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彼女の愛と玉手箱〜キリシタンすり抜け主と刀剣男士〜

全体公開 刀剣乱舞(キリシタン主シリーズ) 1 11 31061文字
2026-04-03 21:38:59

過去一ストーリーラインがド鬱重です。

・前日譚:肥前と南海太郎朝尊の来訪の件はこちら(くがねもたまもなにせむに)https://privatter.net/p/11742298
・その他の前日譚は兼さんの《いつか咲う雪解けを待て》https://privatter.net/p/11884636辺りがおすすめ。
・加州清光と彼女の関係性についてはこちら(お揃い協走曲)
https://privatter.net/p/11831871

・後日談「肥前の報われない片恋の話」https://privatter.net/p/11932447

主さんてさー、たまーに、ほんとたまーになんだけど
難しいこと考えてる時の蜂須賀兄ちゃんと、同じ顔してるよなぁ。

助けてーって言ってくれたら飛んでくのになー。そしたらきっと、俺たち、もっと仲良くなれると思うんだけどなー。

そうぷらりと脚を投げ出しながら、浦島は蜂須賀へと取り留めなく口にした。
理屈で考えがちの蜂須賀と違って、感覚的で直感的な浦島は、話が不意にあちこちに飛ぶことがよくあった。

「えーっとほら、なんだっけ。悪いもんがどばーって出てくる、開けちゃダメな玉手箱〜、みたいな話、あるじゃん。あれっ? なんだっけ?」
「うん? 浦島、それはもしかして、『パンドラの箱』の話かい?」
「あっ、それそれ! それだよ蜂須賀にーちゃん!」

自分のセリフに自分で首を傾げていた浦島がぱちんと指を鳴らして、大きく指を指して声を上げた。

パンドラの箱。この世の災いの全てが詰まった、開けてはならぬ禁断の箱。
なるほど、言われてみれば、昔話における禁断の箱、という意味では、玉手箱とどこか似通っていないこともない。

「開けたら悪いもんがぶわーって出てくるから、開けないように閉じてる箱。開けちゃダメな箱。玉手箱って、けっこーどこにでもあると思うんだよね、俺」

肩によじ登った亀吉の顎を優しくくすぐってやりながら、取り留めなく言葉を重ねていた浦島は急に、どこか確信めいた口調でこう言った。

「主さんもさ、持ってるよな、玉手箱」
……え?」
「だって、どんな時も、ぜってー無理やり聞き出すようなことしねーじゃん、主さんて」

そーゆー人はさ、持ってるよ。玉手箱。
俺、なんとなく分かるよ




穏やかすぎるほどの昼下がりのことだった。

弟の話を聞いて、蜂須賀はどこか、胸の内をざらりと撫で上げられるような違和感を持った。
だが、何かの既視感にも似たそれの正体が分からない。

弟曰くの難しい顔をしたまま、しばらく考え込んでいた蜂須賀は、不意に廊下で誰かと行き当たりそうになった。
ぶつかる寸前で足を止めた蜂須賀が「すまない、考え事を、」と顔を上げたら、そこに立っていたのは長曽祢だった。それを認めると蜂須賀は反射的に顔をしかめた。
……なんだ、お前か」
「どうした、らしくないじゃないか? お前がこうも近付くまで気付かないなんて」

難しい顔をして、何か困り事か?

そんな、いかにも頼りがいのありそうな人当たりの良い笑顔で、長曽祢は軽やかに尋ねた。
こういう時に限って、示し合わせたようにどことなく弟と似通ったセリフを吐くのがまた、蜂須賀から見るとどうにも小憎たらしいのだが。

お前に心配されるようなことじゃない、と言いながら、ふんと鼻を鳴らして立ち去ろうとした蜂須賀だったが、踵を返してすぐ、ピタ、と足を止めた。
……いや、待てよ、たとえお前でも、話を聞いておくべきか」
「どうした?」
蜂須賀の口が勝手に付け足した余計な枕詞にも、長曽祢は気を悪くする様子もなく、悠然と話の続きを促した。蜂須賀はしばし考え込むと、振り返ってこう切り出した。
「主のことなんだが」



「そうか、浦島がそんなことを」
「何か、思い当たることはないか。なんでもいい」
「そうだな、」
長曽祢は少し考え込むように顎を擦ると、こう口にした。
「心当たりがないこともない。主と話していると、そう、なんと言っていいか」

当てはまる言葉を記憶の中から探り出すように、しばし目を閉じていた長曽祢は、しばらくの後にこう結論付けた。

「どこか、過去が空白なんだ」
「空白?」
「そうだ。おれたち刀剣男士は、過去があって今がある。それが当たり前で自然なことだろう。たとえ過去の逸話に乏しい連中だとしても、その『逸話に乏しい』という過去と今を両手に持っている。過去と今は繋がっている。おれたちに過去があって今があるように。逸話に乏しい連中が、だからこそ本丸で新しい逸話を作ろうとしているように」

「だが、彼女は少し違う。彼女と話していると、あまりにも今と未来の話しか無いんだ。ああいうものを、おれは見た覚えがある」
「なに?」
「幕末の志士たちだ。武士道とは死ぬことと見つけたり。これから死ぬことが確定している未来に突き進む時、人は今と大義の話しかしなくなる。過去を思えば未練ができる。死ぬことが怖くなる。だから『今』しかないように振る舞うんだ。過去に意図的に鍵をかけて、認識できないようにする。極限の状態ではよくあることだ、何もおかしいことじゃない」

「彼女の場合は、志士たちとは少し違うだろう。だが、似たものを感じることがたまにある。過去に話が及ぶと、あまりに自然に、巧みに今と未来に話をすり替えてしまうんだ。まるで、認識できないみたいに」

恐らくだが、彼女の心には鍵がある。
鎖で固く封じられた鍵が。

「浦島が言う『玉手箱』とは、そういう話じゃないだろうか。平和な笑顔の裏側に時折、極限じみたものをどこか感じるんだ」

長曽祢の重ねる言葉を聞いていく内に、蜂須賀は、はたと気付いた。自分の中の違和感の輪郭に。
そう、蜂須賀が、共に茶でも飲みながら、と。ひどく嬉しげな主から些細な日常の話を聞く時だ。

笑顔の彼女の話はいつの間にか必ず
自分の話から刀剣男士の話へすり替わってしまうのだ。




「ああ、あれか」
歌仙兼定はどこか途方に暮れたような顔をした。
「どうしてやればいいのか、僕も分からなくてね」
「詳しい事情を知っているのかい」
「いや。だが、たとえ本人が認識できなくても、足跡に零れ落ちるものがあるだろう。漏れ聞こえてくる綻びを繋ぎ合わせると、過去が決して幸せなものではないことぐらいは」
歌仙は酷くもどかしそうに、正座の上でぐっと拳を握りしめた。
「僕はね、叱り飛ばしてやることは得意なんだが。あれをどう抱きしめてやればいいのか、分からないでいるんだ。情けないことにね」






「本人が伏せちゅう傷を、あえて開くがは、優しさやのうて、時に暴力ぜよ」

同じ初期刀組のよしみから、蜂須賀に意見を乞われた陸奥守吉行は。
訊かれるなり、間髪入れずにそう言った。

本人が触れてほしくないものをわざわざ暴くのはどうなのかと。
本当に必要で意味のあることなのかと。それはこちらの都合ではないのかと。暴く覚悟はあるのかと。

「本人が守りゆうもんを壊しに行くがは、踏み込みすぎちゅう」
「それ、は、」
鋭く斬り込まれた蜂須賀は、思わず続く言葉を飲み込んだ。

不意に陸奥守は、両腕を大胆に広げてみせた。どこか、明るすぎる笑顔で。

陸奥守、彼もまた。底抜けに明るい笑顔の底にどこか、封じたものを持っている。

「未来はこじゃんと広い。無限の海、無限の空じゃ。今だけじゃあ、いかんか」
……それは」
「らぁて。……そりゃあ、周りが勝手に決める事やないろうなぁ」

へにょりと眉を落として、陸奥守はひどく共感じみた調子で苦く笑った。
陸奥守はしばらく黙っていたが、最後にぽつりとこう付け加えた。

「けんど、主はもう、選べんなってしもうちゅうがやないかのう」
「え?」
「人ちゅうがは、泣いて笑う生きもんやき。けんど、過去が無いと泣けんなる。泣けんなら……まあ、笑うしかないろうなあ」

わしゃあ、主が自分の為に泣くところ、見たことがないぜよ。
ありゃあ、危険なことやき。




「ああ? 外出だぁ?」
「そっ! ひーちゃんとね、おでかけ!」

寝ぼけ眼に頭を掻きながら、胡乱げに聞き返した肥前に
彼女はぴょこぴょこと跳ねながら、楽しそうに笑った。

政府刀、肥前忠広は。
現在、この本丸に一時的に派遣されている借用戦力の形となっている。

食客扱いで本丸へ招かれている南海太郎朝尊、彼を借用するにあたって、契約に織り込まれた派遣だ。
つまりは、政府から借り受けている南海太郎朝尊を折らずに返すための必要戦力として、肥前は使用を許可されているという形になる。

極めてこそいないものの、顕現から既に数百年を重ねた肥前の練度はとうにカンストして久しい。
それは、逆に言えば、肥前を充分な戦力として借り受けている以上、いかなる場合でも南海太郎朝尊の毀損が情状酌量されないという意味でもあるのだが……

とはいえ少なくとも、肥前が必死に火の粉を払うまでもなく、この本丸の審神者は、研究に没頭する南海太郎朝尊に出陣を無理強いするような事は皆無であったので、先生の護衛役は早くも形骸化している。
黎明期に襲撃を許しているらしい関係上、本丸内の護りも固い。これでは欠伸の一つも出るというものだろう。

