完成させたはいいものの、ちょっと納得いかないものたちを入れておく場所で、ぜんぶレトクロ。
未完成という注釈がない限りは、基本的には完成したものを入れております。
@Bombwooo
▼『平行光』(※現パロ)に入れたかったけと入らなかったエピソードたち⇒2≫
▼無双(黄燎)軸/ベレト加入ルートでEDから数年後、共依存になりかけるふたり⇒3≫
▼無双(赤焔)軸/ベレト未加入ルートの記憶有転生現パロで、責任を取ろうとするベレトと、ほだされるクロード⇒4≫
▼無双(赤焔)軸/ベレト未加入ルートのEP.10後、「ひとりで戦場を転々とするベレトを、クロードが探し出したとしたら?」という可能性を形にしたもの⇒5≫
▼『長い夢を見て』(※死亡表現有)初期稿⇒6≫
▼『平行光』(※現パロ)に入れたかったけと入らなかったエピソードたち
1.
燃えたり揉めたり、火に油を注ぎつつ時に謝ったりしながら、俺たちはどうにか検収にこぎつけた。今日もまたひとつ、理不尽な案件が片付いたところだ。「今日は俺の奢りだ」と宣言し、俺は彼を駅前の焼肉屋へ連れ出していた。
網の上に並べた肉を、ベレトがトングで裏返そうとする。だが、まだ焼き色がついていないのを見て、俺は慌ててそれを制止した。
「待て待て、まだ早いって。俺が焼くからあんたは食え。また無理してもらわないといけないからな」
「……厄介事は持ち込まないと約束したのに」
トングを奪われた彼は、不満そうに口元を引き結んだ。
「そんな約束はしてないだろ。それに正確には俺が持ち込んでるんじゃなくて、客がわがまま言ってるから結果的に厄介事になってるだけ」
「でも、君が――」
「わかったわかった、ほら、好きなの頼めよ。あんたに嫌われたら俺は生きてけないんだから」
大袈裟に肩をすくめてみせると、彼は呆れたように小さく息を吐き、席に置いてあるメニューを開いた。
「すみません、ご飯のおかわりを。それと、ビビンバを、ひとつ」
通りかかった店員に注文を告げる彼に、俺は笑いかけた。
「おお、食え食え。徹夜明けの飯は美味いよな。……遠慮すんなよ、俺の残業代はぜんぶあんたの胃袋に捧げてやるから」
「……それは違う」
網の上の肉をひっくり返していた俺に、不意に低い声が降ってきた。顔を上げると、注文を終えたばかりのベレトがわずかに唇を尖らせてこちらを見ている。
「何が違うんだよ」
「君の残業代は、君が身を削って稼いだものだ。自分ばかりが一方的に恩恵を受けるのは、どうにも座りが悪い」
ひどく真面目な顔でそう言い切ると、彼は再び店員を呼び止め、取り分け用の器をひとつ頼んだ。
運ばれてきた器に、ベレトは慣れない手つきでビビンバを半分よそい、さらに網の上で一番良い焼き加減になっていた肉を二枚乗せて、俺の目の前に差し出した。
「ほら、君も食べるんだ」
差し出された器を見て、俺は思わず吹き出しそうになった。彼なりに気を配ってくれたのだろうが、よそわれたビビンバは白米と具材が完全に分離していて、まったく混ざりきっていない。
「なんだよそれ、全然混ざってないじゃないか」
「……そうか。貸してくれ、もう一度混ぜるから」
ばつが悪そうに器へ手を伸ばしてくるのを、俺は笑いながら制止した。
「いいよ、このままで。ありがとな」
会社の飲み会では、周りの空気を読むこともなく、隅の方で余ったサラダや冷めたパスタを口に運んでいるだけの男だ。他人の皿に料理を取り分ける姿なんて、一度だって見たことがない。
そんな彼が、俺にだけはこうして世話を焼いてくれる。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。我ながらずいぶんと安上がりな男になったものだと自嘲しつつ、理性とは裏腹に、にやけたくなるのを我慢した。
2.
オフィスの自席で作業していると、相変わらずの静かな足取りでベレトがやって来た。
「少し手伝ってくれないか。サーバーが届いた」
「はいはい、すぐ行くよ」
俺は即座に立ち上がり、シャツの袖をまくった。営業兼PMだからといって、一日中デスクでふんぞり返っているわけではない。現場の力仕事くらいはこなせる程度に鍛えている。
サーバールームに移動し、ラックマウントキットを手際よく取り付けたあと、数十キロはある鉄の塊を挟んで定位置につく。
「せーの」
声を合わせて一気に持ち上げる。腰にずしりと重みが乗るが、向かい側に立つベレトの手元は微動だにしない。そのままラックの目的の高さまで持ち上げ、レールに滑り込ませる。
「そっち、レール噛んだか?」
「ああ、問題ない。君のほうから下ろしてくれ」
「わかった、ゆっくりな。……よし、下ろした」
「奥まで押し込むぞ」
彼の低い声に合わせて、同時にサーバーを奥へと滑らせる。小気味よいロック音が鳴った。
「こっち、手離すぞ」
「ああ。……よし、自分も離した。そこの金具、端が鋭くなっているから気をつけてくれ」
「おう、ありがとな」
彼が視線で示した先から手を引き、俺は小さく息をつく。単純な力仕事とはいえ、相手が何百万もする代物となるとどうしても気は抜けない。
「手伝ってくれて助かった」
「サーバーでもUPSでもなんでも任せろよ」
俺が胸を張って笑いかけると、ベレトは感心するどころか、すっと冷めた目を向けてきた。
「そうやって調子に乗ると腰をやるぞ」
「ははっ、ご心配どうも」
軽口を叩き合いながら、また各々やるべきことへと戻ってゆく。特別な言葉は要らない。でも、互いを思いやらないといけないこの作業が、俺は好きだったりする。
3.
繁忙期を無事乗り越えた、穏やかな午後のオフィス。俺の隣の席で、ベレトが廃棄予定だったミニPCにモニターを繋ぎ、真っ黒の画面に白い文字を走らせていた。
「また黒い画面と睨み合ってるな。今度は何するんだよ」
背もたれに寄りかかったまま声をかけると、彼はキーボードから手を離してこちらを見た。
「とりあえずUbuntuを入れたが、用途を決めかねている。どうしようか」
「あんたに分からないなら、俺にも分からないな」
思わず笑って返せば、納得したようにこくりとうなずく。
「なら、検証用の認証局でも立てておくか」
「へえ、CAね。まあ、暇なうちに好きなだけ遊んでおいてくれ。俺は溜まったメールを処理してるから」
適当に返事をして自分の画面に向き直ろうとした矢先、ひどく真面目な声が降ってきた。
「……ルート証明書のパスフレーズか。クロードのパソコンのログインパスワードと同じにするか」
「は?」
ぎょっとして隣を見る。俺はパスワード管理ツールを使って、それなりに複雑な文字列を設定している。タイピングを盗み見られた程度で覚えられる代物ではない。それなのに、なぜ。
「な、なんで知って、いや、さすがに冗談だよな?」
「冗談だ」
淡々と告げる彼の横顔は、まったく笑っていない。
「君のことだから、ツールで生成した無意味な英数字の羅列を使っているんだろう」
あっさりと俺の用心深い性格を言い当てられ、言葉に詰まった。セキュリティを破られたわけではなく、ただ、この無口な男が俺の行動の癖を正確に見透かしているという事実が、不意打ちのように胸を突いたのだ。
そのちょっとした動揺を悟られないように、俺はわざと呆れたような声を出す。
「……そういうあんたはどうなんだよ」
俺が冗談まじりに言うと、彼はぴたりと動きを止め、わずかに視線を泳がせた。
「自分は……」
「ん?」
「この文字列を」
彼は真顔のまま、自分のノートパソコンを持ち上げ、底面に貼られた一枚の黄色い付箋を剥がして俺に見せた。
「忘れないように、ここに貼っているが」
「……で、それを使いまわしていると」
どうかさっきみたいなたちの悪い冗談であってくれ。そんな俺の祈りを打ち砕くように、彼は開き直ったように堂々とした顔つきでうなずいた。
「パソコンの裏面なら、盲点だと思って」
「セキュリティの教科書に載るレベルの最悪な合わせ技じゃないか。……とりあえず、その付箋は今すぐ剥がせ。俺とあんたが怒られないうちに」
まさかすぎる管理方法に、俺は先ほどまでの動揺もすっかり忘れ、頭を抱えた。
「よし、決めた。あんたのパソコンにも管理ツールを入れる。設定が終わるまで俺が横で見張ってるからな」
途端に、彼は分かりやすく眉間を寄せた。余計な仕事を増やされたと言わんばかりの、ひどく面倒くさそうな顔だ。
「……見られていると思うと緊張する。それに」
「それに?」
「パスワードの設定画面を君に見られては、自分のこの作業は意味がないんじゃないか」
「……」
ノートパソコンの裏に付箋を貼っていた男が、どの口でそれを言うのか。
「あんたなあ……ほんと、こういう言い訳の時だけよく口が回るよな」
「事実を言ったまでだが」
「じゃあ、パスワードを決めるって時になったら、俺は目を瞑っててやるから。それでいいだろ? わかったらさっさとツール入れて、新しいのを考えてくれ」
不満げに黄色い付箋を丸める彼を見下ろしながら、俺はキャスター付きの椅子を隣へと引き寄せた。
4.
そろそろ昼休みが終わろうかというころ。外での食事を済ませてオフィスへ戻るついでに、ひどい眠気を散らすための缶コーヒーを自販機で買った。
自分のデスクへ近づくと、隣の席でベレトが突っ伏しているのが見えた。いつも隙のない男が、完全に意識を手放して穏やかな寝息を立てている。
珍しいこともあるものだと覗き込み、俺は危うく吹き出しそうになった。彼の口元に、わずかによだれの跡が光っていたからだ。
そのあまりに無防備な姿に、胸の奥がくすぐったくなる。音を立てないよう静かに自分の椅子へと手を伸ばしたものの、彼はびくりと肩を揺らして目を覚ました。
「……おはよう」
寝ぼけた目で俺を見上げ、とっさに口元を拭う。そのばつが悪そうな顔を見て、俺は手に持っていた缶コーヒーを自分のポケットに滑り込ませた。
「おはよう。ずいぶんとお疲れだな」
「……ああ。検証に手間取って」
「自販機のコーヒーじゃ目も覚めないだろ。ちょっと外の空気吸いに行かないか。コンビニのコーヒーのほうが美味いからさ」
俺が声をかけると、彼は少し瞬きをしてから、短くうなずいて立ち上がった。
隣を歩きながら、ポケットの中で所在なげに揺れる缶コーヒーに触れた。眠気覚ましはいくらあっても困らないからと、ひとり言い訳をして。
▼無双(黄燎)軸でEDから数年後、ベレト加入ルートで共依存になりかけるふたり
執務机に積み上げられた羊皮紙の束は、出口の見えないまま停滞を続ける戦局をありありと物語っている。
同盟を連邦国へと作り変え、王という頂きに立ったはずのクロードの横顔には、いつからか濃い陰影が落ちていた。
南から定期的に運び込まれる武具や糧食の目録。それらが陣屋を満たすたび、他国の掌の上で辛うじて生かされているに過ぎないのだという現実が突きつけられる。覇道をゆく帝国と歩調を合わせ、共闘という名目を掲げ続けなければ、この脆弱な国はとうの昔に瓦解を余儀なくされていた。
自らの足で立っているように見えて、その実、誰かの意図によって動かされているだけの空虚。それは皮肉なことに、与えられた指示がなければ剣を振るう理由すら見出せない、あの灰色の悪魔の在り方と酷似している。
厚い雲が空を覆い、星がひとつふたつしか瞬かない、いちだんと暗い夜だった。
重苦しいほどの静謐が陣営を包み込むころ、灯火を絞った薄暗い天幕へ、クロードは件の男を呼び出す。
卓を挟んで向かい合うベレトの表情には、相変わらず感情の起伏が見受けられない。彼の父であるジェラルトの命数が尽きかけていることは、陣中の誰もが知る事実だった。近ごろでは寝台から起き上がることも叶わず、代わりに傭兵団の指揮を執る青年の瞳は、依然としてその奥底を窺わせない。
「……次の戦いを最後に、」
空気を震わせたクロードの声は、ひどく冷ややかな色を帯びる。どこか他人事のような、事務的な響き。私情を交えぬよう、意識して己の心を殺した証である。
「あんたたちとの契約は、終わりにしようと思う」
他の奴らには上手く言っておく。あんたがどこへ行こうと、俺は恨みはしない。
淀みなく紡がれる言葉は、彼を縛り付けていた見えない糸を断ち切るための鋏だった。ここに彼を留め置いたところで、報われない明日をただ消費してゆくだけだ。連邦国と共にすり潰されてゆく前に、その手を放す。この先に何が待つかは定かではないが、少なくとも終わりの見えない膠着よりは、幾分かましな未来を選べるはずだ。
宣告を静かに受け入れるかと思われたベレトの顔が、ふいに無残なほど歪む。
予期せぬ反応に、クロードは息を呑んだ。彼を手放し、自由にしてやりたいと願ったのは為政者としての理屈であり、当の本人にとっては足元を崩されるような、一方的な拒絶に等しい。
「ジェラルトも、もう長くはない」
絞り出すような声が、夜の静寂を切り裂く。
「彼がいなくなったあと、傭兵団をどう維持するか、あるいは別の伝手を頼るか。頭では、やるべきことは分かっているのに、」
これまで常に誰かの指示に従い、戦場を駆けてきた男。傭兵としての立ち回りは熟知していても、自らの意志で選択肢を生み出し、望む道を選ぶという術を彼はまだ知らない。唯一の肉親を喪うという巨大な恐怖に直面し、寄る辺を失ったまま立ち尽くしている。
揺れる瞳でこちらを見つめ、父の死という抗えない運命と、雇い主からの突然の決別という現実に、ただ救済を渇望するように縋り付いてくる。
「自分自身がどうしたいのかが……分からないんだ」
これからどう生きるべきか。そんな問いに対する正解など、誰にも分かりはしない。己の行く末に思い悩むのは至極まっとうな人間の営みだ。だが、与えられた命題をこなすことしか知らず、ようやく心というものの産声を上げたばかりの青年からすれば、それはあまりにも途方もない闇なのだろう。
そして、その見えない明日に足が竦むのは、王という頂きに立ってなお正解を見出せずにいるクロードとて同じこと。
切実な響きを持った声で問われるたび、クロードが己を守るために張り巡らせていた虚勢が、音を立てて瓦解してゆく。
彼が求めているのは、クロードという個人の人間性ではない。ただ、暗闇を歩くための松明を、生きるための標を欲しているだけだ。その盲目的な従順さは純粋ゆえに残酷で、けれど、今のクロードにはあまりに心地よすぎる。
互いの抱える飢えの形は、根本から異なっている。ベレトは喪失の恐怖から身を寄せる場所を求め、クロードは彼との間に、唯一無二の絆を渇望している。導いてくれる標さえあれば相手は誰でもよかったのかもしれない男と、彼でなければ決して満たされることのない己。いびつに絡み合ったこの糸を、決して同じ色には染められないと理解しながらも、己の指に巻き付いた結び目から目を逸らすことはできない。それは自らを蝕むと分かっていても手放すことのできない、ひどく静かで悲しい執着だった。
彼を自由にしてやりたいというのは、体裁を保つための浅ましい嘘だ。本当は、出口のないこの関係から逃げ出したかっただけで。これ以上彼に依存すれば、いつか両者共々破綻する。だからこそ、相手を盤上の駒として扱う王の論理を隠れ蓑にして、彼への昏い期待を捨て去りたかった。
どうして、共に底の抜けた暗がりへ落ちてゆく前に逃げ出せと突き放しているのに、分かってくれないのか。すべてはクロード個人のどうしようもない身勝手さと臆病さゆえの決断なのだと、なぜ気付かないのか。行き場のない懊悩が、胸の奥で黒く渦を巻く。
しかし、目前で怯える男を前にしては、己の身勝手な葛藤などちっぽけな瓦礫に変わる。
ここにいてもよいことなど何ひとつない。そう告げるための正論は、居場所を失いかけている彼にとって致命傷となる。無防備な首筋に薄刃を押し当てるような残酷な真似は、もはやできなかった。
いつものように飄々とした態度は作れず、軽口で躱すことも叶わない。
彼を突き放すという選択肢は、とうの昔に失われている。伸ばされたその手を振り払えば、いよいよ己の心も完全に壊れてしまうだろう。
喉の奥にこびりついた大義名分を、ゆっくりと呑み込む。
突き放すべきだという理性を息と共に吐き出し、絡みついた見えない糸を自ら手繰り寄せるように、縋るその指先を固く握り込む。出口のない夜の重みごと引き受けるように、クロードは静かに彼の肩へと額を預ける。
▼無双(赤焔)軸の記憶有転生現パロで、責任を取ろうとするベレトと、ほだされるクロード
指定された貸会議室は、ひどく無機質で息が詰まる。ネクタイを一刻も早く緩めたい衝動を堪えながら、卓上に広げた数枚の書類に視線を落とし、手元のペンを指先で弄る。約束の時刻ちょうどに、控えめなノックの音が響いた。
「失礼いたします」
平坦で、嫌になるほど聞き覚えのある落ち着き払った声。
開かれた扉の向こうに立つ人影を見た瞬間、肺の奥から空気が根こそぎ奪われる。仕立てのいいスーツを着こなし、片手に鞄を提げた男。ごく一般的な社会人の記号を身にまとっているというのに、その佇まいに漂う静かな威圧感には見覚えがありすぎた。
一瞬、呼吸の仕方を忘れる。あの時から止まっていた時間が、唐突に動き出したような錯覚に陥った。
心臓が嫌な音を立てて跳ねるのを無視し、かろうじて営業用の愛想笑いを唇に貼り付けて立ち上がる。
「……本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。本件を担当させていただきます」
互いに深く頭を下げ、事務的な挨拶とともに名刺を交換する。
指先に触れた白い小さな紙片。そこに印字された文字へ視線を落とした瞬間、俺は内心で盛大に頭を抱えた。
ああ、嘘だろ。最悪だ。
嫌な予感はしていたが、ただの他人の空似というわずかな希望すら、たやすく打ち砕かれた。顔を上げれば、見間違えようのない整った顔立ちがすぐ目の前にある。こんなところで、この世でもっとも会いたくない顔を引き当てるなんて。ほんとう、ついてない。
問題は、こいつが前世の記憶――あの結末を保持しているかどうか。
「事前の資料は拝見しております。対象の素行調査についてですが――」
淡々と進められる業務連絡。彼の口調は完璧な敬語で、いち社会人としての範疇をまったく逸脱していない。
もっともらしい顔で手元の資料に視線を落としてはみるものの、文字なんて一行も頭に入ってこなかった。俺の意識は、彼が発する言葉の端々に過去の残滓が混じっていないかを探ることにしか向いていない。向こうがどういうつもりなのかは分からないが、俺の頭の中はすでに、この場をどう波風立てずにやり過ごし、そして逃げおおせるかで一杯だった。
時計の針が進むのが、ひどく遅く感じられる。
胃の腑が鉛を呑み込んだように重く、じきに鈍い痛みが主張し始めた。前世の業などというひどく重たいものを、こんな明るい蛍光灯の下で突きつけられる側の身にもなってほしい。
冷や汗をかきながら、どうにか調査の打ち合わせを終える。
「……承知いたしました。では、引き続きよろしくお願いいたします」
これ以上この空間に長居するのは危険だ。本能の警鐘に従い、俺は逃げるように立ち上がった。テーブル上の資料をひったくるように鞄へ押し込み、足早に出口へ向けて踵を返す。
ドアノブへ手を伸ばそうとした、その時だった。
「――待ってくれ、クロード」
背後に落ちた声から、敬語というよそよそしい膜が完全に剥がれ落ちていた。
肩が強張る。振り返るよりも早く、背後から伸びてきた手がドアに押し当てられ、物理的な退路を塞がれた。
至近距離に、ベレトがいる。スーツ越しに伝わってくる体温や気配が、痛いほど鮮明に迫ってくる。
