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【旧版】長い夢を見て(レトクロ)※死亡表現有

全体公開 レトクロ 42021文字
2026-03-24 16:22:22

無双(赤焔/ベレト未加入ルート)軸で、EP.7~EP.14の要素を拾いつつ、クロードがあの決断を下し、終わりを迎えるまでの空白を埋めるお話。
この【旧版】はクロード個人の感情をより強く出したものです。【改稿版】とは大筋や結末は変わりません。

【補足】
・流血表現があります。
・作中の台詞を一部引用していますが、文脈に合わせて改変しているものもあります。
・作中の展開を一部改変しています。
・過去作である『星海をたどって』および『一番星』の要素を、今作の構成に合わせて一部改変し、物語に織り交ぜています(大筋の展開は共通しています)。
・ふたりの関係性の変化に焦点を当てているため、同盟側の細かな情勢や盟約の経緯などは省略しています。

Posted by @Bombwooo

 磨き上げられた木の床に、目を引くほど鮮やかな黄色の敷物。肌触りのよさそうな緞子張りの長椅子に、細かな細工の入った壺や皿。本来なら、張り詰めた気をひとときゆるめるための部屋なのだろう。
 だがいまの執務室は、そんな面影もないほど重く沈んでいた。
 クロードは卓上の地図に目を落としたまま、わずかに眉を寄せる。
 ふいに、厚い窓の隙間から冷たい潮風が滑り込み、室内の澱みをかき混ぜた。積み上げられていた報告書の束が揺れ、数枚が床の敷物へ落ちる。
 何もかもがうまく噛み合わない気がした。
 領主の嘆きも、物資の催促も、捨て置けるものではない。そうわかっているのに、読んだところで何になる、と考えてしまうあたり、ずいぶん気が滅入っているらしい。
 煩わしげに羊皮紙へ手を伸ばしかけて、ふと指先が宙に残る。
 散らばった一枚に、視線が吸い寄せられた。王国領との国境付近の動きを知らせる、ごくありふれた偵察の記録だった。だが、そこに記されたひとつの傭兵団の名と、その異名だけが、沈みきっていた思考を急に引きずり起こした。
……ジェラルト傭兵団、ね」
 拾い上げた紙の文字を声でなぞりながら、クロードは机上の地図へ向き直る。ミルディン大橋の上に置かれた黄色の駒を、所在なげに指先で弄んだ。
 グロスタール伯が、面従腹背の策で帝国から大橋を奪い返した。そこまではよかった。
 だが、地図の上の黄色い駒は、いまにも無数の赤に呑まれそうになっている。
 エーデルガルトもそこまで甘くない。王国攻めの手を止めてでも、孤立した自軍を救おうとするだろう。皇帝自ら向かってくる可能性もじゅうぶんにある。
 そのうえ、いまこの地で包囲している敵将は、帝国一の武人と名高いベルグリーズ伯だ。どれだけ策を弄しても、あの圧倒的な武を押さえ込みながら皇帝直属軍の猛攻まで凌ぎ切るには、いまの同盟軍では根本的に力が足りない。いまの優勢など、薄い氷のようなものだ。砕かれるときはあっけない。
 迎撃のためにかつての級友たちを呼び寄せてはいるものの、彼らが帝国側についた相手を前に、どこまで非情になりきれるかはわからない。
 いや、そんな役目を押しつけている時点で、薄情なのは自分のほうだろう。そう思うたび、胃のあたりがざわつく。
 情に流されず、それでも戦そのものをひっくり返せるだけの力がいる。『灰色の悪魔』の文字を見た瞬間、沈黙していた盤面が、わずかに動く気がした。
「誰でもいい! すぐに動ける使者を呼べ! 相手は――
 勢いよく執務室の扉を開き、廊下に控えていた近習へ鋭く命じる。
 慌ただしく遠ざかってゆく足音を背中で聞きながら、クロードはふたたび地図へ向き直った。机の隅に転がっていた灰色の駒をひとつ掴み取り、赤い駒の密集する大橋の真ん中へ、力強く打ち込む。硬い音が、重苦しい室内に響いた。
 情を挟まない、金と契約だけで結ばれるつながりだった。それこそが、情に引きずられて身動きが鈍りかけているいまの自分には、何より都合がよかった。
 張り詰めていた肩からわずかに力が抜けて、口もとに残っていた強がりも消える。盤面の真ん中に置いた灰色の駒を指の腹でなぞりながら、クロードはようやく息をつく。
 帝国のような盤石な主従関係も、王国のような騎士道という名の結びつきも、寄せ集めの同盟にはない。信じられるものは、もともと多くなかった。
……結束がなくたって、勝てるならそれでいい」
 そう口にすれば、まだ手が残っているのだと思えた。


 かつて黄金の波がどこまでも続いていたリーガン領の穀倉地帯は、いまや見る影もなく焦土になっていた。のどかに回っていたはずの風車は焼け落ち、黒い骨組みだけを晒している。実りを運んでいた風も、いまは嫌なにおいばかりを運んでくる。
 幾万もの軍靴と馬の蹄に踏みにじられた農地は、やわらかな土の感触を失い、痩せ細っていた。固く冷えた大地が、遠くでうごめく不吉な振動を足裏へじかに伝えてくる。
 本陣から戦場を見下ろしていたクロードは、足元から這い上がってくるような鈍い地鳴りに、忌々しげに目を細めた。
 視界の先では、土埃にまみれた伝令兵が馬を乗り潰すような勢いで駆け込んでくる。悲鳴のような報告が届くより早く、クロードの眼は、地平線をどす黒く染める新たな軍勢の姿を捉えていた。
「報告! 第一防衛線、突破されました! 猛将ベルグリーズ伯の軍勢に合流する新たな影……あれは、皇帝直属軍です!」
……皇帝自らお出ましってわけか。嫌な予感は当たるもんだな」
 血を吐くような伝令の声を、クロードはひどく淡々と受け止めた。だが、握りしめた拳はわずかに軋んでいる。ベルグリーズ軍を包囲し、孤立させて叩く。そう組んでいたはずの算段が、皇帝の襲来ひとつで足元から崩れようとしていた。
 息をつく間もなく、次の伝令兵が陣幕へ転がり込んでくる。同盟軍の将として前線に立っていたラファエルやマリアンヌ、そしてリシテアまでもが、次々と帝国側へ降伏したという報せだった。
……そうか」
 返事は短かった。怒りも失望も表には出ない。ただ、そのひと言の底に、深い受容だけが残る。戦のなかで無惨に命を散らされるよりは、武具を捨ててでも退いてくれたほうがいい。戦力を削られた痛手より、彼らが生き残る道を選んだことへの安堵のほうが、ひそかに勝っていた。
 地上から届く報せだけでは、目まぐるしく変わる戦のかたちを掴みきれない。クロードは一時本陣を離れ、相棒の飛竜の背に跨った。
 重い空へ舞い上がり、上から見下ろしたリーガン領は、目を背けたくなるほどひどい有様だった。防衛線は圧倒的な帝国の真紅に塗り潰されようとしている。視界の端には、帝国軍の退路を塞ぐべく待機しているジェラルト傭兵団の姿があった。彼らを動かすべきときは、もうすぐそこまで来ている。
 戦火の只中へ視線を巡らせると、最前線で奮闘する桃色の髪が目に飛び込んだ。ヒルダの率いる部隊が、異様な身のこなしで戦場を駆けるシェズをはじめとする帝国軍の猛攻に晒され、孤立しかけている。
 これ以上踏みとどまれば致命傷になる。クロードは飛竜を急降下させ、風を切り裂くようにして退くよう命じた。
「ヒルダ! 退いてくれ! いま、お前まで失うわけにはいかないんだ!」
 ただならぬ声色を聞きつけたのか、日ごろならわがままを口にするヒルダも反論せず、素早く部隊をまとめて後退してゆく。
 彼女の離脱を見届け、本陣へと急ぎ戻る。だが、出迎えたのはさらに悪い報せだった。
「ベルグリーズ伯の包囲網、完全に崩壊! 敵将は退くどころか、防壁を破壊し、道なき道をこちらへ向かってきます!」
 罠も地形の利もものともせず、ただ武だけで障害を叩き砕き、総大将の首を狙って一直線に進んでくる。戦場の理を根こそぎ踏みにじるような暴力だった。
 迫り来る死地の気配に、クロードは奥歯を強く噛み締める。手元の札は、もうほとんど尽きかけていた。
……伏せていたジェラルト傭兵団へ、進軍の指示を出せ」
 鋭い声で伝令を走らせ、クロードは瞬きもせず激戦の地を睨みつける。退路を塞ぐジェラルトたちとはべつに、放たれたベレトが単騎で猛将ベルグリーズ伯の足止めに入ったという報せが届くのと、本陣の堅牢な門のすぐ向こうから敵兵の鬨の声が響き渡ったのは、ほとんど同時だった。
 最強の盾は猛将の足止めにこそ成功したが、崩れた防衛線の穴から雪崩れ込んできた帝国の別働隊が、すでに本陣を包囲しきっている。
 もはやこれまでだった。誰の目にも明らかな敗北。それでもクロードは、逃げ支度を始めるどころか弓を担ぐ。
「門を開けろ。俺が出る」
「め、盟主様! なりませぬ、ここはひとまず籠城を――!」
「この期に及んで籠城に何の意味がある? 壁ごと粉砕されて終わりだ」
 悲鳴を上げる近習を冷たく制し、クロードは相棒の飛竜を呼び寄せる。ここでむざむざと全滅を待つくらいなら、自分が前へ出て、敵の勢いを少しでも削る。それが、生き残った兵を逃がすための、いまできる最善だった。
「頼んだぜ」
 真珠のような首筋を軽く叩けば、呼応するように飛竜が喉を鳴らす。砂埃が激しく舞うなか、重い音を立てて本陣の門が内側から開け放たれた。
 その向こうに待ち受けていたのは、先ほどヒルダを退けたシェズだった。
「大将自らお出ましとはな!」
 異様な闘気をまとった刃が、凄まじい速さでクロードへ肉薄する。飛竜の機動力を活かし、上空から矢を浴びせて間合いを保つつもりだった。だが、シェズの動きはその目算をことごとく裏切った。
 獣じみた勘で矢をくぐり抜け、立体的な動きで距離を詰めてくる。双剣の連撃に、クロードは咄嗟に腰の剣を抜き、応戦せざるを得なくなる。
 激しい金属音が鳴り、視界に火花が散った。
「お前か? 俺の計算を散々に狂わせてくれたのは」
 重い一撃をどうにか受け流し、クロードが忌々しげに口の端をゆがめる。対するシェズは、不敵な笑みを浮かべたまま双剣を押し込んできた。
「さあな、俺は傭兵だ。とりあえず、お前を手柄にさせてもらうぞ!」
 計算通りに事が進んでいれば、こんな泥臭い白兵戦に持ち込まれるはずはなかった。理屈の通じない戦いに振り回され、クロードの息はみるみる上がってゆく。執拗に迫る刃を躱しきれず、鋭い剣先が腕の籠手を砕き、その下の肉を浅く裂いた。
……っ」
 腕から滴る鮮血が、土埃にまみれた大地に黒い染みを作る。己の限界と、これ以上の戦線維持は不可能だと悟るにはじゅうぶんすぎる痛みだった。
「ここまでみたいだな」
 荒い息を吐きながら、クロードは飛竜の身を翻し、空高く舞い上がる。眼下でなお激しくぶつかり合う戦地へ向けて、ありったけの声を張り上げた。
「すまないが、あとは任せたぜ、凄腕の傭兵さん!」
 その叫びを合図にするように、同盟軍の全軍撤退を命じる銅鑼の音が鳴り響く。
 飛竜の背から地上を見下ろすと、帝国一の猛将を相手に激しく打ち合っていたベレトが、ふいに剣を振るう手を止めるのが見えた。
 圧倒的な武を誇るベルグリーズ伯を相手にしながらも、その動きに押し負けている様子はない。むしろ、拳の軌道を読み、どうにかして打ち倒そうとする揺るぎない気配すらあった。
 ベレトが呆気に取られたように上空を見上げた直後、戦場の喧騒を裂いて、ジェラルトの野太い声が響く。
「おい、そっちは任せた。俺たちは撤退した帝国軍を追う!」
 退路をふさぐ役目へ戻ってゆく団長の背中と、目の前に迫る猛将。そして、空高く逃げてゆく飛竜。容赦のない指示で逃げ道を断たれた男は、理不尽な殿を押しつけられた苛立ちを隠しもせず、頭上をきつくにらんだ。
 砂ぼこりと血のにおいが立ちこめる戦場の隅で、まだ冷めない怒りを孕んだ視線と、諦めを宿した盟主のまなざしが、ほんの一瞬だけ交わった。

