本編軸(翠風)で、『夢の標本』のつづきのようなもの。かつて自分で調合したお香で痛い目を見たクロードが懲りずに悪だくみする話が2篇。1頁目は士官学校時代、2頁目はED後の時間軸になります。
@Bombwooo
同じ過ちを繰り返すほど、俺は愚かじゃない。
前回の失敗は、要するに調合の詰めが甘かったことに起因する。だから今回目指したのは、相手の警戒心を解くのではなく、底抜けに開放的な気分にさせる代物だ。
標的はローレンツと決めていた。あの気位の高い男が、なりふり構わず周囲に愛想を振りまく滑稽な姿を拝んでやりたい。そんなたちの悪い向上心と好奇心が、俺の原動力だった。
すり鉢の中で粘り気のある塊に変わってゆくそれを眺めながら、ひとり口角を上げる。効能なんて、あとで適当にでっち上げればいい。
ところが、そんなささやかな悪巧みは唐突に打ち砕かれることとなる。
短い打音が響いたかと思うと、返事をする暇もなく扉が押し開かれた。
「入るぞ」
聞き慣れた声に、呆れと同時に冷たい汗が背中を伝う。どうしてこの人はいつもこう、間が悪いのだろう。というか、こっちの返事ぐらい待ってくれよ。なんで扉を叩くのと、声を掛けるのと、入ってくるのがぜんぶ一緒なんだ。
部屋の入り口に立っているのは、よりにもよって、今いちばん会いたくない相手だった。また怪しいものを作っていると知られれば、今度こそ完全に呆れられ、見放されるかもしれない。そんな焦燥感が全身を駆け巡り、俺は証拠を隠そうと慌てて背を向けた。
だが、それが間違いだった。
なんせいまの俺の部屋は、脱ぎ捨てたままの上着やら、読みかけの本やらが無秩序に散乱している有様だ。慌てて身を翻した拍子に、見事にそれらに足を取られ、俺は派手に体勢を崩した。
まずい、やらかした。
そう直感した時にはもう遅い。踏みとどまろうと振り回した手からすり鉢がすっぽ抜け、無情にも宙を舞う。そして、倒れ込む俺を助け起こそうと身を乗り出した先生の、あの長ったらしい外套の、袖だか裾だかよくわからないところに、固まる前の濃緑の塊がべったりとへばりついてしまった。
「……怪我はないか」
「せっ、先生! 今すぐそれを脱げ! いいから早く!」
言い訳はあとだ。とにかく一刻も早く、その外套ごと引っ剥がさなければ。なりふり構わず力ずくで手を伸ばす俺の必死の剣幕に、先生は怪訝そうに眉を寄せる。そしてあろうことか、己の衣服に付着した緑色の塊へ顔を近づけてしまった。
「何だ、この妙なにおいは……」
「あ、だめだ! 嗅ぐな!」
俺の制止も虚しく、独特の甘い香りが深く吸い込まれる音が響く。
完全に、動きが止まった。
瞬きすら忘れたかのような静寂。またあの冷ややかな空気が降りてくるのかと思うと、喉の奥が干からびる。言い訳の言葉を探して、必死に唇を噛んだ。
しかし、恐る恐る見上げた先にある瞳は、ひどく潤んでいた。鋭い光を宿していたはずの眼差しが、微睡むようにゆっくりと細められる。
「……甘くて、いいにおいがする」
張りのあった声が、砂糖を溶かしたように甘く濁った。同時に、先生の身体からふっと力が抜け、前へと傾いてくる。避ける間もなく、俺の肩口に重い額が落ちてきた。
このままではまずい。なんとか換気をしようと、重みから抜け出して窓へ向かおうとした、そのときだ。
「どこへ行く」
手袋に包まれたしなやかな指が、俺の腕を強く引き留めた。
声こそ甘ったるいというのに、引く力は恐ろしく強い。抗う間もなく体勢を崩し、俺は尻餅をつく形で、背後にいた先生の腕の中へと盛大に倒れ込んでしまった。俺より細いと思っていた身体は、ことのほか安定感があって、乱暴にぶつかったにもかかわらずびくりともしなかった。
