本編(翠風)軸で、ラブコメ。ベレトだけ単独、クロ+ロレ、ヒル+マリのペアエンドが前提で、統一王国の王になったベレトが自分を置いていったクロードを追いかける話です。
ローレンツは政務官としてベレトとは一線を引いて接している、という設定にしています。
@Bombwooo
その話は、ほんのついでのように出た。
東方との往来が以前よりずっと増え、使者の出入りも珍しくなくなったころだった。
書類の確認をひとつ終え、もうひとつに手を伸ばそうとしたところで、婚姻だの、伴侶だの、そういう単語が耳に入った。
誰と誰を結ぶのが妥当か。どの家なら利があるか。王という立場にある以上、いつかは自分にも無縁ではなくなるのだろうと思う。そういう話だった。たぶん。
べつに、珍しいことではない。戦が終わっても、人は国を治めてゆかなければならないし、そのための手立てのひとつとして、そういう話があるのもわかる。わかるのだが、そのとき自分は、なぜかそこで手を止めてしまった。
紙の上の文字が、急に遠くなる。
婚姻、伴侶、縁組。どれも意味は知っている。知っているのに、その日だけは妙に耳に残った。引っかかる、というほど鋭いものではない。ただ、喉の奥に小さな棘が刺さったように、飲み込んでも消えない。
その理由がわからないまま、自分はしばらく黙っていたらしい。気づけば、すぐ傍らにいたローレンツが、怪訝そうにこちらを見ていた。
「陛下」
「……いや」
何でもない、と言おうとしてやめた。何でもないにしては、少し長く止まりすぎている。
ローレンツは待っていた。急かしはしないが、ごまかして済ませるつもりもないらしい。そのあたりは昔から変わらない。
「東とのやりとりは、近ごろ少し書面に寄りすぎている気がする」
口をついて出たのは、思っていたよりもまっとうな言葉だった。自分でも少し意外だった。
「そろそろ、直接顔を合わせて話しておいたほうがいいかもしれない。最近は、あまり話もできていないし」
最後のひと言だけ、少し余計だった気がする。だが、ローレンツはそこをわざわざ拾わなかった。拾わないかわりに、ほんのわずかに眉を動かしただけだ。
「王としての判断であれば、もっともです」
「もっともでなくても、必要だと思う」
「そうですか」
相変わらず、こういうときの返事が淡々としている。昔なら、もう少し嫌味のひとつも挟まった気がするのだが、今のローレンツは、そのあたりの匙加減をちゃんと覚えてしまったらしい。少しだけ惜しいような、助かるような気もした。
「では、あちらへ使いを出しましょう。正式な会談というかたちであれば、向こうも断りづらいでしょうから」
「頼む」
「承知しました」
それで話は終わるはずだった。だが、ローレンツは書類をまとめながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「贈り物も用意なさいますか」
「贈り物」
「ええ。友好の証としては、あったほうが自然でしょう」
自然。その言葉に、なぜだか少し気が楽になった。理由がひとつ増えるだけで、こうも動きやすくなるのは、あまり感心しない。
「必要なら、そうしよう」
「必要です」
即答だった。
「……そうか」
「そうです」
念を押すような声音だった。自分は思わず息を吐いた。たぶん、ローレンツには半分ほど見えているのだろう。それでも何も言わずにいてくれるのなら、それは彼なりの情なのかもしれない。
会談の手配を進めるため、彼はすぐに席を立った。自分は残された書類の山を見下ろし、それから、まだ喉の奥に残っている小さな引っかかりを確かめるように、一度だけゆっくり息を吸った。
自分は、クロードに会いたいのかもしれない、と、そのとき初めて思った。
そう思っただけで、それきりだった。ただ、そう考えると、さっきまでうまく呑み込めなかった棘が、わずかにかたちを持った気がした。
それでも、まだ名前はつけられない。
会って、話せば落ち着く。その程度のことだと思った。
自分は、そう思うことにした。
会談の話は、驚くほど滞りなくまとまった。
ローレンツが段取りを整え、ヒルダがそれを横から面白がり、自分はそのあいだ、必要な書類に目を通しながら、ときどき速くなる呼吸を持て余していた。会談のためだ。そう思えば、少しは落ち着く。少しだけだが。
贈り物も用意した。王として渡すに足るものをいくつかと、その中に、ひとつだけ、自分で選んだものを混ぜた。
小さな星座盤だった。
細工は繊細で、手のひらに収まるくらいの大きさしかない。けれど、金属の縁に刻まれた目盛りは見やすく、夜空の下で使うにはちょうどよさそうだった。
パルミラの空はフォドラよりずっと星が近いと聞いている。時折星空を見上げていた彼なら、こういうものは嫌いではない気がした。
ローレンツはそれを見たとき、一度だけ眉を動かした。
「贈答品としては、まあ、理屈は立ちますが」
「立たないのか」
「立ちます、と申し上げました」
それ以上は何も言わなかった。止められないのなら、たぶんそれでいいのだろう。
会談そのものは穏やかに進んだ。パルミラの王として座る彼は、士官学校にいたころよりずっと遠く見える瞬間がある。
言葉の選び方も、視線の置き方も、よく知っている彼のものなのに、それだけでは届かない場所へ行ってしまったような気がした。
けれど、話の合間にふと笑うときの顔は、あまり変わらない。
それだけで、来てよかったと思ってしまう自分がいた。
贈り物は会談が終わってから渡した。形式どおりに並べられた品々を前に、彼はひとつひとつ丁寧に目を通していたが、やがて、その中の星座盤に手を止めた。
「へえ」
指先でそっと持ち上げ、細工を確かめるように傾ける。声の調子が、ほんの少しだけ変わった。
「ずいぶん気が利くじゃないか」
自分は何と返せばいいのかわからず、ただ黙っていた。彼は盤面を光にかざし、それからこちらを見た。
「これ、あんたが選んだのか?」
うまく隠せる気がしなかった。
「……こちらの空に合うかと思った」
「ふうん」
彼はもう一度、手の中の星座盤を見下ろした。そのまましばらく黙っていたので、気に入らなかったのかもしれないと思いかけたところで、ふっと口もとがやわらいだ。
「いいな、これ。夜が楽しみになった」
その笑い方に、胸の奥がわずかに軽くなる。
気に入ったらしい。ただそれだけのことが、思っていたよりずっとうれしかった。来た甲斐があったと思う。たぶん顔にも出ていたのだろう。彼が盤から目を上げたとき、少しだけ可笑しそうに目を細めた。
「そんなにほっとするところか?」
「していない」
「いや、してるだろ」
言いきられてしまうと、否定する言葉も続かない。自分はひとつ息をつき、視線を逸らした。彼は笑っていた。からかうような調子ではあるが、悪い顔ではない。
