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シャングリラ(レトクロ)※現パロ

全体公開 レトクロ 13363文字
2026-03-29 17:34:30

無双(赤焔)軸で、ベレト未加入ルート前提の記憶有転生現パロ。社会人設定。
冒頭にモブレトをにおわせる要素がありますが、絶対レトクロになります。

Posted by @Bombwooo

 高級料亭の個室に、場違いなほど下品な笑い声が響く。
 上座に陣取る恰幅のいい男――うちの支社長が、機嫌よく朱塗りの盃を干す。その傍らで、ひとりの男が彫像のように控えていた。
 薄暗い照明の下でも目を引く、恐ろしく整った顔立ち。だが俺の視線は、その造作ではなく、光を一切宿していない暗く濁った双眸に釘付けになっていた。
 かつて見知った顔だ。理不尽な戦の最中、確かに背中を預けた相手の面影は、そこには微塵も残っていない。
 不器用でどうにも世渡りが下手なせいで、おおかた仕事上のささいな弱みでも握られたのだろう。現代のくだらない権力者のもとで、都合のいい駒として感情を殺している彼を、まさかこんな社内政治の席で見つけることになるとは思わなかった。
「いやあ、こいつは本当に便利でね。口応えひとつしないし、汚れ仕事も完璧にこなす」
 脂ぎった顔をこれでもかとてからせて、支社長がさも自分の所有物であるかのように笑い声を上げる。底意地の悪い優越感に浸るその顔は、ただでさえ生理的に受け付けないというのに、今すぐ卓の角に叩きつけてやりたい衝動に駆られる。
 ベレトは嫌悪の表情すら浮かべず、ただ呼吸をすることすら放棄したような顔で、座敷の隅を見つめている。俺の顔を見ようともしない。
 それなりに名の売れた外資系のコンサルタントとして、これまで常に損得勘定で動いてきた。この生理的に受け付けない男に取り入りさえすれば、この先のキャリアは盤石なものになる。頭の中で弾き出さずとも明白な計算結果が、ここで波風を立てるなと警告を鳴らす。
 だが、彼を道具のように扱う下品な声が鼓膜を揺らすたび、脳内で退職手続きのシミュレーションを始めている自分がいた。
 退職届のフォーマットは適当でいい。明日、人事宛てに郵送で送りつけてやれば、法的には二週間で辞められるはずだ。引き継ぎなんか知るか、残った有給も残らず消化してやる。ま、とにかくどうにでもなるだろう。
 退社までの完璧な段取りを頭の中で組み上げた瞬間、俺の右手は、目の前のお猪口を無意識のうちに掴み上げていた。ゆっくりと立ち上がってから、なみなみと注がれていた日本酒を、満面の笑みを浮かべる支社長の顔面めがけて躊躇なくぶちまける。
……っ、な、何を!」
 顔に引っ掛けられた酒の滴を拭いもせず、目を剥いて喚く男を冷ややかに見下ろす。
……悪い。手が滑っちまった」
 静かに告げると、ようやく事態を飲み込んだらしい怒声が背後で弾ける。それを背中で聞き流しながら、俺はただ一点、深い暗がりからわずかに顔を上げたベレトの腕を強く引き寄せた。
「行くぞ」
 骨ばった手首を掴み、有無を言わさず個室から連れ出す。彼からの抵抗は一切ない。振り払われたところで、お偉いさんの顔面に泥を塗った俺が後戻りできるはずもないのだが。
 騒ぎを聞きつけ、慌てて駆けつけてきたらしい仲居と廊下ですれ違いざま、俺は財布から適当な札を数枚引っ張り出して押し付ける。
「あの、すみません! これお代! もし足りなかったり、畳のクリーニング代が掛かったりするようなら、中で濡れてるおっさんに請求しといてください!」
 こっちの都合だけを押し付けて、俺たちはそのまま足早に料亭を後にする。火照った頭のまま、全速力で大通りまで走った。
 
