@itou_888
ザアザアと降り続く雨による降水量は、近年でも稀にみるものしい。らしい、というのは流し見ていた情報番組で耳にした程度だからだ。しかし、チラリと向けた視線の先にいる男も雨の量なんかには興味がないだろう。会話の取っ掛りとしては弱い。
「五条」
「はい」
結局、楽屋内禁煙の貼り紙がされている壁の近くに腰かけて煙草をふかしながら、後輩の名を呼ぶにとどめた。芸歴でいけばこちらが先輩にあたるものの、世間的認知度は後輩である五条の方が高い。かわいくない。そんなことを考えながら、俺はあることを言うか言うまいか悩んでいた。
年季が入った楽屋の煤けた壁にかかる古い時計が何周も秒針を動かす。めいっぱい時間を費やして、ようやく決心がつき、重々しく口を開いた。
「お前、変なモンが見えるって本当か」
「なんですか、コークン兄さん。藪から棒に」
ノートにネタをしたためながら五条が聞き返してくる。
血の繋がった兄弟ではない。けれど、先輩にあたる人物を敬う意味で、兄さん、姉さんと呼ぶのが事務所の習わしだった。
例外でなく、五条も俺のことを兄さんと呼ぶ。もっともコイツは俺のことを敬っているわけではない。習慣に特別な関心がないからと適当に合わせているだけだ。
この後輩の関心ごとは極々狭い範囲に限られている。その殆どを引き受けているコイツの相方が、いいかい、と社会との関わり方を懇々と言って聞かせているのだ。だから今回も半ばおざなりではあるものの、俺の言う「変なモン」が何なのかを尋ねたのだろう。
「変なモンって言ったらお前、そりゃ」
ぶるりと体を震わせ、視線のみで周囲を警戒する。楽屋には五条と俺しか居ない。
「そりゃ?」
雑に問いかけてきた五条の声に背中を押され、意を決して言葉にした。
「そりゃあ、お前、コレだよ」
両の手を前にだらりと垂らして、いわゆる幽霊の格好をしてみせたが、五条はノートから顔を上げていなかった。一度咳払いをする。それでも顔を上げない五条に、これ以上の反応は得られないと諦めて幽霊だよと口に出した。
「はあ、幽霊ですか」
「待て待て、信じてないな? 俺も信じてなかった。いや今も半信半疑だ。でもやっぱり、見たんだよ」
「へえ」
「アレは生きた人間じゃなかった。俺には分かる。なんせ、なんせっ、」
脳内でぼんやりとあの日見たモノが形を現す。
「首が無い?」
それより早く、俺の言葉を遮り五条が言った。
体がビクリと跳ね、思わずパイプ椅子から飛び上がった。信じられなかった。何故それを知っているのか、と目の前の後輩を凝視する。
暫くして、指に近づいた煙草火の熱で我に返り、咄嗟に振り落とした吸殻を足で踏みつけて消火する。コンクリートの床に黒い灰の筋が伸びていくが、そのままなにかに駆られたように何度も何度も執拗に吸殻を踏みつけた。
「どうして分かるッ!? まさか五条も見たのか」
「俺は見てませんけど」
ネタの書きつけが終わったのか、丁寧にノートを閉じた五条は少しだけ目尻を下げて表紙の一部分を撫でた。そこには彼らのコンビ名と、それぞれの名前が書いてある。五条悟。そして、夏油傑。撫でていたのは相方の名前だ。
「ウチのが何か言ってたなって」
五条は相方である夏油のことを、外では「ウチの」と呼んでいた。他にもそう呼ぶ芸人はいることにはいるが、コイツの場合には妙な執着を感じてしまう。
それはいいとして、有力な情報が得られた。身近な人間が幽霊について何か知っているかもしれないのだ。
「夏油は、そういうことに詳しいのか」
「たぶん」
「会わせてくれ! 話がしたい。アイツ今日は、」
「別件で出てます。まあ、兄さんがそこまで言うなら、ウチのに聞いてみますよ」
話の口実になるし、と言いながら端末を取り出した五条は、足を組み、目の前で夏油へ連絡をとり始めた。決して褒められた態度ではなかったが、夏油がいる前ではやったことがないので注意されていないのだろう。コイツは相方に諌められたことのない言動に関しては、好き勝手自由にやっていいと思っている節がある。