審神者より巫女と呼ぶ方が正しいだろうほど清らかな霊力と相まって
ここは戦拠点というより、戦火の遠いどこかの田舎町の小さな祠のようだ。
毎日毎日毎日飽きもせず、あの小さな手のひらで祈りと供物が捧げられる小さな祠。

「ひーちゃんすっごく強いもんね!」
……まあ、それはそうだがよ」

普段は研究に没頭する南海太郎朝尊の側を離れず、なにくれと朝尊の手伝いをしたり、逆に何をすることもなく近くでごろ寝をしていたりすることが多い肥前だが、声をかけられさえすれば手合せも別に嫌がりはしない。

初ですら戦場生え抜きの古参の極連中にも少しも引けを取らない実力を誇る肥前に、勝てる刀はそう多くない。
逆に言えば、顕現からたった数年にも関わらず、肥前を真正面から打ち負かせるほどの実力を身に付けた加州清光や山姥切国広のような刀の伸び代の方が異常なのだ。
やはり極めて腹を括った初期刀連中の実力は、どこも一線を画している。

現世にいる審神者の警護には、現状、一振りの帯刀しか認められない。
だから極めた刀か、カンストした刀だけが主人の隣を歩く形式を取っているらしいのだが。
一応は資格の範囲に入る肥前が誘われたことは一度も無かった。
当然だ。この本丸は政府からの介入を殊の外警戒している。さも思い付きのように話しているが、あの過保護な初鍛刀や総務番長から承認を取ったのか。

「えへへー、ひーちゃんがいてくれたら、なーんにも心配いらないもんね」
そんな殺し文句を言いながらほけほけと能天気に笑う彼女に、肥前は「っだぁ」と言いながら自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。

今朝方、陸奥守の野郎が急に、いかにも先生が好きそうな書物を手土産に来訪して
二人して昔話に花を咲かせながら、何やら本丸の機材を改造する計画を立て始めたのだが
これは十中八九野郎もグルと見ていいだろう。おかげで今日の肥前はこの上なく暇だった。一度ああいうモードに入った先生は三日は現実に戻ってこない。

「わーったよ。で、どこ行きゃいいんだ」

嘆息混じりで答えた肥前に、ぱぁっと表情を明るくした彼女は、「やったぁ!」とその場で兎のように跳ね始めた。

「あのねあのね、ひーちゃん好きだったカレーあるでしょ、緑色の」
「あ? あの肉ごろごろ入ってるやつか?」
「そ! あれね、みっちゃんと食べに行ったカレー屋さんの味なんだーっ!」

彼女は『ひーちゃんノートvol3』などというふざけた表題の覚え書きを嬉しそうに掲げた。
あれには、端から端まで全て、肥前のためだけに書かれた、肥前を理解したい、寄り添いたいという真心だけが詰まっている。これを持ち出されるとどうにも弱い。

「元のお店は食べ放題なんだよ、お鍋まるごと空にしてもだいじょーぶ! 時間内に全部食べたら金一封! ね、チャレンジしたくない? 他のメニューも美味しかったよ!」
…………まあ、めしに罪はねーからな」
「わーい!」

この日のことを。
肥前は今も後悔している。
自分のような人斬り刀が、迂闊に了承するのではなかったと。

この日、肥前は目当ての店で旨いカレー鍋を二つ空にして、たらふく腹をくちくした上で、金一封を獲得して帰路に着いたのだが、肥前から見れば雀の涙のような量しか食べない彼女はそれでも楽しそうに「ね、ひーちゃん、朝尊せんせーにお土産なにがいいかなあ」なんてはしゃいで笑っていた。

ちらりと見上げた西の空に、天気予報に無い暗雲を認めた肥前は、寄り道ついでに傘を手に入れに土産屋に立ち寄った。
あれはどうだこれはどうだと、あれこれ楽しそうにはしゃぎ回る彼女が長い買い物を終える頃には、空はすっかり雲に覆われて、遠くで雷鳴が響き始めていた。
「こりゃかなり降るな。おい、流石にそろそろ寄り道辞めて、……おい?」

ピシャン、と遠くで雷が落ちた。
雨の中、傘も差さずに立っている、異様な人影が一つ。

薄暗がりの中から、見つけた、と怨嗟の声がした。

肥前はすぐさま、反射的に彼女を背後に庇った。
柄に手をやり、異様な空気を醸し出す髪の長い女から、目を離さずに距離を取った。

いつの間にか周囲には、誰もいない。

肥前の背中で、ひゅ、と息を呑む音がした。
「な、んで」
ガタガタと震える、歯の根の合わない音。呼吸がおかしい。
「いつ、刑務所から出て」

ぎょろりと血走った眼がこちらを覗き込んだ。薬物でもやってるみたいに明らかに様子がおかしい。

「下がれ、駅まで走れ、……おい、おい!」
柄を構えたまま肥前が逃げろと繰り返しているのに、カヒュ、と息を止めたまま、固まって動かない。
「おい!おい!!聞こえねえのか!?」

雷が近くで落ちる。雨暗がりの中から、地獄の底から這い出すような低い声がした。
こっちに来い、と命令が出た瞬間、彼女はカヒュ、と息を止めた。

その瞬間、よりによって、ガタガタ震えて自分から前に出てしまった。肥前の手を振り切って。
「ッ、ばか、待てッ」
バチッ、と静電気が起きるように、肥前の手は弾かれた。
「しまっ!」
するりと肥前の手をすり抜けてしまった彼女の腕。肥前が前に出ようとすると、透明な壁に阻まれてしまう。そのわずかな時間が致命的だった。

そこからは、あっという間だった。
女はたちまち彼女に馬乗りになって、猛烈な力で首を締め始めた。一歩遅れて結界を斬り壊した肥前が蹴り飛ばして後ろに庇って、警察を呼んで、そのまま警察に取り押さえられて連行されていった。
その間ずっと女は喚き散らしていた、夫を返せ、この悪魔、と、その罵詈雑言、妄言暴言を浴びながら、体を小さくしてガタガタ震えている彼女を肥前はひたすら背に庇う以外に方法が無かった。


彼女は警察官に保護、任意聴取されたものの、俯いて何も喋らないままだった。
肥前が隣の部屋で別の警察官に事情を説明してる間に夜は更けて、真夜中に近くなってからようやく解放されることとなった。次は本丸に連絡を入れねえと、というタイミングで、先に聴取を終えて待っていたはずの彼女がふらっと警察署を出て行ってしまったことを通りかかった警官から知る。
慌てて追って外に飛び出した肥前が、豪雨の中でふらふらと望洋に歩いている彼女の腕を掴んだ。
「どこ行くんだよ、おい!」
…………
振り返った彼女は、豪雨の中で濡れそぼって
濡れ鼠のまま、望洋としていた。赤い目元と雨の境界が、曖昧になっていく。
耳が痛いほどの豪雨の中、その声はあまりに小さかった。
…………で」
「ああ!?」
焦燥から語気が荒くなる肥前の胸に
すがりつくみたいに、彼女の両手が肥前の服を引っ掻いた。
「言わないで!誰にも、かしゅーにも、鶴るんにも、みっちゃんにも、誰にも言わないで!」
「あ!?」
思いがけない言葉に肥前はさすがに愕然とした。
「馬鹿言うな、そんなわけに」
「一生のお願い!!」
叫んだ彼女が、豪雨に打たれて憔悴している
「おねがいひーちゃ
膝から崩れ落ちて、泥の中にびしゃ、と落ちた彼女に
自分の顔にがっと手を当てて「あ゛ーっ!」とわめいた肥前は、諦めを滲ませるようにこう吐き捨てた。
「くそっ、わかった。本丸の連中に言わなきゃいいんだな?」
……朝尊せんせーにも」
「わーってる。本丸の連中にも、先生にも言わねえ。約束してやる。これでいいんだな?」
こくん
と力無く頷いた。
「わかった」
蚊の鳴くようなか細い声で「りがと」と
ふら、とよろめいて立ちあがろうとした彼女を、がっと肥前の腕が固く抱きしめる。
「けど、代わりにお前も約束しろ」
雨の中、音が絶える。
「おれには隠すんじゃねえ。今は泣いとけ」
力を失った両手をだらりとしたまま
肥前の腕の中に固く閉じ込められて、決壊したみたいに、やがてしゃくりあげ始めた。
ぁ、あ」
雨の中、慟哭が叫ぶ
「ああああああ」

声が枯れるまで
肥前は無力なまま、彼女を抱きしめ続けた。


家に帰還するや否や、即座に風呂に放り込んで、望洋としたままの彼女の髪をわしゃわしゃとバスタオルで拭いてやり
「今日はもうお前は寝とけ」
と布団に放り込んだ。
「おれは一度帰らねえとならねえ。代わりに側に誰を置くか言え」
望洋とした瞳がゆらゆら揺れて、やがて小さく「やげん」と口にした。
「薬研藤四郎だな? わかった」
わざと柏餅のように布団でぐるりと巻いて寝かしつける。危機的状況にある人間はこうして柔らかいもので包むのが対処の基本だからだ。政府職員の研修にそういったものがあったのを肥前は覚えている。
「もう寝とけ」
まもなく力尽きたように浅い眠りに落ちた彼女に
肥前は寝室のドアを閉め、ようやく通信機を起動させた。
一向に繋がらない通信に焦れて鬼電が入っていたそれがようやく繋がった瞬間、向こうで長谷部が叫んだ。

『────おい肥前忠広ッ!!なにをしてる!? 何かあったのか!?』
「うるせえ!」
耳にキィンと響くそれを小声で一喝して返した肥前は顔を顰めた。
「やっと寝たとこなんだよ、あいつに聞こえんだろうが!」
長谷部はいきり立っていた表情を改め、深刻なものに変えた。
現世からの定例報告を待っていた多くの刀たちが、長谷部の後ろで同じく顔色を変えて控えているのが見える。
……おい、何があった』
「何も聞かねえで迎えを寄越せ。薬研藤四郎だ」
『なに? ……主にお怪我が!?』
「だあ!うるせえって言ってんだろ! ……傷自体は大したことねえ。擦り傷だ。傷は、な」
『おい、何があったんだ!?』
「何も言えねえ」
『なに? そんな馬鹿な話が』
「言えねえって言ってんだろ」

