本編(翠風)軸で、ED後。クロードに飼い馴らされたベレトと、そんな彼を置いて去っていったクロードの話。ベレトの単独エンドの文面を、意地悪めに解釈して書いたものになります。倒錯気味だけど、レトクロです。
@Bombwooo
一線を越えてから、自分は思っていたよりもずっと簡単にクロードに飼い馴らされた。
やさしく触れられるだけで、もうだめだった。
髪に触れられる。顎へ指をかけられる。肩へ手を置かれる。その程度のことで、思考も身体もひどく静かになる。自分でも異様だと気づいてはいた。けれど、そうされると落ち着くのも事実だった。おかしいと思う間もなく、先に力が抜ける。気づけば、逆らう理由のほうが見つからなくなっていた。
彼はそういうところを、ときどき面白がるように撫でた。
わざとだとわかるときもあったし、ただ自然にそうしているだけに見えるときもあった。どちらにせよ、たちが悪いことに変わりはない。こちらが怒る前に笑うし、抗議しようとすると、もう少しだけやさしい顔をする。そうされると、腹が立つはずなのに、その怒りは最後まで燃えきらない。いつも途中で火種が尽きた。
だから結局、折れるのはいつも自分のほうだった。
それを、悔しいと思わないわけではない。釈然としないし、主導権を奪われているということもわかる。けれど、そこからやり返そうとはどうしても思わなかった。そういうことではない気がしたし、たぶん、そういうことにしてしまうほうが怖かった。
差し出すのが愛情だと、どこかで思っていたのだと思う。
腹を見せる。逆らわない。触れてほしいと願う。すべてをあげてもよいと思う。
そうやって少しずつ、自分の中にある何かを切って、差し出してゆく。それがまちがっているのかどうか、よくわからなかった。ただ、好きな相手に対しては、そうするものなのではないかと、ひどく素直に思っていた気がする。
だから、彼に軽くからかわれても、ちょっとした意地悪をされても、怒るに怒れない。むしろ、それでもこちらへ手をかけてくれることのほうを先に拾ってしまう。そういう自分があさましいとも思う。思うのに、やめる気にはならなかった。
ただ、彼だっていつも無傷ではなかった。
たまに、ほんのわずかに言葉を失う。こちらが黙って見返したときだけ、触れる手が小さく迷う。先に抱き寄せてきたくせに、そのあとで呼吸を乱す。そういう瞬間があるたび、自分は勝手に安心した。
ああ、この人にもちゃんとやわらかいところがあるのだと、そのたびに思った。
それを自分が握っている、とまでは考えていなかった。でも、少なくとも一方的に飼い馴らされているわけではないのだと、どこかでそう思いたかったのかもしれない。
だから、自分ばかりが変えられているわけではないと、あのころはほんとうに信じていた。
いま思えば、ずいぶん都合のいい思い込みだった。それでも、そのころはまだ、それで満足していた。
彼に触れられれば静かになる。たまに意地悪をされる。腹が立つ。それなのに最後まで怒れない。そうしているうちに、こちらまで少しずつ、彼のものの見方へ寄ってゆく。
何を選ぶか、どこで引くか、何を見過ごさないか。そういう小さい判断の端々に、いつのまにか彼の癖が混じっていた。
それを、自分は学んだのだと思っていた。受け取ったのだと。継いでゆくのだと。そういうきれいな言葉で説明できるものだと、まだ思っていられた。
彼が、パルミラへ帰る話をするまでは。
その話は、ひどく静かな場で出た。
戦でも軍議でもない。もっとやわらかい、気を抜けばそのまま流れてしまいそうな時間だった。だから最初は、何を言われているのか、うまく頭へ入ってこなかった。
「そろそろ、向こうへ戻るつもりなんだ」
あまりに自然に言うので、呼吸ひとつぶん遅れて意味が落ちてきた。
戻る。向こうへ。つまり、彼はパルミラに帰るのだ。
胸のあたりが、音もなく冷えた。
けれど、その冷えを顔へ出すのは違う気がした。彼にしてみれば、いつかはそうするつもりだったのだろうし、帰る場所を持っていること自体は、何もおかしくない。だから自分は、何でもないような顔で彼の言葉の続きを待った。
彼もまた、何でもないふうに続けた。
統一王国はこういう国であってほしい、だとか。こちら側と向こう側を無理に分けず、人も土地も、閉じずに繋がっていけるほうがいい、だとか。そういう話を、囁くみたいに、でも熱の残った声で語った。
未来の話だった。これからの国の話で、選び方の話で、残してゆくものの話だった。
自分は、それを聞きながら、ほとんど何のためらいもなくうなずいていた。
そうするのが自然だと思ったからだ。彼の言うことが正しいと思った。正しいというより、そうあってほしいと、自分でもすでに思っていた。彼に言われたからではなく、自分でそう選んでいるつもりだった。
