@otohitoe_
親しい同僚たちとの飲み会だったアジラフェルを迎えに行くと、アジラフェルにしては珍しくしたたかに酔っていた。
連絡がきたときの様子からなんとなく察してはいたが、実際に目にするとほお、と妙に感心した。酒に酔うなんて如何にも大人らしいじゃないか。クロウリーの目には今でもかわいい学生に見えることもあるのに。
「あなたの話をしていて、ついお酒が進んじゃったみたい」
「惚気話か?」
「そう」
傍についていてくれたアジラフェルの同僚で友人のマギーに手伝ってもらって後部座席に引きずり込む。何かうにゃうにゃ言っていたが無視した。
「飲まなくたって普段からいつも聞かせてるだろ。悪いな」
「あなたたちって二人揃ってそんな感じなのね」
「送ってくよ。ついててやってくれ」
マギーはありがとう、とアジラフェルの隣に乗り込んだ。
総合受付をしている職業柄か、マギーはろくに呂律の回っていないアジラフェルの話にも丁寧に付き合ってやってくれていた。
「クロウリーを初めて見たときの話、したことあったっけ…」
二人のふわふわとした会話を聞くともなしに安全運転に努めていたクロウリーだったが、そう語り出したアジラフェルの話についバックミラーに目を遣ると、人の良さそうなマギーの微笑みがにっこりと返ってきた。
「一目惚れだったのよね」
「ある意味そう…ふふ、プラネタリウムでね…」
…プラネタリウム?
思いもよらない台詞に一瞬思考がとまる。
何度となく聞いたことのある話のはずだった。学生時代、店の前を通りがかったときたまたまおれを見つけて、一目惚れした勢いで通い詰めて今に至る、そんな話のはずだ。
「クロウリーのことは、中学に上がった頃からなんとなく知ってたんだ。時々お店の前を通って学校に行くこともあったから。綺麗な人がいるなあと思っていて…それで…二年のとき、遠足も兼ねた課外授業でね、プラネタリウムに行ったんだ。そしたら…」
「クロウリーさんがいたのね」
「そう。クロウリーはガイドでね…しっかり意識したのはそのときだったから、厳密に言えば、一目惚れではないのかもしれないけど…」
初耳だ。
ずっと前、確かにほんの少しだけそのバイトはしたことがある。星空の投影中に用意された原稿をただのんびり読み上げるだけの楽しい仕事だった。客は様々だった。家族連れやカップル、アジラフェルの言うように遠足だか課外授業だかで来るのも幼稚園児から高校生までいた。
その中にいたのか?中学に上がった頃からって、つまりおまえが十二、三のときってことで、だったらおれは二十四、五ってことだ。おまえがおれと付き合い出したのと変わらないような歳。ということは、もしかしたらおれもおまえのことを見ていたかもしれなかったりするのか?
クロウリーの頭の中は疑問符でいっぱいだった。
アジラフェル、おまえ、そんなにずっと前からおれのこと知ってたのか?そんなにずっと前からおれのこと好きだったのか?
「すてきね」
「とってもね…」
おれは初めて聞いた。初めて聞いたぞ、アジラフェル。
あまりの衝撃的な話にクロウリーはごくりと固唾を飲んだ。きっとこれはアジラフェルが大事に抱え続けているのだろう、クロウリーには明かすつもりのない秘密だ。
「物語みたい」
「クロウリーには内緒にしててね」
そうだろうとも。後ろでマギーが言葉を飲むのを感じる。
「…今の話?」
「クロウリーには、一目惚れしたのはわたしが二十歳のときって言ってるんだ。未成年どころか、まだ子供みたいな歳の頃から好きだったなんて言ったら、きっと相手にされないと思って…そうだろ?」
バックミラー越しに見つめてくる神妙な面持ちのマギーに気付き、クロウリーは肩を竦めて応えた。
「…どうかしら」
マギーが心配しているようなことは決して起こらないが、安心させてやれるような上手い文句は出てこなかった。今アジラフェルにクロウリーのいる状況を突き付けるのも絶対に悪手であることもわかっていたし。