肥前が、いー、と引き結んだ唇の端に指を置く。
そのままくいっと横になぞった。

人差し指を唇の端に当て、くっと素早く唇を横になぞる。
契約に縛られていて何も言えない、という意味のジェスチャーだった。

!!』
「今すぐ迎えを寄越せ。全部それからだ」


薬研藤四郎と入れ違いで本丸に戻ってきた肥前は、着くなりドンッと手のひらで壁を叩いた。
「あいつの親兄弟!家族!生い立ち!いんだろ、知ってる刀!一振りぐれえ!!」

怒鳴り上げた肥前がぎらぎらした目でこう叫んだ。

「誰でもいいから教えやがれ。ぜんぶだ、何もかもぜんぶ! 可能な限り!」

肥前の剣幕に、他の男士たちも続く言葉を失って
自分たちの主人に何か大変なことが起きたのだと顔を青くした。

慌てて互いに顔を見合わせる男士の中で、神妙な顔をした太鼓鐘が、まず最初に前に進み出た。
「太鼓鐘貞宗、か。この本丸最初の短刀、なるほど、お前なら」
「少しだけ知ってる。でも」
太鼓鐘が親指を唇に置いて、ピッと横に引いた。肥前と同じく、契約で離せない、という意味だった。
肥前がそれを見てぐしゃ、と髪を握りつぶした。
「くそ、あの馬鹿!」
「貞坊の件ならある程度はオレが知ってる。その場に居合わせたからな」
貞宗の肩を叩くようにして深刻な顔で鶴丸が進み出て、それに次いで福島光忠も躊躇いがちに進み出た。
「俺も少しなら聞いてる。彼女には言わないで欲しいと言われているが、俺の返事は条件付きだったからな、まだ話せる」
「僕も、推測に近いけれど、見聞きしたものを少しだけなら」
「あの、……その、俺も」
進み出た燭台切、そして火車切。
皆、彼女の生い立ちがあまり明るくないことはうっすらと知っていたが
こうして皆に号令をかけると、言わないでと彼女に口止めされていた刀の多いこと多いこと。
「くっそ、あの馬鹿!!」
こうして顔を突き合わせて全員で話を擦り合わせれば、見えてくる情報の過酷なこと。
何も知らなかった刀は青くなったし、知っていた者もますます表情を曇らせた。肥前はずっと厳しい顔だった。

「だいたい分かった。もうてめえら大体察してるだろうが、おれはまだやらなきゃなんねーことが残ってる」
踵を返した肥前は、慌てて「どこに?」と問われて振り返った。
「政府だ」
「政府?」
「山姥切長義だよ。本丸の連中と先生にゃ何も話せねーが、そこにあいつは入ってねーだろうが。あの馬鹿、詰めが甘え」

そうして、山姥切長義に、彼女の近親者に対する介入が歴史の修正点に大きく関与する問題ではないか確認する、という体裁で。
政府と行政的に対処をすることになる。


政府で長義から聞き出した限りは以下だった。

5歳の時に近隣住民から通報、子供が階段から落下、頭部受傷、アパートの階段下に血まみれで倒れている所を発見。母親が突き飛ばしたように見えたという証言もあったが、母親は事故を主張。
児童相談所で一時的に保護されるも、うやむやのまま家庭に返されている。
次に行政が介入したのは小学1年生、7歳時。家に帰りたがらず学童所に常に遅い時間までいて、怪しんだそこの職員が服の下の虐待痕を発見、行政に通報。
しかし、その際に行政が下手を打っている。彼女を保護して引き剥がす前に母親に過剰に事情聴取、母親は逆上、その日の夜、娘の首を絞めて殺そうとしたようだ。逃げ出した彼女が近隣の教会に駆け込み、そこの神父が通報して発覚。殺人未遂の疑い、および児童虐待で警察が介入、彼女は児童施設で保護されることになった。母親は執行猶予、接近禁止命令。
しかし、三年後、彼女が十歳の時に接近禁止命令を無視して彼女の通う小学校の通学路で待ち伏せ。この時は締め殺すつもりで縄を持って待ち構えていたそうで、居合わせた他の児童が近くの大人に訴えて警察に通報、縄を使って首を絞められ、警察に母親が取り押さえられ、彼女は救急搬送。心肺蘇生され、助かったものの、母親は今度は実刑。
しかし、その後、刑務所内で妄想性の精神疾患を発症、娘は父親を憑り殺した悪魔の使いで殺さなければならないといった妄想を常に口にするようになり、刑期終了と共に精神病院にぶち込まれているね。退院後は生活保護を受けながら細々と暮らしていたようだが……どうやら彼女を殺すことを諦めていなかったらしいね。それで今回、といった流れのようだ。

彼女の方は児童養護施設を出てから、奨学金制度を利用しながら単身生活。
成績極めて優秀にて、医学部に合格したのと同時に家庭裁判所に申し立て。医者は免許取得と同時に居住地が登録されて公表される仕組みになっているからね。加えて、慣例的に勤務医のフルネームは病院のホームページに掲載されることがほとんど。二度の殺人未遂の被害者として、家庭裁判所に申し立てて苗字の変更が許されている。

政府が調査した範囲では、こんなところかな。
以上、母子共に、歴史修正主義者との繋がりは確認されず。よって問題なし、だ。

「何が『問題無し』だよ、ふざけんな」
「仕方ないだろう。きみも重々理解していることだろうが、行政上はそうなるんだ」

吐き捨てた肥前に、あくまで淡々と長義は答えるのみだった。


何もかも肥前が現世警護担当だった日に起きたことだ。肥前と朝尊は政府から来た刀で、あくまで借用。主の正式な刀ではない。
そして主に降りかかる厄災の宿世はいつも、彼女の刀剣男士がわずかに目を離した隙に起こる。

肥前忠広おれの庇護が弱かったせいだ。……おれが、正式なあいつの刀じゃねえから」
ギリッ、と肥前は唇を噛んだ。
「すまねえ」
「いや、差配したのはオレだ。現世の差配はオレが責任を持ってる。オレのミスだ。考えが甘かった。まさか、あれだけ多重に加護された彼女の守りを貫通してくるなんて」

口惜しそうに頭を下げたままだった肥前が、顔を上げて南海太郎朝尊を見た。
……先生」
「行くのかね」
「すまねえ」
「なに、一向に構わないとも。彼女には日頃ずいぶんと世話になっていることだしね」

短い応酬は瞬く間に終わり、南海太郎朝尊は何もかも了承したように前に出た。彼らの間では意思疎通はそれで十分だった。

「さて、ということで、僕らが出よう。現世で動くには、僕ら政府の刀が都合が良いだろうしね」

きみたちは現世で彼女の側を離れられないだろう。
これ以上彼女に足を運ばせて心労を掛けるのはさすがに忍びないからね。きみたちは彼女についていてくれ。
その間は、僕たちに任せてはくれないか。

皆、それぞれが顔を見合わせて複雑な顔をしたが、最終的には南海太郎朝尊の意見が採用された。
長谷部が非常に悔しそうに奥歯を噛み締めながら頭を下げた。
……頼む」
「ああ、任せてくれたまえ。僕ら政府の刀が、きっちり処理しておくとするよ。今回の原因が、二度と彼女の前に現れることのないように」

南海太郎朝尊は、肥前と共に振り返りながらそう告げ残して、共に揃って打って出た。

先ほどの肥前の「すまねえ」は、『完全な私用で南海太郎朝尊の力を全面的に借りる形となること』を指している。普段は逆であるし、逆であるべきだ、と肥前は考えているらしい。
だが、朝尊は肥前と対等だと考えているし、何も謝る必要はないと考えているから問題は無い。

肥前くんがこうして頼んでくる、それだけ重大なことである、それだけで自分が動く理由には十分すぎるほどだ。
起きた事態は全くもって望ましくないが、肥前くんがこうして動きたいと思える相手が、自分以外にできたことは本当に喜ばしい。
政府の刀である立場も政治的身分も存分に利用して、最大限尽力しなくてはいけないね。
共にいてくれる日頃の彼の働きに、思いに、気持ちに、全力で報いなければ。

「さて、彼女に降りかかった不幸は根が深そうだ。ここで絶たねばならないね。行こうか」


政府に申請して、彼女についている護衛とは別に現代に出てきた二人は、彼女の実母がぶち込まれた留置所に、共に足を運んだ。

実物を見ると、南海太郎朝尊はいっそ感心したように、観察しながらしきりに頷いた。

ふむ、これはすごいね。凄まじい恨みの念だ。人を呪わば穴二つとは言うが、これは術者と彼女を供物に、呪詛の形式が完成しかかっているね。やはり呪詛は素人が手を出すのがいちばん始末に負えない。
ふむ、そうだね、この国に終身刑は無いからね。殺人未遂を何度繰り返しても、刑期を終えれば出てくるだろう。それはどうにも都合が悪いね。
さて、これまで何度も更生の機会チャンスはあったのだから
これはもう、運が無かったと思ってもらうしかないね。
殺してしまうとそれはそれで都合が悪い。神の怒りの矛先を、引き受けてもらわなければならないからね。いざという時の避雷針になってもらわなければ。
いつの時代も流刑には意味があるからね。ひとまずは二度と出れないところに入ってもらって、段階的に確実に処理してしまおうか。
なに、人を呪わば穴二つ、元の場所に呪詛を返してしまうだけのことさ。仕方が無い、破滅は独りでして頂こう。彼女を道連れにするわけにはいかないからね。戦の世において、犠牲は小さく抑えるのが基本だ。
僕らはあまねく全てを救う無私の神ではないのだから。