 小綺麗なマンションの玄関に足を踏み入れたベレトは、所在なげに廊下の端に立ち尽くしていた。
 対する俺はというと、キャリアも安定した収入もすべてドブに捨ててきたというのに、不思議と後悔はなかった。貯金もあるし、伝手もそれなりにある。俺が抜ければ、懇意にしている大口の顧客たちはこぞって会社の看板を見限り、俺個人の腕についてくるという確信もあった。これもまたどうにでもなる、と自分に言い聞かせる。
 玄関に積まれた段ボールを足で押しのけながら間接照明だけが点灯したリビングへ入るよう促し、ソファを指差す。
「適当に座ってくれ。飲み物でも出すから」
 声をかけると、彼は大人しくソファの端に腰を下ろした。だが、背筋を伸ばしたまま両手を膝の上に置き、次の指示を待つようにじっとこちらを見上げている。その従順すぎる姿が、どうにもただの客人のそれとは違って見えた。
……なんだよ。なんでそんな、これからひどいことでもされるみたいな顔してんだ」
 釈然としないままたずねると、ベレトはわずかに視線を泳がせ、言い淀むように口を開いた。
……自分には今、行くあてがない」
 だろうな、とは言わずにおいた。きっと、踏み込んだことをたずねて傷つくのは、彼じゃなくて俺のほうだと思ったから。
「それに、君の不利益になるような真似をしてまで連れ出してもらった以上、自分も持ち得るもので相応の対価を返すのが筋だろう」
「あー……わかった。もう言わなくていい」
 己をモノのように差し出そうとするその歪んだ態度に、権力者のもとで彼がどのような扱いを受けてきたのかがはっきりと透けて見えた。怒りでも悲しみでもない、名状しがたい感情を奥歯で噛み殺し、俺は彼の言葉を遮るように息を吐く。
「勘違いしないでほしいんだが、俺は、あんたにそういうのを求めてるわけじゃない。だいたい、今回は俺が我慢できずに無理やり連れ出したんだ。そう思い詰めた顔すんなって」
「だが、」
「にっちもさっちもいかなくなったあんたを助けるのは、俺の役目だろ? ……それより、生き方に困ってるなら、俺の仕事を手伝ってくれよ。独立する準備があるから、人手はいくらあっても困らないんだ」
 余裕のある態度を顔面に貼り付け、彼にまっとうな労働と居場所を提示する。損得を考えて生きてきた俺が、この男のこととなるとどうしてこうも後先を考えられなくなるのか。自分でも呆れるほどの独りよがりな責任感は相変わらず健在だった。
 俺の言葉を聞いたベレトは、かすかに息を漏らすと、ゆっくりと首を縦に振った。
……わかった。君がそう言ってくれるなら」
 感情の抜け落ちていた瞳の奥に、ほんのわずかな灯りが点ったような気がした。
 



 他人が立ち入ることを想定していない男のひとり暮らしだ。余分なマットレスなどあるはずもなく、来客用の寝具といえば、クローゼットの奥に押し込まれた薄い寝袋くらいしかない。俺のせいですみかを失った、捨てられた仔犬みたいなこの人を寝袋で寝かせるのはさすがに忍びない。
 俺は頭を掻きながら、改めて彼に向き直った。
「悪いが、今日はそのソファで寝てもらうしかないな。……ただまあ、俺もあんな啖呵を切った手前、明日から会社に行くつもりはない。だから明日はさっそく、あんたの寝具だとか、必要なものを買いに行こう」
 開き直ったように告げると、ソファの端に腰を下ろしていたベレトが弾かれたように顔を上げた。
「ソファでじゅうぶんだ。自分の生活用品など……これ以上、君に負担をかけるわけにはいかない」
 今にも立ち上がってこの部屋から出て行きかねないほどの、切実な罪悪感が滲んでいる。ここで無理に主導権を振りかざせば、彼は本当に身を引いて姿を消してしまうかもしれない。
 だから俺は、おどけたように肩をすくめてみせた。
「あのな、あんたがずっとソファに陣取ってたら俺が座れなくなるだろ。かと言って床に寝られたら、部屋を散らかせなくなる」
……それだったら、自分は床に寝よう。君の荷物の邪魔にはならないようにする」
 大真面目な顔で即答してくる彼に、思わず頭を抱えそうになる。そういう問題じゃない。
「とにかく! 俺もちょうど、買い足したいものがあったんだ。あんたの生活用品はそのついでだよ。俺の気晴らしの買い物に付き合うと思えばいい。それなら文句ないだろ?」
 もっともらしい屁理屈で強引に丸め込むと、ベレトは言い返す言葉を失い、やがて渋々といった様子でうなずいた。
 