何度かのコール音が漏れ聞こえた、数秒後。
「うっわ! 出るの早すぎだろ」
いくぶんか弾んだ声で五条が通話を始めた。俺と会話していた時とは全く違う声色だが言及しない。五条の周囲の人間にとって、相方への態度とその他への態度が違うことは、もはや当たり前だった。
「今いける? はは、サンキュ。んー、そっちどう?」
普段と変わらない態度をとっているつもりなのだろうか。実際のところ、仕事現場ではここまであからさまではない。ことプライベートにおいてのみ発揮されるらしい変化は生々しかったが、本人達は気にしていない様子だった。
「ほら、首がさあ。そうそう、言ってたじゃん。なんかコークン兄さんが見たらしくてえ。はあ? なあに笑ってんの。別に? オマエが言ったこと全部覚えてるわけじゃねーし」
くすくすと笑い、上機嫌そうに目を閉じて通話先の声に耳を傾けている五条には、俺の必死な表情も祈るように組まれた手も映っていないのだろう。映っていたとて何か変わるとも思えない。
そこでふいに、五条が目を開き、形よい眉がひそめられた。
「え、オマエ、だって、今日はこれから……明日だって、うん、うん。でも、うん……」
ひそめられた眉は次第に下がっていき、しょんぼりと寂しげな雰囲気を帯び始める。それから少しの間、話を続けていた五条は不満気な表情で、約束だからなと夏油に向かって三度ほど念を押した後、通話を終えた。
「……明日の午前九時。五丁目にあるプロダクション呪力舎寮の二階。階段から一番遠い角部屋。手土産はいらない」
「えっ」
「ウチのが話聞くって言うから、そこに来てください。俺はもうあがるんで」
「お、おう、えっとありがとな?」
流れるように要件だけを伝える五条へ慌てて礼を言う。楽屋の戸から出て行こうとしていた五条は、ちろ、と視線を向けると下唇を尖らせた。
「やっぱり手土産ください。カトーさんとこのモンブラン」
それから、こちらの返事を聞かないまま、足早に去って行った。
翌日。昨日から続く雨は、勢いこそ弱まったものの、まだ降り続いていた。世界的に有名なパティシエが営む、カトーなんたら、という長く洒落た名前の店で、モンブランの他に美味そうだったシュークリームを買った俺は言われるがまま件のコーポの前に来ていた。
「ここ、だよな」
見るからに築年数の経っていそうな寮だった。そこそこ規模が大きい事務所の寮というよりも、昔ながらのコーポといった印象だ。呪力舎にこんな寮があっただろうか。
建物は二階建てで、横に四つほど部屋が並んでいる。上階へあがる階段は赤錆びており、何かの拍子に壊れやしないかと不安になるほどだった。
飾り程度に付いているひしゃげた手すりに掴まり、一歩一歩慎重に足を進めた。なんとはなしに数えた段数は十三段。薄気味が悪いと思いつつも、階段をのぼり終えると指定された部屋の前に立った。
見るからに古く、機能しているのか分からないブザーを押す。暫くして軽い足音が聞こえてきたかと思えば、目の前にある玄関の戸が軋んだ音と共に開いた。
「お待ちしていました」
今をときめく大人気芸人、祓ったれ本舗の片割れ、夏油だ。
上下黒のスウェットに、普段は一つにまとめられた黒髪をおろしたハーフアップスタイル。両耳のピアスと、顔に浮かぶ笑顔だけはいつも通りだった。自分よりも大柄な相手であるのに、不思議と威圧感を抱かせない後輩だ。
あがってください、と言われるままに狭い玄関で靴を脱ぐ。自分のものを含めて三足並んだ靴を見ても特別思うところはなかったが、三足目の持ち主はすぐに分かった。
「コークン兄さん、そこに腰かけてください。申し訳ないです、狭くて」
「や、構わねぇけど……」
五条だった。玄関とひと続きになっている台所を抜けた先にある和室。居住スペースであろう場所に五条がいる。座卓を挟み向かい合って座った夏油の後ろ、年季が入った本棚と夏油との隙間に、丸めた座布団を枕にした五条がいた。こちらに背を向けているので顔は見えないが寝ているのだろう。
「お前らって同じ部屋に住んでるんだっけ」