「事情聴取も証言も裁判も、ぜんぶこっちでやっとく。任務の方もしばらくは上手いことやっとくから」
現代に戻ってきた肥前が、マグカップにホットココアを入れて、そう告げた。
「だからお前は、何もしなくていい。……落ち着くまで休んでろ」
こ、くん、と頷いた彼女が、両膝に顔を埋めたまま、寒そうに小さく体を縮こませている。
毛布をかけてやった肥前はその小さな肩を抱き寄せて、自分の腕の中にぽす、と抱き止め、とん、とんと背を叩いた。
「約束しただろ。おれには隠すなって」
ふる、と体を震わせて、彼女は望洋と「ひー、ちゃ」と虚空を見たままだった。

薬研藤四郎とは昼夜で交代で診ている。
薬研を呼んだのは恐らく、医務室を預かる彼が、診察中のことは外に決して漏らさないと事前に確約しているから、だそうだ。

外部に漏らさない約束さえすれば、黙っていてくれるから、だろうと。

首を絞めた指の痕、包帯を巻かれたそれを見た薬研は、黙って処置をした後に、交代の肥前にそう告げ残して本丸に戻った。

この期に及んで、初期刀も初鍛刀も古参の一振りたりと呼び寄せない。
だから必然的に肥前が面倒を見る形となる。

部屋の片隅に座り込んで、手足を力無く投げ出したまま、まるで人形のように虚ろに、合わない焦点でいつまでも虚空を眺めている。
医務室預かりの薬研いわく、ここまで酷い状態になったのは初めてらしい。

『心を停止し、痛みを感じにくくする防衛本能、抑圧、といってね』
南海太郎朝尊は肥前にそう言っていた。だから、無理に揺り動かすのは禁物だと。

部屋の片隅に座り込んだまま
抜け殻の人形みたいにうごかない

カップに入れてやったスープを、ちびちびと飲む。
肩に掛けてやった温かい毛布の上から、擦ってやる。その繰り返し。
昨日よりは減りが早い。昨日は1日かけてようやく1杯のスープ、といったところだった。
昨日はコーンポタージュ、今日はオニオンスープ、今日はパンプキンスープ。今日は鶏肉と野菜を煮込んだスープ。栄養満点で腹に溜まる、彼女が不調な時の定番スープだった。
とはいえ、握り飯ひとつ食わない。
はちみつとシナモンで優しく味付けした、すり下ろしりんごをたっぷり入れたヨーグルト。彼女の好きなメニューの一つ。
テーブルに出しても一向に手を付けない、食えるか、と聞いても、緩慢に顔をあげて、合わない焦点のまま、ゆら、と首を横に振るだけ。
だから肥前はスプーンですくってやって、口元に持っていった。こく、ん。口許にやってやれば、呑み込みはした。

毛布で包んでホットチョコレートを持たせて
温石を抱えさせ
爪を手入れしてやり
温めた濡れおしぼりで目元の腫れをケアしてやり
ハンドマッサージしてやり
温かいスープを用意してやり
ちび、ちび、と飲むのをただ待つ。辛抱強く。
「食欲ねーなら、スープだけでも腹に入れとけ」
こ、くん。と頷く姿は、出来の良い人形みたいだ。

こんな状態になるくらいなら
呑気にヘラヘラ笑ってペタペタ歩いてお節介を焼いてる、あのうっとおしさの方が何万倍マシか。

先生にも、焦ってはいけない、と言われている。
本来なら医者ほんぎょうに任せるべき案件だ。
泣きたいなら泣かせてやりたい。が、今は時が止まったようで
心を解凍するには、暖めてやるしかない
時薬が効いて来るまで

泣きてえなら、泣けよ
そう肥前が言うと、彼女はぼんやりと肥前を見返して、ゆら、と瞳を揺らがせると
最終的に、一粒だけ、ぽたりと涙を落として眠り込んでしまった。

心が現実に付いてきていない。




長雨の夜半過ぎのことだった。
そろそろ薬研藤四郎が包帯を替えに来る時間のはずだと確認してみれば、ゲート前に立っていたのは薬研ではなく加州清光だった。肥前は顔をしかめてみせた。
「おい」
「ごめん、寝てる間に、一目でも、って」
心配で胸が張り裂けそうな顔をして、初期刀がそこに立っていた。

ゲートを使用しているということは、本丸の総意なのだろう。ふー、と長い溜息を吐いた肥前は、額に手を当てて項垂れたまま、あきれたように首を左右に振った。
「本当に一目だけだからな。気付かれねえようにしろよ。さっきようやく寝たが、昼も夜もぼーっとしてるせいか、眠りも浅くて、」

がたがた、と物音がした。
肥前も加州もハッと同時に振り返った。彼女の寝室からだった。

肥前が慌ててドアに手を掛けたが、遅かったらしく鍵が掛けられていて開かない。中で物音がしている。
「っ、くそっ!」
穏当に鍵を開けることを諦め、肥前がばき、とドアの鍵を押し開けた。

中は既にもぬけの空だった。
空いたままの窓から、ザァザァと雨が吹き込んでくる。ベランダにシーツが固く結ばれて下に垂れ下がっている。これを伝って抜け出したのか。肥前と加州清光の会話を聞いて外へ飛び出したらしい。
恐らくは、────首の締め痕を見られたくなくて。

卒倒しそうなほど真っ青な顔になった加州清光が、まだ半顕現のまま追って窓から飛び出そうとするので、肥前が鋭く「待てッ」と静止した。
清光が振り返った瞬間、押し当てられた札から力が雪崩れ込んでくる。

「政府支給の緊急顕現札だ」
実体を持たない清光の両手が形を持ち、実体化した脚が地につく。驚いて両手を見た清光に、肥前が胸ぐらを掴んだ。
「おれじゃだめなのは最初からわかってたんだ」
睨むような朱殷の瞳が、切れるほど唇を噛み締めて、ぐしゃりと歪んだ。
「頼む、あいつを」

頷いた清光は、ヒールでベランダを蹴って飛び出した。轟々と続く雨の中で。



《だれが彼女の絶望を受け止めるか》

耳が痛くなるほどの雨の中だった。

顔色は真っ青だった。白を通り越して土気色なほど顔面蒼白で、がたがたと全身を震わせながら、激しく過呼吸を繰り返す。

は、はぁっ、かひゅ

喉を掻く。爪が何度も、何度も、何度も喉に赤い掻き傷を作っていく。それでも首を絞められた指の感覚が喉笛に張り付いて離れない。
息ができない。罵倒が耳に木霊して、汚泥を、汚れた自分を罵る
泥におぼれていく 生まれたことを否定する罵声が、生きていくことを呪う暴言が、嵐のように降り注いで、息ができない

……………………るじ

「あるじ、あるじ!俺を見て!!」

両手で頬に触れて、ぐいっと顔を上げさせる。
至近距離で視線で射抜いて

必死で訴えかける紅い瞳に、望洋とした金色は濁って、焦点が合わない。

「ごめん、ごめん、俺、わかってた、あるじが苦しんでたこと、今も苦しんでること、ほんとはずっと分かってて、」

助けて欲しいけど知られたくないんだって、触れて欲しくないんだって
だからどうしても触れなくて、ずっと

俺だって、他人から見れば肥溜めみたいなところで生まれた
俺たち、生まれは選べない。でも!
でも、自分で愛せない自分を、愛してくれる人はいる!!どんなに汚れた俺も愛してくれたあるじみたいに、俺が、俺がどんなあるじも愛してる!

ごめんあるじ、駆けつけられなくてごめん、助けられなくてごめん

「ねえ、斬っちゃだめかな」
両肩を掴みぐいっと押し退けるように覗き込むと、清光は泣きそうな顔で懇願した。
「俺だって、親殺しがよくないことだってわかってる、でも!」
震えるような怒りを、清光は喉から絞り出すようにビリビリと叫んだ。
「でも!俺が、俺が許せない!あるじをこんなに傷付けて、ボロボロにして!!」
人を、歴史を護るのが俺の、俺たちの存在意義だ、過去は変えられない、変えちゃいけない、そんなことしたら敵と同じだ、わかってる、わかってる!!
でも!今!あるじが泣いてる!
過去に戻って、あるじを泣かせた全部を斬って!恐ろしい場所のぜんぶから、さらって抱きしめたいって思ってる!
そんなことしたら、あるじは俺に会えない、俺たちはあるじに出会えない!矛盾してる、できない、わかってる、でも!!
悔しい、悔しい!ごめん、ごめんあるじ、間に合わなくてごめん、助けに行けなくてごめん、こんなに、こんなに泣いてるのに、こんなに苦しんでるのに、あの日のあるじを助けに行きたい、あるじを泣かせた全部をくびり殺してやりたいのに
それでも俺、あるじに会いたいんだ
今のあるじのぜんぶが、傷がぜんぶ、俺の愛したあるじの形だから
ごめん、ごめんな、助けに行けなくてごめん、ごめん、ごめん

ひぐ、と
決壊したみたいに、喉が鳴る

……

舌が震える。絞り出すような、痛切な悲鳴が、
ぐしゃりと服を引っ掻くように、縋り付いた

「なんで、たすけてくれなかったの、かみさまあ!」

それは、彼女が決して、一度たりとも吐かなかった、真実神を呪う幼子の悲鳴だった。

その瞬間、加州の全身に、かまいたちのように裂傷が走った。
清光は奥歯を噛み締めて、内側から破裂する衝撃に耐えた。
彼女が泣き叫ぶたびに裂傷が増えていく。清光の全身はたちまちズタズタだった。