 撤退のために設けられた急造の野営地は、重苦しい空気と血のにおいに支配されていた。
 負傷兵たちのうめき声が絶えないなか、クロードは天幕の外に立ち尽くし、燃え広がる故郷の空を眺めている。裂かれた腕は布で乱雑に縛ってあるものの、焼けつくような痛みが、敗戦という取り返しのつかない現実を、嫌でもからだに教えてきた。
 王を戴かない寄せ集めの共同体。親帝国派と反帝国派に割れようと、離反そのものが罪になることはない。大国に踏みにじられないための柔軟な生き残り方こそが、同盟の利点であるはずだった。
 けれど、フォドラの閉ざされた壁を壊すという途方もない夢を叶えようとすれば、その緩さこそが足かせになる。諸侯をひとつの槍のように束ね、どうにか戦局を覆そうとした果てが、目の前のこの有様だった。
……毎日毎日、俺のせいで人が死んでいく。この悲惨な現実を見ていると、はじめから、おとなしく帝国に従うべきだったって考えちまうよな」
 背後に近づく気配を感じながら、クロードは低くこぼす。隣に並んだヒルダは、煤と泥に汚れた顔で首を横に振った。
「でも、すんなり降伏なんてしたら、父さんたちが黙ってないでしょー」
 日ごろの甘えた調子を潜めた声が、夜気のなかで妙に澄んでいた。
「王様がいないからこそ、諸侯は自分の領地と面子がいちばん大事。口でどれだけ帝国の恐ろしさを説いたところで、納得するわけないもんねー。だから一度全力でぶつかって、ほんとうに手も足も出ないんだって見せるしかなかった。……でしょ?」
 クロードは思わず息を呑む。
 自分の腹の底にしまい込んでいたものを、ヒルダはまるで最初からそこにあった事実みたいに口にした。
……お前には敵わないな」
 自嘲気味に息を吐き、クロードはヒルダへ向き直る。張り詰めていた盟主の顔が、ほんの少しだけほどけた。
「無茶な戦いを強いて、すまなかった」
「ううん、クロードくんが謝ることじゃないよ。でも、すっごく疲れたし、お肌も荒れちゃった。デアドラに戻ったら、とびきり甘いお菓子をごちそうしてよねー」
 冗談めかして笑うその気丈さに、クロードも小さく息をつく。
 楽になった気がした。
 そう思うこと自体、あまり褒められたものではないのかもしれない。それでも、こうして隣に立ってくれる人間がいることまで、なかったことにはできなかった。
 生き残った者たちを連れ帰り、このいびつな世界で次の一手を打たなければならない。裂かれた腕を反対の手で押さえ込みながら、クロードはふたたび、血煙に霞む空へ視線を向けた。
 軍医の手当てを終え、ようやく血のにおいから解放された腕を抱えながら、クロードは夜の野営地を歩いていた。裂けた肉はひとまず縫い合わされ、白い布が巻かれている。水上の都へ帰り着くまでの、かりそめの処置だ。
 重い足取りのまま天幕のあいだを抜けると、ふと視界の端で、見慣れたはずの影が夜気に揺れた。
 少し離れた倒木に腰掛け、ひとりで剣の刃こぼれを見ているベレトの姿だった。傭兵団での反省会を終えたばかりなのだろう。焚き火の明かりの加減か、伏せた横顔のあたりが妙に淡く見えたが、クロードはその違和感を深く考えないまま歩み寄る。足音を忍ばせて近づいた気配に気づくと、彼は何も言わずに顔を上げ、その視線をすっとクロードの腕へ落とした。
 その目の意味を考えたくなくて、クロードは何食わぬ顔で外套の下へ傷を隠す。ただ、それで済むなら、もう少し早く自分の天幕へ戻っていたはずだった。
 パルミラとフォドラ。相容れないふたつの血を引いて生まれたせいで、子どものころから悪意には事欠かなかった。ただそこにいるだけで疎まれ、憎まれ、蔑まれることも少なくはなかった。
 だから人を疑うことだけは、ずっと上手かった。向けられる笑みの裏に刃を探し、踏み込まれる前に距離を取る。そうしてやわらかいところを隠す癖ばかりが身について、気づけば盟主という孤独な椅子に座っている。
 考えたところでどうにもならないことばかりだ。それなのに、なぜかこの男の前に立つと、そういう余計なことが頭をもたげてくる。
 同盟の窮地を問うことも、敗戦の将へ安っぽい同情を向けることもない。そのまなざしには、他人がクロードへぶつけてくる感情も打算も浮かんでいなかった。
 ただ、そこにあるだけの空白だった。
 誰も信じられず、誰の言葉にも裏を見てしまうこの血なまぐさい場所で、それだけが不思議と息をつかせた。
 こわばっていた心が、知らぬ間に少しずつほどけてゆく。気づけば、引き寄せられるように彼のそばまで歩み寄っていた。
……負けちまったな」
 血を吐くような政治の算段も、作りものの笑みも抜け落ちた、ただの泥臭い徒労感だった。同盟の仲間たちには決して見せられない弱音を、何の警戒もなく口にしてしまう。
 隣に立つ雇い主へ、傭兵は慰めの言葉をかけるでも、自虐を打ち消すでもなかった。ただ、遠くで薪の爆ぜる音に混じって、平坦な声がひとつ落ちる。
……ああ」
 肯定も否定もない。ただ目の前にある事実だけを受け取る、短いあいづちだった。
 その感情の薄い響きに身を預けるようにして、クロードは夜の闇へ向かって長く息を吐き出した。


 帝国軍との激しい衝突から撤退し、同盟軍は水上の都デアドラへと帰り着いた。城館を包む空気は、敗戦の重苦しい泥濘に深く沈んでいる。
 けれど、クロードの寝室だけは、窓の隙間から滑り込む夜の潮風と、卓上に置かれた灯の橙が、外の喧騒からわずかに切り離された静けさを保っていた。
 寝台に腰掛けたクロードは、自身の腕を疎ましそうに見下ろす。そこへ、控えめながらもためらいのない戸を叩く音が響いた。
……夜分にすまない」
 返事を待つこともなく扉を開けて入ってきたのは、ベレトだった。
 そこでクロードは、ようやく気づく。戦場では土と血に濁って見えた髪が、いまは灯の下で、はっきりと淡い翠に変わっていた。
……その髪、見間違いじゃなかったんだな」
 思わずこぼした声に、ベレトはわずかに顔を上げたが、それには答えず、ひどく硬い表情のまま立ち尽くしている。
……すまなかった」
 唐突な謝罪に、クロードは怪訝に眉を寄せた。
「いきなりどうした。負け戦だったとはいえ、あんたが謝るようなことは何もないはずだが」
「自分は、君の期待に応えられなかった」
 ベレトは顔を上げ、まっすぐにクロードを見据えた。
「自分たちは今後の身の振りを決めかねていた。そんな時に拾ってくれた君には、相応の働きで恩を返すつもりだった。必ず結果は出す、期待していてくれと、そう約束したのに」
 己の言葉を噛みしめるように、声音がわずかに沈む。
「帝国の将を討つことができなかった。そのうえ、雇い主である君にあのような無茶をさせ、結果として傷まで負わせてしまった。とんでもない失態だ」
 その言葉に、クロードは心底面食らったように目を瞬かせた。
 傭兵といえば、もっと損得勘定に敏い生き物だと思っていた。戦局が劣勢と見れば雇い主を見捨てる者もいるなかで、軍全体の敗北や雇い主の負傷にまで自ら責を負おうとする人間など、聞いたことがない。
「本気でそれを悔やんで、わざわざ俺のところまで来たのか」
「ああ。……それと」
 そこでベレトは言葉を切り、野営地でも見つめていたクロードの腕へ、ふたたび鋭い視線を落とした。
「君の立ち回りにも、大いに疑問がある」
……は?」
「野営地では言わずにおいたが、敗色が濃厚と悟りながら、君はなぜ自ら門を開け、敵を迎え入れた? まさかとは思うが、自らの命と引き換えに彼を道連れにするつもりだったのか」
「おいおい、さすがの俺もそんなつもりは」
「いくらなんでも無謀すぎる。あのような真似をしなければ、その腕の傷は負わずに済んだはずだろう」
 純粋な疑問と、よどみない正論を織り合わせての追及に、クロードは思わず背を丸めてしまう。
 報酬への不満でも、殿を任されたことへの怒りでもない。この得体の知れない不機嫌は、雇い主の身を案じるがゆえの、まっとうな抗議だった。
「待て待て、謝りに来たのか説教しに来たのか、どっちなんだよ」
「謝罪と、事実の確認だ。殿を任された以上、雇い主に自死のような真似をされるのは困る」
 一歩も引かずに言い切る姿に、クロードは観念したように息を吐き、それから引きつった笑いを漏らした。
「そうだな。いま考えると、とんでもない無茶をした。……悪かったよ。後ろにあんたたちがいると思って、妙に気が大きくなっちまったのかもしれないな。いざとなれば、あんたたちがどうにかしてくれるってさ」
 冗談めかした口調の裏に貼りついた本音。それを聞いたベレトは、小さく息を呑んだ。言葉が途切れ、しばらくしてから、低い声が落ちる。
……君は、ひどく矛盾しているな」
「どういう意味だ」
「交渉の場でも、ずっとこちらを警戒していただろう。ジェラルトも言っていた。君は本心を隠して笑う、食えない男だと。だから自分たちのことも、いざとなれば容易に切り捨てる手駒としか見ていないのだろうと思っていた」
 淡々と、しかし妙に素直な腹の内に、クロードは苦笑を漏らす。
「疑り深いくせに、雇ったばかりの自分に殿を任せ、命を預ける。君への見方が変わったかもしれない」
「俺はずっと、わかりやすい善良な雇い主のつもりだったんだがな」
 いつものように肩をすくめてみせると、ベレトは表情を変えないまま、まっすぐ告げた。
「殿でも先陣でも、自分のことは好きに使うといい。その代わり、次の戦いでは決してあのような無茶はしないでくれ。……今度こそ、結果を出してみせる」
 抑揚のない声だった。けれど、その起伏の薄い響きの底には、夜気に溶けるような不器用なやさしさが確かにあった。何の打算もない気遣いを正面から向けられて、クロードはほんの少し戸惑ったように目を瞬かせる。
……ああ。頼りにしてるぜ、凄腕の傭兵さんよ」
 ベレトはそれ以上何も言わず、音もなく扉を閉めて出ていった。
 その背を見送ったあとで、クロードはふと、まっすぐ案じられたばかりの腕へ手をやる。
 王国領を追われた彼らが同盟領に流れ着いたと聞いたとき、いち早く接触を図って雇い入れたのは正解だった。もし帝国に先を越されていたら。あるいは、あの灰色の悪魔と正面から戦うことになっていたら。想像しただけでぞっとして、傷の痛みなど一瞬で遠のいた。
 なのに、こうして言葉を交わしてみれば、戦神のような武を誇る男が、たかが一度拾われた程度の恩義を律儀に返し、あげく、雇い主の命を案じて説教まで垂れる始末である。
……腹の探り合いをするだけ無駄か。まったく、どうにもならない生き物だよ」
 夜の海風に溶けたその独り言は、敗戦の夜には似つかわしくないほど、ひどく穏やかな響きを帯びていた。