「いいえ。でも昨日は泊まるって言って聞かなかったんです。なんでも、美味いモンブランが届くからって」
「こンの、コイツは」
「はは、すみません」
呆れながらケーキの箱を渡すと、本当に届いた、と夏油が笑った。台所に置いてくると断って夏油は席を外す。手持ち無沙汰になり、室内を見渡した。
物は多いが、整頓された部屋だ。八畳ほどの広さにいくつかの本棚と、そこそこ値段のはりそうなコンポが置いてある。旅行好きなのか、異国情緒溢れる置き物も飾られていた。使用用途が分からない木箱や、複雑な模様の壁飾りなどもある。寝具の類いは見当たらないので、押し入れに収納されているのだろう。
物珍しさにきょろきょろしていると、チクリと刺すような視線を感じた。視線の主となりそうな者はいない。五条は寝ているはずだし、夏油は台所だ。それに視線は、すぐ近くから感じる。
「どうかしましたか」
「いや」
麦茶を持って現れた夏油に首を振った。気味の悪さを払おうと、よく冷えたそれを一気に飲み干す。
「それで、コークン兄さん。私に話があるとか」
グラスについた水滴を見つめていると、向こうから話を切り出してくれた。夏油にはこういうところがある。相手の望む行動を察するような、そういう人間だった。俺は促されるまま、ここに至るまでを語り始めた。
*
ひと月前のことだ。
ゲストとして出演した情報番組の帰り。機材トラブルで時間が押し、想定された終了時刻よりも二時間ほど遅くに解散となった。さりとて、こちらのスケジュールが詰まっているわけでもない。コント集団Qとして売り出して長いが、今はピンの仕事がポツポツと入っているくらいなのだ。
他の出演者がばたばたと去っていくのを横目に見ながら、いつもように帰り支度をして控え室から出ようと戸を開いた。何故か廊下が暗い。
照明が落ちている様子はなかった。天井を見上げれば電灯はついている。けれど暗い。具体的には左右の廊下の端が見えないほど暗い。
初めはそれを、照明の故障だと考えて気に留めなかった。今回使用したビルは建設から相当年数が経っている。新しいビルを隣接して建てたとかなんとかで、このビルは普段ほとんど使われていないのだ。そんな場所だから整備費用もケチられているのだろう。シケてるな、と思いつつ廊下へ一歩足を踏み出す。
瞬間、ぞっと寒気がした。取り返しのつかないことをしてしまったかのような悪寒が背筋をはしったのだ。戸に手をかけ、足を出した姿勢から動けない。自分でも分からない理由で体を動かせなかった。
同時に刺すような視線を感じた。
誰かに見られている。先ほど控え室から廊下を覗いた時には人通りなどなかったはず。けれど、見られていると分かる。誰に、いや何に見られているのだろうか。
恐怖で凍りついた耳に、突然、着信の音が聞こえてきた。ズボンのポケットに入れていた端末だ。強ばっていた体の力が抜けて動けるようになる。たぶん、バイエルさんだろう。ほっと息をはき、とりあえず控え室に戻って電話に出た。
返事がなかった。
通話が切られているわけではない。電話の主は通話口の向こうにいるはずだ。けれど何も言葉を発しなかった。慌てて確認した画面には非通知の文字が表示されていた。
ぞっとする感覚が戻ってくる。先ほどまで明るかったはずの控え室が、やけに暗く感じた。額に汗が滲み、端末を待つ手が痺れている。このままでは良くないと通話を切り、意を決して廊下へと飛び出した。
端末の灯りを懐中電灯代わりにして歩く。照明は灯っているのに何故か暗い廊下を進む途中で、声をかけられた気がした。立ち止まって振り向くも、廊下に立つのは己のみだ。聞き間違いにしては、はっきりと聞こえた。
気味が悪かった。一刻も早くこの建物から抜け出したいと、ほぼ走るような速度で廊下を移動する。そして気づいてしまった。
成人男性がかなりの速さで移動しているのだ。とっくの昔に廊下の端へたどり着いてもおかしくない。だというのに、自分はまだ真ん中辺りにいる。