だが、清光は腕を解かなかった。離さなかった。固く抱きしめ続けた。
ブシュッと血飛沫が舞い、流れる鮮血が増えていく。

やがて泣き声がついに枯れ果てて、霊力を使い果たしてくず折れるように清光の腕の中で力尽きた彼女を、清光は固く抱きしめた。抱き締め続けた。
掻き抱くように。


やがて、ぱしゃ、と水溜まりを踏む靴の音が一つ、雨の中、傘も差さずに並んだ。
……たぶんこいつは、本能的に知っていたんだろうな」
肥前が隣に並んで、傘を傾けた。自分はずぶ濡れのまま、清光の腕の中の彼女の雨を遮る。
「神とこうまで深く縁を結んだ身で、神を呪えばどうなるか、ってやつを」

清光に与えられた主の霊力は血肉だ。絶えず体を巡り、その形を維持する力そのものだ。
審神者と呼ぶにはあまりに巫女に資質の偏った彼女が顕現した刀剣男士。
巫女は神を身体に下ろせるほどに近く近く結びつく。
その彼女が、ゼロ距離で神を呪えば。それは存在の否定、内側から破裂する爆弾に等しい。


ごぼ、と血を吐く加州。
大量の喀血が地面に落ちて、それを肥前はただじっと見つめたまま立っていた。降り注ぐ雨の中で、血が排水溝へと流れていく。
……動けるか」
「このぐらい! あるじが今まで苦しんだ時間に比べれば」

泣き濡れた彼女を腕の中に掻き抱いたまま、清光は、己の顔を片手で覆うようにして「はは」と自嘲的な笑みを指の間から零した。

「はは、俺さ、ずるいよな。あるじがこんなに泣いてるのに、ものすごく嬉しいんだ」

やっと、やっと言ってくれた。
ずっと言って欲しかった。できることなら受け止めるのは俺でありたかった。誰も傷付けないあるじが、縋って傷付ける相手に俺を選んでくれたんだ。

加州はかすかに震えながら、己の手を自らの上に掲げた。
肉を断ち、骨が見えるほどに深い傷。その手のひらに、清光はたまらないように口付けた。与えられた傷すら愛おしむように。
「────愛してる。愛してるんだ、あるじ。俺を選んでくれて、ありがとう」




選んだな
と三日月宗近は静かに口にした。

星も見えない暗い雨夜の中、三日月と鶴丸は、二人きり。
耳が痛いほど豪雨は、厚い暗幕のように世界の音を閉じ込めている。

雨を見上げながら佇んだ三日月に、鶴丸はどこか項垂れるように諦観を滲ませたまま胡座をかいて座り込んでいる。
「もし、お主を選んでいたら、どうした?」
「隠してたさ」
鶴丸は間髪入れずに答えた。
自分の神域にさらって隠して、彼女を永遠にしていたと。
問う三日月の静かな眼差しに、鶴丸は諦観を滲ませた声でこう呟いた。
「きみ相手に取り繕っても仕様がない」

彼女を攫って閉じ込めて、傷付けた全てを想像を絶する苦痛に落として皆殺しにしてやりたかった。自分たちと出会う過去と断絶するとわかっていながら、泣いているきみを過去へと攫いに行きたかった。

最初で最後のチャンスだった
きみが選んでくれれば、それができたのに

鶴の手からするりと逃れた幼い雛
両手の中に閉じ込めて、さらって傷のまま永遠にしてしまいたかった

「さすがに悋気を起こすべき場面だろうが、初期刀殿が相手だと腹も立たんなあ」

どこか安堵すら滲んだ諦観で、鶴丸はそう呟いた。

あれに救われる気持ちはよく分かる。
自分もまた、あの北極星ポラリスには少なからず救われているから
あいつを選んだ彼女に、あるべきところに収まった感覚を得た。

虚空を掴むように手のひらを伸ばした鶴丸は、掴んだそれに名残惜しそうにキスをした。

オレのきみ。そんなつれないきみを愛してる。







ご主人様は選んだんだね

亀甲はひどく穏やかにそう口にした。
慈愛を滲ませるような柔らかさで、亀甲は優しく微笑みながら言葉を継いだ。
「羨ましいよ。その痛みはきみだけのものだ」
……俺さ、今なら分かるかも。亀甲が言ってたこと」

亀甲はそれ聞き、笑み崩れるようにして破顔すると、言祝ぐように微笑んだ。

貰った痛みを、大切に。
ご主人様ときみだけの、愛の形で。





「ようやく言えたのか、嬢ちゃん」
和泉守兼定は、感慨深そうにそう口にした。
そうか、ようやくか、と。

両の袖に腕を入れて、上がった雨を見上げる。
黒雲はまだ厚いが、切れ目にかすかに星が覗いている。
……兼さん」
「そうだな、ここからだな」

掻きむしるように兼定は髪をぐしゃっとかき回した。まるで酷くもどかしい物を目の当たりにしたように。
「人の子の否定っつーのは、恐ろしく強え。良くも悪くもだ。嬢ちゃんほど力が強えと尚更だろ。存在しねえことになってるもんに、どうやったって手は届かねえ」
……うん、そうだね、兼さん。僕たちは特に、ああいう透明な壁には手が届かないようにできているもんね……
「主従の弊害だな。嬢ちゃんの力は、何よりいっとう俺らに影響する。嬢ちゃん自身が閉じちまうとどうにもならねえんだ」

「人の子が、在れと願えば在る、在るなと願えば無え。俺らなんか、まさにそうだろ。主が在れと願ったからこうして形を得て立ってる。俺らの側から、それをひっくり返すのはどうしたって無理だ」

「だがな、どれだけ無えと否定しても、傷は在る。在ると認めねえ限りは、手当てもできねえ。そういうもんだろ」

結局のところ、否定の力は、消去じゃなく不可視化だ。
自分で触れられなくなれば痛みも認識しねえ。

自己防衛としては最強だろうが
回復としては最悪だ。

だが、そうじゃねえと完全に壊れるところに、嬢ちゃんは長く居たってことだろう。
生きるための本能が、回復を犠牲に命を守った。それを解くのは容易じゃねえ。迂闊にやれば返しが来る。

「ガキはいつだって生きるのが仕事だ。生き残るためなら何したって構わねえ。いつの時代も、弱い側は簡単に踏み潰されて食いもんにされるからな」

「けどな、餓鬼の自分がしたツケは、必ず大人になったてめえが払うんだ。ありゃ嬢ちゃん独りで抱えるにはデカすぎる」

「よくがんばった。よく踏ん張った。生きてるだけで花丸だ。あんなもん抱えて、それでも俺らのところまで辿り着いたんだ」

今がいちばんしんどい時期だ。
俺らの出番は、もーちょい後だな。






「形代移し、だね」
石切丸は、よくよく清光の傷を見聞し、最終的に静かにそう診断を下した。
手入れをしても消えない傷跡が、上着を脱いだ清光の胸と背中に多数残っている。

形代。
神が依り憑く依り代のこと。厄を移す際に撫でる必要があることから撫物なでものとも呼ぶ。
人の不幸や厄、災難などを身代わりに引き受ける人形ひとがたのことだ。

歴史に残る限りでも、古くは平安の時代から現代まで、1600年近く続いている。やり方は実にシンプルだ。
人に似せた形に切り出し、対象に撫で触れさせ、息を吐きかけ、厄を移す。

「そうだね、かみにも通ずる紙で人の形に作る形式が最も一般的だけど、鋼で作ってはいけないという決まりはない。人の形に似せて作った、神が依り憑く依り代。形代人形と刀剣男士、見方によっては、私たちは成り立ちから非常に近しいとも言える」

つまり、清光は彼女の形代となったのだ。彼女も清光も意図した事ではないとはいえ、既に形式は成立している。
息が触れ合うほどの近しさで、誰も触れられなかった傷を撫で、ただ抱きしめた。

清光がしたことは、痛みを『存在していいもの』として成立させたこと。

……なあ、石切丸。この傷、残るかな」
「そうだね、本来ならば形代ごと水へ流して祓うのだけど、これはそういうわけにはいかないから。消えるとしたら、彼女の心の傷が完全に癒えた時だろうね」
「ん」

清光は、ためらいなく上着に袖を通し、服の下に隠れた傷を優しく抱きしめた。

「それでいいや。この傷跡はんぶんは俺が大事に持ってる。いつかぜんぶが癒えて、要らなくなるその日まで」

大丈夫。あるじには俺が、俺たちがついてる。
これ以上絶対、傷付けさせない。



「なあ、聞いていい?」
「どうぞ、加州さん」
「今なら分かる。石切丸ってさ、気付いてたんだよな? あるじに呪詛が向けられてる、って」

音もなく切り込まれたそれに、石切丸は穏やかに微笑んだまま、少しも顔色を変えなかった。
まるで、訊かれることを分かっていたみたいに。

「言ってたよな、石切丸。思えば、本丸ができてそんなに経ってない頃から。自分は戦場に出ないで本丸に残る。その必要があるから、って」

そうしてまもなく、戦場で力を振るう大太刀として、次郎太刀と太郎太刀が呼ばれた。古参の時代のすぐ後のことだ。

「いつから?」
「最初から」

石切丸は、苦く微笑んだ。

「この本丸に降り立って、彼女の前に立ったその日から」


石切丸は、主人の足元に根深く絡み付こうとする呪詛の存在に気付いていた。
御神刀として呼ばれた石切丸には、それがくっきりと浮き上がって見えたのだ。初めから。

だから素早く極めて、まもなく本丸に籠って守りを固めた。
主へ向けられた呪いが、彼女を害することがないように。
本丸を彼女の絶対の安全域にするために。

「すまない。私がこうと口にしてしまうと、結界の中に招く隙を与えてしまうから」
「いや、きっとそれが最善だったんだ。独りで対処させてごめん。今思えば、気付けるチャンスは何度もあったのに」

たとえば、この斎場だ。石切丸は日頃いつもここに籠っている。
石切丸は確かに、元から戦より穢れを清め祓う役割を好む刀ではあるけれど
極めた後も本丸から一歩も出ない徹底ぶりには、思えば少しの違和感があった。