それにクロウリーの頭の中は様々な記憶と数字が浮かんでは消えて通り過ぎて流れて行って、とにかく大変だった。アジラフェルは十四のときからおれのことを好きだったらしい。ということは初めて店に来たときにはもう六年の片思い中だったのだ。思春期真っ只中の少年が、声もかけず顔も合わせず、一人でずっと、六年も。
その頃の自分がどんなふうだったかなんて全然思い出せない。たぶん髪は長かった。髭…も無いな、もう脱毛済みのはずだ。
あの頃はバイトがメインで店のほうは結構放ったらかしで、来る客も顔見知りばかりだった。おかげでアジラフェルが来た
ときのことは割と覚えている。
初めて店の中に入ってクロウリーに声を掛けたそのとき、どれほどの緊張と期待がその胸にあったのか。どうしてもアジラフェルの心情のほうを想像してしまう。それまでの六年間、一人でクロウリーのことを思い続けていたそのまさしく執念じみた恋心を。
不思議と、嘘を吐かれていた、とは思わなかった。うれしかっただろうなと思う。店に来ておれと話して、顔や名前を覚えられて、友達になれて…いや、待てよ。だとしたら出会ってから付き合うまで二年もかけたのは奥手が過ぎる。よかった、あの夜家に連れ込んだことへの正当性が増してきたというものだ。
マギーを送り届けたあと、自分たちの家へ帰り着いた頃には深夜に差し掛かろうとしていた。
アジラフェルを先にベッドへ転がして、手洗いを済ませて着替えを準備する。今夜はシャワーは難しいだろう。
ついでにキッチンから水を汲んできてやって寝室へ戻り、ベッドの縁に腰掛けて飲むよう促す。
(さて)
どうしてやろうか。
と、こくこくと喉を鳴らすアジラフェルを見下ろす。
明日はお互い休みにしてあるから夜更かしするぶんには問題ないが、果たして問い質すかどうか、クロウリーはまだ決めかねていた。
おそらくクロウリーにだけは絶対に明かすつもりのなかった秘密を勝手に聞いてしまったようなものだ。もとを正せば酔っ払って口を滑らせたアジラフェルがいけないのだが、どうにもかわいそうになってしまって躊躇われる。
怒る気はさらさら無い。ただ、記憶の整理と答え合わせをする時間は欲しいかもしれない。
「アジラフェル」
「ん…」
紅潮した頬を撫でてやると、アジラフェルの目がぼんやりと開く。ああでも、言ってしまいたい。
「おまえってほんとにずっとおれのこと好きなんだな」
アジラフェルの秘密には怒りや呆れよりもむしろ脱帽した。どれだけ思い返しても、クロウリーの記憶の中のアジラフェルがそこからぶれることは一切ない。まさか十四の少年の頃からそうだったなんて誰が想像する?
もしかしたら酔っ払いの戯言なのかもしれない。そうだったらいいな、というアジラフェルの密かな願望とか…いや、それはそれでちょっと考え物か。プラネタリウムで働いていたこととも辻褄は合うし。そんな話をしたことがないとは言い切れないが、真実を確かめる術はクロウリーには無い。働いていた時期はどうにかしてわかったとしても、どの時期にどの学校の課外授業があったかまでわかるとは思えない。
「好きだよ…」
少し掠れた低い声でアジラフェルはそう答えた。寝起きのようなとろりとした眼差しに、まっすぐ見つめてくる青い瞳。
それならもうなんでもいいか、と考えを放り投げてしまえるくらい、クロウリーはアジラフェルの寝顔にはめっぽう弱い。
ベッドから下りて床に膝を付き、縁に両腕を掛けてアジラフェルに顔を寄せるとアルコールが強く香った。
「きみに名前を呼んでもらえるだけで今でもうれしい」
「アジラフェル」
「ふふ…やさしいね…」
アジラフェルはクロウリーを見つめたままふにゃりと微笑んだ。どうしておまえはこういうときのほうが大人っぽくて男前なんだろうなあ。頬杖をついてまじまじ観察してみるが、普段はおれを意識しすぎているせいでかわいくなってしまうんじゃないだろうか?みたいな馬鹿らしいことしか思い浮かばない。
「他には?おれに何されたらうれしい?」
「んん…そうだな…」
「最近じゃなくて、昔のことでもいいぞ」
空いているほうの指の背ですり…と目尻を撫でてやる。アジラフェルは「むかし…」と呟きながら考え始めた。
「付き合う前とか」
さすがにちょっと誘導尋問が過ぎるか。そう思いつつ、またボロを出さないかと返答に少し期待してしまう。