「……君の役に立つなら、それでいい」
「立つよ。空を、ちゃんと見上げてみたくなった」
そう言って、彼は星座盤をずいぶん大事そうに持ち直した。ほんの小さな道具なのに、そこだけ丁寧になる。そんなところを見てしまうと、ますます来てよかったと思ってしまう。
会談が終わったあとも、その感覚はしばらく胸の中に残っていた。うまく言葉にできない。ただ、彼がよろこんだことと、それを見て自分もうれしくなったことだけは、たしかだった。
それでじゅうぶんなはずなのに、帰りの馬車へ乗り込んでからも、自分は一度だけ、膝の上の手を握り直した。
また来てもいいのだろうか、と考えてしまったからだ。
一度目の会談を終えてからも、パルミラとのやりとりは途切れなかった。
王として書くべきことは、当然ある。どの程度の物資を回すか、どこまで人を動かすか、次の使者はいつにするか。
そういうことを決めるたび、ローレンツは慣れた手つきで書面を整え、こちらへ差し出してきた。読みやすく、無駄がなく、どこにも引っかかりのない文だった。
けれど、何通目かの返書を読んだとき、ふと、それではだめな気がした。
彼に渡る文を、自分はひとつも書いていない。そう思った途端、どうにも落ち着かなくなった。おそらく王としては、べつにどちらでもよいのだろう。必要なことが過不足なく伝われば、それで済む話だ。それでも、手紙ぐらいは自分で書きたかった。
「次からは、自分が書く」
そう告げたとき、ローレンツはあまり驚かなかった。ただ、静かに筆を置いただけだった。
「公的な書簡を、ですか」
「そうだ」
「差し支えはありませんが、いきなり私の役目まで奪われると、さすがに少し傷つきますね」
「奪うつもりはない」
「では、お貸しするとしましょう」
言い方だけは穏やかだった。だが、机の上へ置かれた紙束の量を見る限り、本気で貸すつもりはあまりなさそうだった。
最初の一通は、ひどく時間がかかった。用件だけを書けば足りる。足りるのに、筆が止まる。何かを足したい気がして、けれど何を書けばよいのかわからない。
返ってきた手紙は、思っていたよりずっと早かった。用件は短く、あとはいつもの調子で、要するに、こんなにかしこまるな、ということが書いてあった。あんたに堅苦しいのは似合わないよ、きょうだい。そういう意味のことを、彼は驚くほど軽く書いた。
それを読んで、少しだけ腹が立った。こっちはかなり苦労して書いたのに、と思った。だが、同時に少しだけ気も楽になった。そう書いてよいのだと、彼のほうから言われた気がしたからだ。
次の手紙は、末尾に一行だけ足した。
みんなも元気にしている。そう書いた。送ってから、あれは余計だったかもしれないと思ったが、返ってきた文には、その一行にだけちゃんと触れてあった。
ラファエルは相変わらずよく食べるのか、ヒルダはまださぼっているのか、リシテアはもう子ども扱いされていないのか。そういうことが、用件の下に並んでいた。
それでまた、自分で書きたくなった。
そのうち、少しずつ、自分のことも混じるようになった。うまくは書けない。用件のあとに一文だけ、二文だけ、思いついたことを足す。その程度だ。それでも、何もないよりはよかった。
ヒルダに教わって、初めて飛竜に乗った。途中で振り落とされた。
ローレンツに盤面遊戯で勝った。みんなからは偶然だと言われた。自分はそうは思わない。今なら君にも勝てるかもしれない。
こちらは少しずつ風がやわらいできた。そちらはどうだろうか。
並べてみると、妙な文だと思う。王の書簡というには、ずいぶん落ち着きがない。だが、彼はそれをからかったりはしなかった。むしろ、前より返書が早くなった。
へえ、ずいぶん言うようになったじゃないか。あんたの奢りで飲む酒が楽しみだ。
そう書かれていたときは、さすがに笑ってしまった。隣で書類を読んでいたローレンツが何事かという顔をしたので、慌てて口もとを押さえたが、たぶん遅かった。
二度目に東へ行く話が出たのは、その少しあとだった。今度は一度目より、理由が弱かった。文化への理解を深めるため、と言えなくもないし、実際そういう面もあるのだろう。ただ、前ほどきれいには言えない。会いたいから行くのだ、というほどはっきりしていないくせに、会いたいからだとしか思えなかった。
贈り物を選ぶ段階になって、今度は星座盤ほど迷わなかった。カミツレの花が混ぜ込んである茶葉と乾燥果実を見つけたとき、たぶん彼はこういうものを好むだろうと思った。前にそんなことを言っていた気もするし、そうでなかったかもしれない。ただ、手に取った瞬間に、これがいいと思った。
「また、ずいぶん個人的なものを」
ローレンツの声は平坦だった。
「そうだろうか」
「少なくとも、前回よりは」
否定できなかった。会って、渡して、クロードがどういう顔をするのかを見たいと思っている。そう思ってしまった時点で、たぶんもう少し前に進んでいるのだろう。だが、その先に何があるのかは、まだよくわからない。
二度目の訪問は、一度目より少しだけ気楽だった。会談の席でも、彼は前よりよく笑った気がする。こちらがそう見たかっただけかもしれないが、それでも構わなかった。
贈り物を渡したとき、彼は包みを開けて、少しだけ目を細める。その反応を、自分は思っていた以上にじっと待っていたらしい。
「また、ずいぶん俺の好きそうなものを」
彼の声には笑いが混じっていた。
「……君が気に入ると思って」
言ってから、少し早かったかもしれないと思った。もう少しべつの言い方もあったはずだ。けれど、取り消せるものでもない。
彼は一瞬だけ黙り、それから、ひどくやさしい顔で笑った。
「ああ、気に入った。覚えていてくれて、うれしいよ」
その言い方は少し甘かった。甘かったが、不快ではなかった。むしろ、そのひと言だけで、自分はまた来てよかったと思ってしまった。
たぶん、そのときも顔に出ていたのだろう。彼はまた、わかりやすいなという目でこちらを見た。けれど、その目つきはまだ軽い。からかうようでいて、どこかやわらかい。
だから、まだその程度なのだろうと思った。
二度目の訪問を終えて戻ってからしばらくは、妙に落ち着かなかった。
前にも似たようなことはあったはずだ。あちらから戻ったあと、しばらく胸のあたりが静まらない。彼の声の調子や、笑い方や、何気なく返されたひと言が、あとから遅れて響いてくる。そういうことは、べつに初めてではない。初めてではないのに、二度目のあとは、それが長く残った。
手紙は、前よりさらに書きづらくなった。
何も足さなければ足りない気がする。何かを書こうとすると、いきなり指先だけがひどく重くなる。前なら、みんなのことや、こちらの空模様や、どうでもいい近況を混ぜておけば、それで少しは満足できた。今は、そのどれもが、どこか少しずつ違って見えた。