 翌日。マンションの駐車場で、ベレトは当然のように後部座席のドアに手を掛けた。
「おい、どこ乗る気だ」
……万が一、あの人の知り合いにでも見られたら、君の立場が悪くなるだろう」
 少し居心地が悪そうに視線を逸らした彼に、深くため息をつく。
「後ろはこれから買う荷物を積むんだよ。それに、俺はもうあの会社に戻る気はないんだから、誰にどう見られたって痛くも痒くもない。ほら、助手席に乗れ。俺の運転を特等席で拝めるんだぞ」
 軽口を叩いて促すと、彼は少しだけ呆れたように小さく息を吐き、大人しく助手席に収まった。

 まずは郊外の大型家具店へと車を走らせる。
 売り場に並ぶ寝具一式を前にして、ベレトは困惑したように立ち尽くしている。
「適当に好きなのを選んでくれ」
 そう声を掛けたものの、どうせ自力で選べないだろうなという予想はあった。案の定、彼はしばらく売り場を彷徨い、やがていちばん安価で、薄くて硬そうな灰色の毛布を指差した。
……これがいい。汚れも目立たないし、手入れも楽だから、君の迷惑にはならないはずだ」
 あくまで実用性と、こちらへの負担の少なさだけで選ばれたそれに、思わず眉間を押さえる。俺の部屋は留置所じゃない。
「却下。そんな薄っぺらい布で風邪でも引かれたら、それこそ俺の迷惑になる」
 腕を引き、売り場の奥にあった分厚く柔らかな羽毛布団の前に立たせた。
「俺たちは戦場にいるわけじゃない。あんたがこれから毎日、体を休める場所を作るんだ。汚れがどうとかじゃなく、自分がいちばん心地いいと思うものを選べ」
 有無を言わさず肌触りの良いシーツや枕を押し付けると、ベレトは抱え込んだ厚みのある寝具に顔を埋め、瞬きを繰り返す。
 今までただの所有物として扱われてきた彼にとって、己の快適さを優先していいと言われたのは、おそらくこれが初めてだったのだろう。
 
 寝具を車の後部座席に詰め込んだあとは、日用品と食料の調達だ。
 大型のショッピングカートを押し、目についたものを次々と放り込んでゆく。俺よりも線の細い身体に合いそうなサイズの着替えを数着、雑に扱っても問題なさそうな食器、新しい歯ブラシ、俺が使っているものより少し上等なシャンプー。最後については一緒でいいのに、と言われたが、聞かなかったことにした。
 最後に向かったのは生鮮食品の売り場だった。ふと歩みを止めて振り返る。
「そういや、好物とかあるのか? あんたって、出されたものは何でも食ってたよな」
 たずねると、ベレトは少し考え込むように視線を落とした。
……今でもそうだ。出されたものは食べる。特別好きなものというのは、ないな」
 淡々と答える彼に、軽く肩をすくめる。昔、同盟軍の野営地で共に天幕で食事をとった時もそうだった。味よりも効率や体力の回復を優先するような食べ方。ましてや、あの権力者のもとにいた間も、食事はただの作業でしかなかったのだろう。
「そうか。まあ、一緒に暮らすうちに分かるだろ」
 パックの肉と色鮮やかな野菜をどかどかと買い物かごに放り込む。
「しばらくは俺の好みに付き合ってもらうが、嫌いなものがあったら遠慮なく言えよ」
 少しずつお互いのことを知っていけばいい。気負いのない言葉に、ベレトは小さく息を呑み、やがて静かにうなずく。
 けれど、買い物かごの中身が溢れんばかりに積み上がってゆくにつれ、ベレトの血の気が引いてゆくのがわかった。
……クロード、待ってくれ。自分はまだ、これに見合うだけの働きをしていない」
 ついに耐えきれなくなったのか、彼が腕をきつく掴んで引き留めた。
「行くあてがないところを拾ってもらった上に、こんなにたくさんの物を与えられては……自分は、どうやって返せばいいのか分からない」
 困惑と恐れが入り混じった切実な声。与えられれば、それ以上のものを搾取される。そう刷り込まれてきた彼らしい反応。
 掴まれた腕を振り解く代わりに、空いた手で彼の手首を軽く叩く。
「馬鹿だな、あんたは。これはただの先行投資だよ」
 わざとらしく鼻を鳴らし、豪快に笑ってみせる。
「これから俺の右腕として、馬車馬のように働いてもらうんだ。ちゃんとしたもん食って、清潔な服着て、ふかふかの布団で寝てもらわないと、こっちが困るんだよ」
 立ち止まり、彼と真正面から視線を合わせる。
「だから、昔みたいに『期待してくれ』ってどっしり構えてくれてりゃいいさ」
 かつて同盟軍として彼を雇い入れた、あの初陣の言葉を引いて言い放つと、ベレトはわずかに目を丸くした。だが、すぐに伏し目がちになり、自嘲するような声がこぼれ落ちる。
……さすがに、今の自分が君の期待に報いる働きができるとは思えないが。それに、そもそもあの時の戦いでは負けただろう」
 当時の痛いところを律儀に突いてくる彼に、悪びれもせず肩をすくめてみせる。
「そうだったっけな。都合の悪いことは忘れちまったよ」
 とぼけて笑い飛ばしつつ、俺は彼の顔を真っ直ぐに見据えた。
……でもまあ、俺が厄介な殿を丸投げしたのに、あんたはきっちり生き延びて退路を守り切ってくれただろ。その頼もしさだけは、いやってほど覚えてるさ」
 俺の言葉に、ベレトはわずかに目を瞬かせ、やがて短く息を漏らした。
 理屈をこね回したただの照れ隠しであることに気づいたのかどうかは分からない。だが、瞳の奥で強張っていた恐れが、ほんの少しだけ解けたような気がした。
 
