本編(翠風)軸で、クロードがベレトに仕返しをする話です。
@Bombwooo
「今夜は、あんたの部屋に行っていいか?」
そう声をかけた瞬間、先生は目に見えて息を詰めた。
普段は何を考えているのか読ませないくせに、こういうときだけ驚くほど正直だ。わずかに見開かれた目、ひとつ上下する喉仏、それから、短く何度もうなずく仕草。断る理由なんてどこにもない、と身体じゅうで言っているみたいだった。
「……そんなに驚くことか?」
「いや」
即答したわりに、先生は落ち着かない様子で視線を泳がせ、それから少しだけ早足になってその場を去っていった。
ああ、浮かれている。そこまでわかりやすいと、こっちまで気分がよくなる。俺は吹き出しそうになりながら、口もとを押さえた。
約束の刻限に部屋を訪ねると、案の定、先生は浮足立った空気を隠しきれないまま立っていた。待っていたのは見ればわかる。わかるのに、本人だけは平静を装っているつもりなのがなんともかわいい。
「何してるんだよ、突っ立って」
「……待っていた」
「だろうな」
笑いを噛み殺しながら近づくと、先生はわずかに居住まいを正した。
俺はそのまま腕に触れ、籠手の留め具へ指をかける。
「今日は、俺が脱がせたい。いいだろ?」
最初にその気だとわからせてしまえば、先生は案外おとなしい。いくらわざとらしかろうと、のこのこ引っかかってくれる。
先生は黙ったまま腕を差し出した。抵抗はない。されるがままだ。これから何をされるか、まだ深く考えていないらしい。相変わらず、まっさらな顔をしている。
少しだけ調子づく。肩口の留め紐をほどき、外套を脱がせ、それからいろいろ引っ剥がして、シャツ一枚の姿にしてやる。いつもなら逆でもおかしくないのに、今夜は何ひとつ言い返してこない。
「……座って」
寝台の端を叩くと、先生は大人しく腰を下ろした。
俺自身は上着だけを脱ぎ、それきりで済ませる。そのまま無防備な背へ回り込み、相変わらず華奢な身体を抱え込むようにして引き寄せた。
ぴたりと背中が胸に触れる。その途端、先生の呼吸がほんの少し速くなった。
「……クロード」
「うん?」
「どうして、君はそれ以上脱がないんだ」
やっぱりそこに気づくか。
俺は耳もとで笑った。だが、いまさら気づいたところでもう遅い。今夜は最初から、そのつもりで来ている。
「だって、今日は俺が仕返しする日だから」
そう囁いた途端、腕の中の身体がわずかにこわばる。すぐには振り返らない。ただ、その言葉の意味を測るみたいに、先生はしばらく黙っていた。
「……仕返し?」
「そう、仕返し。覚えがないとは言わせないぜ」
肩口へ頬を寄せる。少し骨ばっているのに、触れるとしなやかだ。自分よりいくらか高い体温が、薄い布越しにじわりと移る。触れているだけなのに、背中の筋肉は正直だった。
「俺がどれだけ振り回されてきたか、あんたほんとにわかってないだろ」
「自分が? 仕返しされるような、そんなひどいことはしていない」
おおむね予想通りの反論だった。
けれど、言い返しながらも抱え込んだ腕をほどこうとはしない。そのあたりがいかにも彼らしくて、俺は少し笑う。
「へえ。じゃあ、俺が勝手に翻弄されてただけって言いたいのか」
「少なくとも、いまの君みたいに面白がってはいない」
その言い方に、俺は目を細めた。なるほど、そこが不服なのか。
「まあ、面白がってるのは否定しない」
あっさり認めると、先生の肩がぴくりと動いた。
むっとしている。たぶん本気で、理不尽だと感じている。そう思うと、いっそう可笑しい。
「先生さ、」
わざと弾む声を出す。勝てそうだとわかった子どもみたいに、自分でもどうにも機嫌がいい。
「俺が部屋に行っていいかって聞いたとき、すっごい顔してたよな」
先生はすぐには返事をしなかった。返す代わりに、腕の中でわずかに身じろぎする。そこを逃さず、俺はますます楽しくなって、笑った。
「息を止めてさ。喉まで鳴ってた」
「……見すぎだ」
「そりゃ見るだろ。あんた、全然隠せてなかったし」
そう言いながら、肩口へさらに顔を寄せる。ふざけているようで、その実、逃げ道だけはちゃんと潰すやり方だ。
先生は唇を固く引き結んだ。まるで、身に覚えのない罪状を読み上げられている気分だろう。自分は何も悪いことをしていない。せいぜい、待ちきれなかっただけ。たぶん、そんな顔だった。
「自分は、そこまで浮かれてはいない」
「あんなに早足で帰っていったのに?」
「……それは、君が来るなら、少しは部屋を整えておきたかったから」