そう、彼女が。
只々、いつだって刀剣男士の望みには最大限沿うようにと差配するから。
誰も異を唱えなかったし、疑問を持つような土壌が存在しなかっただけで。

信頼が前提の本丸
疑う必要が無い空気
互いを尊重する関係

彼女が丁寧に築いてきたものだ
でも、その理想が
異常の検知を遅らせた。

これは、彼女の優しさの副作用だ。
彼女の優しさが、結果的に状況を隠してしまった。

あるじはいつだって笑顔で希望を尋ねるけれど。
その訳までは、深く踏み入らない。

そんな振る舞いの理由も、今なら分かる。
あるじはずっと、深く知られることを恐れてた。







たとえば、その傷跡を。
事情を何も知らない他人が見たら、手入れできないほど酷く痛め付けたとか、或いは少し術に通じていれば無理やり形代にされたようにも見えるかもしれない。

だが、外部との接触を断ち、演練すら禁止されている関係上、幸か不幸か、この傷を見るのは本丸の中の者だけだ。
それでいい。何も知らない連中に、外野から余計なことを言われたくはなかった。

背中まで広がる傷を一つ一つ確認し、たくし上げた白いワイシャツを元に戻しながら、見聞し終わった医療班の安定は「どうする? 個別風呂使う?」と尋ねた。
聞かれた清光は「ん、そーだね。きちんと事情を説明するまでそーする。ビビらせちゃ悪いし」
と気負うでもなく答える。
「けど、ちゃんと説明した後は普通に大浴場使うよ。恥じるようなものじゃねえしさ」
「了解。長谷部に話し通しとく」
「任せた。俺は戻るよ、あるじのとこに」

主は反動か、あれからずっと眠ったままだ。

医務室の奥には、資材倉庫を改造して作った、審神者専用の治療室がある。
これは重傷者多数の場合の泊まり込み手入れや、本丸襲撃で手入れ部屋を繰り返し使いながら籠城するケースなどを想定して作られた場所。
医務室には必ず刀剣男士が輪番で常駐しているため、主の病気や負傷に手堅い警護を付けたせいで逆に主の病状が外部に露呈することを防ぐ設計になっている。

だから、医務室は誰が治療中でも治療中でなくても、警備の体制は基本的に変わらない。
医務室預かりの薬研と補佐二振り、負傷者を警護する担当が一振りで四振り。
誰もがいつもと同じように仕事に臨んで、粛々として、静かだ。

そして、普段は主人の寝室に立ち入ることを許されない、太刀以上の大型刀種は、この審神者専用医務室でだけ、薬研の許可を得れば付き添いが許されることとなっている。

こんこんと眠り続ける主人の側に、片時も離れず手を握ったまま付き添い続ける鶴丸国永。
そこに加州清光は、再び並んだ。
「どう?」
「変わらずだ。ずっと魘されてる」

長く封じてきた返しが来ている。
溺れるようにかすかな吐息であえぎながら
ずっと、ずっと、眠ったまま苦しんで

呪詛返しの手順を踏んで大半は切り離せたとはいえ、泥のような冷たい眠りから目覚めない。
心音が極端に落ちて、止まっているのではないかと恐ろしくなるほどゆっくりだ。
まるで冷たい雪に閉じ込められながら冬眠しているみたいだった。

彼女の心は今、彼女にとって最も忌まわしい過去の中にいる。

……怖い夢を、
ぽつりと、鶴丸が
淡雪のように静かに言葉を落とした。
「見なくて済むように、そういう刀を呼んだらどうだと、それとなくそんな話をしたことがあったんだ」
かき消されてしまいそうな淡い声だった。清光は静かに、じっと耳を傾けた。
「話の持って行き方が拙かったんだろうな。三日月だって一度で呼べた彼女だ。準備さえすればきっと、他の天下五剣だって、源氏の連中だって呼べただろう。だが、鶴繋がりで姫鶴一文字の名前が上がって、どんな刀か彼女が聞きたがって。一文字則宗から夢の中に入れる刀剣男士もいると聞いて、……結局、彼女は誰も呼ばなかった。自分にはみんながいるから、怖いことがあっても大丈夫、といつもみたいに笑って」

力尽きたように眠り続ける主の手を、柔らかく握ったまま、鶴丸は深く深く項垂れた。

「嘘つきだなぁ、きみは。こんなことなら無理にでも呼んでおくんだった。俺にはきみの夢枕に立つ力が無い。こうして祈るしか」

本当はどうしても、見られたくなかったんだろうな。
きみはずっと、ずっと。傷を覗き込まれるのを怖がってた。

「わかってた。わかっては、いたんだ。だが、彼女自身がそれを拒んでて、……オレにはなにも」

主の華奢な小さな手を、鶴丸は額に押し抱いた。

「なあ、加州。傷跡それ、痛むかい」
「ん、普段はそうでもないけど、」
加州もまた、彼女の手を握った。
雪で凍えたみたいに冷たくて、脈が遅く、青ざめた彼女のその手を。

「こうして手を握ってると、……近いからかな。たまらないくらい凄くずきずき痛むんだ。哀しい気持ちも怖い気持ちも流れ込んでくるみたいで、……これで半分だと思うと、たまらない気持ちになるよ」
「そうか」
そうか、と。
重ねて鶴丸が項垂れた。





溺れていたのは、懐かしい気すらする
何も見えない大吹雪の中だった。

月も星も無い暗い暗闇でも、全てが白いと不思議と明るい。
手足の感覚がもう無い中、立ち止まったら死ぬことを本能的に知りながら
汚れた薄いシャツ一枚で、一歩、また一歩と、小さく頼りない手足を引きずって、歩く。

吐いた息が凍るのを感じながら
意識は酷くぼんやりして
多分、走馬灯、と呼ばれるものを
見ていた。


聞くところによれば、切迫早産、というやつだったそうだ。

本来ならまだ産み月ではない状態で、妊娠したその女性は破水してしまったらしい。
大量出血、母子ともに危険ということで、救急車に乗せられて病院に向かった、その。

夫に当たる人は、その火急の知らせを受け。
己の妻と、娘になる赤子のために、仕事中に慌てて通勤ルートから外れて病院に向かい
その途中で、玉突き事故に巻き込まれ、即死だったらしい。

建材を乗せたトラックの、崩れた鉄骨に貫かれて
顔面は潰れ、胸を派手に貫通した、むごい死に方だったそうだ。それを直視した妻に当たる人は、むごい遺体を見た瞬間からおかしくなって
命懸けで出産した赤子を、酷く虐待するようになったらしい。

全部、全部、伝聞。
聞いた話。
金切り声で繰り返し殴り付けるその人の絶叫から、断片的に拾った情報を繋げた、多分私の、生い立ち。

夫に当たる人の顔は、見たことがない。写真は全て取り上げられ、見ることも触れることも許されなかった。
たぶん、おとうさん、と言われる人なのだろうとは思うが、一度たりとも呼ぶことを許されなかったから、考えようとすると頭がぼんやりして良く分からない。
生まれて父親になる前に死んだのだから、父と呼ばれる筋合いは無い、許さない、というような理屈らしい。どれだけ理論が破綻していても、毎日殴られていればさすがに体が覚える。
何をしてもしなくても殴られた。何の予備動作も無く突然、特に顔を執拗に殴られるから、何とか目だけでも庇わなければ失明させられてしまうと、本能的に頭を差し出すようになったのは、多分二歳半頃だったのではないかと思う。恐らく、本当は夫と同じように顔の半分を潰したかったのだろう。熱したフライパンを使って何度か脅されたから。

記憶が古すぎて、実際の記憶なのか、金切り声の絶叫から幼い自分の脳が作り出した想像なのか、今となってははっきりしないが
分かっているのは、その人は赤子を、繰り返し呪っていたということ
自分が産んだ赤子のおしめを外して、何度も何度も煙草の火を押し当てたということ

この赤子が、決して幸せにならないように、という呪いの烙印
自分と同じ女に生まれ落ちたその赤子が、決して、誰かと結ばれることがないようにと
普通に恋をして子供を産んで夫婦で抱く、そんな
その妻に与えられなかった幸福を、決して得られないようにと呪いながら
おしめを外すたびに、子供を産む器官のすぐ近くに、繰り返し繰り返し火を押し当てて醜く火傷を刻んだこと
そうすれば、こんなにも醜ければ、きっと誰にも見せられないからと
こんなに醜い疵を見られれば、必ず見捨てられるはずだと、繰り返し耳朶に恨みを吹き込んで
その人は、心の底から、己から生まれた赤子を憎悪していた。

誰も助けてくれない
誰も愛さない
誰とも結ばれない
これから先もずっと不幸でいろ
誰にも見つからず、価値もなく、消えるように死ねと

毎日、毎日、毎日
寝ても覚めても聞こえる罵声を聞きながら、食い繋いでいた

腐った食べ物でも、生ごみの残飯でも
与えられれば有り難い方だった。
短い時間、家を追い出されることも、珍しいことではなかったけれど
大吹雪の真夜中に薄着で追い出された時は
ずっと身近にあった死が、ついに歯車の音を鳴らしてようやく近付いてきたのを感じた。

真っ白な吹雪の中だった
明かりはない、誰もいない、入れる建物もない、暗い暗い白の世界
まばらにある建物は、どこも門が閉まっていて、入れない。空き家で一夜を過ごしたことは何度かあったが、その日はどこも見つからなかった。恐らく、風の強い酷い寒波が来るからと、どこの家も戸締りされていたのだろう。