 生活の基盤が整い始めたころ、裏方の事務作業を任せるにあたり、業界の基礎知識が書かれた分厚い専門書を何冊か買い与えた。深夜のリビング。ふと視線を向けると、ベレトは真剣な面持ちでその本の一ページを睨みつけている。だが、文字を追うその眼差しはひどく険しく、ページは一向にめくられない。
 背後から覗き込むと、彼はわずかに肩を揺らし、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
……すまない。何度読み返しても、自分にはこの文章が理解できない。ただの、文字の羅列にしか見えなくて。早く君の仕事の役に立ちたいのに、こんなことでは……
 恩に報いたい一心で張り詰めている、ひたむきな瞳を向けられてしまえば俺はとことん弱い。息をつき、彼の手からずっしりと重いその本を取り上げる。そして、彼が一時間ほど睨み合っていたらしいページに視線を落とした。
 数秒ほど小難しい活字を追いかけ、俺は本をパタンと閉じる。
「なんだこれ。俺にもさっぱり分かんないな」
 あっけにとられるベレトの前で、堪えきれずに声を上げて笑った。表紙に初学者向けと書いてあったからよく確かめずに買ったものの、実のところある程度の専門知識を備えていることを前提とした不親切な代物だったらしい。
「こんな回りくどい理屈、分からなくたって仕事は回る。無理して読む必要なんてないさ。明日、もっと分かりやすいやつを探してくるよ」
 本をテーブルの端に追いやると、ベレトは瞬きを止めたまま、完全に言葉を失っている。
 これまで、彼は常に有能であることだけを求められてきたはずだ。彼を手もとに引き入れた俺も、そうだったから。
 己の不得手をあっさりと許容され、あろうことか『俺も分からない』と同じ目線で笑い飛ばされることなど、未知の体験だったのかもしれない。常に張り詰めていた彼の肩から、ふっとかすかな力が抜けてゆく。
 