彼が茶をどう淹れたのか、乾燥果実をひとりで食べたのか、誰かに分けたのか、そんなことまで気になった。書けるはずもないのに、筆先は何度か用件の下へ降りた。白い余白に、君は、と書きかけて、墨が濃く落ちる前に止める。結局、そこには何も足さなかった。封をしたあとも、指先だけがしばらく紙の端を押さえていた。
返事は来る。相変わらず早い。けれど、その速さが前ほど素直にうれしくないときもあった。彼はいつも通りで、軽くて、少し笑っていて、こちらの文の温度など気にしていないみたいに見える。そのくせ、前より気安く返してくることもある。そういうところが、余計にたちが悪い。
会いたかった。
もう、その言い訳はだいぶ難しくなっていた。必要だからでもいい。理解を深めるためでも、友好のためでもいい。どれも嘘ではない。けれど、そのどれもが先には立たなかった。
「もう一度、パルミラへ行きたい」
ある日、とうとうそう口にしていた。
ローレンツはさすがに筆を止めた。止めてから、こちらを見上げる。
「そう来ましたか」
「そう、とは」
「いいえ。べつに」
言われてみれば、その通りだった。最近の自分は、理屈を並べるより先に、行きたいとか、会いたいとか、そういう、かたちが整っていない欲が前へ出るようになっている。感心はしない。しないが、今さら遅い気もした。
ローレンツは驚かなかった。かすかに疲れたような顔をして、書類を閉じる。
「続けてこちらから赴くのは、少々あからさまですが、不可能ではありません」
「では」
「表向きの名目は整えます。そこまで不自然に見えない程度には」
その言い方に、ほんの少しだけ息が抜ける。
「助かった。君はこういうことが上手い」
素直にそう言うと、ローレンツは一度だけ咳払いをした。
「当然でしょう」
そう返した声音は、どこか得意げだった。頼もしい、と思う。
その一方で、こういう手つきを覚えさせたのは、たぶんこちらなのだろうとも思った。
話が決まってからも、心はまるで落ち着かなかった。クロードに会えるのだから安心するかと思ったのに、そうではないらしい。会ってしまったら、今度は何を言えばいいのかわからない。ただ、もう一度ちゃんと見なければならない気がしていた。
気に入りそうなものを渡した。よろこんでもくれた。その顔を見て、自分もまたうれしかった。
けれど、それだけでは足りないのだろうとも思う。何が足りないのかまでは、まだうまく言えなかった。
贈り物をどうするか考え始めたのは、その翌日だった。
今度は何がいいだろう。そう思って並べられた品を見ていても、なかなか手が伸びなかった。役に立つもの、邪魔にならないもの、相手の負担にならないもの。そういう理屈で選ぶなら、いくらでも候補はある。あるのに、どれも少し違う気がした。
そんなふうに迷いながら廊下を歩いていたとき、ふと窓の外に色が見えた。
庭の端だった。名も知らない花が、風に少し揺れていた。派手ではないが、目を引く色だった。あれを見た瞬間、どうしてか、自分は立ち止まった。
きれいだと思った。
そして、ほとんど間を置かずに、それを彼にあげたいと思ってしまった。
思ってから、さすがに少し戸惑った。花を贈る理由など、今の自分にはひとつもない。役に立つわけでもないし、友好の証としてはあまりに曖昧だ。彼がよろこぶかどうかもわからない。わからないのに、あげたいという気持ちだけは、妙にはっきりしていた。
庭へ降りたとき、風は思っていたよりやわらかかった。
近づいてみると、その花は、窓越しに見たときよりずっと細かった。薄い茎が何本も分かれ、その先に、小さな花弁が星のように散っている。白とも青ともつかない色で、芯のあたりだけ、ほんのり黄を含んでいた。
派手ではない。けれど風が通るたび、花の群れがいっせいに傾き、折れそうなほど素直に揺れて、次の瞬間には何事もなかったように立ち直る。その戻り方から、どうしても目が離せなかった。
庭番に声をかけて、花を分けてもらえないかと頼む。相手は少し驚いた顔をしたが、断りはしなかった。必要なものがあれば切り分けます、と言われて、自分は少し迷った。切って持ってゆくほうが見た目は整うのだろう。けれど、そうしたくなかった。
「鉢ごと、持って行けるだろうか」
そうたずねると、庭番はますます目を丸くした。だが、すぐに心得たらしく、支度を始めてくれた。
そこでようやく、自分がわりあい本気なのだと気づいた。
部屋へ戻ると、ちょうどヒルダとローレンツがいた。どちらも、こちらの手もとを見た瞬間、ほとんど同時に黙った。
「……それは」
先に声を出したのはローレンツだった。
「花だ」
「見ればわかります」
そう返しながらも、視線はまだ鉢へ向いたままだった。珍しく反応に困っているらしい。
ヒルダのほうはもっとわかりやすかった。花と自分の顔を二度見比べ、それから口もとを引きつらせる。
「えー……どうかなー。クロードくんって、そういうのあんまりわかんなさそー」
そこで一瞬、言葉が止まった。誰の名も出していない。出していないはずなのに、どうしてそこで彼の名前が出るのかがわからず、自分はヒルダを見た。
「……なぜわかった」
「え、だって先生、そんな顔してるし」
「そんな顔とは」
「そういう顔ですよー。ほかの人に渡すなら、もっと先に理屈を考えるでしょ」
返す言葉が出なかった。ヒルダはそこで、困ったような、少し面白がっているような顔で肩をすくめる。
「先生って、たまにそういうとこありますよねー」
「そうだろうか」
「あるある。しかも止まんないんだよね」
それは否定できなかった。
ローレンツは何か言いたげにしていたが、最終的には言葉を呑み込んだ。代わりに、花の鉢へ視線を落とし、それから自分を見る。
「せめて、運ぶあいだに倒さないようお気をつけください。……それから、どうしても渡したいのであれば、せめて、おひとりのときになさったほうがよいでしょう」
それは、珍しくまっとうな助言だった。自分は少しだけ考え、それからうなずく。
「わかった」
ヒルダはそこで、急ににやりとした。
「へえ。ふたりきりで渡すんだ」
「そうだ」
「そういうところは素直なんだよね」
何が悪いのかわからず、そのまま見返すと、彼女はとうとう笑い出した。ローレンツは呆れたように目を細めていたが、さっきまでの驚きはもう薄れていた。
おかしなことをしているのかもしれない。少なくとも、王としては、あまり褒められた選び方ではないのだろう。それでも、ここでやめるよりはよかった。やめていたら、たぶんそのほうが、ずっと気になっただろうから。
部屋を出る直前、ローレンツがふと思い出したように声をかけてきた。
「その花の名前はご存じなのですか」
そこで、わずかに足が止まる。
「……いや」
正直に答えると、ヒルダが吹き出した。
