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不十分(レトクロ)

全体公開 レトクロ 4 12531文字
2026-04-17 20:47:21

本編(翠風)軸で、第二部のどこか。体格のいい男に目がいくようになったベレトが、クロードに転がされる話。気持ち、倒錯気味というか屈折気味です。

Posted by @Bombwooo

 最初におかしいと思ったのは、肩を貸されたときだった。
 それは、小さな戦のあとだった。足もとが少し乱れ、自分でも気づかないほどわずかに体勢を崩した。すぐに立て直せる程度のことだったのに、隣を歩いていたクロードは、何も言わずに腕を伸ばしてきた。
「あんまり無理するなよ」
 そう言って肩を支える手つきが、思っていたよりずっと確かだった。
 軽い調子で笑うくせに、腕にはちゃんと厚みがある。支えられた身体は少しも揺れず、自分の重みを受けても危なげがない。ひと目で力があると知れる男たちとは違う。それなのに、彼もまた確かに誰かを支えられる男なのだと、そのとき初めて身体で知った。
 礼を言って離れてからも、肩に触れていた感覚だけが妙に残った。
 それが、あとからじわじわと効いてきた。

 気がつけば、そういう男を目で追っていた。
 ラファエルのように、ひと目で力があるとわかる腕や肩。バルタザールのように、立っているだけで視界を塞ぐ厚み。そういうものへ視線が留まっていると、自分で気づいたのは、ほんの最近のことだった。
 そこで初めて、自分はこういうものに弱いのかもしれないと考えた。
 鏡の前へ立てば、自分の身体がそういう種類のものからは遠いことくらい、すぐにわかる。線は細い。厚みも足りない。腕力で押しきるより、無駄なく動くほうへ寄っている。戦場で生き延びるには、そのほうが都合のいい場面も多い。利点も、欠点もある。ただ、それだけだった。
 だから、べつに羨ましいわけではないのだと思った。ああいう身体になりたいわけでもなければ、自分の身体をひどく劣っているとも思わない。
 そういう男たちが目につくのは事実だが、それだけなら、もっと単純な話で済んだはずだった。

 問題は、クロードもまた、その中へ入ってしまったことだった。
 彼はラファエルほど大きくはない。バルタザールのように威圧感で立つ男でもない。服の上から見れば、身軽で、よく動いて、するりと何かをかわしてしまいそうな印象の方が先に立つ。
 だが実際には、その輪郭の下にきちんと骨と筋肉が通っている。肩も、腕も、腰のあたりも、思っていたよりずっと安定していて、軽く見えるくせに、軽いだけの男ではない。
 そのことを、自分は知ってしまった。
 逞しい男に父の姿を重ねていたのなら、まだましだった。自分はそういうものに惹かれやすいのだと認めてしまえばそれで済んだ話だったのに、そうではなかった。そのことだけは早い段階でわかっていた。
 クロードは、そういう場所へ収まってはくれない。支えになりそうな身体はしているのに、寄りかからせて終わる人ではない。安心を与えてくれるくせに、その先まで乱してくる。むしろ始末が悪い男だった。
 