「付き合う前…」
「うん」
「友達って呼んでいいかって訊いてくれたことあったよね」
「…あったっけ。おれが言ったのか?」
「あのときすごくうれしかったな…」
覚えているようないないような。いまいちぴんとはこないままだが、アジラフェルがあったと言うならあったのだろう。
「うれしかったのか?」
「もちろん」
「でも、そのときにはもうおれのこと好きだったんじゃないのか?」
「好きだったけど、それまでは知り合いでもなかったのが、顔見知りになって、ご飯行くようになったりして、それで『友達』って言ってくれたらうれしいに決まってる」
「ふうん。健気なやつだな」
六年も一人で片思い拗らせてたらそういうふうにもなるか。アジラフェルの言い分にはいつも以上の説得力があった。
そのときのことを思い出せればいいのだが、やっぱりよく覚えていない。なんでそんなこと訊いたんだろう。素面でわざわざそんなふうに訊くことはないと思うから酒が入ってそうだ。まあ、たぶんおれも友達ができてうれしかったんじゃないかなと思うよ、アジラフェル。
「ほんとに少しも悲しくなかったのか?」
「そうだね…好きだけど、付き合おうというか、付き合えるだなんて考えてもいなかったし…」
「本心か?」
「昔はね…」
アジラフェルは慈愛に満ちた眼差しでクロウリーを見上げ、ゆっくりと深く息を吐く。会ったときからそんな熱っぽい目をしてるせいだ、おれが気付くのが遅くなったのは。おれならそれだけ待ったら追加でもう二年なんて待ちきれないと思う。…というか、待てよ、六年もあったらその間に付き合ってる相手がいた気がする。だって二十四のときっていったら、うわ、いる、絶対アジラフェルだって見たことがあるはずだ。アジラフェルと会う前にはとっくに別れてはいたものの、長く付き合っていた女性がいた。アジラフェルにもほんのり話したことがある…と思う。別に今更揺らぎはしないが、ちょっと怖いぞ、おまえ。一体どんな気持ちで見てたんだアジラフェル、絶対に精神衛生上良くなかっただろうに。
「好きな相手に友達だって言われたらちょっとは切なくなるんだけどな、ふつーはさ」
「まあ、切なくはあったかもしれないけど。でもうれしかったからいいんだ」
「じゃあ逆に、おれに言われてむっとしたことは?」
「ん…どうだろう。あるかな、そんなの…」
「まだ喧嘩もしたこともないもんな」
自分で言ったその言葉に、ふとひとつ思い起こされた出来事がある。
喧嘩ではないが、喧嘩っぽいことはしたことがあった。一度だけ、あの夜のことだ。
「…昔さ」
「うん」
「おれに別れようかって言われたことあったよな」
「……ん…」
「あのとき、おれに腹が立ったんじゃないか?」
クロウリーはアジラフェルの頬に触れたまま静かに尋ねた。
苦い思い出を話すと言葉にもその味が移って、少し舌を鈍らせる。流し込むアルコールがあれば良い助けになっただろうが。
「きみに?」
アジラフェルは体を起こそうとしたようだが上手くいかなかったらしく、すぐにあきらめて頭を枕に戻した。
「おれはちょっと腹立つよ、今になって思い返すと。余裕ぶって尤もらしいこと並べて、おまえのためにだなんて言いながら、おまえに嫌われないままつらいことから逃げようとしてた。ずるいよな」
「そんなこと…」
「おまえはずっとおれが好きだったのにな」
そうだ。アジラフェルはずっと好きでいてくれたのに。あのとき感じていたものなんて比じゃない本当の重みが今日ようやくわかった気がして、クロウリーは過去の自分の選択を心底悔やんだ。
「おまえが好きだって言う同じ口で別れようとしてさ…だから、少しはおれにむかついたろ」
「どうして…あの頃はほんとに、わたしが悪かったのに…」
「少しも腹立たなかったのか?」
「理由がない」
酔いを忘れたのかと思うほど、はっきりとした口調だった。
あのとき咄嗟におれのこと押し倒したくせに、とは言わなかった。あれは怒りというより戸惑いからだったのをわかっている。どうしたらいいのかわからなかったんだよな。本当に悪いことをした。ろくに休むこともできず疲れきっていた時期で、色んなことで頭がいっぱいだったろうに。
