無双軸(赤焔)でベレト未加入ルート、EP.14が前提。例の作戦はありでもなしでも。
転生現パロ、社会人&記憶有設定です。飲み屋の用心棒ベレトと、いいお仕事をしているクロードが再会する話。
一応、『星のおちる場所』をベースにしていますが、そこまで密接には関わっていないです。
@Bombwooo
酒の匂いと紫煙が立ち込める騒がしい店内で、自分は暴れる客の腕を背中へ回し、捻り上げた。最初はわめいていた男も、痛みのせいか顔からは血の気が引いている。男の体重をうまく逸らしながら、出入り口へと引きずってゆく。機械的で、退屈な作業だ。
そのまま店の外へ放り出そうとした、まさにその最中だった。ふと開いた奥の個室の扉、その向こう側に座っていた男と視線が交差した。
薄暗い照明のなかでも目を引く、見慣れた色の双眸と、仕立てのよい背広姿。
それを認めた瞬間、呼吸を忘れたように喉の奥がつかえた。かつて熱風の吹き荒れる谷底で、己が置き去りにしてしまった男がそこにいる。
彼がわずかに身を乗り出し、こちらへ向かって立ち上がろうとする気配がした。
冷たい汗が背を伝う。自分は手早く泥酔した客を従業員へ引き渡すと、逃げるように夜の路地へと歩幅を広げた。
この平和な世界で、再び彼と関わるべきではない。そう己に言い聞かせ、喧騒から遠ざかろうと暗がりへ急ぐ――が、背後から慌ただしい足音が近づいてきた。
「おい、待てって!」
腕を掴まれ、強引に引き留められる。
振り返ると、少しだけ息を切らしたクロードが立っていた。怒りも憎しみもない。ただ思いがけない幸運を見つけたような、純粋なよろこびだけがその顔に満ちている。
「久しぶりだな。こんなところで会えるなんて思わなかった」
その気安い声と向けられたやわらかな微笑みに、胸の奥が音を立てて軋んだ。
いっそ胸倉を掴んで怒鳴ってくれたなら、どれほど楽だったか。自分は彼に多くのものを背負わせ、望まなかったとはいえ、そのすべてを途中で放り出した人間だ。罵倒されて当然なのに、あろうことか、彼は再会をよろこんでいる。
彼に会えたことが嬉しい。不覚にもそう感じてしまっている自分がいる。だが、過去の罪悪感が足枷となって、歓喜に浸ることがひどく憚られた。
「……君は、仕事中だろう。戻った方がいい」
どうにか感情を押し殺し、掴まれた腕を見つめたまま短く告げる。すると彼はあっさりと首を振った。
「いいんだよ。あんなの、どうせ近いうちに切る予定の付き合いだったし。適当な理由をつけて抜けてきた」
事もなげに言い捨てる声は、驚くほど昔のままだった。どこか飄々としていて、本心が見え隠れする独特の響き。
「それより、ここであんたを逃すほうが痛手だ」
「……もう、自分には関わらないほうがいい」
振り払うこともできず、自分は視線を落とした。突き放さなければならない。彼をこれ以上、不幸に巻き込まないために。
「自分はかつて、復讐のために君を利用した。君に選ばなくてもいい道を歩ませたくせに、途中で投げ出して――」
わざと冷たく言い放つと、頭上から小さく鼻で笑う気配がした。
「あんたなあ。勝手に俺の選択を奪うなよ」
顔を上げると、彼はどこか呆れたような、それでいて穏やかな眼差しでこちらを見下ろしていた。
「あれは俺が自分で選んだ道だ。あんたに選ばされたわけじゃない」
「……」
「まあ、結果的に人生がめちゃくちゃになったのは事実だが、あんたひとりの責任じゃない。あれは、お互い様だ。俺もあんたの人生をめちゃくちゃにしたんだから」
迷いのない言葉だった。自分の身勝手な謝罪など受け入れるつもりはないのだと、明確に突き返してくる。
呆然とするこちらを見つめ、クロードは掴んだ腕の力をわずかに強めた。そして、声を潜める。
「それより、最近妙な連中に狙われててさ、ちょうど腕の立つ人間を探してたんだよ」
心臓が、嫌な音を立てた。命を、狙われている?