「ふふ、」
頭上から、くすぐったいような笑い声が降ってくるとともに、きつく身体を抱き締められる。
誰かにこんなふうに抱き締められるなんて、赤ん坊のころ以来じゃないか。そんな場違いでひどく淋しい記憶が脳裏を掠めた。
どうにか抜け出そうともがいてみるものの、的確に急所や重心を押さえられているせいで、身をよじることしかできない。とろんと甘える態度と、拘束する力の強さが、まったく噛み合っていなかった。
背中から倒れ込んだせいで、顔がやけに近い。俺の肩口で細い髪が揺れているのを眺めながら、ただ途方に暮れる。
前の自分も、こんな間抜けな顔を晒していたのだろうか。そう思うと、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
だがそれと同時に、たまらない感情が込み上げてくる。
いつもどこか遠くにいたこの人の、無防備な眼差し。もっともやわらかな部分を俺にだけ差し出されている。もどかしいけれど、どうしようもなく嬉しくもある。
思い切って、俺は少しだけ頭を傾け、背後にある先生の額に己の頭を押し当ててみた。どうせ忘れるだろうと。いや、忘れてくれと、念じてみる。
すると、待っていたとばかりに、先生がぐりぐりと額をぶつけてきた。たったこれだけのことで、泣きたくなるほど満たされる。
行き場のない感情を持て余し、俺はただ、震える手で先生の外套をきつく握りしめた。
フォドラとパルミラ。互いに玉座を預かる身となれば、顔を合わせる機会など数えるほどしかない。だからこそ、せっかくの逢瀬くらいはもう少し踏み込んだ真似をしたいと願うのは、至極当然の理だろう。
心はとうに通じ合っている。だというのに、寝床をともにしても、この男はいつだって俺を壊れ物のように扱い、決定的な一線を越えようとしない。
ほんとうにその気がないのかと、失礼な確認をしたこともあるが、たしかに俺と同じものはついているようだった。じゃあ俺の容姿がだめなのか、そそるものがないのかとも思ったが、そうでもないらしい。彼が時折こちらに熱のこもった視線を向けていることを、俺は知っている。
大事にされているのはわかる。だが、これではあまりに物足りない。俺たちはもう、守られるだけの生徒と導く教師という関係ではないのだ。
そんな焦燥から、俺は再びあの忌まわしい代物に手を出した。
学生時代の、あの詰めの甘い出来ではない。材料を厳選し、理性の壁だけを都合よく溶かすよう改良を重ねた特製品だ。おぼろげな記憶を頼りに作った割には、まあまあの出来ではなかろうか。まだまだ俺も捨てたもんじゃないなと自画自賛する。
実際の効果のほどは、自分で試すわけにもいかないのでわからないが、問題はないはずだ。
今回は分量も徹底して計算した。空気が煮詰まる前に燃え尽きるだけのわずかな量。かつ、俺は煙の道筋から外れた位置に陣取っている。俺が吸い込む心配など、万にひとつもありはしない。
久しぶりに訪ねてきたベレトを自室に招き入れ、俺はさりげなく香炉に火を落とした。
紫煙が室内に満ちてゆく。向かい合って杯を傾けていた彼のまばたきが、次第にゆっくりとしたものに変わる。
やがて身を乗り出し、俺の肩に額をすり寄せてきた。見上げてくる瞳はとろりと潤み、警戒心など欠片も残っていない。目論見通りだ。
無防備に身を委ねてくるその頬に触れようと手を伸ばし、俺ははたと動きを止める。
指先が触れる直前で、たまらない罪悪感が胸を突いた。相手の意思を薬でゆがめ、無理やり引きずり出すような真似が、果たして俺たちの関係にふさわしいのか。