 帝国軍の主力が王国へと矛先を転じたことで、同盟領にはひとときの平穏が訪れていた。張り詰めていた空気が、ほんのわずかにゆるんだある日の昼下がり。中庭で軽く肩を回していたクロードの前に、ふらりとベレトが姿を現す。
「怪我の具合はどうだ」
「ん? ああ、ベレトか。おかげさまで、もうすっかり――
 笑って振り向こうとしたクロードは、その途中でわずかに動きを止めた。眉間にごく薄く皺が寄っていて、明らかに機嫌がいいとは言えない顔をしている。
「なんだ、その顔は」
……自分でもわからない。ただ、どうにも釈然としない」
 その言い方で、クロードにもなんとなく合点がいった。あの敗戦の夜から、こいつはまだ引きずっているのだろう。雇い主に傷を負わせたことも、自分が止めきれなかったことも、たぶんまとめて。
「あんた、割と根に持つ性格なんだな」
……そんなことはない」
「いや、だいぶわかりやすく不機嫌そうだけど」
 からかうように言うと、ベレトはますます口を真一文字に結ぶ。感情が薄いだの空っぽだの、勝手に恐れられていた男が、こういうところでは妙に素直だ。クロードは吹き出しそうになるのをどうにかこたえた。
「まあ、安心してくれ。傷は大したことない。むしろ休んでたせいで身体が鈍っちまってな。ちょうど少し動かしたかったところだ。よかったら、手合わせに付き合ってくれないか」
……構わない」
 あっさりうなずきはしたものの、その視線にはまだためらいが残っている。
「なんだその目は。さては俺のこと、戦いもろくにできないひ弱な盟主だとでも思ってるな?」
「そういうわけでは……いや、少し思っているかもしれない」
「おい、そこは否定しろよ」
 どこまでも正直な返しに、クロードは呆れたように肩をすくめた。怪我人への気遣いも分からなくはないが、これでも戦乱を渡ってきた盟主である。
「手加減なんかしたら承知しないからな」
……了解した」
 今度ははっきりと、ベレトの顔からさっきまでの渋さが消えていた。そのかわり、静かな闘志だけがまっすぐに宿っている。
 修練場の一角で、クロードは手元の弓を引き絞り、向かい合う灰色の悪魔の動きをじっと見据えた。
 空気を裂く音とともに、放たれた矢が次々とベレトの足元や肩口をかすめる。狙っているのは急所ではない。ただ射るための矢ではなく、相手の足を鈍らせ、間合いを縛るための牽制だった。
 絶え間なく降る矢のなかで、ベレトは一瞬だけ足を止めた。何かに気づいたようにクロードを見て、それから動きを変える。真正面から距離を詰めるのをやめ、付かず離れずの位置を保ちながら円を描くように動きはじめた。つぎの瞬間、剣を振るうと見せかけて、空いた左手をクロードへ向ける。
 視界の前で、火が弾けた。
 熱と煙が一気に押し寄せる。闇雲に撃った魔道ではない。目くらましだ。
「へえ、真正面からぶつかってくると思ってたが、案外知恵が回るじゃないか!」
 煙に視界を奪われながらも、クロードは皮肉まじりにそう言った。ただ剣を振り回すだけの兵ではない。相手の思考を見て、手を変えてくる。そのことが、かえって面白かった。
 それならこちらにも考えがある。
 煙が晴れた時には、目の前にすでに剣を振り下ろそうとするベレトの姿があった。
……勝負あり、だな」
 低く沈み込んだクロードの声に、ベレトの剣が肩先まであと数寸のところで止まる。いつの間にか身を低くして軌道を外していたクロードは、下から覗き込むような格好で、番えた矢の鏃をベレトの頬へぴたりと突きつけていた。実戦なら、剣が落ちるよりわずかに早く、頭まで貫いている距離だった。
……ああ。自分の負けだ」
 ベレトは剣を下ろし、短く息を吐く。接近戦に持ち込めば仕留められると踏んでいたところを、逆に取られたかたちだった。
「君への認識を、また少し改めないといけないな」
 その言葉に、クロードは弓を下ろし、人懐っこい笑みを浮かべる。
「だろ? 俺はあんたが思ってるより、ずっと頼りになる雇い主なんだぞ」
 軽口のつもりだった。呆れたため息でも返ってくるかと思っていたのに、ベレトはすぐには何も言わなかった。
 ただ、あの夜の寝室でそうしたように、クロードの顔をしばらく黙って見つめていた。
……なんだよ、その間は」
 怪訝そうに睨むと、ベレトはごく小さく顎を引いた。
……そうだな」
 あまりにも起伏のないあいづちだった。神妙なのか、ただ考えていないのか、それとも面倒になって合わせただけなのか、クロードにはよくわからない。
「あんた、適当にうなずいてるだろ」
「そんなことはない」
 間髪入れず返ってくる声が妙に滑らかで、ますます調子を狂わされる。
……あんたのそういうところ、ほんとやりづらいなあ」
 苦笑して、クロードは頭の後ろで腕を組んだ。
 そのやわらかな空気が破られたのは、すぐあとのことだった。中庭の入り口へ、血相を変えた伝令兵が転がり込んでくる。
「ご、ご報告いたします! ゴネリル家より急使! パルミラの軍勢がフォドラの喉元へ到達! 同盟領への侵攻を開始したとのこと!」
 悲鳴めいた報告が響いた瞬間、クロードの顔から一切の笑みが消えた。
 東からの強襲。その指揮を執っているのが誰なのか、直感だけで分かってしまう。己の血筋のことを、ひどく厭わしく感じた。短く応じ、執務室へ向けて踵を返そうとした時、横にいたベレトが手短に口を開く。
「ジェラルトに伝えてくる」
 それだけ言い残して、灰色の悪魔は足早に中庭を去ってゆく。クロードには、その背を見送る余裕すらなかった。


 執務室は、帝国軍との敗戦の夜とはまた違う、焦りと緊張に満ちていた。
 卓上の地図を囲むように、不安げな面持ちのヒルダやレオニー、それに同盟の領将たちが集まっている。
「兄さんはいま、かき集められるだけの兵を連れて防衛の準備にあたってるけど……
 ヒルダが地図の東端を見つめながら、重い声で言った。
 先の激戦で、同盟軍の兵力は大きく削られている。そこへ、好戦的で機動力にも優れた異国の軍勢が雪崩れ込んできたとなれば、防衛線が食い破られるのも時間の問題だった。ここで同盟領を好きに荒らさせるわけにはいかない。けれど、迎え撃つ人手が足りない。
 クロードの脳裏に、つい先ほどまで向かい合っていた男の姿がよぎる。
 この窮地を凌ぐには、彼らの力が必要になるだろう。だが、ジェラルト傭兵団と結んだ契約は、あくまで帝国軍との戦いを前提にしたものだ。得体の知れない異国の軍勢との死地へ、彼らを引きずり込む筋合いはない。
 血も涙もない、金と契約でいつでも切れるつながり。情に絡め取られない、都合のいい手札を求めたのは、ほかでもない自分だ。そんなふうに割り切っておきながら、今さらどの口で、契約の外まで付き合ってくれと言えるのか。
 盟主としての打算と、妙に捨てきれない意地とが腹の底でせめぎ合った、その時だった。
 重たい扉が開き、ひとつの影が執務室へ入ってくる。
「すまない、遅くなった」
 現れたベレトは、息の詰まるような室内の空気に少しも気圧されることなく、まっすぐクロードのそばまで歩み寄った。
「ジェラルトに相談したが、団長代行である自分が同行するかどうかは、自分で決めていいと」
……あんた、」
 言葉を失うクロードを見据え、ベレトはいつもの調子のまま言う。
「本来なら、自分たちは帝国軍との戦いのために雇われている身だ。だが、先の戦いでは帝国軍を取り逃がし、そのうえ雇い主である君に傷を負わせた」
 そこでわずかに言葉を切る。
「傭兵として、汚名だけは返上しておきたい。自分たちでよければ、力になろう」
 淡々とした声音だった。義理立てとも、恩返しとも、少し違う。ただ、彼なりの筋を通した結果として、そこに立っているように見えた。
 金と契約だけの薄いつながりだと、そう思っていた。その境目を、この男は傭兵としての体面という理屈で、あっさり踏み越えてくる。
 胸につかえていたものが、少しだけ下りた。思ったことをごまかす余裕もないまま、クロードは短く息をつく。
……すまない。恩に着るよ」
 そう返して、いつものように飄々とした盟主の顔を作る。けれど、張っていた肩の力は、自分でもわかるほどに抜けていた。
 出陣の刻が迫るデアドラの城門前では、物資を積み込む音と、人の声と、獣の鳴き声が入り乱れていた。その喧騒の端で、クロードは自身の武具と携行食を確かめているベレトへ歩み寄る。
「出発の前に、もう一度礼を言わせてくれ。あんたが来てくれて、ほんとうに助かった」
 ベレトは振り返ると、少しだけ眉を寄せた。
「なぜ、そこまで感謝する」
「なぜって、同盟の危機を救うために、契約の外まで手を貸してくれるんだぞ。雇い主として……いや、ひとりの人間として礼を言うのは当然だろ」
「自分は傭兵としての汚名を雪ぐために同行するだけだ。それに、まだ戦果も挙げていない。過分な礼を言われる筋合いはない」
 理路整然と突き返されて、クロードは思わず短く吹き出した。
 謙遜や照れ隠しではなく、本気でそう言っている顔だった。向けられた好意の置き場がわからず、ベレトは荷袋の紐へ手を戻す。
 そういうところが、ひどくやりづらい。それでも、なぜか嫌ではなかった。

 東の国境にはフォドラの喉元を守る大要塞、フォドラの首飾りがある。
 一歩足を踏み入れると、帝国との戦線とはまるで違う、重くひりつくような緊張感がただよっていた。いつ巨大な城門が破られ、異国の軍勢が雪崩れ込んでくるかわからない。石造りの砦を行き交う兵たちの顔には、疲れと恐れが色濃く浮かんでいる。
 だが、その防衛の要である猛将だけは違った。
「よく来てくれた、盟主殿! ヒルダも元気にしていたか!」
 陣幕から現れたホルストの声は、この重苦しい空気をひと息で吹き飛ばしてしまうほど快活だった。最前線でパルミラ軍の猛攻を受け止めている男とは思えないほどの明るさに、クロードもわずかに気を引き締め直す。
 ホルストはクロードの肩を力強く叩いたのち、その後ろに控えていた影へ目を向けた。
「貴公が噂の灰色の悪魔か。帝国最強の武人と渡り合った腕前、ぜひ手合わせ願いたいところだが……今はそれどころではないのが惜しいな」
 対するベレトは、少しも気圧されず応じる。
「ジェラルト傭兵団のベレトだ。此度は遊撃として雇われている。よろしく頼む」
「うむ、頼もしい限りだ! 帝国軍とは勝手が違うが、存分に暴れてくれ!」
 豪快な挨拶もそこそこに、陣幕の中央へ広げられた地図のまわりへ将たちが集まった。
 ホルストが要塞の東から迫る無数の赤い駒を指し示す。
「敵の主力は、パルミラ名物の竜騎兵だ。相変わらず、常軌を逸した機動力で空から押し寄せてきている」
 レスターには弓を扱う者が多い。だが、広い空を駆け回る竜騎兵を相手に、普通の弓兵だけで制空権を奪うのは難しい。機動力の差は、そのまま致命傷になる。
「だから、弓兵部隊には要塞の防衛設備である大型の弓砲台と投石機を任せる。まずは空からの勢いを削ぐのが先決だ」
 クロードは駒を動かしながら言った。
「撃ち落とした、あるいは低く降りてきた敵は近接戦で叩く。ホルストさん、ベレト、アロイスさんの歩兵部隊。それから、ジェラルトさんとレオニーの騎馬隊も、地上での乱戦を頼めるか」
「承知した。地の利はこちらにある、好きにはさせん」
 歴戦の傭兵たちと猛将が力強くうなずく。その反応を見届けてから、クロードは視線を空域へ移した。
「俺とヒルダは飛竜で空へ出て、遊撃にあたろう。機を見て、俺が狼煙を上げる。それが一斉反撃の合図だ」
 狼煙というひと言の裏にある意味を、この場で正確に知っている者はいない。
 パルミラの将であるナデルとは、すでに水面下で話がついている。戦局が熟したところで彼と呼応し、パルミラ軍の勢いを内側から削ぐ手はずだった。同盟の要であるホルストたちにすら明かせない、危うい策だ。
「盟主殿の策があれば、パルミラの軍勢など恐るるに足らん!」
 ホルストが豪快に笑い飛ばす。その横で、クロードはいつものように人当たりのいい盟主の笑みを返す。けれど、その姿はどこか会話の熱から少しだけ離れていた。
 眼前に迫るのは、敵でありながら同胞でもある軍勢との戦いだ。そこへ深く踏み込んでゆくのを、自分でもどこかためらっている。
 その熱からほんの一歩だけ離れている自分を、見られている気がした。