自分をまっすぐに見つめる瞳や、その整った顔には怯えも切迫感も微塵も存在しない。呼吸は規則正しく、その立ち振る舞いには余裕すら漂っている。
きっと、周囲に悟られないよう気丈に振る舞っているのだろう。平和に見えるこの世界でも、彼は危険な綱渡りをしているのか。
彼を死地へ誘い、その未来を狂わせてしまった自分は、これ以上彼に関わるべきではない。けれども、命の危機にあると言われてしまえば、背を向けることなどできるはずがなかった。彼が盾を欲しているのなら、都合よく己の命を使い潰させることが、せめてもの罪滅ぼしになるのかもしれない。
「こんなところで用心棒をしてるくらいだ、どうせ行くあてなんてないんだろ」
図星を突かれ、返答に窮する。クロードは掴んだ腕を引き寄せ、切実な響きを落とした。
「だったら、俺のそばにいてくれよ。俺には、あんた以外考えられないんだよ」
彼の言う通りかもしれない。であればなおさら、彼の望む通りにするべきではないか。それが今の自分にできる、唯一の償いなのだろうから。
抗う理由は、とうに失われていた。自分は彼に引かれるまま、静かに腕の力を抜いた。
護衛の依頼を受け入れたその足で、彼はなぜか自分の住まいまで送り届けると言い張った。自分が守る側なのにと思ったが、彼はあのころのように適当なことばかり言って、自分をけむに巻こうとする。
並んで歩き、やがて辿り着いたのは、年季の入ったアパートだった。歩くたびに外階段は耳障りな錆びた音を鳴らし、廊下の電球は切れかかっている。
呆れたように建物を仰ぎ見たクロードは、やがて自分の顔をまじまじと見つめた。
「……あんた、こんなところに住んでるのか」
「雨風はしのげる。寝るだけならここでじゅうぶんだ」
事実を述べただけだったが、彼は頭を抱えるようにして長いため息を吐き出した。
「……ああ、そうかい。言いたいことは山ほどあるが、今日はあんたからいい返事が聞けただけでよしとするよ。俺もいろいろ準備しないといけないからさ」
彼が自身の携帯端末を取り出すと、こちらの連絡先を強引に登録させた。
「絶対逃げるなよ。住所もばっちり覚えたからな。……ま、仮にここから逃げ出しても、必ず見つけ出すが」
冗談めかした口調だったが、深い森の色をした瞳には一切の笑みがなかった。気圧された自分はただ小さくうなずくことしかできなかったが、それを見たクロードは満足そうに口角を上げるのだった。
それからの日々は、どこかちぐはぐなものだった。
「俺を狙う物騒な連中も、夜はちゃんと寝るらしくてさ。だから護衛は、基本俺の仕事中だけでいい」
明日にも命を落とすかもしれないと言っていたはずなのに、彼からの指示は拍子抜けするほど曖昧なものだった。
実際の仕事内容も、命懸けの警護とは程遠い。彼が面倒くさがる細々とした書類の処理を自分が請け負い、仕事に飽きた彼が話しかけてくれば、ただそのとりとめのない雑談に付き合う。危険などどこにもない、穏やかな時間だった。
だが、一歩彼の会社を出て自分の部屋へ帰れば、そこには色彩の抜け落ちた灰色の生活が待っている。
軋むドアを開け、冷え切った六畳間に足を踏み入れる。腹を満たすためだけの味のしない食事を胃に流し込み、寝心地がよいわけでもない安ベッドに横たわる。
かつて彼の未来を狂わせた自分が、これ以上の生活を望む資格などない。ただ息をして、彼の盾として使い潰されるその日を指折り数えて待つ。
事態が動いたのは、ある日の仕事終わりだった。
彼は再び自分の住まいまでついてきて、錆びたドアの前でふうと息を吐いた。
「やっぱりだめだ。あんたをいつまでもこんな所に住まわせてたら、雇い主である俺の格が下がる」
唐突な言葉に、自分は瞬きを繰り返した。
「俺の面子を保つためだと思って、まともな環境に移ってくれないか」
声を荒げることもなく、淀みない口調で理を説いてくる。自分のためではなく、彼の不利益になると言われれば、無下には断りづらい。
「……自分は今のままで不便していないが、君がそう言うなら。ちょうど来月、部屋の契約更新がある。それまでに何とか新しい部屋を探そう」
苦し紛れにこぼしたその言葉が、完全に裏目に出た。
「ちょうどいいじゃないか」
クロードの双眸が、細められた。嫌な予感がする。