 夕食を終えた後のキッチン。元来の性格のせいか、俺はどうにも洗い物の手際が荒い。蛇口を全開にして勢いよく水を跳ね上げながら汚れを落とそうとするものだから、シンクの周りはおろか、シャツの腹のあたりまでいつも水浸しになっている。
 背後でベレトが、なんとも言えない複雑な顔をしてこちらの背中を見つめている視線には気づいていた。
……クロード」
 不意に、真面目な声を引きずって彼が近づいてくる。
「ずっと言おうと思っていたんだが。……その、水流を少し弱めてはどうだろうか。君の服が、先ほどから悲惨なことになっている」
 おずおずとした、しかし明確な指摘。かつての彼なら、俺のやることに異を唱えるなどあり得なかったはずだ。
 苦笑し、濡れた手で前髪を掻き上げる。
「悪い、つい癖でな。ほら、一気に片付けた方が気分がいいだろ」
 そう笑いながら、泡のついた皿を濯ごうとした瞬間だった。洗剤の滑りを侮った指先から陶器が抜け落ち、シンクの縁に激突して鋭い破砕音を立てる。
 一瞬の静寂。ベレトが素早く隣へ駆け寄ってきた。
……すまない、自分が見ていながら。すぐに片付ける、君は下がっていてくれ」
 彼はみるみるうちに顔を青ざめさせ、素手で破片を拾い集めようと身を乗り出す。俺の失敗を未然に防げなかった己を責めているのか、その動きはひどく切羽詰まっている。
 俺はその肩を片手で制し、破片に向かおうとする指先をひょいと持ち上げる。
「おいおい、そんな顔するなよ。ただの皿だ、命まで取られやしない。……それよりあんたのほうこそ怪我はないか」
 ひっくり返して確認した両手は、幸いにも無傷だった。
 俺は手早く破片を拾い集め、新聞紙とビニール袋に包んで処理する。最後に、手に破片が残っていないかを確認しながら水でしっかりと洗い流したが、隣に立つベレトの顔色は一向に戻らない。
「洗い物ひとつまともにできない俺の不徳だよ。予備はまだあるし、気にしなくていい」
 なだめても固まったままの彼に、俺は濡れたままの両手で、その両頬を挟み込んだ。
……っ!」
 唐突な水の冷たさに、彼の肩が大きく跳ねた。ようやく瞬きを取り戻した顔を見つめ、俺は悪戯っぽく口の端を曲げた。
「ほら、ぼんやりしてないでさっさと拭いてくれよ」
 そう笑いかけ、鼻歌まじりに作業を再開する。数秒ののち。彼は無言で引き出しから清潔なふきんを取り出すと、隣に並び、洗い上がったばかりの皿を静かに拭き始めた。
 
 視界の端に、マグカップが置かれる。湯気を立てるコーヒーの香りに視線を上げると、同居人でもある男が穏やかな顔でこちらを見下ろしていた。
 毎日の家事はもちろん、裏方としての事務作業まで、今では俺の生活と仕事の土台を完全に支えてくれている。
 マグカップから離れてゆく彼の手を、無意識のうちに目で追う。
 書類を整理し、淀みなくキーボードを叩く指先。前世で幾度となく目にした剣胼胝や、血の匂いはどこにもない。現代の穏やかな日常にすっかり馴染んだ、傷ひとつない白くて綺麗な手。
 もう共に死線を渡る仲ではなくなってしまったのだという、ほんのわずかな淋しさ。それと同時に、この真新しい綺麗な手が、誰よりもすぐそばで立ち回ってくれているという、どうしようもない安堵感を持て余してしまう。
 
 仕事がようやく軌道に乗り始めた頃。ふたりで遅めの夕食をつつきながら、俺は何でもないことのように口を開く。
……これからどうしようかなあ。仕事のほうも落ち着いてきたし、あんたもひとりである程度動けるようになっただろ。そろそろ、あんたの部屋でも探しに行くか。ここじゃ手狭だろ」
 箸を動かしながら告げた提案は、俺なりの責任の形だ。
 かつて、俺たちはすべてを間違えた。正しく向けてやれなかった愛情の輪郭を思い描きながら、今世こそは失敗しないという強い意思が俺にはある。彼を俺に依存させるのではなく、自分の足で生きていけるようにしてやること。それこそが、俺が彼に与えられる最も正しい愛情のはずだった。
 いきなりの提案だったが、ベレトは怒るでも焦るでもない。
 ただ、食事の手を止め、静寂を湛えた瞳で俺をじっと見つめ返してくる。
……そうだな」
 短くつぶやき、彼は再び視線を落とした。何を考えているのかさっぱり読めないが、ひとまず納得してくれたのだと、俺は勝手に胸を撫で下ろす。
 