 天空を覆い尽くす異国の竜騎兵へ向け、フォドラの首飾りに備えられた弓砲台と投石機がいっせいに火を噴いた。
 空気を裂く巨大な矢と、放物線を描いて降り注ぐ岩塊。数では劣っていても、同盟軍の防衛線は簡単には崩れない。対するパルミラ軍の動きは、どこか精彩を欠いていた。
 強行軍で兵站はとうに乱れ、将であるシャハドの苛烈な命令で無理やり死地へ押し出された兵たちに、本来の誇り高い戦意などもう残っていない。
 数の差を埋めて余りあるほどの練度と統率が、少しずつ戦場を押し返してゆく。
 上空ではヒルダの戦斧が敵の飛竜をつぎつぎ叩き落とし、クロードもまた、相棒の機動力を活かしながら風を読んだ矢で竜騎兵の急所を射抜いてゆく。指揮官としての目と、個としての腕とが、今はうまく噛み合っていた。
 上から見下ろした地上戦のなかで、クロードはふと妙な違和感を覚える。
 地上ではレオニーの騎馬隊が風のように陣形を裂き、ジェラルトとアロイスに率いられた傭兵団が歩兵を押し返している。けれど、その先頭を切るベレトだけが、本来の遊撃の役目を少し外れ、飛竜が旋回する真下の敵を優先して薙ぎ払っていた。つかず離れずの距離を保ちながら、無言のまま道だけを切り開いてゆく。
 怪我のことが頭にあるのかもしれない。そう思って、クロードは苦笑した。
 結局、好きにさせることにした。止めたところで聞くとも思えないし、いまはその気遣いがありがたくもあった。
 同盟軍の優勢が決定的になったのは、中天にひとすじの狼煙が上がった直後だった。
 それを合図に、パルミラ軍の一部が突然反旗を翻す。かねてより水面下で話をつけていたナデルの部隊が内側から牙を剥き、シャハドの軍勢は一気に崩れた。
 恐慌に陥った戦線を捨て、豪奢な民族衣装をまとった敵将が、わずかな護衛とともに崖へ逃れようとする。
 だが、その退路はすでに読まれていた。
 荒々しい岩肌を蹴って立ち塞がったのは、淡い翠の髪を風に煽られたベレトだった。迷いのない刃がひと閃きし、護衛の兵があっさり地に伏す。逃げ道を断たれ、断崖絶壁の縁へ追い詰められたシャハドが、憎々しげに顔をゆがめた。
 そこへ、巨大な翼が音もなく舞い降りる。
 飛竜の背から降り立ったクロードは、手にした弓をゆっくり引き絞り、己と血のつながった異母兄へ鏃を向けた。
「残念だよ、きょうだい」
 張り詰めた弦から、決別の一矢が放たれた。
 空気を裂く音のあと、矢はシャハドの胸を正確に貫いた。
 声にならない絶叫を漏らし、敵将の身体がゆっくり後ろへ傾いてゆく。千尋の谷底へ呑まれてゆくその姿を、クロードはただ黙って見下ろしていた。谷底から吹き上がる空風が、弓の弦を虚しく揺らす。
 フォドラに築かれた壁を壊し、隔たりのない世界を切り拓く。その途方もない野望は今、王の座へと続く道ごと崩れ落ちた。
 遠い星空へ手を伸ばすのをやめ、血の匂いの染みた大地へ根を下ろすことを選んだのだ。
 胸の奥で長く熱を持っていた渇きが、音を立てて砕ける。その欠片は、冷たい谷底へ落ちてゆく兄の身体とともに、もう手の届かないところへ沈んでいった。
 その残像から目を逸らすように、クロードはゆっくり振り返る。
 背後には、剣を鞘へ収めたベレトが立っていた。
 血を分けた兄を手にかけた動揺と、自分の手で夢へ至る道を断ち切った喪失感。込み上げるものを咄嗟に呑み込み、クロードはいつもの飄々とした笑みを顔へ貼りつける。
「悪いな、あんたたちにも手伝わせちまって」
 軽く言ったつもりだった。けれど、血の匂いの立ちこめる岩場を吹き抜ける風のなかで、ベレトのまなざしはまっすぐクロードを捉えていた。
……あの男は、もしかすると君の」
 珍しく、核心に踏み込んでくる問いだった。先ほど、ひとり零してしまった『きょうだい』という言葉を聞かれていたらしい。
 誤魔化すことはできた。いくらでも嘘はつける。けれど、この澄んだまなざしの前で、安っぽい作り話を並べる気にはなれなかった。
……誰にも言わないって、約束してくれるか?」
「ああ。約束しよう」
 迷いのない、きれいな声だった。
 何の確約もない、ただの口約束でしかない。裏切られれば、同盟の盟主としての立場さえ危うくなる。それでもクロードの胸は、その答えをほとんど疑いもなく受け入れていた。
 息を吐き、もう一度谷底へ目を落とす。
「あれは、俺の腹違いの兄貴なんだよ」
 決して明かしてはならない生い立ち。異国の血を引いているという、同盟最大の禁忌へ直結する告白だった。
 軽蔑されるかもしれない。あるいは、血縁同士の争いに巻き込まれたことへの追及を受けるかもしれない。身をこわばらせたまま、つづく言葉を待つ。
 だが、返ってきたのはあまりにも短いあいづちだった。
「そうか」
 それきり、風の音だけが通り過ぎる。ベレトはそれ以上、何も言葉を重ねない。その淡白さに、クロードは拍子抜けしたように瞬いた。
……それだけか?」
 間の抜けた声で問い返すと、ベレトは不思議そうに首をかしげた。
「それだけも何も、自分が踏み込むようなことではないからな」
 フォドラの常識にも、血筋という呪いにも、この男はひどく疎いのだと、その時あらためて思い知らされる。勝手に身構えていた梯子を外されたようで、クロードはしばらく呆然としていた。
 だが、その理屈の通らなさが、どうしようもなく救いだった。
 肉親を手にかけた罪悪感も、大義のために夢を折った痛みも、この男の前ではただ起きたこととして置かれる。張り詰めていた糸が少しだけゆるみ、自然と口もとが緩んだ。
「けれど、同盟軍に……君に、同行してよかった」
 何の飾りもない言葉だった。その響きに、クロードは胸の奥がざわつくのを感じる。
……ああ。ほんとうに助かったよ。あんたのおかげで、こうしてレスターを、フォドラを守ることができた」
 こみ上げそうになるものを押し戻しながら、どうにかそれだけ言う。するとベレトは、なぜか少し居心地が悪そうに視線を逸らした。
「君が秘密を明かしてくれたのなら、自分もひとつ、君に謝らなければならないことがある」
「なんだよ、あらたまって」
「君たちに同行すると決めたのは、自分ではない。ジェラルトだ」
 思いがけない告白に、クロードは目を丸くする。
「自分は契約外の戦いに出る必要はないと訴えた。だが、傭兵は信頼が大事だとジェラルトに言われた。たまには人助けも悪くないだろうと」
 そこで言葉を切り、ベレトは荒れた戦場を見渡した。
……それでもやはり、人助けの範疇はとうに超えていると思うが。ともかく、ここへ来たことについて、自分の手柄のように振る舞うのは不誠実だと思ったんだ」
 せっかく少しだけあたたまったものを、自分であっさり壊してしまうようなその律儀さに、クロードはしばらく言葉を失う。
 それから、喉のつかえを無理に押し流すような笑いを漏らした。
……あははっ。なんだよ、それ」
 秘密を共有してしまったことの、くすぐったいような感覚。兄を手にかけた冷たい喪失。その真逆の感情が胸の中でかき混ざり、息をするのも苦しくなる。
 笑っていないと、うまく立っていられそうになかった。
 断崖の上で、手で顔を覆いながら肩を震わせるクロードを、ベレトはただ黙って見ていた。


 東の国境を脅かしたパルミラ軍を退けてから、数週間。
 大きな戦こそないものの、同盟領内ではなお、小規模な賊の討伐や治安維持に追われる日々が続いていた。
 水上の都デアドラの夜は、戦のただなかにあっても静かなうつくしさを保っている。運河の水面が月明かりを淡く返し、潮風が波の音だけを運んでくる。クロードはひとり、水上へ張り出した外廊下の手すりに身を預け、張り詰めた思考を夜風に溶かすように、暗い海を眺めていた。
 波の音にまぎれて、背後で衣擦れの音が止まる。
 振り返らなくても、誰かはわかった。数時間前、廊下ですれ違った時に「今日の政務はもう切り上げる」と告げておいたはずの灰色の悪魔だ。
 あの敗戦の夜を経て、兄を射た断崖で秘密まで共有してしまってからというもの、この男は夜の城館を見回るたび、こうしてクロードの前に姿を現すようになった。
「ベレトか。遅くまで見回り、ご苦労さん」
 夜空を見上げたまま、クロードはどこか穏やかな気持ちで声をかける。
「なあ、前から思ってたんだが……あんたって、ほんとうに読めないよな。戦場じゃあんなに容赦なく敵を薙ぎ払うくせに、昼間は中庭でのんきに焼き菓子なんかかじってたりする。腹の底が見えないというか、案外かわいいところもあるというか」
……君のほうこそ、よくわからない人間だと思うが」
 低く落ち着いた声だった。
 振り返ると、歩みを止めたベレトがただこちらを見ている。月明かりに照らされた顔には、剣呑な色はない。
「俺が?」
「そうだ。他人の命は数に含めるくせに、戦場へ出れば平然と自分の命を投げ出すような真似をする」
「おいおい、あの日の無茶はもう手打ちになったはずだろ」
……それに、いまもそうだ」
 言いながら、彼のなかで燻っていたものがまた顔を出したらしい。みるみるうちに唇の端が下がり、はっきりと不機嫌そうな顔になる。
「数時間前、今日はもう切り上げて休むと言っていたはずだ。なぜこんな夜更けに、ひとりで風に当たっている」
「いや、これはちょっとした息抜きでだな」
「昨日も遅くまで起きていただろう。部屋に灯りがついているのが見えた」
 逃げ道を塞ぐように事実だけを積まれて、クロードは思わず言葉に詰まった。相手を観察するつもりでいた自分のほうが、よほど細かく見られていたらしい。
「そもそも、息抜きが必要なほど疲れていること自体が問題だ。……君は、」
 じわじわと語気を強めてくる気配に、クロードは咄嗟に両手を上げた。
「わかった、わかった。いますぐ寝る。寝るから、そこまでにしてくれ」
 さすがに必死さが出たのだろう。ベレトは一瞬だけ目を瞬き、それから少しだけ言い淀む。
……一傭兵が、雇い主に口を出すことではないかもしれないが」
 そこは一応、自覚があるらしい。
 いや、まったくその通りだ、とクロードは胸の内でだけうなずいた。普通なら、一介の傭兵が雇い主の睡眠時間にまで口うるさく言うなど、お節介にもほどがある。だが、ここでそれを口にしたところで、ますます理詰めで詰められる未来しか見えない。
 夜風にまぎれるように、ため息がひとつ漏れる。
 うまく立ち回っているつもりが、年相応の青さなどとっくに見抜かれている。のんきに菓子をかじるような人間らしさに気を許していると、こうして唐突に痛いところを突いてくるのだから、たまったものではない。
……はあ、わかったよ。あんたのそういう不機嫌な顔、俺にはこたえるから勘弁してくれ」
 苦笑まじりにそう言って、おとなしく寝室へ向かう。
 背に受けていた険しさが、音もなくやわらいでゆくのがわかった。

 デアドラでのそんな夜から、幾日かが過ぎた。
 同盟領内を荒らす賊の掃討へ赴いた、吹きさらしの平原。幾重にも連なる天幕の奥で、焚き火の爆ぜる音だけが夜の闇へ吸い込まれてゆく。陣営が深い眠りにつくなか、クロードはひとり、揺れる炎のそばで愛弓の手入れをしていた。
 弓を引き絞る負荷は、決して軽くない。厚手の革手袋を嵌めていても、ここ最近の連戦で幾度となく弦を引いた指先は赤く腫れ、ところどころ皮が剥けている。
 痛みを誤魔化すように布で弓幹を拭っていると、ふと視界の端に人影が落ちた。足音もなく歩み寄ってきたのは、剣の手入れを終えたらしいベレトだった。
 クロードは痛む指先を隠すように、さりげなく弓を下ろす。
「なんだ。また俺の夜更かしに、小言でも言いに来たのか?」
 どうせまた理詰めで来るのだろうと、半ば開き直って構えたものの、ベレトの目はすでに、手袋を外した剥き出しの指先をまっすぐ捉えていた。
「指を痛めているな」
「いや、大したことはないさ。少し皮が擦れただけで、」
 言い訳を遮るように、ベレトは懐から無骨な小瓶を取り出した。蓋を開けると、薬草と獣脂を煮詰めたような、青臭い泥のにおいが漂ってくる。
「傭兵団で使っている傷薬だ。……塗っておけ」
「おいおい、俺はこれでも同盟の盟主なんだぞ。出どころの怪しい薬なんか受け取れるわけないだろ」
 冗談めかして断ろうとしたクロードの前で、ベレトは何も言い返さなかった。
 ただ、音もなく自分の手袋を外す。
 月明かりの下に現れたのは、長年の鍛錬で剣胼胝の刻まれた白い指だった。ベレトは小瓶から泥のような軟膏を掬い取ると、表情ひとつ変えないまま自分の唇へそれを塗りつけ、そのまま舌先でわずかに舐め取った。
「な、あんた、何をして……
「ひどい味だが、毒ではない。……これで証明できただろう」
「いや、そうじゃなくてだな」
 話の筋が違う。
 そう言いたいのに、目の前の男は至って真面目だった。小瓶を持ったまま、さらに一歩近づいてくる。
「まだ疑うなら、君の口にも入れてみるか」
「冗談言うな。……と言いたいところだが、あんたのことだから本気なんだろうな」
 あまりにも極端なやり方に、クロードは顔を引きつらせた。たかが指先の擦り傷ひとつで身体を張り、そのうえ有無を言わせずねじ伏せようとしてくる。考えれば考えるほど、この男には思うようにいかない。
……はあ。貸せよ、もう。大人しく塗るから」
 息をついたのち、クロードはようやく観念して小瓶を受け取る。
 実際のところ、クロード自身も毒や薬の調合には長けている。わざわざ出どころの怪しい獣脂など使わずとも、もっとましなものくらい自分で作れる。けれど、この程度であれば自作できるなどと強がろうものなら、この男はきっと、だったらなぜ作らない、そんな暇があるならいまこれを塗ったほうが早いと、何の悪気もなく正論を重ねてくるに決まっていた。
 軟膏を指先へ擦り込むクロードを見下ろしながら、ベレトがぽつりと口を開く。
「自分は君を勝たせるために剣を振るうし、君の背中も守るつもりでいる。だが」
……
「最後の最後で君の命を救うのは、君自身の放つ矢だ。……その指を潰してどうする」
 ただの傭兵らしからぬ、あまりにも本質を突いた言葉だった。指先のひりつきを、指揮官としての重さと一緒にひとりで抱え込んでいるつもりでいた感傷など、戦場では何の意味も持たないのだと、淡々と教えられているようだった。
……ああ。違いない」
 小言ばかりで厄介な男だと思っていたのに、その不器用な気遣いにはもう口答えする気すら起きず、クロードは薬の染み込む指先を見つめたまま、苦笑まじりに首を振る。
 目的を果たしたベレトは、ひとつうなずくと、それ以上は何も言わずに天幕の奥へ去ってゆく。
 残されたクロードは、再び弓へ布を当てようとして、そこでふと手を止めた。
 指先にたっぷりと擦り込まれた獣脂のせいでひどく滑り、まともに弓幹を握ることすらできない。薬草の強烈な泥臭さもあって、夜更けの冷気のなかで物思いに沈むような気分は、きれいに吹き飛んでしまっていた。
 これではもう、手入れを切り上げて寝台へ潜り込むしかない。
 あの男がそこまで考えていたのか、ただの偶然なのかはわからない。けれど、自分がひとりで抱え込もうとしていたものが、あの小瓶ひとつであっさり塗り潰されたことだけは、否応なくわかった。
 クロードは薬まみれになった不格好な指先を、夜の暗がりへそっと掲げる。
 いつまでも、瞬きも忘れたように、それを眺めていた。