 そのせいかはわからない。彼だけは、どうしても持ち帰ってしまった。
 見ないようにしても、夜になると彼の輪郭だけは戻ってくる。眠る前、灯りを落としたあと、目を閉じた瞼の裏に、肩の線や、腕のかたちや、手の大きさばかりが妙にはっきりと浮かぶ。気にしないつもりでいても、気づけばそこへ意識が引かれている。
 情のある相手に、こんな欲を向けるのは卑怯だと思った。しかも相手は彼だ。口に出せるはずがない。
 それでも、自分の手はたびたび止まらなくなった。
 終わったあとは、いつも気分が悪かった。後味も悪い。ひどく身勝手で、見られたくない部類のものだった。
 けれど、解消するだけなら、たぶんやりようは他にもあるのだと思う。そういうことだけが問題なら、こんなにも後を引くはずがなかった。自分が持ち帰っているのは、ただの感触ではない。そうでなければ、こんなに厄介にはならない。
 だから一度、何もしないでみようと思った。
 思い浮かべても、その先へは進まない。ただ熱だけを抱えたまま、やり過ごしてみる。そうすれば、そのうち少しは薄れるのではないかと考えた。
 薄れなかった。
 むしろ逃げ場を失った熱は、余計に彼のほうへねじれて向かった。触れたいとも違う。触れられたいとも、まだ言いきれない。もっと名づけにくく、始末のつかないものになって、考えるたびに胸の内側へ粘るように残った。
 結局、また一時的に逃さなければならなくなった。
 そのたびに、自分は同じところへ戻ってくる。よくないことをしていると思う。最悪だとも思う。でも、それで済む話でもないとも知っている。
 名前はつけなかった。ただ、そういうものが自分の中にあるという事実だけが、毎晩ひどく静かに残った。

 せめて理由がわかれば、少しはましになるのではないかと思った。
 自分はしっかりした男の身体に、あるいはそこへ付随する安心感のようなものに、目が留まりやすいだけなのかもしれない。そう片づけてしまえたら、たぶん楽だったのだろう。
 けれど、彼を目で追うたびに、その説明は崩れた。
 自分が見ているのは、身体だけではなかった。
 たとえば、こちらの視線に気づいたとき、彼がどういう顔で笑うのか。からかうつもりで、どこまで本気で、どこから逃がすのか。自分に意地悪をするときの目つきと、そのくせ肝心なところで妙にやさしくなる声音。そのあたりが、身体の線よりずっとたちが悪かった。
 肩を貸されたときの腕を思い出す。そこまではまだわかる。けれど、その次に気になるのは、彼がそのとき何を考えていたのか、自分をどう見ていたのかのほうだった。そうなると、欲しいのは感触だけではなくなる。
 触れられないなら、せめて見て知ろうとした。見れば少しは埋まるのではないかと思ったのだ。けれど、見れば見るほど、わからない部分だけが増えていった。
 確かめたい、と思った。
 最初は、自分でもその意味がわからなかった。何を確かめたいのか。彼の身体か。自分の反応か。どちらも違う気がした。もっと曖昧で、もっと厄介だった。
 彼がどう返してくるのかを知りたかった。
 自分へ向けて、どういう目をするのか。どこで困るのか、どこで笑うのか、どこまでなら受け止めるのか。そういうものばかりが気にかかる。
 そこで初めて、自分が欲しがっているものの向きが変わっていると気づいた。
 
 クロードはたぶん、少しだけ気づいていた。
 それがはっきり見えるようになったのは、彼の軽口が少しずつ意地の悪い角度を持ちはじめてからだった。
「なあ、先生。俺の顔がそんなに好きか?」
 書類を渡したときだった。ごく何でもない顔で言うものだから、最初は聞き流しそうになった。けれど、すぐに腹の底が遅れて熱を持つ。顔を上げると、彼は笑っていた。からかっているだけだと言い張れる程度には軽く、けれど何も見えていない人間の顔ではなかった。
……べつに」
「ふうん」
 それだけだった。追及もしない。だから余計にたちが悪い。こちらが勝手に乱されるだけ乱されて終わる。

 またある日は、訓練帰りに肩を回しながら、わざとらしく言う。
「俺さ、こう見えて、脱いだらけっこう逞しいんだぜ」
 思わず、目がそちらへ動いた。動いてから、遅すぎるくらいにはっきり自覚する。彼はそれを見逃さない。口もとだけで笑って、何でもない顔に戻る。
 彼はまだ、本気でわかっているわけではないのだと思う。けれど、少しは気づいている。だから腹が立つ。何も知らずに言っているのなら、まだましだった。薄々わかっていて、そのうえで軽く撫でるみたいに口にする。ほんとうに、たちが悪い。