「ふうん。そういう言い方するわりに、顔はずいぶん正直だったけどな」
ばかにするでもなく、心底面白がっている声が出た。だって、ほんとうに面白くて、可笑しい。
その響きにむっとしたのか、先生はようやく強い調子で言い返す。
「……そうやって、いちいち人の顔を見て面白がるんじゃない。少なくとも、自分は君みたいに、人の反応を拾って喜んだりはしない」
「それはそうかもな」
笑うのもそこそこに、今度は耳もとへ声を落とす。さっきまでより少し低く、甘く、湿度を足した。
「だって、俺がどんな顔してても、あんたは平気で続けるもんな」
そのひと言で、先生はぴたりと黙った。
反射的に否定しかけて、言葉が喉に引っかかる。違う、と言い切るには、思い当たる節がありすぎたのだと思う。
「……自分は」
そう言いかけたところで、俺はそっと喉もとへ指を這わせた。触れただけなのに、続くはずだった言葉がきれいに途切れる。指先の下で喉が小さく動いたのがわかって、腹の底がむず痒くなった。
「自分は?」
「……っ」
「ほら。そういうとこだって」
ただ笑っているだけじゃない。あんたはいつもこうだったんだと、身に染み込ませるみたいな言い方になっていたのかもしれない。先生はますます眉を寄せた。
「自分は、ここまでではない」
「ここまでって?」
「……そんなふうに、わざと黙らせたりはしない」
「へえ。でも、あんたは結果的に俺を黙らせてたよ」
あまりにもあっさり言われて、先生はまた言葉を失った。
まだ自分は被害者だという顔のまま、その内側でほんのわずかに温度が変わる。理不尽だという気持ちは残っている。けれど、それだけでもないのかもしれないと気づいた途端、いっそう居心地が悪そうだった。
その変化を見逃さない。抱えたまま、耳のすぐそばで笑う。
「先生、いまちょっと納得しただろ」
「していない」
「でも、言われてみればって顔してたぞ」
「……していない」
否定はした。したが、さっきよりずっと弱い。
少なくとも、俺が何に腹を立てているかくらいは、もう先生にも見え始めているはずだった。
俺にだって、断る権利はある。受け入れるかどうかを決める権利も、止める権利も、最初からずっと手の中にあった。
ただ、先生がほしいものはほしいとまっすぐ手を伸ばしてくるたび、結局俺のほうが先に折れてきた。自分がどれだけ簡単に俺のやわらかいところを掴んで、好きなように転がしてきたのかを、先生はきっと一度も深く考えたことがない。
だから今夜は、その逆を少しだけ味わってもらう。
主導権が自分にないこと。触れたいのに、思うようには触れられないこと。何を言っても、俺の手のひらの上でしかないこと。
そういうもどかしさを、身をもって知ればいい。
先生の肩口へ顎を乗せたまま、俺はわざとやわらかい声を出した。
「どうよ、先生。これでもまだ平気でいられるか?」
先生の呼吸が、そこで初めて大きく乱れた。
不服も、抗議も、理屈も、いったん全部脇へ追いやられる。このまま終わらされるほうが、ずっと困る。頭より先に、身体がそう悟ってしまったらしい。
「……そういう聞き方は、卑怯だ」
「どこが卑怯なんだよ」
「答えがひとつしかないように誘導している」
まるで不当な尋問でも受けているとでも言いたげだった。
なのに、腕を振りほどくことも、離れろと命じることもせず、ただ理不尽な状況に眉を寄せているだけだ。
それが俺には可笑しくて、たまらなかった。
先生はほんとうに、こういうときだけ素直だ。隠す気があるのかないのか、もうよくわからない。
「でも先生、さっきからずっとそうだよな」
「何がだ」
「理屈では反抗するくせに、いちばん大事なところは全然否定できてない」
抱え込んだ腕に力を込める。それだけで、背中がぴくりと跳ねる。さっきまでならすぐに何かしら言い返していたのに、いまはその一拍が遅い。口より先に身体が反応するようになっている。
「……君が、そうなるように仕向けているからだろう」
「ああ、そうだよ」
あっさり認めると、先生はますますむっとした気配を見せた。
たぶんこの人は、自分が正々堂々と負けるのはまだしも、こうして言葉のすき間を縫うみたいに追い詰められるのは心底不本意なのだろう。そこがまた、子どもっぽくてかわいい。
「先生はさ、俺のことずるいって言うけど」
髪から覗く耳に頬を擦り寄せるようにして、わざとゆっくり言葉を置く。
「俺からしたら、いつも何食わぬ顔して好き勝手してるあんたのほうが、よっぽどずるいんだけど」