営業用の作り笑いなどという安っぽい防壁は、俺を見下ろす切実な一瞥で瓦解した。こちらの動揺などお構いなしに、彼はひどく思い詰めた顔で言葉を紡ぐ。
「ずっと、探していた」
「……」
「自分は君にひどいことを……今世は自分のすべてを懸けて、責任をとりたいと思っている」
退路を塞ぐようにドアへ押し当てられた彼の手が、かすかに震えているのがわかった。
だが、俺の口から出たのは安堵でも感動でもなく、呆れを通り越した深い溜息だった。
この男は、何も分かっていない。
あの地獄で命を散らしたのは、誰に強制されたわけでもない、俺自身の決断だ。それなのにこいつは、あの結末を自分のせいだと思い込んで、その罪滅ぼしのためだけにこんな重苦しい誓いを立てようとしている。
「……退けよ、ベレト」
低く名を呼んで突き放すと、彼の肩がわずかにこわばる。
「俺は今、あんたと仕事の話をしてたんだ。前世のトラウマを引きずって面倒な誓いを立てられるのは迷惑なんだよ」
「しかし、自分は」
「大体、責任ってなんだよ。あんたに責任をとってもらう覚えなんかない」
すがるような声を強引に遮り、ドアに押し当てられていた腕を払いのける。あっさりと拘束が解けた隙を突き、俺は会議室の扉を開け放った。
「調査の報告、待ってるから」
背中越しにそれだけ言い捨てて、足早に廊下を立ち去る。
エレベーターホールに逃げ込むまで、俺は一度も振り返らなかった。自分がどんな顔をしているのか、何を考えているのかも分からないまま、ただ急かされるように下りのボタンを連打する。
置き去りにした男の、思い詰めたような顔が脳裏に焼き付いて離れない。静まり返った廊下に、追いかけてくる足音はなかった。
あんなふうにきっぱりと撥ね退けたのだから、彼も的外れな贖罪を諦めただろう。
そう高を括っていた俺は、完全に油断していた。まさか、あの男が、予想の斜め上をゆく形で俺の生活を侵食してくるとは思いもしなかったのだ。
昼休みのオフィス街。適当なメシでも買って帰ろうとビルを出たところで、見覚えのある長身が視界に現れた。
「……っ、うわ」
思わず変な声が出た。スーツ姿の彼が、俺の動線を完璧に先読みした位置で待ち伏せしていたのだ。手には、彼には似つかわしくない包みが提げられている。
「あんた、なんでここに……」
「君の職場は調べてある。これを持ってきた」
「……相手が俺じゃなかったら、泣いて警察呼ばれてるところだぞ」
呆れ果てて口を突いて出た皮肉もどこ吹く風で、有無を言わさず押し付けられた包みはずっしりと重く、ほんのりと温かい。
「君の好きなものを入れてみたんだが」
ひどく真面目な顔で言う彼から、無意識にそれを受け取ってしまったのが運の尽きだった。
自席に戻り、何の気なしに包みを開いた瞬間、鼻を刺すような香辛料の匂いが周囲にぶちまけられたのだ。隣の席の同僚が露骨に顔をしかめ、周囲がざわつくほどの破壊力。真っ赤に染まったおかずの山を前に、俺はそっと蓋を閉じた。
結局、残業を終えて家に持ち帰り、ひとりで冷めた弁当を温め直す羽目になる。
「……なんだってこんな」
香辛料の効きすぎた肉を咀嚼しながら、深い息を吐き出す。自分の決断の尻拭いを、現代にまで持ち越されているみじめさと疲労感。だが、不器用に詰め込まれたおかずの山には、俺の好みがいやというほど反映されていて、どうしても箸を置く気になれなかった。
翌日、提携先の担当者である彼へ直接連絡を入れる。仕事以外の連絡を入れるのは癪だったが、これしか方法がないのだから致し方ない。気持ちはありがたいが、匂いが強すぎて職場で食えないと文句を叩きつけた。
遠回しな拒絶のつもりだったのに、決定的な「もう持ってくるな」と送れなかった俺も、たいがい甘い。
明くる日の昼休み。またしても見慣れたスーツ姿が立っていた。もはや驚きもしなくなった自分にうんざりしながら、俺は足を止めた。
「……また来たのかよ。あんた、仕事はどうしたんだ」
「今は昼休憩だ。先日君から指摘された問題点は改善してきた」
相変わらずの真顔で、再びずっしりとした包みが差し出される。ひどく思い詰めたような、けれどまっすぐな瞳で見つめられ、俺は呆れながらもその温かい包みを受け取ってしまった。
自席に戻り、警戒しながら蓋を開ける。
あふれんばかりの香辛料の匂いはしない。代わりに、お世辞にも綺麗とは言えない、焦げ目のついた歪な卵焼きが無骨に詰められていた。彩りという概念はないらしく、茶色いおかずがぎゅうぎゅうに押し込まれている。
それからというもの、週に二、三回の頻度で彼は俺の前に出没するようになった。
弁当箱を開けると、昨日とまったく同じおかずが陣取っていることもある。腹が膨れればなんでもいい、と平らげるあいつの健啖ぶりを思い出して、思わず口元が緩んだ。文句のひとつも言ってやろうかと思うのに、不思議と箸は止まらない。味の濃かった肉や魚も少しずつ俺の好みの塩梅に落ち着き始め、不格好だった卵焼きも、日を追うごとに綺麗な黄色へと整ってゆく。
少し甘めの卵焼きを口に放り込みながら、ふと考える。
あいつは今ごろ、昼飯に何を食っているのだろうか。まさか、俺の弁当に入りきらなかった焦げた端っこの卵焼きを、ひとりでつついているんじゃなかろうか。
朝から不器用な手つきで台所に立ち、同じメニューを自分用のタッパーにでも詰めている姿を想像すると、頑なだったはずの意地が、あっさりと綻んでいった。
いつまでも貰ってばかりなのも、さすがに寝覚めが悪い。昼時のオフィスビルを出たところで、俺はいつものように待ち構えていた男に声をかけた。
「……よかったら、何かご馳走させてくれよ。俺の奢りだ」
近くのコーヒーショップへ誘うと、ベレトは少し意外そうに瞬きをしたあと、大人しく俺の隣を歩き始めた。
店先のメニューボードを前にして、彼は指先でひとつひとつ、ずらりと並んだ商品名をなぞっていく。迷っているのかと思えば、その指がぴたりと止まったのは、ホイップクリームが乗ったカフェモカの写真だった。
「……これがいい」
「へえ。相変わらず、俺とは好みが正反対だな。……せっかくだし、いちばんでかいサイズにしてやるよ」
笑いながら注文を済ませてやると、手渡された特大のカップを彼は落とさないよう慎重に運んだ。
ひと口啜り、しみじみと「おいしい」とこぼす。それはよかったと、心からの声がこぼれる。その無防備な様子を眺めていると、返さなきゃいけない義理の重さが、ほんの少しだけ軽くなるような気がした。
そんな奇妙なやり取りが日常に溶け込んだころ、俺は自分でもどうかしていると思う行動に出た。
あいつがあれだけ熱心に作ってくるのだ。触発されたわけじゃないが、気が向けば自分でも台所に立つようになった。実際にやってみると、あの小さな箱に彩りよくおかずを詰める作業は案外難しく、ひそかに苦戦を強いられた。
ある朝、俺はあいつのために詰めた弁当を持って家を出た。いつも与えられてばかりなのも癪だし、たまには俺の作ったものを食わせてやろうと思ったのだ。しかし、ビルの前で待っていたベレトは、俺の手に握られた袋を見るなり、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……自分も、作ってきた」
差し出されたのは、いつもの、少しだけ上達した卵焼きが入っているであろう包み。
「あー……悪い。事前に言っておけばよかったな。うまく作れるか分からなくて、どうも言い出しづらかったんだよ。……あんたに作ってきたんだが、いくらなんでも昼休みの間にふたつ食う時間はないよな。やっぱり食うよ」
俺がそう言って手元の袋を引っ込めようとすると、ベレトは静かに首を横に振った。
「問題ない。君が作ったなら、それも自分が食べる」
「はあ? いや、あんたがこれだけの量を食えるのは知ってるけどさ。時間が足りないだろ」
「自分のは自分で食べる。君が作ったものも食べる。……だめだろうか」
真顔で問い返され、俺は絶句した。
結局、その日の昼は互いの職場の中間にある公園のベンチで、彼が二人前の弁当を平らげるのを眺める羽目になった。俺が不器用に詰めたおかずを、彼は「これもおいしい」と淡々と、けれど恐ろしい速度で胃に収めてゆく。
腹が膨れれば何でもいいのか、それとも俺が用意したものだから断りたくないのか。
空になったふたつの弁当箱を前にして満足げに息をつく彼を見ていると、悪い気はしなかった。
それぞれの職場へと戻る並木道。相変わらず隙のないスーツを着こなして隣を歩く横顔に視線を向け、ふと気になって口を開いた。
「……なあ、ベレト。あんた、休みの日はどんな格好をしてるんだ」
「事務所にいる時か。スウェットで過ごしていることが多いが」
「だろうと思った。今度の休み、空いてるか? あんたの私服を買いに行くぞ。ついでに仕事用のシャツとかネクタイも、俺が見繕ってやるよ」
俺が半ば強引に提案すると、彼は「君がいいと言うなら」と、あっさりとうなずいた。
あんなに会いたくないと逃げ出したくせに、気がつけば休日の予定まで立てて世話を焼いている。結局のところ、俺のほうもこいつに執着しているんじゃないか。自分で言っておいてなんだかなあ、と内心で呆れ返ってしまう。
週末の繁華街は、予想通り人で溢れかえっていた。
喧騒の中を並んで歩きながら、俺はふと隣の男の立ち位置に気がついた。
ベレトは、必ずと言っていいほど俺の左側、つまり車道側に位置を取るのだ。単に車が危ないから庇っているだけなのだろう。だが、人混みを縫うように歩くふとした拍子に、俺の手に彼の指先が触れる。
どこかでそれらしい手管を覚えて、ただ距離を詰めようとしているらしい。俺は落ちないぞ、と内心で軽口を叩いてみるものの、向けられる視線の底には、ごまかしきれない不器用な執着がへばりついている。
かつての地獄を共に歩んだあいつのことだ。きっと無意識のうちに、俺の存在を確かめずにはいられないのだろう。
触れるか触れないかの曖昧な感覚。それが過去への未練からくるものだと思うと、胸の奥が鈍く痛んだ。俺は痛みを無視するように、前を向いたままわずかに歩調を早めた。
コンサルタントという仕事は、常に理不尽と隣り合わせだ。
昼休み明け、俺はひどく重い足取りでオフィスビルを出た。プロジェクトの進行でこちらに落ち度があり、今から顧客の元へ直接出向いて謝罪しなければならない。
雨降りの空よりも暗い気分のまま歩道に出ると、いつものように弁当の包みを提げたスーツ姿の男が立っていた。
「悪い、今日はちょっと時間がない。これから客先に謝りに行かないといけなくてさ」
短く事情を伝えて弁当を断ろうとすると、ベレトは少しだけ眉根を寄せた。
「自分も行こうか。ひとりでは心細いだろう」
子どものお使いじゃないんだぞ、と喉元まで出かかった言葉を呑み込む。大の男を捕まえて心細いもないだろうに、彼は本気で俺を心配しているらしい。
「あんたがついてきたってどうにもならないだろ。……まあ、勝手についてくる分には止めないけどさ」
呆れ半分で歩き出すと、彼は当然のように俺の傍らに並び、静かな足音を立ててついてきた。
客先のオフィスの応接室で、およそ一時間。ねちねちとした嫌味と叱責をどうにかやり過ごし、どっと疲れた体を引きずって廊下に出た。応接室の外のソファで待っているはずだった男の姿はない。用事か何かで帰ったか、とポケットの社用端末を取り出すと、短いメッセージが届いていた。
『下で待っている』
エレベーターで一階のロビーへ降りると、見慣れた長身がエントランスの柱のそばに立っていた。その両手には、近くのカフェで買ってきたらしい紙コップがふたつ握られている。
「……お疲れ様。これ」
差し出された温かいカップを受け取ると、焦げた豆の香りが鼻をかすめた。甘さも何もないであろう、ただのブラックコーヒーだ。
「あんた、ブラックなんて飲めるのかよ」
いつもあんなに甘いものを嬉しそうに飲んでいるのに。俺が目を丸くしてたずねると、彼は自分のカップに口をつけながら、平然と答えた。
「飲もうと思えば」
その直後、口の中に広がった苦味に耐えきれなかったのか、彼の眉間がきゅっと寄り、わずかに渋い顔を作った。
明らかに無理をしている様子を見ていると、応接室で蓄積した疲労がすっと抜けてゆくのを感じる。俺は手元の温かいコップを握り直し、そのしかめっ面を視界の端で捉えながら、たまらず小さく吹き出した。
それから数日後。珍しくベレトのほうから、短いメッセージが届いた。
『午後の調査で向かう場所なんだが、乗り換えの路線が複雑でよく分からない』
添付されていたのは、都心から少し外れた厄介な立地にある目的地の住所だった。彼がこうして、スマートフォンの機能を使って明確に俺へ助けを求めてきたのは初めてのことだ。
俺はため息をつきながらも、すぐに最適なルートと、迷いやすい地下街の出口番号、さらには乗り換えに便利な車両の位置までを端的にまとめて返信してやった。
『助かる。君は何でも知っているな。頼りになる』
数秒後に返ってきた素直すぎる称賛の言葉に、俺は画面を見つめたまま、ふと動きを止めた。
あのころも、彼はこうして俺の提示する道筋を、疑うことなく信じてついてきた。
――ああ、そうか。俺はあのころから、こうして頼られ、自分の手で彼の道を切り拓いてやりたいと、ずっとそう思っていたんじゃないか。
相手の運命を握り、役に立ちたいという、ひどく稚拙で独りよがりな欲求。思い出したくないからと目を背けていただけで、結局のところ、俺は何にも変わっていない。
けれど、その気づきと向き合う間もなく、俺の生活は文字通り仕事一色に塗り潰されていった。
抱えていたプロジェクトが本格的に佳境に入り、連日終電での帰宅や、深夜のタクシー帰りが当たり前になる。睡眠時間は削られ、日々の食事はひどく無機質なものに成り下がった。
当然、ベレトとまともな会話をする時間などない。昼休みにオフィスビルを下りて彼から弁当を受け取っても、悪い、今日も食いながら作業するとひと言残して、急ぎ足で背を向けるのが精一杯だった。彼がどんな顔をしてその背中を見送っていたのか、振り返る余裕すらない。
さらに数日が経つと、ついに昼の数分すら顔を合わせることができなくなった。
あいつから『今日も下に着いた』と短いメッセージが届いても、会議室から抜け出せず、『手が離せない。今日は昼抜きだ』と返すことしかできない。画面の向こうで彼がどうしているのか、弁当がどうなったのかも分からないまま、俺はただひたすらに目の前の理不尽な業務を捌き続けた。
せっかく自分の捨てきれない執着を自覚したというのに、こんな不誠実な態度ばかりとって、俺はいったい何をしているんだ。疲労で鈍った頭の片隅で、自己嫌悪だけがじわじわと膨らんでゆく。
まともな会話をしていない期間が長引くほど、次に顔を合わせるのがひどく億劫になっていた。
そうして迎えた、最悪の夜。連日の無理が完全に限界を迎え、足取りは泥のように重かった。
日付が変わるころにようやくオフィスを出て、深夜の住宅街を這うように歩く。少しでも早くシャワーを浴びて、泥のように眠りたい。ただそれだけを考えてマンションのエントランスへ向かう視界の端に、見慣れた人影が不意に浮かび上がった。
「……あんた、こんな時間まで外で何やってるんだよ」
「帰りが遅いから。これを持ってきた」
薄暗い街灯の下で待ち伏せていた男の手には、温かい夜食の入ったコンビニの袋が提げられている。昼に渡せなかった弁当の代わりなのだろう。ろくに連絡も返さなかった俺の顔を見るなり、彼は当たり前のように俺の傍らへと位置を取った。
「連絡くらい入れろよ。ずっと待ってたのか」
「仕事の邪魔をするのは悪いと思ったから」
さも当然のことのように言い切る姿に、俺はそれ以上文句を言う気力すら湧かず、深い息を吐き出して彼を自分の部屋へと招き入れた。
鍵を閉める音もそこそこに、俺はネクタイを引き抜きながらリビングのソファへと文字通り倒れ込んだ。
身体の芯まで疲労が染みついている。少しだけ目を閉じて休もうとした、その時だった。ソファのクッションが沈み込む感覚とともに、俺のすぐ傍らにベレトが腰を下ろした。
そのまま無言で、俺の手が引き寄せられる。久しぶりに触れた彼のひんやりとした指先が、俺の指の付け根を深く探るように絡め取ってきた。
重く開いたまぶたの先で、俺の手を握る彼の顔が、ひどく思い詰めたように伏せられている。過去の亡霊に取り憑かれたような、今にも泣き出しそうな不器用な顔。
相手に執着している自分の本質を自覚してしまったからこそ、ろくに会話もできなかった俺へ向けられるその視線が今の俺ではなく過去の過ちの埋め合わせであることが、ひどく残酷に思えた。
限界まで張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れる。
「……いい加減にしろ」
低く声を出して、繋がれていた手を強引に振り払う。拒絶されると思っていなかったのか、ベレトの肩が目に見えてこわばり、空を掻いた手が宙で止まった。驚いたように見開かれた瞳を、俺は真正面からきつく睨みつける。
「いつまで俺を、あんたの贖罪の道具にする気だ」
「クロード……?」
「あの地獄で死んだのは、誰に強制されたわけでもない、俺自身の意思だ。それなのにあんたは、今の俺の無事を確認して、過去の失敗を取り戻そうとしてるだけじゃないか」
一度堰を切った感情は、疲労で麻痺した脳をすり抜けて次々と口をついて出る。
「あんたの罪滅ぼしのために、過去の可哀想な自分を見透かされてるみたいで……ひどくみじめになるんだよ」
静まり返った部屋に、俺の荒い呼吸音だけが響く。痛いところを突かれて引き下がるだろうと思った。だが、宙をさまよっていた彼の手は、迷うことなくもう一度真っ直ぐに伸ばされ、俺のシャツの袖口を強く握り込んだ。
「最初は、そうだったかもしれない」
掠れた、けれど芯のある声が落ちる。
「あの結末を悔やんで、ただ君に生きていてほしかった。でも、今は違う」
俺の袖を握る指先に、ぎゅっと力がこもる。逃がす気はないらしい。
「一緒に食事をして、服を選んで。君が怒ったり、笑ったりするのを見ているうちに、過去の君ではなく、今の君の隣にいたいと思うようになった。……この好意は、罪滅ぼしなんかじゃない」
理屈も駆け引きもない、ただの事実の羅列。こんなにも無防備で逃げ場のない本音をぶつけられて、動揺しないほど俺は大人に成りきれていなかった。手管だのなんだのと斜めに構え、余裕ぶっていた自分がひどく滑稽に思えてくる。
俺は抵抗の意志を失い、空いた手で顔を覆って天を仰いだ。
「……俺も、あんたと一緒にいたいよ」
指の隙間からこぼした声は、我ながら情けない響きだった。
「でも、どうしても昔のことがちらついちまうんだ。こうして向けられるやさしさも、全部過去のせいだって疑っちまう俺がいる」
「構わない」
俺の弱音を、彼は即座に切り捨てた。
「君が疑うなら、そのたびに言う。何度でも、今の君を見ていると伝えるから、ほんの少しだけ耳を傾けてくれると嬉しい」
すがるような、ひどく真剣な眼差しで見下ろされ、俺の口から呆れとも安堵ともつかない長い溜息がこぼれ落ちる。ろくに口を利けなかったこの数日間、俺はこの男の顔を見るのをどこか避けていたはずだった。それなのに。とっくに俺のほうが絆されて、いいように振り回されているというのに。
「……悪かったよ。疲れてて、八つ当たりした」
俺が顔を覆っていた手をどけて苦笑すると、ベレトの目元からふっと険しさが抜け落ちていった。