 だからと言って、本気でわからせようとはしたくなかった。
 そんなことをすれば、彼も傷つくだろう。自分だって、あとへ引けなくなる。だから踏み込まない。踏み込めない。こういうことについては、たぶん情のほうがいつも一歩先を歩いている。そこに少しばかりの意地も混ざる。軽く言われたからといって、こちらまで軽く返してしまうのは違う気がした。
 だから黙る。黙って、そのたびにやり過ごす。
 けれど、軽く言われるたびに、余計に彼のことが頭から離れなくなった。
 はじめのうちは、聞き流すこともできた。いや、できているつもりでいた。彼の軽口は昔からそういうものだったし、いちいち本気で受け取っていたら身がもたない。そう自分に言い聞かせて、何でもない顔でやり過ごす。
 けれど、回数が重なると、さすがに苦しくなった。
 こちらが目を向ければ、彼はすぐに気づく。気づいて、気づかないふりをして、それから少し遅れて、わざとらしく笑う。その笑い方が、最近は前よりずっと悪い。
「また見てる」
 軍議のあと、席を立ちかけたところで、そんなふうに言われたことがある。そのときの彼は手袋も、上着も身に着けておらず、薄着だった。それがわざとなのか、そうでないのか自分にはわからない。でも、何となく前者である気がした。
「見ていない」
「へえ。じゃあ、俺の気のせいか」
 彼はそう言って、書簡をまとめる手を止めた。視線だけこちらへ向けたまま、わずかに袖を引き上げる。何でもない仕草のふりをしているが、こちらに見せつけるためにやっているのがわかる。布の下に隠れていた前腕があらわになる。太くはないのに、そこにはきちんと筋が通っていて、手首から肘へかけて無駄のない起伏がある。
「ほら、やっぱり見てるじゃないか」
 冗談めいている。冗談めいているのに、こちらの目がどこへ落ちるかを、きちんと見ている。
 自分は何も言わなかった。言えなかった。否定したところで、こちらの沈黙ひとつで、もうじゅうぶん答えになってしまっている。
 彼はそれ以上追及しなかった。ただ、ふっと笑って袖を戻した。

 それだけのことなのに、その日の夜は、前よりひどかった。
 もうこれ以上は考えまいと思ったのに、見せつけられたものだけが、夜になってもやけに鮮明に残った。
 視線の先にあった腕のかたちも、その下にある筋の流れも、瞼の裏へいやにはっきりと残る。あんなふうに見せられたのなら、彼にも責任があるのではないかと、一瞬だけ思う。思ってすぐに、その考えの身勝手さに腹が立つ。けれど、その程度の怒りで薄れるような熱ではなかった。

 そういうことが、二度、三度と続いた。
 廊下で呼び止められたとき、クロードは壁へ肩を預けたまま、こちらを頭から足までゆっくり見た。
「先生は、俺の顔だけじゃなくて、肩とか腕とかも見るよな」
……君が勝手にそう思っているだけだ」
「そうかな?」
 そう言いながら、彼はまったく信じていない顔をしていた。
「まあ、見るのは自由だけどさ。そんなに熱心に見られると、さすがに意識しちまうんだよな」
 その言い方が、妙に腹立たしかった。意識しているのはこちらのほうだ。勝手に気づいて、勝手に撫でるみたいなことばかり言って、そのくせ何の責任も取らない。
 彼はたぶん、少し気づいていて、そこから先を面白がっている。
 そのことを認めるたび、胸のあたりがひどくざわついた。期待されているような気がした。転がるところを待たれているような気もした。そんなふうに思うこと自体が、自意識過剰でしかないのかもしれない。そう言い聞かせても、彼の軽口はいつも、こちらの想像を追い越してくる。

