本編(翠風)軸で、様子のおかしいベレトとそれに困るクロード。
@Bombwooo
最近、先生の様子がちょっとおかしい。
べつに機嫌が悪いわけでも、仕事が雑なわけでもない。呼べば来るし、報告も簡潔だし、軍議でも必要なことはきちんと言う。
だから最初は気のせいかと思った。ただ、何となく落ち着かない。こちらに向けられる気配が、前よりかすかに濃い気がした。
たとえば、書類から顔を上げたとき。訓練の合間に息をついたとき。ふと視線をやるたび、彼はきっちりこちらを見ている。
しかも、先に逸らさない。
見返せば、そのぶんだけまっすぐ見返してくる。結局、先に口を開くのはいつも俺のほうだった。
「……なんだよ」
「いや」
返ってくるのはそれだけだ。それだけのくせに、視線が合う時間だけは、いやに長い。
一度や二度なら偶然で済ませられた。けれど、それが何度も続くと、さすがに落ち着かない。
しかもそのたび、彼はわずかにうれしそうにする。気のせいかもしれないが、そうとしか見えなかった。
その次に気づいたのは、やたら名前を呼ばれることだった。用件を言う前にも、言い終えたあとにも、一度で足りるはずのところを、わざわざ「クロード」と挟んでくる。
べつに、名前を呼ばれること自体は珍しくない。けれど、最近のそれは違った。
名前を呼ばれると、どうしても顔を上げてしまう。視線と違って流しづらい。おまけに先生は、反応を確認するみたいに、ちゃんとこちらを見ている。
これもまた二度、三度と続いたところで、俺はようやく眉をひそめた。
「……変なことを覚えてきたな」
そう言ってやると、先生は首をかしげた。意味がわかっていない顔だったので、余計にたちが悪い。
それでも、まだこの時点でははっきりしなかった。ただ変だと、調子が狂うと、それだけだった。
確信したのは、その次だ。
報告のために執務室へ入ってきた先生は、いつもより近かった。これもまた、最初は気のせいだと思っていた。
だが書類を渡すときも、説明のために机の上へ身を乗り出すときも、やはりわずかばかり近い。避けるほどではない。だが、避けないでいるには落ち着かない。
一度目は、我慢した。
二度目で、さすがに気になった。
三度目で、ようやく口に出す。
「……先生」
「何だ」
「近い」
そう言うと、彼は少しだけ考えたあと、やけに素直に答えた。
「近づくといいと聞いた」
「どこで」
「アビスで」
俺は深く額を押さえた。
「誰だよ、あんたにそんなこと教えたやつ」
「知らない」
知らないわけがあるか。絶対に覚えているだろうに、そういうところだけいつも雑だ。
しかも、ぜんぜん悪いと思っていない顔をしている。至っていつも通りだった。
いったい何なんだ。しかし、それ以上に引っかかるのは、そんなふうに妙な知識を仕入れてまで、こちらへ寄ってくる理由がわからないことだった。
報告が終われば、いつもの先生ならそれで終わりだった。必要なことだけ言って、最低限の挨拶を置いて、静かに出てゆく。
けれどその日は、報告が済んでも帰らなかった。机の向こうに立ったまま、何か言いたげにこちらを見ている。近い。しかも、やっぱり視線を逸らさない。
「……まだ何かあるのか」
そう聞くと、彼は一拍おいてから答えた。
「いや」
「いや、って。じゃあ何でまだいるんだよ」
すると彼は少しだけ考え、それから、ひどく何でもないことみたいな顔で言う。
「最近、あまり話していないから」
そこでようやく、俺は言葉に詰まった。
最近忙しかった。それは事実だった。軍議も書類も山ほどあるし、昔みたいに、用もないのに引き止めて軽口を叩く余裕なんて、確かになかった。
「……ああ」
思わず、そんな声が落ちる。
「まあ、最近は確かに忙しかったしな」
そう返すと、彼はわずかに目を細めた。それだけで、ひとまず納得したような、落ち着いたような顔をする。
たぶん本人は、それ以上のことを言ったつもりはないのだろう。
最近話していない。だから話したかった。それだけのことだと思っている顔だった。
なのに、そのあとも先生は時々、知らない誰かに教わった通りにこちらを見るし、名前も呼ぶし、少しだけ距離も詰めてくる。そのたび、俺は反応する。そして、目に見えて機嫌がよくなる。
ほんのちょっと長く目が合っただけで。名前を呼んで、すぐにこちらが顔を上げただけで。それだけのことで、何となく満たされたみたいな顔をする。
そこでようやく、俺は自分が思っていた以上に、ベレトという人間に甘いのだと知った。
いや、甘いだけじゃないのかもしれない。けれど。そこまで考えかけて、やめた。
考えなくてもよいことは、この世にいくらでもある。きょうだいだとか、そういう言葉の中へ押し込めておけば、わざわざ掘り返さずに済むものも。