「あの頃のわたし、ほんとにだめだったよね」
「だめって?」
「きみに価値があると思ってもらえるようにならなきゃって、頑張って…頑張ってたけど、下手だから全然うまくいかなくて、空回って…ほんと…一番情けなくてかっこわるくて、思い出したくない時期だ…」
「おれはおまえのことを格好悪いとも情けないとも思ったことない。一度もだぞ」
「きみはそんなふうに言ってくれるのに、あのときのわたしには全然響いてこなくて」
「………」
「だから、怒りなんかなかった。ただ悲しかった…」
舌っ足らずな口調が余計に憐憫を誘う。ごめんな、と口を開きかけたとき、
「あんなこと言わせてごめん…」
と先に言ったのはアジラフェルだった。クロウリーは思わずふっと笑ってしまった。
「おまえが謝るのか」
「きみだってつらかったろ」
「………」
「わたしのこと好きだから…」
頬に添えたままのクロウリーの手をゆっくりと包み、アジラフェルは真面目な顔でそう言った。そういえばそうだったな。おまえも、おれがおまえを好きだってことを疑ったことはないって言ってたもんな。謙虚なんだか図太いんだか、おまえってやつは本当に。
「そうだな」
いつでもそんなふうでいてくれよ、とクロウリーは強く手を握り返した。
漠然とした好意が確かな愛情に成り上がっていたことを自覚したのは、正直に言えばその別れ話をしたときかもしれない。
誰にもとられたくない、と縋られたとき、すとんとその言葉が腑に落ちた。
アジラフェルはおれの気が他の誰かに向いてしまうことが何より怖いのだとわかって、なんだそれなら至ってシンプルな話じゃないか、と胸の内側に巣食っていたぐちゃぐちゃした蟠りがあっさり消え去ったのだ。
だっておれはもうアジラフェルのことをすっかり愛してたんだから、そんな心配なら必要なかったのだ。相応しいとか釣り合うとかそういうことはアジラフェル自身が片付ける問題であって、クロウリーはただアジラフェルを愛しているということを証明すればよかったのだ。それだけのことだった。
とはいえ、一緒になろうと提案したあのとき、さすがにほんの少し勇気は要った。アジラフェルの返事はわかりきっていたが、ひと回りも年下の、これから引く手数多であろう明るい未来ある医者の男の一生を、何者にもなりきれず流れに流されてきたおれのような人間がひとり占めさせてもらうことへの覚悟は必要だった。
アジラフェルがどう思っているか知らないが、世間的に見て恵まれているのはどう考えたってクロウリーのほうなのだ。
おまえのほうがおれなんかには勿体ないよ、と言いたいが、きっと死ぬまで抱えているはずだった秘密をうっかり零してしまうほど泥酔していてもこんなに愛情を向けてくれるんだから、おれたちってたぶん、おれたちでいいんだよ。
「おまえとずっと一緒にいたいなあ」
「いようよ…」
「ふふ…」
口から洩れた本心に、アジラフェルはやはり真面目に答えてくれた。
「うん」
膝立ちになって身を乗り出し、両手で顔を掴まえて、どんなに酔っ払っていてもよくわかるよう、さあキスするぞとたっぷり助走をつけて唇を重ねた。
強い酒気を纏う、あたたかく甘美なやわらかさ。触れる口の端が緩く持ち上がっても構わず食んだ。
「クロウリー、こっちおいでよ。床痛いだろ」
「少しは酔いが醒めてきたか?」
「おいでってば」
「わかったわかった…」
笑いながらベッドに乗り上げて、アジラフェルの体を跨いでいつも通り壁際側へ寝転んだ。ああ、着替え持ってきてやってたのに。うっかり一緒にベッドに入っちまった。こうなったらもう自分の意志で抜け出すのは困難だ。
クロウリーは深く息を吸って、せっかく用意してやった着替えのことも、車で聞いた衝撃的な事実も、口の中に残る苦い思い出の味も、全部一息に吐き出した。
「ね、ほら、足冷たくなってる…」
「おまえ酒くさいなあ…」
「ごめん、別で寝る?」
クロウリーは何も答えず、アジラフェルの背を抱き返すことで返事とした。
もう忘れたのか?この酔っ払い。
一緒にいるって言っただろ。