 賊の討伐を終え、水の都へ戻ってからも、あの妙な軟膏はしばらくクロードの手元に残っていた。
 返そうと思えば返せた。そもそも、持っている必要もない。強い獣脂のにおいが鼻につくし、指先に塗れば弓幹が滑る。盟主の机の引き出しに入れておくには、あまりにも無骨で、場違いな代物だった。
 そう思うのに、捨てられなかった。
 傷が開くたび、腹立たしいほどよく効いたからだ。夜更けに政務の紙をめくりながら、ふと裂けた皮膚のひりつきに気づいて蓋を開ける。泥のようなにおいが立つたび、焚き火の色と、月明かりの下であたりまえみたいに小瓶を差し出してきた男の顔が一緒に浮かんだ。
 それが不快なのか、そうでもないのか、自分でもよくわからなかった。

 数日後、執務室でのことだった。
 山積みの報告書に目を通しながら、クロードは手元へ伸ばした指先のわずかな違和感に眉を寄せる。紙の端で裂けかけた皮膚がひとつ、薄く痛んだ。癖みたいに引き出しを開け、例の小瓶を取り出して蓋を緩める。と、そのときだった。
「薬は使っているのか」
 不意に落ちてきた声に、クロードは手を止めた。
 向かいに立っていたベレトが、いつもの起伏の乏しい顔のまま、小瓶の口と、そこから減った中身を見ている。
 クロードは思わず笑いそうになるのをこたえた。妙なところを見ている。いや、見ているというより、確かめているようにも見えた。
……なんでそんな確認するんだよ」
 軽口のつもりだった。けれど、声は思ったより乾いていた。
 ベレトは答えに詰まるふうもなく、ただ率直に言う。
「君が塗らずに放っておく可能性を考えていた」
「ひどい言われようだな」
「事実だろう」
 即答だった。
 痛む指先より、その返しのほうがよほど厄介で、クロードは肩をすくめるしかない。
「まあな。否定はしないけど」
 そう言って蓋を閉めようとすると、ベレトの視線がまだ小瓶に落ちているのに気づく。減っていることを見たかったのか、それとも、使っていることを知りたかったのか。たぶん、どちらでも大差はないのだろう。そう思うと、胸の奥にごく小さな熱が落ちた。
 それを拾い上げる気にはなれなかった。
「これで満足したか、心配性の傭兵さん」
「ああ」
 短い答えだった。けれど、どこか少しだけ肩の力が抜けたようにも見える。
 そんなところまで見てしまう自分に気づいて、クロードはわざと大げさにため息をつき、手元の紙へ視線を戻した。
 それからしばらくして、ベレトが報告のため執務室へ出入りする回数が増えた。
 最初は、ただ口で状況を伝えるだけだった。どの道がぬかるんでいた、見張りの数が足りない、賊が村の北を回った、荷車が通るには坂が急すぎる。
 ひとつひとつは要領を得ている。得てはいるのだが、見てきた景色をそのまま言葉で置いてゆくせいで、受け取るこちらはそのたび頭の中で地図を描き直さなければならない。とにかく骨が折れた。
 そんな日々を重ねるうち、とうとうクロードは、報告の途中で口を挟んだ。
「その話、紙に落として持ってきてくれたら助かるんだけどな」
 ベレトはほんの少しだけ眉を寄せる。
「紙に?」
「そう。どこがぬかるんでたとか、どこに見張りがいたとか。書くだけで済むんだから、便利なもんだろ?」
 そこまで言ってから、クロードはふと相手の顔を見る。
 違和感は一瞬だった。だが、それで足りた。
 書けないのかもしれない、と、その時ようやく思い当たる。
 だったら、そこをまともに突くのは野暮だろう。教えるにしても、あくまでこっちの都合みたいにしたほうがよい。
「ほら、べつにきっちりした地図じゃなくていいんだよ。道がどこを通ってるか、砦がどこにあるか、それだけ拾えりゃじゅうぶんだ。距離なんかも、少しくらいずれてたって困らない」
 そう言いながら、クロードは机の上にあるまっさらな紙を一枚引き寄せた。ざっくり海岸線を引き、街道を一本、砦の印をひとつ置く。ついでに村をふたつ書き足して、筆ごと紙を差し出す。
「こういうの。まずはこれでいい」
 ベレトは紙を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
……君は、自分が楽をしたいからそう言ってるのか」
「そりゃそうさ。毎回ぜんぶ口で聞いてたら、俺のほうがくたびれる」
 軽く返してから、クロードは少しだけ笑う。
「それに、書いて置いていってくれたら、あとで何度でも見返せるだろ」
 ベレトは顔を上げる。いつもの読みにくい目だったが、わずかに何かを測るような間があった。
……君がそうしてほしいなら、やる」
 思ったよりまっすぐ返ってきて、今度はクロードのほうが一瞬黙る。
「ずいぶん素直だな」
「必要なんだろう」
「ああ。必要だ」
 そこでクロードは紙の端を指で叩いた。
「だから、覚えろ。俺が読む」
 ベレトはほんの少しだけ目を細め、それ以上は何も言わずに筆を取った。

 最初の一枚は、ひどいものだった。
 道の線は途中でふらつき、砦の印も頼りない。書き添えられた字は、かろうじて読めるという程度で、筆先の運びには妙な力みがあった。剣を握る手で羽根筆を持てば、こうもなるだろう。
「そこ、少し寄りすぎだな」
 クロードは紙の端を押さえながら言った。
「道は大きく引いていい。あと、砦の印はもっとはっきりさせろ。ぱっと見てわからないと意味がない」
 ベレトは黙ったまま、言われたところを書き直す。言い返しはしない。必要だと分かれば、そのまま手を動かす。変なところで意地を張らないのは助かった。
 ふたつめは少しましだった。みっつめになると、街道を先に引く手つきから、もうほとんど迷いが消えている。
……飲み込みが早いな」
 何気なくこぼすと、ベレトの手がほんの一瞬だけ止まる。
「必要なんだろう」
「まあな」
「だったら、覚える」
 ぶっきらぼうな返事だった。それなのにやけにまっすぐで、クロードは少しだけ笑いそうになった。
「殊勝で助かるよ」
 そう言うと、やはりむっとした顔をされた。そこだけはずいぶんわかりやすい。
 机を挟んで向かい合ったまま、ふたりで同じ紙を覗き込む時間が、少しずつ増えた。
 最初は、砦、村、北、海。そんな短い字ばかりだった。それがそのうち、浅い、足場が悪い、狭い、見張りがいる、と増えてゆく。どれも不格好で、整っているとは言い難い。けれど、地図の上にそれがあるだけで、ベレトの見てきた景色がそのまま机の上へ残るようだった。

 ある日、報告を終えたあとで、ベレトは書き損じの紙を机の端に置いたまま出ていった。
 道の線が途中で揺れ、砦の印も頼りない。捨てるほどでもない、と思ってクロードはそれを紙の山のいちばん下へ差し込む。
 翌日になると、その隣にまた別の紙が一枚増えた。
 今度は紙だけではない。羽根筆まで机の端に転がっている。
 昼をだいぶ過ぎてからそれに気づいたクロードは、前線から戻ってきたベレトへそれを差し出した。
「おい、忘れてるぞ」
 ベレトは一瞬だけ目を瞬いた。それから、何でもない顔で受け取って、「すまない」とだけ言った。
……わざとか?」
 なんとなくそう聞くと、さっきまで平たかった顔が露骨に曇る。
「違う」
「いや、これで二度目だぞ」
「違う」
 念を押すように返されて、クロードは吹き出しそうになる。わざとではないのだろう。そういう顔だった。だが、わざとでないくせに、気づけばこの男の紙や筆が自分の机に残る。
 そのことのほうが、よほど始末が悪い。
 またべつの日には、返したはずの小さな薬包が机の上に残っていた。いつ置いていったのかもわからない。腹立たしいはずなのに、クロードはそれを捨てず、引き出しへ放り込むだけで済ませてしまう。
 ある日の報告で、ベレトの持ってきた地図には、道の先にひとつだけ大きな字が書かれていた。帝国、と。
 クロードはそこで手を止める。
……それをわざわざ書くか」
「見張りの数が違った」
「そうじゃなくて」
 口にしてから、自分でも何を言いたかったのかわからなくなる。ベレトは少しだけ首を傾げたが、余計なことは言わない。
 クロードは紙を引き寄せ、その字の外側へ細い線を一本足した。
「国境が、ほんとにただの線だったらいいんだけどな」
 言ってしまってから、しまったと思う。そこまで口にするつもりはなかった。だがベレトは笑いもしなければ、妙に構えることもない。ただ紙を見たまま、低くたずねる。
「ただの線?」
 あまりにまっすぐな問いに、クロードは苦笑した。
「そう。線は線でいいんだよ。それ以上の意味を持たなければ」
「実際はそうじゃないのか」
「残念ながら、な」
 筆先でその線を軽く叩く。
「境目そのものは大事だと思ってる。線がなけりゃ手が届かない場所もそのぶん増えるし、境目があるからこそ守られるものもあるからさ」
 そこで一度、筆先で線を軽く叩く。
「だから、線があること自体をどうこう言いたいわけじゃないんだよ。……ただ、それが人を値踏みするための理由になったり、向こうとこっちを勝手に分けるものになったりするのは、うんざりするって話」
 ベレトは黙っていた。線の上へ落ちた視線を動かさないまま、肯定も否定もせず、ただクロードの言葉が尽きるのを待っているようだった。
「偏見も、そう簡単に消えるなら誰も苦労しない。苦労しないが、そんなものはなくなっちまえばいいと思ってる」
 そこまで言ってから、わざと肩をすくめる。
「まあ、いまはそんなことより、ここをどう守るかのほうが先だな」
 夢を口にして、すぐ捨てる。自分でも、いつもの癖だと思う。それなのにベレトは、その切れ端をそのまま落とさない。まるで、捨てたはずのものがまだそこに残っているとでも言いたげな目で見てくる。
 まずい、と思った。
 ほんとうに困るのは、そういう顔をされると、もう少し話してもいいような気になってしまうことだった。
 向かいに座るベレトは、しばらく地図へ目を落としていたが、やがて静かに口を開いた。
「君のことが、まだよくわからない」
「俺が?」
「そうだ。警戒心が強いはずなのに、雇ったばかりの自分たちに殿を任せる。誰よりも傷つくのを嫌っているように見えるのに、いざとなれば自分から前へ出る。隠したがるくせに、時々ひどく無防備になる」
 淡々と並べられた言葉に、クロードは笑うしかなかった。
「ずいぶん見られてるなあ」
「見ていないとわからないからな」
 その返しがあまりに平然としていて、クロードは一瞬言葉に詰まる。
 踏み込まれたくない。けれど、踏み込まれたいのかもしれない。そんなふうに思う時点で、もうだいぶまずかった。
 だから、逃げるように口を開く。
……なあ。もし俺が、いっそ帝国に下って生き残る道を選ぶしかないって言ったら、あんたはどう思う?」
 自分でもわかるくらい、意地の悪い問いだった。本心を話す代わりに、少し遠いところへずらしただけの、見え透いた予防線でもある。
 けれど、ベレトはそこで迷わなかった。
「君は、素直に首を差し出して、誰かの言いなりになるような男には見えない」
 きっぱりとした声だった。
「従うふりはするかもしれない。だが、そのままで終わるとも思えない」
「買い被りすぎだろ」
「そうは思わない」
 まっすぐ返されて、クロードは目を伏せる。根拠のない信頼だった。けれど、その根拠のなさが妙にこたえた。
 ベレトはなおも、視線を逸らさない。
「君の根底にあるものを知れば、理屈では説明のつかないことも少しはわかる気がする」
 そこでわずかに言葉を切る。
「何が君をそうさせるのか、教えてはくれないだろうか」
 それは、盟主としての策や立場ではなく、クロードという人間そのものを見ようとする問いだった。
 喉の奥で、何かがせり上がる。異国の血を引くこと。閉ざされた世界を壊したいという野望。遠い空の向こうまで続く道への渇き。言葉にしてしまえば、たぶんもう後戻りできないものばかりだ。
 踏み込み方が分からなくなる。だから、つい皮肉や軽口でごまかそうとする。
「そいつは無理な相談だ。俺には、道が途絶えてもまだ諦めきれない夢ってやつがあるんでね」
 拒絶のつもりで言ったのに、ベレトはそこで引かなかった。不服そうに押し黙ったあとで、むしろ前より率直に言う。
……君がそうやって教えてくれないから、自分で答えを探すしかなくなる」
「おいおい」
「見ていればわかるかと思った。だが、見れば見るほど分からなくなる」
 そこまで言ってから、ベレトはごくわずかに目を伏せる。
「自分はどうも、君から目が離せないでいるらしい」
 そのひと言で、室内の空気が止まった。
 クロードは息を吸い、けれど次の息をうまく吐き出せない。張りついていた笑みがほどけ、ただ言葉だけが遅れる。
……よくそんなこと、平然と言えるよな」
 ようやく絞り出した声は、思っていたより頼りなかった。
 傷つかないように距離を取ることばかり覚えて、契約という壁を盾にしてきたはずなのに、この男はそういうものをいちいち気にしない。真正面から見て、真正面から口にして、それでいてどこか少しも揺らがない。
 クロードは堪えきれず、片手で額を覆った。そうでもしなければ、自分の顔がどうなっているのかわからなかった。
「何か、おかしなことを言っただろうか」
 心底不思議そうに問われて、クロードは深く息を吐く。
「いや」
 それだけ言ってから、少し遅れて苦笑した。
「俺もあんたのことがちっとも分からなくて、いまちょうど頭が痛くなってきたところだよ」