気づいた瞬間、どうしようもないほどの恐怖が全身を襲い、喉を締めつけた。縊り殺される直前の鶏のような声が漏れるだけで、悲鳴も出やしない。早くここから脱しなければ。足を動かし続けなければ。必死の思いで前進する視界の端に、一つ、戸の開いた個室が映った。
途端、あれほど進まなかった足がするすると動きだす。このまま行けば廊下を抜けられるだろう。頭では分かっているのに視線は進むべき廊下の先ではなく、壁側を向き続けた。戸が開いている個室を覗き込まんとばかりに、首ごと壁を向いて進み続ける。
「……ぁ」
ようやく声が出た。
ぽっかりと暗闇が口を開けたような個室の奥。通りすぎる間際に見えたのは、首のない人間がゆらゆらと佇む姿だった。
次の瞬間、先ほどかけられた声と同じものが耳元で何かを囁いた。それを認識するのと、足が廊下先の連絡通路を踏みしめるのとは、どちらが速かったかは分からない。ただ、気づいた時には足は連絡通路を踏んでおり、また辺りは見覚えのある程度には明るく、背後の廊下にも同じように照明が灯っていた。
数メートル離れた楽屋の扉は開かれたまま、内側から煌々とした灯りをこぼしている。それだけだった。
*
あの時の恐怖がまざまざと思い出され、全身を震わせる。語り終える頃には、額は汗でぐっしょりと濡れていた。額だけではない。年々大きくなっていく体格に合わせたグレーのポロシャツも襟元やら背中やらが濡れて濃く変色している。
対する夏油は落ち着いた表情で、ふんふんと話を聞いており、こちらが口を閉じたのを確認して問いかけた。
「終わりですか?」
「お、終わりだよ」
「そうですか」
あれほど怖い思いをしたのにも関わらず、夏油が全く怖がっていないことに僅かながら不満を覚える。怖がるどころか、関心も薄そうだ。
「こっちはな、そこで寝てる奴から、夏油なら首のない幽霊について知ってるって聞いたんだよ!」
「それは間違ってはいないんですが」
珍しくキレの悪い言い方をしながら夏油が続ける。
「コークン兄さんが見たのは別のモノです」
「は?」
今さら何を言っているのだろう。コイツは話を聞いていたのだろうか。困ったように頬をかく夏油は眉を下げると、首はあるんですよと言った。
「コークン兄さんが見たモノには、ちゃんと首があります」
「な、なかった」
「あります。身に覚えがありませんか」
「ない、なにも。なにもっ」
「どこからか刺すような視線を感じる」
ひゅ、と音を鳴らしたのが自分の喉だと気づくまでに時間がかかった。
「耳元で囁かれたと言いましたね」
両肘を机につき、手を組んだ夏油がじっとこちらを見つめてくる。
「おかしいと思いませんか」
先程から煩いのが、自らの呼吸音だと気づく。上手く息が吸えず、ひゅうひゅうと喉が鳴るのだ。そんな姿にとどめを刺すように夏油は口を開いた。
「首がないなら、目も口もあるはずがない」
『せいかーーい』
ひゅっと息が詰まる。ひび割れた声に続けて何かが弾ける音が聞こえ、それとほぼ同時に意識を失っていた。
「……さん、コークン兄さん、お時間大丈夫ですか」
「ッは!?」
ぽんぽんと軽く肩を叩かれて目が覚める。見知らぬ天井に驚いて身を起こすと、こちらを覗き込む夏油とぶつかりそうになった。
水飲みますか、と聞いてくる夏油に首を振り、周りを見回す。自分が何処にいるのか何故ここにいるのかを必死で思い出そうとした。
「つかれてたんですね」
ガラスコップに水をくんできた後輩は、眉を下げて言った。
「コークン兄さん、深夜番組の出演が決まってからあまり眠れていないんじゃないですか? 昼番組にも呼ばれていたみたいですし」
「そうそう。こんな狭い部屋で寝落ちるんだから、相当キてますって」
「悟。文句があるなら来なくていいよ」
「ちがう! そういうのじゃねえじゃん!」
シュークリームを食べながら、キャッキャと騒がしいのは五条だ。シュークリーム? そうだ。今日は先日体験した奇妙な出来事について夏油に相談しに来ていて、それからどうなったのだったか。
「まあ、眠れてないから何かと勘違いしたってとこでしょ」