 別の日も、訓練場の外れで、彼は水を飲みながら何でもないふうに言った。
「あんたってかなりわかりやすいよな」
「何がだ」
「んー、どこを見てるか、とか」
 そこまで言ってから、彼はわざと考えるような顔をする。
「どういうときに黙るか、とか」
 自分はそこで、返す言葉を探した。探したが、何も見つからなかった。ここで怒るのも違う。笑って流すにも、もう遅い。何も言えずにいるあいだに、彼の目が少しずつ細くなる。その変化だけで、息が浅くなる。
「そんなに見たいなら、見せてやろうか」
 それは、たぶん冗談のつもりだった。少なくとも、彼自身はまだそのつもりで言っている。こちらが困るのを見たいだけの、意地の悪い軽口。そうだとわかる。わかるのに、そのひと言で、頭の中の何かがぶつりと切れた。
「そういう話じゃない」
 気づいたときには、口が動いていた。
 彼の笑みが、その瞬間だけ止まる。
 もう遅かった。言ってから、自分は、いちばんしてはならない種類の返しをしたと気づいた。
 彼はそれでも、すぐには何も言わなかった。ただ、こちらを見る。さっきまでの軽さを半歩だけ引いて、代わりに、何かを確かめるような目で。
「へえ」
 短い声だった。
 そのたったひと言で、しまったと思った。
 かかった、と。はっきりと顔に書いてあるわけではないが、そういう類の間だった。もう少し黙っていれば逃がしてもらえたのに、自分からそこへ足を踏み入れたのだと、はっきりわかる沈黙だった。
 逃げるべきだったのかもしれない。けれど、その場で背を向けるのは、あまりに遅かった。
 彼はそこで、水袋を脇へ置いた。
「じゃあ何なんだよ。俺からすれば、身体目当てにしか見えないんだが」
 その軽さに、頭の後ろがひどく冷えた。
……違う」
 反射みたいに口をついて出た。出たのに、その先が続かない。
 彼はすぐには返さず、こちらの顔を見ていた。さっきまでの軽さだけを半歩引いたような、逃がすつもりのない目だった。
「違う、ね」
 からかうような調子ではない。確かめるみたいに、低く繰り返す。
「べつに、あんたがこっちをじろじろ見てくるのは、嫌じゃない。それは先に言っておく」
 一瞬、息が止まった。
 違うのはわかっている。自分の言葉に嘘も偽りもない。けれど、では何なのかと問われたところで、自分はまだ答えられない。そのことまで、たぶん彼には見えていた。
 やがて彼は、小さく息をついた。
……そうだなあ」
 そこでようやく、ほんの少しだけ口もとがやわらぐ。やわらぐのに、やさしくはない。あくまで、こちらに考えさせたままにする顔だった。
「じゃあ、探してきてもらおうか」
 すぐには、意味が入ってこなかった。
「先生が自分で探して、ちゃんと答えを見つけて、それを俺に説明できたら。そのときは、俺のこと触ってもいいよ」
 赦されたのではない、とそのとき初めてわかった。
 これは救いなどではない。自分だけで曖昧に抱えていたものへ、答えを出せと突きつけるための言葉だった。
 その条件だけが、あとまで耳の奥に残った。ああいうふうに言われた以上、もう曖昧なままではいられない。違う、と言ってしまった以上、では何がどう違うのかを自分で知っていなければならなかった。

