本編(翠風)軸で、重くしすぎない話の練習。ただ単純に「かわいい」で終われるような話を目指しました。
@Bombwooo
先生は、その日ひと言も喋らなかった。
いや、喋らないというより、喋らないと決めたらしかった。
こちらが呼べば一瞥する。必要なことにはうなずく。けれど、それきりだ。自分からは、まるでひと言も落としてこない。
機嫌が悪いから無視するだとか、そんな幼稚な真似をする人じゃない。だから何か、訳があるのだと思う。ただその訳がわからない。
「風邪でも引いたのか?」
先生は首を振る。
「じゃあ、喉が痛いとか」
先生は、また首を振った。心底面倒くさいと思ったが、俺が話しかけるとなぜか少しむっとした顔をする。まるで話しかけられる意味がわからないとでも言いたげだった。
べつに何か、怒らせるようなことをした記憶もない。昨日までは確かにふつうだった。軍議では積極的に意見を言っていたし、俺の問いかけにも丁寧に答えてくれた。意見が噛み合わなければ互いの落としどころが見つかるまで付き合ってくれた。
俺は顎をさすりながら首をかしげて、そこでようやく思い当たった。
それは夕食のときのことだった。やらなきゃいけないことが山積みで、考えなきゃいけないことは海のように途方もなくて。ふと「明日は誰とも喋りたくない」とつぶやいたのだ。はっきりとは覚えていないが、たぶんそんな内容だった。
もちろん本気じゃない。ただ何となく、俺と同じぐらい、下手をすれば俺以上に動いてくれているこの人を前に、疲れたとはとても口にしたくなくて。だから冗談めかして、そんなことを言った。
とるに足らない言葉だと思っていた俺は、先生の顔を見ていなかった。そのへんの、短くなった灯りを眺めていたように思う。
俺は窓際で所在なげに立っている先生のそばまで椅子を寄せる。ますます眉間の皺が深くなったが、気にせず口を開く。
「なあ、もしかして。俺が昨日言ったこと、本気にしてるのか?」
先生は唇をほんの少し引き結んだあと、ほどいて、うなずいた。
「あれは本気じゃないんだって。どうしようもなくなった気持ちを、ちょっと吐き出したかっただけなんだよ」
ここまで言っても、まだ口を開かない。ほんとうに頑固な人だと思う。そこが好ましくもあり、面倒でもあり。こんなときに黙り込まれると、こっちまで息が詰まる。
痺れを切らした俺は、もう一度呼びかける。『先生』と呼んでもだめなら、今度は少しだけ声音を変えてみる。
「……なあ、きょうだい」
ますます無愛想な口角が下がるのがわかる。でも、彼がそうするときは、大抵揺らいでいるときだ。気を抜けばきっと、顔に出してしまうから。そういうときほど、あからさまに不機嫌になる。だったらそんな意地、俺が引っ剥がしてやればいい。
「あれはさ、あくまで、みんなに対してはそういう日もあるってだけで。あんたにまで黙られると、さすがに困る」
しばらく間があった。
「……自分は、その『みんな』ではないのか」
ようやく落ちてきた低い声に、今度はこっちが言葉に詰まる。
「そりゃあ、あんたはべつだろ」
先生はそれきり何も言わなかった。ただ、さっきまであんなに不機嫌そうだった眉間の皺が、ほんの少しだけほどけた。これでやっと一件落着かと安堵したのも束の間で、扉を叩く音とともにヒルダの声がした。
「クロードくん、いまって空いてる? ちょっと相談したいことがあってー」
「ああ、入ってくれ」
すっかり気がゆるんでいた俺は機嫌よく返事をしてから、まずいと冷や汗をかいた。俺の頬に、冷たい視線が突き刺さる。振り返らずとも、彼がどんな顔でこちらを睨みつけているか手にとるようにわかる。
これはほんとうに、しばらく口をきいてもらえないかもしれない。
「今日は肉を切らしてるんだよ、ごめんねえ」
食堂のおばちゃんにそう言われても、先生は動かなかった。
いや、動かないどころか、壁に掲げられた品書きをひどく熱心に見つめている。まるで見ていればそのうち肉が湧いて出るとでも思っているみたいに。あまりに前のめりすぎて、周囲の人間が先生のまわりを一歩半ずつ遠回りしてゆく。それぐらい、異様だった。
後ろから「先生」と声をかけても、こちらを振り向きもしないまま、「ああ」とだけ返ってきた。なんだかそれが釈然としなくて、今度は強めに呼びかけてみる。けれど、返ってくるのは同じ温度、同じ抑揚の「ああ」だった。
「肉がないって、食堂のおばちゃんも言ってるだろ。今日は諦めろって」
これだけ声をかけても、先生は俺のほうを見向きもしない。そんなに肉が大事かと。
「ここで待ってても出てこないぞ」
「前は、出てきたが」
「前っていつだよ」
先生はようやく品書きから目を離し、少しだけ考えるように黙り込んだ。
「…………」
「ほら、覚えてないくせに」
何でも好んで食べるくせに、今日はやけにわがままを言う。
俺も肉は好きだから、ないと言われると正直複雑ではある。だから、先生の気持もはわかる。わかるけれど、だからといってこれはない。まるで餌が出てくるまで待つ、犬みたいだ。
先生が、ようやく俺のほうを振り向いた。どうやら声に出してしまっていたらしい。
「自分は犬ではない」
そう言い張る割に、二本の足はここへしっかりと根を張っている。これは本気で肉が出てくるまで待つ気なのかもしれない。
ちらと食堂のおばちゃんのほうを見やれば、何とも言えない顔をしている。が、迷惑だということはわかった。
「そうだな、犬のほうがまだ聞きわけがいいかもしれない」
先生はむっとした顔をした。でも、それだけだった。その顔をされると、こっちのほうが少しばかり居たたまれなくなる。俺はごまかすように、先生の顎の下を指先でくすぐった。
「今日のところは俺に免じて、諦めてくれ。な?」
愛想の悪い大きな犬はわずかばかり目を細めて、それからようやく首を縦に振った。