だから、二つ返事でうなずいた。
彼はそれを見て、少しだけ目を細めた。あれが満足だったのか、安堵だったのか、そのときはわからなかった。
ただ、その場はずいぶん穏やかだった。感傷的に浸る気配すら、少しだけあった。託されたのだと思ったし、信じられているのだとも思った。たぶん、そのどちらも嘘ではなかった。
けれど彼は、それきりあっさり去っていった。
別れを惜しむ気配がまるでなかったわけではない。なかったわけではないのに、歩いてゆく背が、あまりに迷いなく遠ざかるので、自分だけがその場へ置かれたみたいだった。
託されたのではない。残されたのでもない。もっとべつの、ずっと始末の悪いものが胸の奥で開いた。
自分は、彼のやわらかいところへ触れていたつもりでいた。彼の情も、弱さも、こちらへ向くまなざしも、ちゃんと知っているつもりだった。だから、そのぶんだけこちらも、少しは相手の中へ残ることができているのだと思っていた。
けれど違ったのだと、そのとき初めてわかった。
自分が握っていたのではない。握らされていたのだ。
思想も、選び方も、しあわせのかたちまで、少しずつ彼のほうへ寄せられていた。そうして、自分で選んだつもりでうなずかされていた。命令されたわけではない。無理に押しつけられたのでもない。むしろ、自分で望んで受け取った。だからこそ、逃げ場がなかった。
彼はたぶん、そこまで悪いことをしたつもりではなかったのだろう。それでも、自分の心は、思っていた以上に変わっていた。
その冷たさを知ったあとでは、もう前と同じようには立っていられなかった。
パルミラとの会談で彼と再会するにあたって、自分は、ひとつだけ決めていた。
彼に言ってやるつもりだったのだ。君はひどいことをした、と。自分をどう変えたのか、こちらはもうわかっている、と。あれが託したつもりだったのか、利用しただけだったのか、そのくらいは、今度こそちゃんと聞いてやるつもりでいた。
だって、そうだろう。自分にもそれくらいの権利はあるはずだった。
会談の場で彼は、何も変わっていないように見えた。いや、変わっていないように見せるのがうまいだけなのかもしれない。軽く笑う。相手の言葉を受けて、少し考えるふりをする。必要なところではきちんと踏み込み、余計なところでは決して熱を見せない。そのひとつひとつが、自分の知らない時間を生きてきた人間のものだった。
それなのに、話を聞いているうちに、妙に落ち着きはじめている自分がいた。
腹の底には冷たいものがある。あるのに、彼の言葉の運びを追うと、考え方が自然とそこへ沿ってしまう。どこを緩め、どこで譲らず、何を先に残しておくか。そういう選び方が、自分の中でももう馴染んだかたちになっている。
それが、気持ち悪かった。
彼のあとを追って、彼の言葉を継いだつもりではいた。だが実際には、それよりもっと深いところで、判断の癖そのものを借りてしまっている。会談の最中、相手の返答を待ちながら、自分はふと、いま彼ならどういう顔で黙るだろう、と思った。そのことに気づいた瞬間、指先から感覚がなくなった。
終わってからは、なおさらだった。
別室へ通され、形式ばったやりとりがひと通り終わり、ようやく人の目が薄くなる。ここで、言うのだと思った。
いまなら言える。そう考えていたはずなのに、実際に彼を前にすると、喉にはべつのものが詰まる。
彼は何も言わなかった。扉が閉まる音を聞いてから、ようやくこちらを見る。その沈黙の置き方だけで、喉がひとつ鳴る。
「元気そうでよかったよ」
ひどく何でもない調子だった。
その何でもなさが、かえって腹立たしい。自分の中ではこんなに長く尾を引いているのに、向こうはまるで昨日の続きみたいな顔をしている。
「……そう見えるのか」
「見えるさ」
そう言ってから、彼は少しだけ首をかしげた。責めるでもなく、労わるでもなく、ただ見ている。その見方がいちばんよくない。こちらが何を抱えて立っているのか、たぶんわかっているくせに、知らない顔で待つ。
言ってやるつもりだった。それなりに決心だってしてきた。
なのに、最初に口をついたのは、用意していた糾弾ではなかった。
「ずいぶん、あっさりしているんだな」
彼はそこで初めて、かすかに笑った。
「何がだよ」
「……全部だ」
それで伝わると思っている自分にも腹が立つ。しかし、ここまで来ると、もう細かく並べるのも違う気がした。去っていったことも。残したものも。こちらに選ばせた顔で、実際には選び方そのものを変えていたことも。全部だ。
彼はしばらく黙っていた。黙ってから、わずかに息をつく。
「そういう言い方をされると、さすがの俺もちょっと傷つくな」