「お詫びに、近いうちに飯でも奢るよ。……それ、冷める前に食っちまおうぜ」
テーブルに置かれたままのコンビニの袋を顎でしゃくると、彼は静かにうなずき、手際よくプラスチックの容器を取り出し始めた。
俺の手に触れていた指先が離れてゆくのが、今は少しだけ名残惜しい。
深夜の部屋に、電子レンジの低い駆動音だけが単調に響き続ける。並んで座るソファの上の空気は、俺の頭痛を和らげるほど心地よい静寂へと変わっていた。
深夜の衝突から数日。山場だったプロジェクトがようやく落ち着きを見せ、俺の生活に人間らしい時間が戻ってきた。
昼休み、雑踏を抜けて指定された待ち合わせ場所へ向かうと、すっかり見慣れたスーツ姿が柱のそばで静かに立っていた。
「待たせたな。今日はどこで食う?」
「君の仕事が終わったなら、少し歩いた先にある定食屋に行きたい」
「へえ、あんたが店を探してくるなんて珍しい。よし、行ってみるか」
並んで歩き出す。これまでは彼が俺の職場に弁当を届けに来る一方通行だったが、時間と体力に余裕ができた今は、こうして外で落ち合い、ふたりで昼飯をとる日が増えていた。
それから、仕事終わりに待ち合わせて、ふらりと飲みに行くなんてこともあった。赤提灯の下がる居酒屋で、俺はジョッキのビール、彼はウーロン茶の入ったグラスを打ち合わせる。
「……でさ、もう変更は聞けないって言ってるのに、向こうは無茶苦茶な要求を出してきて。何度わがままを聞いてやったら気が済むんだよ」
俺のとりとめのない仕事の愚痴を、ベレトは食事を頬張りながらも聞いてくれた。相変わらず表情の起伏は少ないが、あいづちを打つタイミングやこちらを見つめる眼差しには、たしかな熱が通っていた。
過去の埋め合わせなんかじゃない。ただ今の俺の話を聞き、同じ時間を共有している。
ジョッキを傾けながらその静かな横顔を眺めていると、胸の奥で燻っていた罪悪感やみじめさが、心地よいアルコールとともに溶けてゆくのを感じた。
休日にふたりで街へ出かけることも、すっかり自然なことになっていた。
人混みで賑わう繁華街。俺の歩幅に合わせて歩く彼は、相変わらず俺の車道側に位置を取っている。
ふとした拍子に、肩が触れそうになる。だが、それ以上の接触は、あの日以来一度もなかった。
俺が過去の贖罪の道具にするなと突き放したからだ。彼はその言葉を律儀に守り、俺の存在を確かめるような、あの切実で息苦しいほどの距離の詰め方をぴたりとやめた。
横断歩道で信号待ちをしている間、俺のすぐそばに、彼の手が力なく下ろされている。あと数センチ指を伸ばせば触れ合える距離。
以前なら、間違いなく彼からその隙間を埋めてきていたはずだ。
しかし、ベレトは前を向いたまま、微動だにしない。俺の無事を確認するための、あの重苦しくて不器用な執着は、もうどこにも見当たらなかった。
我ながら、どうしようもない。あんなに鬱陶しがっていたくせに。過去の罪悪感ではなく今の俺を見ろと要求した通り、ようやく対等で当たり前の関係を手に入れたくせに。
いざあの切実な熱が消えると、ひどく物足りない。むしろ、今度は俺のほうからその距離を詰めて、彼の体温を確かめたくなっている。
信号が青に変わり、ベレトが静かに歩き出す。少しだけ前を歩く華奢な背中を見つめながら、俺は行き場をなくした指先を、そっと自分のポケットの中に押し込んだ。
少しだけ淋しいけれど、これが俺の求めていたあるべき姿であり、日常なんだ。
そう自分に言い聞かせるように、短く息を吐き出して彼の隣へと歩調を早めた。春の夜風が、少しだけ冷たく頬を撫でる。
満開の時期をわずかに過ぎた公園の並木道。街灯に照らされた夜桜の下を、俺たちは並んで歩いていた。
手にはコンビニで買った缶ビール。すっかり見慣れたスーツ姿の隣を歩きながら、俺は時折舞い散る薄紅色の花弁を見上げる。
「……結構散り始めてるな。週末までもつか怪しいぞ」
缶を傾けながら声をかけると、隣から「そうだな」と短い返事が落ちた。
だが、視線を感じて横を向くと、ベレトは桜の枝先など欠片も見ていない。どこまでも澄んだまっすぐな瞳が、俺の顔だけを静かに捉えている。
「あのな。花見酒って言ったんだから、少しは花を見ろよ」
「見ている」
相変わらずの減らず口。呆れて首を振ると、彼は不意に足を止めた。
俺もつられて立ち止まる。
ベレトは手の中の缶を近くのベンチに置く。そして無言のまま距離を詰め、ポケットに押し込んでいた俺の手を静かに引き出した。
「おい、」
あの日以来、一度も触れてこなかった指先。驚いて振り払おうとした俺の動きは、続く彼の行動によって完全に凍りついた。
ひんやりとした、硬い感触。
「……は?」
あまりの唐突さに、アルコールで緩んでいた思考が完全に停止する。
俺の薬指に、街灯の光を反射して、装飾のない銀の輪が鈍く光っていた。
「……ちょっと待て。なんだよこれ」
「君への指輪だ」
何を当たり前のことを、と言わんばかりの平坦な声。俺は右手の缶ビールを握りしめたまま、数回ほど瞬きを繰り返した。
「なんで……いや、だって俺たち、過去のしがらみとかそういうのはもう抜きにして、ただの……」
「だから、渡した」
彼は俺の手から指を離さず、嵌まった指輪を親指の腹でそっとなぞる。
「あの会議室で、責任をとると言ったはずだ」
過去の過ちを埋め合わせるための義務感じゃない。ただ、俺という人間に執着し、隣にいるための大義名分として責任という言葉を使っただけ。この常識の欠落した男は、最初から本気で、俺の隣に立ち続けるという誓いを果たそうとしていたのだ。
あの夜、俺が過去のせいにするなと突き放したことで、彼はあっさりと俺の存在を確かめるような切実な接触をやめた。それは俺の意志を尊重したからだと思っていた。
でもそれはただの俺の都合のよい思い込みで、俺が過去のせいだという解釈を拒絶したから、彼はただ、最も純粋で、逃げ場のない現在の好意へと手段を切り替えたに過ぎない。
不意に思考が真っ白になり、しばらくのあいだ言葉が出てこない。俺はただ、薬指に収まった指輪と、目の前の男を交互に見比べることしかできなかった。
深く息を吐き出し、俺は引き抜こうとしていた指先の力を抜いた。大人しく拘束を受け入れた手を、ベレトの両手がひどく大切そうに包み込む。
「……はあ。俺ばっかりこんなの嵌めさせられるのも、癪なんだが」
意趣返しのようにぼやくと、ベレトの瞳がわずかに瞬いた。
「今度の休みは、あんたの分も探しに行かないとな。……あー、早くいろんな奴に自慢してやりたい」
開き直ってそう笑ってみせると、彼の目元が春の夜気よりもやわらかく細められる。
街灯に照らされた公園を、ぬるい夜風が吹き抜けてゆく。俺はまっすぐな視線から逃げるように顔を背け、指先に馴染み始めた金属の重みを感じながら、もう一度、残っていたビールを喉の奥へと流し込んだ。
現在の同盟は、帝国の盟友ではなく駒と呼ぶに等しかった。与えられる兵站で命を繋いでいるに過ぎない。後退もなければ、進展もない。
駐留している帝国将による監視や、王国への出兵準備に追われる日々の中、クロードの思考の片隅には常にひとつの気がかりが居座っている。
各地の戦場を行き交う商人や斥候が運んでくる、真偽の定かでない噂――灰色の悪魔が、単身で戦場に出没する。
クロードら同盟軍が王国軍との睨み合いに終始していたころ、ジェラルト傭兵団は王国西部で帝国軍と衝突したと聞く。そのうえで帝国軍は無事、王国西部を制圧したのだ。
王国西部にいたはずの彼がなぜ単独で、各地を転々としているのか。雇い主であるフラルダリウス公爵が討たれただけならば、傭兵団を離れてひとりになる理由がない。だとすれば何か、彼の父親の身に拭いがたい異変が起きたとしか考えられない。クロードは水面下で網を広げ、その影の行方を執拗に追わせていた。
そして今日、彷徨える影が、同盟領の境界付近まで流れ着いたとの報せが届く。
点と点が繋がり、最悪の想像が形を成す。親を失い、死に場所を求めて彷徨う獣にでも成り果てたか。彼を陣営に引き込めば戦局を大きく動かせるという目論見を巡らせるよりも早く、クロードは弾かれたように執務室を飛び出す。
「馬を出してくれ。目立たないよう、手勢は最小限でいい。すぐに出るぞ」
近習へ短く命じ、足早に回廊を進む。そこへ、不穏な空気を察したヒルダが駆け寄ってきた。
「ねえ、ちょっと待ってよ。……もしかして、あの人に会いに行くの?」
彼女の鋭い問いかけに、クロードは言葉を濁そうとするも、やがて小さくうなずく。
「さすがにクロードくんひとりじゃ危ないよ。あたしもついてく」
「その気持ちは嬉しいが、お前にはここに残ってもらいたいんだ」
身を乗り出してくる彼女を、軽い手振りで制した。
「駐留している帝国軍の目を誤魔化すには、『領内を荒らす賊を、盟主様が直々に退治しに行く』っていう立派な建前がいるだろ? 俺が留守の間、その建前を帝国に突き通せるのはお前だけなんだよ」
「それにしたって、せめて飛竜で行けば……」
「それはできない。上空を飛べば、嫌でも帝国側の監視網に引っかかる。面倒だが、ここはあいつらに気取られないよう慎重に動く必要があるんだ」
声を低くして告げると、ヒルダは不安そうに眉尻を下げたまま、けれどそれ以上は食い下がってこなかった。
馬を走らせた先は、無残に焼け焦げた黒い土が広がるばかりの農地だった。
ふと、彼と共に初めて立った戦場も、戦火に焼かれた農村地帯だったことを思い出す。あの時も風車は無残に壊れ、焦げた臭いばかりが鼻をついていた。馬の蹄が蹴り上げる土の鈍い音が、当時の記憶を不意に引きずり出す。
荒れ果てた景色の先に、身を引きずるようにして立ち尽くす影を見つけた。
馬から飛び降り、歩み寄ろうとしたクロードは、その姿を視界に捉えた瞬間、息を呑んで足を止める。
漆黒の外套は赤黒く汚れ、ところどころが裂けている。だが、彼を打ちのめしたのはその傷の深さではない。記憶の中にある男とは、まるで別物のように変わり果てていた。あの無機質な表情の奥に確かに宿っていた静かな意志も、わずかな人間らしさも、そこには欠片も残っていない。
中身を根こそぎくり抜かれた空洞。一切の光を失った双眸が、焦点も定まらないまま宙を彷徨っている。
声を発することすら躊躇われるほどの凄惨な変貌を前に、クロードの足は焦土に縫い付けられたように動かなくなった。
喉の奥がひどく乾き、唇がかすかに震える。
「……見つけた」
すり減った声が、焦げた風に攫われて消えていった。
衰弱し、意思ひとつで立っているだけの身体が、手のひらを通じて不自然なほど高い体温を伝えてくる。
焦土に立ち尽くしていた彼の腕を引き、どうにか用意した馬の背に乗せた。デアドラへ連れ帰るにはあまりにも目立ちすぎるため、ひとまずは国境付近に人目を避けて張らせた同盟軍の天幕へ運び込む。
簡素な寝台に横たわらせ、手当の準備をしようと踵を返したクロードの腕を、血と泥に塗れた手が拒んだ。
「……自分のことは構わないでくれ」
ひび割れた唇からこぼれたのは、明確な拒絶だった。
昏い眼差しはクロードを映すことすらなく、己の内に渦巻く絶望だけを見つめている。誰の助けも求めず、刃としてひとり命を削ることを望んでいるかのような、痛ましい声が耳を打つ。
帝国への恭順を装うための建前や、彼を繋ぎ止めるための理屈ならいくらでも用意している。だが、いざ壊れかけた男を前にすると、そのどれもが安っぽく透けて見えてしまいそうで、クロードは容易に口を開けなくなる。
黙って見下ろしていると、ふいに、彼の表情がわずかに動いた。
クロードが何かを言ったわけではない。虚空の一点を見つめ、まるで頭の中に響く何者かの声に耳を傾けているかのように、小さく眉間を寄せる。
息の詰まるような、奇妙な沈黙が落ちる。
傍らに立つクロードの存在すら完全に忘れ去られたような時間。やがて、瞬きをひとつ落とした男が、誰にともなく短くつぶやいた。
「……ああ。分かった」
先ほどの頑なな拒絶が嘘のように、小さく顎を引く。
その同意が自分に向けられたものではないことなど、クロードには容易に察しがついた。彼が誰と対話し、誰の意見に従ってこちらの手を取る気になったのか。底知れぬ不可解さが背筋を撫でるが、あえてその不自然な空白を問いただすことはしない。
理由がどうあれ、彼がうなずいたという事実さえあれば今はじゅうぶんだ。
「……今はゆっくり休んでくれ」
伝えたいことは山ほどあるというのに、どれも今の自分たちには相応しくない気がして。クロードは短い言葉を残し、天幕の外へ出た。
帝国軍の監視をかいくぐり、同盟領内に彼を匿う。少しでも油断すれば同盟そのものが致命傷を負いかねない、危うい均衡の上に成り立つ日々。
クロードは政務の合間を縫っては天幕へ足を運び、彼が生き長らえるための世話を焼いた。だが当初、彼は頑なに食事を摂ろうとしない。気を遣って席を外したりもしたが、椀の中身はいつも手付かずのまま残されていた。
幾日か過ぎた夜、寝台で身を起こした彼が、空の椀を見つめたまま静かに口を開く。
「……ジェラルトは、もういない」
感情の抜け落ちた声だった。クロードは息を呑む。
「帝国軍に与する傭兵に……かつて君も戦ったことがある、あの双剣使いに討たれた」
あの歴戦の猛者が命を落としたという事実。眼前の男が抱え込んでいる空洞の正体を知り、クロードは冷めかけた汁物を匙ですくうと、彼の口元へ強引に押し当てた。
「意地を張るのもいいが、ここで餓死しちゃ本末転倒だろ。あんたの目的は、その仇を討つことじゃないのか」
逃げ場を塞ぐように理詰めの言葉をぶつける。焦点の定まらなかった視線が揺れ、やがて観念したように重い唇が開く。
星影すら疎らな、底冷えのする夜更け。肌を刺す冷たい夜風の中、クロードは独り弓を引いていた。的を貫く鋭い音が、静寂の帳に吸い込まれてゆく。
その修練の背を、ベレトは静かに見つめている。
クロードは弓を下ろすと、焚き火のそばへ歩み寄り、傍らに腰を下ろした。薪を這う炎を見つめながら、ふと自嘲気味な息がこぼれる。
「……ほんとは、あんたに表へ出てほしいのは山々なんだけどな。帝国軍と盟約を結んでいる以上、それはどうしても難しい」
すると、彼が珍しく声を返してきた。
「自分がいなくとも、これだけの兵がいれば戦には勝てるだろう」
その言葉に、クロードは皮肉を込めて唇を曲げる。
「ここにいるのは、ほとんど帝国の兵士さ。俺の同級生だった連中は、そのほとんどがエーデルガルト率いる本隊に奪われちまった」
降伏し、帝国の将として刃を振るうかつての級友たち。燃えさかる炎の向こうに、遠く離れた彼らの面影を追う。
同盟はずっと敗北を重ね、今や帝国の力でかろうじて生きながらえている。緩やかな死を待つだけの状態だった。反旗を翻す決断も下せず、真綿で首を絞められるように身動きが取れなくなっている己への嫌悪。
「俺はいったい、何をしてるんだろうな」
不甲斐なさを噛み締める独白が、夜風に溶けていく。
ひときわ大きな薪が崩れる音が響いたのち、彼がぽつりとつぶやいた。
「君は、自分を生かしてくれた」
事実だけを真っ直ぐに告げる、短い言葉。嘘も忖度もない、その透明な刃のような響きが、クロードの胸の奥を突いた。打算やまやかしばかりの盤面で、純粋な事実だけを見つめる彼の在り方に、ひそかな救いを見出してしまう。
数日後、クロードはあえて彼の目の前で羊皮紙を引き寄せ、羽根筆を走らせる。
「領内を荒らしていたのは、ただの盗賊の残党だった。すでに処理済み……と」
書き上げた帝国宛ての偽りの書状を、わざと彼の視界に入る位置へ放り投げる。同盟の首魁という立場を天秤に乗せてまで、なぜ己はこんな危うい橋を渡っているのか。
神や奇跡など信じない。目に見える盤面だけを支配してきた自分が、なぜかこの男だけには抗いがたく引き寄せられている。陣営に有利だからなどという理屈は、とうに破綻した後付けの言い訳に過ぎない。あの日、彼を探すために焦土へ馬を走らせた時点で、自分の理性はすでに手遅れだったのだ。理屈の通らない青臭い衝動に突き動かされている己を自嘲しながらも、彼をひとりで死地へ追いやることなどできなかった。
しかしその真夜中、かすかな衣擦れの音で目を覚ましたクロードは、包帯を巻いたまま音もなく天幕を出ようとする背中を捉える。
「どこへ行くつもりだ」
低く咎める声に、男が足を止めた。
「……仇を探す。あの傭兵を斬るまでは、じっとしているわけにはいかない」
振り返った瞳が、淡々とした事実を告げる。
「同盟は帝国と盟約を結んでいる。帝国の将を狙う自分がこれ以上居座り続ければ、君の立場を危うくする。これ以上の迷惑はかけられない」
報告書を見せてもなお、クロードを気遣うようなもっともらしい理由を並べる。だがその本質は、誰とも関わりを持たず、死に場所へ急ぐための言い訳に過ぎない。
その危うい足取りを見た瞬間、クロードの内で激しい感情が沸騰した。
「ふざけるなよ」
怒声が、夜の空気を鋭く引き裂く。
「あんたが自分の命をどう使おうが、俺が口を挟むようなことじゃないのは分かってる。だがな、俺はあんたに死んでほしくなくて、綱渡りする覚悟でここに連れ帰ったんだ。それを、迷惑だのなんだと勝手な理屈をつけて、あっさり捨てるような真似するなよ」
普段の余裕をかなぐり捨てた、剥き出しの叱責が響く。
「……ぜんぶ、俺の勝手な我儘だ。それでも、あんたがひとりで犬死にするのだけは、絶対に赦さない」
彼は驚いたように目を丸くし、肩をこわばらせた。本気で怒り、なりふり構わず生へ繋ぎ止めようとするクロードの感情を前に、死へ向かうだけの虚無の奥で、何かが確かに揺らぐのが見えた。
沈黙が流れる。遠くで、騒ぎを聞きつけた見張りの兵士が近づいてくる足音がした。
クロードは慌ててベレトの肩を掴み、天幕の奥へと強引に押し戻す。
「……どうしても動きたいなら、ただ闇雲に剣を振り回すのはやめろ。斥候として、王国領の動向を探ってきてくれ。あわよくば、帝国の情報もな」
声を殺し、逃げ道を塞ぐように念を押す。死に急ぐ男へ無理やりにでも役割を与えようとする隠された情の片鱗を、彼は無言で瞬きを繰り返しながら見つめ返していた。
それからの日々、彼は幾度となく闇に紛れて天幕を抜け出し、各地の情報を持ち帰るようになる。
ある夜、傷を負って帰還した彼がもたらした情報は、停滞していた戦況を根底から覆すものだった。
「帝国軍が兵力を分け、東の煉獄の谷アリルへ向けて進軍を開始した。……あの双剣使いの傭兵も、その部隊の中にいる」
その報告を聞き、クロードは机上の地図へ視線を落とす。散らばっていた駒が、脳内でひとつの恐ろしい形へと素早く組み上がってゆく。
大軍を擁する帝国の最大の強みが、あの狭く険しい死地で完全に殺される。互いにすり減った隙を突いて、同盟が帝国へ反旗を翻す、起死回生の罠。
盤面は整った。
まぶたを閉じ、天幕を抜ける冷たい夜風を肺の奥まで吸い込む。帝国に牙を剥き、同盟の存亡を懸けた修羅の道。もう後戻りはできない。確かな好機を持ち帰り、迷いなく己のやるべきことを見据える男の存在が、ずっと燻っていたクロードの背中を静かに押した。
彼が彼のやるべきことを為すのなら、己も為すべきことを為し、ただ前に進もう。
腹の底で覚悟の輪郭を確かめ、ゆっくりと目を開く。不思議と、心は穏やかだった。
「情報ありがとう、ベレト。おかげで心が決まったよ」
「………………」
言葉を持たず次を待つ彼へ、自嘲気味な息を吐き出し、言葉を継ぐ。