「更新なんてやめて、うちに来い」
「……君の家に?」
「ああ。最近仕事がうまくいきすぎているせいか、やっぱり二十四時間危ない気がしてるんだ。あんたがいないと、つい不安になっちまう」
口元には、悪びれない笑みが浮かんでいる。その堂々とした矛盾に、当然ながら険しい顔をしてしまう。
「待ってくれ。君を狙う連中は夜には寝るから、護衛は日中だけでいいと言ったのは君だろう。いったいどっちなんだ」
正論で問い詰めると、彼は痛いところを突かれたという顔もせず、飄々と肩をすくめた。
「最近、あいつらも夜勤を始めたらしくてさ。あんたが思ってる以上に、世の中は日々変わってくもんなんだよ。だから、夜も俺のそばにいてもらわないと困る」
「……適当なことを」
「雇い主の命がかかってるんだぞ。まあそういうわけだから、早めに引っ越しの準備しておけよ」
絶対にあり得ない、呆れるほどいい加減な言い訳だった。それでも自分が小さく息を吐いてあっさりとうなずくと、クロードは愛嬌のある口角をもぞもぞと動かしている。自分がどこまでこのばかげた嘘に乗っかるのかを、面白がって試しているような節すらある。
結局、彼自身の体面の話からいつの間にか警護の必要性へと巧みにすり替えられ、鮮やかに退路を断たれた自分は、その翌週にはわずかな荷物をまとめ、彼の住まう高層マンションへと寝床を移すことになった。
薄い布越しに、やわらかな陽光がまぶたを撫でる。
目を覚ますと、そこは数日前まで自分の拠り所だった六畳間ではなかった。身体が沈み込むような寝具の肌触り、空気を循環させるかすかな駆動音。床板が軋むことも、隙間風が肌を刺すこともない、徹底的に管理された静謐な空間。
ゆっくりと身を起こし、静寂に満ちた廊下を抜けて広い間取りの部屋へ足を踏み入れると、無意識のうちに眉間に深い皺が寄った。
高い天井から吊るされた照明の下、見栄えのいい革張りのソファや床には、昨日彼が纏っていたはずのジャケットやネクタイがそこかしこに脱ぎ捨てられている。外では誰よりも完璧な立ち振る舞いで他者を圧倒している男の、おそろしく無防備でだらしない生活の残骸。
ため息をつき、床に落ちていた上着を拾い上げ、無言でその仕立てのよさと扱いの雑さを検分していると、背後からばつが悪そうな声が降ってきた。
「……そうじろじろ見るなよ。あとで片付けようと思ってたんだから」
振り返ると、寝癖をつけたままのクロードが気まずそうに頭を掻いていた。
「君がこうも片付けができないとは思わなかった」
「一時的に置いてただけって言ったろ。……それよりほら、飯にするぞ」
彼が手早く湯を沸かし、コーヒーを淹れる。深く焙煎された香りと、かすかに焦げたパンの匂いが、無機質だった部屋の空気を満たしてゆく。
向かいの席に腰を下ろした彼は、およそ命を狙われている雇い主とは思えないほど隙だらけの様子で、のんびりと食事を胃に収めてゆく。窓の向こうには雲ひとつない朝の街並みが広がっており、襲撃者の気配など欠片も存在しなかった。
「……聞いていた話と違うが」
陶器のつるりとした表面を指でなぞりながら、自分はゆっくりと口を開いた。
「君は、二十四時間の警護が必要だと言っていたが。こんなに無防備で、本当に命を狙われているのか」
生真面目な問いに、クロードはマグカップを置き、愉快そうに喉を鳴らした。
「まさか本気で信じてたのか? そんなわけないだろ。ここは平和な世界さ」
あっけらかんと言い放ち、悪びれる様子もなく笑う。
「……君という男は」
呆れて短く息を吐くと、彼はさらに目を細めて小さく肩を揺らした。
拍子抜けするほどの温度差。穏やかな食器の鳴る音、かつて手放したあどけない笑顔。
灰色の六畳間では決して味わえなかった血の通ったあたたかさに、どうしようもなく心が満たされてしまう。ただ息をして命を繋ぐだけだった日々に、少しずつ鮮やかな色が差してゆく。彼と共に囲む食卓は、とにかく心地がよかった。
けれど、その平穏が身体に馴染むことがおそろしくもあった。これだけは、いくら彼の望みといえど、聞いてやれない気がした。
それでも、穏やかな日々は自分を置き去りにして過ぎてゆく。
彼は家で仕事の愚痴をこぼすことはあっても、それを自分に手伝わせようとはしなかった。だが、彼が面倒くさがってソファに放り出している書類の山を見かね、自分が処理し始めると、途端に不満そうな顔をする。