「寝不足って怖いですね。でも睡眠は馬鹿にできませんから、気をつけてくださいね」
二人からそう言われると、そんな気がしてくる。もとより心霊現象など信じていない。寝不足が影響した勘違いであると考えた方が自然だろう。柄にもなく狼狽えてしまったと恥ずかしさを覚える。
「バイエル兄さんは何て言ってるんですか」
「信じてもらえないだろうからバイエルさんには相談してないけど、気のせいって言うだろうな」
「私たちも同じ意見です。安心してください」
「そ、そうだよな。勘違いだよな」
理由は分からないが、素直にそう思えた。誰かに相談できたからか、肩の荷がおりたような軽ささえ感じることも理由の一つだ。
なにはともあれ、長居してしまった後輩の家から退散しようと立ち上がった俺の後ろを、五条が着いてきた。
「あれ。お前も帰るのか」
「帰りませんけど」
「あっそ」
狭い狭いと言っていたのに、この巨体が二つ、どうやって横になれるのだろう。浮かんだ疑問は口にせず、五条に軽く手を振って階段に足をかけた。
「そうそう」
振り向きざまに何かを投げよこされる。慌てて両手で受け取ったのは、小さく折りたたまれた長方形の紙だった。その一面には家内安全と書いてある。
「コークン兄さん、お土産のセンスよかったんでオマケです」
ごちそーさまでした、と笑う顔が見えなくなるまで、俺は御守りと錆びた戸を見つめたまま動けなかった。
やけに響く音をたてて戸が閉まる。夏油は口うるさく注意してくるが、少々煩くしても構わないだろうと五条は思っていた。
「もう少しそっと閉められないのかい」
「別にいーじゃん。このボロ屋敷、貧乏芸人しか住んでないんだし」
築四十四年二階建て八部屋のコーポは、事故物件として有名だった。
コークンは知らなかったようだが、凄惨な過去を持つ建物にあえて関わろうとする近隣住民はいない。格安で売り出された物件を呪力舎が寮にするために購入したのだ。
したがって、五条たちはこのオンボロ寮の夏油の部屋でネタ合わせをしていた。いくら練習しても一般人から苦情がこないところがメリットで、デメリットはちょっとしたことで家のあちこちがギシギシと喧しいところだ。ちなみに、五条は別のマンションを借りている。
「今回も違ったな」
五条の言葉に頷いた夏油は、積まれた荷物の上から木箱を取り出して机の上に置いた。途端、五条の表情が曇る。
「君はいつもコレを見る度に凄い顔をするね」
「そりゃそうだろ」
板を上にずらして開かれた木箱の中には萎びて変色した玉葱のようなものが入れられていた。よく見ると、その玉葱から生えているものが根ではなく毛であった。黒く長い髪が絡みつくように生えているのだ。
「私は、コイツをよく知らないから」
軍手をはめた手で玉葱、もとい木乃伊の髪を掴んで取り出した夏油は首を傾げてそれを覗き込んだ。ぶらりと揺れる様は、干し首と呼んでもいいかもしれない。
「とはいえ、私の首だったモノではあるんだ。今も似てる?」
「似てるとか、似てないとか、そういう話じゃねえ」
「そうか。私の知らないところで、私の死体を使っていた古い術師の君はどう思うかな。私たち、似てた?」
かつて、この国では呪術師と呼ばれる存在が人知れず呪いと戦っていた時代があった。現代に蘇った強大な呪いに対して、彼らは奮闘し、敗れ、最終的に勝利を収めた。
当時の記憶があると言ったって誰も信じないだろう。信じあえる相手が一人いればそれでいいと五条は思っている。
前世と呼ばれるような世界において、五条も夏油も呪術師であった。共に生き、離れ、そして再び相見えた。互いが唯一無二の存在だった。それは今も変わっていない。
記憶をもちあわせた二人は、しかし、その記憶と関係なく心惹かれあって芸人なんてものをやっている。
どうしてそう言い切れるのかというと、前世の記憶とやらを覚えていたのは四、五歳までで、成長と共に一度さっぱりと忘れたからだ。五条たちが再び思い出したのは、漫才の大会で優勝した直後の控え室だった。
無意識下での影響はあったかもしれない。けれど、そんなものがなくても、きっと二人は出会って共に居る。