凍えた指が腐り落ちる前に、亡くなった、ひいおじいちゃんの言葉を思い出した。

敬虔なクリスチャンだったらしい、夫に当たる人の祖父、自分にとっての曽祖父は。
困ったら十字架のたもとに行きなさい、と教えてくれた。

しんこうはあいだよと
教えてくれた意味は、まだよく分からなかったけれど。
それでも、何も分からない赤子に、そんなふうに言葉を残して、頭を撫でてくれた人だった。

だから、白、白、白の、雪の切れ目に
十字架を、見つけたのは

私が初めて掴んだ、奇跡だった。

街の大きな教会は、いつ祈りたくなってもいいように
夜中でも、門が空いていることが多いらしい、と知ったのは、ずっと後のこと
門を開けて受け入れてくれた、誰もいない教会は
柔らかいソファと誰かが置き忘れた毛布で
かじかんだ手足を包んでくれた

ぼんやりした意識で、見上げた十字架は
生まれて初めて自分を助けてくれた、かみさまだった

か、くん
と首が落ちて、毛布に包まれる夢から覚める
まだ、吹雪の中だった

教会への道が、分からない
全部が白くて、あの日助けてくれた十字架が見つからない

重い雪が、体を押し潰して
足が、うまく、動かない

「か、み さま」

唇が凍りついて上下で張り付いて、開けると裂けた。
鉄臭い味が口に広がって、一瞬だけ生暖かい
それすらもたちまち、凍っていく

「かみ、さま」

頭がぼんやりして、もうなにも、わからなくなっていく

ずる、と足元が滑って、冷たい雪に、体の全部が埋もれた。
もう、てあしが、うごかない

……

目を、閉じて
しまおうと、思った
もう、つかれた 目覚めたく、ない

目覚めれば、また始まる
痛くて、痛くて、痛い、朝が
だから、もう、目覚めなくて、いい

……み、さま」

続く言葉は、浮かばなかった。








………………

………るじ……






だれかが よんでる

だれか、が


…………?」

どこかで呼ばれた、気がして

薄く、目を あけた、先に


遠く、十字架を、見つけた

…………


十字架
吹雪の中、一度だけ私を確かにたすけてくれた
かみさまが、よんでる




…………

……きみ……





……あ」



ずる、と
雪を、蹴って、手を伸ばす

氷から引き剥がされて
手足が裂けて、血が出て、痛む

けれど、這って、前へ

……さ、ま」

手を、伸ばした。
十字架の、たもとには、


「か、み さま」



指先が、十字架に、かかった、気がした




温かな手のひらが、ふたつ

凍えた指先をしかと掴んで、熱い



あるじ
きみ


声がする




あの日

こころから ねがった




あいしてくれる
かみさま、が








暗くて冷たくて深い、深い
悪夢の淵から、ぼんやりと目覚めると

泣き出しそうに唇を噛んだ
加州清光と、鶴丸国永が
そこにいた

血の気の引いた指先を、固く掴んで。

「あるじっ」
「きみ」


泣き崩れるように、わたしの指を額に押し抱いて
固く、固く、掴んで離さない、二つの、手のひら

ぽた、ぽたと
頬に落ちる、温かい雨が
雪を、溶かしていく

その温かさに

ああ、と ぜんぶが わかったきがした


「か、しゅー鶴、るん」

枯れた喉が、拙く紡いだ、なまえ



あの日、わたしの声に
応えてくれた

絶望の吹雪の先で、出会った かみさま、は



まるで決壊したみたいに
二人とも、わたしを掻き抱いて、泣いてくれた

あたたかい
閉じ込められた、火傷しそうなほどあたたかい、腕の中で

あの日、辿り着いた、冬の岸辺の。
生きる意味の、名前あいを知った。






《エピローグ》

彼女がようやく。
深く恐ろしい夢、長い長い悪夢から、目を覚ました。

考えるだに恐ろしいことだが
もしも、仮にあのまま目覚めなければ。
呪詛返しを経てもなお残された呪いの断片に、じわじわと心を弱らされ、衰弱して憑り殺されていたかもしれないそうだ。

振り解かれた残りの呪詛の糸を、全て断ち切った石切丸によれば、本当に危うい所だったらしい。
夢現の彼女が彼岸でなく、此岸を選んでくれて本当に良かった。

みんながよかった、本当によかったと安堵したように、時に涙しながら、代わる代わる病床を訪れては手を握る中。
彼女はずっと、まぶしそうに目を細めながら、静かにまつ毛を伏せて、暖かい手のひらをただ握り返し続けていた。いつまでも、いつまでも。
……ごめんね」
「いいえ、いいえ。戻ってきてくださった、それだけで良いのです。それだけで」
ぐっと悲壮に唇を引き結んで、そう固く手を握って答えた前田を始めとして、誰に対しても彼女は静かに謝った。

何に対しての謝罪かは言わなかったが、言葉にしないだけで皆分かっていた。
彼女の命の揺らぎは、きっと一度は彼岸を選ぼうとしただろうことを意味していたから。
そうすれば自分達は、許し無しに後を追うことができない。

昼夜ずっと見舞いの人混みは絶えなかったが
そんな中、ようやく薬研の許可が降り、多人数での来訪が許されると

人混みを割るように、彼は訪れた。

「ほら、肥前くん」
南海太郎朝尊が道を空けて
続いて陸奥守吉行が、にっと笑いながら背をパンと叩いて後押しする。

前に出たのは、三度笠を被った人影
彼女は大きく目を見張った。


三度笠をぐっと引き下げて
人影は、名乗りを上げた。


「刀とは斬る事と見付けたり。おれは最上大業物、肥前忠広。よく斬れる刀だ」

次の瞬間、ぱっと大きく三度笠を外した彼は、

旅立ちの前とは、どこか
重ねた齢が異なるような
円熟した頼もしさを携えて、そこに立っていた。

深まった朱殷の瞳に、奥深い柔らかさをたたえて。
ただ一人のための刀が、そこにあった。


……ほらよ。けど、受け取るかどうかは、てめえが決めていい」


そんな蓮っ葉な言葉ひとつで
己の身のぜんぶと、三通の手紙を差し出したその手に
涙がぶわ、とあふれて

「ひー、ちゃ、」

まろびながら駆け出すように、赤子のように両腕を伸ばして
手紙ごと抱きかかえるように、抱きしめた。

……んだよ、返品するなら今だからな」
ぶっきらぼうで、優しい声だった。
ぶんぶんぶん、と首を振って、固く固く抱きしめる。

耳元で、ふっと笑むように肥前の吐息がほどけて
硬くごつごつした手が、そっとその手を握り返した。

「得意なことは敵を斬ること。ぐだぐだ言ってもはじまらねえだろ、だから。……てめえが望むなら、そばにいてやる」





《肥前忠広、極の旅へ》

「先生、……大事な話がある」

肥前はそう言って、夜分遅くに南海太郎朝尊のもとを訪れた。
迎え入れた南海に、肥前はどこか思い詰めたように訥々と語り始めた。

「本当は、とっくに分かってたんだ。もう逃げられねえって。……わかってたのに、おれの覚悟が足りなかった」

心の中では、とっくにあいつの刀のつもりで、あいつの笑顔でそれを許された気でいた。
それが、自分が本来政府の刀で、決してあいつの物ではない意味の本質を、忘れさせていた。

いつでも政府に戻れる中途半端な立ち位置にいて
逃げを打てる位置にいた

覚悟が足りなかった。
己のそんな優柔不断さが、あいつに這い寄る呪詛に隙を与えたのだと。

「覚悟が足りなかった。だから行く」
……それをこうして聞くべきは、僕ではないのではないかい、肥前くん」

ことさら柔らかく、南海太郎朝尊は問いかけた。
それに対して肥前は首を左右に振った。

「いや、これでいい。……あいつに負わせるつもりはねえ」

最初から最後まで、おれの勝手だ。



自ら退路を焼きに行く肥前に
逃げ道を焼き払う行為に
黙って研がれに行く彼の、そのあまりの刹那さと切なさに。
南海太郎朝尊は、心配げに目を細めた。

「後悔はしないかい。一度結んでから引き剥がされてしまえば、より一層深く痛むだろう」

それでもかい?

……いい。


柔らかく問うた南海に
肥前は迷わず、真っ直ぐ顔を上げた。


「大事なのは、後悔しないかどうかじゃねえ」

鮮烈なほど眩い決意の眼だった。

「後悔していいと思えるかだ」


それを聞き
南海太郎朝尊は大きく目を見張ると、笑み崩れるように微笑んだ。
「うん、そう、そうか。そうだね」

肥前の両肩に、南海太郎朝尊はあたたかに触れた。

「なに、僕のことは気にせず、ただ己の心だけに従いなさい」

そのまま南海は、引き寄せるように肥前を優しく抱き留めた。
まるで父が子を抱きしめるかのような、大らかな抱擁だった。

「! ……せんせい」
「きみの幸福が僕の幸福だとも」

僕はね、肥前くん。
心から誇りに思うよ。僕と違う道を征く君を。


背中をぴたりとドアに預けたまま、陸奥守吉行は深く天を仰いだ。


星の無い夜更け。奥の蔵の近くの草陰ががさりと揺れた。
真っ暗闇の中、そろり、そろり、と抜き足差し足をしていた陸奥守吉行に、後ろから声を掛けられて「ぴゃっ!」と陸奥守は飛び上がる。
見つかったその後ろ手に、修行道具一式。

仁王立ちする長谷部の吊り上がった眉に、陸奥守は
「あー、あー、これはのう
うろうろと視線を彷徨わせ

両手でパンっ!と
「頼む!見逃しとーせ!」

肥前は、主にも、誰にも許可を取らず

彼女が目覚める前に修行に出て
目覚める前に修行を終えるつもりなのだと。

きっかけは火を見るより明らかだ。だからこそ彼女に告げることを厭ったのだろう。
恐らくは、選ばせること、送り出すこと自体が負担になる。そう、わかっていたから。
過負荷な彼女に何一つ負わせないために。