「実は、ずっと迷ってたんだ。どうすりゃいいのかって。あんたみたいな奴が、初めから俺のそばにいてくれたらよかったのにな。そうしたら俺も、もっと別の道を選べたかもしれない。レスターの……いや、フォドラの形だって、別のものに変わっていたかもしれない」
叶うはずもない仮定。唇から滑り落ちたのは、打算など入り込む余地のない青い衝動の欠片。出会うのが遅すぎたという悔恨を呑み込み、目の前の男を見つめる。
「きっと、過大な評価だ」
淡々と事実だけを返す、ひび割れた声。嘘のない真っ直ぐな響きに、思わず喉の奥で小さく笑う。
「そうかな? 人を見る目には自信があるつもりなんだが。まあいいさ。もしこの戦いが終わって、他に行くところもなければ……ぜひ、俺のところにやってきてくれ。期待して待ってるからな」
盟主としての重圧など、そこには微塵もない。復讐の果てに灰になろうとしている男の前に、戦いの先の未来を不器用な手付きで置き去りにする。
少しの沈黙。彼は逡巡ののち、口を開いた。
「悪くない気がするな……考えてみよう」
暁の風に落ちたその声に、胸の奥でせり上がる安堵をひそかに噛み締める。
「おっと、思いのほかいい手応えだな。それじゃ、戦場では頼んだぜ」
気付けば、東の空の端が淡く白み始めている。新しい光が世界を染め上げようとしていた。
「……すべてが終わったら、あんたとまた、この夜明けが見たいな」
クロードは地平の彼方から広がる光の海に、思わず目を細めた。地獄への行軍は、すぐそこまで迫っている。
磨き上げられた木の床に、目を引くほど鮮やかな黄色の敷物。肌触りのよさそうな緞子張りの長椅子や、精巧な細工が施された壺や皿。本来であれば、そこは人を芯からくつろがせる、あたたかみのある空間のはずだった。
しかし今の執務室は、息が詰まるほど重く沈んだ空気に支配されている。
クロードは卓上の地図に視線を落としたまま、わずかに眉間を寄せた。ふいに、重厚な造りの窓の隙間から、冷たい潮風が滑り込んでくる。風は遠慮なく室内の澱みをかき混ぜ、積み上げられた報告書の束を数枚、床の敷物へと叩き落とした。
何もかもがままならない気がした。クロードの口からはため息ばかりがこぼれる。領主の嘆きや物資の催促――どれも捨て置くわけにはいかないが、聞き入れたところで、と考えてしまうあたり、どうにも気が滅入っているらしい。
煩雑な手つきで報告書を拾い上げようとして、ふと手を止める。
散らばった羊皮紙の一枚に、視線が縫い付けられた。王国領の国境付近の動向を報せる、他愛のない偵察の記録。だが、そこに記されたひとつの傭兵団の名称と、彼らが抱える異名の文字が、クロードの思考を急激に覚醒させる。
「……ジェラルト傭兵団、ね」
拾い上げた紙片の文字を声でなぞりながら、クロードは机上の地図へ向き直る。ミルディン大橋の上に置かれた黄色の駒をひとつ、指先で所在なげに弄んだ。
面従腹背の策を用い、グロスタール伯が帝国から大橋を奪還した。そこまではよかった。だが、地図上の黄色い駒は、帝国の脅威を示す無数の赤い駒に今にも呑み込まれそうになっている。
帝国軍もばかではない。王国攻めの手を止めてでも必ず、孤立した自国の軍を救うべく押し寄せてくるはずだ。皇帝自らが本隊を率いてやってくる可能性もじゅうぶん考え得る。
さらに厄介なことに、現在この地で包囲している敵将は、帝国一の武人と名高い猛将ベルグリーズ伯である。どれほど策を弄しようと、あの圧倒的な武の化身を押さえ込みながら帝国本隊の猛攻を凌ぎ切るには、今の同盟軍では根本的に力が足りない。この薄氷の上に成り立つ優勢など、たやすく踏み砕かれてしまうだろう。
迎撃のためにかつての級友たちを呼び寄せてはいるものの、彼らが帝国側についた旧友を相手に、どれだけ非情な刃を振るえるかはわからない。否、彼らにそんな残酷な役目を強いている己の薄情さに、胃の腑が粟立つような罪悪感も付きまとっていた。
情に縛られず、戦局を物理的に覆せるほどの圧倒的な力が必要だった。羊皮紙に記された『灰色の悪魔』という文字が、鬱屈していた脳内を焦がす。希望の糸が、一気に確信めいた渇望へと太く寄り合わさってゆくのを感じた。
「誰でもいい! すぐに動ける使者を呼べ! 相手は――」
勢いよく執務室の扉を開き、廊下に控えていた近習に鋭く命じる。
慌ただしく遠ざかってゆく足音を背中で聞きながら、クロードは再び盤面へと向き直った。盤の隅に転がっていた無属の駒をひとつ掴み取ると、赤い駒が密集する大橋の真ん中へと、力強く振り下ろす。硬い音が重苦しい室内に響いた。
帝国のような盤石な主従関係も、王国のような騎士道という名の結束も、寄せ集めの同盟にはない。クロードが信じられるものは、あまりにも少なかった。
「……結束がなくたって、勝てるならそれでいい」
血も涙もない、金と契約だけで結ばれる薄情な繋がり。それこそが、情に絡め取られて身動きが取れなくなっている今の状況には何より都合がよい。
張り詰めていた肩から力が抜け、盾としての笑みがふっと剥がれ落ちる。盤面の真ん中に置かれた無属の駒を指の腹でなぞるクロードの横顔は、息の詰まるような重圧からほんの少しだけ解放されたように、薄い安堵の色を帯びていた。
かつて黄金の波がどこまでも続いていたリーガン領の豊かな穀倉地帯は、今や無残な焦土と化している。のどかに回っていたはずの風車は焼け落ちて黒い骨組みを晒し、実りを報せる風は、ひたすらに嫌な臭いばかりを運んでくる。
幾万もの軍靴や馬の蹄に踏みにじられた農地は、かつてのやわらかな土の感触を完全に失い、痩せ細っていた。その固く冷たい大地は、遠くで蠢く不吉な振動を足裏へ直に伝えてくる。
本陣から戦場を見下ろすクロードは、足元から這い上がってくるような鈍い地鳴りに、忌々しげに目を細めた。視界の先、土埃にまみれた伝令兵が馬を乗り潰すような勢いで本陣へと駆け込んでくる。彼が悲鳴のような報告を口にするより早く、クロードの眼は、地平線をどす黒く染め上げる新たな軍勢の姿を捉えていた。
「報告! 第一防衛線、突破されました! 猛将ベルグリーズ伯の軍勢に合流する新たな影……あれは、皇帝直属部隊です!」
「……皇帝自らお出ましってわけか。嫌な予感は当たるもんだな」
血を吐くような伝令の言葉を、クロードは極めて淡々とした声で受け止める。だが、握りしめた拳が軋む音は、彼の内側で渦巻く激しい焦燥を雄弁に物語っていた。ベルグリーズ軍を包囲し、孤立させて叩く。その緻密に組み上げたはずの同盟軍の算段は、皇帝の襲来により、今まさに足元から無残に崩れ去ろうとしている。
息をつく暇もなく、次なる伝令兵が陣幕へ転がり込んできた。同盟軍として前線に立っていた旧友たち――ラファエルやマリアンヌ、そしてリシテアまでもが、次々と帝国側へ降伏したという報せ。
「……そうか」
短い応答に、怒りや失望の色は微塵もない。ただ深い受容だけがそこにあった。無慈悲な戦火の中で無駄に命を散らされるよりは、武具を捨てて戦線から離脱してくれたほうがよほどよい。戦力を削られる痛手よりも、彼らが生き延びる道を選んだことに対する安堵が、盟主としての打算をひそかに上回っている。
地を這う報告だけでは、恐るべき速度で変わってゆく戦局の全容を把握しきれない。クロードは一時本陣を離れ、相棒である飛竜の背に跨った。
重苦しい空へと舞い上がり、上空から見下ろすリーガン領は、目を覆いたくなるほど凄惨な有様だった。防衛線は圧倒的な帝国の真紅に塗り潰されようとしている。視界の端、帝国軍の退路を塞ぐべく待機しているジェラルト傭兵団の姿を瞳に映す。彼らを動かす機は、刻一刻と迫っていた。
ふと戦火の只中に視線を巡らせると、最前線で孤軍奮闘する桃色の髪が目に飛び込んでくる。ヒルダの率いる部隊が、俊敏な身のこなしで戦場を駆けるシェズをはじめとする帝国軍の猛攻に晒され、完全に孤立しつつある。
これ以上の無理は致命傷になる。飛竜を急降下させ、風を切り裂くようにして退くよう命じた。
「ヒルダ! 退いてくれ! 今、お前まで失うわけにはいかないんだ!」
クロードのただならぬ声色に、日ごろはわがままを口にするヒルダも反論することなく、素早く部隊をまとめて後退してゆく。
彼女の離脱を見届け、足早に本陣へと舞い戻る。しかしクロードを出迎えたのはさらなる絶望の報せだった。
「ベルグリーズ伯の包囲網、完全に崩壊! 敵将は退くどころか、防壁を破壊し、道なき道をこちらへ向かってきます!」
罠も地形の利も関係ない。ただ純粋な武力のみで障害を粉砕し、総大将の首を狙って一直線に進軍してくる猛将の姿。それは戦場の理を根底から覆す、規格外の暴力に他ならない。
迫り来る死地の気配に、クロードは奥歯を強く噛み締める。手元の札は、とうに尽きかけていた。
「……伏せていたジェラルト傭兵団へ、進軍の指示を出せ」
もはや退路を断つための伏兵ではない。正面から猛将を食い止めるための、唯一の盾。鋭い声で伝令を走らせ、クロードは瞬きもせず、激戦の地を睨みつけた。
退路を塞ぐジェラルトたちとは別に、放たれたベレトが単騎で猛将ベルグリーズ伯の足止めに入ったという報せが届くのと、本陣の堅牢な門のすぐ向こう側から敵兵の鬨の声が響き渡ったのは、ほぼ同時だった。
最強の盾は猛将の足止めにこそ成功したが、崩壊した防衛線の穴から雪崩れ込んできた帝国の別働隊が、すでに本陣を完全に包囲している。
もはやこれまでだ。誰の目にも明らかな敗北。しかしクロードは、逃げ支度を始めるどころか弓を担いだ。
「門を開けろ。俺が出る」
「め、盟主様! なりませぬ、ここはひとまず籠城を――!」
「この期に及んで籠城に何の意味がある? 壁ごと粉砕されて終わりだ」
悲鳴を上げる近習を冷たく制し、クロードは相棒の飛竜を呼び寄せる。ここでむざむざと全滅を待つぐらいなら、せめて自らが前線へと飛び出し、敵の勢いを少しでも削ぐ。それが、生き残った兵たちを逃がすための最善だと考えたのだ。
「頼んだぜ」
真珠のような首筋を軽く叩けば、呼応するように飛竜が低く喉を鳴らす。砂埃が激しく舞う最中、重い音を立てて、本陣の門が内側から開け放たれる。
その向こうに待ち受けていたのは、先ほどヒルダを退けてみせた、シェズだった。
「大将自らお出ましとはな!」
異様な闘気をまとった刃が、凄まじい速度でクロードへと肉薄する。飛竜の機動力を活かして上空から矢を放ち、間合いを保つ算段だった。だが、傭兵の動きはクロードの予測をことごとく上回る。野生の獣のような勘で矢を掻い潜り、立体的な動きで距離を詰めてくる双剣に、クロードは咄嗟に腰の剣を引き抜き、応戦せざるを得ない状況へと追い込まれた。
激しい金属音が響き、視界に火花が散る。
「お前か? 俺の計算を散々に狂わせてくれたのは」
重い一撃をどうにか受け流し、クロードが忌々しげに口の端を歪める。対するシェズは、不敵な笑みを浮かべて双剣を押し込んできた。
「さあな、俺は傭兵だ。とりあえず、お前を手柄にさせてもらうぞ!」
計算通りに事が進めば、このような泥臭い白兵戦に持ち込まれることなどあり得なかった。理屈の通じない戦いに翻弄され、クロードの息はみるみるうちに上がってゆく。執拗に迫る刃を躱しきれず、鋭い剣先がクロードの腕の籠手を砕き、その下の肉を浅く切り裂いた。
「……っ、」
腕から滴る鮮血が、土埃にまみれた大地に黒い染みを作ってゆく。己の限界と、これ以上の戦線維持は不可能だと悟るにはじゅうぶんすぎる痛みだった。
「ここまでみたいだな」
荒い息を吐きながら、クロードは飛竜の身を翻し、空高くへと舞い上がる。眼下で繰り広げられる絶望的な激戦地帯に向け、ありったけの声を張り上げた。
「すまないが、あとは任せたぜ、凄腕の傭兵さん!」
その叫びを合図にするかのように、同盟軍の全軍撤退を命じる悲痛な銅鑼の音が戦場に鳴り響く。
舞い上がる飛竜の背から地上を見下ろすと、帝国一の猛将を相手に激しい打ち合いを演じていたベレトが、ふと剣を振るう手を止めるのが見えた。
圧倒的な武を誇るベルグリーズ伯を相手取りながらも、その動きに押し負けている様子はない。むしろ、拳の軌道を読み、どうにかして打ち倒そうとする揺るぎない闘志すら見えた。
ベレトが呆気に取られたように上空を見上げた直後、戦場の喧騒を裂いて、ジェラルトの野太い声が響き渡った。
「おい、そっちは任せた。俺たちは撤退した帝国軍を追う!」
退路を塞ぐ任務に戻る団長の背中と、眼前に迫る猛将。そして空高く逃げゆく飛竜。容赦ない指示によって完全に退路を断たれた男は、理不尽な殿を押し付けられた苛立ちを隠そうともせず、上空を鋭く睨みつけてくる。
土埃と血の匂いが立ち込める戦場の隅で、冷めやらぬ怒りを孕んだ視線と、諦観を宿した盟主の瞳が、ほんの一瞬だけ交差する。
撤退のために設けられた急造の野営地は、重苦しい空気と血の匂いに支配されていた。
負傷兵たちの呻き声が響く中、クロードは天幕の外に立ち尽くし、ただ燃え広がる故郷の空を眺めている。裂かれた腕の傷は布で乱雑に縛ってあるものの、焼け付くような痛みが敗戦という取り返しのつかない現実を絶え間なく突きつけてきた。
王を戴かない寄せ集めの共同体。親帝国派と反帝国派に割れようと、離反が罪に問われることはない。大国に踏み躙られないための柔軟な生存戦略こそが、同盟最大の利点であるはずだった。
だが、フォドラの閉ざされた喉首を切り裂くという途方もない野望を叶えるためには、その強みこそが最大の障壁となる。戦局を覆すべく、あえて同盟をひとつの巨大な槍として束ねようと苦心した結果が、眼前に広がるこの凄惨な敗戦だ。
「……毎日毎日、俺のせいで人が死んでゆく。この悲惨な現実を見ていると、はじめから、おとなしく帝国に従うべきだったって考えちまうよな」
背後に近づく気配に気づきながら、クロードは低く独りごちる。
隣に並び立ったヒルダは、煤と泥に汚れた顔で首を横に振った。
「でも、もし一矢も報いずに降伏なんてしたら、父さんたちが黙ってないでしょ」
平素の甘えた声色を潜め、彼女はどこまでも澄んだ瞳で戦場の残骸を見つめている。
「王様がいないからこそ、諸侯は自分の領地と面子がいちばん大事。口でどれだけ帝国の恐ろしさを説いたところで、あの頭の固い大人たちが納得するわけないもの。だから一度全力でぶつかって、手も足も出ないってことを身をもって証明する必要があった……でしょ?」
クロードは思わず息を呑む。
腹の底に隠していた血なまぐさい政治の算段を、彼女はさらりと指摘してみせた。味方の血を流さずして、寄せ集めの同盟に帝国への恭順を認めさせることはできない。その冷酷な事実を見透かされていたことに、一抹の恐れと、底知れぬ安堵が入り交じる。
「……お前には敵わないな」
自嘲気味に息を吐き、クロードはヒルダへ向き直った。盟主としてのこわばった表情が、ほんの少しだけ解ける。
「無茶な戦いを強いて、すまなかった」
「ううん、クロードくんが謝ることじゃないよ。でも、すっごく疲れたし、お肌も荒れちゃった。デアドラに帰ったら、とびきり甘いお菓子をごちそうしてよねー」
冗談めかして笑う彼女の気丈さに救われながら、クロードは小さく息を吐き出す。
生き残った者たちを連れ帰り、このいびつな世界で次の一手を打たねばならない。裂かれた腕の傷を反対の手で強く押さえ込み、クロードは再び、血煙に霞む空へと視線を向けた。
軍医による手当てを終え、ようやく血の臭いから解放された腕を抱えながら、クロードは夜の野営地を歩いていた。裂けた肉はひとまず縫い合わされ、白い布が巻かれている。上水の都へ帰還するまでの、かりそめの処置だ。
ひたすらに重い足取りで天幕の影を抜けると、ふと視界の端に夜闇に溶けそうな、淡い翠の髪が揺れる。
少し離れた倒木に腰掛け、ひとりで剣の刃こぼれを確認しているベレトの姿だった。ジェラルトたち傭兵団の重苦しい反省会を終えた直後なのだろう。足音を立てずに近づいたクロードに気づくと、彼は言葉を発することなく顔を上げ、その視線をすっとクロードの腕へと滑らせた。
その視線に込められた意味を測りかね、クロードは居心地の悪さを誤魔化すように、負傷した腕を何食わぬ顔で外套の下へと隠す。
パルミラとフォドラ。ふたつの相容れない血を引いて生まれたゆえに、幼いころから周囲の悪意に晒されてきた。陰湿な蔑みを受けることは日常茶飯事で、ただ生きているだけで恨まれ、憎まれてきた。迫り来る理不尽へ抗うため、来る日も来る日も孤独に策を練って生き抜いてきた。呼吸するように人を疑い、向けられる微笑みの裏にある刃を常に探り続ける。そうやって己のやわらかい部分を覆い隠す術が、クロードという人間を形作っていた。
あの士官学校での穏やかな日々がもう少し長く続いていたならと思う。もしかすると、何かひとつでも、変わっていたかもしれない。しかし、無情な戦火は短すぎる青春を容赦なく焼き尽くし、今のクロードは盟主という孤独な玉座に座っている。考えたところで今さらどうしようもないことを、どうしてかこの男の前では考えてしまう。
結局のところ、自分はあのころから変わっていない。脆いところを隠すのが多少うまくなっただけで。追い求めているものも、何も変わってはいなかった。だからこうして、自身の天幕に逃げることもせず、縫い留められたように立ち尽くしている。
同盟の窮地を問うことも、敗戦の将に対する無責任な同情を向けることもしない。底知れぬ湖面を思わせる傭兵の眼差しには、他者がクロードにぶつけてくるいかなる感情も、打算も浮かんでいなかった。
ただそこにあるだけの、圧倒的な空虚。
誰も信じられない、誰の言葉も裏を勘繰ってしまうこの血なまぐさい状況下において。何の感情も押し付けてこないその空白は、クロードにとっての小さな救いだった。
こわばっていた心が、音もなく解けてゆく。
気づけば、引き寄せられるようにして彼の隣へと歩み寄っていた。
「……負けちまったな」
血を吐くような政治の算段も、強がりの笑みも抜け落ちた、ただの泥臭い徒労感。同盟の仲間たちには決して見せることのできない弱音を、何の警戒もなく無防備にこぼしてしまう。
隣に並び立った雇い主に対し、傭兵は慰めの言葉をかけることも、自虐を否定することもしない。ただ、遠くで薪がはぜる音に混じって、極めて平坦な声が落ちた。
「……ああ」
肯定も否定もしない、ただ眼前の事実だけを受け止める短いあいづち。感情の伴わないその響きに身を委ね、クロードは夜の闇へ向かって、長く息を吐き出す。
帝国軍との激しい衝突から撤退し、同盟軍は水上の都デアドラへと帰り着く。城館を包む空気は、敗戦の重苦しい泥濘に深く沈み込んでいた。
しかし、クロードの寝室だけは、窓の隙間から滑り込む夜の潮風と、卓上に置かれた灯の橙が、外の喧騒から切り離されたような安らぎを保っている。
寝台に腰掛けたクロードは、自身の腕を疎ましそうに見下ろした。その腕には、真新しい清潔な包帯が巻き直されている。そこへ、控えめながらも躊躇いのない戸を叩く音が響いた。
「……夜分にすまない」
返事を待つこともなく扉を開けて入ってきたのは、ベレトだった。
こんな夜更けに何の用だろうか。戦場での理不尽な殿に対する抗議か、あるいは今後の報酬についての相談か。特別親しいわけでもない彼がわざわざ私室まで足を運んだ理由が思い当たらず、クロードは首を傾げつつ、努めて軽い調子で声をかけた。
「いや、構わないさ。俺もさっき包帯を替えてもらったところでね。立ち話もなんだ、そこへ掛けたらどうだ」
しかし、ベレトはやわらかな光の落ちる扉の前に立ち尽くしたまま、動かない。暗がりで隣に並び立った時とは違う、ひときわ硬い表情を貼り付けている。