「……仕事中だ」
いつの間にか向かいの席に座り、机に頬杖をつきながらじっと見つめてくる視線に対し、手を止めずに咎める。すると彼は、にやりと笑った。
「俺が退屈してるんだから、その気まぐれに付き合うのもあんたの仕事だろ」
屁理屈を並べ、わざと手元の書類を指で弾いてちょっかいを出してくる。かつては血生臭い戦術や互いの命を削るような軍議を交わしていた彼が、今はこんなくだらない理由で自分の気を引こうとしている。
「退屈ならこの書類の山は君に返そう。悪いことをした」
そう返せば、いかにもつまらないといった様子で自分の椅子へと帰っていった。その平和すぎる落差に、呆れて息を吐きつつも、どこか穏やかな安堵を感じてしまっている自分がいた。
また別の日のこと。
気まぐれに連れ出された薄暗いバーで、自分は壁に設置されたダーツの的を前に立ち尽くしていた。
昔から、弓の扱いは彼に敵わない。近接戦闘には長けていても、飛び道具の扱い、特にその細やかな手首の使い方は、どうしても掴みきれない感覚だった。
慣れない手つきで放った矢は、的の大きく外れた場所に力なく突き刺さる。
「おいおい、そんなに力んでどうするんだよ」
隣で杯を傾けていたクロードが、面白そうに喉を鳴らした。
「手首をやわらかく使えって。ほら、貸してみろ」
隣に立った彼は、軽く矢を構える。力みなど一切ない自然な動作で放たれた一撃は、吸い込まれるように的の中心を射抜いた。
「よし。負けた方が明日の朝飯を作るルールな」
理不尽な条件を口にするや否や、残りの二本もあっさりと的の中央へ沈め、彼はこちらを得意げに振り返った。
その顔を見た瞬間、かつて血生臭い戦と戦の合間に交わした他愛ないやり取りや、共に囲んだ野営の焚き火の記憶が、鮮やかに脳裏をよぎる。彼は昔から、張り詰めた陣中にあってもこうしていたずらっぽく笑い、飄々と誰かの先を行くのが似合う男だった。
あのころと変わらない無邪気な笑顔が、どうしようもなく嬉しい。的を射抜く乾いた音を聞きながら、いつしか自然と口元がほころんでいた。
休日の昼下がり、ソファでくつろいでいた彼が手元の端末をこちらに向けてきた。画面には、海を越えた先にある見知らぬ異国の風景や、色鮮やかな料理の写真が次々と映し出されている。
「いつか、こういう行ったことのない場所を全部回ってみたいんだよな」
「そうか」
楽しそうに語っていた彼は、ふと口を尖らせ、ぶすくれたような顔でこちらを見た。
「……あんたはさ、そういうのないのか? 行ってみたい場所とか」
「ないな」
素直に首を振ると、彼は一瞬だけ虚を突かれた顔になり、やがていたずらを思いついた子どものように破顔した。
「じゃあ、これからいろんなところに行こう。俺も行ったことがないところに、ふたりでさ。……何でも食える俺たちなら、どこにだって行けるだろ?」
からかうような響きに、いつしか凝り固まっていた頬が緩み、思わず笑みがこぼれる。
満たされていた。彼と共に過ごすこの部屋が、彼と描く未来が、手放しがたいほどに居心地がよい。
だが、その確かな幸福を自覚するたびに、胸の奥で泥のような罪悪感が首をもたげる。
自分はかつて、己の身勝手な目的のために彼を利用し、彼が歩むはずだった道筋を決定的に狂わせ、最期にはただ置き去りにした人間だ。
君がお互い様だと言って過去を赦してくれても、自分自身がどうしてもそれを赦せない。
こんなにも満たされた日々を享受するほど、過去の罪悪感に深く胸を抉られる。彼と共にいる居心地の良さと、決して消えない罪の意識の板挟みになり、ただ静かに懊悩するしかなかった。
迷い果てた末に、それでも告げなければならないと腹を括った。
彼がくつろぎ、手元の端末に目を落としている静寂の中、自分は彼の前に立つ。
聡い彼のことだ、勝手に荷物をまとめれば、必ず勘付かれるだろう。だから、まずは正面から事実だけを告げることにした。
「……君とともにいるのが、苦しい」
重く落ちた声に、彼は手元の端末を机に置き、ゆっくりと顔を上げた。
「君が気にしていないことは、分かっている。だが、自分の中でどうしても折り合いがつかないんだ。かつて君の未来を狂わせた自分が、これ以上、君の隣で笑ってこのあたたかさを享受してはいけない。罪悪感を抱えたまま君のそばに甘え続けるのは……ひどく息苦しい」