急に己の卑怯さが恐ろしくなり、伸ばしかけた手を引っ込める。今日はもう休んだほうがいいだとかなんとか、そんな紳士的な台詞を並べて立ち上がろうと、腰を浮かせた。
だが、俺の衣の裾を握る指がぐんと力を持った。無理やり振り払おうと俺も手を重ねるが、伝わってくる確かな体温に、わずかに指先が躊躇う。
視線を落とせば、濡れた瞳が絡みつくようにこちらを捕らえていた。突き放そうとする意志が、呆気なく音を立てて崩れ去る。
ずるい男だ。こんな顔をされては、大人しく背を向けるなんて真似ができるわけがない。これまでいじけるようにして押し込めてきた独占欲が、一気に堰を切って溢れ出してくる。何もかもをこの甘い煙のせいにして、ただ目の前の男を奪ってしまえと、浅ましい本音が俺を唆した。
据え膳食わぬはなんとやら。せっかく相手の理性の枷が外れかけているのだ。このまま俺が主導権を握って、最後まで面倒を見てやればいいだけの話じゃないか。柄にもなく緊張してしまい、首筋に汗が伝う。
短く息を吐き、俺は逃げかけた足をとどめて再び座り直す。
「わかった、俺も腹を括るよ。やさしくする」
己に言い聞かせるようにつぶやき、今度こそベレトの肩に手を伸ばす――まではよかった。それから視界が、大きく反転した。
気づけば、俺は背中から寝台に叩きつけられている。
逃がさぬように腰を強く抱き寄せられ、細身でしなやかな身体が上から覆い被さってきた。
手首を乱暴に押さえつけられ、俺は息を呑む。どうにか抜け出そうともがいてみるものの、的確に重心を奪われているせいでびくともしない。士官学校時代、あの甘い香りのなかで腕の中に倒れ込んだ時の記憶が蘇る。
だが、今回は骨が軋むほど容赦のない力だった。あのときはあれでもまだ、手加減をしてくれていたらしい。そんなどうでもいい驚きが脳裏をよぎった。
先ほどまでの甘く緩んだ空気はどこにもない。彼の瞳の奥で、昏く重い情念が渦を巻いていた。
「怖がらせまいと思って耐えてきたのに……君という男は」
鼓膜を震わせる低い声。汗で張り付いた髪から覗くこめかみには、うっすらと青筋が浮いている。
そこに含まれていたのは、香で引き出された親愛などではない。俺を傷つけまいと必死に己を律してきた気遣いを、つまらない小細工で無下にされたことへの、静かで、行き場のない怒りだった。
背筋を粟立つような感覚が駆け抜ける。俺はとんでもない思い違いをしていた。あの紳士的な態度は、彼のひたむきな努力の賜物だったらしい。
やさしくする、などとどの口が言えたのか。濡れた瞳ですり寄ってくる相手に、軽い気持ちで手を差し出したつもりだった。けれど、こちらが見誤っていただけで、相手はずっと牙を伏せていたのだ。
抗議の声を上げる隙もなく、降ってきた唇に塞がれる。思考の端から白く溶け落ちてゆく中、不意に唇が離れ、耳元で掠れた声が囁かれた。
「……ところで、窓は開けなくていいのか」
そのひと言に、全身の血の気が引いた。まずい、ほんとうにまずい。
かつて、俺が自作の香で骨抜きにされた時の顛末を、この男はしっかりと覚えていたのだ。燃焼時間を計算したところで、部屋にはまだわずかな残り香が漂っている。換気もせずにこのまま組み敷かれれば、俺もまたその残滓を肺の奥まで吸い込むことになる。
剥き出しの執着と、したたかな光。至近距離で見つめてくる瞳には、はっきりとそれが宿っていた。主導権など最初から俺の手にはなかったのだ。
顔を真っ青にする俺を見下ろしながら、ベレトは嫌味なほどきれいな顔で笑ってみせた。