 けれど、考えれば考えるほど、答えは遠ざかった。
 彼でなければならない、という事実だけは、もう疑いようがなかった。そういう身体つきの男なら誰でもいいわけではないし、支えられれば誰にでも同じように乱されるわけでもない。そのことだけは、嫌になるほど理解している。
 ならば、彼の何なのか。
 最初は、身体だと思った。肩の線、腕の厚み、手のひらのかたち。支えられたときの体温と、安心感。それらを思い返しては、やはりそこなのかと考える。けれど、そこだけなら話はもっと簡単なはずだった。
 彼の手を見ると、落ち着かなかった。
 触れたいのだと思った。あの手のかたちを、感触を、もう一度確かめたかった。けれど、そう考えた次の瞬間には、もう少し別のものが混じっている。
 彼に触れられたいのだと、あとから気づく。
 それも、ただ触れられるだけでは足りない。彼がどういう顔をするのか、どういうためらい方をするのか、自分に触れたとき何を返してくるのか。そういうものばかりが気にかかる。
 欲しいのは、感触だけではないのだと、そのときようやく認めざるを得なかった。
 認めたところで、では何なのかと言われると、また言葉が尽きる。安心したいのかもしれない。けれど、ただ安心したいだけなら、こんなに彼の目つきや声まで気にかかるはずがない。欲情しているのも、事実だった。でも、それだけで済むなら、あれほど軽く言われたことに傷つきはしなかった。
 では、何なのか。
 答えは出ない。
 考えるために机へ向かい、考えるために彼から距離を取り、考えるために夜を長くしても、出てくるのは半端な言葉ばかりだった。彼のそばにいたい。触れたい。見てほしい。そうされた自分がどうなるのか、彼に知られたい。どれも嘘ではない。けれど、どれかひとつに絞った途端に、何かがこぼれ落ちる。

 筋を通してから行くつもりだった。
 彼に見せるのなら、もっとましなかたちにしたかった。言い淀まずに済むくらいには、自分の中で一本の道にしておきたかった。そうでなければ、ただ甘えているだけみたいだったし、実際たぶん、そういう甘えも混じっていた。
 賢い彼なら拾ってくれるかもしれない、と、どこかで思っている。
 それを自覚するたび、ひどく腹が立った。整わないまま差し出すだなんて、あとは受け取る側にゆだねるのと何ら変わらない。自分で引き受けるべきものを、彼の手へ預けようとしている。それがわかるから、なおさら整えたかった。
 なのに、整えようとするたび、かえって散らかった。
 彼の前で何を言うべきかを考えているはずなのに、途中から思い出すのは、あのときの目つきばかりになる。軽く見せておいて、わずかに本気の顔をしたこと。自分の「違う」を笑って流さなかったこと。そういうものが思い返されるたび、答えは言葉ではなく、もっと厄介なかたちで内側へ沈んでいった。
 結局、自分は彼に何を求めているのだろう。
 触れることか。触れられることか。受け取られることか。乱されることか。はたまた、彼にそうされた自分を、彼自身に見せることか。
 考えるたびに、どれも違う気がしたし、どれも違わない気もした。
 答えを出さなければならないのに、答えだけが最後までひとつにならない。
 それでも、行かなければならないと思った。
 整えるつもりだった。けれど、最後まで整わなかった。だから、もう出るものをひとつずつ見せるしかないのだと、ようやく諦めた。