「先生、それはさすがに調べておいたほうがいいんじゃない?」
「必要だろうか」
「たぶん、そのほうが親切だと思うけどなー」
そう言われても、もう遅かった。あとから名前だけ知っても、何かが変わる気はしない。
名前も知らない花を、どうしても彼にあげたかった。
彼とふたりきりになる機会は、意外なほどあっさり訪れた。
会談が終わり、表向きのやりとりもひととおり済んで、あとはもう帰るだけというところで、彼が、少しだけふたりで席を外そうかと言ったのだ。こちらとしては願ってもないことだったが、そこでうなずくのが妙に早すぎた気もする。気づかれなかったと思いたい。
案内されたのは、居城の奥まった一室だった。人払いはしてあるらしい。彼は扉が閉まるのを待ってから、ようやく肩の力を抜いた。
「いやあ、さすがにずっと王様の顔してると疲れるな」
その言い方が、少し前の彼に戻ったみたいで、自分は持っていた鉢を抱え直すしかなかった。
彼はそこでようやく、こちらの手もとへ目を落とした。
「……ん?」
視線が鉢に止まる。花を認めた瞬間、彼の顔に、ほんの少しだけ意外そうな色が浮かんだ。
「花?」
「そうだ」
「いや、見ればわかるんだけどさ」
彼は笑った。笑いながら、こちらへ一歩ぶんだけ近づく。
「花なんて持ってきてどうしたんだよ」
何か、もっとましな言い方があった気がする。だが、そのどれも、今になっては妙に遠かった。
「……君に」
結局、それしか出てこなかった。
彼は一瞬だけ黙った。それから、さっきよりかすかに低い声で、「へえ」とだけ言った。
からかわれるかもしれないと思ったが、彼はすぐには何も言わなかった。鉢の縁へ指をかけ、花弁の色を確かめるみたいに目を細める。その沈黙が、かえって落ち着かなかった。
「名前は?」
「わからない」
即答すると、今度こそ彼は呆れたように笑った。
「知らないで持ってきたのかよ」
「きれいだったから」
「ははっ、あんたらしいな」
笑い方はやわらかかった。咎める調子ではなく、ほんとうに可笑しがっているだけの声だった。そのまま彼は、鉢を受け取る。雑に持つのかと思った。だが彼は、鉢の底へ片手を添え、もう片方の手で縁を支えた。傾いた葉を指先で避け、土がこぼれないように抱え直す。その手つきを見ているだけで、たまらない気持ちになってしまった。
「俺も、名前はわからないな」
そう言って、彼は花を少し離して眺めた。
「でも、悪くない。花なんて柄じゃないと思ってたけど、もらうと案外うれしいもんだな」
その言葉に、喉の奥が少し熱くなる。来てよかったと思った。持ってきてよかったとも思った。たぶん、そのくらいは顔に出ていたのだろう。彼がふっとこちらを見て、目を細める。
「あんたは、男を見る目がないな」
一拍置いてから、彼はわずかに笑った。
「俺、かなりひどい男だぞ」
冗談めいている。冗談めいているのに、その目はどこか試すようでもあって、だから余計にたちが悪い。
そうかもしれない、と、ほんの一瞬だけ思った。
軽くて、器用で、肝心なところではするりと逃げる。こうして笑っていても、次の瞬間には、何もなかったような顔で遠くへ行ってしまうのかもしれない。
けれど、その人は今、受け取った鉢を落とさないように両手で抱えていた。土がこぼれないように、花弁を傷めないように、持ち直してまでいる。
「そうだろうか」
彼はそこで、少しだけ言葉を詰まらせた。
「……そこはちょっとぐらい否定しろよ。傷つくだろ」
軽く言ったつもりなのだろうが、ほんとうに困っているようにも聞こえた。
「でも、そうだよ。……ひどい男さ」
ひとりであっさり完結させようとするくせに、ほんのわずかに目を逸らす。冗談みたいに言っておけば、少しは軽くなると思ったのかもしれない。
「こういうの、相手が俺じゃなかったら危なかったかもしれないぜ」
その言い方は軽かった。軽いままで、きれいに逃がす声だった。
胸の奥が、さきほどとは違うかたちで詰まった。よろこんでくれた。
それは、嘘ではない。
けれど、その先へ来るな、と言われた気がした。
自分はただ彼を見た。
彼はまだ花を抱えていた。手放さないまま、こちらを見る。その顔には、王の顔はなくて、もっと気の抜けた、見覚えのある笑い方だけが残っていた。戦いの合間や、士官学校のころ、ふとした拍子にこぼれていたのとよく似た、隙の多い顔だった。
もう、見られないと思っていた、その顔を見てしまった。
帰りの道は、行きよりずっと静かだった。
あの顔を見てしまったのなら、たぶん、前と同じではいられない。そう思ったところで、自分が何を変えたいのかは、まだよくわからなかった。ただ、前のように、会って、少し笑って、手紙を交わして、それで満足したふりをするのは、もう無理なのだとわかっただけだ。
書類を読んでいても、会議の席にいても、ふとした拍子に、彼が花をどうしたのかを考えてしまう。
窓辺に置いたのかもしれない。人に見つかって笑われたかもしれない。案外、ひとりのときにだけ眺めているのかもしれない。そんなことを思い浮かべては、すぐに打ち消した。
いちばん困ったのは、手紙だった。
王として必要な文は書ける。むしろ、その部分だけなら前より早い。どこまでを先に置くべきか、どこで切るべきか、そのくらいはもう迷わない。困るのは、そのあとだった。何も足さなければ足りない気がする。何かを書こうとすると、いきなり指先だけがひどく重くなる。
今さら何を聞けばいいのか、よくわからなかった。
花はどうしたのか。
あのとき、どういうつもりでああいう顔をしたのか。
あんたは男を見る目がないな、という言葉は、どこまで冗談だったのか。
ひどい男だとわざわざ自分で言ったのは、何を試したかったのか。
どれも書けるわけがないと思った。書けないから、結局、用件だけを整えて送る。返事は来る。相変わらず早い。けれど、読むたびに、こんなことでは足りないと前よりはっきり思い知らされる。
彼に会いたかった。
もう一度会いたい。
会って笑われて、それで終わるのは嫌だった。
贈った花はどうしたのか。あの顔は何だったのか。ひどい男だと自分で言っておきながら、それでも鉢を両手で抱えたまま離さなかったのは、どういうつもりだったのか。
それを聞きたかった。
きっと、ずるいことなのだろう。
気に入りそうなものを渡して、よろこんだ顔を見て、そのうえでなお、彼がどこまで自分を受け取るのかを確かめたいと思っている。
傷つくかもしれないのに、傷つくようなことを言わせたがっている。それは、彼がしてきたことと少し似ている気もした。きれいではない。押しつけだ。そう思うのに、やめられなかった。
ある日、とうとう書類から顔を上げた。
「クロードを、こちらへ呼びたい」
そのままだった。