言葉にするとなおさら苦しかった。それでも、伝えなければと思った。本心を無造作に突きつけると、クロードは深いため息を吐き出し、こちらを見据えた。
「……どうすれば、あんたを引き止められる?」
呆れや怒りではない。どこかすがるような、諦めきれない響きだった。
見上げた先で、常に余裕を纏っていたはずの双眸が、かすかに揺れているのを見てしまった。
彼を悲しませたいわけではない。ただ、自分の抱える罪悪感が息苦しいだけで。確かな別れを告げるつもりだった自分の決意が、その揺らぎを前にしてもろく崩れ去ってゆくのを感じた。
長い沈黙ののち、自分は身勝手な要求を口にする。ついぞ、さようならのたったひと言は言えなかった。
「……自分を、力の限り殴ってくれないか」
その言葉に、クロードは言葉を失ったように固まった。
「そうすれば自分も、少しは過去の清算ができる気がする」
「どうしてそうなるんだよ……今のご時世、いろいろとうるさいんだぞ」
心底嫌そうな、恨みがましい口調だった。だが、自分がこれ以外に引き下がる術を持たないことを察したのか、彼は短い舌打ちのあとに、自身の右手をゆっくりと握り込んだ。
不器用に握られた拳が、自分の頬をめがけて振り抜かれる。
荒事を生業としてきた自分からすれば、避けることなど容易い軌道だった。だが、他ならぬ彼が自分の身勝手な願いに応え、嫌々ながらも拳を握り締めてくれた事実が、その一撃を甘んじて受け入れさせていた。
鈍い衝撃が頬を打ち抜き、痛みに顔をしかめて床に手をつく。
「……いてぇ」
頭上から、苦痛に歪んだ声が降ってきた。見上げると、クロードが赤くなった自身の右手をさすりながら、顔をしかめている。人を殴り慣れていないのだから当然だ。
それでも彼は、痛みを堪えるように小さく息を吐き、床に座り込む自分を強い光を宿した瞳で見下ろした。
「これで貸し借りはなしだ。……あの時、言っただろ。あれは俺が自分で選んだ道だって。俺たちは正しいと思ったことを為して、力及ばず負けただけだ。あんたは背中を押しただけ。だから、あんたを恨む理由なんてどこにもない」
誰が悪いわけでもない。彼が呪文のように唱え続けてきた言葉を、ようやく受け入れられそうだった。素直にうなずくことはまだできないけれど、彼の真心そのものがただ嬉しい。
「また、あんたの願いを聞き届けちまった」
赤くなった手をさすりながら、クロードは自嘲するように目を細めた。
「ほんと……つくづく、俺はあんたに弱いよな。昔からそうだった」
それは呆れを通り越し、諦めが滲んだ響きだった。彼は少しだけ目元を和らげ、こちらへ右手を差し出す。差し出されたその手は、まだ少し腫れていた。
彼の手を借りて立ち上がると、クロードは短く息を吐き、台所へと向かった。
冷蔵庫を開く低い音がして、やがて彼は冷えた保冷剤をふたつ手にして戻ってくる。ひとつを自身の右手に当てながら、もうひとつをこちらの顔の前でひらひらと揺らした。
「いやはや……あんたの整った顔、見事に傷物にしちまったなあ」
先ほどまでの切実な響きはどこへやら、彼は白々しい、わざとらしいほどの軽口を叩く。
「こうなった以上、俺が一生かけて責任とるしかないよな」
その言葉の意図を正確に測りかね、自分は保冷剤を受け取ろうと伸ばしかけた手を止め、真顔で問い返した。
「責任、とは。具体的に何を指しているのだろうか」
その瞬間。彼が貼り付けていた軽薄な余裕がすっと剥がれ落ちた。
白けた視線がこちらを射抜く。彼は数秒ほど無言でこちらを睨みつけると、持っていた保冷剤を、殴ったばかりの自分の頬へ無慈悲に押し当てた。
冷気と打撲の痛みが同時に走り、思わず顔をしかめる。正直、かなり痛かった。
「……ほんっと、そういう鈍いところも昔のままだな! 俺は風呂入ってくる!」
こちらの呻き声など意に介さず、彼は不意に声を荒げると、足早に洗面所へと消えていった。
怒らせるようなことを言ったつもりはなかったのだが。荒々しく扉が閉まる音を見送りながら、自分は頬に押し当てられた保冷剤をそっと押さえる。
ひどく冷たいはずのそれ越しでも、殴られた頬の熱は引く気配がなかった。