 彼を探すのは、思っていたよりずっと簡単だった。
 簡単だった、という言い方は違うのかもしれない。会おうと思えば会える。そういう立場に、自分たちはもういる。ただ、会いに行く理由を、自分の中でひとつにできなかっただけで。
 その日も、扉の前で一度だけ足が止まった。
 答えと呼べるほど整ってはいない。それでも、ここで引き返せば、また曖昧なまま押し戻すだけだと思った。出るものを、出た順に見せるしかない。そう決めたはずなのに、いざ手をかけると、指先は少しだけ重い。
 中へ入ると、彼は机に向かっていた。書簡を閉じ、こちらを見上げる。その目つきだけで、自分が何のために来たのか、もう半分くらいは伝わってしまっている気がした。
「来たんだな」
 言い方は軽い。けれど、ただの軽口ではない。待っていたのだとわかるくらいには、声が静かだった。
「来るように仕向けたのは、君だろう」
「そうだけどさ」
 彼はそこで小さく笑った。笑ったくせに、すぐには続きを言わない。その沈黙の置き方まで、いかにも彼らしかった。こちらがどこまで自分から出すのかを、見ている。
 逃げ道は、たぶん最初からなかった。
……整えてから、来るつもりだった」
 先に出たのは、その言葉だった。
 彼の眉がわずかに動く。
「でも、最後まで整わなかった」
「そうか」
 それだけだった。否定もしないし、急かしもしない。ただ、続きを待つ。その待ち方が、かえって苦しい。
 自分はひとつ息を吐いた。吐いてから、まだ足りない気がした。足りないまま、仕方なく言葉を探す。
「わからない」
 最初に出たのは、それだった。
「何が」
「何に近いのか、何と呼べばいいのか、そういうことが」
 自分でもひどく曖昧だと思う。曖昧だとわかっているから、言いながら腹が立つ。けれど、嘘をついてきれいにするよりはましだった。
「安心する」
 彼は黙っている。
「君のそばにいると、落ち着く。触れられると、たぶんもっと落ち着くのだろうと思う」
 そこまで言ってから、喉の奥が少し詰まった。こんなものでは足りない。足りないのに、次の言葉へ移るたび、どれも少しずつ違う気がする。
「でも、それだけではない」
 彼の目が、少しだけ細くなる。
「触れたいとも思う。……欲情も、する」
 言ってしまったあとで、部屋の空気がわずかに変わるのがわかった。彼はまだ何も言わない。ただ、その静けさだけが、さっきまでとは違っていた。
「けれど、それだけだと言われるのは違う」
 ようやくそこだけは、はっきり言えた。
「そういう身体つきの男なら、誰でもいいわけではない。支えになりそうなら、それで済むわけでもない。比べてみれば、そうではないことだけは、よくわかった」
 彼はそこで、かすかに息を吐いた。気づいていたのか、今ので初めて腑に落ちたのか、そのどちらともつかない顔だった。
「じゃあ、」
 低い声で、彼が言う。
「あんたは何が欲しいんだよ」
 その問い方が、ずるいと思った。まっすぐなのに、まっすぐすぎて逃げ場がない。
 自分は一度、目を伏せた。ここで黙れば、また曖昧なままになる。そうわかっているのに、答えはすぐには出てこない。出てこないから、また、ひとつずつ言うしかなかった。
……君がどう返してくるのかを知りたい」
 言ってしまってから、それがずいぶんひどい言葉だとわかった。けれど、彼はほんのわずかに目を見開いただけだった。
「どういう顔をするのか。どこで困るのか、どこまで赦すのか、そういうものが気になる」
 そこまで口にすると、もう戻れない気がした。
「ただ触れたいのではなく、触れたあとで君が何を返すのかを見たいと思うことがある。……たぶん、それがいちばん始末が悪い」
「そうか」
 また、それだけだった。
 自分はそこで笑いそうになった。笑えるはずもないのに、妙に可笑しかった。ここまでぐちゃぐちゃのものを差し出しておいて、まだ受け取らせようとしている。たしかに、これはずいぶんひどい。
「受け取られた自分が、どうなるのかも、見てほしいのだと思う」
 声が少しかすれた。我ながら、倒錯してると思う。