ローレンツはさすがに筆を止めた。止めてから、しばらく黙ったままこちらを見て、それから小さく息をつく。
「ようやく、そこまで来られましたか」
「遅かっただろうか」
「私に言わせるなら、ええ」
返しは静かだったが、冷たくはなかった。むしろ、少しだけ待っていた人の言い方だった。
「とはいえ、こちらが続けて赴けば、さすがに露骨です。今度は、向こうから来ていただくほうが自然でしょう」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがすっと収まる。たぶん、自分でもそのかたちを望んでいたのだと思う。もう一度向こうへ行くことではなく、今度はここで、逃げずに話すことを。
「調整しましょう」
「助かる」
「そうでしょうね」
そう言ってから、ローレンツはほんの少しだけ口もとを和らげた。
「王同士のやりとりとして不自然でない程度には、名目も整えましょう」
「君はこういうことがほんとうに上手いな」
心からそう言うと、彼はわざとらしく咳払いをした。
「慣れましたから」
その言い方がやっぱり少しだけ得意そうで、こんなときなのに、少しだけ肩の力が抜けた。
彼が来ると決まってからも、心はまるで落ち着かなかった。会えるのだから安心するかと思ったのに、そうではないらしい。会ってしまったら、今度は何を言えばいいのかわからない。何を確かめたいのかも、まだどこか曖昧なままだった。ただ、今度こそ、曖昧なまま終わらせてはいけない気がしていた。
会談そのものは、何ひとつ問題なく進んだ。
彼は前と同じように笑い、前と同じように軽く話し、王としては少しも揺らがない。だからこそ、自分はなおさら落ち着かなかった。ここでまた、以前みたいに彼の軽口へ流されれば、それで終わってしまう気がした。
人払いをして、ふたりだけになる。
そこまで持っていくあいだ、自分は驚くほど静かだった。たぶん、静かでいないと声が震えたのだと思う。
「今日はずいぶんおとなしいな」
「そうだろうか」
「そうだろうか、じゃないだろ。前はもっと、こう、理由つけてでも話を長引かせてたのに」
その言い方に、胸の奥が少しだけ痛む。自覚はあった。だからこそ、今は前みたいにできない。
「迷惑だっただろうか」
「え?」
彼はそこで目を瞬かせた。こんなふうに返されると思っていなかったのだろう。
「いや、べつにそうは言ってないけどさ」
「そうか」
会話が続かない。続かないまま、沈黙だけが少しずつ濃くなる。逃げるなら今だと思った。今なら、まだどうとでもなる。けれど、ここで引いたら、また同じところへ戻るだけだともわかった。
だから、自分は聞いた。
「君は、何に応えようとしている」
彼の眉が、わずかに寄る。
「何って」
「自分か。それとも、君自身か」
言い終えた瞬間、彼の顔から少しだけ軽さが抜けた。たぶん、問いの意味は伝わっている。伝わっていて、だからすぐには返せないのだろう。
彼は一度だけ視線を逸らし、それから戻した。口を開きかけて、やめる。いつもの彼なら、ここでもっと器用に笑うか、少しからかうか、いくらでも逃げられたはずだった。けれど、その日はしなかった。
しばらくして、彼は小さく息をついた。
「……あんただよ」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥が静かにほどけた。うれしくないわけがなかった。ずっと追いかけて、ようやく返ってきたひと言だった。
そして、そのゆるみを、彼はちゃんと見た。
「ベレト」
呼ばれた声が、少しだけやさしかった。
そこで、わかってしまった。
ああ、まだ足りない。今のひと言で、自分は確かにうれしかった。うれしかったからこそ、彼はまた、そのうれしさに甘える。少しやさしくして、それらしいかたちに整えて、答えたことにしてしまえる。
「……だめだ」
今ここで受け取れば、自分もまた同じことをする。
相手の曖昧さを責めておきながら、自分の曖昧さには目をつぶることになる。それだけは、まだできなかった。
「え?」
「今のは、だめだ」
彼の顔に、はっきりと戸惑いが出る。どちらでもよかった。ここで説明を始めたら、また彼にうまく拾われる気がした。
「ベレト、待てって」
「今は、聞きたくない」
そう言うのが精いっぱいだった。声は思ったよりも静かだったが、胸の中は少しも穏やかではない。うれしかった。そのうえで、傷ついた。どちらもほんとうだった。
彼の半端なやさしさに、自分の曖昧さまで見ないふりをしたくなくて。
自分は、逃げた。
彼に背を向けられた、という言い方は、おそらく正しくない。
実際にその場を離れたのは向こうだし、追いすがる暇もなく置いていかれたのだから、そう言ってしまってもいいのかもしれない。だが、落ち着いて考えれば、あれは逃げられたというより、俺が置いていかれたのに近かった。
言っただろう、と思う。選んだつもりだった、とはもっと思う。
それでも、つもりでしかなかったんじゃないかと、あの場を離れてから何度も同じところへ戻ってくる。
考えたところで、会えないものは会えないし、会えないまま腹を立てていても、ますますひどい男になってゆくだけだ。だったら、少しくらい探りを入れても罰は当たらないだろう。
そう思って、ヒルダのところへ行った。
手ぶらで行くのも収まりが悪いので、途中で茶と菓子も持たせた。ベレトの居城の近くでヒルダを捕まえられたのは、かなり運がよかったほうだと思う。
「はーい、うちの王様を泣かせる悪い人は帰ってねー」
開口一番、それだった。
「しかも賄賂まで持ってるしー」
「その言い方はやめろよ」
「王様がそんなことしていいのかなー」
「いいわけあるか。そもそも賄賂っていうのはお前が言ったんだろ」
「そうだっけ?」
絶対に覚えている顔だった。
「それで、ご用件は? ぜんぶヒルダちゃんが聞きますよー」
「あの人に直接言いたいんだけど」
「だめでーす」
気持ちいいくらい、あっさり断られた。
ここまできっぱり切られると、さすがに少し傷つく。いや、少しどころじゃないな、とそこで思う。
俺、もしかすると、ずっと通してもらえる気でいたのかもしれない。長い付き合いで、多少は腹の内もわかっていて。読みが甘いにもほどがある。
ヒルダはそんなこっちの間を見て、ちょっとだけ肩をすくめた。
「まあ、お茶とお菓子はもらうけどね」
「そこはもらうのか」
「もらうよー。だって持って帰るのもやでしょ?」
従者に合図して包みを渡すと、ヒルダは満足そうに受け取った。受け取ったうえで、彼には会わせない、という顔を崩さない。
「で? なあに?」
「……どうしてるんだよ」
「王様らしく、ちゃんと王様してるよー」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうこと?」