「自分は、好き勝手など」
「してるよ。あんたはしてる。自覚がないだけだ。そうやって無害そうな顔で近づいてきて、こっちがどんな顔してるかも見ないで、欲しいものは欲しいって全部持ってく。で、あとから『そんなつもりはなかった』って顔をする」
そこまで言うと、先生はしばらく黙っていた。白いうなじを汗が伝ってゆく。
否定するかと思ったのに、意外にもそうしない。抱え込まれたまま、ただひとつ息を吐いて、それから低く言う。
「……欲しいものは欲しいのだから、仕方がないだろう」
そのひと言に、俺は一瞬だけ言葉を失った。
胸のど真ん中に、まっすぐ刺さる。卑怯だと思う。そんな顔で、そんなふうに開き直られたら、こちらの言い分まで少し揺らぐ。
けれど、揺らいだところで引き下がるつもりはなかった。むしろ、突き刺さった刃はそのまま使える。
「へえ」
今度ははっきり笑う。
「じゃあ今夜、俺があんたにしてることも同じだな」
腕に少しばかり力を込める。逃げ道は残したまま、でも逃げる気は削ぐくらいに。
それと一緒に、胸の前で抱えたままの身体に、さらにじわりと熱を押しつける。
「欲しいから、こうしてる。仕方ないよな」
背中越しに、先生の息が詰まる。
言い返したいのに、言い返せない。さっき自分で口にした理屈が、そのままこちらの手札になって返ってきたのだから当然だ。
「君は、そうやって、すぐ人の言葉を使う」
「使えるものは何でも使うからな」
「ずるい」
「先生が先に言ったんだろ」
あまりにあっけらかんとした返しに、彼はとうとう言葉を失った。
いま自分は、まちがいなく転がされている。その事実はもう認めるしかない。認めるしかないのに、止められるほうがもっと困る。それが悔しいのだろう。
「先生」
「……なんだ」
「そんな不服そうな顔してても、身体のほうはだいぶ正直だけど」
「言うな」
「あっそ。言われたくないなら、ここで終わりにしてもいいぜ」
そのひと言だけで、先生の呼吸がまた浅くなる。
ますます気分がよくなった。こうして理屈を並べて抗っているくせに、最後にいちばん効くのはここなのだ。いつも自分がそうだったみたいに。
「今日はそこだけはちゃんと言ってもらうからな」
「まだ言わせるのか」
「当たり前だろ。そこを言わせるのがいちばん大事なんだから」
わざと明るく言ってやると、先生はひどく不本意そうに眉を寄せた。
自分はここまで執拗ではない、と本気で思っているらしい。そのくせ逃げないのだから、結局は同じだと俺は思う。
「……君は、ほんとうにたちが悪いな」
「知ってる。で?」
しばらく沈黙が落ちた。
そのあいだも、先生は振りほどこうとしない。ただ、抱え込まれた腕の中で少しずつ熱を増してゆく。転がされているとわかっていて、なお止められるほうがつらいのだろう。そう思うと、ひどく満たされた気持ちになった。
やがて、観念したような声が転がり落ちる。
「……このままは、困る」
「困る、とは」
「まだ、足りない」
短い言葉だった。けれど、そのひと言に隠しようのない欲求が滲んでいる。
「じゃあ、どうしてほしい?」
この人の心臓が動いていれば、背中越しに鼓動まで伝わってきたんだろうなと思う。そのことが、少しだけ惜しかった。
ずいぶん調子に乗っている自覚はあった。だが、ここまできれいに転がってくれると、もう止める気にはなれない。
「……違う」
掠れた声だった。
ここまで来て、まだ反抗するのかと思った。けれど、腕の中の身体は逃げようとしていない。むしろ、わずかに火照りを帯びたまま、言葉だけを探している。
「何が違うんだよ」
「……そうじゃない。してほしい、じゃない」
「へえ」
察しはついた。ついたけれど、ここで助け舟を出すのは結局いつもどおりな気がして、あえて待つ。
しばらくして落ちてきた声は、さっきまでよりずっと低かった。
「……したい」
「うん」
「君に、触れたい」
勝った、と思った。それなのに、そのひと言は思っていたよりずっと深く、俺の胸に届いた。
抱え込んだ腕に満足げに力を込め、その体温の移る耳もとで笑う。
「よく言えました、先生。ほら、これがいつもの俺だよ」
先生は何も答えない。悔しそうに唇を尖らせ、それでも振りほどきはせず、体重を預けてくる。抱え込んだ腕にもう一度力をこめると、熱を帯びた息が抜けていった。その従順さに、今夜ばかりは助けられた。
ああ、やっぱりこの人も、止められるほうがずっと苦手なんじゃないか。そう思うと、どうにも笑いをこらえきれなかった。