というよりも、記憶なんてなかった方がよかったのかもしれない、とは五条の考えだ。何故なら、夏油が変なモノに興味を持ってしまったからである。
彼らが呪術師であった頃。
道を違えた末の夏油を、五条が自らの手で終わらせた。自分以外が夏油の幕引きを担うなんて考えられなかった。だから、そうした。
しかし、誰にも邪魔されない二人だけの最期の時であったはずのそれは、一つの悪意によって踏みにじられた。とある呪術師が夏油の死体を奪い、あまつさえ乗っ取っては、古の呪いを呼び起こすといった悪行の限りを尽くしたのである。
呪いとの戦いが最終局面を迎えた際、件の呪術師を葬るよりも夏油の死体を弔うことに重きを置き、五条自ら手を下す予定だったのだがそうはいかなかった。紆余曲折あり、呪術師は別の者によって首を切られてこの世を去った。その筈だった。
「趣味わりいって。捨てろよ」
「捨てて、別のことに使われても嫌じゃないか?」
「んー、あー……まあそうなんだけど」
「これってやっぱり呪物化してるのかな。コレがあると、変なモノが寄ってこないんだよね。たとえ寄ってきても、さっきみたいに消し飛ぶ」
指でツンツンとつつかれている木乃伊。コレこそが、夏油の死体を奪い、最期には首を切られて絶えた呪術師の成れの果てだった。遺体を奪われた前例があるために、木乃伊を捨てて別のことに使われそう、という想像を強く否定できないでいる。
「死後のことだから、私はコイツと全く面識がない。でも自ら呪物になりかねない術師だったんだろう」
「知らねーって。雑巾野郎のことなんか」
「雑巾? 額に縫い目があるから? 今はくしゃくしゃだからパッと見じゃ分からないな」
一通り眺めて満足したのだろう。夏油は木乃伊を木箱に戻すと軽く手を合わせてから、また荷物の上に置いた。
五条の愛すべき相方は、木乃伊と出会ってから、その身体を探している。
見つけてどうするのかと聞いたところ、元を辿れば自分の体だし後始末しようかな、などと言うのだ。首を持っていれば、自ずと身体が寄ってくるという考えらしい。
木乃伊の正体を教えなきゃよかったという後悔と、いずれにせよ夏油から教えて欲しいと言われれば答えていたのだろうなという確信がある。
それに、五条自らが夏油の身体を弔えなかったこともほんの僅かに尾を引いていた。だから五条は木乃伊に関しては夏油に強く言えないでいた。
「つーかさ、芸能界に存在するとは限らないじゃん」
「でも、アレは芸人の呪術師だか呪術師の芸人だかと漫才をしていたんだろう。それこそ油断するくらいには没頭してたとか。想像つかないけれど、手を下した乙骨が証言するんだから間違いないはずだ。縁のある場所を漂っている可能性はあるさ」
五条は今世でも自らの遠縁として生まれた少年を思い出した。余計なことをと言いたくなるが、夏油が知りたいと望み、五条が関与できなかった部分の補足をしてくれたのだ。感謝こそすれ責めることはできない。そう思おうとしている。
「やっぱり、身体を探すのは反対?」
未だに立っている五条と、座ったままの夏油。一般的には塩顔のイケメンと言われ、可愛らしいと称される見た目ではないはずの男がする上目遣いを見た五条は、下唇を尖らせ目を細めて精一杯不服そうなフリをする。そうしないと、むずがゆい思いのまま余計なことを言ってしまいそうだった。
「オマエが身体探しのために俺を置いていくって言うなら反対だけど、俺を巻き込んでやってる分にはいいよ。最後まで付き合うつもりだから」
「悟は優しいねえ」
「はあ〜?」
「そして面倒見もいい」
決してそうではない自覚のある五条が否定するよりも前に、夏油が自信に満ちた面持ちで口を開いた。
「コークン兄さんにご実家の御守りを渡しただろう」
「シュークリーム美味かったし」
「フフッ、そういうことにしてあげる。うちの寺でも厄除けはするけど御守りは売ってないな。悟の家の御守りと、寺の御祈禱ってどちらの方が効果あるんだろうね」