絶対に、俺が言いたいことをわかっていて聞いている。
「怒ってるのか、とか」
「うーん。怒ってない、とは言わないけど、それだけでもないかな」
「じゃあ何」
「先生ってさ、ああ見えてけっこうまじめでしょー。で、まじめだから、半端なことされるのやなんだよね」
その言い方は軽かった。軽いのに、思っていたよりきちんと刺さる。
「クロードくんって、ずるいよねー」
「……ずるい? 俺が?」
「だって、先生がうれしそうだと、ちょっとやさしくしても赦されると思ってるでしょ」
そこまで言われると、さすがに苦笑いも出ない。思っていた、と認めるのは癪だった。でも、思っていなかったとも言いきれない。
「……元気は元気なんだよな?」
「元気そうではあるよ。でも、元気だからって、なんにもないわけじゃないよね」
その言い方に、今度こそ返す言葉がなかった。
結局、手土産だけがきれいに回収されて、俺はベレトの顔も見られないまま帰されることになった。
居城の外へ出たところで、ちょうど反対側から大きな影が手を振ってくるのが見えた。ラファエルだ。
きっとろくでもないことを言われる。もう俺にはわかっていた。
「おーい、クロードくん! みんながクロードくんのこと、ひでえ男だって噂してるぞ!」
当たった。しかも、思っていたよりだいぶ真正面からぶつけられた。
「……みんな?」
「おう! けっこう言われてる!」
ラファエルは悪びれもなく、元気よくうなずいた。けっこう、って何だ。けっこうって。
「先生のこと泣かせたんだってな!」
「泣かせてない」
反射で言い返した。言い返してから、言いきれたものかどうかが怪しくなってくる。
「じゃあ、泣きそうにさせたのか?」
「やめろよ、その言い方」
「でも、どっちも似たようなもんだと思うぞ!」
ひどい。ひどいが、本人には欠片もその自覚がないのだろう。
「いやあ、オデはよくわかんねえけどさ。だいたいそんな感じで言ってた!」
雑な補足だった。補足になっているのかも判断に困る。ただ、余計にひどいことだけは確かだった。
居城の近くで、茶菓子だけむしりとられて、会いたい相手には会えなくて、帰り道にはひでえ男だと噂されている事実まで聞かされる。王様の一日としてどうなんだろうな、とぼんやり思った。
いや、どうもこうもないか。
俺がひどい男なのは、たぶん事実だ。
ようやくベレトに会えたのは、皮肉なぐらいちゃんとした場だった。
会談そのものは何も問題なく終わった。問題がないのが、いちばん問題だった。彼は前よりずっと整った顔で座っていた。受け答えは正確で、無駄がなくて、こちらの言葉を変に外しもしない。王としては文句のつけようがない。
そういう顔をされると困る。
いや、困るのはこっちの勝手だ。勝手なのだが、前みたいに少しぐらいは崩れてくれたら楽なのに、と思ってしまう。そう思ってしまうのは、俺が甘いからだろうか。
会談が終わると、ベレトは必要な挨拶だけ残して、すぐに人の輪の向こうへ消えようとした。
「おいおい、そんなに急がなくてもいいだろ」
半分は冗談めかして言った。もう半分は、冗談にしないと追えなかったからだ。
彼は足を止めなかった。代わりに、視線だけを寄越した。けれど、それだけだった。
「パルミラ王として、もう少し詰めたいことがあるんだが」
そう言った瞬間、横からひとつ咳払いが落ちた。ローレンツだ。
「お話でしたら、先ほどの会談ですべて済んだかと。それでもなお仰りたいことがおありなら、文書でお寄せください。こちらで確認いたします」
「ずいぶん冷たいじゃないか」
「そうでしょうか」
まるでそう思っていない顔だった。
「先生と話したいだけなんだけど」
口をついて出たのは、思っていたよりずっと素直な言葉だった。
「でしたら、なおさらです」
ローレンツは続ける。そのあいだにも、どんどんあの人は遠ざかってゆく。
「陛下はようやく、その線を引かれました。いまさら、あなたの都合で曖昧にされては困ります」
「俺の都合って言うけどさ。先生が自分の都合でこっちに来てたのはいいわけ? 会いたいって顔して、手紙まで寄越して、勝手に日常へ入り込んできたのはあっちだろ」
ローレンツは、すぐには答えなかった。わずかに目を伏せ、それから静かにこちらを見る。
「……ええ。その点については否定しません。陛下もまた、ご自分の都合で踏み込んでおられたのでしょう。だからこそ、今になってようやく立ち止まろうとしておられる」
「そっちだけできれいに終わろうとするなよ。振り回したぶんまで、なかったことにする気か」
「なかったことになど、していない」
そこで初めて、声が少しだけ硬くなった。
「していないから、苦しいんだろう。先生だけじゃない。君だって、わかっているはずだ」
その『先生』と『君』が、思ったよりも深く刺さった。
「君ほどの人間なら、もう少しうまくやると思っていたが」
やっぱり言うんだ、そういうこと。
こいつにこう言われると、どうにも言い返しづらい。うるさいな、と笑い飛ばせるほど、こっちも余裕がない。
言っていることはもっともだった。もっともだったはずなのに、胸の奥にはべつの棘が残っていて、どうにも釈然としなかった。
理屈はわかる。だが、そういう話でもない。だから余計に始末が悪かった。
それからしばらく、妙にきれいな時間が続いた。
書面は滞りなく届き、使者も行き来し、必要な話は必要なだけ進んで、余計な揉めごとも起きないのだから、王として見ればむしろ前よりずっと健全なのかもしれなかったが、そのことが、どういうわけかひどく気に食わなかった。
あの人はもう、前みたいな文を寄越さない。読むべきことだけが書いてあるその文は、正確で、過不足がなくて、文句のつけようがないぶんだけ、余計に腹が立った。
国としては、何ひとつ悪くなっていない。関係はむしろ穏やかで、順調なくらいだ。それなのに、国だとか政治だとか、そういうものを挟まないと、もうあの人と繋がっている気がしない。
季節だけが先に進んだ。
ある日、ヒルダからの文に、珍しくマリアンヌの名があった。装飾品づくりのための学校のことは聞いていたし、意匠の勉強だとか支援の関係で、マリアンヌもしばらくこちらへ来るらしいと書かれていた。
実際に会ったのは、城の中庭に面した回廊だった。
「……クロードさん」
「よう。珍しいところで会ったな」
そう言うと、マリアンヌは小さく会釈した。相変わらず声は静かだったが、前みたいに消え入りそうではなくて、たぶんそこがいちばん変わったところなのだろうと思う。
「ヒルダさんのご用事で、しばらくこちらにいることに」
「聞いてるよ。あいつ、ほんとにやるんだな、ああいうの」
「はい。とても、ヒルダさんらしいと思います」
そこでそのまま別れてもよかったのだが、マリアンヌは珍しく、先に視線を上げてきた。