その責任を、陸奥守は一緒に背負おうとしたのだ。
だから修行道具をこっそり蔵から持ち出した。

「前代未聞だぞ」
長谷部の嘆息が響く。
「第一、あいつは政府の刀

「だめですよ、陸奥守さん」

奥から出てきたのは物吉貞宗だった。
闇に浮かび上がる白の服装、優しげな金髪に柔和な面差し。この本丸の蔵番長。

彼のもとからひっそり修行道具を盗み出した陸奥守はさすがに怯んだ。
すっと前に出た物吉が、手を当てて

幸運の祝福を、三度笠に込めた。

「忘れ物です」
「物吉おまん
「あるじさまなら、きっとこうします」

物吉は、春風のように柔らかく微笑んだ。
そんな鮮やかな笑い方はどこか、どうしようもなく彼女を思わせて。

そこで微笑んでいたのは、かつて。
誰よりも彼女に似ている刀をと
呼ばれて応えた、この本丸最初の、幸運の脇差。

「いってらっしゃい。肥前さんはとっくに、僕ら本丸の大事な仲間です」

きっと喜んでくれるはずです。僕の選択も、陸奥守さんの選択も。

だって、誰よりも肥前さんの力になってくれる陸奥守吉行に会いたい。
あるじさまはそう仰っていましたから。

陸奥守は、じんと
深く深く、がばりと頭を下げて、再び両手をぱんと合わせた。
「恩に着るぜよ!!」

踵を返して、だっと走り出した。



その背が完全に遠退くのを見送った後で。
がしがしと頭を掻きながら呻いた長谷部に、物吉貞宗は穏やかに微笑んだ。
「言いそびれてしまいましたね。それ」
長谷部の手には、書類がある。
この本丸が肥前と南海を受け入れた際の契約書だ。

政府から彼らを派遣、借り受けた契約。
総務番長の長谷部がそれを持ち出しているということは、つまり。

「手続きを踏んで、送り出すつもりだったんですよね」
……これだから猪突猛進な連中は頭が痛いんだ」

脇差の物吉の目には、星無き夜の暗がりも鮮やかだ。
書類も、文句をごちる長谷部の表情も。

「ふふ、伝えそびれてしまいましたね」
「誰も彼もこうと決めると無鉄砲で話を聞かん」
「不器用で優しいですね、とても。陸奥守さんも、長谷部さんも」

裏のない物吉貞宗の晴れやかな笑顔に
長谷部は、勝てる気がしないと言わんばかりに、諦めの滲んだ溜め息を深く長く吐き出した。

「大丈夫、きっとわかってくれますよ。僕らの大好きな主さまですから」
「それぐらい言われなくても分かっている。……こっちの気苦労も少しは知れと言ってるんだ」





うん? いいや。
少し驚いたけれど、すとんと納得がいった、という方が僕にとっては近いかな。

なにせ、肥前くんと彼女は、とても近しいと思うことがたびたびあったからね。

おや、似ているようには見えないかい?
ああ、外見や性格の話ではないんだ。在り方、と言えばいいのかな。

肥前くんも彼女もね
少し危ういぐらい
自分の全部でぶつかってくるだろう?

まるで清水の舞台から飛び降りるかのように。
こうと決めたら、もう他の何も要らないと、身投げするみたいな全霊で、そう訴えてくるだろう。

だから、彼女のそんな在り方を見た時
僕はね、酷く既視感を持ったんだ。

そう、肥前くんは彼女の中に
過去の自分
あるいは理解できる痛み
を見たのではないか、と。

そんなところが、何よりも放っておけなかったのではないかな、と思ってね。
もちろん、僕の憶測に過ぎないのだけれどね。







「ありがとう、長義くん。手間を掛けさせたね」
「なに、それほど手間でも無かったよ」
「頼もしいね」

南海太郎朝尊は、封筒からそれを取り出して眺めた。

修正された契約書と、二通の封書
片方は譲渡契約。本丸に残り、次の審神者に託される道。
もう片方は再契約。政府に戻る形だ。

これによって肥前忠広は、政府側の干渉を大きく受け付けなくなる。
逆に言えば政府の庇護も受けにくくなるという意味だが、その諸刃は、正しく南海からの祝福だった。

期限は、彼女が没するその日まで。

「いつ必要になっても良いように、と思ってね」
「良いのか。貴方としては、不利な再条約だろう」
「『後悔しないかどうかじゃない。後悔してもいいと思えるか』」

南海太郎朝尊は目を閉じると、噛み締めるようにそれをなぞった。

「至言だね。彼にはいつも学ばされるんだ。いつだって、ずっとね」



この人のために後悔してもいいと

迷わず断言できるほどにまばゆい
心から湧き上がる勇気のこと、なのかもしれないね。

人を絶望から救う、愛というものは。


《彼女の愛と玉手箱》



《後日談:加州の形代傷》

加州清光が個別風呂から、大浴場に戻ってまもなくの頃だった。
いかにも「よ、偶然だな」と言わんばかりに風呂場に入ってきたのは鶴丸国永だった。
気付けば、普段なら賑わっててもおかしくない時間なのに、他には誰も入って来ない。
清光はそれに素知らぬふりをして、普通に髪を洗う。鶴丸は気付かれていると分かっていて、何食わぬ顔で並んで泡立てて体を洗う。

鶴丸がその傷を直視するのはこれが初めてだ。
身体中に、引き裂かれた痕、嬲られたような傷、火傷までびっしりだ。背中と胸が特にひどい。傷の無い場所を見つける方が難しいほどだった。
どれも、手入れで直らない形代傷。長年掛けて形成された、彼女の心の傷の証左だった。清光はそれを写し、この身に移した。

もちろん鶴丸はこの傷を見にきたのだろう。それを分かっていて、清光は長く髪を泡立てて目を閉じていた。

桶から水を浴び、髪を洗い終えると
けれども、どうしようもなく取り繕えないぐらいに、彼女の傷に痛ましげな視線が刺さったままだ。

清光は、スポンジにボディソープをつけると、ぽいっと放った。
反射的に受け取った鶴丸は、清光が背中を見せて「ん」と促すので、清光の無言に甘えて清光の背中を流し始める。

「ほとんどは抱きしめた時に裂けた傷なんだけどさ。移し傷にちょいちょい丸い火傷っぽいの混ざってんだよな。……たぶん、煙草押し付けた跡だよなあ、これ」

やんなっちゃうよな。

重たい溜め息が、湯殿に静かに沈澱する。

「そりゃ、いつかは、向き合わねえとかもだけど。さすがに、彼女がもうちょい落ち着くまで直視させたくねえかな」
……そうだな」

清光を手入れをすれば、嫌でも見ないといけなくなる。己の傷を。
幸い、規格外の量の霊力に満ち満ちたこの本丸では、ある程度の傷までは刀剣男士だけで手伝い札を使って手入れをすることが可能だが。
第一部隊で厳しい戦場に在る時や、あまりに傷が深すぎると話は別だ。

「山姥切には悪いけど、第一部隊の隊長はしばらく預けとくよ」
「わかった」
「ま、こればっかりは、演練禁止されててラッキーだったかもな。
……他人にどう見えるかぐらいは、流石に想像つくし」
「いいや」

傷だらけの背中へ向けて、見られていないからこそ。
手のひらを置いた鶴丸は、銀の長い睫毛を伏せて、いっとう柔らかく微笑んだ。

「きみの誉れ傷にケチを付けるような輩がいたら、二度と口が利けないようにしてやるさ」

皆、きっと同じ気持ちさ。

清光は背を向けたまま目を見張って、片眉をへの字に落とすように笑み崩れた。

「あー、つーことは、ラッキーだったのは他の連中の方ってか? 半殺しにされる前に止める方が大変じゃん」
「過激な連中が多いからなあ、彼女が絡むと」
「筆頭が抜かしてやがるぜ」
「ま、否定はしないぜ」
「少しは隠せよなー」

ゆらめく湯気の中、応酬が落ち葉のように柔らかく降り積もっていく。

功を労うように、ことさら丁寧に、桶の湯が背中に掛け流される。
気持ち良さそうに、肩をこきっと鳴らした加州は、「さーて」と立ち上がって、止める間もなく勢いよく扉を開けた。

戸を開けた途端、どさどさどさ、と折り重なる男士たち。潰れたままやっべ、という顔をする者、慌てて誤魔化そうとする者たちであっという間にカオスだった。
「あ、あー、これはだな」
「加州さんその」

皆反応を伺う。
風呂場の外で息を潜めて聞いていたらしき仲間たちの、一様にバツ悪げで心配そうな顔に。

清光は、肩をすくめて、あきれたように笑った。

「ったくもー。入ってこいよな。……心配かけて悪かったって」

その言葉を皮切りに、わっと清光の周囲は囲まれた。
加州さん、と言いながら目を潤ませて近付く者、照れくさげにバツの悪そうにする者、少しだけほっとしたように安堵を滲ませる者、反応は色々だった。
だが、共通していることがある。皆気を揉んで、清光と主を何より案じていたということだった。

「加州さんっ」
「い、痛いですか」
「んー、まあね。でも、最初ほどじゃねーから。俺はもう大丈夫」

目を潤ませた秋田と五虎退にそう声をかけてやりながら、乱や厚、前田、平野の頭をわしゃりと撫でる。

山姥切国広が前に進み出て、加州に向き合った。まっすぐな目で。
「第一部隊隊長、確かに引き受けた」
翡翠輝石の意思が誠実にそう告げる。清光も向き直って頷いた。
「あとは任せてくれ。あいつのそばにいてやって欲しい」
「おう」

堀川国広がすかさず加州の手を、両手で握った。その後ろで和泉守兼定が頼もしい笑みを浮かべて立っている。
「僕らにできることがあったら、何でも言ってください」
「ま、そーいうこった」


……?」
「どうした、大将?」

診察する薬研の問いに
胸に手を当てて、よく分からなさそうに

「わかんない、けど……何だか胸が温かくて」

「?」「 ?」という顔の彼女に
薬研は何もかも分かったように
「そうかい。そりゃあ良かった」
と穏やかに目を伏せた。


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