「さあな。どちらにせよ、力も何もなくなった俺たちができるのは、呪具の出涸らしに頼るか、毒を以て毒を制する真似事くらいだろ」
「悟の家の呪具はまだ効果を保っていて凄いね。さすが術師を生業にしていた御家だけある。私のところも、ごく一般的な寺だから御加護みたいなものはあるかもしれない。でも、最近は帰ってないから分からないな」
何の因果か、五条は再び五条の末裔として、夏油は寺の子として生まれた。
五条が幼さ故に前世だのなんだのと話したとて、あまり騒がれはしなかったのだが、夏油の場合は違った。前世の記憶がある、つまるところ解脱のための輪廻転生をしていると解釈された夏油は、修行と悟りへの道を着々と固められていた。
けれど、こうして芸人になる道を選んだために現在は少し距離を置いている。
「傑の親御さん、優しいけどね。宗教家にしては理解あるし。前はこっちが術師だったから、そういう奴らとは折り合い悪かったけど」
「毎回不思議なんだよな。悟とうちの親が仲良いの」
首を傾げる夏油に近づき、五条が真横に腰かけた。狭い上に物が多い部屋では、近づこうと思えばぴったりと寄り添うことができる。その点を気に入っている五条は都心にあるマンションよりも、夏油の住む寮に居座りたがった。
「いいじゃん。オマエの身内は俺の身内みたいなもんだよ」
「相方だからっていうんだろう。まあ、そう、なるのか?」
「なるなる」
適当に夏油を丸め込んだ五条は、肩に腕をまわして次のネタについて話し始めた。片手で鞄を引き寄せ、手製のノートを取り出すとちゃぶ台の上に乗せる。昨日も、遅くまで仕事をしていた夏油の帰りを待ち、ノートを覗き込んではネタ合わせをしていたのだ。
五条にとって、そういう時間が何よりも大切だった。舞台に立って漫才をするのも楽しいが、二人で何をするのか考えて話し合っている時間が、お互いの意見を擦り合わせて一つのものを作り上げる時間が、五条の心を満たしていく。
だから。
五条はトイレに行くと立ち上がった夏油を見送りがてら、自身のズボンのポケットを覗き込んだ。そこには、消し炭になった紙くずのようなものが入っている。
「傑〜! ゴミ捨てていい?」
いいよ、と聞こえてきた声に返事をして片方のポケットの中身を全てゴミ箱に入れた。捨てられた紙くずには辛うじて読める文字で「安全」だったり「除け」だったり「守」だったりが刺繍されている。これらは、五条が持ってきた御守りの残骸だった。
「あと十三個か。じゃあ半日ちょい? さっきあの人にやらなきゃよかったかな」
夏油の周りでは不可解なことがよく起きる。
忌々しい木乃伊が手に入ったのだって、その一つだろう。もう呪霊操術を身に宿しているわけではないのに、頭を垂れるように呪いの残りカスのようなものが寄ってくるのだ。本人には影響がないようだが、五条にとってはそうではない。今生では無下限呪術を持たないため、他人よりも耐性があるとはいえ影響を受けてしまう。
故に、手製の御守りなんかを持って夏油のそばに居る。
それだって一時間に一つの速さで駄目になってしまうが、短いながらも効果的な対処法があるとも言えた。生まれた時は面倒な家に舞い戻ってしまったとウンザリしたものだが、夏油の近くに居るためには都合のいい家柄だと認識を改めている。
「悟ぅ、また紙を入れたまま洗濯したのかい」
「覚えてなーい」
「普段しっかりしてるのに、変なところでズボラだね」
「その分、傑がしっかりしてるからちょうどいいでしょ」
「調子いいなあ。これから夕飯の材料を買いに行くけど、悟も来るかい? 留守番してる?」
「行くに決まってんじゃん!」
五条は元気よく立ち上がり、玄関で靴を履く夏油の後ろに忍び寄ると、両腕を目の前の肩に乗せて体重をかけた。重たいよ、と笑う夏油に、五条も笑いかけてやる。
「こんくらい重たくねえだろ。つかれてんじゃね?」
笑いながら連れ立って部屋を出る五条のポケットで、また一つ紙屑が生まれた音がした。
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