 契約の終わりは、思っていたよりあっけなく訪れた。
 もともと、そういうものだ。金と契約で結ばれたつながりに、終わりがあるのは当たり前だった。ジェラルト傭兵団はどこまでも流れ者で、同盟の窮地がひと段落すれば、次の戦場へ移る。それだけの話だ。
 頭では、最初からわかっていた。
 だからこそ、机の端に残る細かなものが妙に目についた。
 書き損じの紙。返したはずの羽根筆。いつ置いていったのかもわからない小さな薬包。
 ひとつひとつは取るに足らない。片づければ済む。返せば終わる。そういうものばかりだ。
 それなのに、いざ手に取ると、次のついででいいかと思ってしまう。次に報告へ来た時でいい。次に顔を合わせた時でいい。その次が、いつまであるのかも考えずに。
 ある夕方、机の紙を寄せていた時、下敷きになっていた一枚がふいに滑り落ちた。
 まだぎこちなかったころの地図だった。道の線は頼りなく、砦の印も小さい。端には、北、とだけ、ずいぶん力の入った字が添えてある。
 見れば見るほど不出来で、いまなら書き直させるだろうに、なぜだか捨てる気にはなれなかった。
 クロードはそれを拾い上げ、指先で紙の端をならす。
 あの時は、ただ少し面白かっただけだと思っていた。剣を振るうことしか知らない男が、ひどく真面目に羽根筆を握って、言われた通りに線を引き直しているのが、妙におかしかった。
 だが、たぶんそれだけではなかった。
 机の上に残るその不器用な痕跡を、自分は思ったより大事にしていたらしい。そう気づいたところで、いまさらどうにもならないのだけれど。
……こういうの、困るんだよなあ」
 誰に聞かせるでもなく、そうこぼす。
 戻ってくるたび、少しずつ残してゆく。返してもまた置いてゆく。そうして机の端へ勝手に居場所を作っておいて、いざいなくなる時だけ、きれいにすべてを持っていかれたらたまらない。
 そんなことを考えてしまう時点で、まずいのだろう。
 もともと、情に引きずられないために線を引いてきたはずなのだ。必要なら切る。そのために、笑って、誤魔化して、相手に合わせてきた。
 それなのに、この男に対してだけは、その線が妙に役に立たない。
 壊されたというより、気づけば役に立たなくなっていた、というほうが近かった。
 扉の向こうで足音が止まる。顔を上げるより先に、それが誰かわかった。
「入るぞ」
「ああ」
 返すと、ベレトがいつもの顔で執務室へ入ってくる。机の上の紙と羽根筆と、開けたままの引き出しへ一度だけ目をやってから、まっすぐクロードの前へ立った。
「ジェラルトから伝言だ。予定通り、明朝には発つ」
 その短い報告に、クロードはごく自然にうなずいた。驚く理由はない。そうなるとわかっていた。わかっていたのに、胸のあたりが一瞬だけ妙に浅くなる。
「そうか。ずいぶん早いな」
「長居をする理由もないからな」
 淡々とした答えだった。
 それが彼ららしいと思う。思うのに、机の端に残った紙きれひとつのほうが、よほどこの部屋になじんで見えるのがおかしかった。
「まあ、それもそうか」
 軽く笑って返しながら、クロードは手元の紙を何でもない顔でまとめる。書き損じの地図がいちばん下へ滑り込むのを見届けてから、ようやく顔を上げた。
「忘れ物がないようにしてくれよ」
 そうたずねると、ベレトは少しだけ考えるような間を置いた。
「たぶん、ない」
「たぶん、って何だよ」
「君が何か預かっているなら、それはもう君のものだと思っていた」
 あまりにもあっさり言われて、クロードは一瞬だけ言葉に詰まる。
「勝手なこと言うな」
「違うのか」
「違うに決まってるだろ」
 そう言いながらも、机の端の羽根筆へ手を伸ばすことはできなかった。
 返そうと思えば、いまここで返せる。薬包も、書き損じも、まとめて突き返してしまえばいい。それがいちばん簡単なはずなのに、どうしてか指先が動かない。
 ベレトはそれ以上、問いたださなかった。
 ただクロードの顔を見て、それからいつものように、少しだけ読みにくい目を伏せる。
……では、明日の朝に」
「ああ」
 それだけのやりとりだった。
 ベレトが出ていったあと、執務室は急に静かになった。
 さっきまで人がいた場所を、目だけが追ってしまう。その癖がもうついていることに気づき、クロードは小さく息をついた。
 窓の外では、水の都の夜が何事もないような顔で更けてゆく。
 明日の朝になれば、あの男たちはここを発つ。ただそれだけだ。そういうふうに始まった関係なのだから、そういうふうに終わるのも自然だろう。
 それでも、机の端に寄せられた紙や羽根筆を見ていると、まるでそれだけが自然ではないみたいだった。
 クロードはしばらくそのまま座っていたが、やがて手を伸ばし、いちばん古い書き損じの紙をそっと引き出しの奥へしまい込んだ。
 片づけるつもりだったのか、隠したかっただけなのか、自分でもよくわからなかった。

 ジェラルト傭兵団は同盟軍との契約を終え、次の戦場へ向かう。
 出立の朝。デアドラの城門には、まだ朝靄の名残が薄く漂っていた。運河を渡る風は冷たく、石畳の上では、荷を括りつける音と飛竜の羽音が忙しなく重なっている。
 見送りのために立つクロードは、胸の内で渦巻くものを分厚い仮面の下へ押し込み、誰の目にも頼もしい盟主の顔を作っていた。そうしていれば、少なくとも間違えずに済むはずだった。
 出立の支度を整えたベレトが、飛竜の傍らで歩みを止める。
「短いあいだだったが、世話になった」
「こっちの台詞だよ。あんたたちがいなけりゃ、パルミラとの戦いはどうなってたかわからない」
 軽く返す。軽く返したつもりだった。
 けれど、目の前の男は相変わらず、そういう顔を見逃してはくれないらしい。ただ静かに、まっすぐこちらを見ている。
「次に戦場で顔を合わせる時は、お互い敵同士になってるかもしれないな」
 クロードはわざと肩をすくめた。
「もし俺を狙う依頼が来たら、いくらか手加減してくれよ」
 冗談めかして、あえて金で結ばれた関係のほうへ話を戻す。そうしておけば、この場もそれらしく収まると思った。
 ベレトはすぐには答えなかった。
 ほんの短い沈黙のあとで、低く言う。
「それは難しいな」
「おいおい、即答か?」
「自分が手加減をすれば、君は怒るだろう」
 クロードは一瞬だけ言葉を失い、それからようやく息まじりに笑った。
……そうかもな」
「だが、自分から君を狙いに行くことは、おそらくないと思う」
 その言い方は曖昧なくせに妙にまっすぐで、クロードの胸の奥へ思いのほか深く入ってきた。
「そういうの、反応に困るんだって」
 どうにか軽口の形にして返す。けれど、声は思ったより乾いていた。
 ベレトは気にしたふうもなく、ただクロードを見ている。
……どうか達者で。縁があれば、また」
 それだけだった。
 飾りも含みもない、ひどくあっさりした別れの言葉。なのに、その短さがかえってこたえた。
「ああ。あんたもな。ジェラルトさんにもよろしく伝えておいてくれ」
 そう返しながら、クロードはいつものように笑う。笑っていないと、見送りのかたちが崩れそうだった。
 翻る鈍色の外套。背を向けて遠ざかってゆくその後ろ姿を見つめながら、クロードはふと、執務室の机の端に残したままの紙や羽根筆のことを思い出す。
 返せるものは、まだある。返そうと思えば、いまからでも呼び止められる。
 けれど、呼ばなかった。
 呼んでしまえば、少しだけ遅くなる。遅くなれば、そのぶん別れが見えやすくなる。
 それが嫌で、クロードはただ、その背中が人波の向こうへ消えるのを黙って見送った。
 見えなくなってからも、しばらくその場を動けなかった。


 別れの余韻を、いつもの顔でどうにか塗り潰したあの日から、季節がひとつ過ぎていた。
 大陸のありさまも、ずいぶん変わった。レスター諸侯同盟は中立を捨て、アドラステア帝国とのあいだに盟約を結んでいる。
 恭順というかたちで、膝を折るほかなかった。
 それがどれだけみじめで情けないことなのかは、クロード自身が誰よりも理解していた。それでも、あの戦力差を前にして、同盟の血をこれ以上流さずに残すには、この道しかなかった。
 いま同盟軍は、帝国の要請に従う顔をして、ファーガス神聖王国領へ兵を出している。かつて雇っていたジェラルト傭兵団が王国領で動いているらしい、という風の噂も耳に入っていた。
 同盟が王国と敵対した以上、いつか本当に刃を交える日が来るのだろうか。早朝の冷気が肌を刺すたび、遠く離れた空の下にいるはずの、あの無愛想な男の顔が脳裏をかすめる。
 帝国軍との合同作戦でも、同盟軍はのらりくらりと遅滞戦術を続けていた。
 前線への到着をわざと遅らせ、同盟兵が矛を交える場を少しでも減らす。味方を守るにはいちばんましなやり方だが、帝国の目を誤魔化しながら従順な顔をし続ける日々は、気づかないうちにクロードを削っていた。
 戦火で焼かれた大地が夕暮れの赤に沈みはじめたころ、陣営の外で、クロードはヒルダとジュディットとともに地図を囲んでいた。
「のんびりしている暇はないよ。帝国の連中、だいぶ焦れてる。そろそろ同盟軍に、目に見える戦果を出させろってね。これ以上引き延ばせば、逆に自分で自分の首を絞めることになる」
 ジュディットの声には、あからさまに苛立ちが混じっている。
……わかってるさ、ジュディット」
 クロードはいつもの調子を崩さないまま、首の後ろを撫でた。
「でもさ、あたしも帝国のやり方にはちょっと引っかかるかなー。盟約そのものを疑ってるわけじゃないけど」
 ヒルダが地図から顔を上げ、ぽつりと言う。
「でも……状況が変わったら、手段を選ばない人たちって印象があるからねー」
「手段を選ばないって点では、俺自身も相当なもんだって自覚はあるからな」
 自嘲気味に笑ってみせると、ふたりの視線が揃って刺さった。そのままクロードは、帝国軍の駒を指先で弾いて地図の外へ転がす。
「帝国のやり方に納得がいかなければ、盟約を破るのはこっちかもしれないぜ」
 軽い調子で言ったつもりだったが、自分でも声に冗談の色がないのがわかった。ヒルダが眉をひそめる。
「こっちかもしれないぜ、じゃないでしょ。不穏なこと言わないでほしいなー」
 ジュディットも呆れたように目を逸らした。
「はは、まあ、もしもの話だよ」
 笑って誤魔化し、それから少しだけ声を落とす。
「けど、もしものときが来ちまったら……ヒルダ、悪いが俺についてきてくれ」
 ヒルダへ向けた目が、不意に真面目な色を帯びる。少しの沈黙のあと、彼女は肩をすくめた。
「仕方ないなー。他ならぬクロードくんのお願いだしね」
 迷いのない返事だった。
 それを聞いた瞬間、胸の奥が鈍く痛む。
 ヒルダには兄がいる。ゴネリル家がある。彼らを頼りにしている領民もいる。そういったものを背負っている相手を、自分の身勝手な裏切りへ引きずり込んでよいわけがない。
 わかっているのに、うなずいてくれるのがうれしくないわけでもなかった。そのことまで含めて、ひどく気分が悪い。
 日が落ちてから、人気のない天幕の中で戦局を見下ろしながら、クロードは額を押さえた。
 誰も犠牲にしたくないなどと殊勝な顔をしておきながら、ほんとうは、ひとりくらいなら連れて行く気でいる。自分が泥を被って叛旗を翻したとき、ともに行き着く果てまで沈んでくれる相手を、どこかで求めている。
 ヒルダではだめだ。あれは背負っているものが多すぎる。
 けれど、あの傭兵だけは少し違った。フォドラの常識にも、自分の血にも、決して足を取られることがなかった。こちらが線を引くより早く、気づけば机の前に座っていて、夜の回廊にいて、手の届くところまで入ってきた。
 だから、連れて行ける気がしてしまう。そこまで考えてしまうのが、いちばんまずかった。
 女神に祈ったことなんて、一度もない。
 この世界はずっと、自分にだけは冷たくて、息苦しい。生き残るために手を打つたび、同盟は恭順という名の鎖で縛られ、ヒルダのような仲間までをも裏切りの淵へ追い込んでゆく。
 そんな息苦しい現実のなかで、どうしてあの時間ばかりがこうもはっきり戻ってくるのか、自分でもよくわからなかった。
 卓上の報告書へ伸ばした指が、ふと引き出しの縁に触れた。
 硬いものに爪先が当たって、そこでようやく手が止まる。あの小瓶だった。
 見なくてもわかる。返そうと思えば返せたものを、まだここへ入れたままにしていたらしい。
 ほんの一瞬だけ指先がそこに留まり、クロードは何事もなかったみたいに手を離した。けれど、いったん触れてしまったものからは、もうきれいに離れられなかった。
 夜風に吹かれながら交わした、とりとめのない会話。
 出どころの怪しい薬を塗り込まれた、天幕の奥。
 不器用な手つきで羽根筆を握っていた、陽の差す執務室。
 思い出したくて思い出しているわけじゃない。ただ、息が詰まる時ほど、先にそこへ戻ってしまう。
 盟主の顔も、生い立ちを隠すための駆け引きもいらなかった空白だけが、どうしても頭のどこかに残っていた。
 結局、都合のいい手札を探しているだけなのかもしれなかった。昔のことまで持ち出して。あの男なら、と思ってしまうあたり、あさましい。
 きれいに言えば責務と情のあいだとか、そういう話になるのだろう。けれど、そんなふうに並べると余計に嘘くさい。ただ息が詰まって、誰かひとりくらいならこっち側へ引きずり込める気がしてしまう。その相手として、真っ先に顔が浮かぶのがあの男だった。
 机の隅には、片づけそこねたままの紙がまだ一枚残っていた。
 捨てる理由はいくらでもあるのに、それをできない自分が嫌になる。
 ひどい話だと思う。
 それでも、あの時間のことだけは、どうしても悪いものとしては思えなかった。