「……すまなかった」
唐突な謝罪に、クロードは怪訝に眉を寄せる。
「いきなりどうした。負け戦だったとはいえ、あんたが謝るようなことは何もないはずだが」
「自分は、君の期待に応えられなかった」
ベレトは顔を上げ、真剣な眼差しでクロードを見据えた。
「自分たちは今後の身の振りを決めかねていた。そんな時に拾ってくれた君には、相応の働きで恩を返すつもりだった。『必ず結果は出す、期待していてくれ』と、そう約束したのに」
己の言葉を噛みしめるように、ベレトの声音がわずかに沈む。
「帝国の将を討つことができなかった。その上、雇い主である君にあのような無茶をさせ、結果として傷まで負わせてしまった。とんでもない失態だ」
その言葉に、クロードは心底面食らったように目を瞬かせた。
傭兵といえば、もっと損得勘定に敏い生き物だと思っていた。戦局が劣勢と見るや否や雇い主を見捨てる者もいる中で、軍全体の敗北や雇い主の負傷にまで自ら責を負おうとする輩など、聞いたことがない。
「……本気でそれを悔やんで、わざわざ俺のところまで来たのか」
「ああ。……それと」
そこでベレトは言葉を切り、野営地でも見つめていたクロードの腕へと、再び鋭い視線を落とした。
「君の立ち回りにも、大いに疑問がある」
「……は?」
「野営地では言わずにおいたが、敗色が濃厚と悟りながら、君はなぜ自ら門を開け、敵を迎え入れた? ……まさかとは思うが、自らの命と引き換えに彼を道連れにするつもりだったのか」
「おいおい、さすがの俺もそんなつもりは」
「いくらなんでも無謀すぎる。あのような真似をしなければ、その腕の傷は負わずに済んだはずだろう」
純粋な疑問と、淀みない正論を織り合わせての追及に、クロードは思わず背を丸めてしまう。報酬への不満でも、殿を任されたことへの怒りでもない。この得体の知れない不機嫌は、雇い主の身を案じるがゆえの、真っ当な抗議だったのだ。
「待て待て、謝りに来たのか説教しに来たのか、どっちなんだよ」
「謝罪と、事実の確認だ。殿を任された以上、雇い主に自死のような真似をされるのは困る」
一歩も引かずに言い切るベレトの姿に、クロードは観念したように息を吐き出したのち、引きつった笑い声を漏らした。
「そうだな、今考えるととんでもない無茶をした。……悪かったよ。後ろにお前たちがいると思って、妙に気が大きくなっちまったのかもしれないな。いざとなれば、お前たちがどうにかしてくれるってさ」
冗談めかした口調の裏に張り付いた本音。それを聞いたベレトは、小さく息を呑んだ。言葉が途切れたのち、口を開いたベレトの顔には、困惑の色が浮かんでいる。
「……君は、ひどく矛盾しているな」
「どういう意味だ」
「交渉の場でも、ずっとこちらを警戒していただろう。ジェラルトも言っていた。君は常に 本心を隠して笑う、食えない男だと。だから自分たちのことも、いざとなれば容易に切り捨てる手駒としか見ていないのだろうと思っていた」
淡々と、しかし素直に明かされた腹の内に、クロードは再び苦笑を漏らす。
「疑り深いくせに、雇ったばかりの自分に殿を任せ、命を預ける。……少し、君への見方が変わったかもしれない」
「俺はずっと分かりやすい善良な雇い主のつもりだったんだがな」
いつもの飄々とした笑みを浮かべたクロードに、ベレトは表情を一切変えることなく、声音を変えずに告げる。
「殿でも先陣でも、自分のことは好きに使うといい。その代わり、次の戦いでは決してあのような無茶はしないでくれ。……今度こそ、結果を出してみせる」
抑揚のない声。けれど、その起伏のない響きの中には、夜の空気に溶けるような不器用なやさしさが確かに滲んでいた。何の打算もない純粋な気遣いに直面し、クロードは戸惑ったように目を瞬かせる。
「……ああ。頼りにしてるぜ、『凄腕の傭兵さん』よ」
音もなく扉を閉めて出てゆく背中を見送ったあと、クロードはふと、まっすぐに案じられた腕の傷に触れた。
王国領を追われた彼らが同盟領に流れ着いたと聞いた時、いの一番に接触を図り、雇い入れたのは正解だった。もしも帝国に先を越されていたら。あるいは、あの灰色の悪魔と真正面から戦うことになっていたら。想像するだけで、傷の痛みなど消し飛ぶほどの悪寒が背筋を這い上がる。
しかしいざこうして言葉を交わしてみれば、戦神のような武を誇る存在が、たかが一度拾われた程度の恩義を律儀に返し、挙句、雇い主の命を案じて説教まで垂れる始末である。
「……腹の探り合いをするだけ無駄か。ほんと、どうにもならない生き物だよ」
夜の海風に溶けたその独り言は、敗戦の夜には似つかわしくないほど、恐ろしいほど穏やかな響きを帯びていた。
帝国軍の主力が王国へと矛先を転じたことで、同盟領にはひとときの平穏が訪れていた。張り詰めていた空気がわずかにゆるんだ、ある日の昼下がり。中庭で軽く肩を回していたクロードの前に、ふらりとベレトが姿を現す。
「怪我の具合はどうだ」
「ん? ああ、ベレトか。おかげさまで、もうすっかり――」
笑顔で振り向こうとしたクロードは、その途中で不自然に動きを止めた。ベレトの瞳は、平素の無機質なそれとは明らかに違う、眉間にうっすらと皺を寄せた不機嫌な色を帯びている。
「なんだ、その顔は」
「……自分でも分からない」
クロードの怪訝な反応に、ベレトは視線を逸らし、短くこぼした。
「ただ、どうにも釈然としない」
その言葉とぎこちない態度で、クロードはようやく合点がゆく。この男は、あの敗戦の夜からずっと、雇い主に傷を負わせてしまったことや、クロードの無謀な立ち回りに対する己の不甲斐なさを、いまだに引きずっているのだ。
「あんた、割と根に持つ性格なんだな」
「……そんなことはない」
「いや、あまりにも分かりやすく不機嫌そうじゃないか」
からかうように指摘すると、ベレトはさらに固く唇を引き結ぶ。感情の乏しさゆえに畏怖されていた灰色の悪魔が、機嫌を損ねている。その不均衡が面白くて、クロードは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
「まあ、安心してくれ。傷は大したことはない。むしろ休んでいたせいで身体が鈍っちまってな、この寝ぼけた身体を叩き起こすつもりだったんだ。よかったら、手合わせに付き合ってくれないか」
「……構わない」
すんなりと了承してみせたものの、ベレトの視線はあきらかに躊躇いを含んでいる。そのあからさまな気遣いに、クロードは大仰に肩をすくめてみせた。
「なんだその目は。さては俺のことを、戦いもろくにできないひ弱な盟主だとでも思ってるな?」
「そういうわけでは……いや、少し思っているかもしれない」
「おい、そこは否定しろよ」
どこまでも素直な物言いに、クロードは呆れるばかりだった。怪我人への懸念も分からなくはないが、これでも戦乱の世を生き抜く盟主である。
「手加減なんかしたら承知しないからな」
「……了解した」
挑戦的な眼差しを向けられたベレトの顔からは不機嫌さがすっかり消え去り、鋭い闘志が宿っていた。
修練場の一角で、クロードは手元の弓を引き絞り、向かい合う灰色の悪魔の挙動をじっと見据える。
空気を裂く鋭い音とともに、放った矢が次々とベレトの足元や肩口を掠める。単なる攻撃ではない。相手の動きを予測し尽くし、巧みな牽制でその機動力を封じ込めるための矢。
絶え間なく降り注ぐ矢の中、ベレトはほんの一瞬だけ足を止める。そして何かを悟ったようにクロードを見据えると、次の瞬間、その動きが劇的に変化する。
こちらの目論見を察したのか、闇雲に間合いを詰めることをやめ、あえて付かず離れずの距離を保ちながら円を描くように動く。そして、剣を振るうと見せかけた次の瞬間、空いている左手をクロードへと翳した。
その意図を考える猶予も与えられぬまま、視界が突如、凄まじい熱量に包まれる。
ベレトが放った火球が目の前で弾け、爆炎と煙が視界を遮る。闇雲に放たれた魔道ではなく、目くらまし。
「へえ、真正面からぶつかってくると思ってたが、案外知恵が回るじゃないか!」
視界を奪われた中で、クロードは皮肉めいた称賛を口にする。ただ剣を振り回すだけの兵ではない。相手の思考を読み、柔軟に手札を切ってくる。この男を陣営に引き入れたことの正しさを、あらためて噛み締める。
しかし、戦術眼ならばこちらのほうが一枚上手だ。
煙が晴れた瞬間、目の前にはすでに剣を振り上げようとしているベレトの姿があった。
「……勝負あり、だな」
低く沈み込んだクロードの声に、ベレトの剣が肩先まであと数寸というところで静止する。いつの間にか姿勢を低くして剣の軌道を躱していたクロードは、下から覗き込むような体勢で、番えた矢の鏃をベレトの頬へと寸分違わず突きつけていた。実戦であれば、剣が振り下ろされるより一瞬早く、頬から頭部を深々と貫いている距離。
「……ああ。自分の負けだ」
ベレトは剣を下ろし、短く息を吐き出す。接近戦に持ち込めば仕留められると踏んでいた相手の思考を逆手に取り、あえて懐に飛び込ませる。弓は接近戦では不利だという、無意識の思い込みの虚を突いた結果だった。
素直な感嘆を込めて、ベレトが口を開く。
「君への認識を、また少し改めないといけないな」
その言葉に、クロードは弓を下ろして人懐っこい笑みを浮かべる。
「だろ? 俺はあんたが思っているよりずっと、頼りになる雇い主なんだぞ」
冗談めかして胸を張ってみせる。呆れたため息が返ってくるのを待っていたのだが――ベレトはすぐには答えなかった。あたたかな光に照らされた、あの夜の寝室でのやり取りの時のようにクロードの顔へと視線を巡らせたあと、なぜか黙り込む。
「……なんだよ、その間は」
クロードが嫌疑を込めた眼差しを向けると、ベレトは表情を崩さぬまま、小さく顎を引いた。
「……そうだな」
あまりにも起伏に欠けたあいづち。神妙な顔つきではあるが、きっと内心では大して何も考えていないか、はたまた面倒になって適当に話を合わせているだけだろう。付き合いの浅いクロードには、その真意がどこにあるのかを推し量る術などない。
「あんた、適当にうなずいてるだろ」
「そんなことはない」
間髪入れずに返ってきた滑らかな声に、クロードはさらに調子を狂わされる。
「……あんたのそういうところ、ほんとやりづらいなあ」
さしもの策士も形無しだとばかりに、クロードは苦笑をこぼし、頭の後ろで腕を組む。
そのやわらかな空気が引き裂かれたのは、直後のことだった。中庭の入り口に、血相を変えた伝令兵が転がり込んでくる。
「ご、ご報告いたします! ゴネリル家より急使! パルミラの軍勢がフォドラの喉元へ到達! 同盟領への侵攻を開始したとのこと!」
悲鳴めいた報告が空気を震わせた瞬間、クロードの顔から一切の笑みが抜け落ちた。
東からの強襲。その指揮を執っているのが誰なのか、直感的に悟ってしまう。己の血筋をひどく疎ましく感じた。短く応じ、執務室へ向かおうと踵を返した時、横にいたベレトが手短に口を開いた。
「ジェラルトに伝えてくる」
それだけを言い残し、灰色の悪魔は足早に中庭を去ってゆく。クロードはその背中を目で追う余裕すらなく、城館の廊下を駆け出した。
執務室は、帝国軍との敗戦の夜とはまた違う、焦燥と緊迫感が満ちていた。
卓上の地図を囲むように、不安げな面持ちのヒルダやレオニー、そして同盟の領将たちが集まっている。
「兄さんは今、かき集められるだけの兵を連れて防備の準備にあたってるけど……」
ヒルダが地図の東端を見つめながら、ひたすらに重い声で状況を告げた。
先の激戦により、同盟軍の兵力は大幅に削り取られている。そこへ、好戦的かつ驚異の機動力を誇る異国の軍勢が雪崩れ込んできたとなれば、防衛線が食い破られるのは時間の問題だ。今ここで同盟領を好き勝手に踏み荒らさせるわけにはいかないが、迎撃に向かわせる人手が圧倒的に足りない。
クロードの眼裏に、先ほどまで手合わせをしていた傭兵の姿がちらつく。
この窮地を凌ぐには、彼らの力が必要不可欠だろう。しかし、彼らと結んだ契約は、あくまで『対帝国軍』を前提としたもの。得体の知れない異国の軍勢との死地に、彼らを巻き込む義理などない。
血も涙もない、金と契約でいつでも断つことの繋がり。情に絡め取られない、都合のよい手札を求めたのは、他でもないクロード自身だ。金で割り切った関係を望んでおきながら、今さらどの口で、契約外の死線に立ってくれと頼めるのか。
盟主としての打算と個人的な矜持がせめぎ合い、喉の奥に苦いものを呑み込もうとした、その時。
重厚な扉が開かれ、ひとつの影が執務室へと足を踏み入れた。
「すまない、遅くなった」
現れたベレトは、息詰まるような室内の空気に少しも動じることなく、クロードの傍らへと歩み寄る。
「ジェラルトに相談したが、団長代行である自分が同行するかどうかを決めてよいと」
「……あんた、」
言葉を失うクロードを見据え、ベレトは声音を変えずに告げた。
「本来ならば、帝国軍との戦いのために雇われている身だ。だが……先の戦いでは帝国軍を取り逃がし、その上、雇い主である君に傷を負わせるという失態を犯した」
規則をなぞるようなあまりにも律儀な理由に、クロードは目を見張る。
「傭兵として、汚名だけは返上しておきたい。自分たちでよければ、力になろう」
淡々とした響き。金と契約だけの薄情な繋がり。そう割り切っていたはずの境界線を、この灰色の悪魔は、傭兵としての体面という理屈を用いてあっさりと踏み越えてみせた。
彼なりの道理があるのだろうが、それが今はたまらなくありがたい。誰も信じないように張り巡らせていた防壁の隙間をすり抜けられ、こわばっていたクロードの肩から、ふっと余計な力が抜ける。
「……すまない、恩に着るよ」
短く返し、クロードはいつもの飄々とした、だが頼もしい盟主の笑みを浮かべてみせた。
出陣の刻が迫るデアドラの城門前。慌ただしく物資が運び込まれる喧騒の脇で、クロードは自身の武具と携行食の点検をしているベレトへ歩み寄った。
「出発の前に、もう一度礼を言わせてくれ。あんたが来てくれて、ほんとうに助かった」
振り返ったベレトは、眉を寄せる。その表情には、純粋な疑問が浮かんでいた。
「なぜ、そこまで感謝する」
「なぜって……同盟の危機を救うために、契約外の戦いに手を貸してくれるんだぞ。雇い主として……いや、ひとりの人間として礼を言うのは当然だろ?」
「自分は傭兵としての汚名を雪ぐために同行するだけだ。それに、まだ戦果も挙げていない。過分な礼を言われる筋合いはない」
理路整然と突き返された言葉に、クロードは短く吹き出す。照れ隠しや謙遜ではなく、本気で意味が分からないという顔だ。向けられた好意の正体が掴めず、ベレトは視線を逸らして荷袋の紐へと向き直る。他者の感情の機微に疎い彼にとって、打算のない感謝を一方的にぶつけられるのは、どうにも座りが悪いらしい。
東の国境、フォドラの喉元を守る大要塞、通称『フォドラの首飾り』。
帝国との戦線とはまったく異なる、重くひりつくような緊張感がそこにはあった。いつ巨大な城門が破られ、異国の軍勢が雪崩れ込んでくるか分からない。血と鉄の匂いが染み付いた石造りの砦を行き交う兵士たちの顔には、未知の脅威に対する濃い疲労と恐れが影を落としている。
しかし、ただひとり、防衛の要である猛将だけは違った。
「よく来てくれた、盟主殿! ヒルダも元気にしていたか!」
陣幕から姿を現したのは、ゴネリル家の次期当主、ホルストである。要塞の重苦しい空気を吹き飛ばすような快活な声は、常軌を逸したパルミラ軍の猛攻を最前線で凌いでいる男とは到底思えない。
彼はクロードの肩を力強く叩いたのち、その後ろに控えていた影へと鋭い視線を向けた。
「貴公が噂の『灰色の悪魔』か。先の戦いでの目覚ましい働きは耳にしているぞ。帝国最強の武人と渡り合ったその腕前、ぜひ手合わせ願いたいところだが……今はそれどころではないのが惜しいな」
気さくな言葉の中にも、武人としての覇気を孕んだ眼差し。対するベレトは物怖じすることなく、いつも通りに応じる。
「ジェラルト傭兵団、ベレトだ。此度は遊撃として雇われている。……よろしく頼む」
「うむ、頼もしい限りだ! 帝国軍とは勝手が違うが、存分に暴れてくれ!」
豪快な挨拶もそこそこに、陣幕の中心に広げられた地図を囲むように将たちが集う。
ホルストが険しい面持ちで、要塞の東から迫る無数の赤い駒を指し示した。
「敵の主力は、パルミラ名物の竜騎兵だ。相変わらず、常軌を逸した機動力で空から押し寄せてきている」
レスター諸侯同盟は弓の扱いに長けた者が多い。だが、広大な空を縦横無尽に駆ける竜騎兵を相手に、通常の弓兵だけで制空権を奪うのは不可能に近い。機動力の差は致命的だ。
「だから、弓兵部隊には要塞の防衛設備である大型の弓砲台や投石機を任せる。まずは空からの勢いを削ぐのが先決だ」
クロードが卓上の駒を動かしながら、戦術の要を語る。
「撃ち落とした、あるいは低空へ降りてきた敵は、近接戦で叩き潰す。ホルストさん、それにベレトとアロイスさんの歩兵部隊。ジェラルトさんとレオニーの騎馬隊は、地上での乱戦を頼めるか」
「承知した。地の利はこちらにある、存分に暴れさせてもらうぞ」
歴戦の傭兵たちと猛将が力強くうなずく。強固な地上部隊の構えを確認し、クロードは視線を空域へと移した。
「俺とヒルダは飛竜で空へ出て、遊撃にあたる。……機を見て、俺が狼煙を上げる。それが一斉反撃の合図だ」
狼煙。その言葉の裏に隠された真意を、この場で正確に理解している者はいない。
パルミラの将であるナデルとは、すでに水面下で算段がついている。戦局が熟したところで彼と合流し、パルミラ軍の戦力を内部から削ぎ落とす手はずになっていた。同盟の要であるホルストたちにすら明かせない、極秘の策。
「盟主殿の策があれば、パルミラの軍勢など恐るるに足らん!」
豪快に笑い飛ばすホルストの傍らで、クロードはいつもの人当たりの良い盟主の笑みを浮かべて相槌を打つ。だが、その姿は会話の熱からどこか離れた場所にあった。眼前に迫る同胞との戦いに対し、どこか他人事のような、あるいは踏み込むことを躊躇うような距離感。
熱を帯びた大要塞の陣幕でただひとり、深い湖底の色をした瞳だけが、一歩引いて静観する雇い主の姿を無言で捉えていた。
天空を覆い尽くす異国の竜騎兵に向け、フォドラの首飾りに配備された弓砲台と投石機がいっせいに火を噴く。
空気を裂く巨大な矢と、放物線を描いて降り注ぐ岩塊。数の上では劣る同盟軍だが、その防衛線は岩盤のごとく揺るがない。対するパルミラ軍の動きは、異様なほどに精彩を欠いていた。
強引な行軍により兵站はとうに破綻し、将であるシャハドの苛烈な命令によって無理やり死地へ駆り出された兵たちに、本来の誇り高き戦意など残っていない。
戦力差を埋めて余りあるほどの練度と統率力が、戦場を支配してゆく。
上空ではヒルダの振るう巨大な戦斧が敵の飛竜を次々と叩き落とし、同じく空を駆けるクロードもまた、相棒の機動力を自在に操りながら、風を味方につけた矢で竜騎兵の急所を的確に射抜いてゆく。指揮官としての戦況の把握能力と、個としての並外れた武。その両輪が寸分の狂いもなく噛み合い、敵の制空権を完全に削ぎ落としていた。
上空から見下ろす地上戦の只中、クロードは奇妙な違和感を覚えた。