軽い。軽いくせに、そのひと言だけはほんとうだと感じた。そういうところは、相変わらずたちが悪い。
「傷つくのか」
「そりゃ少しは」
「その程度か」
「……ベレト、」
そこでようやく、彼の声がひとつ低くなる。笑っているわけではない。けれど、真面目に謝るつもりでもない。その中途半端さに、ますます腹が立つ。
「怒ってるのか?」
その問いが、あまりに正面からで、一瞬だけ返せなかった。
怒っている。たぶんそうだ。けれど、その怒りはもう、あのとき自分が思っていたようなまっすぐなものではない。彼に会いに来るまでのあいだに、ずいぶんかたちを変えてしまった。
彼は返事を待たない。待たずに、少しだけ目を細める。その顔がよくない。見覚えのある、あまりよくない顔だった。
「俺に、やり返したいと思ってるのか?」
冗談のような口調だった。でも、半分は本気だったと思う。
自分はそこで、首を振っていた。
振ってから、ようやく自分でもその意味を知る。
やり返したいわけではない。同じだけ傷つけたいわけでもない。奪い返したいのでも、負けを数え直したいのでもない。
ただ、彼のことがたまらなく好きだった。
好きで、腹が立って、釈然としなくて、それでもなお、彼の前へ出ると腹を見せたくなる。そういう自分がまだ残っていることのほうが、やり返したいかどうかよりもずっと大きかった。
彼はこちらの反応を見て、眉を上げた。そこにほんのわずかな動揺が混じったのを、自分は見逃さなかった。
見逃さなかったのに、その瞬間、背筋がぞくぞくした。
ああ、と思う。この顔だった。こういう顔を、自分は待っていたのだ。
全部わかったつもりで会いに来た。言ってやるつもりだった。彼がいったい何をしたのか、自分がどう変わってしまったのか、もう気づいているのだと突きつけるつもりだった。けれど、いざその顔を向けられると、頭の中にあった言葉は一気にどうでもよくなる。
悪い顔だった。
こちらの腹の底まで見えているくせに、まだ知らないふりをしていられる顔。少しだけ申し訳なさそうで、その実、逃がす気もない顔。
その顔を見た途端、すべてを投げ出して、無防備な腹を晒したくなった。
自分でも、もう笑うしかないくらいどうかしている。君のせいでおかしくなってしまったのだと、いまから言ってやるつもりだったのに、その口で、もっと差し出したくなっている。
「……やり返したいわけじゃない」
かすれた声でそう言うと、彼は黙った。
「じゃあ、どうしたいんだ」
その問いは、前よりずっと静かだった。やさしいわけではない。けれど、軽くもなかった。そこにあるのが罪悪感なのか、未練なのか、そのどちらも含まれているのか、自分にはまだわからない。ただ、その静けさだけで、余計に息が詰まる。
言ってしまえば、たぶん終わる。あるいは、もっと始末の悪いことになる。
それでも、ここで黙るのは卑怯な気がした。もう彼が何をしたのか、どんなふうに自分を変えたのか、自分は知っている。そのうえでなお差し出すのなら、それはもう言わなければならないことだった。
「……君に、食べられたい」
言った瞬間、喉の奥だけが急に熱を持った。彼が黙ったせいで、部屋の静けさが急にかたちを持った気がした。
彼はすぐには何も言わなかった。その沈黙が、思っていたより長い。
動揺したのだ。ほんの少しだけでも。
おそらく彼は、ここで自分が怒るか、責めるか、せめて何かしらのかたちで牙を剥くと思っていた。まさかこんなふうに差し出してくるとは、考えていなかったのだろう。
けれど、差し出すことが、自分にとってはいちばん古くて、確かな愛情のかたちだった。好きな相手には、腹を見せる。逆らわない。触れてほしいと願う。すべてをあげてもよいと思う。そこだけは、昔から変わらない。
彼はまだ黙っている。
その沈黙のあいだに、自分の中で何かがすっと定まった。
君に、食べられたい。そう言った。言ったけれど、ほんとうは少し違う。
自分はきっと、彼を吞み込んでしまいたいのだ。差し出したいと腹を見せながら、その実、彼のほうを受け取りたい。残されたものだけでなく、いま目の前にいる彼そのものを、自分の中へ入れてしまいたい。
彼も、それに気づいたのだろう。
やがて、ほんの少しだけ口もとをゆるめる。やさしいのではない。あまりよくない、知っている顔だった。そういう顔をしていないと、たぶん立っていられないのだと、今ならわかる。
「食わせろ、のまちがいだろ」
そのひと言で、喉の奥がひどく熱くなった。
見抜かれている。食べられたいと身を差し出しておきながら、その実、食う気でいることまで。ああ、やはり彼は、最後の最後でそうやって見抜くのだと思う。見抜いて、そのうえで受け取る。
だから嫌なのに、だからこそ、どうしようもなく好きなのだ。