もしかしてそのまま寝るつもりなのか」
「無理、今日はもう一歩も動けないー……風呂は明日の朝入るから、」
 虚空に手を振りながらシャツのボタンを外していると、彼が床に落ちた俺の衣服を拾い上げながら、音もなく距離を詰めてきた。
「シャワーぐらいは浴びたほうがいい」
 有無を言わさぬ口調とともに、俺の胸元に冷たい指先が触れる。彼の手は俺の代わりにシャツのボタンを手際よく外し、さらにはスラックスのベルトの金具にまで手をかけてきた。
 酔って視界の焦点が定まらない今の俺に対し、こいつはまったく遠慮というものをしない。すでに一線を超えている関係とはいえ、アルコールでゆるんだ思考回路では、自分より華奢なはずの男に身ぐるみを剥がされるこの状況にどう反応していいか分からなかった。
 やがて、シャツが肩から滑り落ちた瞬間。俺の無防備になった首筋に、ベレトが顔を寄せ、そのひんやりとした唇を直接押し当ててきた。頸動脈のすぐそばの皮膚を、ゆっくりと吸い上げられる。酔いの中枢を直接揺さぶられるような生々しい感触に、俺は短く息を呑んだ。
「お、おい……!」
 抗議の声を上げようとした俺の耳元で、彼がひどく低く、落ち着き払った声で囁く。
「自分は、このままでも構わないが」
 汗とアルコールに塗れたこの身なりのままでも、今ここで、問答無用で最後まで致すぞ、という――厄介な酔っ払いを風呂場へ追いやるための、容赦のない脅しだった。
 俺の脳内からアルコールが一瞬にして揮発する。弾かれたように肩をこわばらせ、呼吸を止めた俺を見て、彼はぴたりと動きを止めた。そして、首筋に寄せていた顔を離すと、先ほどまでのひどく雄々しい気配を嘘のように消し去り、いつものなだらかな声で急かすように言ったのだ。
「ほら。目が覚めただろう。明日は休みだ、早くシャワーを浴びてきなさい」
 普段の生活であれば、世話を焼き、「ほら」と行動を促すのは決まって俺の役目だ。だというのに、今は完全に主導権を握られ、見事に手玉に取られている。
……っ、わかったよ! 入ればいいんだろ、入れば!」
 顔から血の気が引くのを自覚しながら、俺は彼の腕を振り解き、その細い肩の脇をすり抜けて脱衣所へと駆け出した。すれ違いざま、彼の喉の奥から小さく息を漏らすような笑い声が聞こえた。
 背後からは引き留める声ひとつ上がらない。そこで俺は、ひどく悔しい事実に気がついてしまった。あの静かな脅しは、風呂へ誘導するための単なるハッタリではない。もし俺が逃げ出さなければ、あいつはほんとうに、この酒にまみれた身体を躊躇なくリビングの床に組み敷いていたはずだ。
 しかし、その事態を回避するために自らシャワーへ飛び込んだ時点で、俺は「汚れを落とし、万全の状態で彼の待つベッドへ向かう」という展開を、自分から選んでしまったことになる。
 向こうからすれば、俺がリビングで酒と汗に塗れたままだらしなく寝そべって抱かれようが、シャワーを浴びて清潔な状態でベッドに赴こうが、どちらに転んでも美味しい思いしかしない、完璧な勝ち戦なのだ。むしろ俺が自ら綺麗になってベッドへ献上される分、シャワーへ逃げさせたほうが得だろう。
 俺だけが逃げ道のない選択をさせられ、まんまといいように転がされた悔しさを噛み締めながら、手荒に脱衣所のドアを閉めた。


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