地上ではレオニーの騎馬隊が疾風のように陣形を切り裂き、ジェラルトとアロイスに率いられた傭兵団が地響きとともに歩兵を蹂躙している。だが、その先陣を切るベレトだけが、本来の遊撃の任務を外れ、主の飛竜が旋回する直下の敵を優先的に薙ぎ払っていた。つかず離れずの距離を保ちながら、無言で道を切り開いてゆく。先の怪我を案じての行動なのだろう。その愚直なまでの気遣いに、クロードは苦笑しつつも、あえてその好意を拒まず、好きにさせておくことにした。
同盟軍の優勢が決定づけられたのは、中天にひとすじの狼煙が上がった直後だった。
それを合図に、パルミラ軍の一部が突如として反旗を翻す。かねてよりクロードと水面下で通じていたナデルの部隊が内部から牙を剥き、シャハドの軍勢は完全に瓦解した。
恐慌状態に陥った戦線を捨て、豪奢な民族衣装をまとった敵将が、わずかな護衛とともに崖へと逃走を図る。
だが、その退路はすでに読まれていた。
荒々しい岩肌を蹴って立ち塞がったのは、碧色の髪を揺らす灰色の悪魔。迷いのない刃が一閃し、護衛の兵が容易く地に伏す。逃げ道を断たれ、断崖絶壁の縁へと追い詰められたシャハドが、忌々しげに顔を歪めた。
そこへ、巨大な翼が音もなく舞い降りる。
飛竜の背から降り立ったクロードは、手にした弓をゆっくりと引き絞り、己と血の繋がった異母兄へと鋭い鏃を向けた。
「残念だよ、きょうだい」
張り詰めた弦から放たれた、決別の一矢。空気を切り裂く音の直後、矢がシャハドの心臓を正確に貫く。
声にならない絶叫を口の端からこぼし、敵将の身体がゆっくりと後方へ傾く。千尋の谷底へと吸い込まれてゆくその姿を、クロードはただ底知れぬ眼差しで見下ろしていた。谷底から吹き上げる空っ風が、彼の手にある弓の弦を虚しく揺らしている。
フォドラに築かれた壁を壊し、隔たりのない世界を切り拓く。その途方もない野望は今、王の座へと続く階段と共に無残にも崩れ去った。
クロードははるか先の幻よりも、今この地で戦い、己を信じて背中を預けてくれる仲間たちを守ることを選んだ。遠い星空へ手を伸ばすのをやめ、血の匂いが染みついた大地へ、深く根を下ろすことを決めたのだ。
胸の奥で熱を放っていた広い世界への渇望が、音を立てて砕け散る。その欠片は、冷たい谷の底へ落ちてゆく兄の身体とともに、二度と手の届かない地の底へと沈んでいった。
果てなき闇へ消えたきょうだいの残像から目を逸らすように、クロードはゆっくりと振り返った。背後には、剣を鞘に収めたベレトが佇んでいる。
血を分けた兄を手にかけてしまった動揺と、自らの手で夢へ至る道を断ち切った底知れぬ喪失感。喉の奥で渦を巻く昏い感情を咄嗟に呑み込み、クロードはいつもの飄々とした笑みを顔に貼り付けた。
「悪いな、あんたたちにも手伝わせちまって」
軽い調子で労いの言葉を口にする。しかし、血の匂いが立ち込める岩肌を吹き抜ける風の中、ベレトの眼差しは射抜くようにクロードを捉えていた。
「……あの男は、もしかすると君の」
珍しく核心へと踏み込んでくる問い。先ほど、ひとり吐き出してしまった『きょうだい』という言葉を聞かれていたらしい。
誤魔化すこともできた。いくらでも嘘を吐く術は持っている。それなのに、なぜかこの澄んだ瞳を前にすると、安っぽい作り話を並べ立てる気にはなれなかった。
「……誰にも言わないって、約束してくれるか?」
「ああ。約束しよう」
迷いのない、透き通った声。何の確約もない、ただの口約束でしかない。裏切られれば同盟の盟主という立場すら危うくなるというのに、クロードの心はその返答をすんなりと受け入れている。金と契約だけで繋がった薄情な関係だからこそ信じられるのか、はたまた、この男が持つ得体の知れない力ゆえか。
クロードは息を吐き、再び谷底へ視線を落とした。
「あれは、俺の腹違いの兄貴なんだよ」
決して明かしてはならない生い立ち、ひいては異国の血を引いているという同盟最大の禁忌に直結する告白。軽蔑の色を浮かべられるか、あるいは血縁者との内輪揉めに巻き込まれたことへの激しい追及を受けるか。身をこわばらせ、次なる言葉を待つ。
だが、返ってきたのはあまりにも短いあいづちだった。
「そうか」
それきり、風の音が通り過ぎるだけ。ベレトはそれ以上、何も言葉を紡ごうとしない。己の正体の大部分を明かしたに等しいというのに、拍子抜けするほど淡白な反応だ。
「……おいおい、それだけか?」
思わず間の抜けた声で問い返すと、ベレトは不思議そうに首を傾げる。
「それだけも何も、自分が踏み込むようなことではないからな」
フォドラの常識にも、血筋という呪縛にも、この男はどこまでも疎いのだと気付かされる。勝手に梯子を外されたような感覚に陥り、クロードは呆然と瞬きを繰り返す。
しかし、その理屈の通らなさが、どうしようもなく救いだった。
肉親を手にかけた罪悪感も、大義のための非情な決断も、この男の前ではただの現象として処理される。張り詰めていた糸が解け、自然と唇の端がゆるんだ。
「けれど」
ふいに、ベレトが目を細める。
「同盟軍に……君に、同行してよかった」
何の飾り気もない、心からの言葉。そのやわらかな響きに、クロードは胸の中が粟立つのを感じた。
「……ああ。ほんとうに助かったよ。あんたのおかげで、こうしてレスターを、フォドラを守ることができた」
滲み出そうになる感情を抑え込み、深い感謝とともに告げる。すると、ベレトはなぜか居心地が悪そうに視線を彷徨わせた。
「君が秘密を明かしてくれたのなら……自分もひとつ、君に謝らなければならないことがある」
「なんだよ、あらたまって」
「君たちに同行すると決めたのは、自分ではない。ジェラルトだ」
神妙な面持ちで投げかけられた思いがけない告白に、クロードは目を丸くする。
「自分は契約外の戦いに出る必要はないと訴えたが、傭兵は信頼が大事だとジェラルトに言われた。たまには人助けも悪くないだろうと」
そこで言葉を区切り、ベレトは酷薄な戦場をぐるりと見渡した。
「……それでもやはり、規模からして人助けの範疇を超えているとは思うが。ともかく、ここへ来たことについて、自分の手柄のように振る舞うのは、不誠実だと思ったんだ」
先ほどのあたたかな感動を自ら打ち砕いてゆくような、愚直なまでの誠実さ。己の美談にすることすらよしとしないその潔癖な在り方に、クロードはしばらく言葉を失い――やがて、喉の奥から絞り出すような笑いをこぼした。
「……あははっ! なんだよ、それ」
生まれて初めて深い秘密を他者と共有したという、稚拙でくすぐったいよろこび。血を分けた兄を手にかけてしまった、凍りつくような絶望。その真逆の感情が嵐のように胸中で混ざり合い、息をするのも苦しくなる。
笑い声でごまかさなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。殺伐とした断崖絶壁で、手で顔を覆いながら肩を震わせるかつての少年を、ベレトはただ見つめている。
東の国境を脅かしたパルミラ軍を退けてから数週間。
大きな戦こそないものの、同盟領内では未だ小規模な賊の討伐や治安維持に追われる日々が続いていた。
戦火の只中とはいえ、水上の都デアドラの夜は静謐なうつくしさを湛えている。運河の水面が月明かりを淡く反射し、潮風が波音だけを運んでくる。クロードはひとり水上へ張り出した外廊下の手すりに身を預け、張り詰めた思考を夜風に溶かすように、暗い海を眺めていた。
波の音に紛れ、背後で衣擦れの音が止まる。
振り返るまでもなく、気配だけで誰かは分かった。数時間前、廊下ですれ違った折に「今日の政務はもう切り上げるよ」と告げておいたはずの、灰色の悪魔だ。
あの敗戦の夜、そして異母兄との死闘を経て最大の秘密を共有して以来、この雇われ傭兵は、夜の城館を見回るたびにこうしてたびたび姿を現すようになった。
「ベレトか。遅くまで見回りご苦労さん」
夜空を見上げたまま、どこか穏やかな気持ちで口を開いた。
「なあ、前から思ってたんだが……あんたって、ほんとうに読めないよな。戦場じゃあんなに容赦なく敵を薙ぎ払うくせに、昼間は中庭でのんきに焼き菓子なんかかじってたりする。腹の底が見えないというか、案外かわいいところもあるというか」
「……君のほうこそ、よく分からない人間だと思うが」
低く落ち着いた声だった。振り返れば、歩みを止めたベレトがただこちらを見つめ返している。月明かりに照らされた貌を値踏みするようにうかがうも、瞳の奥に剣呑な光はない。
「俺が?」
「そうだ。いつもは飄々としているくせに、戦場に出れば、平然と自らの命を投げ出すようなとんでもない無茶をしでかす」
「おいおい、あの日の無茶はもう手打ちになったはずだろ?」
「……それに、今もそうだ」
言葉を口にするうち、彼のなかでくすぶっていた不満が再燃してきたらしい。みるみるうちにベレトの唇の端が下がり、明らかな不機嫌の相を呈し始めた。
「数時間前、今日の政務は切り上げて休むと言っていたはずだ。なぜこんな夜更けにひとりで風に当たっている」
「いや、これはちょっとした息抜きでだな」
「昨日も遅くまで起きていただろう。部屋に灯りがついているのが見えた」
逃げ道を塞ぐように事実を突きつけられ、思わず言葉に詰まる。
相手を観察しようとした浅ましさが見事に裏目に出た。ベレトのほうは口を噤んだまま、危なっかしい雇い主の疲労の兆候や日々の生活態度を、仔細に観察していたのだ。
「そもそも、息抜きが必要なほど疲労が溜まっているということ自体が問題だ。……君は、」
じわじわと語気を強め、気迫を帯びてくる姿に、咄嗟に身構えた。
このまま言わせておけば、あっという間に反論の余地もない道理で詰め寄られる。付き合いが深まるにつれ、この男の頑固な側面への、ある種の諦めが板につき始めていた。
「わかった! 今すぐ寝る。寝るから、」
これ以上の追及を避けるべく、クロードは勢いよく両手を上げて降参の意を示す。その必死な様相に、ベレトは一瞬だけ目を瞬かせ、言い淀む。
「……一傭兵が、雇い主に口を出すことではないかもしれないが」
一応は自覚があるらしい前置きに、クロードは計算ずくの余裕を崩し、間抜けな表情を晒した。
いや、まったくもってその通りだ。一介の傭兵が、雇い主の睡眠時間にまで目くじらを立てて詰め寄ってくるなど、お節介もよいところである。
そう内心で同意しかけたが、ここで下手に口を挟めば、再び火に油を注いで説教が白熱しそうで恐ろしい。本音をぐっと腹の奥に呑み込んだ。
呆れまじりのため息が、冷たい夜風に溶けてゆく。
うまく立ち回っているつもりが、年相応の青さをあっさりと看破されている事実。のんきに菓子を頬張るような人間らしさにすっかり油断していると、時折こうして、率直な言葉で痛いところを突いてくるのだから。
「……はあ、分かったよ。あんたのそういう不機嫌な顔、俺には堪えるから勘弁してくれ」
苦笑をこぼし、おとなしく寝室へ足を向ける。背に受けていたあの鋭い険しさが、音もなく消え失せてゆく。残されたのは、ただ穏やかな夜の気配だけだった。
デアドラでの夜から、幾日が巡った。同盟領内を荒らす賊の掃討へと赴いた、吹きさらしの平原。
幾重にも連なる天幕の奥、ひっそりと焚き火が爆ぜる音が夜の闇に吸い込まれてゆく。同盟軍の陣営が深い眠りにつく中、クロードはひとり、揺らめく炎の傍らで愛用の弓を手入れしていた。
弓を引き絞る負荷は、決して軽くはない。厚手の革手袋越しであっても、ここ最近の連戦で幾度となく弦を引いた指先は赤く腫れ上がり、ところどころ無惨に皮が剥けている。
痛みを誤魔化すように布で弓幹を拭っていると、ふと視界の端に人影が立った。足音すら立てずに歩み寄ってきたのは、剣の手入れを終えたらしい、ベレトだった。
「……相変わらず、足音を立てない男だな」
クロードは痛む指先を隠すようにさりげなく弓を下ろす。
「なんだ。また俺の夜更かしに、小言でも言いに来たのか?」
どうせまた理詰めの説教が始まるのだろうと半ば開き直って受け止める構えを見せるも、彼の鋭い眼差しはすでに、手袋を外した剥き出しの指先を的確に捉えていた。
「指を痛めているな」
「いや、大したことはないさ。少しばかり皮が擦れただけで……」
言い訳を遮るように、ベレトは懐から無骨な小瓶を取り出す。蓋を開けると、薬草と獣の脂を煮詰めたような、青臭い泥のような匂いが漂ってくる。
「傭兵団で使っている傷薬だ。……塗っておけ」
「おいおい、俺はこれでも同盟の盟主なんだぞ。出どころの怪しい薬は受け取れない」
冗談めかして断ろうとしたクロードの前で、ベレトは反論する代わりに音もなく自身の手袋を外した。
月明かりの下に現れたのは、長年の鍛錬によって無数の剣胼胝が刻まれた白い指先。彼は小瓶から泥のような軟膏をすくい取ると、表情ひとつ変えないまま、自らの唇へとそれを塗りつけ、あろうことか舌先でわずかに舐め取った。
「な、あんた、何をして……」
「ひどい味だが、毒ではない。……これで証明できただろう」
「いや、そうじゃなくてだな」
噛み合わないやり取りに頭を抱えかけるが、ベレトの表情は真剣そのものだ。それどころか、小瓶を持ったままさらに距離を詰め、形のよい唇を開く。
「……まだ疑うなら、君の口にも入れてみるか」
「冗談言うな。……と言いたいところだが、あんたのことだから本気なんだろうな」
あまりに極端で強引なやり方に、クロードは思わず顔を引きつらせた。たかが指の皮が剥けた程度で身体を張り、挙句、有無を言わさずねじ伏せようとする。どれだけ考えを巡らせてみても、この男にはいつも思い通りにいかない。
「……はあ。貸せよ、もう。大人しく塗るから」
諦めたように息を吐き出し、クロードはついに観念して小瓶を受け取る。
実際のところ、クロード自身も毒や薬の調合には長けている。わざわざ出処の知れない獣の脂など使わずとも、もっと効き目が良く、匂いがまともなものを自分で作り出せる。けれど、この程度であれば自作できるなどと強がろうものなら、目の前の男はすかさず「ならばなぜ作らない」「そんなものを調合する暇があるならこれを塗ったほうが早い」と、正論で畳み掛けてくるに決まっている。
軟膏を指先に擦り込むクロードを見下ろしながら、ベレトはぽつりとこぼした。
「自分は君を勝たせるために剣を振るうし、君の背中も守るつもりでいる。だが、」
「……」
「最後の最後で君の命を救うのは、君自身の放つ矢だ。……その指を潰してどうする」
それは、ただの傭兵らしからぬ、どこまでも本質を突いた飾り気のない言葉だった。指先のひりつくような痛みを、指揮官としての重圧とともにひとりで抱え込もうとしていた感傷など、戦場では何の意味も持たないのだと、淡々と諭しているようだった。
「……ああ。違いない」
小言ばかりで厄介な男だと思っていたのに、その不器用な気遣いにはもう口答えする気すら起きず、クロードは薬の染み込む指先を見つめたまま、苦笑まじりに首を振る。
目的を果たしたベレトはうなずき、それ以上は何も言わなかった。彼は薄暗い天幕の奥へと去ってゆく。
残されたクロードは、再び手元の愛弓に布を当てようとして――ふと、動きを止めた。
指先にたっぷりと擦り込まれた獣脂のせいでひどく滑り、まともに弓幹を握ることすらできない。薬草の強烈な泥臭さも相まって、夜半の冷気に浸って物思いに耽るような気分は完全に吹き飛んでしまった。
これではもう、手入れを切り上げて寝台に潜り込むほかない。あの男がそこまで計算して泥を擦り込んだのか、あるいはただの偶然か。どちらにせよ、自分がひとり抱え込もうとしていた重圧など、あのひと瓶の軟膏であっさりと塗り潰されてしまったのだ。
クロードはままならぬ己の指先を、夜の暗がりにそっと掲げる。薬まみれになった不格好な手を、いつまでも瞬きすら忘れたように見つめていた。
無事に賊の討伐を終え、水都へ帰還してからのこと。
うららかな陽光が差し込む執務室で、クロードが山積みの報告書と睨み合っている。本来ならばヒルダが座っているはずの向かいの席には、ここ数日、当たり前のようにベレトが腰掛けている。彼女は自領でどうしても手が離せない用があるとのことで、なぜか彼に白羽の矢が立ったらしい。
何気なく視線を向けると、男は真剣な顔つきで羊皮紙に向かっている。
剣を握り慣れた指先が、今は慣れない手つきで細い羽根筆を握りしめていた。戦場ではあれほど迷いなく剣を振るうのに、その手元はこわばっている。彼は地図や簡素な手配書を「読む」ことはできても、自ら文章を「書く」ことはできなかった。長年戦場ばかりを渡り歩き、学校という場所へ通った経験がないのだという。
気まぐれを装って文字を教え始めたのが数日前のことである。
ベレトに自身の名前の書き方を教え、時折短い言葉を交わす。奇妙な光景が日常になりつつあることが、クロードにはどうしようもない恐れを抱かせる。
相手はただの行きずりの傭兵だ。己の血筋という最大の秘密を共有したとはいえ、金と契約で繋がった、いつか必ず切れる縁でしかない。間もなく彼らとの雇用期間は満了を迎える。それなのに、なぜこれほどまでに、この男の時間を自分の色で塗り潰したくなるのか。
誰かとほんとうの意味で心を通わせる術を知らない。別れの時が迫っていると理解しているからこそ、いざ距離が縮まると、どう振る舞えばよいか分からなくなる。これ以上情を移すまいと警戒心が勝り、わざと皮肉めいた物言いをして、どうにか遠ざかろうとしてしまう。
とめどない思考を断ち切るように、クロードはふたたび手元の報告書へと視線を戻した。しかし、並んだ文字をいくら目で追っても、内容は頭に入ってこない。
向かいの席から注がれる気配に気づき、顔を上げる。そこには、いつの間にか文字の練習の手を止め、言葉を発することなくこちらを見つめているベレトの姿があった。
「……なあ、ベレト」
見透かされまいと、こわばった拳を机の下へと隠す。
「最近、やたらと俺のことを見てるよな。雇い主の働きぶりを査定でもしているつもりか?」
つい、突き放すような言い回しになってしまう。しかし、ベレトは顔色ひとつ変えず、首を振った。
「いや。……君のことが、分からないと考えていた」
「俺の秘密なら、あの断崖で教えてやったはずだけどな」
「血筋の話ではない。君そのものが、だ」
淡々とした声が、陽だまりの落ちる執務室に響く。静謐な眼差しが、射抜くようにクロードを捉えていた。
「警戒心が強いはずなのに、全軍の命綱である殿を新参の自分たちにあっさりと任せる。秘密を抱え、誰にも本心を見せないようにしているくせに、自ら前に出て無茶な真似をする。誰よりも傷ついていることを隠し、何事もなかったかのように平然と振る舞ってみせる」
ベレトがゆっくりと立ち上がる。
「……どうしてそこまで、すべてをひとりで背負い込もうとするのか。何が、君をそう矛盾した人間にさせるのか」
それは、ただの策士としてではなく、クロードという人間の根底にある原動力を知ろうとする、ひたむきな問いかけだった。
心の奥底でずっと求め続けていた、偏見も隔たりもない広い世界。何のしがらみもなく、背中を無防備に見せられる存在。目の前にいるこの男になら、自分の途方もない夢を打ち明け、もう一歩だけ深く踏み込めるのではないか。名状しがたい衝動が、幾度も喉元までせり上がってきている。
もしも不用意に距離を詰め、真の望みまで打ち明けて一歩を踏み出してしまえば最後、きっともう後戻りはできない。間もなく訪れる別れの日に、笑顔で手を振ることなどできなくなってしまう。
いざという時、誰も背負わずひとりで飛び立つための身軽さを、自ら捨て去るのが怖かった。
「……なあ。もし俺が、いっそ帝国の言いなりになって生き残る道を選ぶしかないって言ったら……あんたはどう思う?」