……ベレト」
 掠れた声で呼ぶ。けれど、虚ろな瞳がこちらへ向くことはなかった。
 クロードはそれ以上何も問わず、まず温かい汁物を用意させた。卓へ置いても、ベレトは立ちのぼる湯気を見つめたまま動かない。
 無理に踏み込む気にはなれず、クロードはいったん部屋を出た。
 数刻ののち、そっと扉を開けて覗き込むと、椀の中身がほんの少しだけ減っていた。だが本人は相変わらず口を閉ざしたまま、座った姿勢を崩していない。冷えた椀を手に取り、当たり障りのない言葉をふたつみっつ置いて、また部屋を出る。
……戦時中に、飯を無駄にはできないからな」
 誰に言い訳するでもなくそうつぶやいて、クロードは冷えきった残りを火にかけ直した。温め直したそれを、自分で一気に胃へ流し込む。
 その程度のことで、この男の抱えている重さに触れられるわけがないのに。
 翌日、運んだ汁物をベレトは時間をかけてきれいに平らげていた。空になった椀を見た瞬間、張りつめていた肩からようやく息が抜ける。
 そして三日目。食事を運んできたクロードの気配に、ようやくベレトがひび割れた唇を動かした。
……ジェラルトさんに、何かあったんだな」
 短い問いが、乾いた空気に吸い込まれる。やがて、宙を見たままの横顔から、温度のない声が落ちた。
……帝国軍に雇われた傭兵に、討たれた。君を斬った、あの双剣の傭兵だ」
 抑揚のない、ひどく乾いた声だった。
「自分がもっと早く駆けつけていれば……いや、そもそもあの得体の知れない力を、もっと警戒していれば」
 誰に聞かせるでもない。胸の内に溜まりきった後悔が、そのまま口から零れているようだった。
「ジェラルトの仇を討つ。……あの傭兵を、斬り捨てる」
 そこに、かつての穏やかさはない。冷静さも、もうない。復讐だけが空になった器の底で青白く燻っている。クロードは息を呑み、膝の上で拳を握りしめた。
……同盟はいま、帝国と盟約を結んでいる。俺を頼れば、あんたを帝国に突き出すかもしれないとは思わなかったのか」
 わざとそう言った。
 同盟の盟主として考えるなら、それがいちばん正しいからだ。
 ここで彼を捕らえ、帝国へ差し出す。そうすれば、帝国に対する従順さは疑われずに済むし、同盟の血もこれ以上は流さずに済む。盤の上だけで見れば、答えは明らかだった。
……君の立場は、自分にはわからない」
 返ってきたのは、あまりにも静かな声だった。国家の存亡も、盟主の義務も、いまのベレトの目にはもうほとんど映っていない。
「以前、執務室で話した時、君は笑って誤魔化したけれど。自分はいまも、あの言葉を信じている。……だから、ここに来た。それだけだ」
 すべてを失った末に、なお選ばれたのがここだった。クロードのそばだった。
 その事実だけで、きれいに積んでいた理屈が役に立たなくなる。帝国へ渡せばいい。そうすれば同盟は安泰だ。そんなことは最初からわかっている。わかっているのに、目の前の男を見た瞬間、その正しさだけが急に遠くなる。
 兄を手にかけたときも、生い立ちを明かしたときも、この男だけは何も言わずにそこにいた。問い詰めもせず、軽蔑もせず、ただ静かに受け止めていた。いま、その男が父を奪われ、壊れかけた顔でここにいる。
 かつて一度、そんな相手がいればと思ったことがある。自分が泥を被って叛旗を翻すとき、ただ黙ってうなずき、ともに落ちてくれる相手が。
 失うもののない男が、復讐だけを抱えてこちらの懐へ来てしまった。
 だったら、彼を盤の上に乗せてやればいい。
 同盟を帝国から引きはがす。そのための一手だ。
 そう言ってしまえば、少しはましに聞こえるのだろう。実際、その手にもなる。けれど、それだけで済むなら、こんなふうに息が乱れたりはしない。
 彼は都合のいい手札などではない。
 泣くこともできず、怒ることもできず、ただ壊れたみたいにここまで辿り着いた男を、どうにかしてやらなければならない。理屈ではなく、もっと始末の悪いものが腹の底からせり上がってくる。
……まったく、あんたって奴は」
 深く息を吐いて、クロードは椅子のそばへ片膝をついた。
「そんなふうに頼られたら、俺も盟主として、とびきり悪い算段を考えなきゃならなくなる」
 そう言いながら、芯から冷えきったベレトの手を、両手で包み込む。
……が、仕方ない。他ならぬ、あんたの願いだからな」
 その言葉に込められた重さを、たぶんベレトはまだ知らない。
 帝国と王国の思惑が絡み合うこの戦局で、一歩踏み誤れば同盟そのものを灼き尽くしかねない最悪の手だと、クロード自身にはよくわかっていた。
「いまはとにかく休んでくれ。あんたのことは、他の奴らにはうまく言っておく。……これからのことは、あんたが起きたときにでも話そう」
 手の中の冷たさを確かめたのち、クロードはそっとベレトのそばを離れた。

「あいつの名前も、どこから来たかも、漏れないようにしろ。俺がいいと言うまでは絶対に外に出すな。……あの様子じゃ暴れるなんてことはないだろうが、何かあればすぐ俺を呼べ」
 扉のそばへ控えていた近習へ、振り向きもせずに言いつける。
「それから、客間は使うな。人の出入りが少ない奥の部屋へ移せ。医師も、口の堅い奴だけにしろ」
 そこまで言ってから、ようやく自分の声が必要以上に冷えていることに気づいたが、いまさら言い直す気にはなれなかった。
 もう盤の上の理屈だけでは、どうにもならないところまで来ている。

 クロードに迎え入れられてから数日もすると、ベレトはすっかり体力を取り戻していた。
 彼は斥候としてひそかに城館を抜け出し、各地の動きを探る役目を担うようになる。
 王国軍と帝国軍の動きを追い、行軍の経路や伏兵の位置を探り当てては、深夜の執務室で待つクロードのもとへ持ち帰ってくる。
 王国の動きも帝国へ流してしまえば、少なくとも恭順している顔は保てる。そのうえで、帝国軍の動きまで掴めるのだから、同盟にとっては悪くない。
 盟約を結んだ相手へ明確な敵意を向ける傭兵を懐に匿い続ける以上、その危うさを知るのがクロードひとりであるにせよ、彼が同盟の益になっているという事実は、盟主としての立場を守るための、ひとまずの言い訳になった。
 理屈は立つ。
 だが、泥にまみれ、刃こぼれした剣を提げて戻ってくる姿を見るたび、クロードの胸の奥はひりつくように軋んだ。
 持ち帰った見取り図や報せは、いったんすべてクロードの机の上で止まった。
 外へ回す文面は、そこから必要なぶんだけを選んで整える。帝国へ流すものも、同盟の将へ見せるものも、細かな道筋や伏せた兵の位置までは落とさない。
 ベレトがどこを見て、どう戻ってきたかまで書きつければ、それだけ危うさが増す。そう言い訳しながら、クロードは報告書を自分の手元へ引き寄せた。
 机の上に残るのは、外へ出すための報告ではなく、あの男が見てきた景色のほうだった。
 報告を交わす時間は短い。
 そこに、かつてのように夜風に吹かれながら軽口を叩き合うあたたかさはもうない。ただ淡々と戦況を告げるだけで、目の前にいるのは復讐の熱でどうにか動いているような男だった。どうにかしてやりたいと思うのに、どこから手をつければいいのかわからないまま、重い夜ばかりが積み重なっていった。
 深い夜の執務室で、音もなく現れたベレトが、机の上へ一枚の粗末な羊皮紙を置く。
 最初のころは、その紙にあるのは線と印だけだった。
 だが、いつからか、端にひと文字だけ残るようになった。村や橋といった、そんな程度の、報せとしてはなくても困らない語ばかりだ。
 それでもクロードは、数字や兵数より先に、そういう小さな書き込みへ目が行く自分を知っていた。
「帝国軍の動向を探っていたが、それよりも王国と教団の連合軍の動きが不穏だ。西方のアリアンロッドへ向かうようだが、それとは別に、東へ向かう別働隊の姿も確認した」
「王国軍が?」
 クロードは眉をひそめ、広げられた地図へ目を落とす。ベレトが持ち帰った情報どおりに、青い王国の駒を動かしてゆく。行き着く先は、国境近くの険しい渓谷だった。
……アリル、か」
「煉獄の谷、と呼ばれているのだろう。地名だけは知っている。溶岩が噴き出す死地だと」
 クロードは地図の上で、ふたつの駒を指の腹でなぞった。次の戦のかたちが、頭の中でゆっくり組み上がってゆく。
……あそこは道が険しい。絶え間なく炎も噴き出している。大軍を並べるだけの平地もない」
 低い声が、夜の帳のなかへ落ちる。
「つまり、俺たちみたいに兵の少ない陣営のほうが、機動力を活かして地の利を取れる。帝国と王国が潰し合う隙を突ければ、戦の流れをこっちへ引き寄せられるかもしれない」
 ただの勝算ではなかった。
 王国軍は、おそらく同盟軍へは手を出してこない。ディミトリなら、帝国へ向かってまっすぐ来るはずだ。帝国の言いなりになっているとはいえ、将まで失った同盟を削るために、わざわざ兵を割くような真似はしないだろう。
 自分の手で三つ巴を作ることができれば、背後からあの双剣の傭兵を、そして帝国の将を討つ機も来る。
 同盟の生き残り方と、ひとりの男の復讐が、煉獄の谷という一点で、いやにきれいに重なろうとしていた。
……あんたの願いを、叶えてやれるかもしれない」
 喉を絞るようにこぼれた言葉に、ベレトがはじめてゆっくり顔を上げた。虚ろだった瞳の底に、暗い火がかすかに灯る。
……すべてを失って、どうすればいいのかわからなくなった」
 ぽつりと、温度の抜けた声が落ちる。
「自分でも抑えきれない感情ばかりが噴き出して、どうしようもなく、途方に暮れていたとき」
 伏せられた睫毛の奥に、彼本来の、飾り気のない色がかすかに滲んだ。
「何気なく仰いだ、東の空が目についた。……君が、思い浮かんだんだ」
 理屈ではなかった。
 胸の内で暴れる熱を持て余し、ベレトは無意識のうちにクロードを求めていた。ただひたすら東へ向かって歩き続けたのは、そのときの彼にとって、クロードのいる場所だけがよすがだったからだ。
 かつて執務室で、『目が離せない』と言ったあのときと同じだった。そこに駆け引きはない。飾る気も、嘘もない。
「気がつけば、ここへ向かって歩いていた。君を頼って、よかった」
 安堵のようにも、呪いのようにも聞こえるひと言が、思っていたより深く入ってきた。
 ほんとうに、これでいいのか。
 卓上の地図へ目を落とす。そこにあるのは、偽りの笑顔とのらりくらりとした策で、どうにか守ってきた同盟の地だった。そして、いつかフォドラを囲む壁を壊し、隔ても偏見もなく皆が手を取り合える世界を作るという、途方もない夢でもあった。
 帝国軍と、王国と教団の連合軍が入り乱れる戦端を、自分の手で開く。どれだけ盤を整えても、最後まで制御しきれるものではない。目論見が外れ、露見し、あるいは戦に敗れれば、同盟はたちまち帝国の怒りに灼かれる。
 脳裏を、いつも傍らで支えてくれた盟友の顔が過った。
 同盟が地に墜ちた時、たとえ盟主である自分が帝国に下れと言っても、彼女は頑として武器を置かないだろう。最後まで笑って抗い、そのまま無惨に散ってゆく。クロードには、それがわかってしまう。
 たったひとりの男の願いのために、そんな彼女たちを、同盟の先を、道連れにしていいわけがない。盟主として考えるなら、そこで立ち止まるのが正しい。
 けれど、顔を上げれば、答えを待つ男がいる。
 何もかも失い、行き場のない怒りを抱えたまま、無意識に自分を求め、この手だけを命綱みたいに握ってここまで来た男が。
 煉獄の谷で乱戦になれば、同盟が終わるだけでは済まない。自分が整えた死地へ彼を放り込めば、シェズや帝国の猛将を相手に、相討ちになる可能性すらある。復讐を果たさせるという名目で、自分は彼を、もっと深いところへ突き落とそうとしている。
 ここで手を引き、安全な場所へ縛り付けて復讐を思いとどまらせるのが、本来なら向けてやるべきやさしさなのだろう。
 だが、空っぽになった心を慰め、悲しみを癒やしてやるようなあたたかさを、クロードは持ち合わせてはいない。できるのは、血にまみれた道筋を示すことだけ。うまく盤を作ることだけだった。そんな己の不甲斐なさが、鋭く胸を抉った。
 ともに地獄まで落ちる道かもしれない。
 それでも、彼の手を取るほうへ心が傾いている。
 人生で、最初で最後の予感だった。
 ここで一度うなずいてしまえば、もう理屈だけで引き返すことはできない。盤の上ではいくらでも言い訳が立つ。けれど、ほんとうに先にあるのは、ただこの男を見捨てられないという、その一点だけだった。
 言葉の絶えた空間のなかで、クロードはゆっくり息を吸い込んだ。盤の隅に置かれていた黒い駒をひとつ、指先で摘み上げる。逡巡を抱えたまま、それでも赤と青の駒が睨み合うアリルの中心へ滑らせた。
「俺たちが向かう先は地獄か、はたまた――
 その先は、夜の闇へ溶けて消えた。
 まだ心は決まりきっていない。それでも、立ち止まれるところはとうに過ぎていた。クロードはこわばる指先を隠すように、固く拳を握りしめる。