けれど彼は、そういうところで納得しない。言葉ひとつでは足りないみたいに、目に見えるものを確かめたがる。
そこまでわかってしまうと、どうにも調子が狂う。何だかなと思うくせに、彼がうれしそうにするのを見ると、べつに悪い気はしない。だからなおさら、たちが悪かった。
だからといって、やられっぱなしも少し癪だった。
先生はたぶん、自分が何をしているのか半分もわかっていない。ただ、教わった通りに視線を向け、名前を呼び、距離を詰めているだけだ。効果があったとひとりよろこんでは、また実践する。
その結果こっちがどれだけ調子を狂わされているのかなんて、考えもしない顔をしている。振り回すだけ振り回しておいて、自分だけ満足そうにするのだからなおさら腹が立つ。
次に先生が執務室へ来たときも、やはり最初に俺の名を呼んだ。書類の束を机に置く前に、クロード、と。
反射的に顔を上げてしまってから、しまったと思う。彼はやはり、ほんのわずかに目元をやわらげた。
――またそれか。報告を終えて、もう話は終わりのはずだった。だが彼は机の向こうに立ったまま、帰ろうとしない。何か言いたげにこちらを見ている。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれよ」
そう言うと、彼は首を振った。
「いや」
「じゃあ、なんだよ」
「べつに」
べつに、で居座るな。そう言ってやろうとして、やめた。今日の彼はやけに機嫌がいい。こっちを見ている時間が長かったからか、それとも名前を呼んで、ちゃんと反応が返ったからか。理由はたぶん、その程度のことだ。
そこまで思って、面倒になった。いや、面倒というより、俺は、もっとはっきりと困っていた。彼がこういうことで満たされるのだと知ってしまったことに。それを見て、べつに悪い気がしない自分にも。
だから半分は意地だったし、半分はただの仕返しだったのだと思う。
「……ベレト」
呼ぶと、今度は向こうがすぐに顔を上げた。その反応の早さに、少しだけ気分がよくなる。たぶん、こういうのがよくない。
「何だ」
俺は椅子の背へ体を預けたまま、しばらく彼を見ていた。
何も言わない。ただまっすぐこちらを見返してくる。相変わらず、先に逸らす気配はない。
「そんなに人の気を引きたいならさ、」
口にしてから、自分で自分に呆れた。何を言っているんだろうなと思う。だが、もう遅い。
「これぐらいしてみろよ」
ベレトが目を見開いた。その顔がおかしくて、でも引っ込みがつかなくて、俺は立ち上がると机を回り込んだ。彼は逃げなかった。ただ、何が起きるのか測りかねている顔で、じっとこちらを見ている。
そのまま肩へ手をかけて、軽く引き寄せる。
半分は驚かせるつもりだった。あとの半分は、ほんとうにただの意趣返しだった。そんなふうにこっちの気を引いておいて、自分だけ無事でいられると思うなよ、ぐらいの。なのに、彼は抵抗しなかった。
一瞬だけ体をこわばらせたあと、ひどく素直に、こちらの腕の中で力を抜く。その反応に、今度は俺のほうが息を詰めた。
「……おい」
思わずそう声を落とすと、彼は鼻先どうしが触れそうな距離のまま、わずかに顔を上げた。
近い。近すぎる。自分で引き寄せたくせに、まともに目を合わせるのが妙に落ち着かない。彼はまだ、何が起きたのかを完全には飲み込めていない顔をしていた。
ただ、安心したみたいに静かだった。それがとにかくまずい気がした。
ああ、そうか。
この人は、まだこういうもののほうが信じられるのだ。
目が合ったとか、名前を呼んだら顔を上げたとか、手を伸ばせば触れられるとか。わかりやすいものをひとつずつ拾って、ようやく落ち着く。
そこまで思い当たってしまって、俺はひどく困った。困ったくせに、腕の中におとなしく収まっているこの人が満たされたようにしているのを見ると、悪い気はしない。
それどころか、うれしいとさえ思ってしまうのだから、始末に負えない。彼はしばらく腕の中でおとなしくしていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……こういう手もあるのか」
その言い方があまりにまっすぐで、俺はしばらく何も言えなかった。
正直、何がうれしかったのかも、まだちゃんとわかっていなさそうだった。ただ、目が合うより、名を呼ぶより、近づくより、ずっと確かなものが返ってきた。その手触りだけを、いまは覚えているのだと思う。
その顔が、思っていたよりずっと無防備だった。見てしまった以上、もう前みたいにはいられない。
そこまで考えて、俺は苦笑した。
やっぱり、こんなものは知らないふりをしていたほうが楽だった。
けれど、もう手遅れだった。
ベレトは俺の腕の中で静かに目を細めて、それからようやく、ほんの少しだけ笑った。