返答に窮し、ふいに口を突いて出た自虐混じりの仮定。歩み寄り方が分からないからこそ、わざと相手を遠ざけるための、見え透いた予防線だった。
だがベレトは、迷いなく首を振った。
「君は、素直に首を差し出して誰かの言いなりになるような男には見えない。ただ従うふりをして、叛旗を翻す機を窺うだろう」
「ははっ、あんたの中の俺は、ずいぶんと買い被られているみたいだな」
そう軽口を叩いて誤魔化した。だが、その根拠のない信頼が、どれほど孤独な心を軽くしたかは、口が裂けても言えなかった。
ベレトはぐっと押し黙ったまま、逃げることを赦さないように見つめ続けている。
「君の根底にあるものを知れば、理屈では説明のつかない行動も少しは理解できる気がするんだが……教えてはくれないだろうか」
「そいつは無理な相談だ。俺には、道が途絶えてもまだ諦めきれない夢ってやつがあってね」
拒絶の意を込めて肩をすくめてみせたクロードに対し、ベレトはあからさまに不満そうな顔つきになる。あらためて、自分の扱いにくさが嫌になった。
普通なら、ここで愛想を尽かされて終わるだろう。だが、目の前の男はクロードがどれほど見え透いた嘘や皮肉で壁を作ろうと、不服そうに押し黙ったかと思えば、堪える様子もなく平然と、次の小言や疑問をぶつけてくるのだ。
「……君がそうやって教えてくれないから、自分でどうにか答えを探そうとして、つい目で追ってしまう」
「……」
「自分はどうも、君から目が離せないでいるらしい」
クロードが息を吸うとともに、部屋の空気が止まった。張り付いていた笑みが剥がれ落ち、ただただ言葉を失う。
相手を知ろうとする純粋な探求心が行き着いた先が、「目が離せない」というあまりにも無防備で、誤解を招きかねない言葉。そこには駆け引きも、飾ったところも何ひとつない。ただ己の内側に芽生えた関心を、文字を書くよりよほど迷いなく、ありのままにぶつけてきただけである。
「よくそんなこと、平然と言えるよな」
ようやく絞り出した声は、頼りなく揺らいでいる。
傷つかないよう歩み寄ることを諦め、契約という壁を盾に固く閉ざしたはずの扉を、この男は理屈の通らないひと言で、外側からあっさりと打ち壊してくる。
クロードは堪えきれずに片手で額を覆い、大きく天を仰ぐ。そうでもしなければ、自分でも制御しきれない動揺を曝け出してしまうからだ。
「……何か、おかしなことを言っただろうか」
心底不思議そうに首を傾げるベレトに、クロードは深く、大きなため息を吐き出す。
こちらがどれだけ境界線を引いて逃げ回ろうと、この男はこうして、理解できないと言いながら真正面から踏み込んでくる。
「……いや。俺もあんたのことがちっとも分からなくて、頭が痛くなってきたところだ」
額を押さえたまま、恨みがましく睥睨する。しかし、その声にいつものような余裕はなく、ただ年相応の青い狼狽だけが、どうしようもなく滲み出していた。
己の中に根を下ろし始めた執着の正体を、整理しきれないままに時は過ぎる。
どうしようもなく惹かれ、このまま自分のそばへ縛り付けておきたいという衝動は日々烈しくなるばかりだった。それを契約の終わりという真っ当な大義名分が断ち切ってくれることに、クロードはどこか安堵すら覚えていた。情に流されず、いざという時に誰も背負わずに飛び立つための翼を、失わずに済むからだ。
ジェラルト傭兵団は同盟軍との契約を終え、次なる戦場へと旅立つ。
出立の朝。デアドラの城門で見送るクロードは、胸中で渦巻く未練を分厚い仮面の下へ押し隠し、誰の目にも疑いようのない、気さくで頼もしい主の貌を取り繕っていた。
出立の準備を整え、飛竜の傍らに立つクロードの前で、ベレトが歩みを止める。
「短い間だったが、世話になった」
「こっちの台詞だ。あんたたちがいなけりゃ、パルミラとの戦いはどうなってたか分からない」
いつもと変わらない軽口を返す。しかし、曇りのない瞳は、その虚飾の奥にあるものを探るように、見つめ返していた。
「次に戦場で顔を合わせる時は、お互い敵同士になっているかもしれないな。もし俺を狙う依頼が来たら、いくらか手加減してくれよ」
未練を断ち切るように、あえて金で結ばれただけの関係であることを突きつける。けれど、そんな稚拙な真似が目の前の男に通用するはずもなく。
やがて、彼は顎を引き、ただひと言だけを残した。
「……どうか達者で。縁があれば、また」
「ああ。あんたもな。ジェラルトさんにもよろしく伝えておいてくれ」
翻る鈍色の外套。背を向けて遠ざかってゆくその後ろ姿を見つめながら、クロードは腹の底に重く沈んだ剥き出しの喪失感を、ただ朝の冷え込みのせいにして飲み下した。
別れの余韻を偽りの態度で塗り潰したあの日から、すでに数節の月日が流れている。
大陸の情勢は、大きく塗り替えられていた。レスター諸侯同盟は中立の立場を捨て、アドラステア帝国との間に歴史的な盟約を結ぶ。
恭順という名の、屈辱的な決断。しかし、圧倒的な戦力を前に同盟の血を流さず生き残るには、クロードにはこの道を選ぶほかなかった。
現在、帝国の要請に従い、同盟軍はファーガス神聖王国領への出兵を強いられている。クロードの耳には、かつて雇っていたジェラルト傭兵団が王国領で動いているという風の噂が届いていた。同盟が王国と敵対した以上、いつか刃を交える日が来るのだろうか。早朝の肌を刺す冷気が、遠く離れた空の下にいるはずの、あの無愛想な男の顔を脳裏にちらつかせる。
帝国軍との合同作戦において、同盟軍はのらりくらりと遅滞戦術をとっていた。
前線への到着を意図的に遅らせ、同盟兵が矛を交える機会を削ぎ落とす。味方を守るための最善だが、帝国の厳しい監視を誤魔化しながら従順な仮面を被り続ける日々は、確実にクロードの精神を摩耗させていた。
戦火で焼かれた大地が、夕暮れの赤に染まるころ。陣営の天幕の外で、クロードはヒルダ、そしてジュディットと共に地図を囲んでいた。
「のんびりしている暇はないよ。帝国のあいつら、焦れている。そろそろ同盟軍に目に見える戦果を挙げさせろ、ってね。これ以上の引き伸ばしは、逆にこっちの首を絞めることになるよ」
ジュディットが声に苛立ちを滲ませる。
「……わかっているさ、ジュディット」
飄々とした態度を崩さぬまま、クロードは首の後ろを撫でた。
「でもさ、帝国のやり方には、あたしもちょっと懐疑的だなー。もちろん盟約は信じたいけど」
ヒルダが地図から視線を上げ、ぽつりとこぼす。
「状況が変わったら、手段を選ばない人たちって印象があるからね」
「手段を選ばないって点じゃ、俺自身も相当のもんだって自覚があるからな」
自嘲気味に笑うと、ふたりの怪訝な視線が突き刺さる。その眼差しを意に介さず、クロードは帝国軍の駒を指で弾き、陣の外へと転がした。
「帝国のやり方に納得がいかなければ、盟約を破るのはこっちかもしれないぜ?」
声の調子こそ軽いが、冗談めかした響きはない。試すような問いかけに、ヒルダは眉をひそめる。
「こっちかもしれないぜ? じゃないでしょ。不穏なこと言わないでほしいなー」
ジュディットも呆れたように視線を逸らした。
「はははっ、まあ、もしもの話だ。心配すんなって」
いつものように笑い飛ばしてから、クロードはわずかに口元を引き締める。
「……けど、もしもの時が来ちまったら。ヒルダ、悪いが俺についてきてくれ」
澄んだ瞳が、不意に真剣な色を帯びてヒルダを射抜く。沈黙ののち、彼女は小さく肩をすくめてみせた。
「仕方ないなー。他ならぬクロードくんのお願いだしね」
それは、一切の迷いがない二つ返事の承諾だった。彼女の明るい声を聞いた瞬間、クロードの胸の奥に鉛のような痛みが走る。
ヒルダには、同盟の盾である兄のホルストがいる。そして、ゴネリル家を慕う領民たちがいる。確固たる未来を持つ彼女を、己の身勝手な野望と裏切りの泥濘へ引きずり込んでよいはずがなかった。
力強くうなずいてみせる姿を見るほどに、拭いがたい引け目が重圧となってのしかかり、最後の一歩を踏み出す決断が鈍ってゆく。
日が落ち、人気のない天幕で戦局を見下ろしながら、クロードは額を押さえた。
誰も犠牲にしたくない。そう綺麗事を並べておきながら、心のどこかで求めている。己が泥を被って叛旗を翻したとき、背負うものなど何もなく、ただ共に行き止まりまで落ちてくれる、都合のよい道連れの存在を。
フォドラの女神になど、もとより祈ったことすらない。この世界はどこまでも自分に対して不寛容で、残酷にできている。生き残るための策を講じるほどに、同盟は恭順という名の鎖で縛り上げられ、ヒルダのような仲間たちを裏切りの淵へと追い込んでゆく。
そんな息の詰まる現実だからこそ。血筋という呪いにも、フォドラの常識にも縛られない、あの無愛想な傭兵と過ごした時間が鮮烈に蘇る。
夜風に吹かれながら交わした、取り留めのない会話。出所の怪しい薬を塗り込まれた、天幕の奥。不器用な手つきで羽筆を握っていた、陽だまりの執務室。
そこには盟主としての重圧も、生い立ちを隠すための駆け引きも存在しなかった。ただひとりの人間として呼吸し、無防備に背中を預けられたあの空気だけが、すべてが息苦しいこの大地の片隅で、唯一の救いだったと思い知らされる。
失うもののない手札を探し、過去の幻影にすがりつこうとしている己の底意地の悪さ。責務と情の狭間で、クロードは苛烈な自己嫌悪の底へと沈んでいった。
執務室で山積みになった報告書と睨み合い、物資の計算に追われていたクロードは、駆け込んできた近習の悲鳴めいた声に、羽根筆を握る手を止めた。
「……灰色の悪魔が、単身で城門に現れただと?」
身元を明かすなり崩れ落ちたという。後半を聞き終えるより早く、クロードは椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、回廊を駆け出していた。
いつか再び相まみえる日が来るようにと願ってはいた。だが、この最悪の折に、まさか彼の方から己を訪ねてくるとは。こみ上げる熱とともに、心臓の音が大きくなる。しかし、客間に運び込まれたその姿を捉えた瞬間、胸中の歓喜は氷水を浴びせられたように凍りついた。
「盟主様、危険です。いくら顔見知りとはいえ、今の情勢下で得体の知れない者を近づけるのは――」
「下がれ。あとは俺がやる」
身を挺して止めようとする近習たちを一蹴し、人払いを命じる。
椅子に力なく座らされたベレトの姿は、直視しがたいほどに消耗しきっていた。漆黒の外套は至る所が引き裂かれて赤黒い血と泥にまみれ、革靴は白く乾いた土に汚れている。西の果てからこの東の都まで、おそらくはまともな休息も取らずに歩き続けてきたのだろう。
しかし、何よりもクロードを戦慄させたのは、その生気を欠いた貌だった。感情の起伏に乏しい男ではあったが、その奥には確かな意志と、飾り気のない情が宿っていた。しかし今の彼には、それがない。眼差しはただ暗い虚空を映して開ききり、一切の光を吸い込む空洞のように、何もかもが失われていた。そしてその隣には、いつも背後を守っていたはずの、父親の姿がない。
「……ベレト」
掠れた声で呼びかけるが、虚ろな瞳がこちらへ動くことはない。
クロードはあえてそれ以上何も問わず、手早く温かい汁物を用意させると、卓へと置いた。だが、ベレトは立ち上る湯気を見つめたまま、微動だにしない。
無理に踏み込むことはせず、クロードは一度部屋を空けることにした。
数刻のち、そっと扉を開いて中を覗き込むと、椀の中身がほんのわずかだけ減っている。しかし本人は口を固く閉ざしたまま、元の姿勢から動いていない。すっかり冷めた椀を手に持ち、当たり障りのない言葉をひとつふたつ投げかけて、その場を立ち去る。
「……戦時中に、飯を無駄にするわけにはいかないからな」
誰に言い訳をするでもなく独りごちて、クロードは冷え切った残りの汁物を火にかけ直す。そして、自らの胃の腑へ一気に流し込んだ。腹の底に落ちる鈍い熱が、彼の抱え込んでいる重さをほんの少しだけ共有できたような、錯覚をもたらす。
翌日。運んだ汁物を、ベレトは時間をかけてすべて平らげていた。空になった椀を見た瞬間、こわばっていたクロードの肩から、ようやく息が漏れる。
そして三日目。食事を運んできたクロードの気配に、ついにベレトがひび割れた唇を動かした。
「……ジェラルトさんに、何かあったんだな」
クロードの短い問いかけが、乾いた空気に吸い込まれる。やがて、宙を見つめていた横顔から、温度のない声が落ちた。
「……帝国軍に雇われた傭兵に、討たれた。君を斬った、あの双剣の傭兵だ」
抑揚のない、あまりにも残酷な報告だった。
「自分がもっと早く駆けつけていれば……いや、そもそもあの得体の知れない力を、もっと警戒していれば」
紡がれる言葉は、誰に聞かせるためのものでもない。自らの内側で渦巻した後悔を、吐き出しているようだった。
「ジェラルトの仇を討つ。……あの傭兵を、斬り捨てる」
そこには、かつての彼が持っていた穏やかさも、冷静な判断力もない。復讐という青白い焔だけが、空になった器の底で、静かに燻っている。クロードは息を呑み、膝の上で拳を固く握りしめた。
「……同盟は今、帝国と盟約を結んでいる。俺を頼れば、あんたを帝国に突き出すかもしれないとは思わなかったのか」
あえて残酷な事実を突きつける。同盟の盟主として、帝国への恭順を示さねばならない今の立場。ここで彼を捕らえ、帝国の将へと差し出せばどうなるか。同盟に対する帝国の信頼は揺るぎないものとなり、これ以上血を流さずに生き残るという盟主の責務は、完全に果たされる。
天秤にかけるまでもない、明白な最適解だった。策士としての己が、耳元でそう囁いている。
だが、目の前で傷つき果てた男を前にして、その最善手を選ぶことなど、とうの昔にできなくなっていた。
「……君の立場は、自分には分からない」
感情の失せた、あまりにも悲しい声が響く。彼にとって国家の存亡も、盟主としての義務も、もはやその目には映っていない。
「以前、執務室で話した時、君は笑って誤魔化したけれど。自分は今も、あの言葉を信じている。……だから、ここに来た。それだけだ」
すべてを失った彼が、よすがとして選んだのが、他でもないクロードのそばだった。
己の野望のために肉親を討ち、その血に手を染めた陰惨な戦場。誰もが目を背けたくなる業を、この男だけは何も問わず、ただ静かに傍らで受け止めていた。
今、彼は家族を奪われ、底知れぬ喪失を抱えている。血を分けた者を失う痛みを、クロードならば理解してくれるはずだという、ひどく拙く、身勝手な思い込み。自らの手で肉親を切り捨てた自分と、奪われて復讐に駆られる彼とでは、抱える地獄の形がまるで違うというのに。こちらを射抜く瞳は微塵も疑うことなく、ただひとつの救いを求めている。
――自分が泥を被って叛旗を翻した時、ただ言葉を発することなくうなずき、共に地獄へ落ちてくれる都合のよい道連れの存在。
かつて渇望した、まさにその通りの姿が目の前にある。失うものなどない、己すら傷つけ得る鋭利な刃と化した、灰色の悪魔。この男を上手く引き入れれば、帝国の監視を出し抜き、状況を大きく動かすことができる。
しかし実際はどうだ。傷つき果てた無防備な姿で、己の懐へと身を投げ出してきた彼を見た瞬間、計算高く積まれていた算段の塔は、いともたやすく瓦解していた。
正解が選べないのなら、いっそ盤ごとひっくり返してしまえばよい。
これは同盟を帝国から解き放つための、起死回生の一手だ。その盤上に、ついでに彼の復讐を乗せてやるだけ――そう自分に言い聞かせなければ、あまりの熱に呼吸すらままならなかった。フォドラの夜明けも同盟の未来も、すべてを投げ打ってこの男のたったひとつの願いに殉じようとしている己の矮小な執着が、あまりに醜く透けて見えてしまいそうだった。人生で、最初で最後の。
彼は都合のよい手札などではない。己の半身を失い、泣くこともできずに虚空を彷徨う男を、自分がどうにかしてやらなければならない。理屈ではない、煮えたぎるような情が、腹の底から引きずり出されるのを感じる。
「……まったく、あんたって奴は。そんなふうに頼られちまうと、俺も盟主様として、とびきり悪い算段をひねり出さなきゃならなくなる」
クロードは深くため息を吐き、椅子の傍らに片膝をつく。そして、芯から冷え切ったベレトの手を、己の両手でしっかりと包み込んだ。
「……が、仕方ない。他ならぬ、あんたの願いだからな」
いつかの夕暮れ、ヒルダが口にした言葉と同じだった。だが、そこに込められた感情の重さはまるで違う。
帝国と王国の思惑が絡み合う、この重苦しい戦局。一歩間違えれば、同盟そのものを戦火に沈めかねない最悪の手。それを理解した上で、クロードは自らの意志でこの手札を出すことを決める。
「今はとにかく休んでくれ。あんたのことは、他の奴らにはうまく言っておく。……これからのことは、あんたが起きた時にでも話そう」
手から伝わる命の感触を確かめながら、クロードは来るべき次の一手へと思考を巡らせていた。
クロードに迎え入れられ、数日が過ぎるころには、ベレトはすっかり体力を取り戻していた。彼は斥候として密かに城館を抜け出し、各地の動向を探る役割を担うようになる。
標的はただひとつ、帝国軍。だが彼は闇雲に刃を振るうのではなく、水面下で敵の行軍経路や伏兵の位置を正確に探り出し、深夜の執務室で待つクロードの元へ持ち帰ってくる。
同盟軍にとって、彼がもたらす精緻な情報は、帝国の監視をすり抜け、無駄な血を流さずに戦線を維持するための生命線となっていた。盟約を結んだ相手へ明確な敵意を抱く傭兵を懐に匿い続ける以上、その危うい真意を知るのがクロードただひとりであるにせよ、彼が同盟の利益に寄与している事実は、盟主の立場を守るための絶好の理由になる。
しかし、大義名分は立っても、泥にまみれ、刃こぼれした剣を提げて帰還する彼をねぎらうたび、クロードの胸の奥はひりつくように軋んだ。報告を交わす短い時間。そこに、かつてのように夜風に吹かれて軽口を叩き合うあたたかさはない。ただ淡々と戦況を告げるだけの、復讐の炎で稼働する痛々しい姿。どうにかしてやりたいと願いながらも、踏み込む糸口すら掴めないまま、重苦しい夜だけが積み重なってゆく。
深い夜の執務室。音もなく現れたベレトが、机の上に一枚の粗末な羊皮紙を置いた。
「帝国軍の動向を探っていたが、それよりも王国と教団の連合軍の動きが不穏だ。西方のアリアンロッドへ向かうようだが、それとは別に、東へ向かう別働隊の姿も確認した」
「王国軍が?」
クロードは眉をひそめ、広げられた地図へと視線を落とす。ベレトがもたらした情報の通りに、青い王国の駒を動かしてゆく。行き着く先は、国境付近に位置する険しい渓谷。
「……アリル、か」
「煉獄の谷、と呼ばれているのだろう。地名だけは知っているが……溶岩が噴き出す死地だと」
クロードは地図の上で、ふたつの駒を指の腹でなぞり、次なる戦局の形を頭の中で組み上げてゆく。確かに、動きとしては理に適っている。王国軍と教団が、アリルを抜けてかつての本拠地を狙っているとしたら。うまく帝国軍を誘導し、地の利の悪い谷で迎え撃つよう仕向けることができれば。そして、盟約に基づき、同盟軍に増援としての出兵要請を出させることができたなら。
「……あそこは道が険しく、絶え間なく炎が噴き出している。大軍を展開するだけの平地がない」
クロードの低い声が、夜のとばりに響く。