 アリルへ向けた行軍の途上、吹きさらしの荒野に張られた天幕の外は、血を滲ませたような深い赤に染まっていた。地平線へ沈んでゆく夕陽は、これから戦場で失われる命を思わせる。
 単騎で斥候に出ていたベレトが野営地へ帰還し、探り当てた帝国軍の動向を伝える。クロードの誘導通り、エーデルガルト率いる帝国軍がアリルへと向かっているという。
 それを聞いたクロードは、西の空を見つめたまま静かに口を開いた。すべてを懸けた戦を前にしているのに、心は妙に静かだった。
「情報ありがとう、ベレト。おかげで心が決まったよ」
………………
 立ち尽くす姿は、ひどく乾いて見えた。それでも、その瞳は逃げも隠れもせず、ただこちらを見返してくる。
 すべてを失って、復讐という妄執に囚われたこの男は、ほかに行く先も探さず、はるばる自分のもとへ来た。
 他人を疑い、手札として選ぶ側に立ち続けてきた自分が、この男に選ばれた。その事実に、張り詰めていた胸の奥が少しゆるんでゆく。
 クロードはゆっくりと視線を落とし、自嘲するように息を吐いた。
「実は、ずっと迷ってたんだ。どうすりゃいいのかって。あんたのような奴が、初めから俺のそばにいてくれたらよかったのにな。そうしたら俺も、もっと別の道を選べたかもしれない。レスターの……いや、フォドラの形だって、別のものに変わっていたかもしれない」
 口をついて出たのは、あまりに無防備な本音だった。
 もし初めから彼が隣にいてくれたなら、誰の血も流さず、仲間を犠牲にすることもなく、思い描いた夜明けを迎えられたのではないか。そんなあり得ない幻を、破滅へ向かう戦火の直前で、彼に重ねてしまう。
「きっと、過大な評価だ」
 冷め切った声が返る。自分の価値など、復讐を果たすための剣でしかない。そう思っているような響きだった。
 クロードは肩をすくめ、顔を上げる。
「そうかな? 人を見る目には自信があるつもりなんだが。まあいいさ。もしこの戦いが終わって、他に行くところもなければ……ぜひ、俺のところにやってきてくれ。期待して待ってるからな」
 それは、クロードが帰る場所を失くしてしまった彼に差し出せる、唯一のものだった。どうにかこの地獄から生きて戻ってこい、という祈りにも近い。
……君は、こんな自分を選んでくれるのか」
 予期せぬ言葉に、荒野へ向いていた視線がわずかに揺らぐ。復讐を果たすために使い潰されるだけのはずだった自分へ、そんな先の話が向けられたことに、静かに戸惑っているようだった。
 少しの間が落ちる。感情を削ぎ落されたベレトの瞳の奥で、鈍い光が瞬いた。
「悪くない気がするな……考えてみよう」
 その言葉を聞いた瞬間、クロードの目からすっと力が抜けた。作ったものではない、やわらかな笑みが唇に浮かぶ。
 双方に牙を剥く破滅への行軍のさなかだった。それでも、彼と向かい合っているあいだだけは、そこだけ少し戦の外みたいだった。
「おっと、思いのほかいい手応えだな。それじゃ、戦場では頼んだぜ」
 冗談めかして胸を張り、踵を返す。
 数歩だけ進んでから、クロードはもう一度だけ彼へ向き直った。少し声を落とす。どうしても、もうひとつだけ言っておきたいことがあった。
……あんたと出会えてよかったよ」
 言葉を落とした先で、ベレトは地平線へ沈みゆく太陽を背にして立ち尽くしていた。強い残光が背後から差し込み、その輪郭だけをくっきりと浮かび上がらせる。
 顔は深い影に沈み、表情はまったく読み取れない。
 いまの言葉を聞いて、彼は笑っているのだろうか。それとも、いつものように無表情なままなのだろうか。
 もし少しでも笑ってくれていたなら、うれしい。けれど、そうであっても、そうでなくても、どちらでも構わなかった。
 反応がほしくて言ったわけではない。ただ、この煉獄の地で戦が始まる前に、手遅れになる前に、自分の内側から溢れたこのひと言だけは、どうしても伝えておきたかった。
 太陽が完全に地平線へ呑み込まれ、夜が荒野へ下りてゆく。


 空を焦がす火柱と、岩肌を舐める溶岩。煉獄の谷アリルでは、すでに四色の旗が入り乱れる凄惨な戦が始まっていた。
 賽は投げられた。帝国への恭順を装う仮面を脱ぎ捨て、王国もろともこの死地で葬り去るための、起死回生の一手だった。運任せの博打ではない。状況をひっくり返すために、できるかぎり考えて張り巡らせた罠だ。
 戦が始まる直前、クロードは、自身が陣取る西端からもっとも遠い同盟軍の東端にベレトを置いていた。
 溶岩の流れが比較的穏やかなうえに、そのままずっと北には王国軍の本陣があり、帝国軍の主力は必ずそちらへ向かう。そういう、戦術上の建前もある。
 本音は、つまらない意地だった。もしものとき、無様に地を這う自分の姿だけは、この男に見られたくなかった。
 配置を告げられたベレトは、珍しく眉をひそめたまま動こうとしない。その目には、失われた感情の代わりに、はっきりした危うさが宿っているように見えた。
 クロードは笑って、彼の肩を軽く叩く。
「心配すんなって。あんたから一本取った男なんだぞ、俺は」
 強がりをおどけて見せたまま、クロードは傍らの飛竜へ身を躍らせた。強い翼が業火まじりの風を巻き上げ、乾ききった岩肌を激しく打つ。一度も振り返ることなく、そのまま灼熱の空へ舞い上がった。

 数刻後、クロードは熱風の吹き荒れる高台から、眼下でぶつかり合う赤と青の軍勢を見下ろしていた。互いに消耗しきったところを突き、最後に勝ちを掠め取るつもりだった。
 しかし、皇帝率いる軍勢の苛烈さは、予想をはるかに上回っていた。兵数の都合で、同盟が誇る弓箭隊の主力を置いてこざるを得なかった事実が重くのしかかり、クロードは唇を噛む。
 傍らに立つヒルダは、眼下の惨状を前にしても何も言わなかった。クロードがこの裏切りに出ることを、最初からわかっていたかのような落ち着きぶりだった。こんな戦場にあっても、彼女はどこまでもいつも通りで、気高いままだった。
 けれど、前線に立つ彼女の部隊は、猛攻を前にじりじりと押し返されてゆく。
 救援に向かわせた兵たちが、黒鷲の旗の前に次々と薙ぎ倒されるのが見えた。ヒルダは下から射掛けられる矢の雨を間一髪で躱しながら、重い斧を振るって群がる帝国兵を叩き落としてゆく。だが、多勢に無勢だった。
 鋭い矢尻のひとつが飛竜の翼を深く裂き、悲鳴を上げた騎獣がよろめくように高度を落としはじめる。ヒルダ自身の肩も大きく上下し、荒い息を吐きながら、なお必死に戦線を支えようとしていた。
「ヒルダ! 無理せず逃げろと言っただろ? ここは俺に任せて、撤退するんだ!」
「ごめんね、クロードくん……あとは頼んだよ……!」
 おぼつかない羽ばたきで、ヒルダと飛竜は後方へ逃げてゆく。
 ふと、岩場をふたつほど越えた先を、鈍い光とともに紫の髪が駆けてゆくのが見えた。クロードの予想通り、男は西の溶岩流を避け、東の道から北へ向かうようだ。あと少しすれば、もうひとつの戦が始まるだろう。
 クロードは弓を手に取り、灼熱の最前線へ身を躍らせる。
「ここが正念場だな。さあ、俺が相手になるぜ!」
 しかし、同盟の盟主を引きずり出した帝国軍の動きは、恐ろしいほどよく揃っていた。
 腹心ヒューベルトの放つ闇の魔道が、先回りするように退路を抉る。立ちのぼる噴煙を縫って矢を射掛けても、エーデルガルトの振るう覇者の斧と厚い装甲の前に、ことごとく弾き落とされた。
 上空から死角を突こうにも、息もつかせぬ連携に飛竜の動きすら制限される。熱風が肺を焼き、弓を引き絞る指先からじわじわと感覚が奪われてゆく。戦局を支配するはずが、いつの間にか逃げ場を塞がれ、追い詰められる側になっていた。視界が明滅し、狙いも定まらない。
 それでも、ここで倒れるわけにはいかなかった。
 クロードはいま、ひどく個人的で、取るに足らない焦りだけで弓を握っている。
 期待して待っているなどと、勝手な手綱を結びつけたのは他でもない自分だった。自分が死ねば、あの口約束は最悪の呪いになって彼を縛り付ける。それだけは、どうしても避けなければならない。
 血を吐くような意地が、限界を迎えていたはずの指先に無理やり力を込めさせる。大義でも野望でもない。ただひとつの約束を守るためだけに、クロードは迫り来る皇帝の刃へ、最後の矢を引き絞った。
 その刹那。
 視界の端、はるか遠くの戦場から、標的である双剣の傭兵に背を向け、群がる帝国兵を獣じみた荒さで撥ね退けながら、ただ西へ、西へ駆けてくる男が見えた。
 ベレトだった。
 はるか東にいたはずの彼が、クロードの危機を察し、なりふり構わず戦列を離れようとしている。
 距離は遠い。
 それでも、こちらへ手を伸ばす顔には、これまで一度も見せたことのない決死の形相が張り付いているのがわかった。彼自身が傷つくわけでもないのに、その表情は痛々しいほどにゆがみ、崩れていた。
 相反する大きな感情が一気に吹き荒れ、引き絞っていた弦からふっと力が抜ける。
「来るな! あんたはあんたのやるべきことをやれ!」
 肺の底から絞り出した咆哮は、鋼のぶつかり合う喧騒にあっけなく掻き消された。はるか遠くにいる彼へ、声が届いたのかどうかもわからない。
 やがて、執拗に追い縋る闇が飛竜の巨体を打ち据えた。悲鳴とともに岩肌へ墜落し、逃げ場のない岩壁へ追い詰められたクロードの頭上に、皇帝の重い刃が死の軌道を描いて振り下ろされる。
 直後、耳鳴りすら置き去りにするような凄まじい音とともに、覇者の一撃がクロードの身体を容赦なく打ち砕いた。
 自らの血が灼熱の地へぶち撒けられ、視界が真っ赤に反転する。盤上の駒が乱暴に放り出されるみたいに、身体が乾いた岩肌へ叩きつけられた。
 遠のく意識のなかで、取り返しのつかない罪悪感が鋭く胸を締め上げる。
 彼を復讐から解き放つどころか、勝手な情で死地へ誘い込んだ。盟主としての理屈を盾にしながら、ほんとうは自分自身の身勝手な執着こそが、あの人を地獄の底へ道連れにした。
 彼が最後に見せたあの痛ましい顔は、クロードの選択がもたらした残酷な結末にほかならない。

 フォドラの神など、これまで一度たりとも信じたことはなかった。あらかじめ定められた運命など存在せず、すべては己の策とかき集めた手札を使い、この手で掴み取るものなのだと、そう嘯いて生きてきたはずだった。
 だが、視界が黒く濁ってゆくなかで、クロードは生まれて初めて、見えないものへなりふり構わずすがっていた。
 俺の命はどうなってもいい。どれだけ嘘吐きと謗られても構わない。だからどうか、あの人だけは。この地獄から、生きて帰してやってくれ。夜明けを見せてやってくれ。
 血の味のする口の中で、必死に祈りを反芻する。肺腑を灼く後悔が、喉の奥から止めどなく溢れる。
 遠のく戦火の響きに耳を澄ませながら、クロードは、届くはずもない赦しを乞うように、残された息を宙へ吐き出した。


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