 それからしばらく経った日のこと。リビングのソファでくつろいでいた俺の隣に、彼が音もなく腰を下ろした。
……君は、自分にひとりで生きていけるようになってほしいのか」
 ぽつりとこぼされた声には、どこか悲痛な響きが混じっている。ようやく手に入れたぬくもりから、強制的に引き剥がされることを恐れるような響きがあった。
「行くあてがなければ自分のところに来てほしいと、君にそう言ってもらえたことがうれしかった。……今は、そうした気持ちはないのか」
 俺の顔を覗き込む双眸が、かすかに揺らぐ。
「自分はもう、この世界の君には必要ないのか」
 静かな問いかけに、俺は慌てて首を振る。
「そういうわけじゃない。ただ、俺は、あんたには自分の足で正しく歩けるようになってほしいんだよ。あんたにはあんたの人生がある。それに俺がいちいち首を突っ込むのは不健全だと思ったんだよ。……あんたが憎くて嫌いだから、追い出そうとしてるわけじゃない。それだけは信じてくれ」
 言葉を尽くして弁明する。互いに、かつてできなかったこと、気づけなかったことに気づいた結果が、俺の出した答えだった。
 しかし、ベレトは納得するどころか、さらに深く身を乗り出してくる。
「自分と君を繋ぎ止めるものは、何もないのか」
 すがるような響きに、胸の奥がぎゅうと嫌な音を立てて締め付けられる。これ以上踏み込めば、本当に手放せなくなりそうだった。
 俺は必死に理性の底へ本音を押し込め、重くなった空気を断ち切るように、照れ隠しに鼻を鳴らしてみせる。
……情も、愛着もあるさ。じゃなきゃ、あんたの面倒なんてみてない。これを義理だとか、冷めたものとして見なされるのはさすがの俺も堪えるよ」
「それは……すまなかった」
 悄然と睫毛を伏せる姿は、どうにも見ていられない。加えて、彼からこれほどまでに明確な繋がりを乞われている事実に心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
……勘違いしないでほしいんだが、俺だって、あんたと一緒に暮らすのは悪くないと思ってる。むしろ居心地がよすぎるくらいだ」
 たまらず本音をこぼすと、伏せられていた瞳がわずかに見開かれる。だが、ここで流されるわけにはいかない。
「だからこそ、さ。俺そのものが、俺の願いの邪魔になっちまうんだよ」
 正論で蓋をしようとしたものの、真正面から向き合い続ければ、遠からずこちらの決意が瓦解し、ずるずると丸め込まれてしまうのは明白だった。
 だから俺は、絶対に超えられない壁を用意するように、無理やりに口の端を吊り上げる。
「俺からこの決意を奪いたいなら、俺のこれからの人生を丸ごと背負って、きっちり責任を取ろうとする姿勢を見せることだな」
 別に、本気で養ってほしいだとか、そういうことを言いたいわけじゃない。ただ、途方もない難題を突きつけて、絶対に揺らがないという俺の意志を示したかっただけだ。
 ただの、その場を煙に巻くための逃げ口上。それなのに、ベレトは瞬きをひとつしたあと、大真面目な顔でうなずいた。
……わかった」
「おいおい、ほんとにわかってんのかよ」
 あまりにもすんなりと肯定されて、危うくソファから滑り落ちるところだった。冗談の通じないこいつのことだから、俺の言葉を文字通り受け取り、とにかく『一生養うための金や対価を稼ぐ』とでも解釈したのだろう。いったいどんな計算をしたのかなんて、想像もつかない。
 とはいえ、もしもそうなら好都合だった。次また何か言ってきた時には「俺より稼ぎのいい奴がいい」とでも言って、突き放してやる。
 毒気を抜かれた俺は、口に残る後味の悪さを誤魔化しながら苦笑を漏らす。追求する気力も削がれ、それ以上の言葉を交わすことなく、話を終わらせるしかなかった。
 