「……クロードさんは、お元気そうには見えませんね」
「ひどいな」
「すみません。でも、そう見えてしまったので」
そこまで言われると、否定もしづらい。
「マリアンヌも、ずいぶん言うようになったな」
「……そうでしょうか」
「そうだよ。昔のお前なら、もっと手前で引いてた」
彼女はそこで考えるように首をかしげ、それからほんのわずかに笑った。
「少し、不思議な感じがしますね。昔、そういうふうに言ってくださったのは、クロードさんでしたから」
そこで言葉に詰まる。俺は案外、そういうことを平気な顔で言ってきた。そうした理屈を自分に向けられないからこそ、口にできていたのかもしれない。
「……怒らないでくださいね」
「内容による」
「急がれたほうがよいかと、思いまして」
「何を」
「先生のことを、クロードさんが捨てた、と……かなり噂になっているので」
思わず、変な間が空いた。
「……かなり?」
「はい」
「かなり、って」
「かなり、です」
ひどい。いや、実際ひどいのかもしれないが、マリアンヌに静かな顔でそこまで言われると、また違う意味のきつさがある。
「おいおい、マリアンヌまでそんなこと言うのかよ」
「私だって、あまりこういうことは言いたくないです。でも、言ったほうがよいと思ったので」
そこで彼女は少しだけ息をついた。
「クロードさんは、昔、私に言ってくれましたよね。背負わされたものに縛られるか、捨ててしまうかは、自分次第だって。だから、あまり偉そうなことは言えませんけど……」
そこで彼女は、声をやわらげた。
「王様だからって、自分にまで、そんなに冷たくしなくてもいいと思うんです」
軽く言われたわけではない。けれど、責めるために言っているのでもなくて、そのままだと自分で自分を追い詰めるから、そう言っているのだとわかる。だから、なおさらこたえた。
その目が、なぜかローレンツのときより逃げにくかった。
我ながら都合がいいよなと思う。
自分で遠ざけたくせに、こういうときだけ誰かの言葉に刺されて、いまさら傷ついた顔までしてる。そんな資格があるのかと考えれば、たぶんない。ないが、それでも痛いものは痛かった。
あのとき、壊したはずだった。フォドラとパルミラのあいだにあった壁も、旧い価値観も、すべて。
なのにいまは、壊したはずのものがかたちを変えて、前よりずっと厄介な壁になって、俺の前に立っている。
俺の前に立ちふさがる壁はやはり壊しに行くしかないのだと、そこでようやく思い知った。
会うための段取りは、自分で整えた。整えた、というと聞こえはいいが、実際にはかなり無理を通した。王がひとりの都合でぽっかり日を空けられるほど、こちらの暦は甘くない。
前から積まれていた謁見を詰め、返事を急がなくていい案件を後へ回し、本来なら三日かけるはずの話を二日に押し込み、顔を出すだけで済む場はべつの者に任せ、それでも足りないぶんは、必要な訪問だと言い切ってねじ込んだ。
当然、周りにはあまりいい顔をされなかった。ナデルだって、明らかに渋い顔をしている。
自分でも乱暴だとは思う。王の理屈を使ったのは事実だし、それを使えば人が動くことも、こっちはもう嫌というほど知っている。
それでも、今さら引き返せるほど器用でもなかった。
指輪を手配したのは、その翌日だった。
ほかにも品はあった。いくらでもあった。けれど、どれを見ても、また逃げ道を作っている気がした。
花みたいに、笑って受け取って、それで済ませられるものではだめだと思った。
受け取るか、受け取らないか。そうしたことも含めて、かたちに残るものがよかった。
意匠などをひと通り選んだあとで、店の者に妙にやさしい目を向けられたのが、少しだけ腹立たしかった。べつに、そういう顔をされる筋合いはないはずなのに、向こうから見れば、よほどわかりやすく情けない顔をしていたのかもしれない。
できあがった指輪は、小さな箱に収められて戻ってきた。蓋を開けると、留め金がかすかに鳴る。しばらく眺めて、それから閉じた。懐に入れると、衣の合わせ目がほんのわずか沈む。小さいくせに、逃げ場のない重さだった。
会う前の数日は、いやに静かだった。
仕事は山ほどあるし、人とも会うし、言うべきことも言っているのに、その全部の下で、べつのことばかり考えている。
あの人は今度も自分からは来ないだろう、ということ。以前なら、廊下の向こうからでも見つけてすぐにこっちへ来たのに、今はもう、そういうことはしないだろうということ。
それを、少しだけさびしいと思っている自分がいた。
そんな資格があるのかよ、と、もうひとりの自分が言う。ないだろうな、と。まったくもって、その通りだと思う。
けれど、資格があるとかないとか、そういうものとはべつに、前はあったものが今はない、という事実だけは、どうしてもさびしかった。
訪問の日、空はよく晴れていた。こういう日に限って、変に天気がいいのが腹立たしい。
ベレトの居城へ着いたあとも、やっぱりすぐには来なかった。
前までなら、どこかで俺の気配を嗅ぎつけて、会談の前にでも顔を見せかねなかったのに、いまはそういうことがない。案内された部屋で待ちながら、その事実をあらためて突きつけられる。正しい、といえば正しい。王としては、そのほうがずっと正しい。なのに、正しさのぶんだけ遠く感じる。
扉が開いても、彼はすぐには入ってこなかった。先に控えの者がひとり入って、必要なことだけ静かに告げ、それからようやく道が空く。そのわずかな間が、異様に長く感じられた。
やがて彼が入ってくる。歩幅は変わらない。顔つきも、たぶんほとんど変わっていない。変わったのは距離だった。
こちらへ来る、その足取りが、前よりひとつずつ慎重になっている。必要なところで止まり、必要な礼だけをして、必要な言葉だけを口にする。そのひとつひとつが正しいぶんだけ、やっぱり前より遠かった。
「来てくれて助かった」
最初にそう言ったのは彼だった。
「そっちこそ。無理やり時間を空けた甲斐があったよ」
少しは崩れるかと思ったが、彼は目を伏せただけだった。気づかないはずがない。無理を通して来たことくらい、最初から見えているのだろう。見えていて、そのうえで何も言わない。それが、じわじわ頭に来る。
「……ずいぶん、きちんとしてるな」
「そうだろうか」
「そうだろ。前はもっと、こっちが嫌になるくらいずかずか入ってきてたのに」
そこでやっと、彼のまなざしがわずかに揺れた。
「いまは、そうするべきではないと思っている」
「べき、ね」
「そうしたら、君は楽だったか」
「楽だったろうな」
驚くほど素直に出た。
「そうだろうと思った」
その返しは、思っていたよりやわらかかった。やわらかかったが、それでも彼は動かない。こっちへ来ない。あくまで向こう側に立ったまま、俺の言葉を受けている。
「じゃあ、なんで来ないんだよ」