「つまり、俺たち同盟軍みたいに兵数が少ない陣営のほうが、機動力を活かして地形の利を得られるということだ。帝国と王国が潰し合う隙を突いて、戦局を手中に収められるかもしれない」
ただの勝算ではない。王国軍は絶対に同盟軍に手を出してこないだろうと、クロードは踏んでいた。ディミトリならば、帝国軍めがけて一直線に向かってくるはずだ。帝国の言いなりとなるどころか、主要な将をも奪われた同盟を削るために、貴重な兵を仕向けてくるような真似はしない。
自らの手で三つ巴の乱戦を仕組めば、背後からあの双剣の傭兵を、そして帝国の将を討ち取る機が確実に訪れる。同盟の存亡を懸けた生存戦略と、一個人の復讐。決して交わるはずのなかったふたつの道が、煉獄の谷という一点で、完全に重なり合おうとしていた。
「……あんたの願いを、叶えてやれるかもしれない」
喉を絞るようにこぼれた言葉に、ベレトが初めて、ゆっくりと顔を上げた。その虚ろだった瞳に、暗い光が灯る。
「……すべてを失って、どうすればいいのか分からなくなった」
ぽつりと、感情の抜け落ちた声が空気に落ちる。
「自分でも制御できない感情ばかりが噴き出して、抑えきれなくて……どうしようもなく、途方に暮れていた時、」
そっと伏せられた睫毛の奥に、彼本来の、飾り気のない色が滲んだ。
「何気なく仰いだ、東の空が目についた。……君が、思い浮かんだんだ」
理屈ではない。己の中で暴れ狂う熱を持て余し、絶望の底で無意識に求めてしまった存在。痛覚すら麻痺した状態で、飲まず食わずのままひたすらに東へ向かって歩き続けたのは、限界を迎えた彼にとって、それが唯一のよすがだったからだ。
かつての執務室で、『目が離せない』と言い放ったあの時のように、彼の言葉には何の駆け引きも嘘もない。
「気がつけば、ここへ向かって歩いていた。……君を頼って、よかった」
安堵のようにも、呪いのようにも聞こえる、重く、昏いひと言。
その響きを耳にした瞬間、クロードの胸の奥で、無数の天秤が嫌な音を立てて大きく揺れ動いた。
ほんとうに、これでいいのか。
卓上の地図に視線を落とす。そこにあるのは、偽りの笑顔とのらりくらりとした策で、死に物狂いで守り抜いてきた同盟の地。そして、いつかフォドラを囲む壁を打ち壊し、何の隔てもなく皆が手を取り合える世界を創るという途方もない夢。
帝国軍と、王国と教団の連合軍が入り乱れる戦端を自ら開くなど、いかに盤面を整えようとも完全に制御しきれるものではない。もし目論見が外れて露見し、あるいは戦に敗れれば、同盟はたちまち帝国の怒りに灼かれる。
脳裏を、いつも傍らで支えてくれた盟友の顔が過る。同盟が地に墜ちた時、たとえ盟主であるクロードが帝国に下るよう命じても、彼女は頑なに武器を置こうとはしないだろう。すべてを守るため、最後まで笑って抗い、無惨に散ってゆくことを、クロードは知っている。
たったひとりの男の願いを叶えるために、そんな彼女たちを、同盟の未来を道連れにするなど、盟主として赦されるはずがない。
しかし、顔を上げれば、己の答えをただ待つ男の姿がある。何もかもを失い、行き場のない怒りに途方に暮れながらも、無意識のうちに己を求め、この手だけを命綱のように握りしめてきた男。
煉獄の谷での乱戦。同盟が終わるだけではない。自らが整えた死地へ彼を放り込めば、あの双剣の傭兵や帝国の猛将を相手に、相討ちになる可能性すらある。復讐を果たさせるという名目で、自分は彼を、ほんとうの奈落へ突き落とそうとしている。
ここで手を引き、彼を城に縛り付けて復讐を思いとどまらせるのが、本来向けてやるべきやさしさなのだろう。だが、空洞になった彼の心を慰め、悲しみを癒やしてやるようなあたたかさを、クロードは持ち合わせていない。巧妙な策を編み出すことに終始してきたこの身には、彼がさらに深く傷つくであろう、血塗られた道を示すことしかできない。己の不甲斐なさが、鋭く胸を抉った。
ともに地獄の底まで落ちる道であろうとも、彼の手を引くことに、心が傾き始めているのを自覚する。
言葉の絶えた空間の中、クロードはゆっくりと息を吸い込み、盤の隅に置かれていた黒い駒をひとつ、指先で摘み上げた。逡巡を抱きながらも、足元から攫ってゆく濁流に逆らうことはできず、赤と青の駒が睨み合うアリルの中心へと、滑らせる。
「俺たちが向かう先は地獄か、はたまた――」
言葉の先は夜の闇へと消える。まだ心の決まりきらないまま、クロードはこわばる指先を隠すように、固く拳を握りしめていた。
アリルへ向けた行軍の途上。吹きさらしの荒野に張られた天幕の外は、血を流したような深い赤に染まっている。地平線へ沈んでゆく夕陽は、戦場で散ってゆく命を想起させた。
単騎で斥候に出ていたベレトが野営地へ帰還し、探り当てた帝国軍の動向を伝える。クロードの誘導通り、エーデルガルト率いる帝国軍の本隊がアリルへと向かっているという。
それを聞き届けたクロードは、西の空を見つめたまま、静かに口を開いた。すべてを懸けた戦を控えているにもかかわらず、心は不思議と凪いでいた。
「情報ありがとう、ベレト。おかげで心が決まったよ」
「………………」
立ち尽くす姿は、冬の枯れ木のようだった。それでも、その瞳はただ逃げ隠れすることなくこちらを見つめ返してくる。
すべてを失い、復讐という妄執に囚われたこの男は、他に行くあてを探すこともなく、はるばる自分の元へとやって来た。
常に他人を疑い、手札として選別する側に無理やり立ち続けた自分が、この男に選ばれたのだという事実。張り詰めていた胸の奥のこわばりが、音もなく解けてゆく。
クロードはゆっくりと視線を落とし、自嘲するように息を吐き出す。
「実は、ずっと迷ってたんだ。どうすりゃいいのかって。あんたみたいな奴が、初めから俺のそばにいてくれたらよかったのにな。そうしたら俺も、もっと別の道を選べたかもしれない。レスターの……いや、フォドラの形だって、別のものに変わっていたかもしれない」
口をついて出たのは、あまりに無防備な本音。
もしも初めから彼が隣にいてくれたなら、誰の血も流さず、仲間を犠牲にすることもなく、思い描いた夜明けを迎えられたのではないか。そんなあり得ない幻影を、破滅へと向かう戦火の直前で、彼に重ねてしまう。
「きっと、過大な評価だ」
冷め切った声が返る。己の価値など、復讐を果たすための剣でしかないと、そう感じているような響き。
クロードは肩をすくめ、顔を上げる。
「そうかな? 人を見る目には自信があるつもりなんだが。まあいいさ。もしこの戦いが終わって、他に行くところもなければ……ぜひ、俺のところにやってきてくれ。期待して待ってるからな」
それは、死地で復讐を遂げたあと、生きる目的を失ってしまうであろう彼へ向けた、唯一の命綱。彼がこの地獄から必ず生還するようにという、切実な祈りにも似ていた。
「……君は、こんな自分を選んでくれるのか」
予期せぬ言葉に、荒野へ向いていた視線がわずかに揺らぐ。復讐を果たすためのただの消耗品として終わるはずだった身体にそぐわぬ未来が預けられたことへの、静かな困惑。
少しの間が落ちる。感情を削ぎ落されたベレトの瞳の奥で、鈍い光が瞬いた。
「悪くない気がするな……考えてみよう」
その言葉を聞いた瞬間、クロードの目からすっと力が抜け、作られた笑みではない、不恰好でやわらかな弧が唇に浮かぶ。
双方に牙を剥くという破滅への行軍。地獄の炎を目の前にしながらも、彼とのふたりの時間はどこか微睡むような心地だった。
「おっと、思いのほかいい手応えだな。それじゃ、戦場では頼んだぜ」
冗談めかして胸を張り、踵を返す。
数歩だけ歩みを進めたのち、クロードはもう一度だけ彼へ向き直り、夕暮れに溶けるような声で付け加えた。どうしても、もうひとつだけ、彼に言っておきたいことがあった。
「……あんたと出会えてよかったよ」
言葉を落とした視線の先。ベレトは地平線へ沈みゆく太陽を背にして立ち尽していた。強烈な残光が背後から差し込み、彼の輪郭だけを鮮明に浮き上がらせる。
顔は深い影に沈み、その表情はまったく読み取れない。
今の言葉を聞いて、彼は笑っているのだろうか。それとも、いつものように無表情なままなのだろうか。
もし、少しでも笑ってくれていたなら、嬉しい。けれど、そうであっても、そうでなくても、どちらでも構わない。
反応を求めて言ったわけではない。ただ、この煉獄の地で戦端が開かれる前に、手遅れになる前に。自らの内側から溢れ出たこのひと言を、どうしても伝えておきたかったのだ。
太陽が完全に地平線へと呑み込まれ、夜のとばりが荒野を包み込む。クロードは足元に落ちた暗い影を踏み締め、灼熱の谷での死闘へ向けて、歩みを進めてゆく。
空を焦がす火柱と、岩肌を舐める溶岩。煉獄の谷アリルには、すでに三つの軍勢が入り乱れる凄惨な戦端が開かれていた。
賽は投げられた。帝国への恭順を装う仮面を脱ぎ捨て、王国諸共この死地で葬り去るための、計算し尽くした起死回生の一手。決して運任せの博打などではない。状況を根底からひっくり返すべく綿密に張り巡らせた罠だった。もう、後戻りはできない。
戦が始まる直前、クロードは自身が陣取る西端から最も遠い、同盟軍の東端にベレトを配置していた。溶岩の流れが穏やかなうえに、そこからずっと北には王国軍の本陣が構えており、帝国軍の主力は必ずそこへ向けて進軍する――という戦術的な建前もあったが、本音はつまらない意地だ。もしもの時、無様に地に這う己の姿を、この男にだけは見られたくなかった。
配置を告げられたベレトは、珍しく眉をひそめ、無言のまま動こうとしない。その眼差しには、失われた感情の代わりに、確かな危惧が宿っているように見えた。
クロードは笑い、彼の肩を軽く叩く。
「心配すんなって。あんたから一本取った男なんだぞ、俺は」
強がりをおどけて見せたまま、クロードは傍らの飛竜に身を躍らせた。強靭な翼がいっそ業火の風を巻き上げ、乾燥しきった岩肌を激しく打つ。一度も振り返ることなく、灼熱の空へと舞い上がった。
数刻後。クロードは熱風の吹き荒れる高台から、眼下で激突する赤と青の軍勢を冷ややかに見下ろす。互いに消耗し切った隙を突き、勝利を掠め取る腹積もりだった。
しかし、皇帝率いる軍勢の苛烈さは予想を遥かに上回っている。兵数の都合で、同盟が誇る弓箭隊の主力を置いてこざるを得なかった事実が重くのしかかり、クロードは唇を噛んだ。
傍らに立つヒルダは、眼下の惨状を前にしても何も言わなかった。クロードがこの裏切りに出ることを、初めから分かっていたかのような落ち着きぶり。恐ろしい戦場にあっても、彼女はどこまでもいつも通り、気高き姿を保っている。
しかし、前線へ躍り出た彼女の部隊が、猛攻を前にじりじりと後退を余儀なくされる。
救援に向かわせた兵たちが、黒鷲の旗の前に次々と薙ぎ倒されてゆくのが見えた。ヒルダは下から射掛けられる矢の雨を間一髪で躱しながら、重い斧を振るって群がる帝国兵を叩き落としてゆく。しかし、多勢に無勢。
鋭い矢尻のひとつが飛竜の翼を深く引き裂き、悲鳴を上げた騎獣がよろめくように高度を落とし始める。彼女自身の肩も大きく上下に揺れ、荒い息を吐きながら必死に戦線を支えようとしていた。
「ヒルダ! 無理せず逃げろと言っただろ? ここは俺に任せて、撤退するんだ!」
「ごめんね、クロードくん……あとは頼んだよ……!」
おぼつかない羽ばたきで、ヒルダと飛竜は後方へと逃げてゆく。
ふと、岩場をふたつほど越えた先を、鈍い光とともに紫の髪が駆けてゆくのが見えた。クロードの予想通り、男は西の溶岩流を避け、東の道から北上するようだ。あと少しでもうひとつの戦が始まるだろう。
クロードは愛弓を手に取り、灼熱の最前線へと身を躍らせる。
「ここが正念場だな。さあ、俺が相手になるぜ!」
しかし、同盟の盟主を引きずり出した帝国軍の動きは、恐ろしいほどに統率が取れていた。
腹心ヒューベルトの放つ闇の魔道が、先回りするように退路を抉る。立ち上る噴煙を縫って矢を射掛けるが、エーデルガルトの振るう覇者の斧とぶ厚い装甲の前に、ことごとく弾き落とされた。
上空からの死角を突こうにも、息もつかせぬ連携に飛竜の動きすら制限され熱風が肺を焼き、弓を引き絞る指先からじわじわと感覚が奪われる。戦局を支配するはずが、いつの間にか蜘蛛の巣に絡め取られた獲物のように、逃げ場を奪われてゆく。視界が明滅し、狙いも定まらない。
それでも、ここで倒れるわけにはいかなかった。クロードは今、ひどく個人的で、取るに足らない焦燥だけで弓を握っている。
期待して待っているなどと、無責任な手綱を勝手に結びつけたのは他でもない自分だった。自分が死ねば、あの口約束は最悪の呪いになって彼を縛り付ける。それだけは、絶対に避けなければならない。
血を吐くような意地が、限界を迎えていたはずの指先に無理やり力を込めさせる。大義でも野望でもない。ただひとつの約束を守り抜くためだけに、クロードは迫り来る皇帝の刃へと、最後の矢を引き絞った。
その刹那。
視界の端、遥か遠くの戦場から、標的である双剣の傭兵に背を向け、群がる帝国兵を獣のような無軌道さで撥ね退けながら、ただ西へ、西へ、駆けてくる男が見えた。
――ベレトだった。はるか東にいたはずの彼が、クロードの危機を察知し、なりふり構わず戦列を離れようとしている。
距離は遠い。だが、こちらへ手を伸ばす顔には、これまで一度も見せたことのない決死の形相が張り付いているのが分かった。彼自身が傷つくわけでもないというのに、その表情を痛ましいほどに歪ませて。
相反する巨大な感情が暴風のように吹き荒れ、引き絞っていた弦から、ふっと力が抜け落ちる。
「来るな! あんたはあんたのやるべきことをやれ!」
肺の底から絞り出した咆哮は、鋼のぶつかり合う喧騒にあっけなく掻き消された。遥か遠くにいる彼へ、声が届いたかどうかも分からない。
やがて、執拗に追い縋る闇が、飛竜の巨体を打ち据えた。悲鳴とともに岩肌へ墜落し、逃げ場のない岩壁へと追い詰められたクロードの頭上に、皇帝の重厚な刃が致命の軌道を描いて振り下ろされる。
直後、耳鳴りすら置き去りにするような凄惨な音とともに、覇者の一撃がクロードの身体を容赦なく打ち砕いた。
自らの血が灼熱の地へとぶち撒けられ、視界が真っ赤に反転する。盤上の駒が無惨に放り出されるように、乾いた岩肌へと体が乱暴に叩きつけられた。
遠のく意識の中、取り返しのつかない罪悪感が、鋭く胸を締め上げる。
彼を復讐から解き放つどころか、勝手な情で死地へと誘い込んだ。盟主としての理屈を盾にしながら、ほんとうは自分自身の身勝手な執着こそが、あの人を地獄の底へ道連れにしたのだ。彼が最後に見せたあの痛ましい顔は、クロードの選択がもたらした、残酷な結末に他ならない。
フォドラの神など、これまで一度たりとも信じたことはなかった。あらかじめ定められた運命など存在せず、すべては己の策とかき集めた手札を用い、この手で掴み取るものなのだと、そう嘯いて生きてきたはずだ。
だが、視界が黒く濁ってゆく中、クロードは生まれて初めて、見えざるものへなりふり構わず縋り付いていた。
俺の命はどうなってもいい。どれだけ嘘吐きと謗られても構わない。だからどうか、あの人だけは。この地獄から、生きて帰してやってくれ。夜明けを見せてやってくれ。
血の味のする口内で、必死に祈りを反芻する。肺腑を焼くような後悔が、喉の奥から止めどなくあふれ出した。
遠のく戦火の響きに耳を澄ませながら、クロードは、届くはずもない赦しを乞うように、残された息を宙へと吐き出した。
白々しい蛍光灯が照らす真夜中のコインランドリー。乾燥機が回る重低音だけが、澱んだ空気をかすかに震わせている。
プラスチックの椅子に浅く腰掛け、スマートフォンを眺めていたクロードの視界の端で、自動ドアが鈍い音を立てて左右に開いた。
現れたのは、いつもと同じ黒いパーカーを羽織った男。軽く視線だけを交わし、男はいちばん端の洗濯機に無造作に衣類を放り込む。
言葉を交わすことはない。男は、何かをするわけでもなく、ただじっと回転する洗濯槽の中を見つめていた。白い肌と端正な顔立ちは、大理石でできた彫刻を思わせる。どことなく、ひんやりとした雰囲気を纏った男だった。
クロードは自販機で買った缶コーヒーの蓋を開け、ひとりで喉を鳴らす。
連絡先も知らない。昼間何をしているのかも聞いたことはない。踏み込もうと思えば踏み込める距離。けれど、互いにその一線を引いたまま、深夜の数十分だけを共有する。
やがて、無機質な電子音が響いた。
男が乾いた衣類を抱え、あっけなく夜の闇へ消えてゆく。残されたクロードは、手の中でぬるくなった缶コーヒーに視線を落とした。彼がどこへ帰ってゆくのかなど、気にも留めない。
この奇妙な男と顔を合わせるのはコインランドリーだけではなかった。
たとえば、早朝の牛丼屋。山盛りの肉が盛られた丼と汁物、おまけに定食まで掻き込む姿を見るのは今週で三度目になる。あんな細い体のどこに入るのかとまじまじと見つめていたところ、思いがけず視線が絡み、ひどくばつが悪くなった。
付きまとわれているのではないかと疑いたくなるほどの遭遇率だが、相手から歩み寄ってくる気配は一切ない。むしろ、自分の方が無意識のうちに彼の行動範囲をなぞっているのではないかという、薄気味悪い錯覚に陥りそうになる。
午前三時のコンビニエンスストア。夜といえど、コンクリートに閉じ込められた真夏のきらめきが靴底を灼くようだった。
冷蔵棚の冷気に当てられ、クロードがいつもの棚に手を伸ばした時。横からすっと差し出された指先と、手の甲が軽くぶつかった。
冷たい外気とは違う、かすかな体温。視線を向ければ、そこにはまたしてもあの見慣れた男が立っている。
男の目が見開かれた。次いで、渋い顔つきに歪む。またこいつか。口にこそ出さないが、明らかな徒労感がその顔に張り付いていた。クロード自身も、まったく同じ顔で相手を睨み返している自覚がある。
男は言葉を発することなく、ゆっくりと腕を下ろした。譲られた形になり、クロードは気まずさを抱えながらも、その容器を掴み取る。
会計を済ませ、店外に出る。生ぬるい夜風が首筋を撫でた。
すぐに帰ればいいものを、なぜか互いに立ち去ることもなく、駐車場の縁石に等間隔の距離を空けて並んでいた。クロードが水滴のついたペットボトルの蓋をひねると、男の視線が手元の茶へ無遠慮に注がれた。
クロードは気まぐれに、口を開く。わずかばかりにこわばった喉からは、掠れた声が出た。
「……あんたもこれが好きなのか」
「いや。初めて飲む」
「じゃあなんでそれ選んだんだよ」
呆れたような問いかけに、男はしばし黙り込む。それから、「わからない」とだけつぶやいた。
不条理とはまさにこのことかと言いたくなる。クロードは溜め息を吐きそうになるも、自分から話しかけたことを思い出し、ぐっと堪えた。
「君は、いつもこれを?」
「……ああ」
警戒心を隠さない、ぶっきらぼうな返事。にもかかわらず、男は納得したように深くうなずいた。
「だったら、自分にも惹かれるものがあるのかもしれない」
抑揚のない、あまりにも自然な響き。冗談の類ではない。まるで、そこにあることが当たり前のような声。
繋がりなど何ひとつないのに、その言葉は奇妙な重さを持って耳に滑り込む。
いつの間にか、コンクリートに切り取られた空の底が、白み始めていた。
名前も知らない。素性も知らない。見えざる手でかき混ぜられ、できた空白。それでも、何かに引き寄せられるように重なり続ける行動範囲と、ふとした瞬間に交わる視線。
「なんだよそれ」
クロードは鼻で笑ってから、冷たい茶を喉の奥へと流し込む。