 あの夜を境に、ベレトの働きぶりはますます常軌を逸したものになった。
 手伝いの枠を越え、俺の仕事の根幹に関わる部分まで、まるで水が染み込むようにして自身の領域を広げてゆく。
 彼がここまで躍起になって実績を作ろうとする動機が、かつての負い目なのか、それとも生来の生真面目さからくるものなのかは分からない。ただ、もし前者なのだとすれば、あまりに不健全だ。必要以上に引け目を感じられ、俺が求めてもいないものまで差し出されるのはご免だったし、過去の負い目を持ち出してくるようなら、その時はきっちり突き返してやるつもりでいた。
 だが、彼がそこまで思い詰めてしまうのは、他でもない俺がそばにいるからだ。
 俺のそばから離れたほうが、彼は変な恩義も負い目も感じず、よほど気楽に生きていけるに違いない。そう思い至った俺は、彼を独り立ちさせるべく、駅前の不動産屋へ足を運ぶようになっていた。
 最初は、口で言った通りに単身用の物件を探すつもりだった。間取り図を眺め、彼がひとりで暮らすための狭い部屋を想像する。だが、その無機質な空間にひとりきりで立つ彼の背中を思い描いた途端、ひどく淋しいものに思えて、どうしようもなく身勝手な感傷が込み上げてきた。
 一緒に食卓を囲み、面倒な小言を言い合い、同じ空間で眠る。そんな当たり前になりつつあった日常から彼がすっぽりと抜け落ちてしまう想像は、俺自身に生々しい淋しさをもたらしたのだ。
 自立しろと言ったのは俺だ。俺のほうから突き放したくせに、俺自身が彼を手放す現実をまったく許容できていなかった。
 気がつけば、俺の鞄の奥底には、単身用のチラシではなく、ふたりで暮らすための少し広めの物件情報ばかりが溜まってゆく。
 それでも、俺は己の執着を彼に悟られるのが恐ろしかった。この矛盾を知られれば、せっかくの健全な関係すら壊れてしまうに違いない。そう勝手に思い込んだ俺は、なるべく彼との物理的な距離を保つべく、狭い部屋の中で逃げ回る生活を始める。
 
 だが、そんな怯える俺に対し、ベレトの行動はやけに積極的だった。
 たとえば、コーヒーが入ったマグカップを受け取る時。たとえば、整理された書類の束を渡される時。白く滑らかな指先が、不自然なほど自分の手に触れてくる。ただ触れるだけではない。何かを確かめるようにして撫でてゆくのだ。
 そのひんやりとした感触が肌を這うたび、自分はびくついたように手を引っ込めてしまう。
 彼をここから追い出そうとしているのは事実だ。だからこそ、この執拗な接触は、突き放そうとする相手への言葉にできない抵抗であり、不器用なすがりつきのように思えてならない。
 自分の足で立てるようにしてやることこそが正しいのだと、そう信じている。真意などまるで伝わっていないのだと突きつけられても、突き放す側である俺には応えてやることができない。押し寄せる息苦しさに耐えきれず、俺は彼から距離を置くように、部屋の隅へ逃げるしかなかった。
 