「ひとりで知りたいわけではない。君の前で、自分がどうなるのか、それを、君に見られたい」
 そこまで言ったところで、さすがに息がもたなかった。視線を上げると、彼は机の向こうでじっとこちらを見ていた。笑っていない。軽くもない。けれど、重く受け止めているという顔とも少し違う。何か、もう少し性質の悪いものだった。
 やがて彼は、小さく息をついた。
……あんたってほんと、ずるいよなあ」
 そのひと言で、手のひらが熱くなる。
 見抜かれている。整えきれないことも、結局は彼なら拾うかもしれないと、どこかで思っていたことも、そのくせ自分ではちゃんと引き受けようとしていたことも、全部まとめて見られている。
「わかってないふりして、そこまで持ってくるんだな」
 責める調子ではない。だから余計に、逃げ場がない。
……自覚はある」
「それはあるのか」
「ある。だから整えようとした」
「でも、無理だった?」
 自分は黙った。黙るしかなかった。
 彼はしばらく何も言わなかった。それから、ようやく椅子の背にもたれて、少しだけ天井を仰ぐ。
「なるほどね」
 その言い方が、腹立たしかった。人がさんざん苦しんで導き出したものを、いかにも面白そうに眺めている声だったからだ。
……そういう態度は、正直腹が立つ」
 思わずそう言うと、彼は笑った。
「だろうな」
「知っていて、転がしたのか」
「そう。俺の思いどおり、どこまできれいに転がるのか見てた」
 悪びれもしない。その潔さまで含めて、やはり腹立たしい。
 自分はそこでようやく彼がどこまで悪いのかを認めざるを得なかった。
 わかっていた。少しは期待していた。少しは煽っていた。そのうえで、こちらがどこまで来るのか、見ていたのだ。
「ひどい」
 そう言うと、彼は肩をすくめた。
「それはお互い様だろ」
 その返しの早さに、今度こそ言葉が詰まる。否定しづらい。否定したくもない。腹が立つ。腹が立つくせに、そのやりとり自体にどこか安堵している自分がいて、さらに思考がもつれた。
 彼はそこで、ふいに真顔になった。
「でも、まあ」
 その一拍が、妙に長い。
「あんたにそこまで言わせたのなら、もう見て見ぬふりはできないよな」
 自分は何も言わなかった。言えなかった。ただ、次に来る言葉を待つしかない。
 彼は机の端を指先で軽く叩いてから、こちらを見る。
 そこで少しだけ口もとを上げる。あまりよくない顔だった。
「俺に説明できたら、っていうところはちょっと怪しいが。今のでも、一応伝わりはした」
 何を言われているのか、一瞬わからなかった。
 彼は机から手を離した。立ち上がるでもなく、こちらへ来るでもない。けれど、空気だけは少しずつ近づいてくる。
「触らなくていいのか?」
 その問いに、喉がひどく乾いた。
 答えは決まっている。決まっているのに、すぐには声にならない。彼はそれを待つ。自分よりずっと、待てる顔をしている。そのことまで、やはりずるいと思った。
……触る。触りたい」
 ようやく出た声は、自分で思っていたよりずっと低かった。
 彼はそこで、ほんの少しだけ笑った。
「いいぜ」
 あまりにあっさり言うので、逆に身がすくんだ。赦された、とは少し違う。もっと気軽で、もっと悪くて、だからこそ余計に足が止まる。
 彼は、それ以上は何も言わなかった。ただ、こちらを見ている。来るなら来い、とでも言うみたいに。
 自分はゆっくり息を吸って、それから、ようやく一歩だけ近づいた。
 ここまで来ておいて、まだ足は重かった。触りたいと言ったのは自分だ。差し出したのも彼だ。それなのに、いざその距離へ入ると、何をどうすればよいのか、ひどく曖昧になる。
 彼は動かなかった。動かずに、ただこちらを見ている。待っているのだとわかる。その待ち方が、意地悪だった。
 手を伸ばす。
 最初に触れたのは、頬だった。
 思っていたより熱い。頬骨の下はなだらかで、皮膚の下にきちんと骨のかたちがある。何度も目でなぞってきた輪郭を、ようやく指先でたどる。彼はそこで少しだけ息を止めたが、何も言わない。言わないまま、自分がどう触るのかを見ている。
 その視線が落ち着かない。