「来てほしいと言われたからといって、前と同じようにしていいとは思えない」
「俺がそうしてほしいって言ってるのに?」
「君は、楽なほうを選ぶだろう」
あまりにまっすぐにぶつけられて、言葉が喉に詰まった。
「自分も、そうした」
そのひと言で、部屋の空気が変わる。責められた、という感じではない。ただ、そこへ並べられたのだと思った。
「ほんと、きびしいよな」
「そうかもしれない」
「前はそんなじゃなかったろ」
「前は、近すぎた」
また返せなくなる。できないのに、まだ同じものを欲しがっているのは、俺のほうだった。
彼はそこでようやく、ほんの少しだけこちらへ歩み寄った。けれどそれは、昔みたいに距離をなくすための一歩ではなく、いまここで必要なぶんだけ近づく、という歩き方だった。そういうところまで変わってしまったのかと思うと、妙に胸の奥が軋む。
「……まだ」
声が少しかすれた。彼は何も言わない。ただ、こちらを見ている。
「まだ、言うことがある」
「そうか」
「その返し、ずるいだろ」
思わずそう言うと、彼はほんのわずかに目を細めた。
「君に言われたくはない」
そのひと言だけで、少しだけ救われる。完全に遠くへ行ってしまったわけではないのだと、そう思えるからだ。
おそらく、次にしくじったら俺たちはほんとうに終わる。そんな考えが、いやなくらいはっきりしていた。
うまいこと言えたらいいんだけどな、と思う。
こういうときだけちゃんとした言葉が出てくれれば、少しは格好もつくんだろう。でも、そんな都合よくはいかない。いざ口を開こうとすると、出てくるのはだいたいいまさらなことばかりだった。
「……俺さ、やっぱりひどい男なんだと思う」
言ってから、ずいぶん弱い入りだなと、自分で思った。だが、そこを飛ばして先へ行けるほど、器用にもなれない。
「それは前からわかってたつもりだった。夢を叶えるために、必要なものとそうじゃないものを分けるくらいのことはしてきたし、誰かにとって都合のいい男じゃないことも、まあ、知ってた。……でもさ、あんたに対してひどい男だったってことだけ、なんか、思ってたよりずっとこたえるんだよ」
彼はやはり何も言わなかった。
「俺はあんたに選ばれたとき、ちゃんとうれしかった。あんたにとっては急だったし、強引だっただろうし、あのころの俺もたいがいろくでもなかったかもしれないけど。それでも、あんたが俺を選んでくれたことだけは、ずっと覚えてる」
彼のまなざしが揺れた。
「なのに、俺はあんたに返すとき、半端だった。選んだつもりだったんだよ。ほんとに。あのときは、それで足りると思った。あんたがうれしそうだったから、少しやさしくすれば、少し歩み寄れば、それで届く気がした。でも違った。違ったし、たぶん、俺もわかってたんだよな。足りてないって」
静かな沈黙が落ちる。
「ヒルダにも言われた。ローレンツにも言われた。マリアンヌにまで言われたし、ラファエルにはひでえ男だって噂になってるぞ、って元気よく言われた」
そこでようやく、彼の口もとがわずかに動いた。
「笑うなよ」
「まだ笑っていない」
「俺が言わなきゃ笑ってただろ」
彼は何も言わなかった。
「でも結局、いちばん思い知らされたのは、俺が会いたいってことだった。王だからとか、向こうとこっちの都合とか、そういうのはあとからいくらでもどうにかできる。あんたがどう受け取るのか確かめたいってのも、嘘じゃない。嘘じゃないが、それだけでもない。俺はただあんたに会いたかったし、会えないまま、何もわからないのがずっと嫌だった」
彼の肩が揺れる。揺れただけで、それ以上はまだ崩れない。
「だからって、責任を取りに来たわけじゃないからな」
そのひと言だけは、はっきり言えた。
「そこ間違えたら、また怒るだろ、あんた」
彼のまなざしが、少しだけ和らぐ。ほんの少しだったが、それでよかった。
「俺が持って来たかったから、持って来た。俺が、あんたに渡したかったから、渡す。それだけだ」
そこまで言って、ようやく懐へ手を入れた。
指輪は、やっぱり小さいくせにやけに重かった。出した瞬間、部屋の空気まで変わる気がした。
彼はすぐには動かなかった。
指輪を見て、それから俺の顔を見る。視線がまた指輪へ戻り、そこでほんのわずかに目を細めた。その沈黙が思っていたより長くて、口の中がひどく乾く。
重すぎたかもしれない、と思った。
いや、重いに決まっている。指輪なんて、こういうときに持ち出すにはあまりにあからさまだ。わかりやすすぎるし、逃げ道もない。今さらそこへ気づくのも間抜けだが、それでも、もしかするとここまで望まれていなかったのかもしれない、という考えが、一度だけ頭の奥を冷やした。
「……ベレト」
呼ぶと、彼はようやく小さく息をついた。
「少し、大きい」
一瞬、意味がわからなかった。いや、わかっているのに、べつの意味へ取りそうになった。大きい。自分には。受け取るには。そこまでされるのは。そんなふうに、勝手に悪いほうへ曲がりかける。
たぶん、それが顔に出たのだろう。彼は指輪から目を上げ、まっすぐこちらを見た。
「重いと思ったわけじゃない」
「……違うのかよ」
「違う」
そこでやっと、少しだけ息が戻る。戻るくせに、まだ落ち着かない。彼はまた指輪へ目を落とした。
「自分の指には、少し大きい」
その言い方が可笑しくて、でも可笑しいと思った瞬間には、胸がいっぱいになっていた。
俺は小さく息を吐いて、それから彼の手を取った。
「いや、まだわからないぜ」
言いながら、自分でも少し笑いそうになる。何がどうしたかったのか、こんなところで意地になるのもどうかと思うのに、そこだけは譲りたくなかった。
「持って来たのは俺なんだから、嵌めるのも俺の役目だろ」
彼は何も言わなかった。ただ、黙って左手をこちらへ預けてくる。
その指に、そっと指輪を通す。ちゃんと通った。けれど、ぴたりとは収まらず、わずかに傾いた。そこでようやく、ほんとうに少し大きいのだと知る。
彼が、ほんの少しだけ目を細めた。
「……言った通りだろう」
静かな声だった。
次の瞬間、指輪はするりと彼の指から離れた。何が起きたのかと思うより先に、今度は俺の左手が取られていた。
「ちょっと待て」
「待たない」
「いや、だから」
「君の指ならきっとぴったりだ」
その言い方があまりにもまっすぐで、そこでまた言葉に詰まる。
彼は真剣な顔のまま、俺の指に指輪を通した。今度は、傾きも、回りもしなかった。
しばらく、ふたりしてそのまま黙る。
先に口を開いたのは、俺のほうだった。
「……なんでだよ」
思わずそう言うと、彼はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
「ほら」
それだけだった。
それだけなのに、じゅうぶんだった。