 重い足取りでマンションのドアを開けた夜。目星をつけた物件の下見を終えて帰宅した俺を待っていたのは、目に見えてこわばった顔のベレトだった。
 出迎える声は低く、どこか決定的な破滅を受け入れようとするような響きを含んでいる。そのままリビングへ促されると、彼はテーブルの上に広げられた数枚の紙片を指差した。
 俺が鞄の奥底に隠していたはずの、不動産屋の間取り図。
……ついに、自分を追い出す部屋が決まったのか」
 束のいちばん上にあった、何かの手違いで紛れ込んでいた単身用物件のチラシ。それを見つめる彼の声には、責める響きは一切ない。ただ、事実を噛み砕こうとするような静けさだけがあった。
 ああ、もう。最悪だ。
 ここ数日、彼がやけに俺に触れてきていた理由が、今ようやく繋がってしまった。この単身用のチラシを見つけ、俺が本気で彼を『追い出す』つもりなのだと悟り、必死にすがりつこうとしていたのだ。
「違うんだ、そうじゃない」
 これ以上誤魔化しきれないと観念し、深く息を吐き出す。
……単身用の部屋を探しに行ったのは事実だ。それが、俺があんたにできるいちばん正しい形だと思ったからな」
 言い訳のように紡ぐ声が、自分でも情けないほど震えている。
……でも、無理だった。ひとり用の間取りを見るたびにいやになってきて、気がついたら、ふたりで住むための部屋ばっかり探してたんだよ」
 いちばん上にあったチラシをどけ、その下に隠れていた広めの物件情報を彼に突きつける。
「自立しろなんて偉そうなこと言っておいて、結局あんたを手放したくないのは俺のほうだったんだ。だいたい、俺がすがってくるあんたを突き放せた試しがあるかよ。……ほら、これで満足か」
 己の手に余る執心と、矛盾した本音。
 吐き捨てるようにそれを叩きつけた直後、ベレトの目がわずかに見開かれる。
 だが、彼の口元に浮かんだのは、安堵などではない。ふっと、張り詰めていた空気が形を変え、射抜くような鋭い熱を帯びた瞳に捕らえられた。
……そうか」
 低くつぶやいたかと思うと、腕を強く引かれた。
 体勢を崩してソファに座り込まされた俺の前に、彼が静かに片膝をつく。
「おい、急に何を……っ」
 抗議の声を上げようとした俺の左手を、彼が力強く、しかし丁寧にすくい上げた。
「君が言ったんだろう。責任を取ってくれと」
 いや、あれは俺から離れさせるための、ただの無理難題のつもりだったんだが。しかも取ってくれだなんてひと言も言っていない。
 どこから指摘したものかと考えているあいだに、白く滑らかな指先が、見慣れない銀の輪を俺の薬指へと滑らせる。
 ひんやりとした金属の感触。指の根元にすっぽりと収まったそれを確かめ、ベレトは満足げに息をつく。
……よかった。ぴったりだ」
 左手に光る、銀の指輪。
 完全に思考が停止した俺に対し、ベレトは極めて真面目な顔で、静かに告げる。
「自分は、口では君に勝てない。だから君が本気で自分を追い出そうとした時のために、仕事の連絡から書類の作成までをすべて掌握して、反論できないようにするつもりだった」
 この数ヶ月で俺の仕事を完璧にこなすまでに至ったのも、すべてはそのための布石だったのだ。彼は己の恐るべき計画を、ただ淡々と言葉に乗せる。
「自分なしでは君の生活も仕事も一日たりとも回らない状況を完成させてから、有無を言わさずこの指輪をはめるつもりだったが……君も同じ気持ちなら、話は早い」
 ここ数日、しきりに左手に触れてきたのは、不器用なすがりつきなどではない。指のサイズを正確に測るための、ただの確認作業だったのだ。だって、まさかその程度の触れ合いで指輪のサイズを決めていたなんて、誰が想像できただろう。
 俺の仕事の根幹まで奪おうとするあの鬼気迫る働きぶりも、ただ俺への負い目からくるものだとばかり思っていた。俺はずっと彼を保護し、この生活の主導権を握っているつもりでいたのだ。
 かつて同じ陣営で戦った時も、彼は相手の動きを先読みしては、完全に逃げ場を塞いでから追い詰めていた。俺が指示することもあれば、勝手にやっていたこともある。あの恐ろしい手腕を、まさか現代の平穏な日常で、俺自身に向けられる日が来るとは。
 指先に宿った鈍い輝きが、俺の思い上がりを完全に打ち砕く。熱を持った顔を誤魔化すように、俺はわざとらしく口の端を曲げた。
……責任取るからって、自分の給料をほとんど指輪に突っ込むばかがいるかよ。これ、それなりの値段しただろ」
 職業柄、ひと目見ればその輝きの価値も、意匠の精巧さも嫌というほど分かってしまう。おおよその相場を正確に弾き出してしまう自分の冷静さが恨めしい。
 声はかすかに震えを帯び、視線はどうしても手元の輝きから引き剥がせない。言葉では突き放そうとしながらも、胸の奥から込み上げるものを到底抑えきれずにいる。
 俺はへなへなと彼の肩に額を押し当てるように寄りかかった。
……こんなの、想定外すぎる」
 いくらでも口が回る自負はあるのに、肝心な言葉がまるで出てこない。降参を宣言するようにぼやき、情けない本音をこぼす。
「こういう時、なんて言えばいいんだろうな」
 すると、頭上からかすかな吐息が降ってきた。彼がうまく言葉を見つけられない時によく落とす、ひたむきで不器用なあの沈黙と同じ匂いがする。
「なんにも。でもよろこんでもらえたら嬉しい」
……よろこぶに決まってんだろ。何なら今からそのへん走り回ってもいい」
「自分も付き合おうか」
「ばか。ものの喩えだっての」
 悪態をつきながらも肩に顔を埋めると、背中に強く、温かな腕が回される。
 はめられたばかりのひんやりとした重みと、全身を包み込む穏やかな熱。理屈や小賢しい思考はとうに溶け落ちて、今はただ、どうしようもない愛おしさが頭の中を埋め尽くしている。
 その心地よさに抗うことを完全に諦め、俺はただ、静かに目を閉じる。


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