 親指が、頬からこめかみへゆっくり滑ってゆく。そのまま額へ触れる。前髪の生えぎわに少し汗の気配があって、それが妙に生々しかった。触れてみたかったのは、たぶんこういうところなのだと思う。目に見える線の、その下にある温度のほうだった。
 けれど、そこまでだった。
 それ以上は、どうしても進めない。喉の奥ばかりが熱くなって、指先はむしろ静かになってしまう。彼の輪郭をなぞり、確かめるようにもう一度だけ額へ触れて、それで手が止まった。
 彼はようやく、わずかに眉を上げた。
……それだけでいいのかよ」
 言い方がひどい。見ればわかるだろうと思う。それだけでいいはずがないのに、必死で堪えている顔をしている自覚ぐらいはまだ残っている。
「いい」
 ほとんど反射でそう言った。やせ我慢だと、自分で聞いてもわかる声だった。
 彼はそこで、笑う。やわらかいのではない。明らかに、悪い顔をしていた。
「ふうん。そうかよ」
 そう言ってから、彼は椅子の背から体を起こした。立ち上がるわけでもなく、こちらへ寄るわけでもない。ただ、目の前で両腕をひらく。
「ほら」
 そのひと言だった。
 あまりに露骨で、あまりに見え透いていて、ひどい顔をしたと思う。自分でもわかるくらい、嫌そうな顔だった。嫌なのではない。そうやって、いかにも答えを知っているみたいに差し出されるのが腹立たしかった。
 彼はその顔を見て、ますます可笑しそうに目を細める。
「なんだよ、その顔」
……君は、」
 その先が出ない。ずるいと言うには、もう何度も思っている。最低だと言うには、ここまで付き合わせた自分も同じだった。
「来ないなら、こっちから行くぜ」
 そう言って、ほんの少しだけ身を乗り出す。脅しではない。
 自分はそこで、ようやく観念した。
 腹が立つ。そうやって最後まで自分の手の中へ置いたまま、こちらに選んだ気でいさせるのが気に入らない。だが、その気に入らなさまで含めて、もう引き返せるところにはいなかった。
 一歩だけ、前へ出る。
 そのまま腕の中へ入ると、彼はすぐに抱き寄せた。
 速かった。迷いがないくせに、乱暴ではない。肩へ回された腕も、背を支える手も、思っていたよりずっと確かで、熱かった。押しつけられるような強さではないのに、逃がさない程度にはきちんと囲われる。
 安心した。
 それがいちばん先に来たのが、自分でも少し腹立たしかった。もっとべつの、尖ったものが立つかと思っていたのに、実際には、腕の中へ収まった途端に、身体の奥で張っていたものが少しほどける。彼が彼のままでいることに、変に、べつの何かへ捻じ曲がらずに済んだことに、まず安堵してしまう。
 けれど、それで終われるほど浅くもなかった。
 近すぎる。においも、体温も、声が落ちてくる位置も、何もかもが近い。安心したぶんだけ、その先が余計に欲しくなる。抱きしめられているという事実が、むしろ足りなさを際立たせる。こうして受け取られてしまった自分が、どうなるのか見てほしいと望んでいたくせに、いざ現実になると、それだけでは済まなくなる。
 理不尽だと思う。
 人の心を勝手にいびつなものへ変えておきながら、責任を取る気もないくせに、抱きしめるのか。認めたのだって、せいぜい触っていいと言ったところまでで、主導権は最後まで向こうの手にある。そのくせ、こんなふうに腕の中へ収めてしまう。腹立たしい。腹立たしいのに、振りほどけない。
 彼はたぶん、そういうこちらの沈黙ごと抱えている。しばらく何も言わずにいたが、やがて耳のすぐ近くで、小さく笑った。
「これはけっこう、満足できるんじゃないのか」
 わかっていそうでわかっていない言い方に、また腹が立った。
 けれど、返事だけは驚くほど素直に出た。
「できるわけない」
 自分でも驚くくらい、本音がこぼれた。彼の腕が、そこでほんのわずかに強くなる。
 釈然としないのに、自分から離れる気にもなれない。けれど、ここまでたどり着いたのだから、少なくとも負けではないと思いたかった。


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